第弐拾四話、参日目
ベランダから鳥のさえずりが聞こえる。足音がひとつではないから複数、いや二羽かもしれない。鳴いているのは求愛か、喧嘩か。鳥たちがなにを語っているのかわからないが、とても楽しそうに感じるのはそれだけ自分が満たされているからだろうか。レイはぼんやりとした目覚めの意識でそう思った。
隣を見ればシンジが安らかな顔ですやすやと寝ている。目元はまだわずかに赤いが、険のない表情だ。彼の片腕は腰にまわされ、もう片腕はしっかりと枕にされている。精液とともに想いも吐露されたのかもしれない。彼の頬に手を添えて、髪をひと撫でしても起きる気配はなかった。
「愛してるわ……碇くん……」
万感の想いで囁く。久々に交わったというのもあるが、感情の爆発を受けて心身がとても充実している。昨夜はなにがあったのか途中からあまり覚えていない。とにかく凄まじいとしか言いようのない快感に襲われ、ほんの数秒ほど気絶した。意識を取り戻したとき再度の絶頂を受けるのと同時に彼の動きも止まったことだけは知っている。そこからは互いに寝てしまった。
「私、とてもしあわせよ……」
自然と笑みを浮かべてしばらく彼を眺めたレイは、起こさないようにそっとトイレへ立つ。尻や内股に筋肉痛はいまのところないし、膣も痛くない。激しい摩擦があっても潤沢に濡れていればなんら問題ないのを再確認した。もっとも、仮に痛くとも行為を中断するつもりなどない。
低血圧ゆえ、ふらふらとおぼつかない足取りで洗面台の前に立つ。鏡を意識したことはほとんどないものの、彼と結ばれて以降見る頻度が多くなった。それは可愛いと言われたからかもしれないし、笑顔や泣き顔を知ったからかもしれない。外見の美醜をまだはっきりとは理解できていないが彼の喜ぶ表情は大きな判断基準だ。
すぐシャワーを浴びるのに手櫛で髪を整える。いままで自発的にブラシやドライヤーを使わなかったが今度から習慣にしてみるのもいいかもしれない。コンディショナーの効果か、指はさらりと滑るし艶もある気がした。と、そこへ視界に赤いものが映る。
「これは……なに?」
首筋、鎖骨に赤い染みのようなものがある。指先で撫でても痛みはない。自身を見下ろして驚いた。胸や腹にも同じ跡がついているではないか。ほんの一瞬だけなにかの病気かと危惧したが、すぐに思い至る。これはゆうべ彼が口づけをした場所だ。どこまであるのかと興味を持って上体を倒したり捩ったりすれば脇腹、二の腕、太ももの内側、恥丘にもある。とくに胸や腹は虫刺されのようにたくさんだ。
「これも証……結ばれた証。忘れないわ」
顔がほころんでしまう。内出血と思われるからいずれ消えてしまうだろうが、その前にまたつけて欲しいし自分でもしてみたいと思った。いつも優しい彼の行為はたまらなく甘美だが昨夜のような激しい彼も捨て難い。じつに悩ましいが、こればっかりは彼しだいだろう。そうやって気分を弾ませていると股間から白い糸が垂れてくる。
「とても多い……ふふっ」
小さく笑った自分に驚いて口元へ手を当てた。心が浮き立てば自然とこうなるのだ。胸がぽかぽかして、なんだか身体がくすぐったい。さらに押し出された精液を指先で掬って捏ねてみる。彼の子種が無数に泳いでいるのだろう。本来なら子孫を残すための液体だ。卵子と出会い、受精する。子宮で育みやがては出産となるのだが自身にその機能は存在しない。そう考えれば彼と営む行為は無駄なのだろうか。心と身体を満たすためだけのおこないでしかないのか。
「いいえ、違う……」
即座に否定した。ミサトにも言われたし、学校でも愛の行為だと教わっている。望まない妊娠を防ぐために避妊という方法もあるのだ。より深く、より奥まで大切な相手を感じたい。初めて結ばれた夜、たしかにそう求めていた。なにも子を成すだけがすべてではないのだ。
「でも……」
もし叶うのなら、いつか彼の子供を産んでみたいと想った。ふたりが混ざりあった究極の絆だ。愛の結晶と言い換えてもいい。絶対ないと知ってても憧れてしまう。空っぽだった心がこんなにも満たされているのに、さらにさきがあると思えば欲した。目線が絡まるたび、肌に触れるたび、言葉を交わすたび愛しい想いがどんどん強くなる。性行為には絶頂という果てがあっても心は無限に広がってゆく。
「私、また笑ってる」
鏡像の自分がまるで別人のように見えた。彼が向けてくれる表情にとてもよく似ている。口角は大きくあがり、涙袋が膨らむ。赤い瞳はきらきらと輝いて緩む頬が少し赤い。そんな顔にどうしようもなくむずむずして口元に力を入れるものの、唇がぷるぷるするばかりで制御不能だ。それがまた余計に心をくすぐるものだから、笑顔とは厄介だとレイは思った。
鼻歌でも出そうなくらい浮かれた彼女はシャワーを終える。身体を拭いて下着を取りに部屋へ戻ってもシンジは寝息を立てたままだ。クローゼットの衣装ケースの中から適当な一枚を取ろうとして、ふと箪笥の本が目についた。そういえば彼を捜索した夜にミサトからもらってまだ読んでいなかったと思い、ぱらりと表紙をめくる。
「身体を繋げる前に心をひとつにしましょう。大切なひとと営むからこそ幸福に感じるのです」
音読した。まったくそのとおりだと頷く。手を繋いで外を歩くとき、キスをしたとき、身体を重ねたときは相手がシンジだから喜びがあるのだ。どきどきして、そわそわして浮き立ついまの気持ちが恋だ。もちろん、無限の愛は言うまでもない。
「ひと口に性行為と言っても、多くの体勢があります。これを体位と呼びます」
序文をつらつらと読み、ぱらりとページをめくれば図解された人体の名称と働きだ。主要な性感帯が書かれている。卑猥なため忌避されている呼び名や俗称まで詳細だ。こうして知ったことで勢いあまって口走らないよう気をつけなければいけない。ベッドの上でどんなに暴れても慎みは大事だ。
つぎを捲くると今度は男女の姿がイラストで描かれている。男性がどことなくシンジに見えるのは考えすぎだろう。いっぽうで女性は長めの頭髪をうしろで一本に束ねている。ふと、彼の反応しだいでは伸ばしてみるのも手かもしれないと思った。
「正常位。これはもっともオーソドックスな体位です。パートナーの表情がしっかりと見え、また両手が自由なため満遍なく愛撫を交えることが可能です」
いつもの自分たちだと理解してまた頷く。たしかに彼の顔も身体もよく見えるし、キスも自在だ。意識したわけではないものの書かれている手技はすでに実行されている。教えられることなく自然とそうなるのだから性愛とは本能なのだろう。
「騎乗位……これは知ってる」
寒い夜に書かれている形になったが、これも自然の流れだろう。あのときはどうしようもなく彼を欲し、支配したい欲求があった。主導権を握るという説明は理に適っている。しかし、自分で腰を振っておきながらあっさり果ててしまったのは修行不足なのかもしれない。うっかり中を窄めてしまうと三往復も保てないのは注意すべきだ。
「後背位。男女ともに好まれるオーソドックスな体位のひとつです。とくに女性は深い挿入感が得られるため、子宮ないし子宮口を刺激されて快感が得られやすくなります」
たしかに。向かいあうのがあればうしろからもあって然るべきだ。顔は見えないが、発展系であればキスも可能とある。この場合、男性の片手ないし両手が自由になるため乳房および性器が同時に刺激されるという二点同時攻撃も望めるようだ。挿入しながら胸を愛撫してもらうだけでもあっという間なのに、股間にある敏感な突起も同時と知ってごくりと唾を飲み込む。また気絶してしまうかもしれない。
「松葉崩し……窓の月……」
作戦本部長が授ける奥義はさすがだと深く感心した。文章とイラストを読んでいるだけで妙に身体が疼いてくる。もっと知りたくてパラパラとさきのほうへページをめくると、四十八手をより楽しむための前戯、性技のコーナーに移った。
「フェラチオ。男性器をパートナーが舐める性技です。体位のひとつでもありますが、ここでは詳細な方法について解説します」
これだ、と目を血走らせる。いつもされてばかりだが、これならば多少なりとも彼に返せるはずだ。唇の形、舌の動き、目線から手の添えかたまで詳細の名に恥じぬ解説はありがたい。本を持ったまま口を開いては舌を動かす練習をしつつ熱心に読み耽る。今度さっそく、と闘志を燃やす。
「ふう……」
口の端の涎を手の甲でぬぐい、本を閉じる。なかなか刺激的だがとても参考になった。彼が知ったらどのような反応を示すだろうかとベッドの上のシンジを見る。いつの間にか寝返りを打っていたようで仰向けになっていた。薄いタオルケットは足元に肌蹴ているため彼の某所は丸出しだ。
ぎしり、とベッドが軋む。レイは四つん這いになって彼に近づく。あれほど逞しかった肉の棒も泥鰌のように横を向いていた。本によれば男性は性行為でかなりのエネルギーを消費するとある。若いほど精力の復活は早いらしいが、もしかして無理をさせてはいないか。彼に恋してからというもの、触れられる喜びがあまりにも強すぎて心と身体は暴走してばかりだ。男性と女性では欲求が比例しているのかもわからない。
「碇くん……起きて、ますか?」
つい丁寧語になってしまった。真横で割座になった彼女は彼を見下ろして高鳴る鼓動を自覚する。顔が熱く、息が浅い。確認しなくてもどんどん濡れてくるのがわかる。淫らだ、卑猥だ、はしたないというリツコの教えが頭にちらつきつつも寝ている彼に初めて性技を披露する背徳感が昂奮させた。息を止めて白い指をゆっくりと彼の股間に伸ばした、そのときだ。
「ひっ」
短く小さい悲鳴をあげて枕元を見れば携帯のバイブレーションが着信を告げていた。液晶には〝弐号機パイロット〟とある。まだ名前を変更していなかったのを思い出すが、非常召集ならバイブレーションではなく音が鳴るから私的な電話ということだ。であれば出なくていい。そう捨て置こうとしたのに、いつまで経っても止まらなければ溜息のひとつも出るというものである。
さて、こちらは溜息をつかれた相手のアスカだ。遅めの朝食とシャワーを終え、身体を乾かしたあとである。キャミソールにショーツ一枚の姿でベッドへ座って髪を櫛で梳いていた。なかなか出ない相手に眉を寄せる。レイは寝起きが弱そうなのでまだ夢の中かもしれない。そう思っている矢先に繋がった。
「ったく、いつまで寝てんのよ。もう十時すぎてんですけど? ゆうべ連絡待ってたんですけどー?」
開口一番に愚痴を放つ。レイが一緒ならばシンジが家出する可能性は低いだろうが、少し目を離した隙にどこかへ消えてしまいそうな雰囲気が心配だった。自身が失踪したときと似ている。廃屋で虚ろな瞳をしている彼の姿が浮かんでは何度も否定した夜だった。それなのに、電話に出たレイはけろっとしている。
『あなた誰? 私、知らないひとと話をするなと教えられているの』
声に焦燥感はないから杞憂に終わったとすぐに理解する。彼の携帯も電池切れで繋がらなかっただけかもしれないと納得した。ひとの気も知らずに馬鹿な返答をするレイだが、彼女も安堵しているのだろう。声もどことなく弾んでいるように感じる。
「ぬぅわにが、知らないひとと、ですか。シンジがどうなったのか、説明しなさいよ」
『その声、私に似せてるの? 違うと思う……あっ、いま彼が起きたわ』
わかってはいてもシンジと一緒のベッドで寝ているという事実が面白くない。それに、ふたりだけで完結してしまっているようでどこか疎外感を覚えた。電話口の向こうで彼らの会話が小さく聞こえるのが余計に光景を浮かばせる。ただいっぽうで、もし仮に自分が彼の隣にいたらなにができたのだろうかと考えた。慰める言葉、行為がすぐに出てこないのは普段から強気な態度ばかりしていたからだ。母性や包容力という単語がとても遠く感じる。やはりレイのほうが彼にはふさわしいのかもしれない……ちらりと思ってしまう自分を否定しようとしたとき、彼の声が聞こえた。
『あの、アスカ……おはよう』
「Guten Morgen, シンジ……ようやくお目覚めね。ちゃんと元気してる?」
『うん、大丈夫だよ……心配かけて、ごめん』
やはり本人の声を聞くのが一番いい。アスカはようやくほっと胸を撫で下ろす。耳に聞く限りそこまで暗い感じはしない。彼の強さか、それともレイのお陰か、昨夜にどのような会話があったのかは不明だが乗り切ることができたのだろう。簡単に気持ちを切り替えるのは難しいだろうが、ひと晩経って多少は違うのかもしれない。そう考えると昨夜に連絡しろと言ったのは性急だった。
「そのようね。声だけでもわかるわ」
『アスカ……その、ありがとう』
「べ、べつにいいわよ。あたしなにもしてないんだし……」
『そんなことないよ。きみにも助けられたんだから』
礼を言われたことと寝起きではっきりとしないシンジの声が妙に幼く聞こえて、不覚にも胸がきゅんとする。顔が熱い。片手であおぎつつ、うっかり感想を口にしてしまう。
「あ、アンタの声って寝起きだと可愛いわね」
『そうかなぁ……でも、アスカも電話だと別人みたいで可愛いよ?』
この男は馬鹿なのかと声を張りあげそうになる。すぐ傍に恋人がいるのに、どうしてさらっとそんな台詞が言えるのだ。他意はないとわかってても口元が緩んでしまう。考えてみれば、ついこの前まで同居していたというのもあってこうして電話をするのは珍しい。ゼロではないが、だいたい一緒にいたから必要なかった。そう思ったところではっとする。だいたい一緒にいた、同じ屋根の下に住んでいと改めて意識して顔が燃えた。もし険悪になってなかったらもっとイベントが発生していたのだろうか。
膝枕やマッサージをしあったり、ひとつの買いもの袋をふたりで持ったり、ケーキやお菓子を作ってみるのもいい。食器を洗うとき濡れ鼠になれば風呂で背中を流しあうムフフな展開も期待できる。なにも性的な行為ばかりではなく、布団をともにするだけでもしあわせだ。シャワーで身体が冷えたと言えばうしろから抱き締めてくれたのかもしれない。いやいやいまは違う、そうではないと妄想を横へやった。
「そんなこと、ないわよ……」
『もしかして照れてる? ははっ、凄く女の子だ』
いっぱしのプレイボーイを気取っているわけではないのだろうが、いちいち彼の言葉が胸に響く。いまや耳まで熱くなって鼓動も高鳴ってしまった。調子を尋ねるための電話だったはずなのに、まるで遠くの想いびとへ近況を聞いているようだ。顔が見えないからか、彼が好きだからか、よからぬことまで頭に浮かぶ。
「そりゃあ、あたしだって……そんなこと言われたら……」
『ごめんごめん、悪気はなかったんだ』
「ううん……いいよ、べつに。でも、さ……」
さっきまでの勢いはなくなり蚊が鳴くような声になってしまう。口を開いて言葉を探した。訊けなかったあのとき、怖かった返事……いまならどうだろうか。レイが隣にいるとわかっていながら彼の心の内が知りたい。電話を持つ手に汗が滲み、息が止まりそうになる。ついこの前あんなことをしたのに舌の根も乾かないうちにどうかしていると理性が激しく訴えかけた。恋とはすでに狂気である。そう言ったのはドイツの詩人だ。とことんまで恋した者は友情にまで手をつけるとも言った。この際ドイツ語で伝えてみてはどうか。そんな熱暴走した考えは、しかし突然シンジの声で遮られる。
『ところで、今日お休みだからさ……って、綾波ぃ!?』
とても驚いて戸惑ったような彼の声。なんとかギリギリでそれに救われたアスカは、どうしたのだろうかと耳を欹てる。言葉からしてシンジではなくレイになにかあったようだ。
「な、なによ、変な声出して。あたしはレイが朝から逆立ちしてても驚かないわよ」
『ち、違うんだよ。あのっ……綾波、いま、で、アスカと……でんあっ』
微妙に色っぽいシンジの声を聞いて瞬時に悟った。これはレイが彼に卑猥なことをしているのだ。やはり、あのクールな顔の裏にはとんでもない情熱を秘めてるらしいが、さりとてひとり身からすると大層な毒である。
「ちょ、ちょっ、こらっ。なにしてんのよ、アンタたちは!」
『そんなにっ……綾波っ……ど、どこっ、どこで……あっ」
はぁはぁと荒い息遣いが耳にはっきりと聞こえる。ビデオで知っているから容易に映像が浮かぶ。生々しいシンジの押し殺した声に彼女は顔をまっ赤にしつつも本気で怒れない。さきほどとは違う意味で鼓動が早くなる。このまま聞いてると電話を繋ぎながらこちらまでなにかしてしまいかねない。少し興味はあったけどさすがに禁じ手だ。慌てたアスカはそそくさと用件を伝えて鼻息とともに切った。
「ったく……あの子なに考えてんのかしら」
携帯をベッドの上へ放り、ごろりと仰向けになる。もしや自分たちの会話にレイが嫉妬したのか。たしかに恋人がほかの女と楽しそうに話していれば面白くないだろう。感謝はしないがお陰で余計なことを口走らないで済んだ。
「シンジがあんな声出すなんて……」
耳に彼の喘ぎ声が残っている。明るいうちからでも一緒に住んでいる恋人同士なら普通だ。シンジが営んでいると頭ではわかってても直接聞くとなると違う。汚らわしいとは考えないが、決定的なものの前にどこか失恋にも似た想いがした。厄介者が首を突っ込んでいると世間なら言うだろう。実際にそのとおりだし、ふたりには完成された空間があるのだ。
「あーあ、なんでアイツのこと好きになっちゃったんだろう」
いままで何度となく繰り返してきた難題だが、答えを欲しているわけではない。クラスメイトの誰かだったらどんなに楽か。男なんていっぱいいるのに、どれもこれも鬱陶しいと感じてしまう。琴線に触れるどころか視界にすら入らないのだから、恋は盲目とはよく言ったものである。いつかこの気持ちは錆びて風化するのだろうか。
「どうしろってぇのよ、ばか……」
それにしても、聞きたくなかった彼らの行為と思いつつもかなり昂奮してしまったのは事実だ。落ち着きたいのに顔は熱く鼓動も煩い。
「さっきシたのに……」
待ちあわせまであと二時間はある。ぶつけることの叶わない恋着を解消させる方法とばかりにアスカは下着の中へそっと手を忍ばせた。
ネルフ本部内ではチルドレンを除くすべての職員に出入りの禁止が通達されている。第一種警戒態勢のままを維持せよとゲンドウからの指示だ。作業員の多くは疑問に思いながらも作戦本部長の別命もあれば粛々と準備を継続させるだけである。渚カヲルという最後の使徒を殲滅した喜びを噛み締める間もなく、つぎに備えた。ミサトが水面下で秘密裏に流布した情報は、彼らを納得させるのに充分だったのである。
そのミサトは自らの考えを裏づけるため本部地下のサーバールームにいた。傍らには飲み終えた缶コーヒーが捨て置かれ、冷え切った部屋に彼女の息も白い。ノートPCをケーブルで繋ぎ、加持が遺したチップをもとにハッキングをおこなう。保安部に見つかれば射殺される可能性すらある極めて重大な機密情報へのアクセスだが、彼女はそうならない確信があった。なぜなら、今朝早くあのリツコが〝出張〟から戻ってきたのだ。シャワーを浴び、化粧までするほどの余裕をもって颯爽と発令所へ現れたときは我が目を疑うほど驚いて、危うくマグカップを取り落とすところであった。
なにやら裏でこそこそとやっているのを手伝え、というのがリツコを開放したゲンドウからの指示と聞いて、今度は耳をほじる。泣いて抱きつくマヤをなだめた彼女はいま、マギでプログラム作業をおこなっていた。その折にミサトはリツコからひとつのプログラムツールを受け取っている。知りたいことはこれを使え、とそれだけ添えて身を翻すとマヤを助手に作業へ没頭した。
「なにがあったのかしら、あの司令に……」
ひとりごつる。ゲンドウとリツコの関係は察するが、しかしどんな心境の変化か。捨てた女でさえ利用するエゴイスティックな男と思うのは早計だろう。リツコならロジックではないと返しそうだ。なにせ、やつれた顔をしつつもどこか吹っ切れた印象さえあったのだから清算されたのかもしれない。どのみち自分には関係のない話だと、端末を叩く。お目こぼしを得たとはいえツールが使える時間は長くない。表示されるゲヒルン時代のデータを斜め読みし、概要だけを頭に入れる。驚きや好奇心はあとまわしで、いま必要な文字だけを取得選択した。
「そう。このためにエヴァが必要だったのね……クジは三等くらいかしら」
人類補完計画、支部で建造されたほかのエヴァの目的、人類の行き詰まり、滅びの宿命。贖罪、神との合一による楽園への回帰。レイの出自に関することまで飛び出したが精査している暇も惜しい。知りたいのはどうすれば人類がハッピーエンドになれるかだけだ。そのためには仮に幾万の人間が死のうとも厭わない。もちろんシンジたち子供は例外だ。先人によっていかなる罪を背負わされていたとしても、新世紀を生きる彼らに償いを求めるのだけは断じて容認できない。いわんや、綾波レイこそしあわせに、である。
「シンジ君ったら、とんでもない女神さまを射止めたわね」
シンジとレイがくっついてからというもの、事態が好転している気がしてならない。アスカも加わって面白い化学変化を起こしているようだ。今日も昼すぎに三人で出かけているなんて、いったい誰が想像しただろうか。神経質なところのあったアスカは柔らかく素直になり、人形めいていたレイは少しずつ少女……いや、女になった。シンジの比重はレイに大きく傾いているようだが、さりとてどうなるかわからないのが恋である。身体を繋げ、好きや愛しているの想いだけで成就しないのは身を持って知っているのだ。
「選ばれるのが片方だけ、なんて神さまは決めてないわよ?」
余計な口出しも手まわしもしないが運命の悪戯はどう転ぶやら。あのアスカが簡単に白旗をあげるとは思えないが、変に拗らせると愛人枠に収まりそうな気もする。ネルフの末路は見えないものの、特務権限でどうにかならないものかと考えてしまうのはさすがに馬鹿がすぎるか。まだあと四年もあるのだ。
かつて日本に四季が存在していた頃、蝉にも初鳴きと呼ばれる季節の風物詩があった。桜前線のように必ずしも南からではなく中には北海道から鳴き始める種類もある。いずれにせよ、ひとびとは昆虫の求愛行動で夏の到来を感じていたものだ。それがいまでは一年中そこかしこで聞こえるとなれば風情もあったものではない。
環境音というには煩く、ともすれば神経を逆撫でされそうになる鳴き声がやけに大きく聞こえるのは街の喧騒が消えたからだろうか。そんなことを考えたシンジは、レイと並んで待ちあわせ場所である地上の通用口へ向かっていた。公共の交通機関が止まっているため保安部の車に乗せてもらうほうが快適なのだが、休日というのもあって徒歩だ。決して私用が禁じられているわけではなく、手を繋いでデートしたいだけである。
「蝉ってさ、一年中盛ってるのかなぁ」
黒Tシャツ、ハーフパンツ、サンダルに野球帽というラフな服装の彼は隣のレイに話を振った。手のひらがだいぶ前からじっとりしてても彼女は決して離そうとしない。
「そうかもしれないわ」
白いYシャツにチェック柄のキュロットスカート着たレイは、カンカン帽のツバを手で押さえて頷く。ほどよく雲があり、風も吹いててのぼせるほど暑くはない。こうしてシンジと街を歩くのは何度目か。見慣れた風景がどれも新鮮に思える。
「一週間しか生きられないなんて、残念だよね」
「でも土の中では長いそうよ」
「そうなんだけどさ。せっかく恋人見つけても、一週間だよ?」
「言われてみれば、とても残念ね」
「でしょ?」
シンジは強く促した。レイと恋仲になって今日で十日。もし自分たちが蝉ならばいまこの時間は存在していなかったことになる。まったく馬鹿げた想像だが、おしゃれな洋服に身を包んだ彼女であっても儚い雰囲気は変わらない。ともすればふわりと煙のように消えてしまいそうに見えるのは肌が極端に白いからか、それとも髪の色からか。そう思うと繋ぐ手に力が入る。するとレイも握り返して言った。
「もしかして、苦痛かもしれないわ」
「苦痛?」
「恋人ではなく、作業的に番っているだけ。土の中は心地よかったのに地上は暑いから早く死にたいと願っている」
「考えたこともなかった。好きでもない相手と一緒かぁ……そりゃ鳴き声もあげたくなるね」
「でしょ?」
今度はレイが強く促す。ならばこの耳に聞こえる大合唱はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図か。カマキリはメスのほうが体は大きく、交尾のあとにオスを捕食してしまうときもあるというし、サメの中にはメスに噛みつき岩に押さえつけて交尾するという。野生の世界は過酷だが、人間の観点からするととてもロマンチックにはほど遠い。シンジはちらりとレイの嬌声が頭に浮かんで振り払った。抱えるように尻へまわされる両脚はなにを意味するのか。
そうこうしているうちに待ちあわせ場所へ到着だ。職員用の出入り口のすぐ近くにあるバス停は屋根があるので少しばかり涼が取れる。いままさに着いたといったアスカはふたりの到着に気づくとほんのわずかに眉を顰めて彼らを迎えた。
「ったく、こんな暑いのによく手なんて繋げるわねぇ」
黒とオレンジ色のラグランTシャツにタイトなデニムスカート姿だ。栗色の髪をうしろで一本にまとめて、野球帽を被っている。図らずもシンジと似たような格好になり、なおかつ今朝の件もあれば互いに表情がまごついてしまう。
「アスカ、あの……おはよう。け、今朝は……ごめん」
なぜ謝ったのかシンジもよくわからないが、まずは得意の謝罪だ。アスカもいまさら彼の癖を指摘しないが横目で窺ったレイの姿に頬が熱くなる。
「べ、べつにいいわよ。ってか、レイ。アンタなんでそんな堂々とキスマークつけてんのよ」
「絆、だから」
首筋にある赤い染みを嬉しそうに指で撫でるレイだが、アスカはシンジにジュースを買って来いと指示を出して懇々と慎みについて説明した。本人のことなのであれこれ言う必要はないとわかっていながら口を出す。彼女の心は複雑なのである。
いっぽうでレイも、アスカの髪型とどことなく彼とあわせたような服装が面白くない。しかもスカート丈はとても短く膝上15センチでシンジの視線が飛んでいれば余計にである。彼女の心も複雑であった。
そして、少し離れた自販機で三人分の飲みものを購入しているシンジはそんなふたりの心中に気づくこともなく、前よりだいぶ打ちとけたなと頬を緩ませるばかりだ。彼の心は能天気であった。
それから三人は並んで街中へ繰り出す。時刻は昼をまわっているが、昼食を取れるような店は当然やってない。今日中に市内から避難を完了せよとの通達により、ゴーストタウンさながらである。それでも商魂逞しい屋台を見つけて鯛焼きをぱくついた彼らは、無人となった貸しボートで芦ノ湖を遊覧した。白鳥を模した三人乗りだ。
「ふくっ、ふくっ、ふぬぅ……」
レイの手前、少し男らしいところを見せようと足漕ぎを担当したシンジであるが、なかなかの重労働は誤算だった。少女ふたりはうしろの席で優雅なお姫さま気分に浸っている。海賊船はいないし波も穏やかではあるもののスクリューが小さいのか、脚の速度をあげてもあまり進まないから困りものだ。
「シンジぃ。あの鳥居のとこ見たーい」
それなのに、アスカ姫は陸路からでも見られるシンボルを御所望である。怪訝な面持ちで肩越しに振り返れば短いスカートと大胆な太ももだ。男を惑わす魔のトライアングルに愚痴る気勢は削がれ顔を赤くしながら前を見るほかない。彼女が狙った服装をしているなど知るよしもない彼は翻弄されるばかりである。
「碇くん、私が代わるわ」
「だ、駄目だよ綾波っ。いま動いたら転覆するって!」
片や、愛しのレイは気遣う優しさを見せてくれるが、少し中腰になっただけで船体が揺れればシンジは必死である。彼の隣で一緒になってペダルを漕ぐという彼女の目論みは果たされなかった。
「シンジぃ。つぎあっちー」
対岸を指差す非情なアスカ姫の命令に、シンジは今夜もぐっすり眠れそうだと汗を流す。レイの自爆によって生じた被害で湖畔の建物が水没する中、三人は束の間の平和を享受した。
彼が陸に帰還したのはそれから二時間ほどあとである。両脚は生まれたての小鹿のように痙攣した。出発地点とはべつの場所に着いたからここから徒歩で帰るかまた漕ぐかの二択を迫られる中、レイがすてきなものを発見する。
「あれに乗ったらいいと思う」
あったのは左右に並んで連結したふたり乗りの自転車だ。うしろには荷物入れの大きなカゴがある。レンタル業者が置いて行ったもので社名がペイントされていた。アスカはこれさいわいと駆け寄って状況をたしかめると、肩越しに振り返って意地の悪い猫のような笑みをシンジへ向ける。乳酸が溜まった太ももでまた漕ぐのかと、彼は戦慄だ。
「僕もう脚がパンパンだよぉ。それにふたり乗りだし……」
「大丈夫よシンジ。アンタの座席ならちゃーんとあるから」
「私と惣流さんが漕ぐから、碇くんはうしろに座ってて」
「いや……助かるけども……」
「いいから。ほらほら出荷よ~」
「ふふっ……出荷よ、碇くん」
かくしてレイの言葉を受けた彼は、体育座りで尻をカゴに入れるとうしろ向きに運搬された。楽と言えばそうだが、どうにも不恰好だし気分はドナドナである。アスカがケタケタと笑い、レイまで目尻をさげていれば文句も言えない。両肩に少女たちのぷりっとした尻が当たっていれば鼻の下も伸びてしまう。そしてそれに気づかないアスカではなかった。
「あたしとレイのお尻、どっちが好み?」
ふたりに見下ろされてもシンジは即答できない。夕暮れの風が心地よく頬を撫で、とても楽しい休日を満喫できた。そんな想いでサイクリングロードの木漏れ日を堪能していたのに、せっかくの開放的な気分は一転して逃げられない檻の中だ。レイが一番と言えば角が立ちそうだし、さりとてアスカを褒めるのも違う。そもそもこの感触では比べようがないし違いのわかる男でもない。プラグスーツ姿を思い浮かべるがどちらもたいへん綺麗な形をしていた。扁平ではないし四角でもない。赤いほうがやや標高がある、くらいだろうか。
「好みって……そんな……」
「もっと体重かけてもいいのよ~? ほらほらぁ」
「あ、ちょっと、綾波まで……」
「ほらほらシンジ、白状なさい。あたしね、今日Tバックなの」
「し、知らないよう。そんなの……」
「さっき覗き見してたくせにぃ。えっちぃ」
バレていた、と顔を強張らせる。恋人の前でなんて目をしてしまったのだと緊張した。しかし彼女が言うほど中まで見たわけではない。あくまでも清流のようにさらっと眼球が動いただけだ。形もさることながら色すら確認していないのだから冤罪である。こんなことならもっとしっかり凝視すればよかったなどと思ってはいけない。だが彼を救ったのはレイの質問だった。
「Tバック? なにそれ」
「もうっ、知らないの? うしろが紐みたいになってるパンツよ」
「紐?」
「そうよ。フンドシみたいな形。これがまた風を感じて気持ちいいのよ。レイも穿いてみたら?」
「でもその形だと食い込むと思う」
「ま、まぁそう言えばそうだけど、悩殺できればなんでもいいのよ。ってかアンタが食い込むって言うとなんかエロいわね。あたしが言うと普通なのに」
「私はエロいの?」
レイがちらりとシンジを見れば、耳を赤くして口元をまごまごさせている。アスカがさらにセクシーランジェリーについて熱弁すれば、鼻の下を伸ばしてにやけ顔だ。ずいぶん大人しいと思ったら妄想しているらしいと察して、店が再開した暁には買おうと決心する。なお、アスカの下着はTバックではなくフルバックだ。シンジをからかうネタだったが、先日の買いものでちょっと背伸びして数点購入していた。悩殺する相手は言わずもがな、である。
「あれ? ちょっと止まって、ふたりとも……」
そんな下着談義も落ち着いた頃、シンジは流れる視界に友人を発見した。アスカもレイもペダルを止めてブレーキをかけると彼の見ている方向を注視する。片手を振りながら声を張ったのはアスカだ。
「あれってヒカリじゃない……ヒっカリぃ~!!」
さきにいたのはヒカリとトウジである。彼らはまさにこれから疎開する寸前で、トラックの前に立っていた。ちょうど荷物の積み込みが終わったところだ。すぐさま気づいた彼らは手を振り返してくる。
「おお、シンジたちやないか」
ジャージの袖を捲くったトウジは自転車を寄せたシンジらの姿に目を細めた。隣に立つヒカリも丁寧に挨拶してくる。アスカは久々に逢う友達との会話に花を咲かせた。行きさきはどこだと問うたり、ペンペンの近況を聞いたりとしている横でシンジもカゴに入ったまま彼に話を振る。
「ずいぶんとギリギリの出発だね」
「ワシのオトンがネルフで忙しゅうしとるさかい、今日になりよった」
「ああ、技術開発部だっけ?」
「せや。なんでも、お前らを助けるんや言うて張り切っとったわ」
「そっか……結構お世話になってるからね」
戦いはまだ終わっていない、というのをミサトから聞かされているが具体的には知らない。待機と訓練を命ぜられているだけである。シンジはとくに掘りさげず、もうひとりの友人である相田ケンスケについて尋ねればひと足早く疎開を終えたと言う。住人のおよそ半数は甲府、前橋、富士宮などが行きさきだ。もともと第三新東京市にはネルフ関係者が多く住んでいたというのもあって避難訓練など有事の備えはされており、大きな混乱もなく粛々とおこなわれた。トウジにしても悲壮感はあまり見られず、新しい土地の名産品がどうのと口にするほどの余裕がある。
やがて話も落ち着くと、彼の興味はここまで会話に加わっていなかったレイに向けられた。制服しか見たことがないので私服姿が新鮮であると同時に、先日にも増していっそう雰囲気が変わったように思える。
「――にしても、綾波も変わったのう」
シンジをカゴから立ちあがらせていたレイはトウジに話を振られて目をしばたたかせた。ひとは往々にして自身の変化というものに気づきにくく、ましてや抽象的な雰囲気ともなればわかりにくい。だが彼女の場合は違う。シンジを知り、触れあいを通じて多くの心を得たのだ。性自認はまごうことなき女であったが、恋人としての日々を想えば顔も赤くなろう。
「そうかも……しれない」
「ええことや。お前らよう似てるんやから、シンジとおったらええ」
「うん……」
「この際、つきあえばええんちゃうか?」
さしものレイもこの発言にはきょとんとした。シンジも同じ顔をしている。ふたりともなにをいまさら、と思ったが前に逢って話したときトウジは離れたところにいたから知らないのだ。意外な盲点であったが、ちょうど折よくヒカリとの会話に空白が生じたアスカからすぐさま大胆な援護射撃が放たれる。
「なに言ってんのよ、ジャージ。このふたりならとっくに組んずほぐれつ、いんぐりもんぐりよ?」
これはヒカリも知らない新事実である。言葉の意味はよくわからないがとにかく凄い語感だ。てっきり中学生らしい清い関係だとばかり思っていたのにもうオトナになってると聞いてすぐさま顔をまっ赤にすると目を見開く。それはトウジも同じだった。
「な、な、なんやと! シンジ、お前、ヤったんか? 綾波とヤったんか!?」
「まぁ……かっ、かっ、彼女だからさ。うん……そう、だね。は、はははっ……」
「ちゃんと入れたんか? オメコに入れよったんか!?」
「ちょ、ちょ、声が大きいよっ」
「う、裏切りモンがぁぁ!」
「いやあの……って、トウジどこ見てるのさ!」
着衣なのにトウジから鬼のような形相で某所を凝視されて思わず隠すシンジだが、隣のレイも口元に手を当てたヒカリからちらちらと窺うような視線を飛ばされて居心地が悪い。帽子のツバで表情こそ隠せるが両手をどこにやればいいのかわからなくてしきりに動かした。最終的に下腹と首筋を押さえるものの、そんなしぐさがまた可愛らしく生々しいからヒカリの妄想は留まるところを知らない。具体的にあれこれ聞こうとしては頭を振った。得意の不潔呼ばわりも薄幸の美少女然としたレイに対しては違う気がする。あわあわと返答に窮していると、アスカからさらに爆弾が投下されるのだ。
「そう言うヒカリはどーなのよ?」
「べ、べつに私はそんなキ、キスとか、そ、そういったことは……だ、だいたい鈴原とはなんでもないんだからっ」
「ふーん。でもこんなご時勢だし、いつなにがあるかわかんないわよ?」
「な、なに言ってるのよ、アスカっ。じゅ、順番とか、ムードとか、いろいろあるでしょ!」
「ほら、ジャージ。アンタも男ならちったぁキアイ入れなさいよ」
と、ここで矛先を向けられたトウジはきょとんとする。いまはシンジをからかうのに忙しくてそれどころではないし、言葉の意味がよくわからない。女子ふたりの会話もあまり聞いていなかった。
「なんや、ワシがどないしたんや?」
「だぁかぁらぁ。ヒカリがこんだけ世話焼いてんのに、鈍感にもほどがあるでしょ、って言ってんのよ」
腰に手を当てて指を差すアスカと、隣で宥めようとするヒカリだ。そしてトウジは腕を組んで首を捻り、顎の下に手を当てて唸るばかりである。ヒカリを見てもさっと目を逸らされてしまい答えがわからない。
「イインチョには世話になっとるで?」
「それが責任感だけなのかってことよ」
トウジははっとする。学級委員長の役目とはなんであろうか。おもにリーダ的存在であり、たとえば挨拶の号令や司会を務めたり、教師からの伝令も担ったりする。居残るときが多いし、教室の整理整頓や生徒間の折衝をするときもあった。欠席した生徒にプリントを届けたり電話で伝えたりするとも聞く。だがいま学校は休校であり、本来の職務から離れているはずである。なのに、最近は家にまで来て手伝ってくれているのだ。これがただの責任感だけとは思えない。
そう帰結したトウジはぎこちない足取りでヒカリの許へゆくと、真正面から見据える。ヒカリもまた彼の気配を感じて赤い顔をあげた。唇を震わせ、目尻に涙まで溜めるほどの緊張だ。彼はいままでの自分を激しく悔やむ。こんなにも近くにいて、どうして気づいてやれなかったのか。仲のいいアスカが憤慨するのも無理はない。ジャージの裾で右手をぬぐうと、そっと差し出す。
「すまんな、イインチョ。ワシなんも気づかんと誤解しとったわ」
「べ、べつに……前から気になってたとかそういうのじゃないし、待ってたわけでも……」
「ワシと友達になってくれんか」
「あの……き、清い関係も大事だけど、でも少しなら……えっ?」
「せやから、イインチョ。ワシら友達になるんや。これからもよろしゅう頼むで」
シンジとアスカは首をかしげ、レイだけが頷いた。そしてヒカリはというと、期待していた言葉とは違ってても差し出された彼の手と優しい眼差しがあれば充分である。いままでは友達ですらなかった。あくまでもクラスメイトだったのだ。小さな一歩だけれども、彼女には大きな前進である。
「はい……ふつつかな者ですが、よろしくお願いします」
リハビリ以外でこうして手を握るのはもちろん初めてだ。少し熱いのは自分か、彼か。男性らしい骨ばった手と、力強い前腕。これからもずっと傍にいて、彼の片足を支えてあげたいと決意を新たにした。
さて、本当はもう一歩踏み込んだ関係を期待していたアスカだが、本人たちが満足そうな表情をしているのならこれでいいのかもしれないと納得した。やがて時が来れば納まるところに納まるだろう。そして焚きつけたからこそ発言には責任が伴うのだ。
「それでいいのよ。あとは任せなさい……ふたりの平和はあたしたちが守ってみせるわ」
アスカは胸を張った。シンジもレイも力強く頷く。青臭い台詞でも茶化す場ではない。実際に死地をくぐり抜けている者が言えば重みが違う。トウジはぐっと顔を引き締めるとシンジに告げた。
「シンジ。お前たちが仲ようしとるのはホンマにええことや。ワシはオナゴのことようわからんが、綾波と惣流守ったれな。しゃんと戻ってくるんやで。ええな? 三人でや」
「うん、三人で迎えに行くよ……平和になったって言いに」
アスカとレイは頃あいを察してペダルに力を入れた。カゴに座ったシンジは遠ざかるトウジたちに手を振る。彼らは一度離した手を繋ぎ直して並んでいた。あのふたつの手のひらをもっと強固なものにしたい。彼もまた胸に火を灯すと真夏のような風を見送るのであった。
セカンドインパクト前の日本で進められていたプロジェクトのひとつに、第五世代コンピュータというものがあった。真空管から始まったコンピュータの歴史に人工知能を加えようとしたものであるが、残念ながら商用ベースには乗らないまま終わってしまう。ただし、優秀な人材が育まれたことを加味しなければならない。より効率よく、実用に堪えるものを目指す科学者の芽は育っていたのである。
時に西暦二千十年、赤木ナオコが開発した本格的な第七世代コンピュータ・マギは誕生した。彼女は自身の思考パターンを完全に再現するべく結婚し、出産して最後に離婚を経験する。三台のマシンを鼎談させ人間のジレンマを取り込むことでマギは猛烈な速度で学習した。いまや第三新東京の市政を担うほどである。そこまで昇華させたのはリツコのアプリケーション開発にほかならない。
そんな天才に拗らせた想いを寄せるのはマヤだ。潔癖な彼女は、敬愛し恋慕する先輩がよもや昼ドラのような大人の世界にいるとは知らずリツコの横でノートPCを叩いている。マヤにとって本部の出入り禁止措置は願ったり叶ったりであり、マギ内部の狭い空間で隣に座るのは無上の喜びだ。オペレータ席に残る仏頂面の男ふたりと比べて生き生きとしていた。
「マヤ。B-36のファイル、こっちにまわして」
「はいっ。送信しました」
当初リツコからは強靭な防壁をマギに施すといった指示だったが、興が乗った彼女は変更してべつのプログラミングに入っている。マギ内部に書き留められていた裏コードによる、門外不出の奥義だ。しかもあらかじめ素案は用意してあったと言うのだから、どこまでも底が見えない先輩だとますます崇拝を募らせる。リツコからほのかな香水が流れて鼻腔をくすぐれば胸をときめかせ、頬を染めた。時折、暑さに服の胸元をぱたつかせるしぐさを横目にして体臭を感じ取った気になる。ミサトと同格の豊満な胸や尻も、大きな憧れだ。パッド二枚重ねという哀しい現実があれば、女性として見てもリツコは完璧すぎた。キーボードを叩く指先を盗み見て胸が性的に高鳴る。
「つぎはXP-95のdllを……マヤ、これ違うわ」
「あっ、済みません……」
つい手元が狂って画像ファイルを送ってしまった。慌てて詫びてただしいファイルを転送する。これはミスが許されない大事な作業である上に、人類の存続を懸けているとも聞かされているのだ。
「ふふっ、いいのよ。あせらずやりましょう」
「は、はいっ」
今日のリツコはどこか優しい、と感じた。けれど甘えるわけにはいかない。しっかりとやり遂げたさきにある華やかな未来を思い描いて気を引き締めると、エンターキーを小気味よく叩く。想定される相手は同じマギが五台と彼我の兵力差は歴然である。だが、性能だけで言えばオリジナルである本部のほうが優っているのだ。しかも、こちらは復帰したリツコが調整しているのだから負ける要素は皆無と言っていい。マヤは淫靡に口元を歪ませると息を弾ませるのであった。
そんな彼女たちに背を向けて座っているオペレータのうち、青葉シゲルは各部署の確認に余念がない。彼は隣に座るマコトと分担して表示される進捗をもとに、作業員や部材の再配置を指示していた。大型スクリーンに映し出されたカウントダウンは上位組織がつぎの指示を出すまでの時間である。ミサトの指示がなければ暇を持てあましていたであろうこの時間だが、まるで使徒戦さながらの忙しさだった。
「やれることがあるってのはいいよな」
「まったくそのとおりだぜ」
マコトが端末を操作しながら応じた。シゲルも同感だ。警戒態勢とあっては趣味のギターで無聊を慰めることもできないし腑抜けるよりはよっぽどいい。ネルフが組織解体されたらどうなるのか身の振りを心配する必要もないのだ。イチかバチかの大勝負、とミサトから聞かされたとき彼とふたつ返事で同意した。ここまでやったのだ。あとは自分たちの信じることをやるだけである。
「俺はいま一番生きがいを感じてるぞ、マコト」
「ああ、ようやく俺たちも戦えるってもんだ」
前線へ子供たちを送り込み、自分たちは発令所にいる毎日だった。心を痛めないわけがない。シンジは集中治療室に何度も運ばれた。エースと目されたアスカは精神に変調をきたして失踪した。そしてレイは自爆までしたのだ。本来なら学業に恋に友情にと青春を謳歌するべき年頃の子供を供物のように捧げて大人は身を切らない。それでも人類の長寿と繁栄を願えばこそ目を瞑った。だが今度は、今度こそは大人たちの番だ。彼らの手を借りることに変わりはないが、丸投げではない。肩を並べてともに戦える。本当の意味での最終決戦は目前に迫っている。
「やろうぜ。正義の味方になって子供を守ろうぜ」
「おうよ。悪の親玉は俺たちが成敗してやらないとな」
彼らの前には一枚の写真があった。以前にアスカが撮ったものをミサトが目ざとく見つけ、焼き増しして配ったものだ。夕日に照らされた三人の子供たちの笑顔が彼らの活力である。これはオペレータ席だけでなく、主要な部署にまで貼ってあった。中には拡大コピーして額縁に入れる密かなファンもいるくらいだ。月の女神、と技術開発部の誰かがレイを形容すれば、戦術作戦部は太陽の戦乙女とアスカをたとえる。そしてシンジは医療スタッフからこう呼ばれていた。傷だらけのヒーロー、と。
「アスカちゃん、可愛いなぁ」
「俺……この戦いが終わったら葛城さんに告白するんだ」
ふたりは気勢をあげて端末を操作する。カウントダウンは残り一日を切っていた。存分にやれというゲンドウの指示に彼らは一丸となっていたのだ。
常夏であっても二月の中旬ともなれば日は短いし夜も気温はさがる。半壊した町は街灯が少なく、自転車の前照灯が少し光軸をずらすとそこかしこに無限の闇が広がった。アスカを送るため職員用の入り口に向かっている途中、間もなくという距離でレイが口を開く。
「泊まっていけばいいと思う」
アスカはどきりとした顔で隣の彼女を見た。街灯が照らす表情はたしかで聞き違いでもない。なぜ急にそんなことを言ったのか。ほかに車もひともいないからとあちらこちらをまわって夜になってしまったが、べつに引き留めたわけではないし、ゴネたわけでもない。三人で他愛もない雑談を交えていただけだ。なんら態度には出していなかったはずなのに、ついペダルを漕ぐ力が弱まった。
「僕も同じこと考えてたんだ」
カゴの中のシンジが肩越しに振り返って言う。明日はおそらく天王山になる。詳しいことは聞いていなくてもトウジからの話もあったし、なにより本部では職員たちが大忙しだ。発令所への入室も禁じられ丸一日休日を与えられれば自ずと察するものである。
「あたしが泊まってどうすんのよ」
少し大きな声で応じた。自転車の向かうさきに職員口の建物が見える。バス停を照らす街灯は消えかかっており、地下鉄の出入り口のような小さい建造物はとても暗い。あそこにひとりで入るのかと身震いしていた矢先だった。中に入ればエレベータがあってジオフロントへの直通だ。ほかにひとはいないから、小さい箱の中でふたつしかない案内表示をじっと見詰めて地下へと着く。長いエスカレータや通路を歩き、まずは食堂へ行くだろうか。そのあとは宿舎へ帰りシャワーを浴びて寝るだけである。昼間に使った道を戻るだけ。ただそれだけなのに、待ちあわせまでの高揚感とは正反対の寒々とした気持ちが支配している。テレビでも観れば払拭して安眠できるのか。
「私と碇くんは初号機だけれど、あなたはひとりだから」
「縁起でもないんだけど、でも、もしかしたらこれが最後になるかもしれないし……アスカも一緒がいいかなって」
レイとシンジが口々に言う。アスカとて、なにも彼らが脱落を前提にしているわけでないのはわかる。だが、戦いに絶対は存在しない。これまで何度も首の皮一枚という思いを経験したのだ。不安はおおいにあった。けれども、それを言い出せるわけがない。さんざんシンジをからかいはしても彼とレイは恋仲だ。ふたりの優しさに甘えて自分もほんの少しお裾分けしてもらっているにすぎない。ましてや愛の巣までついて行くなど厚かましいにもほどがある。ゆえに、なけなしの強がりを見せた。
「べつにそんな心配しなくってもいいわ。それに最後だって言うならアンタたちこそ……」
「惣流さん……」
「アスカ……」
顔を逸らしぎみに言ってしまえば説得力はない。ふたりの落ち着いた声に促されたアスカは、あくまでも提案に応じたという体裁を前面に出して同意する。街灯が少なくて助かったと思った。
「わ、わかったわよ……」
レイがわずかに微笑んでいたのが視界の隅に入る。アスカは下唇を噛むと受け持っていたハンドルを転進させた。どうも彼らと一緒にいると強気な態度が出しづらい。しあわせなふたりの空気に当てられているのだろうか。いや、少しでもシンジといられるのなら以前の自分には戻れないのだ。夜道を照らす自転車の前照灯がとても頼もしく感じた。そして同時に心の壁が一枚ずつ剥がされてゆくのを自覚すれば身体も温かい。明日はきっと苛烈な戦いになるのだろう。だからこそこのふたりだけはなんとしても守りたいと、そう固く心に誓う。いつの間にか震えは治まっていた。
やがて帰宅した三人は食事を終えると各自が風呂へ入る。アスカ、レイと続き、最後にシンジだ。彼が浴室の扉を閉じてしっかり水音が聞こえてからアスカは口を開く。
「シンジのことでしょ?」
ベッドの上で割り座になったレイは白い手を所在なさげに捏ねていた。言葉を探しているように見えて、なんとなく察したのだ。そしてレイは待っていたとばかりに小さく頷く。
「ええ……」
「朝は平気かなって思ったけど、難しいわね」
向きあってアスカも腰を落とす。彼は今日とても楽しんでいるように見えた。笑顔もあったし、会話も普通だ。けれど、ふとした瞬間に痛ましい瞳が窺えた。問わなくても考えているのは昨日の件だとわかる。
「難しい?」
「時間かかるって意味よ。少しはしゃいでみたけど、ちょっと厳しいわ」
「はしゃぐ……」
「あくまでも、あたしのやりかたよ」
「なら、どうしたらいいの?」
「根気よく向きあうしかないんじゃないの」
カウンセラーなどの専門家に任せたほうが適切でもレイはきっと自分で支えてあげたいと思っている。丸投げするようで気が引けるのだ。アスカも同じように感じていたので勧められない。
「彼は……惣流さんと一緒のほうがいいのかもしれない」
「ちょっと、なんでそうなんのよ」
「私はあなたのようにはできないから」
「だ、だからって短絡的よ」
「あなたはいつも眩しいわ。笑顔も、服装も、しぐさも……」
「それは……」
青い瞳に動揺が走った。レイの赤い瞳がじっと見詰めてくる。頭頂から身体の輪郭をなぞるように視線が動いて最後に小さい溜息をつく。正直なところ、短いスカートも言葉や態度も彼を誘惑する意図があった。それこそ短絡的なのだが、彼女なりに心を引き留めようと必死だったのだ。レイとしあわせそうにしていればいるほど自分の存在を強くアピールしようとしてしまう。それがこのような発言を受けることに繋がったのだから好都合ではあるものの、さりとて苦悩しているレイを見て手放しには喜べない。自分でも間違っていると思うからこそ、この流れはただしくないのだ。なのに言葉を重ねてくる。
「碇くんのこと、好き?」
嫌いならあんなことはしないし、こんなにも悩まない。シンジがカヲルを頭から消せないのと同じで心を離そうとすればするほど言動は逆になってしまう。レイに嘘はつけない。それはまた裏切るのと同じだ。アスカは目を伏せるとためらいながら口にする。
「ごめん……あたし、やっぱり好きなんだ。謝っておいて図々しいけどさ。レイを苦しめるつもりはなかったのよ……ただ傍にいて欲しくて、見て欲しくて。ごめん……」
「いいえ、確認したかっただけ。私も彼のことが好きなのに、愛しているのに、あなたとは違うから」
「あたしを参考にしたってしかたないじゃない。レイが恋人なんだから、レイの方法で彼を支えるしかないのよ」
「私らしく……」
「そうよ。あたしがシンジを好きな気持ちと、レイが好きな気持ちは違うでしょ……あたしにはできないことでもレイならできることがいっぱいあるはずよ。その……えっちとかもそうだけど、ほかにもさ」
「ほかにも……」
「前にアンタのこと悪く言いすぎたわ。でも、いまは違う。たった数日なのにどんどん変わってる……だから、少しは頑張んなさいよ。恋人なら、愛してるのなら、それくらい乗り越えないとダメよ。あたしだって……」
つらいのに。なぜこんなアドバイスや慰めをしなければいけないのか。レイが嫌いだとかそういう話ではない。力になってあげたいと思ういっぽうで、ふたりがより絆を強くしたらやるせないのだ。
「あなた、優しいのね」
なんという残酷な言葉だろうか。いますぐ別れろと言えたらどんなにいいか。女としての魅力を日々増してゆくレイが眩しく、同時に恐ろしい。めらめらと渦を巻く心の中をごまかすように、拳を強く握った。
「自爆するくらいなんだから、できるわよ……って、ちょ、ちょっと泣かないで……」
「ごめんなさい……」
調子が狂うとはこのことだ。眉を寄せていくつも涙を落とすレイを見たら心の炎はすぐに鎮火してしまう。痛ましいと素直に思った。レイの出自に関する話を聞いたとき、感情についても聞いている。表現がうまくできず、心に適した言葉が出てこない。しかし愛する気持ち、恋する想いは本物なのだ。だからこそこれだけ苦しんでいる。彼のためなら浮気相手に託そうかと考えてしまうほどに。
「ほら、アイツが出てきたら驚くから……」
ティッシュを取ると、レイの頬にあてがう。かつてほとんど表情を変えなかった彼女の落涙する姿は余計に胸を打った。つい頭を撫でてあげるものの、逆に返ってくるのは面映ゆいひと言だ。
「ありがとう、アスカ」
「な、名前で呼ばないんじゃなかったの?」
「そうかもしれない。でもいまは……ありがとう」
「べ、べつに優しくなんて、してないんだからっ」
しばらくすると、折よくシンジの出る気配がした。冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスに注いでは喉を鳴らしている。アスカはすかさずレイを窓側へ向かせると、なんでもないといった雰囲気を装って彼に応じた。
「くぅう! やっぱ夜はコレよねぇって、綾波どうしたの?」
「あ、ああ、これね。うん、ちょっとからかってくすぐったらタイヘンなことになったのよ」
「ええっ、くすぐったの?」
シンジは頭を拭きながら驚いた顔でレイとアスカを見て、冷蔵庫へ麦茶を戻す。その隙にアスカがレイからティッシュを取るとゴミ箱へ放り、耳打ちしてるのを知らない。
「そうなのよ。爆笑したとこ見たいってあたしが無理にしたってワケ」
グラスを一気に煽ったシンジは、きょとんとした顔をしたあとニヤリとする。そして背中を向けたレイににじり寄るのだ。グラスを置き、首にタオルをかけると彼女の脇腹を観察する。いけない、と頭ではわかってても気になってしまったら止められない。そっと両手を忍ばせて、折れそうなほどの細いウエストをむにむにと揉めば効果は抜群だ。
「ひあっ! ひっ、ひっ、碇っ、くうぅん!」
「あははっ。どうだ、どうだぁ」
「だっ! めっ! あはっ、くるっ、苦しいっ」
「綾波ぃ、綾波ぃ」
「あひぃ、あはっ、あははっ、あっ、ははっ、あはっ」
「胸も揉んじゃうぞぉ」
「あっ、駄目っ……あふぅ、ははっ……ちょっ、碇っ、んんっ、んなぁん」
「ここだここだぁ!」
レイは頭を振って青みがかった銀髪をふさふさと揺らしては、なんとか肘で防御しようとしている。上体を折り曲げ、くねくねと捩って可愛らしい笑い声をあげる彼女の姿に満悦だ。尻を突き出すように伏した恋人が愉快で彼は謎の勝利を感じた。と、そこへ横あいからアスカも参戦して腰をくすぐってくれば彼はたまらず逃げて距離を取る。
「こらっ、シンジ。あんまりカノジョを苛めるもんじゃないわよ」
「だからってアスカも急に攻撃するのなしだよっ」
「あたしの前でエロいこと考えてんじゃないわよ。レイだって感じてんじゃないの」
「ち、違うよっ……違う、よね?」
「ったく、いちゃつくのは明日にしなさい。なに昂奮してんのよ、この変態シンジっ」
「えっ、いやこれは……どこ見てるんだよぉ」
レイの声がどうにも色っぽくて変な情動を滾らせてしまったのは事実である。とても柔らかい素材のハーフパンツは彼の柔らかくない部分を主張していた。慌てて股間を隠すあたり、肯定そのものである。アスカも眼福などとちらりと思って、なんとか急場を凌げたと安堵した。
「いやぁ、笑ったわ」
「碇くんは酷いと思う」
「ごめん、ごめん……」
ともすればエロティックなことをしているように見えるレイの声と反応に、アスカは目尻の涙をぬぐう。片やレイは自らの痴態に赤面しつつ仏頂面だ。シンジは空元気なのか、もしくは意図して目を逸らしているのか。どちらにせよ、いまは彼を少しでも元気づけたいと少女たちは思っていた。
さて、そんな三人はひと心地つくとベッドの上で車座になる。彼らの前に広がっているのはトランプだ。少し前に本部の売店にあったのをシンジが見つけ、レイとやろうと買ってあったものである。しかも、テーブルの上には鮮やかな色をした缶チューハイの6パック入りまであった。帰宅する途中に酒屋の店主からもらったのだ。未成年相手になにをと彼らは思ったものの、会話の様子からどうにもチルドレンだと知っているらしかった。景気づけに一杯ひっかければ元気になると強引に持たされ、いまに至る。
「それなりに冷えてるじゃない」
戦勝を祈念した乾杯もそこそこに、さきんじて胡坐でごくりと煽ったのはアスカだった。割り座のレイも習ってジュースに似た液体を流し込むと驚きに眉毛をあげる。水面を見詰めてシュワっとした炭酸と果物のような味に瞳をしばたかせた。
「甘い……おいしいわ」
「ちょ、ちょっとふたりとも、もっとゆっくり飲まないと……」
「へーきよ。すきっ腹じゃないんだしアルコールだって少ないんだから、シンジもぐいっといきなさい」
ならばとシンジも男になってぐびりとやるが、酒とは思えないくらい甘く飲みやすい。風呂あがりに背徳感も加わればついつい飲み進めてしまうものだ。どうせタダでもらったものだし、と三人とも手を休めない。
シンジは唯一できるヒンズーシャッフルでトランプを切ると各自に配る。カードゲームの経験がないレイだが、彼が説明すればすぐに理解した。ババ抜きは複雑なルールでもないから簡単だ。
「碇くん、あなたの番よ。さぁ取って」
「目元が笑ってるよ、綾波」
「そんなことないわ。私、クールビューティだもの」
「たしかに僕はそう言ったけど、自分で言っちゃう?」
微笑みながらレイのカードを取ると、まんまとジョーカーだ。どうも一枚だけ少し頭が出ているなと不審に思ったものの、つい指が動いていた。ならばこれをアスカにやってしまおうと、似たような手を用いる。
「よこしなさい、シンジ。アンタの卑劣な手なんてお見通しよ」
「じゃあ、これでどうかな。ふふっ」
「誰がそんな手に……うぐっ!」
「端から取ると思ったよ」
彼女に表情を隠すなど無理だろうとシンジはほくそ笑む。いつも百面相をしているから、こういった心理戦はとことん苦手と思われる。案の定、レイと向きあえばアスカの視線は一点に注がれっ放しだ。あれではジョーカーの位置を知らせているようなものだと苦笑した。
「惣流さん、一ヶ所を見すぎだと思うの」
「そ、そんなことないわよ……オホホ」
「だから、このあたりね……っく」
「きゃははっ。あたしだって策くらい弄するもんね」
なんと、あろうことかレイがまんまと引っかかっていた。しかも動揺しており、片方の眉をあげてへの字口だ。これはなかなか面白い展開になりそうだと何順かする彼らだが、最終的に負けたのはシンジであった。アスカが最初に抜け、シンジとレイの対決になるものの、彼の瞳の鏡像を見抜くという彼女の離れ業が勝敗を決める。
その後もいくつかのカードゲームに興じるが、三缶も開けたところで身体が熱くなってきて商品名どおりのわずかな酔いも出る。三人して頬を桜色に染めれば口も軽くなるというものだ。大貧民というゲームを片手間にしながら出るのはもっぱらガールズトークである。
「ってゆーかさぁ、アンタ便秘とかないの? いっつもぺったんこじゃない」
「便秘? なったことないわ」
「そのくせ出るとこ出てるしさ」
「そう? よくわからない」
「カップいくつよ」
「カップ? なんのこと?」
肉をほとんど口にしないレイと肉食のアスカではお通じも違うようだとシンジは学習した。干してある下着からレイがBカップ、アスカの独白でCカップというのも耳よりな情報だ。ちなみにアスカの下着は洗濯したあと室内干しされてるがネットに入れたままなので黒い、という情報しかわからない。残念である。
「ねぇ、なんの剃刀使ってるの? すべすべじゃない」
「剃刀? 使ったことないわ」
「無駄毛の処理よ。ワックス? 毛抜きってことはないわね」
「無駄毛? 腋と性器ならもともと生えていないわ。産毛だけよ」
「うっそ!? かあぁ、マジかぁ……羨ましいわぁ」
「碇くんも喜んでいたけど、いいことなの?」
デリケートな話題には間違っても首を突っ込んではいけない。深剃り何枚刃がどうの、女性用電動シェーバーがどうのとアスカが話していてもシンジはただ酒を飲むふりをするだけである。プールの際に更衣室で見たヒカリの某所がとても大きく、べつの某所が濃かった、と言うアスカの暴露話も脳内に留めてはならない。トウジとの友情だ。
「レイの肌って綺麗だけど、乳液どうしてんのよ」
「乳液? なにそれ。知らないわ」
「またか、またなのね。この、女の敵っ」
「すてきな恋をすると肌にいいそうよ?」
「ああ、うん……そっか、うん……なら、うん……」
「惣流さん、目線が泳いでるわ」
アルコールがまわってきたのか、レイの肌はもとよりアスカの顔も赤い。瞳が潤んでおり落ち着きもなかった。ちらちらと目線を向けられたシンジはガールズトークを盗み聞きしていたのがよくないのかもしれないと顔を逸らす。よく考えたらアスカはノーパン、ノーブラなどという妄想は慎むべきである。
「ね、ねぇ……ここに書いてあることってさ……」
「そう……よ」
「えっ、じゃあ、これくらい?」
「もう少し……それくらいかも」
「こっ、こんな感じ?」
「歯が当たるから……こ、こう」
少女ふたりは並んで座り、本で顔を隠しつつなにやら熱心に勉強している。シンジは背表紙でなんの本なのか理解するものの、いつの間に買ったのかと驚きだ。赤面した彼女たちが本をずらして妙な視線を送るのもやめて欲しい。手元と口元を隠してきゃっきゃしているから男子が立ち入るべき話題ではない。彼は無言で酒を口に運び続け、気づけばマグカップは空だ。しかたなしにひと缶開けて注ぎ、レイとアスカにも追加する。残りは一本しかない。
「らいたいねぇ。シンジはユージューフダンなのよ。ニブイしさぁ」
「ええ、そうね。碇くんは、隙が多ヒと……思ウの」
「ホぉントそれよ。だからぁ、あたヒだっていけるかなってぇ、思うじゃなぁい?」
「碇くんは……女たら、シ」
「初めてのチューあげたのにぃ。なによっ、このばかシンジぃ」
「碇くんは、馬鹿、なのね……ひっく」
泥酔してるわけでもないのに、酔いに任せて滑舌が怪しくなっているふたりである。さりとて矛先が向けられたシンジはとても参加なんてできない。並んだ女子たちの連携技を前にたじたじだ。なにか耳にした気もするが聞き違いだと即座に否定する。チューハイも六本すべて開けきってしまい、どうにも色っぽい彼女たちに邪な気持ちなんて持とうものなら……それもいいかもしれない。
「いーなー、いーなー。レイってばいーなー」
「そう? ふふっ……そう?」
「あー、あー、なんだろなぁ、なんだろなぁ」
「弐号さん、落ち着いて……」
「あたし酔っ払ってるからわかんなーい」
「相手は、碇くん、ひとりよ?」
アルコールとは人心を著しく乱すものである。罵りや喧嘩に発展することはあるし、不用意な言葉や態度が後悔に繋がることもざらだ。ましてや止める大人が不在の子供たちだけともなれば心身は暴走してしまう。
「ちょっとくらいさぁ……ねぇ?」
「ええ、そうね」
「ぎゅってしてぇ、ちゅってしてぇ……ひひ」
「それだけでは……足り、ないわ……うふっ」
「わかってるじゃなーい」
「ええ……」
盛りあがった会話も一段落すると、水を打ったような静けさが到来した。三人とも瞳を潤ませ、頬を染める。レイとアスカは並んでシンジを見詰め、彼もまた少女たちを交互に見た。誰もが無言で、大きな呼吸だけが生々しい。少女ふたりは教本によって淫靡な衝動を滾らせ、シンジもどくどくと鼓動を高める。今朝しっかり発散させたはずの三人だが、若い肉体は限界知らずだ。シンジとレイは恋人だし、アスカとシンジもただならぬ関係を結んでしまっている。彼と彼女らに1メートルの距離もなく、汗と石鹸の匂いが鼻腔を刺激した。ごくりと唾を飲み込んだのは果たして誰か。各自の目線は対面のさまざまな部位へ向かう。自分の身体に重大な変化が生じているのはよく理解している。想像力も逞しい。理性という名の壁は音を立てて崩れ、禁断の世界へあと一歩のところまで迫った。余計な言葉はいらない。ほんの少しだけ距離を縮めればいい。にじりとアスカが動いたように見えた……瞬間、勇者が聖剣とともに立ちあがる。
「そ、そろそろ歯を磨こうと思うんだけど、どうかな」
こんなにも安堵し、落胆する機会は二度とないかもしれない。それほどまでにシンジの言葉は場の空気を一変させた。前屈みになりながらそそくさと洗面台へ向かう彼の背中を見て、レイもアスカも姿勢をただす。なにもなかった。少し酔っただけ。脳裏に〝お酒は二十歳になってから。未成年の飲酒は法律により禁じられています〟の標語が激しく浮かんで自らを戒める。これがあるから手を出してはいけないのだ。
さて、一触即発を回避した彼らは大人しく歯を磨く。彼はそっと位置を直し、彼女たちは楕円形を拭き取るとベッドへ横になる。消灯しても胸に平常心を抱いて気持ちを鎮めた。窓側にはレイが、クローゼット側にはアスカがシンジを挟んで背中を向けている。
暗闇に目が慣れて、カーテンの裏から漏れる月明かりを捉えても眠りの精はなかなか訪れない。冷静になればなるほど、エアコンが心地よく感じるほど、さきほどまでの情動を翻して明日の決戦が頭に浮かぶ。とくに、三人の中で一番戦闘力が劣っていると感じているシンジは天井を虚ろな瞳で見詰めた。レイがアスカを招いたのは自分のためでもあると思っている。離れて戦う彼女をひとりにするのがとても耐えられなかった。恋人はレイで、なにより大切なことに変わりはない。だが、アスカが不要かと問われたら全力で否定する。彼女だって失いたくないのだ。もう二度と逢えないかもしれないという漠然とした不安が鎌首をもたげていた。こんなにも近くにいるのに、遠ざかるような背中が胸に痛い。彼は自分に言い聞かせるように呟くと、ふたりの頭に手を乗せる。
「大丈夫だよ。明日はきっとうまくいく……うん、大丈夫」
シンジの言葉を待っていたふたりは素早く向き直って腋に額をつけた。鼻を啜る音から泣いていたのかもしれない。彼はいっそう腕の力を強めて抱き寄せる。決してハーレムを気取っているわけではなく、心が寒かったのだ。
「今日は楽しかった、とても……また三人で遊ぼう」
レイもアスカも首筋まで顔を埋めてくる。吐息どころか唇が肌に触れる距離でもシンジは昂奮せず、ただぬくもりを感じているだけだ。ぐいっと頭を抱けば初めはレイが脚と腕を絡め、つぎにアスカも同じように絡めてくる。この重さと密着感が心地いい。素直にしあわせだと思った。目を閉じると涙が自然と滲む。鼻を啜ればレイとアスカが首に吸いついてくれた。
「ありがとう……」
レイのさらさらでまっすぐな髪と、アスカの緩いウェーブ状の髪が手によく馴染む。しばらくするとふたりから安心したかのような寝息が聞こえた。シンジは彼女たちの呼吸にあわせて時間を穏やかにする。身体を重ねなくても心は重なるものだと表情を弛緩させ、意識を手放すのであった。