第弐拾五話、正午
戦闘訓練を終えたシンジたちは、シャワーを浴びるとすぐさまミサトに呼ばれた。特殊なシンクロについての聴取である。三人でお揃いのスウェットに身を包むのは素早く出撃できるようにというアスカからの提案だ。さきほどと同じくブリーフィングルームで座った彼らの前に立つミサトは緩む頬を堪えきれない。あんなサーモグラフィを見たものだから、ついからかいが生じてしまうのだ。加持を喪ったことに対する寂しさの裏返しでもあるのだが、息がぴったりとあって仲のよかった三人が眩しい。
「それでぇ、なかなか官能的なシミュレーションだったけど、実際どうだったわけ? やっぱ気持ちいいの?」
これは本当に作戦やエヴァの操縦に関係あるのかと思わせるほど下品な笑みを浮かべるミサトに、しかしチルドレンの表情はぽかんとしている。レイだけが察して見る見る顔を赤くするがアスカはなにを言っているのだとタオルで髪を拭きながら返す。
「ミサトが思っているようなこと、なにもなかったわよ? そりゃあドキドキしたけど、そういうのとは違うわ」
「違うって、どういう意味? 表示上ではかなりの変化があったけど」
ミサトはてっきり性感を覚えているとばかり思っていた。あれだけ熱を帯びていたのであればなにかあるはずだと。ところが、三人とも自身の身体の変化に気づいていなかったというのだから驚きである。シミュレーションに必死でそんな余裕もなかったと口を揃えた。ではシンクロはどうだったのかと問えば、シンジは身体の内側を撫でられるような感覚と説明し、アスカは浮き立つ楽しい夢に近いと評する。そしてレイは心と身体がひとつになる喜びと説くと、アスカははっとしてユニゾンのときの何倍もの高揚感だと補足した。
「夢の内容を説明しろって言われてもねぇ。とにかく全身が心地よくて、温かいのよ」
「トランス状態ってことかしら。たしかに戦闘しているのに脳波はリラックスしていたのよね……リツコも首を捻ってたわ」
加えてアスカまで影響が出たことに疑問がぬぐえない。彼女もふたりに感化されて裸でやると言ったのはいい。しかし、エントリープラグもLCLも共有していないのにどうして同じような感覚を受けたのか。三人の答えは抽象的ながら同じ内容を述べているように思える。ATフィールドは拒絶を具現化した心の壁だ。それを展開しているなら弐号機と初号機は独立していなければならない。だがそれならユニゾンのときはどうなのかという話になる。自分で立案しておいて馬鹿げた考察だが、同一の音楽を聴いて食事や生活をともにするだけであそこまでの見事な連携はありえない。
「でもね、ミサト。何度もやりたいとはあまり思わないわ。悪くないんだけど、物足りないのよ」
「あらそうなの? てっきり癖になるとばかり思ってたけど違うわけ?」
アスカは言う。どんなに楽しい夢であっても現実ではないから覚めたら終わってしまうと。夢はあくまでも空想や架空の世界であって、本物の感触はない。暑い日差しを浴びるからシャワーが気持ちいいし、お腹が空くから食事もおいしい。それなのに手も繋げない、抱き締めてももらえないのではちっとも満たされないと顔を背けた。そこへレイがつけ加える。
「きっと、誰かがいるから満たされるんだと思います」
「なるほど。一体感だけじゃ駄目ってことね」
彼らにはまだ伝えていないが、三人のシンクロ率は完全に同一の振幅を示していた。各々での高低差はあれど、それこそ図ったように同期していたのだ。これはユニゾンのときと同じで、太平洋上でタンデムしたアスカとシンジにも見られた現象である。シミュレーション中、二機はまったく違う動きをしていたのになぜこのような結果が現れたのか。夢と現実の狭間というフレーズがミサトの脳内で繰り返されているとき、シンジがぽつりと漏らす。
「なんか、補完計画みたいですね……混ざってる感じが」
これぞ天啓だ、とミサトは確信した。なるほど、しくみはまったく不明だが求める気持ちと一体感が彼らを超限定的な補完に導いたのかもしれない。肉体の消失などは起こしていないから表面だけだが、これほど的確な比喩がほかにあるだろうか。出来損ないの群体から単体へと人工的に進化させた姿を垣間見た気がする。
「恐ろしいことね……」
深く呟く。シンジたちには補完計画という予備知識があり、意識も共有されていなかったから拒絶できた。エヴァという物理的な壁も存在していたし、表面的にごく短時間だ。けれどもし、これが世界規模で強制的に心の奥底まで同一化した場合、ひとは果たして抗えるだろうか。セックスなど比ではない快感を覚えたら確実に求めてしまうだろう。それは魂の安らぎと称しても過言ではない。
それからというもの黙考してさしたる質問も出さなかったミサトから解散を告げられると、シンジたちは昼食を取りに食堂へ向かった。訓練にとんでもないエネルギーを消費したためか、やたらと空腹を覚えたのだ。足取り軽く喧騒が渦巻くであろう一室に入った三人ではあるが、朝とは打って変わって閑散とした空気である。食事も手につけられないほど職員らが熱心に準備をしているのだと察して各人はメニューを選ぶと着席する。
アスカはシンジの隣に座ろうとしたレイを呼びつけ、自身の隣に座らせた。両利きの彼女がテーブルの下で彼と手でも繋がれたらたまらないという、意地である。もちろんそうとは口にせず、シンジがセクハラしないようにと変な理由をつけた。
その彼はアスカのトレーを見て怪訝な顔をする。彼女が選んだのは握り寿司で、黒マグロの中トロから始まり、脂の乗ったサーモン、うに、いくら、カニ、ホタテにあわびまである。鰻の肝吸いと鰻巻きもつけて、なんとも豪華ではあるが昼から食べるメニューではないだろうと夜の居酒屋を思い浮かべた。するとそんな彼の視線に気づいたアスカはすかさず鼻を鳴らす。
「ハンっ。天ぷら蕎麦なんて地味なものいつでも食べられんでしょうが。いい? ここは特務機関ネルフなのよ? いまでは貴重な食材が格安なんだから解体される前に食べなきゃ損ってもんよ。レイは……まぁ、いいけど」
「焼き鳥の親子丼、おいしいわ」
「僕のメニューそんなに駄目かなぁ」
地味と言われたシンジはずるずると箱根の蕎麦を啜り、アスカとレイは満悦の表情で箸を進める。彼らの周囲のひとはまばらで、三人の食器だけ鳴るような寂しさがあった。
食事も終わり、ひと息つくとその場で談笑が始まる。話の機先を制するのはいつもアスカだ。彼女はレイと一緒にリンゴをつついては頬を膨らませてゴシップに花を咲かせる。
「オペレータのロンゲとメガネ、絶対にデキてるわ。あと、マヤはレズね」
「青葉二尉と日向二尉のこと?」
「あのふたりは同期だから仲がいいだけじゃ……って、マヤさんそうなの?」
シンジは番茶を飲みながらなかなか凄い話題だと思うが、まわりにほとんど職員はいないしいいだろうと耳を傾けた。レイは適当な相槌を打ちながら高級そうなメロンを食べている。アスカはひっきりなしに話題を提供しては反応を楽しんでいた。
「遊園地再開したら、まっさきに行きたいわ。シンジとレイを恐怖のどん底に叩き落すのよ」
「そんなに危険な場所なの?」
「絶叫マシンは遠慮するよ、うん。綾波も興味持たなくていいからさ」
アスカが乗りものについて熱心に語ればレイは質問を交えて何度も頷いた。シンジが困り顔でも構わずじっと彼を見詰めてはデートの約束を取りつけようとする。根負けした彼が同意してお化け屋敷について提案すると、今度はアスカが顔を逸らす。
「ゆ、幽霊とか信じていいのは小学生までよね」
「本部の宿舎になにか出たという話を伊吹二尉から聞いたことがあるわ」
「へぇ面白そうだね……って、アスカどうしたの?」
よりにもよって場所がよくないとアスカは慌てて話題を変える。間違っても詳しい場所だの状況だのを聞いてはいけない。
「あのジャージ、ホントわかってんのかしら」
「たぶん、理解していないと思う」
「僕はそもそも洞木さんがそうだって知らなかったよ。意外な一面だなぁ」
こういう時間が本当に楽しいと思ういっぽうで、アスカにはどうしても心に引っかかってることがある。さきほどミサトに話したシンクロについてだ。たしかにあれは間違いだと言った。しかし相手がシンジひとりならどうだろうか。身も心もひとつに溶けあうのが補完計画で全人類が対象であるとは聞いている。ただ、もし仮になんらかの形でコントロールが可能だとしたら、彼とふたりだけという誘惑を振り払う自信がない。
シンジがレイへ向ける想いは疑いようもない事実だ。こうして引き離すなどという幼稚な邪魔をしたからこそ余計に彼の目線が多く注がれているのがわかる。あの隣に座れたら、世界にふたりだけしかいなかったらと馬鹿な想像をした。いまやレイも大切な存在なのに、どうしてそう考えてしまうのか。
「あたしだって知られたくないことあるわ」
「私も、お尻の拭きかたまで碇くんに知られたくない」
「ぼ、僕も……うん……いろいろと、よくないから……」
シンジとレイがタンデムしているというのが余計にアスカの気持ちを暗くさせてしまう。こうして無理に話を切り出してもふたりがとても遠い存在に想えた。少しでもまねようと裸でシンクロなどということまでしたのだが、それがあの感覚に結びついたのだからやるせない。
「あたし、オレンジジュース飲もうっと」
思考に歯止めが利かなくなりそうなのをごまかすために立ちあがる。テーブルではシンジとレイがなにかを話してくすりと笑っていた。陰口を言ってるなどとは思わない。ただ、一緒に来てくれなかったふたりに寂しさを覚えただけだ。たとえシンジがミサトの邪な提案に乗っていたとしてもこの気持ちは晴れなかったであろう気がして自販機のボタンを連打した。
発令所の直上に位置するその部屋は壁面から床に至るまですべてが黒塗りで執務室に比べて狭い。支部長との連絡に使用するため秘匿性が極めて高く、本部内で列席できるのは総司令のゲンドウと副司令の冬月のみである。
いまふたりが対峙するのはホログラムによって立体的に映し出された黒い石版だ。ひとの背丈以上もあり、表面に赤い番号が振られているだけの造形である。一柱だけでも圧倒的な威圧感を与えるものが環状に十二柱も彼らを取り囲んでいるさまは決議ではなく審判だった。
『約束の刻が来た。ロンギヌスの槍を失ったいま、リリスによる補完はできぬ。唯一リリスの分身たるエヴァ初号機による遂行を願うぞ』
正面の01と記された石版から男の低い声が轟く。顔は見えずともゲンドウたちは相手が誰なのか知っている。人類補完委員会を表の顔とし、上位組織である国連をも手中に収める秘密結社だ。救世主が誕生するより遥かに古い起源を持ち、歴史の裏で暗躍してきた宗教家でもある。槍や使徒の呼称も彼らが教義と強引に結びつけただけのものでしかない。その傲慢さと権謀にゲンドウは何度、辛酸を嘗めさせられたか。
だが、かつて頭の固い老人と揶揄した彼らはここに来て堅持してきた経典を自ら焚書にすると言い出した。贖罪の槍の喪失になりふり構っていられないなどと聞けばゲンドウも侮蔑を持って答える。
「シナリオとは違いますが」
大仰にも裏死海文書などと言ったところで所詮は彼らのタイムスケジュールにすぎない。神託を授かった預言書ではないのだから内容をいかようにも変更できる。それを知った上での嘲笑だ。隣に立つ冬月も続いた。
「ひとはエヴァを生み出すためにその存在があったのです」
なぜ人類は死海の畔で巨大な槍を発見したのか。白き月とアダムが存在する意味。生命の果実を得るのは本当に罪なのか。ひとがどこから来てどこへ向かうという命題をなぜ否定しようとする。目の前の現実こそが啓示にほかならないというのに。
「ひとは新たな世界へと進むべきなのです。そのためのエヴァシリーズです」
もはや無意味とわかっていながらゲンドウは言った。信仰が人類の救済に貢献してきたのは事実である。しかし、もうその役目は終えたのだ。ひとは神に頼るべきではない。なればこそ、目指すべきはただひとつである。どのような形になろうとも人類がここで終わってはならない。エヴァンゲリオンの名は文字どおり福音をもたらすものでなければいけないのだ。
けれども宗教家たちは違う。ひとの力である科学を享受しつつも、それをまっ向から否定する。愛を説いて右手を差し出すいっぽうで、左手にはナイフを握っているような連中だ。神は自殺など肯定していないのにもかかわらず補完計画を殉教と言って憚らない。ゆえに、その発言には多くの矛盾を含んでいる。案の定、石版たちは怒りを滲ませた声を次々と発した。
『我らはひとの形を捨ててまでエヴァと言う名の箱舟に乗ることはない』
『これは通過儀式なのだ。閉塞した人類が再生するための』
『滅びの宿命は新生の喜びでもある』
『神もひともすべての生命が死を持って、やがてひとつになるために』
二度の人類創造になぞらえて再構築されるときを待つ。今度こそ完璧な存在としてこの地に立てることを願って。そんな彼らの言葉にくだらないとゲンドウは溜息を漏らす。数千年にもおよぶ神秘への探求の答えがそれなのかと。やり直しなどできないのだ。ひとは死ねばそこで終わってしまうのだ。
「死はなにも生みませんよ」
最後に現実を突きつけた。もとより儀式を翻すつもりなどないのはわかっている。これは完全な決別の宣言だ。死にたければ勝手に死ねと、延命を繰り返す老人たちを嘲る。まさに老害だ。
『死は、きみたちに与えよう』
正面の石版がそう吐き捨てるとホログラムは一斉に姿を消した。最後まで自分たちのシナリオが完遂できると信じて疑っていない。もはやどちらの計画も破綻していることに気づいていなかった。いや、知ったところで認めはしないだろう。
「ひとは、生きてゆこうとするところにその存在がある。それが、自らエヴァに残った彼女の願いだからな」
冬月が呟いた。かつて激しく反対していた彼もセカンドインパクト後の惨状で医者のまねごとをしているときに真相を知らされ、信念を変えた。理想でひとは救えない。神は夢路や信仰、哲学の中ではなく現実に存在する。そう考えたのはユイに賛同すればこそだ。決して隣の男にではない。
「なんとしても初号機を守らねばならん」
そして、現実をようやく受け入れた男は遺志を守るべく誓いを口にする。アダムとリリスの融合による新たな神の創造と人類の継続も叶わない以上、ただひとり孤独な旅に出ようとする妻を見送ることだけが彼に残された道だ。冬月の目にはゲンドウの肩が落胆し哀愁を漂わせつつも荷を降ろし、どこか安堵しているように見えた。
「言葉が足りてないぞ。息子とレイも、だろう?」
苦笑を噛み殺して言ってやる。ここまでさんざん心労を味わったのだ。これくらい小突いてやらねば気が済まない。赤木親子の件もあるのだし、しばらくは楽しませてもらう。なにせ地獄は長く続くのだから。
けたたましい警報が発令所に鳴り響いている。正面の大型スクリーンはマギに対してクラッキングがおこなわれていることを示していた。想定されていたとおり、各国にある五台のマギが相手である。いかに本部がオリジナルであるとはいえ、彼我の戦力差は圧倒的に不利な状況だ。オペレータ席に緊張が走り、次々に状況を読みあげてはタスクを処理するもののいくらダミーを展開してもすぐさま回避され外壁に取りつかれてしまう。堅牢無比な城壁は竜虎相摶の攻防に、無数のヒビを作った。
「クソっ。使徒のほうがよっぽど優しかったよ」
マコトが吠えて端末を叩く。さすが人工知能なだけあって攻めかたがえげつない。第一防壁があとどれくらい維持できるのか不明だが、援護にまわるのは諦めて第二防壁への構築を急いだ。電算室でも同様の処理がおこなわれているはずだがまるで手が足りない。黒縁メガネがずれ落ちても直すのさえままならず汗を目に入れた。
「赤木博士のプロテクトはどうなってんだ。凌ぎきれないぞ!」
隣のシゲルは悲鳴に近い。こんなことなら髪を切っておけばよかったと、首筋に張りつく長髪が不快だ。こちらからも打って出たいところだがタスクを防御へまわしているためそれもままならない。散発的な攻撃を繰り返すのみである。回線を閉じてしまえば一箇所に集中するから分散させるほうが正解だとわかっててもあまりの苛烈さに切断したくなった。
「葛城さんっ!」
マコトは門外漢と知りながらうしろに立つ想いびとへ助けを求める。せめてマヤがいれば多少は違うのに、まだマギの中で作業中だ。振り向いて様子を窺うなど到底できない。まさに背水の陣であった。
そんな彼らが頼りにしているリツコは古いノート型端末のゲージが進捗しているのを眺めていた。情熱のピアニストを彷彿とさせる素早いタイピングもおこなわず、わずかな光にメガネを反射させてはほくそ笑む。もしオペレータのふたりに事実を伝えたら彼らはどれだけ安堵し、汗をぬぐうだろうか。だが教えるわけにはいかない。あくまでも必死に防御しているよう繕わなければならないのだ。いかにマギとて端末を操作するのが人間である以上、どうしてもミスは生じるし手数も必要である。そこを突かれて悪戦苦闘しているのは状況を見ずとも充分に察した。いわんや大型スクリーンに赤く表示される警告という視覚が加わればなおさら焦燥を生むものだ。それは裏を返せば相手側の余裕にも繋がる。造作もない、と思うだろう。こちらから送られる攻撃などなんの脅威にもならないと。それこそ旧時代の電話回線を介したマギ以外へのアクセスなど気にも留めないはずだ。
「マギだけがすべてではなくてよ」
赤木ナオコの娘ならば必ずマギで応戦するという先入観を逆手に取った、子供じみた方法である。ネルフと言えども、すべてのデジタル機器が最新というわけではない。その中には民生品のOSを搭載したものが多くあるし、携帯電話など独自OSも存在する。大半がオンラインであり、当然ながらセキュリティホールも残ったままが多い。なにもすべてを支配する必要はないのだ。ひとつでも探り当てて潜り込めればあとは勝手に内部から破壊してくれる。携帯ゲーム機から個人のパソコンへ、そこから汎用機器を経由してマギの小型端末へ。クラッキングを目的としたものではなく、負荷をかけるための処理だ。職員が持つ数万の端末すべてが相手になればさしものマギとて目を向けざるをえまい。
「現在、80パーセントが制圧されています」
隣でモニタしているマヤから報告があるが、その声は状況に比して落ち着きがあった。まさかこんな手が通じるとは驚きである。まっ赤に染まった勢力図だが、実際にはまったく制圧されていない。Bダナン型防壁を改良し、支部に存在しないゲヒルン時代のスーパーコンピュータをバックアップにして偽装されたステータスを返している。裏コードによるプログラミングの成果だ。
「まるでヒステリックな女ね」
「ヒステリック、ですか?」
マヤはリツコにきょとんとした顔を返す。コンピュータに女の感情を連想するのは非論理的である。好みの食事や服装を問うような益体のない思考だ。少なくともいまそのときではない。しかしリツコは説明した。
「そうよ。男を取られまいと昔の女を必死になって罵倒しているの。恥もプライドもかなぐり捨てて、自分のほうが優っていると泣き叫んでいる哀れな女」
「先輩からそんな言葉が出るなんて、意外です……」
リツコの横顔を見ながら返すがすぐさま手元のモニタに戻した。マギに女性の人格が移植されているのは知っているものの、たとえがおよそ先輩らしからぬ。そんな男女の愛憎など無縁で毅然とした姿こそふさわしい。俗な醜聞などあるわけがないと思っている。
「あら、私だって女よ? なにもかもが嫌になって感情のまますべてを壊してしまいたくなるときだってあるわ。昨日ならそうしていたかもしれないわね」
「そう、なんですか……?」
「あなたが私に特別な感情を抱いていることは知ってるわ。でもね、もう少し現実を見なさい」
「そんな……」
言葉を失って下唇を噛んだ。まさに振られた瞬間であるが、なにもいま言わなくてもと落胆する。潔癖主義なところをかつて指摘されたが、俗世に身を汚す意味がわからない。清く美しいと妄信していた上司の言葉がとても遠く感じる。いつかその背中に至れると邁進してきたこれまでが否定されたように思えて泣きたくなってきた。戦闘配置でなければトイレに駆け込んで号泣してたかもしれない。失恋と理想の崩壊を受けて、光のない瞳でモニタをただ眺める。そこにはウィルスの送信が完了したことを告げるポップアップが表示されていた。五人の女を陵辱するための無数の舌であり手であり、男根だった。
第三新東京市へ侵攻を開始した戦略自衛隊の幕僚部はいささか奇妙だと思っていた。ネルフ本部の中枢であるスーパーコンピュータは抑えたとの情報に基づき、大勢の兵科がいま各所で作戦を遂行している。さきんじてレーダーと監視カメラを破壊し、次いで兵装ビルや配備された兵器だ。管制を担うマギの陥落によってそれらはなんの被害も出さず速やかに完遂された。
しかし、あがってくる報告はどれも首をかしげる内容ばかりだ。曰く、兵器群には実弾が装填されておらず、そればかりか配置された戦車を始めとした火砲の大半がよく模したダミーや廃物であったと。いくら自動化が進んだ都市であるとはいえ、あまりにも敵兵の数が少ない。いや、ひとりとして接敵しなかったという。
軍隊に似た組織であっても所詮は素人の集団ゆえ戦闘を前に逃亡したのかとも一瞬だけ考えたが、どうにもおかしい。端から交戦する意図がないように見える。カートレインの坑道はあらかじめ破壊されていたし人員や物資を運搬するための出入り口も見事に粉砕されていた。通用口に至るまでフェノール樹脂が流し込まれている。それこそ鼠一匹すら入れないほどの封鎖だ。
相手は初めから篭城の構えであり、長期戦を覚悟しているというのはわかる。だが、その意図が見えない。政府からはサードインパクトを発生させないための作戦であると通達されているがネルフは地下施設でそれを起こすつもりなのか。直径13.75キロメートルの円形空間でなんらかの爆発が生じた場合どの程度の被害が出るのか想像がつかないものの、より広範囲に被害を与えるつもりならば地上のほうが適しているはずである。だからこそエヴァの射出口をまっさきに抑えたのだ。
だが、逆にこうも考えられる。どのような場所であっても充分な効果が得られるほどの火力を有していると。それがなんなのか見当もつかない。条約で禁止されている核兵器がもっとも可能性として高いが、ウランやプルトニウム、重水素化リチウムを保持しているなどという情報はない。ネルフと言えど、厳しい監視の目を掻いくぐってそれらを調達できたとは思えなかった。やはりエヴァによる未知の攻撃と考えるのが妥当である。
しかしそうなるとべつの疑問も生じた。なぜこのタイミングなのかと。使徒と呼ばれる謎の怪物と戦っていたのは知ってはいるものの、十日ほど前の大爆発以来とくに変化は報告されていない。ネルフからつぎに備えた特務権限の発動もないまま現在に至っている。仮に使徒の殲滅が完了したのなら今日を待たずしてサードインパクトが起こせたはずだ。準備が整っていなかったと考えるのは短慮にすぎる。
どうにも司令部からの情報には齟齬があるように思えた。以前より外圧の存在が噂されていたというのもあって、今回の作戦は自分たちが知らされていない裏の事情があるように感じる。航空隊へ作戦の移管がやけに早いのも疑問をさらに後押した。
現存する九百九十二個のうちおよそ半分のN2爆雷を中心部に投下する。天井都市の地盤は特殊装甲で守られているから一気に吹き飛ばす、という説明だったが明らかに過剰な火力だ。反政府組織への壊滅作戦。そこには非戦闘員の殺害のみならず、年端もいかない少年少女の排除まで含まれている。いくらパイロットとはいえ、どうにも性急だ。本来であれば拘束して裁判という流れになるはずである。
サードインパクトを阻止するためなら倫理など些事というのだろうか。それだけの力を持つエヴァを鹵獲して管理下に置き、他国に対して軍事的有利を手に入れる考えは微塵もないように思える。すべての存在を痕跡残さず消し去る意図が見えてこない。そもそもネルフがサードインパクトを起こすという根拠の出所はどこからなのか。近代日本の歴史上最大の虐殺になるであろう今回の作戦を裏づけた動機はなんなのだ。上意下達の組織において、真意を問うことはできない。
だが、幕僚部に黙考する時間はなかった。都市から部隊を撤収させている最中にN2爆雷が投下されたのだ。当然ながら部隊にも被害が出た。味方を巻き添えにしても悼むどころか構わないと言わんばかりに飛び去る爆撃機に次いでほどなくして現れたのは、見たこともない黒い飛行部隊である。
連絡も、国籍を識別するための標章もないためどこの所属なのかわからない。カスタマイズ化された超大型の全翼機は九機で、さながら巨大なカラスを彷彿とさせる。下部には白いなにかが取りつけられており、やがて投下されるとそれがエヴァであるのがわかった。翼を持つ巨人の手には身の丈以上の特殊な武器が握られている。槍のようであり、剣のようでありながら柄と先端の両方に刃がついているものだ。
それに、なにより驚いたのはその風貌である。頭部はつるりとしており目や鼻はなく、赤い大きな唇だけが存在感を放っていたのだ。あれは果たして本当に味方なのか。上空で旋回しながら不気味な鳴き声をあげる九体が、とても人類の側に立っているとは思えない。多くの隊員たちが得も言えぬ恐怖に顔を引きつらせた。
海鳥や鳶などとも違う異形の存在は獲物を探すようにぐるぐると輪を描いて少しずつ高度をさげる。N2爆雷による放熱が冷めるのを待機していた地上部隊は、ジオフロントへ下降する巨人の姿を見送るほかなかった。これから下でおこなわれるであろう戦いに通常の兵器ではなんら役に立ちはしない。さきんじて部隊が侵攻していれば援護もまた視野にあったが、いまとなっては羽虫程度の存在にしかならないのは明らかだ。きっと、これを投入した連中は隊員の存在など歯牙にもかけていない。ひとが足元を這う蟻に気を払わないのと同じで躊躇なく踏みつぶすだろう。
そして同時に思うのだ。ネルフが戦おうとしている相手はまさにこの嫌悪すべき巨人であると。この一戦のために町を放棄し、篭城の構えを見せた。サードインパクトを成すためか、それともそれ以外の目的があるのか。どちらにしても、最大の障害と見なしているのだ。事実、地上に降り立った白いエヴァに無数の攻撃が放たれている。雨のようにミサイルが着弾し、砲塔が轟音をあげて火を噴く。大小さまざまな兵器が効果の有無にかかわらず、ひたすら九体に打ちつけられていた。
あそこにいてはひとたまりもないのは偵察の映像でもはっきりと見て取れた。爆炎と閃光が空間に反響して箱根全体が轟いている。ひとの手を離れた戦いのゆく末がどうなるのか、待ち受けている結果が人類の終末にならないのをただ願うしかなかった。
ネルフ支部の発令所では焦燥と混乱の渦にあった。本部のマギを陥落させたと思った刹那、自分たちのマギが急激にパフォーマンスを低下させたのだ。なにが起こったのか職員は大慌てで原因を探って驚く。なんと、施設内にあるネットワークへ接続可能なすべての機器がマギへ膨大なタスクを要求していた。しかもそれだけではない。未知のコードが実行され、ほかの支部へクラッキングしようとしたのだ。すぐさま回線を遮断したもののマギ内に残ったウィルスは勢いを止めず、進化を繰り返して対応に手一杯な状況となった。圧倒的有利に進めていた攻略が一転、防戦にまわった瞬間である。
いったい、どのようなコードが侵食しているのか。マギを知り尽くしていると自負していた技術者たちは頭を抱えた。よもや本部の裏コードの存在や使徒と共生した過去に気づく者は皆無だ。これは本部が徹底して情報を秘匿したからだろうか、それともナオコの娘の真髄か、はたまた自分たちの慢心と油断か。
警報が悲鳴をあげ、合成音声によるアナウンスがマギ同士の衝突を告げる。本部と同じ三台のスーパーコンピュータは互いにクラッキングを仕掛けては捌く。技術者たちは舞台の主役から下ろされると観客へ転落した。
大勢の職員は施設の自爆という最悪の事態を想定し外へ逃げようとするものの、暴走したマギがそれを許すことはなかった。初めのうちこそ照明の不具合やドアの開閉に難がある程度だったが状況は刻々と悪化し、通信はもとより外部との接触が完全に途絶するまでになる。すべての窓に堅牢なシャッターが下ろされ、空調は停止した。エレベータは階の途中で止まり、水やガスも供給されない。武器庫や食料庫への入室も封じられ、自室に閉じ込められた者も多く現れた。
最後に照明が落ちると支部の中は暗闇に包まれる。それでも大型スクリーンだけは健在で、いまなおマギが牽制しあっている姿が映されていた。勝利を確信した高揚感は一気に恐怖へと塗り代わり、混沌が支配する。たとえ人的被害が皆無であっても支部長さえもが死を予感した。システムに殺される、と誰かが叫べば大勢が開かない扉へなだれ込んだ。消火器や手斧、机を投げつけて窓を割ろうとする者も多くいた。無論、その程度で突破できるほど柔な構造はしていない。本格的なテロには対処できずとも職員を幽閉するくらい造作もないのだ。
やがて戦慄に駆られた彼らの矛先が技術者へ向かうのも当然の流れであった。猜疑心に取り憑かれた罵りあいは喧嘩へと発展し、容易に他人を傷つける。一度放たれた火種は瞬く間に伝播し、些細なことから抗争へ転じた。怒りと焦燥は喉の渇きと空腹を覚えさせ、持たざる者が持つ者から略奪すればあとに残されるのは流血だけだ。
最終的に保安部の警告射撃で一応の収集はつくものの、ひとびとの心が決して晴れることはなく絶望と後悔、そしてすすり泣く声だけが支配する。暗く沈む支部内で床に座り込んだひとりがぽつりと口にした。人類補完委員会の言うとおりにしたらこのざまだ、と。自分たちは嵌められたと主張すれば、大勢が同意した。
そしてついに、うねりは造反という結論に辿り着くのだ。そんなときである。まるで図ったかのようにスクリーンが切り替わったのは。たったいままでマギの攻防で赤く染まっていたところに見慣れぬ文章が表示されている。怪訝な顔で誰もが注目している中でプレゼンテーションさながらに映し出されていたのは、人類補完計画の概要であった。
これはウィルスがしくんだバックドアによって本部から送信されたリツコの爆弾である。マギの監視がおよばない回線で逐一、カメラの映像を見ていたのだ。彼女すらも知らされていなかった最高機密の開示はゲンドウの指示によるものだった。当然ながらすべての支部に向けて、である。
これを見た各支部の職員がどのような反応を示すのか。信仰深い彼らが自殺を是としないのは火を見るより明らかである。下手な演説や私見など交えずとも自ずと答えを出すのに時間はいらない。まさにいま、生き残りたい一心で内乱を起こしていたのだ。
とある少女の好物にハンバーグという食べものがある。ステーキ料理の一種で、労働者の間でとても親しまれていたことから町の名が料理名の起源となった。その町は長大な川を上ったさきの港湾都市として栄え、やがてドイツ北部の中心地になる。町の中には何本もの運河と橋があり、水の都だ。白を基調としてオレンジ色や茶色、黄色や緑色などたいへん豊かな色彩を放つ建物の数々が特徴的で、街並みは中世を舞台にしたファンタジー映画を思わせた。
町としての歴史も古く、ヨーロッパに宗教文化をもたらす一助となったほどである。そのため、中世前期には象徴的な城塞が築かれたり多くの戦火に晒されたりしたこともあった。信仰と商業の中心地、それがハンブルクという都市である。
だが、いまやかつての面影はない。残されたのは墓標のように水面から頭を覗かせるビルだけだ。セカンドインパクトによる海面の上昇は、美しい教会も古城も、ルネサンスやバロックの沿革も根こそぎ奪い去ってしまったのである。そこに住むひとびとは追憶を抱いて海に没し、魚たちの楽園と化した。
しかし、郊外に位置する小高い丘の上は違う。100メートルを越す標高ゆえに世界規模の災害を免れた場所だ。周囲を海に囲まれ、広大な土地を占めるのはネルフのドイツ支部である。行政区分が違っていてもハンブルクを冠するのは在りし日の栄光と矜持ゆえか。支部の中でもひときわ風光明媚な場所であった。
孤島と呼ぶにふさわしい立地のため支部には多くの施設が存在している。本部さながらに自給自足ができるようさまざまなプラントを有し、貧困や略奪とは無縁の場所だ。初めて訪れた者は皆口々に地上の楽園だと言った。ここに勤める一万人近くの職員たちは外界の惨状とは対照的に我が世の春を謳歌している。そしてそれはほんの数分前までただしかったし、誰ひとり疑う者もいなかった。
ほかの支部同様、ここでも施設が牙を剥いていた。なまじ自分たちは絶対に安全だと確信していたがゆえ、神話が崩壊した衝撃は計り知れない。暴動によって怪我人を多く出し、ついには死者まで出る有様だった。そこへ人類補完計画の概要が開示されれば混乱の境地である。初めこそ虚偽だと疑ったがスクリーンの表示が切り替わるにつれ見る見る表情を翻し、絶望した。皆一様に膝を突き、悔恨の涙を流しながら祈る。建造したエヴァシリーズは混沌とした世界を治めるためのものだと聞いていたのに、よもや世界に破滅をもたらすものであったなどいったい誰に想像できようか。もう止める手段はない。ほかの支部もあわせた九体は死を告げるカラスとともに飛び去ってしまったのだ。
本部でどのようなことが起こるのか具体的にはわからない。しかし一方的な戦いになるのは明白だ。概要のとおりならば少年少女たちを人身御供として儀式はおこなわれるだろう。もう無駄だ、すべて終わったと理解していながら、それでも万が一にも子供らが勝利してくれることを神に願った。生きるための明日を欲したのである。
そんな支部の直下、大深度ではまったく逆の祈りが捧げられていた。生ける人類を死に導き、悠久の時の果てに栄光の楽園へ迎え給えと。
広さは第三新東京市のジオフロントと比べるべくもないが、それでもこの時代の建築物としては大きく、また異様な構造をしていた。ピラミッドを逆さまにした四角錐で内部は吹き抜けだ。したがって実際に施設として利用可能なのは壁面だけである。実用性にいささか難がありそうでもここの住民たちにとっては吹き抜けの形が大事だった。なぜなら彼らが信奉する組織の標章を模しているからだ。
住民たちはあますことなく熱心な信者である。数千人の男女が寝食をともにしているが生活は禁欲的であり、食事も質素だ。彼らは一日の大半を祈りに費やしていた。中には肉体的苦行をする者もいる。この施設に入れば生涯出るのは叶わないが、誰ひとり抜け出そうと考える者はいない。世界の表にいっさいの姿を見せない組織なれども、末端の組織には救いを求める者が多く押し寄せており、信心によって栄誉ある総本山へ迎えられるのである。
さて、そんな施設の中でも一番深く、それでいて頂点を意味する一室では十二人の男が円卓を囲み座していた。太古より存在する世界の暗部であり、あらゆる信仰の起源を自負する者たちだ。黒一色の部屋には一点、逆三角形の中に七つの目が描かれた意匠の標章がある。それは七つの大罪を監視し管理する七つの霊を意味した。同時に、地上における神の代理人であり、あらゆる富と権力、知恵の象徴でもある。各地のネルフ支部長はもとより、ゲンドウさえ本拠地を知らない真の秘密結社。それがゼーレであった。
「愚かな……」
ひとりの男がモニタを見て呟く。肉体の多くを機械に置き換えることで百年以上を生きる最長老だ。巌のような体躯に白髪を撫でつけ目元は機械的なバイザーで視力を補っている。文字どおりの最高権力者である彼の目には各地の支部の様子が映っていた。マギを介さない専用の回線によって混乱の様子が手に取るようにわかる。
「嘆かわしいですな」
べつの男が続いた。同時にほかの者たちから溜息が聞こえ、多くが首を振る。このような無用な混乱を避けるため今日までひた隠しにしてきたというのに、なぜ公開するような愚を犯す。最後のときこそ安らかであれという慈悲がまるで届いていない。
「所詮は下賎の民。黄色い猿に踊らされおって……」
さらにべつの男だ。出生率の低下を隠蔽するため疫病を蔓延させ、紛争を起こさせた。多くの血が流れても結果的により大勢の人間を導ければと、身を切るような想いでおこなってきたというのに度し難い蛮行だ。
「このようなことになんの意味がある」
もうひとりの男も落胆している。間もなく儀式は成就のときを迎えるにもかかわらず、まるでその後があるかのような抵抗だ。なにも残らないし、残してはいけない。これほどまでに罪深い人間なればこそ新生の必要がある。
「最後の供物が乙女とともに捧げられる。もう誰にも止めることはできぬぞ、碇」
最長老は締めくくった。アダムより生まれ、ひとの罪を背負った忌まわしき存在なれども福音をもたらす天使たち。あとは神の子羊を磔刑とすれば贖罪だ。聖痕を刻み、罰すればよい。すべては予定どおりであり、なにひとつとして順調だ。槍の喪失もいずれ解決するであろう。あらゆる奇跡は神の導きであり、御心である。長老たちは目前に迫ったそのときを疑うことなくモニタを見詰めていた。
N2爆雷がジオフロントの天井都市を穿つ十数分前、シンジたちはまだ食堂にいた。他愛もない雑談に興じている最中に突如として警報が鳴り響き、すぐさま携帯に着信がある。一番早く出たのはアスカで、相手はミサトからだった。曰く、ストレッチでもしてゆっくり着替えてからエヴァに搭乗しろという指示である。多少のからかいが出るほどの余裕を見せて一方的に切られてしまうが、それに納得しないのが彼女だ。
「ゆっくりしてけって、ひとんちにお邪魔してんのとは違うのよっ」
音が出そうなくらいに勢いよくスウェットのポケットへ携帯をしまうと、どっかり椅子に腰を落として腕を組む。彼女はもとより、シンジもレイも作戦は把握しているのでなんら慌てる心配はないと宥めるが、口をへの字に曲げたままだ。だいぶ前に食器をさげたというのもあって調理場を始めとした食堂には彼ら以外誰もいないから余計に気持ちを急がせる。ついには使っているテーブルを除いて照明まで落ちれば完全に取り残された気分だ。
アスカは椅子の座り心地が悪いとばかりに立ちあがっては右に左にうろうろ歩くが、我慢の限界を超えてエヴァに乗り込むと息巻いた。もちろんシンジらも先行させるつもりはないので彼女のあとを追うわけだが、エレベータに乗っても落ち着きなくしている。ドアの前に陣取って、ふたりに背を向けながらインターフェイスヘッドセットを弄ったり天井に両手を突き出したりと忙しい。両脚を肩幅に開き、ドアが開きしだいすぐさま駆け出す競走馬もかくやと言わんばかりの意気込みだ。
「緊張しているわ」
そんな彼女の背中をじっと見詰めながら隣のシンジと手を繋いでいるのはレイである。ぽつりとした呟きも届かずアスカはしきりに髪を弄っていた。レイもシンジも緊張しているのは同じだが恋人とタンデムするというのはこの上ない心強さだ。この戦いさえ終われば、と決意を新たにするがそれにはやはりアスカの力が頼りである。彼女を欠いては勝利が掴めないのだ。そこでレイは一計を案じてシンジに目配せすると手で合図した。彼はいくらなんでもそれはまずかろうと思うものの代案が出てこない。きっと声をかけても緊張をほぐすのは難しいと納得して、頷いた。隙だらけのアスカにシンジは脇腹を、レイは胸を同時に揉むのだ。
「ひぁんっ!」
血気に逸っていたアスカはよもや背面から友軍相撃を受けるなどと思いもよらず、自身でも驚くほど乙女チックな悲鳴をあげた。肩をびくりと跳ねさせ振り向くと両手で胸を隠して赤面するのだ。腰も微妙に引けていて、下唇を噛みながら恥辱に涙を浮かべた。ノーブラだったのが悪いのか、それともさきほどのシミュレーションで少し敏感になっていたのがいけないのか。某所をきゅっと摘まれたのが絶妙だったとは言えない。
「いや、これはアスカが緊張しているからって、綾波の助言を受けて……その……」
慌てて弁明するシンジだが、涙目のアスカは激昂せずに低く唸っている。ちょうど折りよくドアが開けば脱兎のごとく駆け出しては振り返りまた唸った。下唇をわなわなと震わせ照れとも怒りともつかない赤面だ。
「あ、あとで責任取ってもらうんだからぁ」
それだけを言い残し足早に去ってゆく。完全に誤解されたと思ったシンジであるが、もう彼女の姿は見えない。戦いのあと平手打ちのひとつくらいは覚悟しようと落胆しつつ隣のレイにどうして胸を揉んだのかと尋ねた。
「大きさが気になったから」
もしかして対抗意識でも燃やしているのかと彼は首をかしげて通路を進んだ。本当は円陣でも組んで鼓舞しようと考えていたが、案外こういったことのほうがいいのかもしれないと更衣室に入るのである。
それからしばらくして、全裸でエントリープラグに座るアスカは両脚をもじもじ摺りあわせると唇を尖らせた。くすぐらせてしまうほどふたりを心配させたのは悪いと思い、また同時に少しばかりリラックスできた気遣いへ感謝を送る。
「ったく、なんてことしてくれんのよ」
頭を振ってブリーフィングで言われた話を思い返す。エヴァシリーズはおそらく弐号機をターゲットに絞って攻撃してくるだろう、と。いかに訓練を受けてきたとはいえ、さしものアスカも重圧を感じずにはいられなかった。一体ずつ戦闘不能にしたら、初号機がトドメを刺す。あとはその繰り返しだと口の中で唱えても気は晴れない。
「やっぱ、ちゃんと告白しておけばよかったなぁ……」
つい弱音を吐いてしまう。あれだけ積極的なこと言っていれば告白しているのと同じだろうに、どうして気づかないのか。学校では少し目があっただけで勘違いする男子がいたくらいだ。笑顔なんて見せようものならラブレターが馬鹿みたいに送られてくる。ところが肝心のシンジはまるで気づいた素振りを見せないのはいくらなんでも鈍感すぎる。あんな行為までしたのになんとも思われてなかったら哀しい。からかっていると思われているのか。いや、期待したくないのだ。もし違ったら傷つくから好意を受け止められないのだろう。きっとそうに違いない。
「でも……言えない、か」
食堂での雑談やいままでの日常がとても昔に感じた。喧嘩もしたけど、楽しかった共同生活。苦い想い出のファーストキスと、本物のキス。手に触れて、肌を感じて温かかったシンジ。残念ながらレイと恋仲になってしまったけど、誰よりも大切な想いびと。彼女の家で食べたカレーうどんはおしかったし、三人で寝たのも心地よかった。
「ダメよ、あたし。集中しないと」
初恋は実らないという日本のジンクスを思い出して悲嘆に暮れてはいけない。過去をあれこれ考えてしまうのは悪い前兆だと映画やアニメで言っていたし前向きに考えるのだ。大丈夫、死亡フラグは立っていないと言い聞かせて目を閉じるととっておきの言葉を唱える。
「LCL Füllung...」
いつの間にか日本語で起動させるのが癖になっていたが、やはり最後こそ母国語がふさわしい。足元から迫りあがるオレンジ色の液体を肌で感じる。足首、脹脛、太ももと続き、腰や胸、最後は頭のてっぺんまで覆われた。肺の中を液体で満たすとひと息ついて起動準備を続ける。懐かしささえ覚えるドイツ語の響きがどことなく呪文のようだと思うのは、この土地に馴染んだ証拠だろうか。母とともに戦うのにこれほど適した言葉はない。エントリープラグの壁面が虹色に光りシンクロ開始を告げると母との一体感を覚えた。匂いや触感とも違い、概念的なものを知覚するのだ。見えないし聞こえないのにそこにいると気配でわかるのだから不思議である。まさにオカルトの世界であるが怖いなどとは微塵も思わない。シンジとは違った温かさと安らぎがあるだけだ。
「ママ、成長した娘の戦いっぷりを見せてあげるわ」
これはさしずめ授業参観か、運動会か。母は頷いたようであり笑ったようでもある。残念ながら明確な感情や表情まではわからないけれど、決して独白ではない。口も滑らかになるというものだ。
「あたしはたぶん……ムリかな。だいたいセカンドチルドレンなんてネーミングがよくないのよ。第二婦人みたいで失礼しちゃうわ。まぁ一応、一夫多妻の国とか調べたけど、アイツ絶対に日本から出ないわね」
こうして人類存亡の危機に背中を預けて戦えるだけでも一生の宝だ。恋人になれなくても、どんなに遠く離れていても、決して消えない大切な絆。いつか死ぬそのときまで彼を想い続けられるだろう。
「それはそうと、ホントに裸一貫ってヤツね」
母を強く感じるのは喜ばしいが、今回ばっかりはそれが仇になるともミサトから告げられている。いまのアスカはいわば鎧を脱いで運動性能を高めているのに等しい状態だ。少しでも勝率をあげるため守りを捨てての攻撃態勢は彼女が志願してのものだが、高すぎるシンクロ率はフィードバックにも大きく影響する。ゆえに、少しの損害でも致命傷になりえた。エヴァの装甲を突破されたら危険だ。それにプラグスーツがないということはAEDを始めとした生命維持機構のバックアップが得られないことでもある。まさに全裸で戦うのと同じ状況であった。
『やあ、諸君。頼れるミサト先生よ』
そこへ発令所のミサトから通信が入る。同時にプラグ内の壁面が外の映像へ切り替わった。ついいましがたあった強い振動からもわかるように、ジオフロントの天井が破壊され青空が覗いている。あれではミサトの自宅は完全に消滅しただろうしレイのマンションもどうなったか怪しい。
『ご覧のとおり、とても見晴らしがよくなったわけだけど、もう少ししたらエヴァシリーズがやってくるでしょうね。降りたら砲撃ぶち込むから、弱点でも癖でもとにかく観察して』
ATフィールドを備えたエヴァ相手に威力偵察がどれだけの成果をあげるのか未知数だがまったく情報がないよりはありがたい。ブリーフィングで聞いていたとおりなのでアスカも、そして同じ通信を聞いているシンジたちも口を挟まなかった。
いくつかのやり取りを終えると映像が第三新東京市の上空に切り替わる。白いエヴァが奇声をあげて旋回していた。背中に巨大な羽と手には謎の武器。そして顔は爬虫類とも魚類ともつかない異形だ。アスカはぱっくりと開かれた赤い唇に自分の身体が啄ばまれるような錯覚を覚えて手を握り締める。勝つ、生き残る、母が見守っているのだから怖くないと呪文のように呟いた。
いっぽうこちらは初号機に搭乗しているシンジたちである。大地に降り立ち、無数の砲火を受けるエヴァシリーズを見て彼は嫌悪感を露にした。生命への冒涜を感じる。
「なんだあれ……使徒より気味悪いよ」
「とても不快ね」
レイがうしろで応じた。量産型なだけあって全体的にスッキリとしたフォルムをしているが、白と黒のカラーリングが葬儀を連想させるし皮膚のない素体が首から赤く丸見えなのも妙に強調されて不気味だ。
「動きがおかしいね……リツコさんのウィルスってやつが効いてるのかな」
ただでさえ奇怪な外見なのに、その動きは酷く歪だった。脚をあげる動作、振り向く動作とどれも引っかかるように痙攣して遅い。支部のマギをクラッキングしたことで停止と実行の信号がせめぎあうように送信されているためだった。
「あまり長くは持たないと言ってたわ」
支部が復旧してしまえば動きも元に戻ってしまう。十数分か、数分くらいしか抑えられないからその間にケリをつける必要があった。
「暴走だけはしないようにしないと……」
「ええ、弐号機まで巻き込んでしまう可能性があるもの」
なにからなにまで不安しかない状況でたった二機の戦力。さいわいシンクロに工夫を凝らすことで二人羽織のような動きからかなり改善され、走るや跳ぶといった動作も可能になった。それでもアスカより大きく遅れを取るのは間違いない。孤立は確実に敗北を招くのだ。果たしてどこまで抗えるのか。
「大丈夫だよ、大丈夫。シミュレーションどおりにやればいい」
自分に言い聞かせるようにシンジが繰り返すのを聞いて、レイも頷いた。残念ながら座席の構造上、彼が振り向いてくれることはないが少しだけ安心する。ここにいてよかった、この選択は間違いではないのだと改めて感じた。ミサトから補完計画の全容を聞かされたとき、かつてない不安と孤独を覚えた。彼が部屋に来る直前まで胸に去来していた無への回帰の理由を知って納得すると同時に、恐れたのだ。だからこそ出自など関係ない、これからを一緒に生きようとシンジに言われてどれだけ救われたか。
しかしいっぽうで、どうしてもぬぐえない想いがあった。それはゲンドウがどう考えているのか、という疑問だ。裏切り、離反したことへ怒りはないのだろうか。いつ殺されてもおかしくはなかったはずなのに、どうして閑却したのかわからない。あれから一度も食事に誘われていないし、名前すら呼ばれていなかった。自分から背を向けておいて痼のように胸の奥に残っている。後戻りできないからこそ、せめてもっとしっかりと話をすべきではなかったのかと腰が落ち着かない。そこへ通信が入る。声の相手はまさにそのゲンドウであった。
『シンジ、レイ……やるからには勝て。それだけだ』
シンジもレイもよもやそんなことを言われるとは思っていなかっただけに、咄嗟の返事が出ない。いままでの出撃で一度もなかったのだ。とくに彼は口をぱくぱくと開閉して言葉を捜している。だが、彼女は通話が切られる前に声を発していた。
「あのっ、司令。碇司令……」
レイは自分がなにを言おうとしたのか、すぐにはわからなかった。ひとならざる身でありながら、ひとのように育ててくれたゲンドウ。会話は決して多くなかったし愛情らしいものも感じなかった。それでもいま思えば彼なりに精一杯接してくれていたような気がする。何着かの服を与えられ子供用の絵本やぬいぐるみなども少ないながらにもらった。あのマンションだって、ひとのいないところ、静かな場所と希望したとおりだし、必要な家具を買うように言われたのに揃えなかったのは自分だ。ある日〝済まない〟と呟いていたときもあった。あれは中学に入る直前だったか。
『どうした、レイ』
そこで彼女はようやく気づくのだ。血縁こそないものの、ゲンドウはまぎれもなく育ての親であったと。心を持たない人形同然の自分に、彼はたしかにひとらしく応じてくれた。三人目となってシンジと逢瀬しなければ、この通信を聞かなければきっと気づかなかっただろう。けれど、知ってしまった。間違いかもしれないけれど、ゲンドウの心をほんの少しだけわかった気がした。言わなければいけない。これまでの自分を伝えなければいけないのだ。
「ありがとう、ございます」
頑張ります、もしくは了解。それが普通だろうに、なぜ感謝の言葉を述べたのか。相手も困惑しているのだろうと彼女は感じた。多くの感情と行動が定着したいまでもこうして現状にそぐわない言動をしばしばしてしまうから変に思われているかもしれない。言い直すべきか考えていると、最後の通信が発せられる。
『そうか……』
どことなく声に張りがないように感じたのは思いすごしか。レイが弛緩して座席に身を沈めるのとシンジの吐息が聞こえるのは同時だった。すぐさま足元からオレンジ色のLCLが迫りあがってくる。リリスの体液であり、原初の地球を満たしていた海水だ。間もなくシンクロが始まり、出撃になる。レイも当然、生還するつもりだ。そして無事に帰ったらもう一度ゲンドウと向きあおう。そう思いながら操縦桿を握り締めた。