第弐拾伍話、午後 I

射出されたアスカはとても奇妙な景色に感じていた。それはやはりジオフロントの天井が消えて日光が燦々と降り注いでいたからだ。地下よりもこのほうが当たり前で自然なのに、いつの間にか慣れが不自然さを許容していたことになる。ただし、群れる白いエヴァシリーズは明らかな異物だ。

シンジたちの乗る初号機が少し離れたところへ射出されたのを視界の隅に捉え、エヴァの全高より長さのあるソニックグレイブ(薙刀)を握り締めた。射出を指示したミサトのタイミングは完璧で、エヴァシリーズが散っている中でもはぐれている一体がすぐ傍だ。

三倍どころか四倍以上もある圧倒的に不利な兵力の差をどう覆すか。寡戦(かせん)の歴史は枚挙に(いとま)がないが、多くは地形や援軍に助けられた上での勝利だ。白いエヴァを見れば全身のシルエットは洗練されている。動きは向こうのほうが素早いか。いま収納されている背中の翼は広げるまでのタイムラグがあるだろうから飛び立つ前の予備動作を見逃してはならない。手に持つ諸刃の剣が見た目どおりの性能でないのはミサトからの注意がなくてもわかる。なにせATフィールドを備えたエヴァ同士の戦いなら、おそらくロンギヌスの槍に似た効果を持っているだろう。まともに打ちあってしまえば数で圧されるのは明白だ。

「行くわよ、アスカ」

顎を引き、三白眼となって静かに呟くとケーブルをパージする。瞬間、内部電源に切り替わるがそのときはすでに走り出していた。止まってはいけない。とにかく勢いが大事だと全力で駆ければ大地は砲弾を受けたように爆ぜ、飛び立つ鳥が見える。

一番近くにいた敵機は多数の砲火が煩わしいと思っているのかダメージを受けていないにもかかわらず戦車を踏みつぶしており、急接近する弐号機の存在に気づいていない。仲間からの連絡があったのか、肩越しにぎこちなく振り返ろうとしたときには彼女の刃が横薙ぎに首を撥ねていた。

Erste(ひとつ)...」

鮮血を拭きあげる白いエヴァの横をすり抜けながら、まずは一機とカウントする。あっけない、とは思わなかった。あくまでも彼我の位置が最適であり、気づかれなかっただけだ。油断なく駆けた勢いを殺さずに跳躍すると、少し離れたところの敵機が片手に剣を構えようとしている。

「だぁぁっ!!」

裂帛の気合で上段から槍を振るえば落下の力も加わって相手の肩口を縦に切り裂いた。片腕を武器とともに吹き飛ばすが、そこで終わらず半回転して振り向きざまに両脚を薙ぐ。来た方向へ視界を変えれば初号機が手にしたナイフで敵機を刺していた。最初に首を撥ねた相手だ。ミサトの指示どおり、コアを破壊しようとしている。ばちばちと火花をあげる胸元に苦しみがあるのか、がくがくと壊れたロボットのように相手は腕を伸ばして初号機を掴もうとするものの、しばらくすると完全に動きを止めた。いまの動きを見るにやはり首を撥ねた程度では安心できないようだと悟る。戦いの基本は確実に殺すことだ。それこそ映画のように倒したはずの相手から反撃があってはたまらない。

「シンジっ。つぎはこっちよ!」
『了解っ』

シンジの声を受けて剛気が増す。片腕と両脚を斬った敵機がもんどりを打って倒れても確認せず、すぐさまその場を離脱して予定していたポイントへ走り出した。こうやって一箇所に留まらず動きの鈍い相手をかく乱し、シンジたちにトドメを刺してもらうのだ。熱くならずに視野を広く取ってヒットアンドアウェイ戦法を繰り返すだけでいい。相手がどんなにぎこちない動きでも支部のマギが制御を取り戻せば一気に加速する可能性がある。刃を受け止めるようなまねはせず、体表を撫で斬りしてまわるのだ。

「チッ、浅いか」

すれ違いざまにべつの敵機の胴を薙いだが体勢を崩すまでには至らない。追撃したい衝動を堪えてそのまま走り抜けると森の中に隠された電源ユニットからケーブルを接続する。膝を突いて少しでも身を低くするのは飛び道具への警戒だ。内部バッテリーが外部給電に切り替わったのを確認すると、青い瞳を左右に動かして相手の位置をたしかめた。モニタ上にもおおまかな位置が表示されているがレーダー類が破壊されてしまったため正確性に欠ける。

「あと七体……はぐれてるのは、アイツね」

初号機がさきほどの一体にまたトドメを刺しているのをカウントして呟く。胴を浅く薙いだ一体を相手させるわけにはいかないのでつぎの獲物が必要だ。ターゲットに絞った敵機は本部を破壊しようとしているらしく、ゾンビのような足取りで向かっている。こちらに背を向けて、隙だらけだ。ほかの敵とも距離があるので一気に切り伏せてしまおう。

そう決めるや否やまたもケーブルをパージしてクラウチングスタートを切った。ぎゅんと風景がうしろへ流れてぐんぐん距離が縮まる。白い背中に気づいた様子はない。武器は電源ユニットの脇に隠されていた刃の短い片手剣に持ち替えてある。猫背ぎみの相手だから首を撥ねるのは難しいので一度転倒させてからしあげるのがベストだ。

だがそこで、アスカは微妙な違和感を察知した。あと一秒かそこらの距離なのになぜなんの反応も示さないのか。走る振動だってあるし、ほかの敵機からも警告があるはずだ。

罠だと考えるより早く彼女は横へ飛びながら空中で身を捩る。相手の剣が左の太ももを掠めたのは同時だった。投擲してきたのだ。赤い装甲越しに素体へ衝撃が伝わり、それはパイロットにもおよぶ。

「痛っ」

左手と両脚の三点で着地したが痛みで力が入らない。さっと太ももを見れば素肌に赤い打撲痕がある。思っていた以上の強い痛みに首筋が寒くなった。一万二千枚の特殊装甲があっても剣道で小手を打たれたようなものだ。もし気づくのが少しでも遅れていれば確実に太ももは抉られていただろう。

「やってくれるわね……」

視界のさきに五体の敵機が立っている。まだ距離はあるが同時に投擲されれば危険だ。そう考えている視界の隅では狙っていた敵機が剣を振りかぶっていた。相手にしてみたら首を差し出しているように見えたかもしれない。しかし、アスカにとっても胴ががら空きなのだ。

「胴ぉぉっ!」

もし相手の動きに引っかかりがなかったら腕に斬撃を受けていたかもしれない。右足を踏み込み、居合さながら横一文字に斬ってそう思った。白い脇腹が裂け、血しぶきとともに身体を横へ倒す敵機の内臓が見えても深追いは禁物だ。第二の投擲が来る前にすぐさま離脱する。病院の裏を走り、本部の陰に隠れて給電した。太ももの損害は弾けた装甲だけだ。

『つぎは十時の方向よ、碇くんっ』

レイの声が聞こえる。いま二体目が沈黙したのだろうと察した。居合斬りした三体目に向かおうとしているのがモニタの光点でわかる。だが、彼らのゆく手には二体だ。ここで止まってはいけない、とアスカは電源をパージして本部のピラミッドを駆けあがった。少しでも止まれば気持ちが萎えてしまいそうになる。本部の天井が抜けるかもしれないなどとは考えず頂点まで登りきり、開けた視界を一瞬で収めると駆け降りながら跳躍した。

「どりゃぁあぁっ!」

眼下の敵機に目がけて着地と同時に片手剣を振り下ろせば袈裟斬りに刃がとおった。すぐ隣には胴を狙ってくるべつの敵機だ。強度が充分あるのを願ってアスカはそれを剣の刃で受けるが、相手の勢いに押されて身体が仰け反った。どん、と背中になにかが当たる。袈裟斬りした敵機だ。さっさと倒れればいいものを、まだもたついてるから退路を絶たれてしまった。

『アスカっ!』
「いいから!」

すぐ近くを初号機が走ってるが援護はいらない。機動性を取ってナイフしか持たない彼では打ちあうことすらできないのだ。ゆえに、内臓をぶちまけた死に損ないをさきに始末してもらう。

うしろへ消える初号機、そして眼前に迫る相手の姿。片足を踏み込んで腰の入った一撃を繰り出そうと大剣が唸りをあげている。そうはさせじとアスカは後転の要領で倒れかかっている背中の敵機に乗りあげた。ぶん、と尻に大剣の風圧を感じた気がして肛門が締まる。

着地はカンフー映画のようにうまくはいかない。バランスを崩すと地面に尻餅をついた。そこへ振りかぶった一刀が打ち下ろされる。寸前のところで横へ転がって回避だ。二転、三転と大地を転がり四つん這いになるが武器を手放してしまう。近くに落ちている相手の剣を手にするものの、かなりの重量がある。それでも贅沢は言えず眼前にかざせば肩に衝撃が生じた。受けきれなかった相手の剣が装甲を弾く。

「くっ!」

武器も相手の腕力も重く、ぐいぐい圧される。だがエヴァシリーズの復調はまだだ。力は一定ではなく、時折ふっと緩まる瞬間があった。それを逃がす手はない。不利な体勢で無理に押し返そうとはせず、刃を寝かせて斜めにすると相手の力をいなす。たたらを踏んで前脚重心になった瞬間を狙って足払いを敢行した。

「っつうぅ!」

この攻撃は失敗だったと呻いて後悔する。高すぎるシンクロ率とプラグスーツの補助なしが、生身で電柱を蹴るのと変わらないフィードバックをもたらした。さいわいにも足の甲であり装甲も分厚いため骨折には至らなかったが、もっと慎重にならなければいけない。ともかくいまは距離を稼ぐべきだと判断して立ちあがると、視界が開けている方向へ走る。

Ruhig(冷静に)...Ruhig(冷静に)...」

母国語を繰り返す。痛みが熱くなった頭を少しだけ冷やしたが、思うようには脚へ力が入らず転倒してしまう。地面の岩や凹凸が装甲越しに膝や手のひらへと伝わった。まだだ、まだ数を減らしていない。唇を噛んで立ちあがると近場の給電ポイントを目指す。モニタを見れば追って来る敵機の数は二体だ。連携がそれほどうまくいっていないのは緩慢な動きからもわかるがまったく安堵できない。

『三体目やったよ!』

シンジの高揚した声を耳にしつつ浅い湖をざぶざぶと進む。身体中が熱いのに水の冷たさを感じないのが不満だがそうは言ってられない。内蔵バッテリーが一分を切ったとき、ミサトの叫ぶ声が聞こえたのだ。アスカは方向をたしかめず直感で振り向きざまに手のひらをかざした。強い壁をイメージすればATフィールドの発現だ。オレンジ色をした光の防御幕は、いままさに投擲された剣を空中で受け止めている。しかし、やはりただの剣ではなかったようだ。

「くっ……槍に変形!?」

剣は瞬く間に赤いロンギヌスの槍へ姿を変えると一瞬でATフィールドを突破し、なんら勢いを衰えさせないまま飛来する。高さ的に狙われたのは腹部だ。もしこの状況を予測していなければここで終わっていたかもしれない。アスカは顔を引きつらせつつもなんとか身を捩って直撃を免れた。だが、特殊な槍は赤い装甲など存在しないかのような殺傷力を持ち脇腹の素体を易々と切り裂く。

「があぁっ!」

焼けつくような痛みが彼女に走る。それでも身体を叱咤して(きびす)を返すと湖の対岸へ行き、そのさきの森に入った。こんもりと丘になった地形の裏で素早く身を屈める。LCLに溶けてはいても額と首筋にとんでもない量の汗をかいているのがわかった。じっとしているぶんにはそこまで痛みもない。脳内のアドレナリンか、それとも事前に服用した鎮痛剤か。いや、感覚が麻痺しているだけだろう。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

肩で息をしながら電源を接続すると、走ってきた方面を睨む。膝も手も震えて、まともな思考ができない。脇腹を一瞬だけ見れば臍から横に赤い線が長く走っており、黒煙のようにもくもくと血が滲んでくる。LCLには止血の効果もあると聞いたから、どうにか止まってくれることを願うばかりだ。

「まずいわね……」

そう呟いたのは発令所のミサトだった。初号機は三機目を撃破してつぎへ向かっているところだが、いっぽうの弐号機は追い込まれつつある。ミサトだけカラーで表示されたモニタを見ているが、アスカの負傷は決して浅くはないし打撲も動きにためらいを生じさせるだろう。機動力を生かした紙一重の戦いでそれは致命的だ。援護の弾幕を放ってはいるものの、パイロットたちの視界を塞ぐことにもなる。撤退戦ならともかく離れた敵機にかく乱幕を放つのがせいぜいで混戦となりつつある戦局であまり効果的とはいえない。ダミーバルーンの展開も邪魔なだけだ。さいわいにも地上の町から増援の気配はないが、支援が限られているだけに歯がゆかった。

「E4をB9にまわして。A7に間接砲撃」

相手はS2機関搭載型だが、こちらは有線だ。給電が途絶えないよう無人の電源供給車を手配するのが関の山である。それも敵機の攻撃により数はかなり少ない。すでに何本ものケーブルが絶たれ、予備も心許ないからジリ貧になるが見えている。

シンジたちはなにも言わず粛々としあげをしているが実際のところアスカに追従するのがやっとであろう。それくらい彼女は先行していた。バイタルを見てもかなり焦燥しているのがわかる。気づいているのだ。送り込んだウィルスが効果を弱め、少しずつ支部のマギが制御を取り戻していることに。さきほど投擲された剣の軌道は正確だった。完璧ではなくとも、当たれば充分に致命傷となるような軌跡を描いていたのは当事者のアスカが一番よくわかっているだろう。だから短期決戦に持ち込もうとしているのだ。

「シンクロもバラバラね……」

シミュレーションのときに見せた二機の見事なユニゾンはもう見られない。シンクロ率そのものは高く維持しているのだが、シンジたちの初号機とは振幅がまるで違う。あれだけ苛烈なシミュレーションをやり遂げてはいてもやはり実戦、しかも時間制限までつくとなれば違うのも道理だ。シンジやレイはともかく、ひとりの彼女はどれほど心細いか。そしてそんな自分を叱咤するようにアスカはますます前へ出ようとする。

「アスカっ、さがりなさい!」

思わず語気を荒げた。いましがた五体目の敵機を斬り伏せたところだが、べつの機体から放たれた横薙ぎの一撃を腕に受けたのだ。防御した左腕は裂傷に加え骨折するほどのダメージを負ったに違いない。右の太ももにも大きな裂傷があり、装甲が何箇所も失われているまさに満身創痍だ。プラグスーツを着ていない姿を目にしているから余計に痛々しさが伝わってくる。目を見開き、肩で息を繰り返して歯を食い縛っているのが見てられない。緒戦(しょせん)こそ気丈に振る舞っていたが、いまは必死だ。華麗に戦ったかつての姿はなく、地を這ってはなんとか距離を取って逃げに転じている。まさに、生にしがみつくひとの執念がそこにはあった。

「シンジ君、アスカが体勢を整えるまで堪えて」
『は、はいっ!』

アスカの退路を確保するため割って入った初号機が二機を相手に奮戦している。片方の敵機は手負いで、もう片方の敵機は無手だがタンデムのシンクロでは捌くので精一杯だろう。動きからしてレイが格闘をメインに動かしているようだ。とくにそのようなことを窺わせる応答はなかったが、やはり恋仲ともなれば阿吽の呼吸なのか。

「綾波っ」

そのシンジとレイである。二体を同時に相手取るのは荷が重かった。ミサトの推察どおり、格闘戦は長い訓練経験のあるレイが操縦の主権を握っている。シンジは索敵と力の補助だ。片手にはナイフしか握られていないため巨大な刃と打ちあうことなくべつの敵機を盾にして捌いていた。僚機がどうなろうと構わないようで、無傷だった目の前の敵機は仲間の斬撃によって前腕を失い、胴にも斜めに傷が入っている。

「くっ……」

レイが呻く。白い装甲を赤く染めたぼろぼろの敵機が崩れ落ちようとした瞬間、ぬうっと動きを早めると首筋に噛みついてきた。武器を持たないからと油断していたわけではないが隙があったのか。初号機の素体に顎門(あぎと)がみしりと食い込む。

「うぐううっ」

アスカほどの高シンクロ率ではなくとも激しい痛みは生じる。鼻息がかかりそうな距離に赤く醜悪な唇を見てシンジは苛立ちを募らせた。フィードバックは彼の担当だ。レイが少しでも正確に躊躇なく攻撃を放てるようにと戦闘開始のときから引き受けていた。基本的な操縦と感覚は彼が受け止め、接近戦や重火器を使用する際はレイに担当してもらう。シミュレーションのときからそうやって自然と役割を分担してきた。もう二度と同じことはできないだろうと思わせるほどふたりは完璧なユニゾンを見せている。

噛みついている敵機のうしろで大きく剣を振りかぶっているべつの敵機。アスカの攻撃によって首が半分ほどもげているが、なんら動きを阻害していない。身体の捻り、片足の踏み込み、しっかりと握られた両腕を見れば渾身の横薙ぎが来るのだとわかる。エヴァという巨体ゆえ、ひとがやる格闘技よりも動きは緩慢だ。だから噛みつかれたまま盾にすれば凌げるとシンジは判断し、レイもそれが最適だと動く。

「シンジっ、ダメ!」

退避していたアスカが初号機の状況を目にして声を張った。あれは味方もろとも切り伏せる攻撃だと悟ったのだ。そしてその読みは残念ながら正解だった。シンジたちが盾にした敵機は背後から放たれた僚機の斬撃によって胴をまっぷたつに裂く。血を噴いてくの字に曲がる白い影と初号機の腹部に迫る分厚い刃。

「があぁっ!」

レイが咄嗟にバックステップを交えたから初号機まで切断される事態は免れた。しかし、鈍重で鋭利な刃物は紫色の装甲をあっさりと貫通し素体を薙ぐ。フィードバックによりシンジの腹部からぱっと血の煙が舞った。レイに外傷はまったくない。だが、同時シンクロの弊害で彼の痛みはエヴァの膝を屈させた。彼女に前方の座席を見る余裕はないがシンジの返事はたしかだ。

「碇くんっ!」
「大丈夫、大丈夫だよ」

リリスの複製である初号機が狙いではない。ミサトからそう言われたが、さりとて無視されているわけでもない。相手からすれば邪魔な存在に違いはないのだ。これまでも戦闘能力を殺いでくるような攻撃が多かった。ゆえに、目の前に立ち塞がる敵機が取る行動もおおよその見当がつく。大剣を振り抜いた相手は容赦なく切り返してきた。

狙われるのは左腕。この小さなナイフであの重量をどれだけ受け止められるのか。いまだ立ちあがれない機体で右に飛びのくのは難しい。うしろへさがるのも同様だ。迫る金属の塊がとてもゆっくりと感じる。そこへ、アスカの咆哮が轟いた。

「イヤぁぁああ!!」

夢中だった。脚の痛みも出血でふらつく頭も無視して彼女は血液を沸騰させると全身全霊で疾走した。冷静ではいられない。なにせ目の前でシンジがやられようとしているのだ。アスカのモニタには彼が腹部に怪我を負っていることが示されている。殺させてたまるか、傷つけさせてたまるか。誰よりも大切な彼にそんな結末などあってなるものかと風を切って弾丸になる。目が熱くなり、歯を食い縛った。このふたりだけは生き残らなければいけない。彼らがいたから暗闇に囚われることなく復活できたのだ。

「だああぁああぁっ!」

アスカが放った渾身の体当たりは、いままさに初号機を斬りつけようとしてた敵機を吹き飛ばした。二機は揉みあうように大地を転がり、彼女は苦痛にのたうつ。どれだけの距離を転がったのかわからない。抱きつくようにしたから胸や腹、脚にも打撲の痛みがある。そして彼女は彼を救えた安堵と同時に悟っていた。もう当分は動けないだろうと。まっぷたつになった奴を除いて残る敵は三機だ。シンジとレイだけでやれるのか。いや、自分がここまで苦戦したのだから難しい。

「やばい……充電してないわ……」

内部バッテリーが残り三分を切っていた。退避したとき近くにあった電源車を自分でつぶしてしまったから給電できてない。あとどれだけ戦えるのかわからないが、状況は最悪だ。全身が悲鳴をあげて動かず、指一本も難しい。脳内でアドレナリンが出ていなければとっくに気絶していたであろう酷い怪我だ。それに、視界の隅で揉みあった敵機が起きあがろうとしているのが見える。

「まずい、わね……」

仰向けの状態からなんとか体勢を整えたいものの、痙攣するばかりで動けない。支部のマギは完全に復調したようで、相手からゾンビのような動きは見られなかった。なんら損害を受けていないとばかりに覆いかぶさってくる。ぱっくりと開かれた赤い口と紫の舌を見て戦慄するがまるで抵抗できない。首筋には装甲がないから齧りつかれたら容易に血管を切られてしまうだろう。モニタを見れば敵機の数がひとつ減っている。まっぷたつになった奴にシンジたちがトドメを刺してくれたようだ。まだ足りない。もっと減らさないと彼らでは勝てない。

「離し、な、さい、よ……」

相手の肩を押さえてなんとか噛みつかれまいとするが、左腕に受けたダメージが深刻で押し返せない。ミサトから脱出しろと言われても母を置き去りにできるわけがないのだ。それにエヴァの構造上、仰向けではプラグの射出もできない。万事休すか、と諦めようとしたとき、ひとつの武器が残っていたのを思い出す。

「これでも、食らいなさいっ!」

気勢をあげて肩に装着されたニードルを放つ。こんなことを忘れてしまうほど頭に血が上っていたのかと冷静になる。それほどまで見事に無数のスパイクが敵機の顔を穿っていた。殲滅には至らないだろうが頭部を破壊されれば力はなくなる。ただでさえおぞましい怪物は吐き気をもよおすほど醜悪に舌を出したまま横へ倒れて動かなくなった。

「ふんっ。あたしに乗っかっていいのはシンジだけよ」

そんな軽口を叩いてはみたものの、つぎなる試練が目の前にあって絶望した。残る二機のエヴァシリーズが背中の羽を広げて上空高く舞いあがっていたのだ。各々の手には剣から槍に形状を変えたものが握られている。羽ばたく動きや旋回にぎこちなさは微塵もない。復調したから飛べるようになったらしいと察した。そして同時に、こればっかりは逃げられそうにないとも。

「せっかく……ここまで来たのに……」

もう間もなく槍が投擲されるのだろう。頭と心臓どちらであっても刺されば確実に死ぬ。シンジたちの光点は弐号機より離れているから救援に駆けつけても間にあわない。それどころか彼らまで巻き込むのだ。もちろん断じて容認できない。ふたりには上空の二機と死に損なっている隣の一機を殲滅してもらうのだ。生き残って、未来を掴んでもらうのだ。

『アスカぁ!』
『惣流さん、逃げて!』

ふたりの必死な通信が聞こえる。弐号機が動いてないから回避できないと察して呼びかけてくる。シンジの声が涙交じりで、あのレイでさえこんなにも切羽詰まっている。疎外感なんて馬鹿を考えたけど、そんなことはなかったとアスカは嬉しくなった。いままさに死にそうになっているのに、ふたりの想いが胸に温かかった。素直にありがとう、と感謝する。そしてレイには少し悪いけど、やっぱりこれだけは言いたい。眼前のモニタを切り替えると焦燥に駆られたシンジのバストアップが視界を塞ぐように大きく映し出された。

彼は驚いた顔を向けてくる。ずっと見ていたかったシンジの顔。横恋慕と知りながら抑えられないこの想い。ひとを好きになるのはこんなにも胸を痛くして切なくするなんて、知らなかった。それでも彼に逢えたから、彼を好きになったから束の間でもしあわせだったのだ。だから涙を堪えて息を吸い込むと、万感の想いを口にする。

「シンジ、あたしね……」

あなたが好きだった。いまならなんの照れもなく出てくるのに、なんと、あろうことか無粋にも邪魔されたのだ。それも、なんらロマンチックさの欠片もない無骨で空気の読めないミサイルとくればとことん運が悪い。まさにアスカが一世一代の告白をしようとした矢先、ミサトの指示で放たれた多数の砲火が上空の二機に炸裂していた。

『アスカ。なに言おうとしてたのか知らないけど、私の目が黒いうちはやらせないわよ』

安堵したミサトの声が聞こえると同時に、二本の槍が地面に落ちて突き刺さった。上空の二機は体勢を崩して錐揉みに旋回すると、頭から地面へ激突する。ATフィールドがあったところで翼が揚力を使っているのなら、大気の変化には敵うまい。ただ、初号機と弐号機から離れているため追撃は難しい距離だ。そこへ、待ってましたと言わんばかりに最後の砲火が放たれる。仕留めるのは無理でも時間を稼ぐつもりだ。

「アスカっ」

身を起こそうとする弐号機に初号機が合流した。苦痛に顔を歪ませたシンジがレイに促されて隣で伸びている敵機へさきにトドメを刺す。びくびくと身体を弾ませながら全身を捩った白いエヴァだが、コアにヒビが入るとぱたりと動きを止めて徐々に色を変える。まっ白だった体表がコアを中心に石のような素材へ変わり、ついには全身を石像と化した。すでに倒したほかのエヴァシリーズも同様で、復活してくる気配はまったくない。これで残る敵機は二機となった。

「惣流さん、身体はどう?」

遠くで砲撃を受けている二機から庇うように初号機を移動させると、レイが声をかける。彼女が見るモニタには顔色の悪いアスカの力ない笑顔だ。首から下は映っていないため怪我の程度は不明なものの、大破した弐号機を見ればかなり酷い状況であるのは理解できた。

『まったく……ミサトも失敗したらどうするつもりだったのよ』

気丈にもそう返してくるが、声はとても弱々しい。いますぐ治療が必要だろう。バイタルからも予断を許さない状況だ。レイはこういうとき、元気づける言葉を持たない自分を悔やむ。大丈夫、平気、頑張って。そんな程度ではないからこそもっとべつの気の利いた台詞を言いたいのに、口から出るのは彼女が求めているであろう行為だけである。

「あとで碇くんと、いいわ……」
『ハンっ。言われなくても骨の髄まで戴いちゃうからね!』

できればここで戦闘終了を告げたいが、残念ながらまだ終わっていない。レイはシンジに代わり操縦を受け持つと、弐号機の肩を貸して起きあがらせる。いつも元気いっぱいのアスカからは想像もつかないほど足腰に力が入っておらず、手を離せば崩れ落ちてしまいそうだ。

「あと二機……惣流さん、ひとり一機よ」
『あんなポンコツ、目ぇ瞑ってても倒せるわ』
「そう? なら私と碇くんは好きなことしてていいのね」
『バカ言ってんじゃないわよ。シンジも重傷じゃないの』

レイはそれを知った上で言葉にしていた。事実、彼は無言で歯を食い縛っている。シンジもアスカも負傷しているとなれば、少しでも道化を演じて鼓舞しなければならない。下品な言葉でも意識を失わせないためには必要だ。そう自ら叱咤するほどレイにもあせりがあった。一刻も早く戦いを終わらせたい。こちらは満身創痍でも、ここまで来たのならやれるはずだ。

「アスカ……」
『な、なによ急に。アンタに名前呼ばれるとどきっとするんだから』
「私たちは勝つ……そうでしょ?」
『あったり前のポンポコピーよ』

意味不明なアスカの虚勢を受けて頷くと弐号機を支える手を離した。多少ふらついても彼女はしっかりと立っている。弐号機の左前腕は形を変え、右大腿も骨のようなものが覗き、脇腹も素体が裂けるほどぼろぼろだ。操縦している彼女にも同じような負傷があるだろう。いつ気絶してもおかしくないし、立つなんて普通は無理だ。それでも青い眼光に衰えはなかった。

これから向かうさきにいる二体のエヴァシリーズ思って、三人はまさに弩張剣抜(どちょうけんばつ)だ。初号機が持つのは途中に落ちていた赤い槍で片や隣の弐号機は頼りないナイフ一本だけである。

「碇くん……」

レイは前の座席を窺った。弐号機ほどではないにせよ、初号機も無数の細かい損害を受けている。フィードバックを受けたシンジの打撲や裂傷の数はかなりのものだろう。出血も少なくないはずだ。彼女はLCLの血の味がさらに濃くなった気がして彼の傷を(おもんばか)る。不安を数えればキリがなく、手が震えた。アスカにはああ言ったが、泣いてしまいそうなほど心が寒い。彼のバイタルを示すモニタは砂嵐でわからず、唯一顔の映像だけが頼りである。

「大丈夫だよ、綾波。たぶん出血も治まってきたし、アスカより軽症なんだ。なんの心配もいらないから、戦いはきみに任せる……だから、冷静になろう。冷静にやれば勝てるよ」
「そう……ね」
「そうだよ、僕たちは勝てる」

苦しさの中にも力強さがあるシンジの声はレイに勇気を与える。赤い槍を握り締めると、彼女は眼前を睨んだ。ミサトからすべての兵器を使い切ったと連絡がある。残る敵が二体なのも間違いないようだ。

土埃と爆煙がやめば立ちあがる白い巨人が見える。一体は健在で剣を持ち、もう一体は顔面を損傷して無手だ。これは千載一遇の好機である。少しでも勝率をあげるためアスカに言った。

「惣流さんは弱っているほうを攻撃して」
『ま、そう言うと思ってたわ。ぴんぴんしてそうだけどね』
「そうかも」

二体の白いエヴァはそれぞれ離れた位置にいた。戦闘になれば互いに援護ができない距離で、どちらかを倒しさえすれば優位に持ち込める。それは相手も同じだ。重火器のたぐいはすでに使い切っているため、完全な接近戦となる。そこでふと、アスカは初号機が携えた槍を見て言う。

「レイって槍の心得あんの?」
『前に投げたけど、実戦はビデオを見ただけ。でも……無駄なく美しく、でしょ?』

モニタの中でレイが微笑んだのは余裕ではなく、蛮勇なのだろうとアスカは思った。自身も片腕にナイフでは無手の相手でも厳しいのがわかっている。格闘技の経験があっても満足に踏み込めなければ泥仕合は必至だ。難しいかもしれないという弱気を隠すように軽口を追加する。いまは生き残るための希望が少しでも欲しかった。

「さっきの約束、ちゃんと守ってよね」
『ええ、もちろんよ』

互いにそれ以上の言葉はいらない。並んでいた肩は離れ、各々の敵に向かう。二機の間に薄ら寒い隙間風が吹いたかのようだった。

さきに間あいへ入ったのは初号機だ。相手の剣よりこちらの槍のほうが長い。刺突を繰り出せば一撃で決まりそうに見えるが、油断なく腰溜めに構える。シンジから託された操縦を受け持つレイは、手に汗が滲むのを感じた。ここまで緊張した記憶はない。それはやはりシンジという存在を得たからだ。彼との未来を、生きる喜びを感じているからこそ失うことがなによりも怖い。彼の怪我は酷いがあとで治療すれば問題ないだろう。けれど、もしいま以上の受傷となれば命の保障はないのだ。できる限り無傷で勝たねばならなかった。

「大丈夫だよ、綾波……僕がついてる」

シンジの声を背中で受けるように、レイは槍の戦いかたを頭に描く。基本は突くことだ。振りまわしては身体が伸びるので細かい攻撃を繰り返して確実に手傷を与える。手首を切り落とせれば僥倖(ぎょうこう)だが、勝ちを急いではいけない。内蔵バッテリーは残り二分、暴走させてしまう前に形勢を決められればいい。

「来るわ……」

相手のほんのわずかな動きも見逃さず、腰溜めから(つか)を高く掲げる。中心近くに添えた手も地面へさげた。片足を踏ん張り視界を広く保った瞬間、横殴りの強烈な一撃がやって来る。シンジの両手には痺れが、レイの手には重さが伝わる。彼女は無理に勢いを殺さず、いなすように力を逃がした。本来であれば返す切っ先で攻撃するべきなのだろうがエヴァシリーズがどのような力量なのかわからない以上、まだ見極めが必要だ。続く反対からの二合目も同じようにして凌ぐ。

何度か同じことを繰り返しているとき、シンジは疑問を持った。なにかがおかしい、これではまるで練習のようではないかと。こちらの錬度にあわせているように感じる。痛みを堪えつつ剣戟を冷静に観察してレイへ言う。

「綾波、なにか変……」

言い終わるとき、横薙ぎの一太刀が放たれる。いままでより数段、早い。ぐん、と伸びるように迫る刃にレイはなんとかあわせようとするが間にあわない。タイミングをずらされた一撃によって防御しきれず上体を崩す。すぐさまつぎの刃が迫るものの、今度はいまより遅い。早まった、と思ったときには中途半端ないなしとなって身体が前に泳ぐ。

「くっ」

レイは唇を噛む。つぎの攻撃は振りかぶった袈裟斬りだ。狙いは首筋、戦闘不能ではなく殺すつもりか。慌てて踏ん張るが不完全な体勢ゆえ力がままならない。それでも背筋を張って上体を逸らす。ぎらりと刃が光り振り下ろされた。これは……(かわ)せない。

「かぁっ!」

レイは唇から鎖骨、片方の乳房、そして脇腹へ抜ける感触を受けた。彼女に痛みはない。同時に聞こえるガリガリと不快な悲鳴は装甲が抉れた金属音だ。だが、シンジはべつである。たったいま自分が撫でられた場所とはすなわち彼の受傷にほかならないのだ。

「碇くん!」

シンジの身体から血の煙が昇る。咄嗟に駆け寄りたいほどの衝動と戦慄を味わった。ちらりとプラグ内のモニタに目をやろうとすれば、間髪入れずに彼が切ったところだ。それでも一瞬見えた映像はたしかに彼が激しく負傷している姿を記憶させた。

「レイっ、僕に構うな!!」

初めて呼んだ名は鋭い怒声だ。それくらいシンジは必死だった。いまここで集中を切らしてはふたりともやられてしまう。それだけではない。アスカや、世界中の人間も消えるのだ。

対するレイはなんとか動揺を抑えようと眼前の敵を睨むものの息があがって手に力が入らない。やらなければ、戦わなければ、彼を守りたいと一心不乱に剣戟をあわせようとする。

緩急自在の攻撃を放つ白いエヴァに初号機は翻弄されていた。いくつもの細かい傷が機体に増える。レイは顔を青ざめさせて震える唇を強く結ぶ。涙が滲み、嫌だと血眼になって否定した。


迷彩柄の戦闘服を着た一団が倒壊しかかったビルに取りついて作業している。彼らは小型の爆薬を柱に設置していた。眼下はどんな高層ビルの屋上から望むより遠い地面で、ジオフロントと呼ばれる場所である。転落すれば赤い染みになるだけだ。命綱をつけててもビルそのものがいつ崩れてもおかしくない状況である。だが、彼らに恐れはない。数多くの訓練を受けてきた、というのもあるがいま突き動かしているのはひとつの疑念だ。

司令部より命じられた任務はいい。ネルフがサードインパクトを企てているとの情報に驚きはしても納得する部分があった。強権を行使し我がもの顔でのさばっている連中という意見が大半だったのだ。少年少女を兵士として戦わせている事実もいまの時代、珍しくない。世界ではもっと幼い子供に銃を持たせるのが普通になっていた。学校へも行けずわずかな報酬のみでひとりでも多く殺すための訓練を大人から授かるなど、それこそ掃いて捨てるほど存在している。戦略自衛隊の中にも極秘にそういった部隊があるのだから、洗脳された子供が世界転覆に荷担していてもおかしくはない。

ところが、先刻の爆撃がそれを疑惑へと変えた。いまも負傷した兵らが手当を受けているが亡くなった者も大勢いる。連絡の不備では済ませられないほどの数が犠牲になったのだ。司令部へ問いあわせようにも通信が不通で詳細はわからない。やり場のない憤りを感じているときに所属不明の黒い全翼機が現れたのだ。

放たれた白いエヴァを見て、多くの兵が嫌悪感を抱いた。これのために仲間が死んだのかと。それでも世界を破滅から救うための作戦であると言い聞かせて無理に溜飲をさげた。あとはジオフロントへ降下して、ネルフの職員を抹殺するだけだ。汚れ仕事ではあるが、救える命の量を考えればどうということはない。

だが、地表の熱も冷め、いざ強襲となった段階で足が止まる。なぜネルフは攻撃してこないのかと。軍隊に比肩しうるほどの兵器を有していながら、地上へはいっさい手を出さず白いエヴァに向かってのみ放たれている。初めから狙いを定めていたのが明白だ。本当の敵は兵士ではなく、この醜悪な存在だと彼らは認識していた。

九体の白いエヴァを殲滅したあとで世界に牙を向くにしても、ネルフが保有するエヴァは二機しかいない。サードインパクトを狙っているとするには戦力差がありすぎる。実際にネルフ側のエヴァは明らかな劣勢だ。にもかかわらず、跳躍し、疾駆する赤い機体と補佐しながら着実に仕留めてゆく紫の機体。彼らが悪の尖兵だというのは本当なのかと疑問を持つ。互いを守り、背中を預け、一丸となって気味の悪い白いエヴァと戦うのは本当に世界の破滅のためなのか。待っているのが自らの死だと知ってもあそこまで懸命に戦おうとするものなのか。全身をぼろぼろにしながら、それでも勝利へ邁進する姿は明日を渇望する人間の本能そのものではないかと。

司令部との連絡はまだつかない。いっぽうで幕僚部からの返答は待機に変わった。疑いを持ってはいけないとわかっていながら、直接戦場を見ている兵士たちは動揺が隠し切れなかった。ネルフの攻撃が隊員たちにおよばず、白いエヴァにだけ向けられている意味から目を逸らすのか。

組織である以上、明確な造反は許されない。たとえ自分たちが間違っていたとしても、子供らを援護するなどという愚は犯せない。だがもし、偶然なにかが起こったらどうだろうか。砲撃ではなく、自然の現象が結果的に助力となってしまった。そんな言いわけは通じないだろうか。

そこに幕僚部は関係ない。いわんや司令部であればなおのこと、政府も然りだ。一部隊が侵攻の妨げになっている瓦礫を撤去しただけ。少しくらい侵攻ルートから逸れていても、そこは現場の判断である。必要なのでおこなった、それでいい。

この〝偶然〟が子供たちにどれだけの助けとなるのかはわからない。重量は充分あるように思える。謎の防壁を展開すると聞いているが、通じなければそこまでの運だ。それでも、子供らが世界にとってただしいことをしているならば、きっと幸運は微笑んでくれるはずである。明日へと、未来へと繋げてくれるはずである。

隊員たちは爆薬をセットし終えると、遠く離れて機を窺う。タイミングが命だ。ここにも運が大きく絡む。高さと落下速度の計算はした。炸薬の量も間違えていない。あとは祈りながらボタンを押すだけ。ただそれだけなのだ。


初号機が戦闘を開始した頃、弐号機もまた白いエヴァと対峙していた。無手の相手がどのような攻撃をするのか、アスカには予想もつかない。兵士は搭乗しておらず、おそらくダミープラグを用いてるであろうとしかミサトからは聞いてないが、そもそもダミープラグのしくみがわからないので機械的なものだと判断した。以前、初号機へ使用された際の挙動に戦闘技術のようなものが窺えなかったからだ。現にいまファイティングポーズを取っても相手は直立したまま動かない。

「舐めてかかってはダメよ……」

全身の痛みを堪えて暗示をかける。幼少からさまざまな訓練を受けてきた。その中でも一番多かったのが格闘技だ。近接戦闘が主となるエヴァの操縦において決め手となるのはやはり拳と拳のぶつかりあいだと彼女は考え、とくに熱心に取り組んでいた。プロの格闘家にはおよばないが、それでもナンパしてきたチンピラなら簡単にノックアウトするくらいの腕前はある。前に街のゲームセンターで絡まれたとき大立ち回りを演じたものだ。

だが、同時にこうも考えた。相手に痛みという感覚はあるのだろうかと。鼻、顎、鳩尾(みぞおち)、金的といった場所への攻撃がどの程度有効なのか。怯んでくれればいいが、そんな反応は期待しないほうがいいかもしれない。やはり確実に戦力を殺ぐのが最適だ。つぶれた顔、だらりと垂れた舌、醜悪に歪む赤い口元を睨みつけると丹田(たんでん)に力を入れる。

「せいっ」

まずは小手調べで逆手に持ったナイフを横へ薙いだ。斜め下から死角になる軌跡を描いて銀光が煌く。ちょうど両手で掴みかかろうとしていた相手の前腕に赤い線が入った。振り抜いたナイフの返す切っ先で今度は首筋を狙う。しかし、相手は一歩引いてそれを(かわ)す。アスカは踏み込んでもう一度斬撃を放つ。相手の胸部装甲が火花を散らすが、素体には届いていない。ふたたび切っ先で穿とうとするものの、虚しく空を切るだけだ。すると、相手はぐいっと距離を詰めて組み伏そうとしてくる。本来であれば下段蹴りなり膝なりで迎撃するのに、負傷した片脚では軸にできない。ならばと彼女は左腕の肘で顎を狙う。前腕は骨折しているようだが、この際なんでも使うしか勝ちは拾えない。

「痛ぅ」

またしても選択を誤ったと痛みに喘ぐ。思っている以上に腕は重傷だったようで、LCLに血が滲む。それに、肉を切らせても骨は絶てなかった。顎を綺麗に捉えはしたものの体重が満足に乗っていなければ相手の勢いを殺せないのだ。

「くっ」

あっさりと密着され、体当たりを受けてうしろへ倒れ込む。尻と背中を強打して息を詰まらせたときは早くも首筋を狙われている。またこの展開か、と彼女は鼻で笑うと肩のニードルを発射した。

「チィ」

同じ手は食わないのか、あせりがタイミングを早めてしまったか。無数のニードルは相手の頬を掠めただけで突き刺さることなく空中へと消えた。両肩それぞれ一回きりの武器だからもう使えない。さりとてこのまま食われてたまるか。健在な左膝で横っ腹を激しく抉った。人間ならば肝臓のある場所で、格闘家でも悶絶するほどの痛みを伴う急所のひとつだ。

「ギゅゥわ」

外見に比例して気色の悪い呻きを漏らす敵機。砕けるような感触がしたのは相手の装甲か弐号機の装甲が破壊されたためだろう。威力も充分で、相手は横に身体をふらつかせた。これを見逃すアスカではなく、無理な体勢でありつつもナイフで首の表面を薙ぐと同時に離脱を図る。

「チィィ」

大きく舌打ちした。せっかくトドメの好機なのにナイフが粉砕してしまう。初号機のものとは違いカッター式は耐久性に難ありだ。だが、まだ勝機は充分にある。アスカは仰向けから、相手はうつ伏せからそれぞれ体勢を整えようとしているが彼女は素早く寝返りを打つと腕を絡め取った。

「逃がさないわよっ」

相手の片腕をうしろへ捻って抱え込む。悲鳴をあげる自身の腕と脚を無視して両脚を前後に広げた。重量バランスをしっかり保つのが肝要だ。手首を岩のように掴み、腋では上腕を押しつける。テコの原理によって関節を逆に曲げる危険な技だが容赦はしない。相手から激痛にもがくような反応がなければさらに体重をかけるだけだ。

Brechen(壊れろ)!」

ビシビシと相手の白い装甲に亀裂が入った。ちらりと初号機を窺うと槍と剣で打ちあっている。早く助太刀したいと力を込めればポコンと軽快な音を鳴らして相手の腕が折れるのだ。試合であればこうなる前に審判が止めるし降参もある。しかし、こと殺しあいともなれば手を休める道理はない。

力の抜けた腕をほどくと、今度は相手の片脚を抱え込んだ。本当ならもう片腕も折りたいところだったが体勢を崩すほうが一番だと判断しての関節技である。膝のうしろに腕を差し込み、腋で万力のように固定する。跨って尻を落とせば逃げられまい。これもたいへん危険な技であるが、彼女はとことん人体破壊をするつもりである。

「待ってなさいよ、いま行くから」

そう呟いたのは初号機が袈裟斬りの太刀を受けていたからだ。紫色の装甲が裂け、エヴァの血が噴き出す。あれは危険だ。確実に胸元が抉れている。いますぐ駆けつけたいがそれこそ愚行だ。ふたりを信じて自らの成すべきことを成す。

「ふんっぐぐぐぐっ……」

うしろへ体重をかければ尻の下でもぞもぞと動く感覚がした。翼を広げて逃れようとしているのか。そうはさせまいと相手の爪先を自身の腹へ押し込むように抱えれば、メキリとした手ごたえを感じる。靭帯が切れたようだ。すぐさま両手を離し、尻を支点に反対を向く。

「さあ、トドメよ」

両肩を掴み、背骨に膝をあてがって弓なりに反らせば相手の翼が広がった。ばさばさと翼の裏で振り落とそうと頬を叩いてくるが、構造上たいした力はない。抵抗を無視しながらぐんぐん角度をつけて、ついには胸を見せるほどになる。これならばコアも狙えるだろうと確信しても手は緩めず、まっぷたつに折るつもりだ。思いのほか柔軟性のある身体だが、装甲の軋む音からするに限界は近い。左腕からどんどん血が溢れるが、いま一度歯を食い縛る。初号機はどうなのかと向こうを見て、思わず手を止めそうになった。

「なっ……」

繰り返される斬撃から懸命に距離を取った初号機へ追撃を放とうとする白いエヴァ。その頭上へ、なんとビルが落下してきたのだ。八階建てくらいのコンクリートがもたらす重量は相等なものである。いかにエヴァとて想定外の場所からそれだけの重さを受けてはATフィールドの展開も間にあわないだろう。全方位への展開もできるが、近接戦闘中なら前面に集中させているはずである。

そんなアスカの考察どおり、白いエヴァは見事に頭から直撃させてぴくりとも動かなくなった。当然、それは初号機にとって僅有絶無(きんゆうぜつむ)の勝機だ。手にした槍で背中から一気にコアへ目がけて貫けば、ビクビクと痙攣して石化するのである。

しかしどうにも都合がよすぎではないか。そう思って落ちてきた場所を見あげた。カメラを望遠に切り替えると白い煙が消えようとしているところだ。あれは無煙火薬か。そう理解して事態を把握する。一歩間違えたら誤爆では済まないと思いながらも乾坤一擲(けんこんいってき)の博打を打った胆力と助力に感謝した。なぜ侵攻してきた部隊が、とは考えない。

「シンジっ、レイっ……こっちも、お願い!」

背骨を折るのは叶わないと諦めてふたりに呼びかける。あとはその槍でこの怪物を貫いてくれれば万事解決、ハッピーエンドだ。うしろに倒れすぎたようで、いまや白いエヴァの胸元は天に向きそうなほど反っている。なんら苦労せず楽にトドメが刺せるだろうと口元に笑みを浮かべた……そのときだ。

「えっ?」

虚を突かれて慌てる。エヴァは人造人間だ。パイロットと齟齬(そご)を生まないよう、構造は人体に酷似している。骨格、筋肉、手脚の長さはほとんど同じと言っていい。だから関節技で骨を折ったし、靭帯も破壊した。人間であればなにもできないほどの重傷だ。なのに、目の前の白いエヴァはまるで骨など初めからなかったかのように身体を柔軟にくねらせた。軟体人間など比ではなく、さながらタコを彷彿とさせる。掴んでいた肩から手が外れそうになって咄嗟に首へ手をまわすが、自らの失念を激しく悔いた。

「ちょっ、なに、なにコレっ!?」

ダミープラグが使用される契機になった野辺山での戦い。対峙した相手の参号機はどのような動きをしたのか。渚カヲルと名乗る使徒を追跡した際も経験したはずだ。腕が異様に伸びたことを。それこそゴムのように、骨格を無視した挙動を示したではないか。

「シンジっ、早くっ!!」

いまや目の前の白い巨人は腕と脚、翼を触手のように変化させ、弐号機の全身に絡みついてくる。太ももと両腕に蛇のような感触があり、翼は背中までぴったりと密着だ。なんとかして引き剥がそうとするものの、これでは鳥餅と変わらない。

「そんなっ……そんな!」

絶望的な声をあげる理由は、過去の記録映像でこれと似たような光景を見たからだ。それはシンジの初陣である。敗北を悟った使徒がいまのように初号機に取りついて自爆していた。さいわい損害は軽微であったが、果たして今回はどうか。自身の心臓の上に相手のコアが当たる感触を受けて背筋を寒くする。これはさながら人質か。槍で貫こうものならどうなるか考えるまでもない。

「ふぐぐぐっ」

白いエヴァが首に絡みついてくる。頚部を圧迫して窒息させるつもりか。手では掴めないし、どれだけ捩っても離れない。息がどんどん詰まって自身の首を掻き毟る。素肌に髪が絡まっているわけでもない。このままでは……死の二文字が脳裏を掠めた刹那、アスカは白目を剥いて気絶した。


発令所は焦燥感に包まれていた。弐号機がいままさに殲滅しようとしていた白いエヴァが形を変えたのだ。皮膚のない赤黒い筋肉繊維を剥き出しにして軟体生物のようにまとわりついている。こんなこと、エヴァにはできない。ひとの姿を模している以上、可動範囲は限られているのだ。昆虫の中には(さなぎ)になるとき体組織を溶かしてから再構成するというメカニズムを持つが、アダムを素にしたエヴァシリーズだからこそ可能なのか。

「危険です。生体部品が侵食されています!」

マギを担当しているマヤに代わってシゲルが吠えた。誰もが既視感を覚える。これでは零号機のときと同じだ。満身創痍ながらもなんとかここまで来た。あと一体、たった一体なのに犠牲を出してしまうのかと。

「初号機は?」

ミサトは下唇に親指のさきを当てながら尋ねた。地上から落下したビルによって〝運よく〟シンジたちは救われたが、槍で敵機を刺した直後、ビルの倒壊に巻き込まれていたのだ。

「いま瓦礫から離脱しました。ただ、通信が途絶して状況がわかりません」

今度はマコトが応じる。ミサトのモニタも砂嵐でシンジとレイの負傷がわからない。だが、機体をふらつかせつつも立ちあがっているところを見れば軽症で済んだのだろう。手にも槍を持っている。

「弐号機は?」
「強力なジャミングでモニタできません」

まだ弐号機のATフィールドは健在だからアスカが存命中なのはわかる。しかし、人質となった彼女をどう救出すればいい。エントリープラグの射出口も塞がれ、脱出させる手立てが存在しないのだ。レイのときのように自爆装置が搭載されていないのを幸運と捉えるか、それとも不運と捉えるか。

砲撃したくともすべて打ち尽くしてるし、内蔵バッテリーが切れてしまえば完全な無防備だ。敵のエヴァがそれを狙っているとして、なんのために融合しようとしているのか。かつての使徒のように自爆しては補完計画を実行できない。弐号機を戦闘不能にするのなら融合などという手段は取らず、そのまま絞め殺せばいいだけだ。となると、考えられる結論はひとつしかない。

「アダムを復活させるつもり!?」

補完計画の頓挫が目前とあって、死ならばもろとも使徒によるサードインパクトを目論んでいるのか。弐号機もアダムに連なる存在だけに、その可能性がある。

「侵食率、5パーセントを越えました!」

以前の再来を思わせる報告を受けてついに爪を噛む。使徒と認定し、初号機によって殲滅させるしかない。その担い手はほかでもないシンジとレイだ。ようやく三人が一丸となれた矢先にこんな結末があっていいのだろうか。脱出も、援護も、尊厳を守るための自爆さえできない状況に手が震えた。それでも大人として、彼らに命じなければいけないのだ。ミサトは初号機との通信が回復しないことを願ってしまう自分に心底、軽蔑した。


幼少の記憶の中にはっきりと覚えている光景がある。風邪かなにかで熱を出したとき決まって見る悪夢だ。正確には夢ではなく目蓋を閉じると現れた。ぐるぐると渦を巻く万華鏡のようなビジュアルで、壁のような圧迫感がひたすら迫ってくる。幾何学(きかがく)模様に染まった世界が嫌で、夜になって眠るのが不安でしかたがなかった。ぐわんぐわんと音がしそうな光景から逃れるように目を開ければ、すぐ傍で優しく見守る母の顔だ。大丈夫、怖くない、すぐによくなる。そんな言葉をいつももらいほどなくして眠りに落ちていた。

なぜいまこんなことを思い出すのだろうか。胸の圧迫感と全身の倦怠感があのときと似ているからかもしれない。上下左右から迫る不安という名の壁と渦を巻くサイケデリックな視界。大人になったいまでも苦手で、想起させるようなデザインの服は決して身に着けなかった。だから彼女は昔のように目蓋を開ける。愛しい母の穏やかな眼差しがないと知っててもこの世界を否定した。

「っは!」

かっと目を見開く。息はできる、意識もある。首や全身に痛みはない。アスカは無事な自分に安堵する。しかし、その顔は驚愕に染まっていた。

「ここ……どこよ……」

一面が夕焼けのように赤い世界。なんの建物も、空や山も存在しない場所だ。地平の彼方までオレンジ色の水が広がっており、水面から10センチほど宙に浮いた自分を認識する。どう考えても普通ではない。明らかに異世界か、はたまた夢の世界のようだ。見下ろせばよく知る自身の裸体がある。あまりにも急な変化と状況に戸惑いが隠せなかった。

「アンタ、誰……」

彼女の3メートルほど前には、同じように全裸で腰まで水に浸かっている少年の姿だ。銀髪に赤い瞳の渚カヲルと名乗った使徒である。アスカはよもや復活したのかと身構えるものの、どうにも様子がおかしい。

『アンタ、ダレ』

カヲルがオウム返しに言う。首を痙攣させながらかしげ、唇を怪しく歪ませた。白い歯が見えて、ぎょろりと目を剥く表情は不気味だ。この相手はなんなのか。白いエヴァに搭乗者はいないはずだ。幽霊かゾンビか、怖気づくわけにはいかない。

「ふんっ。生身でやりあおうってワケ? 上等じゃないの」
『ナマ、ナマ……ワケ、ワケ……ひひひ、ワケ……』

がくがくと壊れたロボットのように首を左右に倒しては言葉を捜しているように見える。カヲルに似た相手は発声練習さながらに意味のない単語を繰り返した。

「なんなのよ……成仏しそこなってんじゃないわよ」
『アンタ、アンタ……アンタバカ……アンタばかぁ』

自分の口癖をまねたのを聞いて理解した。これは絡みついてる白いエヴァそのものだ。なんらかの方法で精神に働きかけているに違いない。空を飛ぶ使徒に心を覗かれたのと同様、絡め手で攻撃しようというわけだ。

「ハンっ。同じ手が通用すると思ってるなら大間違いよ」

居丈高に啖呵を切った。以前は精彩を欠いて心を崩したがいまの彼女に恐れはない。虚勢を張らずとも見てくれるシンジがいるし、母の存在も理解した。トラウマではあっても乗り切る自信があるのだ。

しばし唖然と様子を窺っていたが、ぴたりと動きを止めると急に流暢なしゃべりへ変わる。しかも全身が自分そっくりになっていた。鏡像さながらの見慣れた裸体だ。左のほうが大きい乳房、横に楕円形の臍、少しあがっている右の眉。あまりの精巧さに知らず舌打ちすると予想どおりの声が相手から発せられる。

『これがアンタの言葉。これがあたしの言葉』
「その顔でしゃべんじゃない」

自分の声というのは録音などで耳にすると違和感を覚えるものだ。アスカも戦闘記録などで聞いたとき驚いた記憶がある。なかなか気づきにくい滑舌や声音、口調を見事に再現していると思った。

『あたしのこと、怖い?』
「うっさい!」

だからこそ、シンジへ言った同じ声色を口にされて苛立つ。そんなに甘い猫撫で声を出したのかと。顔を耳まで赤く染め、いじらしく俯きぎみのしぐさをされて激しく羞恥した。あまつさえ、とんでもない台詞を吐くのだ。

『ねぇ、あたしとえっちしない?』
「黙れって言ってんのよ」

伝えてない言葉、ギリギリで踏みとどまった理性。だが、偽者は潤んだ瞳を向けてためらいなく口にした。キスした直後がありありとわかる、湿った唇。そして相手の欲望は留まるところを知らない。それはすなわち自分自身だ。

『オナニーだけでいいの?』
「消えろっ」

やはりそうなのだと理解した。間違いなくすべて覗かれている。暗部ではなくても恥部が晒されると身構えるものの、相手の言葉は次々に胸を抉った。

『シンジのすべてが欲しくないの?』
「余計なこと……」

いますぐ引っ叩いて止めたいのに首から下の身体は金縛りのように動かない。これに応じてはいけないと頭の中で警鐘が鳴ってても鏡像であるがゆえ、言葉を封じたくなる。

『アイツとシたいんでしょ? いっぱい舌を絡めて乳首もクリトリスも弄られたいんでしょ? オマンコにオチンチン入れて欲しいんでしょ?』
「あたしの声で卑猥なこと言うな!」

女性器の俗称なんて同級生との猥談を小耳に挟んだ程度で、口にしたことなどない。記憶に留めてしまった自分を悔やむが相手の攻撃は止まらなかった。

『素直に言えばいいじゃん。どうして我慢してんの?』
「言えるワケないでしょうが!」
『なんで? アッチもコッチも見られたいくせに。お尻の穴から腋の毛まで、知って欲しいんでしょ?』
「ンなワケあるか!」

声を荒げるが、内心かなり動揺していた。いくらなんでも言葉のとおりに見せたいわけではない。ただ、それくらいの気持ちを持っていたのは事実だ。なんでも知って欲しい、すべてを見て欲しい。髪の毛一本に至るまで可愛い、すてきだと肯定されたい。いつでもどこでも好きだと言ってもらいたかった。

『アンタ勝手よね。求めるばっかりで、アイツをなにひとつ肯定してないじゃない』
「くっ……」

冷めた目で見据えられて顔を逸らした。自分のことばかりで彼を肯定したのなんてチェロを聞いたときくらいだ。先日部屋に来たときこそ褒めものの、同居しているとき食事を作ってもらっても満足においしいと言ったことすらない。アンタにしてはよくできてんじゃない、愚図のわりに悪くないわね。そんな暴言ばかりだった。

『いつもバカにして、鼻で笑って、アイツだのアンタだの口悪く言って……ハンっ、それで好きだなんてお笑い草ね。オカズがどうのとか言っておきながら、自分だって朝も夜もオナニーしてんじゃない。えっちな妄想してシンジぃとか言ってさぁ』
「調子いいのは認めるわ……」
『告白する勇気もない、このいくじなしが。だいたいあんだけ世話になっといてふたりに礼も満足に言ってないじゃない。自力で立ちあがったような顔して』
「ええ……」
『シンジのことがずっと前から気になってたくせに。溶岩で助けられて胸がきゅんってなってたくせに。ユニゾンだって楽しかったくせに。まるで召使いみたいに扱ってさ。そのくせ加持さん加持さんってアンタ、バッカじゃないの? しかもファーストキスが暇つぶしぃ? ふんっ、笑っちゃうわね。緊張してたくせに。照れた顔を見られたくなくて洗面台に駆け込んじゃってさ。つぎの日だってニヤけた口元隠しながらカレのことじっと見てて……ぷくくっ』
「そうね……最低だわ」
『で? そんなダダモレな態度に気づいてくれないからって八つ当たりしてなにが女心よ。自分のこと棚にあげて、それのどこが大人だってぇの?』
「違うわね……」

恋心を強く自覚したのはキスの直後にミサトと加持が帰宅したときだった。腕を取った加持からラベンダーが香ったのにミサトへ嫉妬が沸き起こらなかったのだ。本当はシンジに抱き締められ、告白されたかったことに気づいてしまった。だから彼を罵ってごまかしたのだ。それからというもの、いつも肩を怒らせて声を張り少しでも弱みを見せたくないと心に壁を作っていた。ほかにもやりようはいくらでもあったのに、ほんの少しだけ素直になればよかったのに……それがいまさらどの口で好意を言うのだと否定できない。

『あの夜だって乱暴しようとしてたくせに』
「それは……」
『愛してるって言わないと殺すわよ、だっけ? アイツの枕抱きながらなに言ってんの』
「くっ……」

どきりとする。シンジがレイの部屋に泊まった夜、もし彼がそのまま帰宅していたら酷い八つ当たりをしていた可能性が捨てきれない。弐号機とシンクロできなくなった腹いせをぶつけていただろう。加持ならきっと上手に慰めてくれると罵倒するのだ。

『無理やり犯してなかったって言い切れんの?』
「あったかも……しれない……」

弐号機を下ろされたら自分に価値がなくなる……そんな焦燥感から、シンジに迫ったかもしれない。レイとの仲を深めてゆく彼へ、女の身体くらいしか残ってないと愛憎をぶつけながら乱暴に服を脱がせる姿まで想像がつく。事実、あの公園でも同じことを口にしたのだ。

『シンジのすべてを欲しがるくせに、手に入らないと知ったら拒絶するんでしょ?』
「そうかも……いいえ、きっとそうね……」

仮にシンジを無理やり犯したとしても彼はレイの秘密を知ったあとだ。彼女を失った想いでいっぱいなら心が自分に向くことはない。全裸で彼に跨って見下ろしたとき、死んだ魚のような瞳を知ってどう言ったか。

『だからいま、中途半端なところで留めてる。答えを知りたくないから、居心地がいいから』
「ええ、そうよ」

好きか嫌いかの二択でしか考えられない極論に行きつくのはいままでの自分を知ればありえた。そうなりたくないから、心がつらくても曖昧なままを維持している。

『でも高校卒業したらふたりは結婚しちゃうわ。もしかしたら、いますぐもありえるんじゃない? なんてったって特務機関だもんね。法律くらい変えるかもれないわ』
「わかってるわよ、そんなこと……」

反論しようとする威勢はとっくに萎え、あせりばかりが浮かぶ。一方的に欲しがる自分と醜い独占欲。いつまでも続けられないいまの関係と、彼に好かれていない可能性。さぞ浮き沈みの激しい面倒な女だと思われているだろう。

『本当は甘えたいんでしょ? 腕を組んでデートして、ひとつのアイスをふたりでわけあって食べたいんでしょ? 恥ずかしいからクラスメイトにナイショでつきあって、でも冷やかされると否定できなくて、こっそり待ちあわせとかして遊園地に行きたいんでしょ? ベッドでゴロゴロして、ぎゅってして欲しいんでしょ? キスだってえっちだって朝昼晩よ。乾くヒマなんてありゃしないわね』
「う……」

全部そのとおりだと頷く。なにひとつ否定できないし渇望している。シンジとレイがそうなっているだろうと考えれば考えるほど、張りあうような妄想をいつもしてたくらいだ。

『だったらまた求めればいいじゃない、簡単なことよ。キスだってペッティングだってしたんでしょ? セックスぐらいどうだっていうの? ヴァージンあげれば心変わりしてレイと別れるかもしれないんじゃない?』
「そんな簡単に……」
『じゃあ見てるだけ? すべてが欲しいのに、このまま自然消滅を待つだけ?』
「イヤよ……でも、強引なのもイヤ……」

どれだけ振り払おうとしても消せない気持ち。いや、前より確実に悪化している。やっかいな恋の病はびっしりと心の中に根を張って引き剥がせない。特効薬なんてものがこの世にあるのなら、ぜひ服用したいくらいだと思う。それこそが相手の狙いだとも知らずにシンジへの恋慕を募らせた。

『そう……なら、僕のことはいらないんだね?』
「シンジ……」

偽者の姿が彼に変わってつい呼んでしまった。それくらい精巧で本人そっくりなのだ。心を暴かれた彼女に抗うすべはほとんど残っていない。これは敵の罠だとわかっているのに、寂しさからどうしても求めてしまう。

『だったら綾波のところに行くよ』
「待ってっ」

すっと距離が離れたので慌てて声を発した。するとシンジの姿がぐいっと近づき、腕を伸ばしてもギリギリ届かない距離に来て水面から膝まで出ていた。高低差によって彼の股間が視界に入るものの、本人のを知らないためか構造がぼやけている。

『アスカは綾波が嫌いだもんね』
「そんなこと……」

かつては人形だなんだと罵っていた。だがいまはどうか。横取りしようとしておいて友達になろうなどと調子のいい提案を口にした。名前で呼んでと親しくしようとした。しかし本音はきっと違うだろう。自覚はなくても心を覗かれているのだ。シンジの恋人だから仲良くしておけばなにかと都合がいいから、彼の近くにいられるからと。

『なんで生きてるんだって、本当は思ってたんでしょ?』
「ば、バカなこと……」

最低な女だ。自爆までして彼を助たレイがいまも生きていることに邪魔だと思ってしまっている。彼女さえいなければシンジの隣には自分がいたのに。しあわせを見せつけられるたびにそんな妄想をした。

『べつに普通じゃない? 誰だって考えるさ。恋敵が同じ高校に行くって知ったら受験に落ちればいいって思うし、仲良くしてるの見たら別れてしまえって考えるよ。どうして自分じゃないんだって。僕たち一緒に住んでたし、綾波が自爆したの知ってるから生き死にって極論になっても無理はないと思う』
「でもっ……そんなの最低じゃない」

多少なりともレイを理解して前とは違う感情を持って彼女と接していたはずなのに、まだ醜悪な心が残っている自分がどうしようもなく汚い。本当の意味でなにも持たなかった彼女からシンジまで奪おうとしたひとでなしだ。

『誰だって嫌な部分はあるんだ。僕だってきみでオナニーしてたんだよ? エッチなことも考えるし、加持さんに嫉妬みたいな気持ちがあった。キスまでしたのに、なんであんなオジサンがいいのかなって。僕に興味ないって思ったら凄く哀しかった……ほら、僕だってこの程度さ』
「シンジ……あたし、いいの?」

もはや自分の心がどこにあるのかわからなくなってくる。隠していた恥部、知られたくない暗部。それが普通だとシンジに肯定されて、救われる自分がいた。それでも踏みとどまりたい。彼に知られてもなお、もう少しだけ綺麗な女でいたい。そう思うのに、彼の笑顔と言葉に甘えてしまう。

『ふふっ。自然なままがいいよ、アスカは。自分の心に従ったほうがいい……』
「う……ん……」

言われた言葉が脳内でリフレインし、返事は甘い猫撫で声だ。どくどくと鼓動が高まり顔も熱い。いや、全身が熱くなってくる。アスカの目には偽者がシンジそのものに映った。

『じゃあもう一度訊くね? 僕と、エッチしたいんでしょ?』

冷静にならなければいけないとわかってても、理性が薄れてゆく。するとそれに呼応するかのように、全身がぞわりと淫靡に震えるのを感じた。無言なアスカに相手は続ける。

『僕と、ひとつになりたいんでしょ?』

補完計画の言葉が蘇った。世界中にふたりだけしかいないという幻想に憧れる。病気も飢えも老いもなく、永遠に続く楽園。そこにはレイやエヴァも存在しない。すべてを肯定され、優しく包まれる安らぎ。あるのは究極の一体感だ。

『だったら、僕をもっと求めてよ……』

いまや手の届く距離に相手が迫ってても警戒心は沸き起こらない。子宮をかっと燃やし欲情する。乳首が石のように硬くなって栗色の陰毛が逆立った。陰核が自ら包皮を脱いで高らかに主張すると、小陰唇はぱっくりと口を開ける。まるで吸い出されたかのごとく膣口から粘液が溢れ、大腿まで伝う。こんな量を濡らしたことがないのに、ただしい気がして疑問を持たない。まだなにひとつ触られてないし性感を覚えているわけでもない。しかし膣は咥えた陰茎をしごくように蠕動(ぜんどう)した。

『ねぇ? アスカ』
「シンジ……シンジぃ……あたし、あたし……」
『うん? なあに、アスカ』
「だ……抱い……」

シンジと名乗る相手の身体がまさに触れようとしている。唇はすぐそこで、ほんの少し顔を前に倒すだけであのときのようなキスができる。胸を触り、股間を弄られたらあっと言う間に逝ってしまうだろう。挿入したら破瓜の痛みなんて無視して何度もせがむだろう。レイの家に帰らないでと抱きつけば、頭を撫でて頷いてくれるに違いない。ずっと一緒にいてと言えば、微笑んで同意してくれるはずだ。

『よく聞こえないな、アスカ……』
「シンジ……あたしを……」
『どうして、欲しいの?』

彼の両手が背中にまわされそうだと知って大量の粘液が長い糸を引く。瞳をとろんと媚態に染め、はぁはぁと喘ぐ唇が最後の言葉を口にしようとした刹那、アスカの脳裏にもうひとつの光景が去来した。

戸惑う表情、哀しみに揺らぐ黒い瞳、後悔と自責に歪んだシンジの顔だ。決して嫌われたわけではない。優しかった、大切にしてくれた、最後まで心を寄せてくれていた。だからこれは違うのだ。ここにいるのは彼では、ない。

「ダメぇぇぇぇ!!」

どん、と突き飛ばすように圧倒的な拒絶の力を放出するとアスカの意識はエントリープラグの中に戻るのだった。

荒い息をついて現実をたしかめる。LCLの海に浮かぶのではなく浸っている五感を認識して夢から覚めたのを確信した。熱い肌が落ち着きを回復させ、自己の認識も奪還だ。

だが、融合しつつある弐号機の制御は取り戻せない。通信もほとんど途絶し、発令所はもとより初号機からもノイズばかりの音声だ。どれほど強くATフィールドを発生させても視界すら満足に見えず白と赤黒い壁に支配されている。そして相手のエヴァはまたしても首を絞めようとするのだ。ふたたびあの世界に連れていかれる。今度はどうか、抗えるか。いや、同じ手は二度も使えまい。いきなり犯されるだろう。さきほどよりも強い拒絶が首をぎりぎり押し留めてはいるものの、徐々に負けつつある。このままでは敗北は必至と悟って浮かぶのは自爆した零号機の記録映像だ。

「うくくっ……」

しかし弐号機に自爆機構は備わっていない。死んだら終わりで復活もありえないのだ。どうすればいい。この状況ではなにもできないし緊急脱出も作動しない。ここまで来たのにと悔しさを滲ませる中で出撃直前にゲンドウからかけられた言葉が重なった。ふたりを頼む、と。直接的な会話なんて皆無だったのに、なぜ司令はああ言ったのか。なにも死ねと命じたわけでないのはわかる。だが、どうしていまそんなことが脳裏に浮かんでしまったのか。

「シン、ジ……シンジ……ぃ……」

揺れる瞳から涙が溢れた。LCLに溶けて消えてしまうけれど、つぎからつぎへと想いが流れる。大好きな彼。隣にいられなくても、平和になった世界ならきっといままでのように楽しくすごせる。レイと三人でサイクリングしたり、ショッピングしたり、ゲームしてもいいだろう。まだまだ始まったばかりだ。これからたくさん想い出を作ることができる。笑って、拗ねて、赤面して、食卓を囲んで。月に一度くらいでいいから三人で川の字になって寝て、気まぐれでいいから頭を撫でてくれて、ふたりっきりになったら少しだけ甘えて困らせる。でも、それは叶わない。もう無理だろう。

「シンジ……あたしを……あたしをっ」

そうなのか、とアスカは悟った。レイも自爆したときこういう気持ちだったのかと。彼女は代わりがあるなんてきっと考えずに咄嗟にやったのだ。彼に生きてて欲しいから、誰よりも大切だから。たとえこの身が骨すら残らないくらいに燃え尽きても彼の心に残ることができるのなら、それでいいと。

「あたしを、殺してぇぇぇ!!」

通信が繋がっているのを願って渾身の力を振り絞り、叫ぶ。大切なあなたへ、未来を託すためにアスカは声を枯らさんばかりに絶叫した。それもいいだろう。いや、これがたったひとつの冴えたやりかただ。自分に酔うのでもなく、彼女は本心からそう想った。

『穢される前に、あたしを殺して!!』

アスカの通信は、ノイズに混じりながらもたしかにシンジたちへ届けられていた。今生の願いだと誰もがわかる激しい炎の情念だ。回線から赤い波動が放たれていると錯覚するほどの魂の叫びだ。

シンジもレイも必死になって呼びかけるが聞こえているようには思えない。いまや弐号機はまっ白に染まりつつあり、一刻の猶予もないのは明白だ。放置すればどうなるのか、ふたりにはわからない。ただ、もし融合を果たしたらおそらくかなりの難敵となって立ちはだかるであろうことは想像に難くない。

決断を迫られてもシンジに動けるわけがなかった。世界の命運とアスカひとりの命。天秤の針がどちらに傾くかなど万人に訊かずともわかる。だが彼にとっては平等、いや彼女のほうが重い。生きるため、まだ見ぬ明日のためにと約束してどうして欠くことができよう。そこへレイの無慈悲とも言える声がする。

「碇くん……私が……」
「でもっ、綾波……でもアスカが!」

穢されるとはなにを指すのか不明なれども、女性としての貞操が危ういのだけは理解できる。どうしてなのかという疑問はいま必要ではない。あの叫びを聞いたのだ。アスカを守ることが世界を守ることに繋がる。これは理屈ではなく彼女自身が望んでいるのだ。赤く見える敵機のコアは弐号機の胸部にある。それはアスカも知っているだろう。覚悟しているし助けを求めている。やってくれ、殺してくれ、早く楽にしてくれといまなお懸命に抗っているのだ。

無駄にはできない。人間の、彼女の尊厳を保たねばならない。私情を殺し、アスカを救うのだ。そう決断したシンジはレイの補助を受けながら槍を構えた。右腕は痛めているから左手しか使えないが投擲には補正もかかるので問題なく当てられる。

『シンジぃ! 早くっ、早く!!』

アスカの声を聞いて唇を噛み締めた。血がじわりと滲み、涙で視界が揺れそうになる。初号機の筋肉をたわませ、ぐわりとうしろへ振りかぶって照準をあわせた。レイの手が添えられる感覚がして、彼はとき放つ瞬間に彼女のシンクロを切る。どこまでも自分勝手とわかっていながら、それでもシンジは単槍匹馬(たんそうひつば)にことを成すと決めて叫んだ。

「アスカぁぁぁ!!!」

赤い槍が唸りをあげて一直線に飛んでゆく。切り裂く空気が悲鳴に聞こえるほどの瞬間だ。そして弐号機がまさにいま白一色に染まろうとしている中の一点、赤いコアに切っ先が突き刺さる。加減は利かない。そういう武器ではないのだ。

「ぐうぅ!」

アスカは胸に刺さった槍を感じて呻く。さいわいなことに相手のコアが固かったのか、それとも槍の特性か、惨たらしい出血はない。けれども確実に心臓は止まった。痛みも尋常ではない。それでも彼女の想いは最後の口を開かせる。

「シン、ジ……愛、して……る……」

通信が届いてなくても言えただけで充分だった。侵食は止まり、不快な感覚もしない。シンジが助けてくれたことに深く感謝して、アスカは息を引き取った。最期まで可愛いと言ってもらえるように、笑顔を浮かべて。弐号機の電源が落ちるのも同時だった。

静まり返った初号機のエントリープラグに声はない。通信が故障したのか、発令所から作戦完了の連絡もない。だが、項垂(うなだ)れて涙を落とすシンジが欲しいのは、ミサトでもなければゲンドウの労いでもなかった。元気に勝利を宣言するアスカの声だ。

――こんなのお茶の子さいさいよ。アンタばかぁ、あたしが負けるワケないじゃないの。あらシンジ、心配したの。キスぐらいしてもいいわよ。お腹空いたからハンバーグ作んなさい。

ないとわかってても渇望した。石化した白いエヴァと弐号機を知っている。プラグ内のモニタは砂嵐で通信も途絶したままだ。気絶で済むなどとわずかな希望さえ持てないほど、あらゆる情報が彼女の死を示していた。

レイは座席ベルトを外すとシンジの許へ泳いだ。隣に腰を落とし、口を開くが言葉が出ない。なにを言えばいい。親しいひとの死を前に、どんな慰めが適しているのか。彼女は泣いてる自身に気づかないほど動揺し、唇を震わせた。彼に触れることも名を呼ぶこともできず、眉を寄せてただ黙る。あの場ではこれしかなかったと理解してても心が納得できなかった。

太陽のように眩しかったアスカ。腰に手を添えて、両脚はいつも肩幅だ。いろんな話題があって、たくさんの服で着飾っていた。胸もお尻も大きくて、栗色の髪と青い瞳が特徴的だった。彼を名前で呼び、表情を天気のように目まぐるしく変えていた。同じひとを好きになって、彼が諦められないと言った彼女。戦いが終わったらと約束までした。果たされなかったことへの安堵は微塵もない。喪失感が心を支配するばかりだ。三人で遊園地に行ってみたかったし、ちゃんと名前で呼んでみたかった。なのに、もうアスカはいないのだ。

噛み殺したシンジの嗚咽(おえつ)と長い沈黙が響き、まるで喪に服するかのように初号機の電源も落ちる。レイは非常灯すらつかない暗闇の中でこれからどうすればいいのかを考えた。それはやがて駆けつけるであろう医療スタッフや戦後の対応でもない。いわば自身の生きかただった。補完計画までの命だと思っていたがゆえ、将来を見とおせない。シンジの隣にいたい気持ちは変わらない。けれど、暗闇を照らす道標が欲しかった。すべてを模倣するのではなく、ほんのわずかな足がかりとなるような、ときには叱ってくれるような友人が欲しかった。まさにアスカこそが彼女の憧れそのものだった。彼女にはなれない、自分は自分であると理解してもなおその影を追ってしまう。いつか隣に並び、対等に接せられたらいいとほのかに寄せていた想いは儚く散ってしまった。

「うっ、ううっ……」

失った存在への大きさにレイはすすり泣く。それはシンジを想っての涙ではなく、かけがえのない友人を悼んでのものだった。そしてそれを呼び水としたかのように彼の声も大きくなる。心に押し留めていたものが一気に溢れ、最後は慟哭となってこだまする。

「アアァァアアァァ!!」

その瞬間だった。初号機が再起動を果たしたのは。シンジは気づいていない。レイははっとなってプラグの壁面に目を走らせる。電源が落ちているはずなのにそこには外界の映像が映し出されていた。暴走している、と認識するや否や景色が一気に下へ流れた。エヴァが立ちあがったにしてはおかしいし、なにより高すぎる。

「どうなっているの?」

呆然として周囲を見渡せば景色はぐんぐんと変わり、あっと言う間にジオフロントの天井を抜ける。モニタを見ても機体の変化を示すデータは映っていない。そもそも飛ぶような機能など搭載されていないのだ。

「碇くん、おかしいわ……碇くんっ」

レイは呼びかけるが彼は泣きながら身体を前に屈し、操縦桿を叩くばかりで応じない。耳に聞こえるのが初号機からの叫びだと知って、焦燥に駆られた彼女は制御を取り戻そうとシンクロを試みるが受けつけなかった。ダミープラグが用いられていないのであればまだ可能なはずだ。同じリリスを起源としている肉体なら。そう考えて集中してもなんら変化はなく、高度は増すいっぽうだ。眼下に大きく破壊された第三新東京市が見えるが建物は米粒になっている。何回も雲をつき抜け、どこまで上昇するのかわからない。

青く一面に広がる雲海があり地平の彼方が丸みを帯びているとき、突如として眼前に赤い槍が現れた。使徒の殲滅に使用したオリジナルのロンギヌスの槍だと直感する。月軌道へ乗り、月面にまで至ったはずのものがなぜいまここにあるのか。なんら危機的状況に陥っていないにもかかわらずシンジの慟哭に呼応したかのような初号機の暴走と咆哮。あたかもこの機を待っていたかに見える槍の出現。彼女はもしや彼になにか関係があるのかと見下ろした。

「碇くん、その手は……どうしたの?」

彼もまた自身の手のひらを見詰めている。戦闘中に負傷したものとは違うし、操縦桿を叩いてできたものでもない。外的な要因による丸い痣が、両手にはっきりと浮かんでいた。

「僕は……僕はなにをしたんだ……僕は……」
「碇くんっ、しっかりして。気をたしかに持って!」

レイは危険ななにかが起こるような予感を覚えてシンジの肩を掴む。強くゆすっても彼からは声にならない呟きばかりで聞き取れない。どうすればいい。抱き締めるか、口づけをするか、頬を叩くか。彼女はそう逡巡したが、どれも実行に移される間もないままふたりは同時に気を失った。


本部の発令所は混乱の境地にあった。まず、アスカの救助隊を向かわせようにも戦闘によって出入り口がことごとく破壊されており出動できない。バイタルもモニタできず生死が不明なれども放っておく選択肢は存在しない。急ぎ瓦礫の撤去をおこなっているとき初号機が暴走して高く飛んだのだ。しかも背中からは四枚の光る翼を生やしている。何度も整備をしてきた職員たちでさえそんな機能があるとは知らない。

ミサトが必死になって通信で呼びかけても強力なATフィールドに阻まれて応答はなく、シンジとレイのバイタルも未知数だ。リツコに訊こうにも彼女は姿を消し、さりとてマヤはまだマギにかかりっきりである。誰もがサードインパクトを阻止したと思っていたのに、それもいまや怪しい雲行きだ。原理も、なにが起こっているのかもわからないまま初号機は成層圏まで上昇し、回収が不可能だったはずの槍まで戻ってくるとなれば悪い予感がするものである。

そして焦燥はゲンドウと冬月も同じだった。エヴァシリーズさえ殲滅すれば補完がなされないのはただしい。しかし槍の帰還は最悪だ。それに、S2機関を搭載した初号機ならば一機だけでもセカンドインパクトに匹敵する災害を招く可能性があるのだ。

「まずいぞ、碇。これでは……」
「ああ。ユイの願いも消えてしまう」

取り込んだS2機関が消失してしまえば不完全な神にしかならない。長い旅には耐えられず、朽ちてしまうだろう。冬月は司令席より身を乗り出し、ゲンドウも立ちあがる。まずありえないとわかってても万が一を想定しなければならない。それを悟った冬月が振り返った。

「行くのか? だがレイは……」
「どうであれ黙って見ているわけにはいかん。備えは必要だよ……冬月先生、あとを頼みます」

ゲンドウの表情は動かない。家族や友人と呼ぶほど親しくはないし、師弟とするほど教示したこともない。それでもここまでやってきた間柄である。冬月にはもう彼がここへ戻ってこないような気がした。

「そうか……あまり無茶をするなよ」

ユイの許へ行くのならべつの言葉もあったが、いまとなっては違う。らしくないことを口にしたと思いながら、冬月はエレベータの中に消える男を見送る。ゲンドウから(いら)えはなかった。

ターミナルドグマへ向かうエレベータはひとり用だ。途中で止まらず終点まで一直線である。照明がほとんどないまっ暗な穴の中を落ちるように進むゲンドウは、在りし日の妻を追うようにこの道を何度も利用してきた。

彼の両親は厳格で、自覚できるだけの愛情を受けてはこなかった。笑顔を向けられた記憶もあまりない。その反動が非行や暴力にゆくことなく思春期を迎え、内に()もった。己に価値を見出すため彼が目を向けたのは勉学だった。溜まった鬱憤を晴らす意味もあったかもしれない。それが国内有数の学校への進学に繋がったのだから皮肉だ。そして同じ頃に両親も相次いで他界する。愛されないまま長年の呪縛からも開放されず、成人しても常に周囲の目を窺うのが常となり、それが原因で諍いに発展することがしばしばあった。

両親の死に涙せず、ひとづきあいの苦手な自身を心の欠けた生きる屍と称するほど自虐と孤独に囚われた彼を救ったのは、後に彼の妻となるユイだった。

ユイはひと言で評するなら世話焼きである。資産家の娘で不自由なく育った彼女には彼が見てられないほど痛ましく思えた。初めこそ頑な態度だった彼もいつしか根負けし、やがて恋をするようになった。心の壁を取り払った彼をユイは受け入れ、子供のように慈しんだことで彼はようやく愛というものを知る。ゲンドウにとってユイがすべてであり、人間でいられる証だ。

しかし、安息の日々も長くは続かなかった。幼い息子を残して文字どおり消えてしまったのだ。身体の大部分を失ったに等しい苦痛と空虚がふたたび彼を屍へと変えてしまう。残されたのはわずかな理性と追い縋る弱さだけだ。ゆえに、補完計画は天啓に思えた。これならばもう一度あの安らぎへ至れると、仮初の情熱を灯らせて歩くことに決めたのだ。

「やはり、いらしたのですね……司令」

ターミナルドグマへ到着して白い巨人へ向かおうとしたゲンドウを待っていたのは、白衣の科学者だった。LCLがたゆたう畔に腰を落とし、肩口に振り返っている。

「きみか……」

ゲンドウはリツコが待っているのを確信していたが、あえてそう口にした。まともに言葉を交わすのはいつ以来か。ずいぶん昔のような気がする。冬月には備えと言ったが、妄言に等しい。実際のところ、来る必要はなかった。単なる自己満足であり、捨てきれない妄執に対するけじめだ。

「レイはいません。ご存知でしょう?」
「ああ、知っている。私はただ……見届けに来ただけだ」

リツコは立ちあがってゲンドウを見据える。互いの距離はおよそ三歩。ベッド以外ではいつも保たれてきた隙間だ。母に対抗して彼を誘惑したあの夜から決して埋まることのなかった、海より深い川。

「ユイさんにはお逢いにならないのですか?」

ゲンドウは押し黙る。葛藤か、それとも言いたくないのか。ひた隠しにしてきた彼の真意を彼女が気づかないはずはない。いわんや協力してくれなどと口が裂けても頼むまい。

「右手のそれを使えば、まだ間にあうのではなくて?」

補完を正確にコントロールするには意思の疎通が可能な端末が必要である。それがレイだった。彼自身がリリスと融合すればあるいは強い願いで初号機の許にゆけるかもしれない。

「このときを待ちわびていたのではないのですか?」

リツコは声こそ抑えているが明らかに煽っていた。早く切り捨てろと、背中を向けろと。つまらない感傷など似つかわしくないし、あるわけもない。おためごかしの憐憫(れんびん)など不要だ。そう嘲るような視線を向ける。果たしてゲンドウは長い沈黙から口を開いた。

「きみたち親子には……」

もしここで謝罪の言葉が出たならばリツコはポケットに忍ばせている銃を撃つつもりでいた。なにもわかっていない、どれだけ肌を重ねてもこの男には届いていなかったと。だが彼は続きを言わない。代わりに向けられたのは銃口だった。

「どうされたんですか?」

自身の死が目前に迫っててもリツコに恐怖はない。これこそがこの男にふさわしいとばかりに余裕の笑みを浮かべている。幾万の言葉より凶弾を放つほうが楽だろう。ここに遺体を捨て置き振り返ることなくリリスへ向かえばいい。それでようやく楽になれると彼女は思っていた。補完されようがされまいがもう居場所も役目もないのだ。

だが、数十秒は経っているのにいくら待ってもそのときは訪れない。ゲンドウの指は引き金にかからず……いや、引いた対象は自らの右腕だった。肘から手のひらに向かって何度も躊躇なく弾丸を放つ。血しぶきが彼の顔に飛び、黒い士官服の半身を赤く染める。痛みがないわけがない。歯を食い縛り、十発以上を打ち込んだところでようやく止まった。

「なにを、されているのですか……?」

さしものリツコもこれは予想していなかった。ゲンドウの肘からさきは吹き飛び、床には肉塊となった腕とアダムだったLCLだけである。いかに使徒の起源とはいえ、ATフィールドを展開していなければただの幼体でしかない。槍やエヴァはなくてもあっさりと殲滅されるのである。

「シンジは強くなったな……あいつの目は私とは違う」

銃を床に捨て、額に脂汗を浮かばせながら打ち抜いた腕を押さえるゲンドウは独白した。天井を見あげ、なにを想っているのか。レイが手を離れたから自棄になったというふうには見えない。口元が寂しげに笑っているのは自嘲しているからか。

「シンジ君があなたを変えた、と?」
「そうかもしれん……が、初めから決まっていたのだろう」

レイが離反する可能性もあった、とリツコは察した。余計なことさえしなければ順当に迎えられたはずなのに、他人との接触を設けたがために心を宿してしまった。だがゲンドウに限らず、これまで多くのひとがレイと接している。それなのにいままで変化がなかった。誰でもよかったわけではないのだ。

「では、シンジ君が……ですか?」
「ああ。あいつにしかできなかった……ということだ」

ゲンドウが顔を戻す。リツコを見据える瞳に陰りはない。出血の多さから顔色が優れないにもかかわらず、どこか晴れ渡ったような表情をしている。そして目的がそこにあったかのような口ぶりで言うのだ。

「それを使いたまえ。きみにはその権利がある」

銃を捨てた彼を見た瞬間、そう言われる予感があった。だがリツコにもう撃つ気持ちはない。不自然なほど長く背中を向けていたあの日の独房、いまだって銃口も同じように長く射線を維持していた。これが彼なりの誠意なのだろう。だったら自分も言葉はいらないのかもしれない、そう彼女は理解してても馬鹿で小娘じみたことを尋ねてしまう。

「どうして、愛していると言ってくださらないんですか?」

今度は彼が驚く番だった。まともな表情などほとんど目にしなかった男が眉をぴくりと跳ねさせ、小さく吐息を漏らしたのだ。明らかな悔恨であり、自責だった。

「私に、そんな資格はない……」

出血と痛みがついにゲンドウの膝を屈させる。尊大で傲慢だった男がいまはとても小さく、リツコにはまるで懺悔しているように見えた。そして彼の言葉こそ彼女には救いであり、同時に寛恕(かんじょ)へと至らしめる。ならば取るべき行動はひとつしかない。

「司令っ!」

ことここになって初めてゲンドウの姿を見たかのようにリツコは突き動かされて駆け寄った。自身でも驚くほどのあせりの声をあげている。それに対し彼ははっきりと目を見開くのだ。

「きみは……なにをしている」
「止血します。ひとまずそれだけでも」
「必要ない。あとはきみが見届ければいい」

リツコは恥を捨てて素早くストッキングを脱ぐと、ゲンドウの腕を縛った。1リットル以上の血液が失われると死に繋がるという知識が頭に浮かび、手が震える。彼のポケットを乱暴にまさぐって電話を取り出すと、肩口に挟みながら医療班へ連絡した。

「いますぐターミナルドグマへ来て。司令が重傷なの。一刻の猶予もないから急いで。早く!」

握りつぶすように通話を切ってから所属も名前も言わず、急かす言葉だけを連呼した自分に気づく。かけ直すべきかと迷う前に彼を寝かせ、太ももの上に頭を乗せた。彼の出血はどれくらいか見当もつかないが、予断は決して許さない。

「きみは……」
「見届けるならご自身でなさったらどうです」

生きることを放棄しているゲンドウの声が胸に痛い。なんて不器用な男なのかと。こんなことくらいでしか心を示せない、言葉を尽くしても届かないし誤解されるだけだと思い込んでいる。青ざめてゆく彼の顔を見ずに止血した腕を取って高くした。それがさも看取る寸前のような光景に思えてリツコの視界は揺れる。

「私にはなにもない……空っぽの男だ」

ここで死んでも悼む必要はないと言外に告げられている気がしてリツコは唇を震わせる。愚かなことをしたと思った。ほんの少しだけ踏み出せば理解しあえたのにそれをせず拳銃を向けたのだ。本当は求めていたのに。誰よりも深く愛していたのに。向けなければいけなかったのは、微笑みだったのだ。

「そんなこと言わないで……お願いです」

ゲンドウは自らの死期を悟ったのか、無事な片手でサングラスを外した。光のない目が彼女の前に現れる。そして乾いた唇ではっきりと告げるのだ。

「もういい……リツコ……」

なぜこんなときに名前を呼ぶのだと彼女は腕を握った。リツコも半ば悟っている。ここへ医療班が来るのはあと五分以上かかるだろう。きっと間にあわない、助けられない。それでも救いたい心に一点の曇りさえなかった。

「ようやく、呼んでくださいましたね……」

リツコの涙がぽたぽたとゲンドウの頬へ落ちる。片手で彼の頭を撫で、できる限りの笑顔を作った。もうこれくらいしかしてあげられない。

「ありが、とう……」

ゲンドウは大きく息を吐くと、そのまま力を失った。何度呼びかけても答えはなく、頬も動かない。体温はまだ残っており、ここにいるのだと思いたいのに医者としての彼女は否定している。愛した男はたしかに亡くなったのだと。

「司令っ、碇司令っ……ゲンドウ、さん……」

彼の胸に顔を埋めて、リツコは啼泣(ていきゅう)する。その言葉をもっと早く聞きたかった。どこまでも勝手で臆病で、繊細なひと……いや、ここで終わらせてはならない。泣いている暇などないのだ。まだ十秒も経っていない。あらゆる手段で彼を留める、そのための知識だ。

リツコは瞬間的に脳を沸騰させ、心を激しく燃やした。母を追うのでも越えるのでもなく、愛する男を救うこの瞬間のためのいままでなのだと、すべての仮面を脱ぎ捨てるのであった。