第零話
玄関のドアをくぐると右手に下駄箱があり、隣にはキッチンがある。背面は洗面台になっており、脱衣所と兼用だ。トイレと浴場が同じ部屋なのはこのマンションがひとり世帯用として建てられたためだ。第三新東京市の建設に携わる労働者たちの住居という位置づけである。したがってリビングやダイニングはなく、八帖少々の寝室ひとつしかない。洗濯機を置くスペースも限られているから住人の多くはベランダかマンションの廊下に備えていた。
マンションの外ではそこかしこで工事が進められており、昼夜を問わず機械の音が鳴っている。セカンドインパクト直後の混乱にあっても、この町だけはそれよりも前に最優先で手が入っていた。死者やゆくえ不明者の捜索も済んでいない中で厚遇どころではない人員と物資が投入されている。復興の象徴、と政府から喧伝されているが真実を知る者は少ない。
本来、箱根の町は五月でも夜になれば肌寒さを覚える気候だが、地軸の変化によっていまは夏と変わらなくなっている。ベランダで手すりに片肘をついた半袖の男は遠くに見える芦ノ湖を眺めていた。右手にはタバコがあり、紫煙をあげている。男のすぐ隣に置かれた全自動洗濯機はふたりぶんの衣類を洗ってるまっ最中だ。
「いい場所なのにな……戦場になるのか」
ぽつりと呟いてタバコを吸う。地黒の肌に黒い短髪、身長は高いが筋肉質というほどでもない。二度、三度紫煙を吸っては吐くと、足元の空き缶に投入して部屋へ戻った。中には肩口で髪を切り揃えた若い女性がダブルベッドに座っており、彼の背中へ向けていた顔をさっと正面に戻していた。
「もうやめる、って言ってからだいぶ経ちますけど?」
男の顔を見ずに女は言った。彼が放つタバコの残り香に顔をしかめて、わざとらしく咳までする。彼女の隣に並んで腰かけた男は困ったように片手で頭のうしろを掻きながら応じた。
「いや、この一箱が終わったらやめる。約束するよ」
「本当ですか? 予定日は来月なんですから、頼みますよ」
「ああ、ちゃんとやめる。嘘はつかない」
男は女に息がかからないよう顔を背けて肺の中の空気を全部入れ替えると、ふたたび向き直る。彼女はそんな様子にくすりと笑って大きな腹を撫でた。
「それで名前、考えてくれた?」
小言を口にしたばかりなのに、声はとても柔らかい。男が腹を撫でてきたので存在を教えるように左手を重ねた。ちらりと彼の横顔を見れば、とても嬉しそうに目を細めている。
「男ならシンジ……女ならレイと名づける」
「シンジ……レイ……ふふっ、いい名前ね。あえてどっちか聞かなかったから、楽しみが増えたわ」
「もうすぐ新しい家が完成する。そうすればいまより便利になるよ」
「本当? それはよかったわ。さすがにこの部屋じゃ手狭ですからね」
女は目を輝かせると周囲を見渡す。クリーム色を基調とした花柄の壁紙に囲まれて、ベッドのシーツも花柄があしらってあるが家具は最小限しか置かれていない。ドライフラワーの生けてある花瓶に本棚、小さいテレビがひとつあるだけだ。男は彼女の優しげな表情に安堵して続けた。
「三人で住むのにはちょうどいい」
「あら、私はべつに四人でも五人でも構いませんけれど?」
「冗談はよしてくれ。俺にそんな世話は無理だ」
「まったく、あなたってひとは……育てるのは私じゃないですか」
男はまた困ったような顔を浮かべて彼女の腹を撫でる。すると内側からどん、と衝撃が伝わった。驚いて思わず引っ込めようとするものの、力強い女の手がそれを許さない。
「おい、蹴ったぞ……名前がよくないのか?」
「これは喜んでいるんです。父親になるんですから、もう昔のことはいつまでも引き摺らないでください」
「すまん……その、あまり自信がなくて、つい……」
男の眉尻が少しさがったのを見て女は微笑むと、右手で彼の頬を撫でる。相手が唇を見てきたのではぐらかすように顔を逸らして見下ろした。
「きっと男の子ね」
「わかるのか? ユイ」
「ゲンドウさん、知りません? 男の子は最初に父親へ嫉妬を向けるんですよ?」
「それは……困る」
あからさまにがっかりと肩を落とすゲンドウの姿にユイはころころと笑い声をあげた。彼はなにか口にしようとするものの、小さい溜息をつくだけだ。浮かれた彼女はさらにからかう。
「ほら、また蹴った。絶対にシンジね……もっと堂々としてろって怒ってますよ?」
ついにゲンドウは閉口して、渋い顔を返すのみとなってしまう。彼女はそんな彼の横顔をまじまじと見たあと、そっと口づけをするのであった。
侵入者に対して即座に発砲し、もし生存していたとしても多額の罰金と懲役が科せられる。そんな物々しい警告表示があるのはターミナルドグマだ。ゲヒルンに勤める職員でさえ存在を知る者は少なく厳重な秘匿をされている区画のさらに奥は、ある意味でこの世の最果てにも等しい。
人工進化研究所の三号分室は剥き出しのコンクリートに囲まれた殺風景な部屋だ。多数のCRTモニタが並び、計測や分析、検査など細かくおこなえる設備が充実している。湿度が高く、薄暗い。薬品の匂いが鼻腔をくすぐり、ともすれば工場のような雰囲気を覚えた。
部屋の真ん中に置かれた無骨なストレッチャーに腰を落としているのはユイだ。彼女は両手でタオルの包みを大事そうに抱えて微笑みを浮かべている。
「本当に、綺麗な子ね……」
タオルに包まれていたのは赤子だった。とても白い肌に青みのある絹糸のような頭髪が特徴的で、すやすやと寝息を立てている。ユイは上体をわずかに揺らしながら片手で規則的に優しく赤子の背中を叩く。異質な外見にためらうどころかうっとりとした視線を注いでいた。
「ユイ、ここにいたのか」
そこへ戸口から声をかける男がいる。長身に白衣を着て、眉尻をさげたゲンドウだ。ユイは夫の顔を見ないまま小さく頷いて囁くような声で応じた。
「あなた見てください。とても可愛い子ですよ?」
ゲンドウはユイに促されて彼女の傍へゆく。隣に腰を落としながらタオルの中を見て驚愕の表情を浮かべた。思わず声を詰まらせると妻の横顔を見る。
「おい、その子はまさか……水槽から出したのか?」
ユイは器用に片手を口元へ持ってゆくと人差し指を立てて静粛を促す。平時でも恫喝するようなゲンドウの声色で起こしてしまってはいけないと慎重だ。
「さっき、産声をあげたんです。あんなにもたくさんいる中からひとりだけ」
「そんな……産声、だと!? では魂が宿ったということか?」
「今日で七日目よ」
「信じられん……エヴァには宿らなかったのにか」
「ええ。これは啓示かもしれませんわね」
ゲンドウは恐る恐る赤子に手を伸ばすものの、寸前で引っ込める。とても触れていい相手ではないとその指先は語っていた。息さえ止めそうなほど動かずにじっと様子を窺うが、ユイの胸元が大きくはだけているのに気がついてさらに目を見開いた。
「乳を、あげたのか?」
「だって可哀想じゃありません? いくらLCLで足りるからと言っても、ひとの形をしているんですから」
「しかし相手は……」
「あら、私が穢れているとでも言うつもり?」
「そうではない。ただ……」
「無垢なままがいいのか、自然に任せるのがいいのか誰にもわからないのなら母性に委ねるしかないじゃないですか」
「すべては流れのまま、か」
ユイはゲンドウに顔を向けて頷く。彼は覗きこんでいた姿勢をただすと腕を組む。ひとがそうするとき、なにかの脅威から身を守る心理の表れであることに彼は気づいていない。いっぽうで彼女は内心を見透かしていた。
「大丈夫ですよ、そんなに警戒しなくても。普通の子供と変わりません」
「そう言われても相手は神の顕現だぞ」
「でもすぐに外へ出すのは無理ですね。とくにあのひとたちには……」
「ああ当然だ。きみには悪いが俺は信用していない」
「あら、私だってそうですよ? たまたま家がそうだっただけです」
「そうか……しかし手続きは必要だな」
ゲンドウの言葉を受けてユイはまた赤子を見下ろす。彼女の唇は音を紡がないながらもなにかを告げている。二回、三回と首を捻ってはまばたきを繰り返し、ぽつりと言った。
「あや……なみ……綾波なんて苗字はどうですか?」
「綾絹の白波か……」
「ええ、こんなにも美しい髪の色をしているんですからね。ね? レイ……」
「レイ……うむ。せっかく考えたのだからな」
「いずれシンジに逢わせてもいいかもしれませんね」
シンジの名前を耳にしたゲンドウは、ここへ来た目的を思い出したかのような面持ちで顎を撫でる。溜息を堪え、少し気まずそうに唇を歪めた。
「そうだユイ。シンジのオムツを替えてやってくれ」
「それくらいやってください。もう十ヶ月も経つんですよ?」
「いやしかし俺は……」
「あら酷いひと。産ませるだけ産ませて知らん顔?」
「そんな顔をしないでくれ。俺はなにかあったらと……」
ゲンドウはしどろもどろになって弁解するが毅然としたユイに圧されて困り顔だ。それでもなんとか言いわけをしようとすれば自然と声も大きくなる。それが眠っていたレイを刺激してしまうのは当たり前だ。さも不快だと言わんばかりに、彼女は泣き声をあげるのである。
「ほらっ。レイが起きちゃったじゃないの」
「あ、いや……その……すまん」
「いいからあとを頼みますよ。手続きも、いいですか?」
「わ、わかったよユイ……」
ゲンドウはすぐさま踵を返すと部屋を出てゆく。オムツ、洋服、絵本などレイに必要なものを指折り数えながら呟いていた。そんな彼の背中を見てユイはくすりと笑うと腕の中の赤子をあやす。
「なんだかんだ言って浮かれてるじゃない……ねぇ?」
シンジの育児経験からレイを宥めるのもお手のものである。おなかは空いてないし、オムツも替えたばかりだ。少し揺らして安心させてあげればいい。まるで我が子さながらに慰撫すれば、ほどなくしてレイはまた眠りについた。
「あなたはどんな瞳をして、なにを見るのかしら?」
監獄のような冷たい部屋でもふたりの姿は彩りを放っていた。ただ、ユイの目には大きな憂いが残っている。夫に見せることのできない決意と不安が浮かんでいた。
眼前に凪いだ湖面が広がり、山からの風が心地よい水気を運んでくれる。それでも日差しは強く、やがて一歳半になる幼児を連れていれば広葉樹の下で涼を凌ぐのは当然だ。商業施設もぽつぽつと建ち始め第三新東京市の人口も比例して増えてきた昨今、芦ノ湖の畔にある公園にも数人の町人が見られた。休日で天気にも恵まれているとなれば家族やカップル、ジョギングしている姿やベンチに座って新聞を読む中年もいる。
そんな中でベビーカーから我が子を抱いてあやしているのはユイだった。袖のない水色のカットソーに、デニムのスカートを穿いている。そして隣に立つのは白衣に黒いズボンのゲンドウで、額の汗をしきりにぬぐっていた。白いハンカチはじっとりと重く、彼はたまらず上着を脱ぐとベビーカーへ乗せる。ユイは湖面を見詰めながらちらりと彼を窺って呟いた。
「偉くなるとたいへんなのね」
「ああ、まったくだよ。下ならともかく、地上は暑くて敵わん」
ゲンドウは首筋の汗を拭き終えると、ユイの腕に抱かれた我が子へ近づく。まだはっきり会話が成立するほど言葉が話せなくても見ているだけで飽きないとばかりに目を細める。
「あんな穴倉の中じゃつまらないわ。発育には日光が大切なんですから」
「たしかに。しかし、害する輩がいないとも限らないからな。きみとシンジを守るためだ」
「そんな、おおげさです。町の住人はほとんどが身内みたいなものですよ?」
そうよね、と言いたげな表情でユイはシンジへ語りかけた。そんな彼女にゲンドウは口を開きかけるが、なにも言えずシンジへ顔を寄せる。
「うん? どうした、シンジ。父さんになにか言いたいことでもあるのか?」
両手をぱたぱたと伸ばす息子にゲンドウはひと言でも聞き逃すまいと、鼻息を荒くした。顔をひょっとこのようにする夫にユイはニヤリとして意地悪を口にする。
「あなた。おヒゲちゃんと剃ってください。忙しいからって無精ヒゲじゃ不審者ですよ」
「いやそれが、昨日シンジが楽しそうに触っていたから知育にいいかと思って」
「ちくちくするだけですから。もうっ、シンジのことになるとすぐそればっかり……」
困ったように眉を寄せてユイを見るゲンドウだが、彼女の口は止まらない。曰く、そこまで理解できないのに絵本を買いすぎだとか、服も馬鹿みたいに揃えるとか、そのくせオムツを替えるのは滅多にしなかったし抱っこも絶対にしないと。苛立ちというよりも、他愛もない愚痴だった。
「当然だろう? こんなにも愛しい我が子なんだ」
「あら、聞きました? よかったわねぇ、シンジ。お父さんが大好きでしかたがないですって。私にはほとんど言わないくせに、妬けちゃうわ」
「むう。そんなことない。ユイのことはとても大切だ」
「ほらっ、嫌ねぇ。取ってつけたように……シンジ、こういう大人になってはいけませんよ?」
それからしばらくはふたりの間で愛や恋についての話が始まる。ユイはゲンドウの反応を見て押したり引いたりと言葉の駆け引きに忙しく、片や彼は百面相でしどろもどろだ。どこにでもある、平和な家族の姿がそこにはあった。だが話も一段落すると、彼は急に表情を翻して哀しそうに眉尻を落とす。
「セカンドインパクトのあとに生きていくのか、この子は。この地獄に」
「あら、生きていこうと思えば、どこだって天国になるわよ。だって、生きているんですもの。しあわせになるチャンスは、どこにでもあるわ」
「そうか……そうだったな」
「ええ……」
ゲンドウは自らに言い聞かせるよう頷く。ひと言ひと言噛み締めて、木陰を作り出している広葉樹を見あげた。力強い生命を感じさせる太い幹、無限の可能性を求めるように伸ばされる枝、多くの光を受ける葉を見て彼はなにを想うのか。
そんな彼へユイは一瞬だけ哀しげな表情を浮かべる。ともすれば心が折れてしまいそうなほど眉を寄せて葛藤を滲ませると、ぎゅっと腕に抱く力を強めた。もしここでシンジが泣いていなければ、あるいは涙していたのは彼女かもしれない。
「むっ、シンジか……どうした? 具合でも悪いのか? ん? 父さんになんでも言いなさい」
「おっぱいが恋しいんでしょう。いまあげますからね」
言うや否やユイはTシャツをたくしあげる。もう授乳期は終えているのだが時折甘えるシンジのためブラジャーはつけておらず、豊かな白い乳房が晒された。それに慌てたのがゲンドウだ。
「待て待て、いくらなんでもここでは……」
「あら、誰も見てませんよ。あなたは他人の目を気にしすぎです」
「そうかもしれないが……」
「これからはゲヒルンの所長として、強くなくては駄目」
ゲンドウの親なさがらにユイは厳しく言った。俯いてシンジを見る彼女の表情は彼から見えない。揺れる瞳も、強く結ばれた口元も、知ることはなかった。
「俺には荷が重すぎるよ」
「ええ、そうかもしれないわね。あなたはとても弱いひとだから」
「だったらなぜ、俺をキール議長に推した?」
ユイはハンカチを取り出し、汗を拭くふりをして目尻にあてがうと聞こえないほどの溜息を漏らす。言葉を捜すというより、感情を抑えるためにじっくり時間をかけて彼を見あげる。
「ゲヒルンのひとたちなんて、みんな自信に満ち溢れているじゃない。ゼーレなんかとくにそう。自分が大好きで、とても強い。そういったひとに、他人のことなんてわからないわ。弱いからひとの痛みがわかるし優しくできる……だから私はあなたを好きになったのよ? だって、いつも一生懸命だったじゃない。不器用なのに、なんとかしようって、いつも優しかった。これで好きになるなってほうが無理よ」
「そう、なのか……?」
ユイの言葉にゲンドウは感銘を受けたように目を見開く。妻の熱い想いに衝撃に受けて、照れと嬉しさと気まずさが同居したような顔になった。
「これからあなたを待つのは多くの試練よ? 嫌な相手に頭をさげなければいけないし、多数のために少数を犠牲にする覚悟も必要だわ」
「ああ。知ってる……だから俺には向いてないと……」
「演じるのよ、強い自分を。そうね、メガネやサングラスでもして、口調や声も変えて、動じないように装うの。おヒゲも案外いいかもしれないわね」
「似合わないんじゃなかったのか?」
ユイは夫の顔をまじまじと見て吹き出すと笑う。乳房がぷるぷると揺れ、しゃぶってるシンジが波打った。ゲンドウは一杯食わされたとしかめっ面をするが、落ち着いた彼女は否定しない。
「たとえば、よ。一例を言っただけ。そういう解決もあるということです」
「演じる、か……」
「やっていくうちに板について、それが普通になるかもしれないわね」
シンジが満足したと見て、ユイは胸から離すと口元をぬぐってやる。水を飲ませて抱き直し、背中をさすれば小さい噯気が放たれた。ゲンドウは彼女の胸元をただしてあげるが顔は暗い。
「事故の心配はないんだな?」
シンジの背中を擦るユイの手が、ほんの一瞬だけ止まってもゲンドウは気づかない。彼の目線は満足そうな顔をしている我が子に注がれていた。
「あら、まさかいまのが遺言のように聞こえましたか?」
「そうじゃないが、つい……不安になった」
「ふふっ。大丈夫よ。シンジとあなたを置いてはどこへも行きません。あの子だっているんですもの」
そっとベビーカーにシンジを乗せたユイは屈んでつぶらな瞳を見詰める。ぺたぺたと頬を触ってくる我が子の感触をたしかめるように、彼女は目を細めた。
「そうか……きみと赤木さんもいるのだからな」
「ええ、そうですよ……ゲンドウさん」
彼らを囲むように風が一陣とおりすぎた。ゲンドウは妻の背中を眺めて言葉を捜す。言うべきか、言わざるべきか。告げるのがさも不吉であるかように憚られながらも結局は口にした。
「ユイ……愛しているよ」
果たして、彼女は肩をぴくりと跳ねさせると肩越しに振り返って嬉しそうに微笑むのだ。その瞳にはなんの迷いも憂いも見られない。だから彼は安堵する。
しばしそうやって束の間の時間を満喫した三人だが、遠くに黒服の一団を認めてゲンドウは舌打ちした。先頭を歩くのは機嫌が悪そうな冬月だ。三人の傍まで来ると黒服たちは去りさっそく小言を口にされる。
「碇。子煩悩はいいが、責任者としての自覚も持て」
「ああ、済まない冬月教授」
「赤木君が少々荒れている。なかなか手に負えんからお前が宥めてやってくれ」
「スケジュールが遅れているからだろう。すぐに行く」
ゲンドウはそう返すとベビーカーの背もたれから上着を取ってその場を去った。黒服の数名が護衛として同伴し、彼を車まで案内する。
冬月とユイ、そしてシンジだけが残された湖畔で彼女は変わらず息子の前から動かない。ゲンドウに見せた表情の面影はなく、さりとて冬月へ気楽に話しかけるようなこともなかった。なにか言われるのだろう、背中だけがそう語っている。そして予想どおり、冬月は雑談から入った。
「今日も変わらぬ日々か……この国から秋が消えたのは寂しい限りだよ。ゼーレの持つ裏死海文書……そのシナリオのままだと十数年後に必ずサードインパクトが起こる」
「最後の悲劇を起こさないための組織。それがゼーレとゲヒルンですわ」
ユイは声を抑えて応じた。冬月と不仲というわけではないし、かつて大学でも教鞭を授かった身だ。ゲンドウに向ける顔、シンジに向ける顔、そして冬月へ向ける顔は違う。
「私はきみの考えに賛同する。ゼーレではないよ」
それから互いに言葉を交わすが、内容は確認であり約束であり、憂いである。冬月の口調は断じるとするには穏やかで、さりとて諦めとするには力があった。だが、ユイの放つひと言が決定的になる。
「すべては流れのままに、ですわ。私はそのために、ゼーレにいるのですから……シンジのためにも」
湖面を見詰めた冬月は、はっきりとわかるほど大きな溜息をついて肩を落とす。できれば聞きたくなかった、とその顔は物語っていた。推察が確信に変わった瞬間である。
「ひとが神に似せてエヴァを造る……これが、真の目的かね?」
対するユイにも繕うような躊躇は見られなかった。夫やシンジには言えなくとも、誰かに伝えておきたい。子供の手の感触を深く記憶に留めようとしている彼女は、そう思っているのかもしれない。
「はい。ひとはこの星でしか生きられません。でも、エヴァは無限に生きていられます……その中に宿るひとの心とともに。たとえ五十億年経って、この地球も月も太陽すら失くしても残りますわ。たったひとりでも生きていけたら……とても寂しいけど、生きてゆけるなら」
冬月はゲンドウと同じように木を見あげた。揺れる葉の隙間から青空が窺える。彼の目は雲をつき抜け宇宙へ至り、未見の惑星を俯瞰しているようだった。
「ひとの生きた証は永遠に残る、か……」
背中で冬月の声を聞くユイもまた彼に倣って空を見あげる。シンジの手をしっかりと握り、目を細めた。けれども、風に揺れた木々が空を妨げてしまう。肩を落とし、溜息とともに息子へ笑顔を向けた。
広い更衣室にはシャワーとトイレが備えつけられおり、身体を清潔に保つための消毒ブースもある。無機質な造りが多い所内にあって、観葉植物や絵画を飾り照明も暖色だ。ひとり用とするにはいささか大きいロッカーの中にはオレンジ色をした試作のプラグスーツが無菌パックに封入されている。パイロットはまず全裸となってシャワーや用を足し、次いで消毒ブースに入ったあとプラグスーツを着るしくみだ。
「やっぱり少し太ったかしら?」
プラグスーツに身を包んだユイは姿見の前で腰まわりや尻、胸の圧迫に不満げな顔をする。シンジを産んでからというもの少々肉感的になってしまい、しばしばダイエットを口にしていたのだが、ゲンドウが肯定するものだからつい甘えていまに至っている。
「ちょっと身体のラインが目立ちすぎよねぇ……乳頭が丸わかりじゃないの。あとのひとのことも考えたらもっと改良を提案するべきだったわ。シンジも年頃になるんだし、迂闊だったわね」
太ももを掴んでむっちり具合をたしかめ、やや萎んでも豊かな乳房を押さえる。最後に腹をさすって溜息をつくと思い立って脱衣所のほうへ戻った。脱いだ服が綺麗に畳まれているのを確認し、下着を手にする。
「あのひと保存してそうだものね。これは捨てておきましょ」
服の上には一冊のノートとゲンドウあての手紙が置かれていた。ノートの中にはシンジの養育についてのアドバイスがびっしりと書かれており、食事から教育、しつけなど細部までぬかりはない。ややマニュアルぽくなってしまったのは科学者としての性格か。最後のページには不安なときは叔父夫婦に頼るよう追記されている。
「きっと大丈夫よ……ね? ゲンドウさん」
そう言い聞かせるように呟いて更衣室を出ると、待たせていたシンジが駆けてくる。つるりとした母の服装にきょとんとするが、屈んで目線をあわせれば嬉しそうに笑顔を見せた。
「シンジ、いいかしら? お父さんの言うことをよく聞くのよ」
我が子の両肩に手を乗せ、努めて優しい声色を出す。シンジは力強く頷いた。こうしてひとつずつ教えるのがユイのやりかただ。叱るときも決して怒鳴らず、目を見て理解するまで時間をかける。
「私は、少し遠いところへゆくけれど、すぐに逢えるわ」
シンジは小首をかしげてわかったような、わからないような顔をした。ユイは頭を撫で、頬に手を這わせる。首をすくめてきゃっきゃと黄色い声をあげて笑う息子に目を細めた。
「なにがあっても生きることを諦めないで。強くなくてもいいわ。生きることさえ諦めなければいいの」
シンジをそっと胸に引き寄せると彼の匂いをいっぱいに吸い込んだ。タバコの臭いも、汗の臭いもしない、柔らかい我が子を腕に刻むように長く抱擁する。肩を抱き、髪を何度も撫でて背中を擦った。頬を寄せ、大丈夫と呟く。
「ごめんなさいね、シンジ。本当は傍にいてあげるのがあなたに一番必要なことだってわかってるの。悪い母親よ、私は……でも、未来が必要でしょ? どうなるかわからないけれど、それでも可能性は残さないといけないの。あなたのために、人類のために……そう言ったところで、恨まれても……しかたが、ないわね……」
どんなに歯を食い縛っても涙は溢れてきた。無人の廊下にユイの嗚咽が響く。何度もごめんなさいと謝る母に、息子は頭を撫でて返した。それがいっそう彼女の感情を爆発させる。
「愛してるわ、シンジ……どんな姿になっても、あなたを守る。だから……私に勇気をちょうだい」
渾身の力でシンジを引き剥がすと、震える唇に叱咤して笑顔を作った。最後に見る母の姿を泣き顔とさせるわけにはいかない。シンジもまた笑顔を返すと、小さい親指で彼女の涙をぬぐうのである。
第三新東京市の首都機能が拡充されるいっぽうで、ゲヒルンの内部はいまだ工事が続けられていた。試験場の管制室は多数の機器がひしめきあっており、ケーブルやコンピュータなどもまとめられておらず無造作に散っている。雑然としており、つい足をひっかけてしまう危険性があれば冬月も小言を口にしたくなるものだ。
「なぜここに子供がいる」
二歳半もすぎればシンジも走りまわることを覚え、いろんなものを手に取った。ぺたぺたと無邪気に、危険性など考えず触れて楽しそうにしていても大人たちにとってはそうならない。青い半ズボンに黄色いポロシャツを着た彼を見て冬月の機嫌が悪くなる。部屋の一番奥に座したゲンドウは緩む口元を隠すように机に肘をつき、両手を前で組んだ。
片や子育ての経験がある赤木ナオコはとくに気にしたふうもなく、手に持ったバインダーの書類で段取りをたしかめていた。内心を押し隠し、さもありなんとばかりに擁護する。
「碇所長の息子さんです」
だが、冬月は知った上で苦言を呈している。それに子供嫌いなのは周知の事実だ。ただでさえ神経をすり減らしそうな状況に加え、いよいよこの日が来てしまったという緊張を滲ませた。
「碇、ここは託児所じゃない。今日は大事な日だぞ」
水を向けられたゲンドウは、しかし黙したままだ。彼の瞳は妻の晴れ舞台と息子の成長ぶりに細まっており、微塵も危機感を持っていない。いわんや、この直後の事態など、である。それがわかるからこそ冬月は厳しい言葉になってしまうのだが当人から口を挟まれれば気勢も削がれそうになるものだ。
「ごめんなさい冬月先生、私が連れて来たんです」
本人の要望で音声だけを回線で返すのはユイである。彼女はいまオレンジ色の実験用エントリープラグの中におり、操縦桿のない座席に座っていた。まだLCLは充填されておらず、視界は金属の壁面と管制室の小さい映像のみだ。
「ユイ君。今日はきみの実験なんだぞ」
ともすれば怒声になりかねないほどの口調で言う冬月に、ユイも強い視線と口調で応じる。緊張や不安、恐れは外に置いてきたと思わせるほどの決意だ。
「だからなんです。この子には明るい未来を見せておきたいんです」
それを最後にして、ユイは音声の回線を切った。シンジが手を振っている。向こうからは見えなくても振り返した。管制室からいくつものチェックが読みあげられ、そのときが近づくのをただじっと待つ。
「拒絶しては駄目よ、私……」
しばらくするとLCL注入の音声とともに足元からオレンジ色の液体が迫りあがる。冷たさを覚えるほどではないため身を竦ませはしないが自然と呼吸は浅くなった。
「シンジ……待ってるわ」
粘性のある液体が顔を越え、練習どおりに肺へ満たす。プラグ内が完全に水没すると、管制室からまた音声が入る。相手は誰であろう、ゲンドウだった。
『ユイ……これからエヴァとのシンクロを開始する。私とシンジがここで見守っているから心配ない』
彼女は柔らかく微笑むと、プラグが唸りをあげた。壁面が虹色に光り、全身が温かくなる。そしてつぎの瞬間、強烈に引っ張られる感覚を受けた。底のない井戸に落ちるような浮遊感のあと、眠気に教われる。とても抗えない圧倒的な奔流だ。もしここで拒絶していれば魂は引き裂かれ、廃人同然のユイが残っただろう。しかし彼女は恐れず両手を伸ばすように身をゆだねた。
どこか遠くで警報が鳴り、悲鳴のような男の声が回線から発せられるがユイにはわからない。なぜなら彼女は語るべき口も、抱き締める腕も、愛される身体も失っていたからだ。
最後に訪れたのは天へ向かって弾丸のように飛びながら弾けるなにかであり、ひとが経験しえない魂の絶頂だった。