第弐拾伍話、午後 II

壁面が横縞模様になっており、茶色い。初めは分厚い本でも積みあがっているのかと思ったシンジだが、それが削った丸太を重ねたものであることに気がついた。床も木製で、高い天井に至るまでほとんどが木でできている。ログハウスのようだが彼には知らない場所だ。受ける感覚もどこか曖昧で霞がかっているようにぼやけている。テレビくらいでしか見かけない別荘のような家は果たして誰のものか。慌てずに壁側を見れば大きな薪ストーブが置かれており赤い火が静かに燃えて温かそうだ。薪ストーブの前には背の低いテーブルがあって向かいあわせにソファーがある。ワインレッドの革張りはとても高級感があった。

そしてそこに、ひとりの女性が座っている。足首丈くらいある濃い茶色のアーガイル柄スカートに深緑色のハイネックセーターを着ていた。足元にはふかふかのスリッパで、日本では見なくなった冬の服装だ。女性は手に分厚いハードカバーの本を持ち、目を落としている。長い睫毛に色白な肌、ほんのり茶色がかった髪は肩の長さで毛先はやや不揃いだ。二十台半ばの麗人の姿にシンジは夢の中の人物を思い浮かべる。

ひとまず声をかけようとするものの、音にならない。それは記憶にある限り呼んだことがないからか、それとも遠い存在に感じたからか。ありえないし、勘違いかもしれない。そもそもここは夢の続きであって現実ではないのだから会話をするのは不可能なはずだ。懐かしさを覚えるのは単なる既視感だと頭ではわかっているのに伝えたい。

そんな逡巡をしているとき、女性がふと顔をあげてシンジのほうを見る。二回、三回とまばたきして驚きの表情を浮かべたあと、ほっと笑みを漏らして言った。

「そこにいるのはシンジね?」

なんと、相手には見えている、会話ができる。これは現実なのかと驚き彼女に近づく。それがいっそう夢の続きだと感じさせた。なぜなら床を踏む感覚がしないためだ。ストーブがあるのに暖も薪が弾ける音もしない。だいたい常夏となって使う機会なんてないのに女性の服装も含めて明らかに不自然だ。そんな疑問を持つ彼に女性は続ける。

「その様子だとまだ実感が湧かないようね。自分をイメージしてごらんさない……自分の形、五感よ?」

不思議なことを言うとシンジは思うものの、同時に気づくのだ。自分の手や脚が存在しないことに。身体に触れようとしてもどこにもない。まるで目だけが宙に浮いたように感じてますます夢だと錯覚する。

「夢のように感じているのでしょ? でも違うわ。ゆっくりと、ここへ来る前の自分がどうだったのか思い出すの……そのままじゃ話もできないわ」

夢を夢として認識することはままある。たいていは怖かったり嫌な光景だったりして、そこから必死に逃げるべく早く醒めてくれとまるで水に溺れそうな気分で念じるものだ。いっぽうで、夢の住人は夢の中であると認識していない。あたかも現実のように振る舞う。ドラマや映画の登場人物がそうであるように、視聴する第三者が存在するなど微塵も疑わずに行動する。画面に向かってどんなに声をかけても決して反応しないのと同じだ。なのに、相手の女性は明らかな意思を持って語りかけてくる。

「慌てなくても平気よ。こちら側へ一歩を踏み出してごらんなさい」

信じ難い現象ではあるが、彼はこれがなにかのトリックだとは思わなかった。女性の言葉は想定の埒外であり、およそ脳内で〝創造〟できる範疇を超えていたからだ。きっと相手の言葉は真実であり、可能だと得心する。ならばとエヴァに搭乗したときの自分を強く頭に描いた。さりとて鏡を見ながら乗り込んだわけでもないのであやふやだ。どこにホクロがあったか、歯の並びはどうだったか。そんな細部まで思考をめぐらせるがこの世界に必要なかった。

「痛っ……いててっ……」

突然、空中に放り出されたシンジは尻餅をついて痛みに顔を歪める。意識をしなくとも自然と声は出たし、痛覚もあった。薪ストーブの暖かさが肌にあって、肺は空気を取り込んだ。霞がかっていた感覚は消失して現実であると認識させる。まるで初めて外の世界を知った幼児さながらに周囲を窺っていると女性から風変わりなものを見たかのような声がかかった。

「あらあら。なんで裸なのかしら……服くらい着なさいな」

言われてさっと見下ろせば、まさかの全裸だ。体育座りのような姿勢だから女性には某所が見えてないはずだと言い聞かせてすぐさま服をイメージした。すると、身を包んだのは中学校の制服だ。こちらも生地の感触がたしかにある。LEDの照明をつけたときのようにぱっと現れたのを見て感嘆の声が漏れた。

「凄い……どうなってるんだ、これ……」
「ここはそういう世界なのよ。イメージだけで成り立っている世界」

シンジの呟きに女性が答える。夢の中のようでありながら、しかし現実として存在する不思議な空間。そう納得するが、すぐさま血の気が引く想いでふたたび周囲を見渡すとあせりの声を発した。

「あの……綾波は? 綾波っ、どこにいるのっ!?」

どうやってここへ来たのか不明なもののエントリープラグの中で一緒にシンクロしていたのだ。レイはどこだ、なにがあったのだと混乱する。負傷したのか、迷子なのか。答えを教えてくれるのもまた女性だ。

「彼女ならあなたの隣にいるわよ? ほら、イメージして……わかるでしょ?」

相手の視線に釣られて隣を見る。だが、あるのはログハウスの壁面のみであり、たとえば光の珠のようなものは浮いていない。イメージができないのか、それともやはり事故にでもあって消えてしまったのか。逸る気持ちが何分にも感じさせる。

と、そこへ唐突に白い肌が丸まって現れた。床からおよそ1メートルの高さに一瞬で出現したのだ。あっと思ったときにはレイもまた床へ落下する。手を伸ばす暇さえなく、鈍い音とともに尾骶骨のあたりを打ちつけていた。

「うっ……」
「あ、綾波っ……大丈夫……なの?」

眉間に(しわ)を寄せ、尻までさするレイの姿に安堵した。しかし、困ったことに彼女も裸だ。なにか着させてあげるものはないかと思っている矢先に女性からくすくすと笑い声が聞こえる。

「あらまぁ。どうしてあなたたちは揃って裸なのかしら? なにしてたかなんて無粋なこと、訊きませんけど」
「いや、それは……決してそういう意味ではなくて……あの、平気?」

なんとも気まずい思いで女性を一瞥しながらレイの腰を撫でてやる。彼女から平気、と返されほどなくして白いプラグスーツ姿に変わったので胸を撫で下ろした。

「これでようやく話ができるわね。まぁお座りなさいな」

女性に促されたふたりはソファーの対面に腰を落とした。彼は意識せずレイの手を握り、女性の容姿をまじまじと見る。やはり去来するのは懐かしさであり、感動だ。

「あの……あなたは僕の、母さんなんですか?」
「嫌だわ、母親に改まっちゃって……でも、無理もないわね。そうです、私はあなたの母。碇ゲンドウの妻で、碇ユイよ」
「やっぱり、そうなんですね……」
「驚くのも当然ね。なにせ私は故人になってるわけだし……でも、幽霊とも違うわよ?」
「はい、それはなんとなく……わかります」

イメージする、という経験によってシンジもレイもここがどこなのかすぐに理解していた。自分たちがシンクロしていた対象は初号機なのだ。彼もかつて何度か感じた状況。あのときはぼんやりと走馬灯のように見ただけだがいまは違う。

「気がついてると思うけど、ここは初号機のコアの中。魂とイメージだけで成り立つ世界ね。こんな機会でもないと明確に逢うことができなかったから、私が呼んだの」
「呼んだんですか?」
「迷惑だった? なにも心配いらないわ。ここは時間さえ曖昧な世界なの。あなたたちはまだ外の存在だからここに一年いたとしても一秒にすらならないわね。いまがどんな状況であれ、急いで戻る必要もないわ」
「そんなに……」

ユイは自身がここへ来たときの経緯を話した。彼女の感覚としてエヴァの実験開始から五分も経っておらず、自分をイメージしたあと家を用意して本でも読もうかとページを捲った瞬間にシンジたちが現れたと言う。

「――だから、わかってはいたんだけど驚いたのはむしろ私のほうね。だってさっきまでこんなに小さかった息子が彼女連れて成長してるんですから、びっくりよ」
「じゃあ、さっき見たのは……母さんが取り込まれたときの……」
「そういうことね。あれこれ説明するより見せたほうが早いでしょ? もっと細かいこともあるんだけど、重要なところだけ見せたの。でもあなたたちの記憶は覗いてないわ。親子と言えどもプライバシーはありますからね」
「あれが母さんの過去……なんですね」

夢にしてはやけにリアリティがあったと感心するが、言われてみれば幼いときの記憶に同じ体験があったかもしれない。シンジはまじまじと母を見て思う。過去を見せられても、実際のところなにを考えていたのかわからない。ひとの生きた証、未来を残すという台詞がとても遠くぼんやりとしている。そんな彼の心情を察したユイは伏せ目がちに言った。

「結局はね、シンジ。私のひとりよがりなのよ。夫と息子を捨てたも同然の最低な女……人類や未来と言ってもピンとこないのは当然だし、苦しみを与えてしまったのは事実よ。エヴァを造り、ひとの魂を宿す。生命の果実を手に入れて神さまみたいになったところでここから出られるわけでもなく、妄想の世界みたいなもの。老いも病も空腹もないまま生きているとは呼べない状態になって、なにがしたかったのと言われたら胸を張ることなんてできないわ」
「そんなことは……」

母の言葉を遮ったいっぽうで同意している自分がいた。叔父夫婦のところでの扱いは決してよくなかったし、父ともうまくいってるとは言い難い。母さえいればこんな想いをしなかったという恨みにも似た気持ちがある。崇高な使命を帯びて不退転の決意で現世を捨てたのは賞賛に値するが、やはり彼女の言うとおり置いていかれたという認識が根底にはあった。

「恨むのが当然よ。むしろそういう言葉を期待してここへ呼んだの。私は外のことはほとんどわからないけれど、前にあなたが来たときに感じたわ。傷だらけの心と絶望感を。私は間違っていたのよ……夫と息子が健やかでいられると妄信していたのね。とんでもない悪女よ……なんの言いわけもできないわ」
「だったらいまからでも外へ出るって選択肢はないんですか? 父さんだってきっと待ってる。僕も、いてくれたら……」
「構造的に不可能なのよ。それに、私の代わりは誰がやるのという話にもなるわ。知らない親子が同じ目にあえばいいというのは計画を推奨した者として無責任でしょ?」
「でもっ。それでも僕はいて欲しい。使徒だって倒したんだ……もうエヴァは必要ないんでしょ?」

使徒をすべて殲滅したいまとなっては兵器としてのエヴァはいらないはずである。あればあったでミサトの言う、余計な軋轢を生みかねない。補完計画とやらも潰えたのならなんの憂いもないはずだとシンジは考える。しかし、ユイの決意は固かった。もとより戻れないのだから選択の余地はない。

「聞いたかもしれないけれど、補完計画を進めた組織があってそれは失敗したわ。使徒による人類消滅もなくなった。でもまだ滅びが回避されたわけじゃないのよ。子供が産まれないという問題ね。このままいけば人類が築いたものは千年くらいで消えてしまうでしょう……遺跡なんかもいずれはなくなるわ。地球だってそのうち消滅する。それは寂しいことだと思わない?」
「だからって新しい神さまになれば解決するの?」
「しないわね。あくまでもべつの星で人類が再出発するだけで、いま生きているひとたちに影響ないわ。私が残せるのは生命の果実を獲得した初号機のデータだけ……もしかしたら将来解決する方法が見つかってくれるかもしれないという他人任せ」
「そんなの勝手じゃないか!」

シンジは激昂した。つまるところ母はあくまでも保険のための存在であり、直接的な解決には繋がらないと言うのだ。彼にはもうユイの言葉が異国の呪文のようにしか聞こえない。なぜそこまでして人類の未来を背負わなければならないのだ。

「あなたの言いたいことはよくわかるし理解しているわ。でもね、ひとつだけあなたにとっても大切なことがあるの」
「大切な、こと……?」
「そうよ。隣にいる彼女、神さまの分身……彼女にこの責任を負わせるつもり? 卑怯な言いかただけど、つまりこれはそういう問題でもあるのよ。リリスがなぜ魂を産まなくなったのか、どうすれば解決するのか……最大限の秘匿はしたけれど、絶対はない。もし悪い組織に露見すれば彼女がどのような扱いを受けるか、想像できるわよね?」
「そんな……だって、綾波は……人間だよ!」

シンジの脳裏にリツコの説明が蘇る。たったひとりだけ魂を授かったレイ。エヴァと同じ、空っぽになったガフの部屋。レイは小さい初号機と同じだとでも言いたいのだろうか。そんな暴論はとんでもないと苛立ちが増して繋いだ手に力が入る。

「そうよ、シンジ。あなたが彼女の神性を失わせ、本人が望んだことで人間になったのよ。悪いことじゃなくて、とても素晴らしいこと。でも、当初は違った……だから守る意味もあったの」
「そう……か……」
「それに、仮にコアから出られたとしてもリリスの抜け殻と同じになってしまう……ひとの魂を産むためにはひとの魂を込める必要があるのよ」
「だったらデータだけ取って……」
「もし将来なにも成果が得られなければどうなるかしら? 人類は消えてしまうし、原初に還ってしまっても同じ……でも、そこが私のうぬぼれた部分。強要されたわけでもないのに、息子と夫は私を必要としているのに、勝手をしたの。だからいま、あなたを呼んでいるのよ」
「どういう意味だよ、それ……」

とても落ち着いたユイの表情を見て冷静さを取り戻した。いまここで感情的になるのはただしくないと過去の経験から学んでいる。父を誤解しているかもしれないのと同じで知った気になるのはよくない。きっと言われるのはとても重要な話なのだ。

「いま初号機の目の前にはロンギヌスの槍と呼ばれる武器がある。これで私を刺せば生命の果実は失われ、普通のエヴァに戻るわ。人造人間ですから、やがては朽ちるのよ。そう、それがあなたにできる復讐……愚かな母の独善を止められるの」
「復讐って……」
「リスクのある初号機は地上に残せないから宇宙へ行くことに変わりはないけれど、ほかの星へは到底辿り着けないわ」

ユイは淡々とした表情を向けてくる。彼にはやって欲しいとも、やるなとも読み取れない。ただ、任されたところで母の人間としての復活も叶わない以上、やる理由はない。地上にエヴァを残せば軍隊などがまた攻めてくるだろうしパイロットとしても狙われ続けるだろう。さりとて朽ちてしまう母を単身で宇宙へ放り出すわけにはいかないし、復讐するほど酷い扱いを受けたわけでもないのだ。

「それって意味があるの? 復讐というより単なる嫌がらせじゃないか……」
「私にしてあげられるのはこれくらいしかないもの。仮に叩いても意味ないわ……だからあなたが選べば、と思ったのよ」
「また……またそうやって僕に押しつけるの?」
「それは……でも、そうなるわね。ごめんなさい、考えなしだったわ。私、やっぱりとっくに母親を辞めてたみたい……あの日あなたを抱き締めて手を振ったときからひとじゃなくなったのよ」

ユイは反省した。いまさら息子のためと口にしてもそれが負担にしかならない。シンジは肩を落として俯いている。失望させたのだろうと彼女は思った。もっとすてきな親子の対面を夢見ていたわけではないが、彼がこれまで歩んできた人生を見誤ったのだ。

しかし、彼が発したのは感謝と理解だった。天を見あげ、テーブルに視線を落とすと長らく黙考してぽつりぽつりと口にする。

「僕を産んでくれたこと、綾波のことも感謝している。それに、恨んでいるかと言われたら寂しいって気持ちのほうが強いかな……どうしてとか、もっとほかに、って思うけど、でも……どうにもならないことがあるんだなって。僕は母さんじゃないし、考えなんてわからないけど、きっと立場みたいなものがあるのかなって……」
「シンジ……」
「前はどこかで母さんを求めていたんだ。それがエヴァのシンクロ率に繋がってるってあとで知ったんだけど、綾波と出逢って、好きになって、現金なんだけど前ほど求めなくなったから……たぶん、もうけじめがついてるんだと思う」

顔をあげ、澱みない眼差しで言い切った息子を見てユイは胸が締めつけられる思いがした。怨嗟と罵倒を覚悟していたのに自分の中で消化しようとしているシンジが痛ましく、同時に逞しい。三日どころか十年以上も逢わない間に息子は子供から男になっていた。

「子供に教えられるなんて、駄目な親ね……ごめんなさい、もう余計なことは言わないわ。ただ言いわけがましいかもしれないけれど、あなたを不幸にしようと思ってこんな選択をしたわけでないのは本当よ。生きていて欲しい、どんなにつらくとも未来を望んで欲しいと思って……」
「うん。さっき見たし、そこは疑ってないから……うん。僕も母さんくらいの年齢になったら、いろいろと見えてくると思う。いまは無理でもあのときはそういう意味だったのかなって……」

柔らかな笑みを浮かべた息子に赦された、とユイは思った。気づいたときには涙がいくつも流れ、嗚咽(おえつ)を漏らしていた。夢のような不確かな世界であっても、母親失格だと自覚しててもシンジの言葉は嬉しかった。

「ごめんなさい……シンジ……シン、ジ……」

シンジは自然とユイの傍へ行き、頭を抱く。自分がされたように髪を撫で、親指で涙をぬぐってあげた。母の犠牲と庇護があったからこそいまがある。ならば伝える言葉はひとつしかない。

「生きていれば、きっとしあわせになれる……僕はそれを綾波と逢うことで知ったんだ。だから、母さん……いままで、ありがとう」

懐かしい感触にユイは号泣すると、シンジの腰に両腕をまわす。結局、寂しかったのは自分なのかもしれない、と彼女は思った。ひと目でいいからもう一度逢いたかった、と。それが叶ったいま、もう迷いはない。

「ありがとう、シンジ。もういいわ……彼女のところへ戻ってあげて。私は大丈夫よ」

イメージだけで創られた世界であっても本人が描いていると目元は腫れるものらしい、とシンジも涙をぬぐって思った。そして同時に気づくのだ。劇的な内装の変化に。薪ストーブはなくなり、ロココ調の建物へ変化している。白とピンク色が多くを占め、母の服装まで変わっていた。ノースリーブの白いカットソーに膝上丈の淡い緑色をしたプリーツのスカートだ。そのあまりのできごとに感嘆の声を漏らす。

「これは……」
「きっと私の心が具現化されたのね」
「母さんの服装……」
「あら、私だってまだ二十代よ? これくらい着てもいいじゃない。なんでしたら十代になりましょうか?」

これ見よがしに豊満な胸を反らし、ひらひらとスカートを捲ってみせる母から顔を逸らすとソファーへ腰かける。実母とわかっててもほとんど初対面なのだから変に意識してしまう。ミサトより大きいなどと思ってはいけない。なに食わぬ顔をしてレイと手を繋ぎなおすが、すかさず強く握り返された。

「いやっ、違うよ綾波ぃ……母さんがいけないんだ。そんな格好するから」
「まったく、大人になったと思ったらすぐこれですから……暑いったらありません。裸になっちゃおっかしら」
「ちょ、ちょっと母さんっ」
「ふふふっ、冗談よ。ほら、彼女が睨むから落ち着きなさいな」

言われたとおり居住まいをただすとレイの手も少し緩んだ。だが彼女の表情は暗く思い詰めており、下を向いている。彼がどうしたのかと問おうとしたとき、いつになく小さい声で口を開いた。

「あの……碇さん、碇ユイさん。質問をよろしいでしょうか?」

ユイはレイの表情からなんの質問をされるのか、だいたいの見当はついていた。彼女の出自を思えば多くの悩みを抱えているのは想像に難くない。

「ええ、あなたのことでしょ? さっきも話したとおり、あなたは人間。それは断言できるわ。そして、私のクローンでもない。あなたを形作るために私の卵子を用いたことに違いはないけれど、遺伝子的にもまったくの別人よ? シンジと結ばれてもなんら不道徳ではないわ」
「そう、なんですか……?」
「あなたが感じて、想うこともすべてあなただけのもの。私の影響なんて皆無だわ……科学者として、息子の前でも誓います」
「では……あなたは私の母ではないのですね?」

この質問は予想外だったが、彼女の起源を思えばどれだけ〝ひと〟だと言ったところで払拭しきれないのもたしかである。捉えかたではあるものの、ひと言添えるだけで安心するものだ。そしてそれは、ユイの願いでもあった。

「私がいなければあなたは産まれなかった。私がお腹に宿したわけではないけれど……でも、私が母でもいいの? 私、あなたになにもしてあげられてないのよ?」
「いいえ、いただきました。私の名前と姿、そして……彼に逢わせてくれました」

もう言葉はいらないだろう。ユイはふたたび唇を震わせると両手を広げた。前例があったとはいえひとの道から外れるような罪を犯したが、こうした幸福を得られたのだ。ためらいがちに胸へ顔を埋めるレイの感触に、彼女は止まらない涙を落とす。

「そう……あなたも私の娘。レイも、私の子供よ……」
「は……い……ありがとう、ございます……お母さん……」

ようやく名実とも人間になれたとレイは喜びを感じていた。細かいことを言えばキリがない。けれど、自分の中にもひととしてのルーツがあると知るだけで救われるのだ。涙を流し、初めて呼ぶ母という単語は嬉しくて気恥ずかしくて、温かかった。髪を撫でられる感触がシンジに似ているのは、やはり通じるところがあるからだろう。

しばしそうやって互いの存在をたしかめあうと、レイはシンジの許へと戻って手を繋ぐ。結ばれても問題なかったという確証は、彼らの心と絆をより強くした。

ただ、シンジには胸に押し込んでいる不安と恐れがあった。この場所の特殊性ゆえか穏やかで癒されたのは間違いない。しかし外へ出れば現実が待っているのだ。彼は片手の痣を見詰めて唇を噛む。ユイはそれを聖痕と呼び、彼の罪悪感が増幅されてそうなっているのだと説明する。もしシンジが死と絶望の衝動に取り憑かれていたらサードインパクトの危険性も孕んでいた。そうならなかったのはひとえにレイと未来を望んだからである、と言われても救いには遠い。

「アスカは……」
「大丈夫よ、シンジ」
「でも、もう弐号機は石になって……バイタルもモニタできないから……」
「キョウコさんが乗ってるのでしょ? だったらしっかりと守ってるはずです」
「そう……だといいけど……」

母に促されてもなにひとつ安心できない。どう見ても取り憑いた白いエヴァもろとも殲滅してしまったように見えたが違うのだろうか。万にひとつの幸運を思いたいが、それはあまりにも楽観的すぎるというものだ。

「私が直接なにかをしたわけじゃないけれど、でも何度もあなたを助けたのは知ってるわ。エヴァはね、そういう母親の想いで動いてるのよ」
「それはわかるよ。でも……」
「大丈夫。母は強いの……子供のためなら命だって惜しくはないわ」
「う……ん……」

肩を落としたシンジはユイを縋るような想いで見詰める。レイの手に力が入ったのは彼女も自身を鼓舞しようとしているのかもしれない。諦めたくない。もう一度あの眩しい姿に逢いたいと強く願った。

そんなシンジの表情にユイは慰めも兼ねてからかいを投げる。かつてないシンクロをしているいまならふたりの闇を祓うのも容易だ。それに、彼の父ゲンドウもああ見えて女性の受けがよかっただけに可能性としてはありえた。息子の記憶を覗かずともこれだけの感情が溢れていれば戦友の枠を超えているのは明々白々である。

「なるほどねぇ……シンジも罪な男ね。レイなんてすてきな女の子がいるのに、そういうこと?」
「ちょ、ちょっと待ってよ母さん。大事な話をしてるときにいくらなんでもそれは……」
「べつにいまあれこれ考えたってしかたがないでしょ? ちょっとくらいそういう話してもいいじゃない」
「綾波の前で言えるわけがないだろう? あ、いや、べつにきみに隠しごとがあるとかじゃなくてね……」

レイが手の力をぎゅっと増し、目を細めたので慌てた。本人の生存も不明な状況で恋バナをする母に戦慄すら覚える。やましいことは清算したのに針のむしろになりそうだった。

「レイ? 気をつけなさいね。人畜無害のような顔してても女のほうから寄ってくるのよ……少なくとも私の夫はそうでした」
「そうなんですか?」
「外のことはほとんどわからなくてもマギと繋がることがありましたから、多少の情報は得ています。まあ、ふたりの前ではあまり言えないけど、親子はないわよね……とだけ、言っておきましょうか。べつに戸籍上は死亡してますから口出すつもりはないんですが、昼ドラみたいにならないのを願うわ」
「昼ドラ、ですか。私にはよくわかりませんが、惣流さんのほかにも警戒すべき対象がいる、ということですね」

シンジとしてもリツコの独白からなんとなく事情を察するが、アスカのほかに誰を警戒するのかと首を捻り、そもそも彼女とももう終わったはずだと考える。どんなに魅力的でもあの悲劇を繰り返してはならない。

息子の百面相に懐かしささえ覚えたユイが補足する。母親面はしないがシンジもレイも、アスカも境遇は似ている。野暮でも同じ女として多少なりとも気持ちがわかってしまうものだ。

「でもね、レイ。こう言ってはなんだけど、あなたたち三人は特別なのよ。私は産まれた直後の写真くらいしかアスカちゃんを知らないけど、求める気持ちが強いのは同じよ。だからどうって言いたいのではないわ。でも、せめてほかの女の子とは違う目で見てあげて」
「はい、それは葛城三佐にも言われました」
「あらそう? 葛城さん、ってあの葛城さんの娘さんね。彼女もいろいろあったでしょうから……そうね。ならあまり余計なことは言わないわ。でもレイ……シンジを離しては駄目。仮にこの子が浮気しても、どんなに喧嘩しても離しては駄目よ?」
「それはお約束します」
「まあっ。頼もしいわね……って、シンジ? べつに好き放題していいってわけじゃありませんからね? 槍、飛んで来ますよ?」

黙って聞いているだけなのにどうして矛先が向かうのかとシンジは解せないが、前科があるだけに藪蛇はつつかないし、(きじ)も鳴かなければ安全である。よもやホトトギスというわけでもあるまいに、無言に徹した。女性の話は静観するに限るのだ。

「もうひとつ、お伺いしたいのですが。その……将来的に碇くんの……こ、こっ、子供を宿すことは、やはり、難しいので、しょうか?」
「どうかしら。これは私見になるけれど、あなたはひとになった……でも産まれてよちよち歩きのようなものとでも言いましょうか。まだ足りてないことが多いのでしょうね。肉体的に、っていうより精神的にかしら?」
「精神的に、ですか?」
「なんとなく心当たりがありそうな表情ね。たぶん時期が来れば自ずと身体に変化が出るでしょう。だから、あまり急ぐ必要はないわ……中学生でママさんなんて、ちょっと早いものね」
「中学生で……お母さん……」

ユイはあえて言わなかったが、もしかするとこれが人類復活の契機になるのではないかと考えた。レイが懐胎について言及したのは極めて重大なことだ。宿せないと知りながら求める心がリリスに影響を与える可能性はないだろうか。虚ろだった心身を満たすためにはまだまだ時間はかかるだろうしおそらくかなりの渇望を秘めているものと思われる。だからこそ神に存在理由を与えたシンジと彼と生きる道を選んだレイ、ふたりの出逢いと繋がりにはきっと意味があるはずだ。そして、それこそが真の福音にほかならないだろう。

「なににしても将来を見据えた行動は必要よ? お金はあっても生活能力というものは大切だわ。育児と主婦を放棄した私が言うべきことではないけれど、結婚すればなおさらね」
「結……婚……しゅ、主婦……」
「はいはい、ごちそうさま。とにかく、世間のことがなにもわからない切符も買えないようじゃ困るでしょ? 極論なんだけど、早い話が馬鹿じゃ駄目だからそれなりに勉強して社会を学びなさい、ということです。シンジも目を逸らすんじゃありません。成績だってマギ経由で筒抜けなのよ?」
「はい。了解しました」

そんなやり取りからいつしか流れは雑談へと移り、ふたりの馴れ初めや学校などの日常、ゲンドウの話題になる。シンジが語る夫の様子にユイは心を痛めた。決して強いひとではないと知りながら手紙ひとつで自殺したのと変わらないのだ。いまさらではあるものの最後に伝言を頼んで頃合いと判断する。

「――さて、そろそろお行きなさいな、ふたりとも」
「母さん、やっぱり行くの?」
「ええ。未練なんて少しもないわ。ここは不滅の世界……だから、この記憶もずっと残るの。あなたたちがいなくなっても、まるで数秒前のことのように感じられるわ。マギから本とか映画とかたくさんダウンロードしてあるし、数億年くらい私にとっては一年にもなりませんからね。それとも……私と一緒に、行く?」
「えっ?」

まさかそのような提案をされるとは思っていなかっただけにシンジもレイも目を丸くした。エヴァに乗って悠久の旅をする。いつかどこかの惑星に着いたとき、ひとの形を取り戻せるかもしれない。そのときは神のような存在になるのだろうか。

「光熱費はタダだし、同居しなくてもいいわ。あなたたちは好きにしてていいし、干渉もしない……家だって一瞬で完成するんだから、なんの心配もないわね」
「それはそうだけど……」

甘い誘惑のように思うが、しかし彼は違うと思った。補完計画と同じで、それは違うと。どこまでも曖昧な世界に留まるのが望みなら戦うなどという選択は取らなかったのだ。不滅とは変化のない状態を意味する。理不尽な天気、ちょっとした怪我、テストの成績、成長した自分たち。ここにそれらは存在しない。もちろん、アスカの安否だって重要だ。ゆえに、彼は躊躇なくソファーから立ちあがった。隣のレイも同時だ。それを見たユイは満面の笑顔になると力強く頷いて言った。

「ふふっ。偉いわね、ふたりとも。試すようなまねをしてごめんなさい……本当に強くなったわ。あなたたちの選択は正解よ。夢は現実の中にこそ存在するの……ずっと見続けていいものじゃない。ひととして産まれたのなら、ひととしての生を全うする……たとえそのさきが地獄だとしても、生きることがなにより大切なのよ」

ユイは座ったままだがシンジとレイを取り巻く景色はしだいに薄れてゆく。もう現実へ帰還する時が来たのだと、ふたりは悟った。寂しさがないかと言えば嘘になる。しかし、存在する世界が違うのだ。これは生前に果たせなかった一瞬の邂逅だ。ならば笑顔で母を見送ろうと、ふたりは淀みない声で永訣を告げた。

「母さん……」
「お母さん……」

母が手を振っている。シンジとレイも振り返した。互いに温かい涙を流し、微笑む。もうほとんど消えかかっている中で三人は互いの心に向かって同時に語りかけ、そしてたしかに聞いた。

『さようなら』

シンジとレイは激しい光に目を眩ませ、うっすらと開ければそこはエントリープラグの中だった。同時にエヴァとの一体感が失われる。壁面の景色も消え、非常灯だけがついた内部で浮遊感を覚えて強制射出されたのだと理解した。母を乗せた初号機がどうなったのか見えない。ただ、旅に出たのだけはわかる。とても長い、神への道だった。


地表に大穴を開けた第三新東京市には三つの感情があった。ひとつは災厄の元凶と目されたエヴァ初号機が宇宙へ飛び去った驚愕、もうひとつは初号機からエントリープラグが放出された安堵、最後はユイがもう手の届かない場所へ行ってしまった喪失である。

ネルフ本部の発令所では数分前まで鳴っていた警報は止み、代わりに職員たちの怒号が飛んでいた。初号機のゆくえと状態を観測する者、損害状況の把握に奔走する者、アスカの救出にあせりを滲ませる者、あるいはターミナルドグマからの医療要請に混乱する者。戦略自衛隊はどうなったのか、エヴァシリーズは確実に殲滅されたのか。皆が情報に飢えていた。

「弐号機へはまだ行けないの?」
「間もなく瓦礫の撤去が終わるとのことです」
「爆薬でもなんでもいいから、とにかく急がせてっ」
「は、はいっ」

そんな中でミサトは耳と目を忙しなく動かしていた。ふたたび親指の爪を噛みそうになって腕を組むが、片足は床をリズミカルにタップしている。空調が効いているはずなのに首筋や背中にじっとりと緊張の汗が浮かんだ。もし手元に対戦車ロケット弾でもあろうものなら弾の限りを打ち尽くして本部の壁に大穴を開けたいくらいである。

「通信はどうなってるの!? 全然モニタできないじゃないの」
「初号機のほうは距離がありすぎて……」
「弐号機は!? 言っておくけど、私は諦めてないわよ!」
「ま、まだ途絶したままです」

勝った、未来が繋がったと喜ぶには尚早(しょうそう)すぎる。最大の功労者である三人のチルドレンなくして勝鬨(かちどき)はあげられない。初号機から脱出したと思われるエントリープラグの搭乗者はどうなっているのか。地上を取り囲む兵によって打ち落とされる可能性、パラシュートが開かない危険性もあるのだ。

「戦自の動きは!?」
「いまだ認められず、攻撃は中断されたままです」

当たり散らしてもしかたがないのに声がどんどん荒くなった。医療設備の準備は充分、車も待機させてあるし護衛という名の肉の壁も大量に用意したと頭の中で何度も確認する。万事ぬかりはない。あとは迎えるだけ、それだけなのだ。思わず手の空いてる者は神に祈ってくれと言いそうになって、胸の十字架を握り締める。敬虔な信者でもなんでもない父の形見だが、いまは相手が悪魔であろうと命と引き換えに契約しても構わないとさえ思った。

「頼むわよ……三人とも……」

ミサトの呟きが前に座るふたりのオペレータへ届くと彼女の代わりに涙を滲ませた。各支部からのクラッキングは止まっており回線も復旧している。いまはインカムをつけて相手のオペレータと折衝を重ね、情報収集にまわっていた。ここからは大人の戦いである。侵攻がなくなってもまだ後始末があるのだ。

マコトとシゲルはモニタに貼ってある写真を一瞥しながら本件の首謀者であるゼーレに対して攻勢をかけていた。相手は国連をも手中に収めるとされる真の秘密結社だ。そう易々と牙城は崩せまいがネルフだけが悪役になるわけにはいかない。自分たちの敗北とはすなわちチルドレンの敗北にも繋がるのだ。拘束され、裁判に持ち込まれては勝てない。なんとしてもその前に止める必要があった。

そしてそれは他国のネルフも同じである。人類抹殺の片棒を担ぐなどあってはならない。知らなかったでは済まされないのだから必死だ。機密情報を共有し、いかに有利に進めるか。真実を知った彼らは一丸となって戦後の処理に当たっていた。

「パラシュート展開されました。ジオフロント内の湖に着水する模様」
「通信は?」
「回復傾向にあります。もう少しで繋がるかと」
「状況しだいでは手伝ってもらうことになるわね」

モニタには初号機のエントリープラグが大穴をゆっくりと降下している様子が映されていた。見たところ外殻に損害はないから被弾してないようだ。翼と同時に照射された広範囲な電磁パルスの影響が恨めしい。ミサトは握った拳を震わせ、そのときを待っていた。


シンジは抱きかかえたレイのぐったりした様子にあせっていた。初号機のエントリープラグへ帰還した直後、意識を失った彼女が呼びかけに応じないのだ。ふわふわと漂ってしまうレイを慌てて膝の上に乗せるものの眠ったように目を開けない。

かつて初号機に溶けたとき、ほどなくして気絶してしまった経験がある。おそらく母に逢っている間も同じ状況だったのだと推察し、一時的なものである考えて無理に動かさない。パラシュートが展開された衝撃に手を滑らせそうになって、背中を支えた手の力が強まる。重ねた胸に感じる鼓動だけが安堵の目安だ。

「大丈夫だよ、綾波……もうすぐ着くから」

この言葉を何度口にしたか。一度肉体が消滅し、再構成によってインターフェイスヘッドセットも外れたのだろう。彼女の髪がゆらりとなびいた。こんな状況でありながらシンジはレイが美しいと思う。数え切れないくらい目にした容姿。まるで整えたかのように薄く細い柳眉(りゅうび)、切れ長の二重、とおった鼻筋、薄い花唇(かしん)と小さな口。触れれば吸いつくような雪肌(せっき)は染みひとつなく、ホクロも大変少ない。ここに〝きみ〟がいるのをなにより喜んだ。あの世界に留まらなくて正解だったと確信する。

とてもリアルに感じていたのに、こうして離れてみるとあの場所はやはり夢の中なのだとわかった。きっとそうであろうというイメージが五感を再現していたにすぎないのだ。だから本物ではない。まったく、アスカの言うとおり物足りないのだ。

「僕たちは帰ってきたんだ。だから、あとでいっぱい触れあおう」

白い裸身を優しく抱いた。どこへ到着するにせよ衝撃があるので最後まで気は抜けない。できれば木の上に引っかからないで欲しいし、大穴の縁というのも勘弁だ。攻めてきた軍隊の真ん中なんぞ生きた心地がしないだろう。

「くっ」

そう思っている矢先に小さな衝撃があった。続いて外殻に岩のようなものが当たる音がして、がりがりと底を擦る金属音だ。咄嗟にレイを見るが、まだ目を覚まさない。到着したのかもしれない。もしかすると湖畔あたりかと見当をつけていると雑音を交えた通信が届く。

『……ジく……シン……だ……お……』
「ミサトさんっ、シンジです!」

この声はミサトに違いないと判断して応答する。さいわい、エントリープラグ内の音声増幅は生きており相手にも通じたようで会話が成立した。

『シンジ君! 無事? 無事なのっ!?』
「は、はい! ここにいます。綾波も、ここにっ!」
『いまバイタルを確認するわ』

一時間も経過していないはずなのに、とても昔のように感じた。薄暗いプラグ内とレイの存在だけでは現実であるという実感がまだ湧かなかったが、かつての保護者の声はまぎれもなくたしかで、ほっと胸を撫で下ろす。

「あのっ、綾波が目を覚まさないんです!」
『確認したけど、レイのバイタルは良好よ。おそらく疲労かなにかで気絶してるだけでしょう……いまこっちからLCLの排水信号出したから、彼女の処置をお願い』

弾むようなミサトの声にレイの無事を知った。すぐさまプラグも唸りをあげてLCLが緊急排水されれば見る見る水位が減ってゆく。全体的にオレンジ色がかっていた景色も晴れシンジは肺の中の残りを吐き出す。つぎにレイの体重を感じて抱きなおすと顔を横へそっと向けた。

「けほっ、けほっ……けほっ……」

レイが咳き込み、うっすらと目を開けるのを見てシンジは眉を寄せる。唇は震えるし、声だってぎりぎりだ。彼女の焦点があうのをたしかめたあと、口を開く。

「おかえり、綾波……」
「ただい、ま……碇……くん……」

けれどもやはり疲れがあったのだろう。レイは力なく返したあとまたぐったりと気絶する。シンジは彼女の血色から不安はないと思ってても抱き締めて、涙を流した。そこへふたたびミサトから声がかかる。

『シンジ君、レイは大丈夫よ。ただ、急ぎアスカの許へ向かって』
「アスカ? アスカは無事なんですか!?」
『ここからじゃモニタできないの。すぐ近くだから救護班が向かうまで手を尽くして』
「は、はいっ!」

なんと、アスカがまだ生きているかもしれない。母の言うとおり、絶望しなくていいかもしれない。ミサトの言葉に彼は虹色の希望を見た。どうなっているのか、間にあうのか。いや、是が非でも間にあわなければならない。彼女を失うわけにはいかないのだ。シンジはすぐさま行動を開始した。レイをそっと床へ寝かせると、ハッチに手をかける。ここがどこなのかわからないし、弐号機の場所もあやふやだ。それでも一刻の猶予がないのはミサトの声からもわかる。歪みのないハッチに安堵してハンドルをまわせばそこはまさしくジオフロントであり、湖畔だった。

「あれだ!」

尻を落とし、片膝を立てた弐号機と取り憑いていた白いエヴァは直前に見たときと同じ石像だ。距離にしておよそ200メートルか300メートルか。途中には胸の高さほどの果樹園らしきものが生い茂っており、道はない。だが彼はためらいなく全力で走った。

一糸纏わぬ姿に、いまだ胸や唇から血を流しているものの衰え知らずに素足は地面を蹴る。果樹園の枝が太もも、脇腹、両腕に細かい傷を作ったとて怯まない。頭がふらつくのは出血によるものか、それともLCLの浮遊感が残っているからか。

「アスカぁぁ!」

叫んで走る。転びそうになって体勢を崩せば今度は頬に傷ができた。もし一歩でも間違えていたら枝の先端が目に刺さっていたかもしれない。体力なんてほとんどなかった。起き抜けに近い感覚で視界は歪んだ。それでも脚は止めないし止まらない。ぜえぜえと息つく間もなく弐号機の足元へ辿り着き、ロッククライミングさながらによじ登る。

「ふぐっ、ふぐぅ」

視界を赤く染めても表情は勇ましいままだ。身体のどこかでなにかが弾けても、灼熱の痛みを感じても、全身を顎門(あぎと)にして岩へ食らいつく。脳内にはまたしてもアスカの声が響いていた。

――おっそーい、なにチンタラしてんのよ。ちょっとあたしの裸見てんじゃないわよ、この変態。あーヤダヤダ、ヒーロー気取って調子に乗っちゃってさ。べ、べつにアンタなんかに助けてもらわなくったって平気なんだから。

ここで泣いてはいけないと歯を食い縛った。()ぐのも禁物だ。もし足を踏み外せば転落し、ただでは済まない。また太ももに鋭利な先端が掠めて痛みが出る。手のひらに血が滲もうとも鬼気迫る顔で上を目指した。エントリープラグが岩を突き破って緊急射出されておりLCLもちょろちょろと流れているのが見える。あと少し、あと少しと念じながら渾身の力でもって岩を登った。ハッチが見えて、飛びつくようにハンドルを握る。熱さはないが温かいのは直前まで弐号機が起動していたからかもしれない。そんな安心材料を得て、血で濡れた前腕に力を入れる。

「ぬふぅぅっ」

ハンドルをこじ開けながらかつて似たような状況があったのを回顧した。あのときレイは無事だったが今回はどうか。むわりとした熱気は放たれず自らを追い立てるようにハッチをくぐる。彼が入り込んだのはエントリープラグの後方だ。床に残る粘性のLCLに足を滑らせ顔を打ちつけながら前方を窺えば座席があり、アスカの後頭部がわずかに見える。声は聞こえない。とにかく無事を知りたいと横歩きで彼女の許へと急いだ。アスカも全裸だが、彼の視線は顔色に釘づけである。ちらりと視界の隅に裂けた片足や大流血した腹や腕が見えてもいまは鼓動と呼吸がなにより大事だった。

「アスカっ、アスカっ!」

肩を小さく揺するが返事はなく、目蓋がぴくりとも動かない。口元に耳を傾けても呼吸は聞こえず唇の端からLCLが流れている。まだ体温は残っていたから間にあうはずだと絶望せず、すぐさま跨って乳房の谷間の下、肋骨の間に両手を当てる。ここで少しでもためらえば失敗するのだ。骨が折れても構わないとばかりに上体に体重をかけて圧迫した。

「アスカっ、アスカっ、アスカっ」

ヤシマ作戦のあと、シンジは心臓マッサージを学んだ。レイにまた同じような危機が訪れたとき少しでも生存率をあげるためである。AEDが搭載されているプラグスーツでも機械である以上、絶対はない。故障の可能性があるのならひとの手が確実だ。彼女を失いたくない一心で徹底して練習した。それは講師が舌を巻くほどの熱意だったのである。

「死ぬなぁ、死ぬなぁ!」

肩を揺するときに脈はたしかめた。圧迫する場所も力も間違えていない。本来なら床に寝かせるべきだがその時間さえ惜しくひたすら体重をかける。まだ温かい、まだ死んでない、五分経っていないと歯を食い縛る。力が抜けそうになっても、涙が滲んでも必死の形相で救命に全力を注いだ。自身の血で手を滑らせないように、アスカの顔を睨んで祈る。

「戻って来いっ、戻って来いっ!」

レイの救命だけを考えて学んだ唯一の医療技術。シミュレーション訓練がぱっとしなくても、生身の組み手に泣き言を口にしても、これだけはできるはずだ。三十回のマッサージに、二回の人工呼吸を繰り返す。カウントも間違えず、母指球と小指球の間に力を入れる。血とも涙ともつかない滴がぽたぽたと甲に落ちた、そのときだ。

「かはっ! ごほっ、ごほっ、ごほっ……」

アスカの口からLCLが咳とともに勢いよく噴出し、シンジの顔にかかった。彼はぴたりと手を止め、肩を叩く。脳などに出血があった場合を考えて、あくまでも優しくだ。ただ呼びかける声はプラグ内に反響するほど大きい。

「アスカっ、アスカ! 僕だよ、アスカ!!」

果たして彼女はゆっくり目蓋を開くと、青い瞳を向けてきた。しかし焦点があっておらず、ぼうっとしているように見える。すわ障害が残ってしまったのかと慌てる彼へ、アスカは無事な右手を伸ばすと頬を撫でて返した。

「し……シン、ジ……シンジ、なの?」
「僕だよ、シンジだよ。ここにいるよ!」
「あたし……生きて、る? まだ、生きてる?」
「うん、うん……生きてるっ。アスカは生きてるよ!」

彼はたまらず肩口に顔を埋めて号泣した。ここにいる、また逢えたと熱い鼓動とたしかな呼吸に安堵した。いっぽうで彼女も腕を背中にまわすと生還を探すように何度も撫でてくる。そして二度、三度、深呼吸をすると弱々しい声で言った。

「シンジが、あたしを助けてくれたのね……」
「違うよ。きみが、生きようとして、くれたからだ」

シンジはしゃくりあげながら応じる。現世への生還はなにより本人が望まなければならない。それはかつて彼がエヴァに取り込まれたとき、意識を失ったとき、何度も戻ろうと思ったがゆえの真理だ。だから戻ろうと、生きようと最後まで諦めなかったアスカが嬉しかった。とはいえ、負傷している彼女を抱き締めるには少々強すぎた。

「く、苦しい……シンジ……」
「ご、ごめん。嬉しくて、つい……」
「平気よ……でも、ちょっと、お腹が気持ち悪いわ……」
「いま医療パック取って来るから」
「あっ……うん……」

言うや否やシンジはすぐさまアスカから離れると、エントリープラグの後方へ向かう。そこには予備のプラグスーツや簡易的な医療道具が封入されている。AEDの存在にいまさらながら思い出すが使っていたほうが間にあわなかったかもしれないと納得してブランケットと水を取った。

「これで多少は違うはずだよ。たぶん、すぐに医療班が来ると思うから」
「うん……レイは?」

裸を見てしまわないようにと座席のうしろからブランケットをかけ、ペットボトルの水を手渡す。ちらりと覗いた右脚の怪我がやはり酷い。痛ましさに渋面を浮かべつつ溜息とともに答える。

「いま意識を失っているだけだから、一度起きたし……」
「なら戻ってあげて」
「でも……」
「あたしは平気だから、レイの傍にいてあげて」
「うん、わかった……」

ここで押し問答してもしかたないし、レイの容態が気になるのもたしかである。シンジはうしろ髪が引かれる想いでハッチから外へ出た。

「いろいろ言いそびれちゃったわ……」

彼の気配が消えてからアスカはブランケットに身を包むと痛みに顔を歪めた。なかなかの重傷だと思ったが、生きてさえいればなんとでもなると悲観しない。ただ、どうしてもいま伝えなければならない言葉がある。

「さようなら、ママ……ありがとう」

救助隊が到着するまでアスカはエントリープラグの中で涙を流し続ける。ほのかに温かかったLCLが徐々に冷めてゆくのがはっきりと感じられた。

外へ出たシンジはここで気は抜けないとふらつく足取りでゆっくりと弐号機を降りる。だが、地面に立てばもう気力も体力も限界で突っ伏してしまった。身体が鉛のように重く動かない。暗くなる視界、遠くから呼ぶ声……。

つぎにはっと目を覚ませば担架に寝かされており点滴パックが揺れていた。身体の上にはしっかりと毛布がかかり、顔を横へ倒せば同じように運ばれるレイの姿だ。女性の職員だけで構成されているのを見てほっとし、また彼女と視線があっておおいに安堵する。

「綾波……大丈夫?」
「私は平気よ。碇くんは?」
「僕は怪我してるだけだし……アスカも、無事だったよ」
「そう、よかったわ……とても……」

ふたりとも目尻から涙を流し、三人の帰還を喜んだ。残念ながら彼女と同じ車には乗られなかった彼であるが、やり遂げた達成感からすぐさま眠気に襲われ、意識を手放した。

そんな一連の動きを不鮮明な映像で上空より窺ってたのは戦略自衛隊だ。全身血まみれになっても必死に救出へ向かおうとしたシンジの姿は彼らの胸を打ち、同時に確信させる。これで災害は防がれた、自分たちの選択は間違っていなかった、と。それはネルフの職員も同じである。

「本当に……よかったわ……三人とも……」

ミサトは力の抜けた膝を突くと両手で顔を覆った。周囲では彼女の号泣を遥かに上回る爆発のような歓声が沸き起こっている。シゲルとマコトはハイタッチし、ふたりに感化された支部の職員も結果を知って大賑わいだ。ほんの一時間ほど前まで激しく敵対していたとは思えないほど互いに勝利の喜びを分かちあう。平和が訪れた瞬間だった。