第弐拾六話、其乃壱

医療室に運ばれた三人は全身の検査や洗浄のあと医療カプセルに入れられた。外傷がいっさい見られなかったレイはすぐさま出たあと、大事を取っての入院である。シンジは怪我の状態が酷いものの、一日あとにカプセルを出ていま全身に包帯を巻かれている。問題はアスカだった。左腕、右脚が骨折しており何箇所も打撲や裂傷があって脇腹からの出血も多く、重傷である。さいわいにも懸念されていた脳や心臓への影響はなく、シンジ以上の包帯姿でベッドの上に移された。

戦闘から二日が経ち、大忙しの職員らに丸投げしたミサトが最初に向かったのはシンジの病室だ。市街で駐屯している戦略自衛隊に攻め込む気配はまるでなく、司令部からの指示を待っているとあっては彼女の出番も少ない。兵器や施設を下手に修復しようものなら戦意ありと捉えられかねないので、本部の復旧だけを急がせている。それでも万が一を想定し、防御体制は解除していなかった。

「やっほー、シンジ君。具合はどうかしらん?」

陽気な声で個室へ入れば、ベッドに寝ながら外を見ている彼の姿だ。三人とも今朝、この専用病棟へ移されて初の面会である。保安上を考えれば本部が一番いいのだが、設備はやはり隣接する病院のほうが適していた。天然の日光に優るものはなく天井の大穴から降り注いで色鮮やかな景色を見るのは精神衛生上も好ましい。もっとも、至るところの地面が抉れており殲滅したエヴァシリーズもそのままだ。エヴァ同士の戦いはまさに爆撃を思わせるほど激しく、とても生還なんて望めないほどのジオフロントである。

「あ、ミサトさん。その……そちらは大丈夫なんですか?」

彼もまた自身の生還が信じられないと思っているのかもしれない。ミサトはそう考えながら起きようとしたシンジを手で制し、色あせない瞳を見て椅子へ腰かけた。水色の病衣の下に包帯が窺える。唇や顔は軽症で済んだようだが、胸元のガーゼはとても分厚い。緊急輸血が必要なほどの出血量だっただけに、よく弐号機をよじ登って救命したと感心だ。

「ええ平気よ。頼もしい職員たちがきりきり働いてるわ」
「そうですか……被害もなかったって聞いたんで、本当によかったです」
「そんな怪我なのに、無理させちゃったわね。でも、ありがとう」
「名誉の負傷ってやつですね。アスカと綾波が無事なんですから、なんてことないですよ」

そう言って微笑むシンジにかつてのような陰りは微塵も見られなかった。毅然として胸を張り、守りきったと全身が物語っている。ミサトは思わずどきりとした自分の心を落ち着かせるように咳払いした。これは危険だ、と年齢と立場を捨てたくなる。ふたりの少女に限らず誰だってこんな男を見たら放ってはおけないだろう。もうひとりぶんの席は空いてないのだろうかと一瞬妄想して振り払った。

「それで、なにを考えて外を見てたの?」
「変な話なんですけど、もしまた攻めて来たらどうやって戦おうかなって……なにもできないんですけどね」

そう笑っては傷の痛みに顔を歪める。ミサトはなんて子供なのかと驚いた。あれほどエヴァに乗るのを嫌がっていたのが芝居ではないかと思わせるほどの雄々しさだ。彼女はますます頭がくらくらして、つい姿勢をただしてしまう。

「い、嫌ねぇ。そんな心配いらないわよ。そうならないようにしてるんだし、エヴァはもうないんだから」
「そうですね。なんかまだ戦闘の高揚っていうのかな、残ってて……ここが現実だってわかってるんですけど、使徒とか軍隊とかエヴァとか続いたから……」
「ラスボスが現れそうだって?」
「お約束かなって。全部合体した巨大怪獣みたいな……ちょっと面白そうですね」

決して戦闘狂になったわけではないだろう。彼自身が強さを得たからこそ、難敵であろうとも立ち向かう気概があるのだ。つぎも守ってみせる、と彼の瞳は燃えていた。戦後の高揚感からくる一過性のものであったとしても、たしかに成長したのである。

「シンちゃんの合体はしばらくお預けよ?」
「な、なんでまたそこで綾波が……あ、あいててっ、べつに……」
「そうねぇ。傷口に障るといけないから、レイに動いてもらいなさい」
「いやいやいや……」
「あの子、ちゃんと本は読んでるかしら? あとで確認しないとね」
「あの本って……そう……か」
「へぇ。さっそく効果があったみたいじゃなぁい」

赤い顔をして必死に否定しようとするところは変わらない。うぶな恥ずかしがり屋で、あれこれ言いわけするのもよく見た光景だ。しばらくそうやってからかい、シンジが苦しそうに笑うのを見たあとで彼がふと疑問を口にする。

「あの、アスカなんですが……弐号機って」
「どうして無事だったのか、でしょ?」
「はい。結構な重傷だったし、心臓も……止まってたから」
「母の愛ってやつじゃない?」

某病室に入り浸りだった白衣の友人に尋ねたところ、オカルトの域だと一蹴されたのは記憶に新しい。ログによればアスカはたしかに一度絶命していたものの、仮死状態に近かったという。弐号機も機能を失っていたはずなのに、LCLの温度や循環、不明なパルスが検出されていた。A10神経を介して操縦するという特性上、愛情を切り離して考えるのは愚かなことかもしれないとはリツコの私見である。また、事故などで母体が亡くなりしばらく経ってから胎児を取り出して無事だったケースも例示した。絶命で仮死状態とはこれいかにと尋ねても医学的にそうとしか言えないと返されれば門外漢は口を噤むしかない。形而(けいじ)上どうのと始まったら退散するだけである。

「強いんですね、お母さんって……」
「シンジ君が言うと説得力あるわね」
「母さんはひとりで旅立ちましたからね……いまはどこだろう」
「なにそれ? やっぱり……いいえ、さきに司令に話したほうがいいわね」

詳しい経緯などの聴取はまだおこなわれていないため、耳が大きくなった。だが、家族の話ならば伝えるべき相手がいる。好奇心で首を突っ込むべきではないし、どのみちあとで知ることだ。

それからあまり長居も悪いだろうと、少し雑談して彼女は退室した。レイの検査も終わってると考えて病室へ向かおうとしたところ白衣のうしろ姿が見えたので、アスカのほうに行く。おおまかな体調は聞いてるが、果たしてどうだろうか。

「なんでミサトが来るワケぇ?」

開口一番がそれである。あらかじめ保存してあった自身の血液を大量に輸血してもなお顔色の優れないアスカだが、口周りだけは元気だ。横になっているため包帯は見えないものの、布団の中はギプスでがっちり固定されていると思われる。

「あら、王子さまのほうがよかったかしら? お姫さま」
「当然でしょ。疲れ切ったオトナに用ないわ」
「わ、悪かったわねぇ……厚化粧で、潤いがなくてぇ。水だってたいして弾かないわよ」
「そんなおっきなものぶらさげてちゃ、重力もつらいわねぇ」

こんなのは挨拶みたいなものだとミサトも知っている。なにせ発令所で泣き崩れるほど安堵したのだから憎まれ口のひとつやふたつ、三つくらい出たところで嬉しさのほうが優るのだ。決して蓮の葉のような肌を持つ中学生に嫉妬は向けてない。しばし腹の肉がどうの、セルライトがうんぬんだのとミサトの鯨飲馬食(げいいんばしょく)ぶりをアスカがなじれば、お返しにCカップごときが偉そうにと胸を揺らし、あげく西洋人は劣化が早いなどと口にする。

だが、身体の話題はここまでの布石でしかない。同じ女性としてアスカの受けた外傷は身につまされる想いだった。やがて激しい応酬も終わると溜息を堪えてミサトはぽつりと言う。

「その……アスカ。身体の怪我……」
「ああ、これ? まぁキズモノになっちゃったけど、どうってことないわよ。脅威のテクノロジーってヤツに期待してもダメみたい。ドクトルは残るってさ」
「医療カプセルにそこまでの機能はないものね」

骨折はまだいい。だが、前腕と大腿、脇腹の長い裂傷は生涯残るだろう。それでも出血死しなかったのはLCLによる止血の効果があったからだ。常夏となった日本で長袖を着る機会などめったにないし、おしゃれも制限されると考えたらつらい。アスカは衣装持ちだったからなおさらだ。

「あたしの傷を見て引くようなヤツは願いさげよ。ファッションだって堂々とするわ……むしろ誇りね」
「そっか……アスカがそう言うなら。ただ、ネルフはあなたたちの将来に対する責任があるから、最大限のバックアップは惜しまないわ」
「ンなモンいらないわよ。なんだったらあたしがミサトのマンションと車を買ってあげよっか?」
「だ、だ、大丈夫よ。嫌ねぇ、一丁前に心配しちゃって」

ミサトのマンションは全壊である。車も本部の隣の車庫ごと白いエヴァにつぶされた。一応、多少の補助は出るものの完全ではないため本部暮らしになるのは確定である。だが、これはアスカなりの気遣いだった。

「ミサトのマンションから勝手に引っ越しちゃって悪かったわ」
「いいのよ、そんなこと……」
「世話になったのに礼のひとつもなしじゃ、お子さま以下ね」

正直に言えば、ミサトの胸にはかなりの痼となって残っている。アスカに対してではなく、自分の無責任さについてだ。シンジとレイがいなければ、どうなっていたかわからない。奇跡なんて言葉で誤魔化せない罪があった。

「違うの、アスカ。私が駄目な大人よ……上官と兵士が同居すべきじゃなかったのよ。普通に考えたらおかしいじゃない」
「まぁ、そう言われたらたしかにそうだけど」
「あなたたちとはもっとドライにつきあって、公私を割り切るのが責任者としての役目。私の駒として手足として、復讐の道具になってもらう……それができなかった。家族ごっこに憧れてて、寂しかったのね。男にも逃げたし、一歩間違えたら取り返しのつかない事態になっていた可能性がある……それこそ人類の滅亡とかね」

加持が遺したデータ漁りに没頭して戦略自衛隊への対策を疎かにし、ジオフロントへ武装の配備をしなかったかもしれない。アスカを間一髪で見つけたのもシンジたちなのだ。彼女の復調がなければ確実に負けていた戦い。ミサトは補完計画への引き金が自分であると自覚していた。セカンドインパクトの生き残りがサードインパクトを起こす皮肉である。

「ドミノ倒し的にってヤツね。わからなくもないわ……でも、しかたがなかったんじゃない?」
「それはいまだから言えることよ」
「そう。でもこれが現実でしょ? 車の運転で事故になりそうなのと同じ。あの信号で止まってたから巻き込まれなかったとか、家を出るのが何秒早かったらアウトだったとか、言い出したらキリないわ。それに……あたし、三人で暮らしてるの楽しかったし」

強い子になったと思った。よっぽど柔軟な思考ができるし消化もする。過去を引き摺っている自分とは大違いだと。目処がついたらネルフを去るべきだろう。組織も変わるし、もう理由がない。どこか田舎の役所あたりで……と考えて思考を止めた。それこそが逃げである。使徒がいない、補完計画もないでは終わらない。世界は続いており、いまだ復興の途上なのだ。

「ありがとう、私も楽しかったわ。シンジ君とのラブコメもなかなか面白かったし」
「ま、まぁ、そうね……」
「アスカはさぁ……その……」
「それ以上はナシよ、ミサト。身体を治して、それからよ」

悪い癖だ、と自戒して口を噤む。彼女たちはもう大人なのだ。余計な気遣いは干渉でしかない。男と女にはタイミングもある。別れるときがくれば別れるし、出逢うべくして出逢うときもあるのだ。

それから今後についていくつか報告をしたあと、アスカの病室を去った。弟と妹が成人して遠くへ行ってしまったと感傷を覚えながらそのまま病院をあとにする。レイの部屋へはリツコが行ったからいまは必要ない。一番つきあいの長い彼女の言葉のほうがもっとも大事だろう。

そのリツコである。彼女はベッド脇の丸椅子に腰かけたまま言葉を発するでもなく五分はこうしていた。病衣のレイがじっと見詰め返している。リツコはどうしてレイの面会をしようと思ったのか正直なところ自分でもわかっていなかった。ただ気づいたら部屋に足が向かっていただけだ。

なんの受傷もないのは担当医から聞いている。若くして医師免許を持つ彼女だが、診断結果に納得しなかったわけではない。確認する話もないはずだ。それなのに言葉を探してしまう。シンジとの関係について問うのか。マヤからの報告にはいささか驚いたが、なんとなくそんな予感もあった。ヤシマ作戦の前日にIDカードを届けさせたときから期待していた自分がいたのだ。もしそうなったらゲンドウはどんな反応を示すのかと。嫉妬を向けるか、レイにさらなる執着を見せるのか。

「あの……赤木博士、なにかご用でも?」
「ああ、ごめんなさい。ぼうっとしちゃって」

そう返したもののまた黙考してしまう。結局のところ、ゲンドウはレイをどう扱いたかったのだろうか。吹っ切れたはずだと自分では思っていたのに、新しい世界が築かれようとしているいまだからこそどこか取り残されたように感じる。それは初めから生きながらえるつもりがなかったからだろうか。マヤにも言ったが、心の天秤はかなり不安定だった。ほんの少し風が吹いただけで激しい愛憎を爆発させる寸前だったのだ。マギに自爆を促すプログラミングを施すのも脳裏をよぎった。ゲンドウがあの場にレイを伴って来ると知っていたら、そうしていたに違いない。そんな思考に潜っていると、思いもよらない言葉を投げられた。

「司令は……ご無事でしょうか?」
「えっ? どういう意味かしら……」
「お姿が見えないので……前にも倒れたと聞きました」

じわりと黒い感情が沸き起こる。他人に関心を見せないレイがゲンドウを気遣うなど耳にすれば思わず手に力が入ってしまう。シンジと結ばれてもやはり求めるのかと。互いにこだわりを見せるのかと。だが息を大きく吐いて胸からなんとか追い出した。詮無いことを考えても真実はわからないのだと突き放すように言う。

「どうしてあなたがそれを気にするの?」
「わかりません。ただ……」
「ただ?」
「直接、お礼を言うべきだと思いました」

よもや戦いに勝った喜びから報告したいのか、と思った。これで自由になれる、もしくはもうゲンドウが必要ないとでも言いたいのかもしれない。しかし、憂いを帯びた表情からそうは窺えない。感情、あるいは言葉を探している。かすかに揺れる赤い瞳を見てリツコも思考をめぐらせた。もしかして、自分には重大な見落としがあるのではないか。冷静さを欠いて結論を性急に出してはいまいか。ゲンドウは寡黙だが、レイは輪をかけて無口だ。だが、ミサトにあの映像を見せられたのだ。いまでもなにかが変わっている。そう考えて一歩を踏み出した。

「お礼って、どんな?」
「名前を授けてくださいました。もし産まれるのが女だったらレイ、と」
「うま、れる……ですって?」
「はい。初号機の中で見た記憶です。私の母は碇ユイ、と言われました。であるならば、司令は父になります」
「中で逢ったって……それは……幻覚ではないわね?」
「はい。碇くんとふたりでユイさんにお逢いし、いろいろと伺いました」

レイから簡単な経緯を聞いたリツコは胸を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。名前の由来はてっきり虚無なリリスから生まれた感情のない零にかけたとばかり思っていたが、どうりで予備も含めてゲンドウが手を出さないわけだ。なにかとシンジを気にかけていたのと同じ、レイもまたゲンドウにとって娘だった。計画が成就した際に消えてしまう彼女でありながら閉じ込めるのをよしとせず学校へ通わせたのも気まぐれではあるまい。地下の部屋にあった子供用の服や絵本もきっとそうであろう。初めから見ている景色が違うのだから、敵わないわけだ。なんと滑稽なのかと自嘲した。レイに名前を授け、妻に逢うためだけにここまで来た男。遊ばれていたわけではない。先日の一件を思えばそんな器用なひとではないのだ。名前の由来を語るなどもってのほかだろう。

「とんだ道化ね……ようやく合点がいったわ」
「道化、ですか?」
「ええそうよ。すべては私の狭量な心ってだけの話」
「狭い、心……」

つまるところ妄執に取り憑かれていたのだ。母の幻想を振り払い、前妻に固執するあまり見えていなかった。そしてゲンドウも目が覚めたのだろう。受け入れたくなかった、認めてしまえば前に進めなくなるからだ。

「あなたたちに救われたのかもしれないわね、私は」
「はぁ……」
「ふふっ……」

ピンときていない顔を返すレイにリツコは初めて微笑みを見せた。これまでのことを謝罪しようかとも思ったが虫がよすぎるだろう。レイ自身なにも感じていない可能性もあるが、もう少しだけ時間をもらいたかった。納得はできてもすぐに切り替えは難しい。

それから雑談するでもなく、リツコはその場をあとにした。どっと疲れが出たが、そろそろ現場へ戻らないといけない。いま大人として必要なのは責任の取りかただ。子供たちは子供たちで成長するのである。

さて、リツコが去るとレイはすぐさまベッドから出た。少し緊張して、不安な面持ちの彼女が向かったのは隣にあるシンジの病室である。ノックもそこそこに中へ入れば同じ構造の部屋だ。看護師はおらず、彼がベッドの上で横になっている。レイの来訪に気づいたシンジは苦痛に顔を歪ませながら上体を起こす。それに慌てたのがレイで、彼女はすぐさまベッドへ駆け寄ると肩を貸した。

「碇くんっ……そんなに動いては駄目」
「多少なら平気かなって……いててっ」

シンジの裂傷は浅いもの深いものあわせて三十以上あり、そのうち半数が縫合を必要とするほどだ。出血も多く、骨折はしていなくとも胸と腹の深い傷があれば絶対安静である。長座になった彼の額には早くも汗が滲んでいた。

「ごめんなさい、来てしまって……でも、私は今日退院だって聞いたから」
「そんなこと言わないでよ。僕も行こうとしてたくらいだからさ」
「うん……」
「骨に異常なくてよかったよ」

レイは椅子ではなくベッドに浅く腰かけるとシンジをじっと見詰めた。頬には四角いガーゼが当てられ、唇にも絆創膏だ。死の淵をさまようほどではなかったにせよ、痛々しい姿に瞳が揺れる。

「無理、しないで。あなたになにかあったら、私……私っ……」

力なく俯くとシンジの手がそっと肩に触れる。それがより彼女の感情を爆発させた。ぎゅっと肩を窄めると声をあげて泣くのだ。戦いが終わってようやく顔をあわせたと思ったら彼はこんなにもぼろぼろだった。彼女の中にかつての記憶が重なる。彼だけは守りたい、死んで欲しくないと願った二人目の自分の想いがこれほどまでに苦しいのかと声を詰まらせた。

「心配かけてごめん」
「ずっと、ずっと逢いたかった……」

彼が入っていた医療カプセルの部屋には彼女とて入室が許されず、昨日はまんじりともしない夜を明かした。無事なのは知っててもやはりどうしても触れて存在をたしかめたかったのだ。もしかしてなにかあるのではないかと悪いことばかり考え、溜息を何度ついたかわからない。なまじ自分が無傷なため、余計に胸が痛かった。

シンジの手を取り、頬に押しつける。戦闘中の傷をすべて彼に肩代わりさせたことを後悔した。分担したからこそあの勝利に結びついたのだとわかってても、痛みを共有できないのは孤独だ。

「もう大丈夫だよ、綾波。もう大丈夫……」
「うん……うんっ……」

レイは力強く頷き、すすり泣く。涙を知ってからというもの泣いてばかりだと思った。これからもきっとたくさんの涙を流すだろう。けれど、もう二度とこういう涙はいらない。髪を撫でられながらそう強く願う。

やがて顔をあげた彼女は、彼が好きだと言ってくれた微笑をかろうじて浮かべると顔を倒しつつ目を閉じる。残念ながら絆創膏に遮られて十全の感触ではないけれど、それでも温かく嬉しい口づけだった。

「キスするの、なんか久々だね」

笑顔を向けられて鼓動が跳ねる。決戦前日はアスカがいたからいろいろできなかったし、この二日もそれどころではなかった。再会の喜びと彼の無事、死を連想させる包帯姿に触れあったぬくもりという状況が重なってなんだか無性に変な気持ちを呼び起こす。ちらりと入り口へ視線を向け、彼を見てから頭を振った。なんて不埒な妄想をしてしまったのかと落ち着かせつつ言う。

「早くよくなって、碇くん……」
「そうだね。でもひと月はかかるって」
「そう……」
「昔のきみみたいで、これはこれで嬉しいって思うのは変か……」

入院生活がそんなに快適なのか。退院が待ち遠しいと感じているのは自分だけなのかと考えそうになって頭から追い出した。いけない、彼の姿を見ただけでこんなにも冷静さを欠いてしまうと問い返す。

「昔の私?」
「うん。僕が初めてエヴァに乗ったときだよ。あのとき綾波は包帯で、凄い出血してただろう?」
「たしかに酷い怪我を負ってたわ」

使徒の攻撃に大きく揺れた担架から振り落とされたとき、二人目だった彼女は重傷を負っていた。シンジの到着前に初号機で出撃したものの、シンクロ率もハーモニクスも激しく乱れ、まともな操縦どころか一方的な蹂躙を受けてフィードバックが生身と変わらないほどの傷を与えたのだ。データや調整の乏しい状況がもたらした悲劇であった。

「いま思い返しても痛々しかったよ……なんでこんな子がってね。それがこう、最初と最後みたいな感じで逆になったのが不思議って言うか、感慨深いって言うかね……」
「私と逆……そういうことね」
「怪我の内容までは同じじゃないけど、なんか、いいなって……」

初号機とゲンドウと、そしてシンジ。あの場所からすべては始まり、いま終わった。レイは世界平和や人類の未来を考えて戦ったことなどない。彼が生きている、彼さえいてくれればそれでよかった。ただ、彼を守れたという安心感があるいっぽうで、自分はこのさきどうあればいいのか役目を終えたようにも感じてしまう。

「碇くんはこれからどうするの?」
「どうって、ネルフがなくなるかもしれないってことか……」
「ええ。町も破壊されてるから学校の再開もまださきよ」
「なにも考えつかないな……きみと一緒にいるだけじゃ駄目なんだよね、きっと」

レイのマンションはかろうじて被害を免れたが、町の復興にはかなりの時間を要するだろう。それに、もう使徒も軍隊も攻めて来ないとわかればネルフに留まる理由はない。だからこそ、彼女は彼の言葉が聞きたかった。

「私といてくれるの?」
「ええっ、いまさらそこ? 当然じゃないか。なんのために戦ったのさ」
「私のこと、好き?」
「どうしたの?」
「ごめんなさい。少し、不安だったから……」
「なにも心配いらないよ。僕はきみのことが好きだから一緒にいて欲しい。それじゃ理由にならない、かな?」
「ううん……」
「むしろ僕のほうこそ考えてたんだ。前にミサトさんが言ってた虚無へ還ってしまうって話を……」
「どこにも行かないわ。ずっとあなたと一緒よ……ずっと」

片手で頬を撫でられながら首を振った。どこへも行かない、危険な目にもあわない。それだけで充分だ。耳にかかる髪をわけ、優しく耳朶を触れられて肩を竦める。顔が自然とほころんで、目が細まった。見詰めあう視線が彼女に生を強く実感させる。シンジの言葉が頭の中で繰り返しこだました。

「くすぐったい?」
「いいえ、とても嬉しい」

シンジと接することで自分の存在を確立させたレイにとって、彼の体温と肌の感触はある意味で麻薬にも等しい。他人に対して心の壁を強固にしてもシンジだけは違う。なんの抵抗もなく受け入れる甘い侵食は彼女を捕らえて離さなかった。

「ここに……いるんだね」
「ええ。いるわ。あなたも、ここにいるのよ?」

相手の存在をたしかめるには言葉より触れあうほうが確実だ。シンジは指先を耳朶から頬、下唇と顎へ向かわせつつ安堵したように微笑む。レイの胸はきゅんきゅんとして、すぐさま大きくなる呼吸を抑えた。

「どこも異常はないって聞いたけど……」
「平気よ。私は……」

異常があるとすれば、彼の感触に反応する心と身体だとレイは言いたい。恋愛感情の中にはいつも少しだけ狂気が含まれていると説いた哲学者の言葉はただしかった。なぜなら意地悪な指先はゆっくりと首筋を這い、鎖骨へ向かうのだ。意図はわからないが、病衣の上から胸の谷間と来れば押し込めていた情動が噴出しそうになる。

「きみのマンションが無事でも上に行く方法なさそうだよね。ミサトさん、全部壊したって言ってたし」
「そう、ね……」
「ってことは退院してもしばらくは本部で暮らすことになるのか」
「ふたり部屋を、申請するわ……私と、あなたの、ふたり部屋よ……」

彼はそんなに触れてどうするつもりなのかと、悩ましい感覚に吐息を漏らす。顔が熱くなり、耳はじんじんだ。乳房の外周を撫でられるだけでも壊れそうなくらい厳しいのに、徐々に中心へ近づいてくる。絶対安静という二文字が眼前に立ち塞がって下唇を噛んだ。もし先端に触れられていたらどうなっていたかわからない。

「服くらいは取りに行きたいけど、我侭だよね」
「せっかく買ったのに……もったい、っん……ない、わっ……」

恨めしい彼の手が脇腹へ向かい、腰をさすって太ももに至れば嫌でも期待するというものである。どくどくと心臓が大きく脈打ち、病衣の下になにも着ていないのを思い出す。ワンピース状なので進入は容易だ。もうこれ以上はという理性と、太ももの内側の痺れに激しく葛藤した。

「売店でトレーナーでも買うか……」
「碇……くんっ……ここは、病院……だから……」

裾から入り込もうとするシンジの手を最終防衛線さながらに死守すべく手で押さえる彼女だが、力はとても弱い。息もはぁはぁと荒くなって、伏せた赤い顔に切ない表情を浮かべた。

「ああ、うん……そう、だよね。うん、病院だし、僕は怪我してるし……」
「駄目よ……碇、くんっ……本当に、いけない……んっ……ことよ……」

なんとかそうやって返すものの、じりじりと進入した彼の指先が汗ばむ肌を這って来れば両膝の間隔も緩んでしまう。せめて鍵をかけたい、カーテンも閉めたい。自身の某所がどうなっているのか自覚があるだけに、邪魔を拒んだ。内股から股関節へ、そしてつるりとした丘へ迫る指先。思わずきゅっと力を入れるが、同時に腹を引いて股間を突き出すようにしてしまう。あともう少しで秘密の渓谷に……そう期待した彼女だったが無粋なノックがそれを遮った。

「碇さん、碇シンジさん。朝食の時間ですよ」

眉を寄せたレイが甘い吐息を漏らすのと同時に病室の扉が開かれる。慌てたシンジがさっと手を引けば彼女もすかさず裾を直す。レイが恨めしい視線を戸口へ向けるとカートを押して入室する女性看護師の姿だ。つい不要だと口から出そうになって大きく息を吐くと、トレーを取りにゆく。

看護師は去り、扉が閉まるのを確認して振り返ればシンジは罰の悪そうな顔で口元を緩めている。きっと彼の視線は病衣の尻に飛んでいたのだろう。レイだって円形になってる自覚はあるが、面白くない。目を細めて唇まで尖らせた。きっと耳まで赤くなっているはずだ。

「ご、ごめんね……その、なんか無性に触りたくなっちゃって……」
「べつに、平気よ。酷いひとだなんて、思ってないもの」

そう言いつつも備えつけのテーブルを伸ばし、トレーを置く動きはいささか乱暴だ。さきほどより少しだけ距離を空けて腰を落とした。膝もぴったりである。シンジが手を伸ばしたロールパンを、さきんじてむんずと掴んではみしりと千切って彼の口元へ持ってゆく。

「あの……」
「食べて」
「うん、でも手は使えるから……」
「いいから口を開けるの。食べて」

シンジが退院するまではおよそ二週間。その間レイはひとりですごさねばならない。もちろん毎日病室へ見舞いに来るが、孤独な夜に変わりはないのだ。昨夜のような暗澹(あんたん)たる気持ちに加え、そういった欲求も満たされなければ責め苦である。中途半端なおこないゆえに、拗ねてしまうのも無理らしからぬことだった。

「あ、ほっぺたにマーガリンが……」
「動かないで。私が拭くわ」
「って、唇じゃないか」
「さっきのお返しよ」

とはいえ、本気で憤っているわけでもない。こうして少し触れあうだけで多少の気は晴れる。無理に介助をしてみたが、戸惑うシンジの顔がなかなか面白くて表情も緩んだ。

「綾波ってさ、拗ねてるときも可愛いよね」
「そんなこと……ないから」
「ふふっ……あ、いててっ」
「ほら、そうやって私を笑うから傷が痛むのよ」

シンジが完食するまで食事を口に押し込んだレイは、しあげに薬を口移しした。あとで自分が悶々とするのに、濃厚に舌を絡めると彼を支えながらベッドへ寝かせる。横目で胸元を覗いてくる元気のよさにまんざらでもない笑みを浮かべるが、枕に頭を預けて落ち着いたように息を吐く彼を見ればやはり眉は寄ってしまう。

「心配ばかりかけちゃったね」
「いいえ。でも昂奮しては駄目……貧血になるわ」

彼の黒髪を撫で、眠りに誘った。睡眠はエネルギーのタスクを傷口へ向ける大切な治療行為である。いきなりエヴァに乗せられ、ここまで来た毎日を思えばしっかり休んで欲しいと思う。甘えるのはそれからいくらでもできるのだ。

「本当はアスカにも逢いたいんだけど、一週間くらいさきかな……」
「私が様子を見てくるから」

しばらくしてシンジからすやすやとした寝息が聞こえたのでもう一度口づけすると、レイは病室をあとにした。自室へ戻り、間にあわせの職員用制服を着てアスカの部屋へ向かう。思い返せばこうして見舞うのは初めてである。

「あら、レイじゃない。お見舞い来てくれたの?」
「ええ……重傷だって」

ベッド脇の丸椅子に腰かけて栗毛の少女を見る。唇の色は少し青く、目の下にもうっすらと隈があった。枕元の棚には赤いインターフェイスヘッドセットが置かれている。髪留めがされていない頭髪はまばらに広がり、どことなく艶もない。

「シンジどうだった? 見てきたんでしょ?」
「あなたよりは軽症よ。ひと月くらいで完治と聞いたわ」
「ふぅん、結構ハデにやられてたもんね。で、結局のところどうやって終わったの?」
「私もはっきりとはわからないの」

そんなアスカの質問を皮切りにレイは一連の経緯を説明する。どうして初号機が飛んだのか、ロンギヌスの槍とはなんだったのか、私見を交えるほどの判断材料もないためおもにコアの中での体験だ。

「よかったわ。レイにもちゃんとママがいたんじゃない」
「ええ、これが安らぐという感覚なんだと思う。すてきな経験だったわ」

両手をそっと胸へ当てて思い返しているレイを見てアスカは微笑む。幼児でなくとも母の胸に抱かれる感触はとても心地いい。大人になったらから、自立したから不要というものでもないのだ。そんな彼女もまた弐号機でのことを語った。

「あたしもね、最後にママに逢ったの。ちゃんと守ってくれてて、とっても心強かったわ」
「碇くんが間にあったのも、そういうことなの?」
「そうよ、間違いないわ。ぼんやりとだけれど、大丈夫、死なせないって聞こえてさ……そしたらシンジが目の前よ」
「あなたが無事でよかった。私も哀しいもの」

目を伏せて唇まで噛むレイの表情に、鼻の奥がつんとした。口のまわりをまごまごと動かしてなんとか取り繕うが、目尻にぽつりと滴が浮かぶ。そんな自分が気恥ずかしくて右手で前髪を直すついでにぬぐった。もし怪我がなければ強く抱擁していただろうと思う。

ただいっぽうで、最後の通信が頭に浮かんだ。本心からの言葉に違いはないが、届いていたとしてレイとシンジはどう感じているのだろうか。問えない内心を覆い隠すように声のトーンをあげる。

「そ、それで……今後はどうなんの?」
「わからないわ。私もどうしていいのか、わからない……考えたことなかったから」

シンジに問うたことを逆に尋ねられてもレイは明確な答えが見つからない。ユイにはいろいろ学べと言われたし理解しているものの、いまひとつピンとくるものがなかった。彼がすべてになってはいけないとミサトにも助言されている。学校へ行くのはいいが、その土台となる想いがあやふやだ。

「べつに急ぐことないんじゃない? あたしだって考えてないんだし、しばらくはゆっくりしてたら?」
「ゆっくり……」
「オシャレをもっと楽しむとか? レイはいままで訓練とエヴァばっかりだったんだし、ちったぁ女の子として楽しむべきよ」
「遊園地やお化け屋敷に行くということ?」

アスカの顔が引きつって青い瞳も泳いでいる。どうやらなにかが苦手らしいとなんとなく察して深追いしない。それからあれやこれやと提示されるもののいまひとつ要領をえないと感じたレイに天啓が舞い降りた。

「まぁ、しばらくは花嫁修業がいいんじゃない?」
「花嫁……修行……」
「そうそう。カレー以外にも作れたほうがシンジも喜ぶわ。リ、リンゴの皮剥きとか……」

力強く何度も頷いてアスカに礼を言うと、薬が効いてきて眠いと言う彼女を案じて退室する。少しばかり哀しげな視線を感じた気がしたものの、問いはしなかった。


ハンブルクにあるドイツ支部の地下では箱根の安堵とは逆に絶望が広がっていた。漆黒に包まれた一室で顛末を知ったゼーレの面々である。ネルフ本部からのクラッキングによる各支部の混乱もさることながら、エヴァシリーズを九機投入したにもかかわらずまさかの敗北を喫したのだ。ロンギヌスの槍は初号機とともに地球から離脱し、回収は不可能である。永遠の安らぎを信じて疑わなかった彼らの落胆は想像を絶するほどに大きく、誰もが言葉を失った。モニタは切られ、首を垂れる。

いまからリリスを用いて初号機に代わるエヴァを建造したところで槍を喪失した以上、補完は叶わないしネルフも使えない。具象化された神であるリリスの消滅も同じだ。まさに万策尽きていた。

処分されたはずの極秘資料が白日のもとに晒されたのだから各国は残党狩りを始めるであろう。力で押さえつけていた反動が各方面へ飛び火し混沌とするのは目に見えて明らかだ。戦火は収拾がつかず、さらに多くの人命が失われる。

人類の未来を憂いたからこその計画である。それがより事態を悪化させるだけのものとあっては、背徳の極みだ。しかし彼らの教義に自死は許されない。ゆえに選べるのはただひとつの救い、殉教である。信仰に生き、他者によって殺されてこそ神の御許へゆくことが叶うのだ。自然死や事故死でもなく憎悪を一身に受けての、である。

だが、この地は徹底して秘匿されているため、そう易々と見つけられない。地上の者たちがやってくるまでどれくらいの年月がかかるのか。自給自足ができるコロニーとしても設計されており、また幹部たちは延命の処置までされている。そのときが訪れるまで自らの罪を悔い、地獄の最下層でただひたすら祈る万年しか残されていなかった。


シンジとアスカの退院の日がやってきた。予後も順調で抜糸を終えて通院や服薬の必要はあるものの、あとは経過観察である。午前中に彼が病院をあとにし、彼女は午後からだ。足繁く通ったレイは一日の大半をシンジの病室ですごし、甲斐甲斐しく世話を焼いた。ベッド脇で熱心に料理の本を読み、リンゴや梨の皮剥きもなかなかの上達ぶりである。

そんな彼女の器用さに驚いたシンジであるが、なにより服装にはもっと驚いた。もうお目にかかれないと思っていた以前に買った服を着ていたのだ。これはミサトが町の調査という名目で駐屯している戦略自衛隊と折衝し、数人の職員とともにヘリコプターで取りに行ったという。さすがにベッドまでは持ち出せなかったが、シーツや枕カバー、服や下着などはすべて回収された。無論、奥義の書もである。

レイは毎夜ベッドで料理本やファッション雑誌と奥義書のイメージトレーニングを重ね、荒ぶる情動と病室での誘惑を鋼の意思で抑えた。ひとり寂しく枕を濡らすときもあれど、ようやく彼が帰宅するのだ。髪をしっかりと整え、まだ袖をとおしてなかった丈の短い濃藍の花柄ワンピースに身を包んでのお迎えである。

「へぇ、そんな服もあったんだね。凄く新鮮だよ」
「本当はサンダルとあわせるみたいだけど、まだ持ってないから」

ひらひらと裾を揺らしてシンジの目線を意識するレイは、恥ずかしげに口元を緩めた。服装で着飾るのも自分の個性だとかつてアスカに教わったが、なるほどこういう気持ちなのかと納得である。戦いを終えたという心の余裕もあって、彼女はまたひとつ世界が広がる想いだった。

「うん……に、似あってるよ。か、可愛いなって」
「ふふっ……ありがとう、碇くん」

病院の中とは違い、日の光に照らされたレイは何割も増して美しく儚げに見える。毎日顔をあわせているのにやはり彼女の魅力は無限だと彼は思った。病院から本部までの距離はデートと呼ぶほど長くはない。ベンチのひとつもないばかりか至るところが抉れている戦場の爪痕そのままだが風情やムードはなくとも一本の木があれば充分である。手を繋ぎ、少し道を外れた彼らは木漏れ日の下で熱い口づけを交わすのであった。

「な、なんか暑いね……」
「ええ……そう、ね……」

くすりと笑みを浮かべ、上空から吹き降ろす風に互いの髪を揺らす。このままどこか遠くへ行きたい陽気なれども彼らには目的がある。名残惜しそうに抱擁を終えると、半分だけ開かれた本部の入り口をくぐった。

通路の各所には物々しく武装したネルフの歩哨がおり、隔壁も封鎖されている。トレーナーを着たシンジと華やかなレイは場違いなほど浮いているが、彼らを見かけた職員の顔はきりりとしつつも柔らかさがあった。レイ曰く、彼女が退院した日は声援と感謝に囲まれてたいへんだったと言う。ミサトが現れなければ胴上げでもされそうな勢いで、中にはサインを求めるひとの姿まであった。結局、あとで祝賀会をやるからということでその場は収まったが、きっとアスカの退院のときはさらなる盛況になるだろうとは作戦本部長の弁だ。

「そっか。僕たちって、そういう扱いになるのか」
「碇くんは傷だらけのヒーローと呼ばれているそうよ」
「昔の歌みたいだね」
「そうなの?」

エレベータに乗った中での会話である。レイが自身やアスカのあだ名について言及すると、シンジは目を輝かせて喜んだ。もしかしてアイドルデビューもありうるかもしれない。レイは着丈の短い着物姿でアスカは西洋ドールのようなフリフリ衣装がいいだろう。いや、ユニットを組んでるのにバラバラの服装は変だし……などと妄想を膨らませているうちに目的の階へ到着した。この二週間、彼女も単身で訪れたものの不在や多忙を理由に面会を断られていた総司令執務室である。

黒塗りで広い室内は相変わらずだが、窓から入り込む光で以前に来たときよりかなり明るい雰囲気だとシンジは感じた。部屋の隅に大きな木が置かれているからか、それとも床の模様がなくなっているからか。丸と直線を組みあわせた意匠になんの意味があったのかは知らないがこのほうがいいと思う。ソファーで詰め将棋に興じる副司令の姿はなく、正面の机で肘を突いたゲンドウしか見当たらない。それも、常に口の前で組まれていた姿勢ではなく片腕だ。

「あの父さん、怪我したって聞いたけど大丈夫なの? 腕……とか」

士官服の下がどうなっているのかわからないが、骨折にしては妙だとシンジは見ている。服の膨らみがやや不自然で、あたかも肘からさきを失ったように思えた。本部の内部まで侵攻されていないはずなのに、なにがあったのか。

「事故にあっただけだ。問題ない」
「事故って……」
「問題ないと言ってる。用件はどうした」

どんな事故なのかと疑問を持つが、頑として口を割りそうにない。見たところ顔色も悪くないようで、ひとまずは横に置いておくことにする。隣のレイもなにか話したそうな様子だが、さきに報告をした。

「その、初号機の中で母さんに逢ったから、報告というか伝言を……」

ほんのわずかだけ父の肩がぴくりと動く。ゲンドウがユイに対してどれほどの愛情を持っていたのか断片的にしかわからないものの、とても大切に想っていたのは間違いない。あんな顔は見たことないし、声やしぐさも穏やかだった。かつては怖いと感じていた父であるが、厳格であらなければいけなかったと知ったいま、落ち着いて言葉を発することができる。

「僕と綾波のふたりで、時間が止まったっていうのかな……変わったところで母さんに逢って、いろいろ話したんだ」

シンジは清聴している父に語り聞かせる。どのような想いと展望を持ってコアに入ったのか。自身の過ちを認めて、涙ながらに謝罪していた母の姿。彼は淡々と、ときには声を詰まらせながら心情も交えて伝えた。

「――寂しくないって言ったら嘘になるけど、でも、ちゃんと見送ることができたよ」

涙をぬぐったシンジにゲンドウはひと言、そうか、とだけ返す。メガネの奥の目線がさがっているのはやはり想うところがあるのだろうと察した。そうするとつい慰めついでとばかりに軽口が出てしまう。

「父さんってさ、タバコ吸ってたんだね。あとヒゲもなかったんだ。それから……」
「その話はいい……昔のことだ」
「でも……優しかった」
「話はいい、と言った」

さすがに若い頃の姿を言われたら気まずいのは誰しも同じだろう。シンジは笑いそうになるのを堪えるが、いっぽうで隣のレイは違った。伏せがちだった目線を正面へ戻すと、意を決して言う。

「あの、司令。ユイさんは私のことを娘だと言ってくれました。ですので、司令は……」
「レイ」

遮るようにぴしゃりと返され、彼女の口は止まる。嬉しさがあったユイとの邂逅。母とはこういうものなのか、とさまざまな言葉もらった。ただ、ゲンドウはどうなのだろうか。所詮は道具としての価値でしか見られてなく酔狂だと、うぬぼれだと鼻で笑われるのかもしれない。あのとき見た光景はシンジにだけ向けられているもので、自分には無関係……そう言われている気がして結論づけようとしたとき、ゲンドウが続けた。

「シンジと歩め……これが最後の命令だ」

驚きではっと目を見開く。彼の表情に変化はない。かつて何度か向けられた笑顔や焦燥、悲愴感も窺えない。表面だけなら突き放されたと感じる低い声色。だが、違う。きっとこんな言葉でしか伝えれられないのだ。強くあるために自身の心を縛った不器用なひと。もう昔に戻ることもないだろう。けれど、ひととしてのしあわせを望めと言外の含みがあるだけで充分だ。レイはいくつもの想いを瞳から溢れさせると、震える声で応じた。

「ありがとう、ございます……お父さん」

ゲンドウはじっと押し黙ったあとも、そうか、とだけ返す。それがシンジにはどこか嬉しさのような、安堵したような声色に感じた。これでいいのかもしれない。もっといろいろと話し足りないことはあるけれど、少しずつ距離を縮めてゆければいい。いつかレイと結婚して、子供が産まれたら孫を抱くときはあの笑顔が見られるかもしれない。ヒゲにちくちくすると子供が泣けば、綺麗に剃るのかもしれない。そんな気がした。

「あの、僕たちそろそろ行くね。出撃とかないと思うけど、残るからさ」

そう言い残して(きびす)を返す。レイは深々と頭をさげてあとに続いた。執務室からふたりが去り、ひとり残されたゲンドウはおもむろに立ちあがると巨大な窓から外を窺う。荒れ果てた大地と石になったエヴァたち。天を仰げば燦々と降り注ぐ太陽の光だ。暗い穴倉の中にもたらされたのは地獄への希望であり、明日への道標でもある。サングラスを外し、万感の想いで呟いた。

「これでいいのだな」

心を殺しても外道へ堕ちることができなかった男は、遠くへ旅立った妻に向かって瞑目する。強くなったシンジと巣立ったレイ。彼らが進む道は決して平坦ではない。この大地のように多くの険しさが待ち受けているだろう。だからこそ妻に任されたのだ。シンジとレイを頼みます、と。一言一句違わず伝えられた言葉が胸に大きくのしかかる。だが、守ると決めたのであれば誓うまでもない。

「さようなら、ユイ……」

ここへ来て、初めてゲンドウは泣いた。ずっと押し込めていた妻への熱い想いが去来する。走り続けた男は、ようやく立ち止まることを自身に許した。つぎに歩くときは子供たちのためである。過去と決別した彼に、太陽はどこまでも柔らかく微笑んでいた。


軍隊は、それを維持するだけで莫大な金がかかる。兵士の食料から重機の燃料など現地調達には限りがあるため、当然ながら補給を受けなければならない。そして補給部隊の運用にも費用が必要だ。第三新東京市に駐屯する戦略自衛隊も例外はなく、二週間もすれば部隊の数を大幅に減らすこととなった。

ネルフ本部にサードインパクト発生の用意ありとの命令で侵攻したものの、結果は憂慮を残さない終戦である。件の爆撃を除き、なんの被害もなければ士気もさがるというものだ。相手側から交戦の意思は見えず、被害の調査でヘリコプターや調査員が現れるくらいの動きしかなかった。

ではこちらの司令部より新しい命令があるかと言えばそれもなく、なにやら混乱をきたしているくらいしかわからない。やがて作戦は箱根で発生した災害に対する派遣要請という形へすり替わり、監視と少数の部隊が展開するのみとなる。本部への査察も大儀が存在しない以上、おこなわれなかった。なぜならサードインパクトは発生しなかったという不動の事実があるためだ。

司令部、ひいては日本政府はなにを根拠に虐殺まで判断したのか。部隊の耳目を刺激するのはもっぱらそんな話題ばかりで、ネルフに対する敵意は皆無であった。虚偽の情報に踊らされたと誰もが考え、責任の所在が論じられる。そこへ秘密結社の介入などという伝聞が入れば心中はいかばかりか。

町の住民が避難していても、ほかの町は平時と変わらない。ただでさえ流言飛語が漏れ聞こえる箱根でなにがあったのか。限られた情報と謎の大爆発をマスコミはこぞって報道し、さまざまな憶測を生んだ。ゼーレの名こそ出ないものの、陰謀論やオカルト論が連日テレビを賑わせる。

政府が国会の答弁に終始するいっぽうでゆくえ不明や辞任を表明する議員があとを絶たず、国体を揺るがせる事態になっても収拾の目処は立たなかった。それは海を隔てた各国も同じで、世界情勢は混迷を深めつつあった。

ただ、さいわいにも出生率低下の真実が世間に流布されることはなく、またそこへ辿りつく者もいない。人間は知らないまま他人を傷つけて殺し、奪う毎日を続けるのである。平和なのはある意味で日本だけだった。


惣流・アスカ・ラングレーという少女がいる。栗色の髪に青い瞳をした学校のマドンナだ。くっきりとした顔立ちは誰が見ても美少女だと評するし、少し大きめの尻と長い脚は男女問わず年頃であれば羨望の(まと)だ。いまだ成長を続ける乳房も少しずつボリュームを増し、打倒ミサトもそう遠くないとは本人談である。

彼女はおしゃれ好きで、日本が常夏というのもあって露出の多い服をよく着た。ズボンはぴっちりとして動きにくいから苦手であり、尻や太ももが強調されるのも苦手である。でもおめかしはしたい。だったら逆に隠すより見せたほうが潔いしとても快適、と単純な理由で短いスカートやショートパンツをこよなく愛した。

そんなアスカはシンジに恋をしている。この二週間、心になんとか折りあいをつけようとしてきたものの、かえって強く彼を求めてしまうだけだった。彼を嫌いになろうとしてもあっさり翻るし、さりとて自分の短所を(あげつら)ったところで諦めきれない。シンジがレイを伴って病室へ来たとき、かつての彼女であれば刺々しい言動で拒絶する方法を取っただろう。しかし、過ちを認めたいま彼に返すのは赤面した笑顔だけである。そしてそんな空気が心地よいから、甘えるという態度に落ち着いた。平和になったいまこそ、できなかったぶんをおおいに楽しみたい。結論を先延ばしにし、新たな日常を夢見て退院のときを迎えたわけだが乗っけから目論見は外れてしまう。

「ちょっ、ちょっ、レイっ。飛ばしすぎ、飛ばしすぎぃぃ!」
「碇くんから聞いたわ。遊園地にはこういう乗りものがあるのでしょう?」

午後になり、ようやっと辛気臭く薬品臭い病院から出られると喜んで鼻歌混じりに着替えたアスカである。シンジに押してもらおうと思っていたのに、車椅子のハンドルを持ったのはレイであった。しかも、廊下を遠慮なく全力疾走だ。いくらチルドレン専用の階であり広いとはいえ、壁はあるし柱もある。少しでも元気づけようとしてくれる彼女の心配りには感謝するのだが、お約束フラグがちらついてしかたがない。また骨折して病室へリターンだけは勘弁だ。

「やーん、シンジぃ。レイを止めてぇぇ!」

彼を少しでもどぎまぎさせようと、とても短い丈の黒いゴシック&ロリータファッションに身を包んだ彼女は、捲れあがるスカートの裾を押さえながら涙目である。ちなみにアスカの衣装一式を彼女の部屋から持ち出して病室まで届けたのはどこか虚ろな瞳になってしまったマヤだった。指名したわけではないのだが、伝達がめぐりめぐって燃え尽きかけていた彼女に白羽の矢を立てたのだ。アスカの肢体に強い嫉妬を交えながら着替えを手伝ったのもマヤである。

「マヤさん、止めなくていいんですか?」
「えっ? ああ、うん……元気があっていいわね」

ちょっと見ない間にずいぶん疲れた顔になったなとシンジは思うものの、女性の容姿に褒め言葉以外はいらない。そんなアドバイスを授けてくれた加持に倣って無言だ。口紅がやけに赤いとか、アイシャドーが濃いとか、髪の色が明るくなったのもきっとわけがあるのだろう。いわんやリツコをリスペクトしてるのかと問うのは危険な気がする。たぶん、いろいろ足りないだろうが頑張ればいいと心の中で声援を送った。

「こんなこともあろうかと、ってないですよね。は、ははっ……」
「そういうのいいから」

せっかく放った渾身のギャグにもつれないお返事である。そうこうしているうちにレイとアスカが消えた方面であるエレベータ前へゆけば、息を切らせたレイと壁を目前にして引きつった顔のアスカに合流だ。

「もうっ、見てよシンジ。レイったら壁まで1センチよ? いっせんちぃ」

シンジの目測では10センチあるが、白いギプスががっちりと施されたアスカには冷や冷やだろう。大腿と腕を庇うようにして彼を見る瞳には涙が浮かんでいた。あともう少しでなにかが見えそうだったなどと顔に出してはいけない。すっかり仲のよくなったふたりに目を細めた。

「はははっ。でもなんか楽しそうだったよ」
「そこっ、笑うとこじゃないでしょ。心配しなさいよ、ばかぁ」

シンジに笑顔を向けられ、レイと代わって車椅子のうしろに立たれればほっぺたを膨らませつつも喜んでしまうのは恋する乙女ゆえだ。知らず鼻歌を口ずさみ瞳を輝かせた。

そして、病院の一階に到着した彼女を出迎えたのは仮退院を祝う医療スタッフたちである。笑顔で手を叩き、皆がおめでとうと口にする中で大きな花束を渡された。さしものアスカも照れ笑いを浮かべて礼を言うが、病院を出てほどなくすると抱えた花束を見ながら目を伏せる。

「ねぇ、シンジ、レイ……ちょっとお散歩につきあってよ」

快活な彼女が病室に閉じ込められていたのではさぞ退屈しただろうと、ふたりは同意してアスカに促された道を進む。路面は決して平坦ではないものの、探せば車椅子でゆける場所はいくらでもあった。

「まだそのまんまみたいだね」

背後でシンジは言う。どこへ向かおうとしているのかわからないが、こうして実際に歩くと見えてくるものも多い。アンビリカルケーブルは何本も野晒しだし、剥がれた装甲や砲弾の薬莢も落ちている。草木や地面は焦げ跡が目立ち、ともすれば硝煙の匂いがしそうだ。

「自分で言うのもなんだけど、あたしもハデにやったわね。本部なんてベッコベコじゃない」
「ほんとだ。足で踏んだらそうなるよね」

特徴的な本部施設のピラミッドには弐号機の足跡がくっきりと残っている。牛柄の使徒の攻撃から急ピッチで直してもまだ仮施工の段階なのだから、よく踏み抜かなかったと感心だ。ふたりの会話に車椅子の前で路面を確認しているレイが捕捉した。

「まだ予算が下りないそうよ。施設丸ごと破棄になるかもしれないって」

三人が和解したガーデンも壊れており、噴水や水路、花壇や生垣は無残な姿に変わり果てている。もうネルフは役目を終えたのだと感じさせるには充分だ。

「もったいないわねぇ。アトラクションでも作ればいいじゃない。ね、シンジ」
「わざわざここに? 作ってもアスカは遠いとか言って絶対に利用しないでしょ」
「まぁ、そう言われたらそうね。町も直すの時間かかるわねぇ」
「あれだけの穴が開いてたらねぇ」

傾いてきた太陽の下でしばし三人は進む。構造的に風のとおりがいいのかそこまで暑くはない。アスカが指を向けてはあの場所での一撃が最高だったとか、いま思うとあの防御は失敗だったとか戦闘を振り返っている。

それから本部よりだいぶ離れたところまで案内されて、シンジとレイは彼女が目的としている場所を察するのだ。眼前に(そび)える石の像。ひとつは原型をまったく留めていないゲル状を思わせるエヴァシリーズ、もうひとつはそれに絡みつかれながらもしっかりと形を残している弐号機である。胸には同じく石になった槍だ。

本当はエントリープラグの中まで入れたらいいのだろうとシンジは思った。いま麓まで来たがアスカの怪我では登れない。自分でもよく行ったなと竦むほどの高さがある。ミサトに頼めば梯子車を用意してくれるだろうか。そんな彼の気遣いを察したかのように彼女は言う。

「ここで平気よ、シンジ。もうママはいないから大丈夫」
「そっか……」
「戦友ってヤツかしら。あたしのママであり、友達だったのね……」
「そうだね……」

アスカはしばらく弐号機を見あげたあと、前に屈んだ。彼女の意図に気づいたレイが手を貸すと、持っていた花束が添えられる。つぎに、赤いインターフェイスヘッドセットを頭から外し、じっと見詰めて隣へ置いた。シンジは彼女の両肩に手を乗せ、レイは乱れた髪を撫でてあげる。

「シンジ、レイ……ありがと……ありがとう……」

長い時間をエヴァとともにすごしてきたアスカは咽び泣く。時刻は黄昏どきを迎えており、天から一条の光が弐号機をオレンジ色に照らした。役目を終えたのはエヴァもまた同じである。そこにあったのはまぎれもなく母の墓標であった。


発令所に以前のような混乱は見られない。支部からのクラッキングもなく、大型スクリーンは平常を示している。生き残ったカメラで街の様子を見てもとくに動きはなかった。マギは通常どおりの稼働をし、職員の多くは支部との連絡に奔走している。戦いは終わった。ならばつぎなる目標は人類の存続だ。今年産まれる最後の子供が健やかであるうちに解決策を見つけなければならない。いまのままでは物資の調達にも難儀するようになるからそれまでの道筋を模索していた。

「――とは言っても、俺たちは暇だよな」

頭のうしろで腕を組みながら椅子の背もたれに寄りかかってマコトが言う。五対一という圧倒的不利な電子戦が茶番だったと聞かされたときは魂が抜ける思いであった。相手がリツコとあれば怒るわけにもいかず、理由としても納得である。ただ、あまりに生きた心地がしなかったものだからこの二十日近くで一気に老け込んだ気がした。

「まあ予算もないし、町のひとも帰って来ないんじゃな」

隣のシゲルは片耳にイヤフォンをつけて譜面を書いている。彼らの仕事はオペレータであり、各部署からあがった情報の報告とタスクの割り当てだ。本部の復旧は指示を出しており、支部との折衝も任せてある。町が復興を開始すればべつだが、いまは閑職ぎみであった。

「なんかイベントとかやったら来ないかな」
「ライブとかか?」
「なんでだよ。ここは温泉地だぞ? 芸人くらいしか来ないだろ」
「俺たちがやるんだよ……アスカちゃん、可愛いなぁ」

モニタに貼った写真を見てシゲルは目を細めた。すらりとした手脚、ほんのわずかに見える日本人らしさ。プロポーションもルックスも最高だ。それでいて鬼神のごとき強さを見せるとあってはまさに戦場の花である。

「お前そればっかだな。相手は中学生だぞ? しかもシンジ君に敵うわけないだろ」
「ばぁか。そうじゃねぇよ。ヴォーカルだよ、ヴォーカル」
「ヴォーカル? ああ、バンドのことか。てっきり狙ってんのかと思った」
「英雄さまのガールフレンドを横取りなんてしたら世界中から血祭りだよ。ってか、お前こそどうなんだよ、葛城さんに告ったのか?」

疎開で散ってしまったバンドメンバーの補充についてシゲルは語っていた。アスカはたしかに最高の美少女だが、とても隣に並び立てる自信なんてない。彼女は愛でてこそである。ちなみに、レイとシンジが交際しているというのはいまや周知の事実だ。ふたりが仲睦まじく並んで歩く姿に二度見した職員も多い。

片やマコトは決戦前日に口走った決意を突っ込まれて天井を見あげた。残念ながらまだ告白する勇気はない。ミサトもいささか暇を持てあましているようだが、ここのところ妙にやる気を出しているため近寄り難いのだ。

「いや、飲みに行きましょうとは言ったし返事ももらったけど、無理だろうな」
「あのひとのこともあるしな……ま、難しいよな」
「それに飲みに行くって言ってもここのラウンジじゃな。風情がないよ……だから復興して欲しいんだ。俺はっ」
「副司令あたりに言ってみたらどうだ? プランしだいじゃ、あのひと乗ってくれるかもしれないぜ?」

そうシゲルに言われてマコトは唸った。彼とは違ってインドア派であり、趣味はアニメや漫画が多い。ミサトと共通の話題と言ったら兵器ネタと酒くらいだろうか。車も国産車ならいけるしレースゲームなら得意だ。

「イベントねぇ……アニメの聖地にしてみるとか?」
「どうやってアニメにするんだよ。職員のエロアニメか? マヤちゃんとか赤……いや、まずいだろう」
「せっかくエヴァなんてものがあったんだ。こう、ロボットものとか? 小金井にいいスタジオあるんだけどなぁ」
「お前はほんと、アニメばっかだな。たまにはメタルとかパンクとか聴いたらどうだ? 世界が広がるぞ」

マコトの脳裏には歌って戦うロボットアニメだとか、合体シーンがあるアニメばかり浮かぶ。しかし温泉地にロボットはないだろうとネルフにいるのを忘れたかのような結論に至った。

「俺たちも祝賀会、出たかったなぁ」
「ああ、さっきちらっと見たけど、アスカちゃんゴスロリ衣装だったぞ」
「悪いが俺は葛城さん派だから」
「お前にはわかんねぇか。ギターヴォーカルっていうのも悪くないなぁ」

地下のホールではいま祝賀パーティが催されている。総司令は出席せず、副司令が長い訓示を述べたあとの宴だ。酒も出るとあってはマコトもつい気持ちがそちらへ向いた。ミサトが出席していたらなお最高である。

「エヴァンゲリオン、ってそのまんまか……なんか頭に欲しいな」
「まだ言ってんのかよ」
「新生活! どうだ、パーぺきだろ?」
「普通に社会人じゃねぇか」

今夜は夜勤である。マヤの姿もなく、男ふたりで長い時間をすごさねばならない。それでもこうしてできる雑談に彼らは心から安堵していた。使徒が攻めて来るまでの日常と、同じだった。


直径12センチの円筒の高さはおよそ10センチで、素材は卵と薄力粉がおもである。表面は綺麗な狐色をしており、中はふわふわとスポンジのように柔らかい。シンジは手にしたチューブを絞るとスポンジへ垂らし、ヘラで均一に伸ばす。スポンジを乗せた土台をくるくるとまわせば狐色はまっ白な雪に包まれた。

「あとは苺とバナナと……」

彼はいまショートケーキを作っていた。祝賀会も終わり、ようやく開放されたチルドレンたちはアスカの自室に集まっての二次会である。彼女曰く使徒と戦うより疲れたとのことで、食事をろくすっぽ口にできなかったからなにか作ってとの要望だ。そのわりには寿司だの焼き鳥だの結構ぱくついていたように見えた彼であるが、緊張して味どころではなかったのかもしれないと売店で掻き集めた食材でこしらえている。

「楽しそうだなぁ、ふたりとも」

風呂場からの笑い声が聞こえる。アスカが入浴するにあたり、レイが介助しているのだ。片腕と片脚ではなにかと不便だろうと裸のつきあいである。シンジは白いケーキにレイの裸体を重ね、赤い苺にアスカの肌を連想した。

「一緒に入ろうだなんてアスカは言うけど、無理に決まってるじゃないか」

最近は本当に元気いっぱいで、しょっちゅうからかわれているなと思う。三人で入浴したら互いにいろいろと丸見えになってしまうのは明白で、鼻血を出して倒れてしまいかねない。男性の生理現象をなんだと思っているのかと、トレーナーを元気に押しあげるバナナを諌めながら大きく息を吐いた。

さて、こちらは魅惑の美少女ふたりである。レイのマンションとは違い、なかなかの広さがある浴室でアスカは背中を洗われていた。椅子に座り、両脚をまっすぐ伸ばして夢心地である。

「あー、気持ちいいわ。病院じゃベットバスだけだったからさぁ、やっぱ違うわぁ」
「そう?」
「お陰さまで今夜はぐっすりよ」

髪を頂点でまとめ、首のうしろや肩甲骨、果ては尻の割れ目など布が擦られるたびにアスカは目を細める。そんな彼女とは対象的に、レイの瞳には憂いがあった。がっちりと固定された左腕と右脚のギプスがどうしても視界に入る。加えて脇腹には痛々しい傷跡がくっきりと残っていれば胸も苦しくなった。

「アスカ、ありがとう……」
「な、なによ、突然」

レイが噛み締めるように言う。アスカは自分から頼んでおきつつも名前を呼ばれることに気恥ずかしさがあった。普段は頑なに苗字で呼ぶくせに油断しているとぽろりと出されるから困るのだ。ためらいがちに縫合跡を撫でられた上での言葉ともなれば重みも増す。

「あなたの傷が私たちの明日に繋がったの。だから、ありがとう」
「そんなおおげさよ。あたしは自分のためにやったことなんだから、べつに……そんな。それにレイが教えてくれたからママに逢えたんだし、その……あ、あたしのほうこそ感謝してるって言うか」

かつては承認欲求を満たすためというのがエヴァに乗る理由のひとつでもあったアスカだが、未来を望んだ末の勝利にレイの言葉は感無量だ。虚栄心ではなく、守りたい誰かを想って戦場へ立つ。そこにプライドは存在しない。

「ならお互いさまね。でも、ありがとう」
「わ、わ、わかったから。もうっ」

ただ、彼女にはどうしても心に引っかかっている不安があった。言わなくてもいいのかもしれないし黙っていれば知られない。けれど、入院中何度も病室に来てくれたレイの表情を見て、これ以上嘘はつきたくなかった。そう思って口を開くとさきを越される。

「融合してたとき、なにか言われたのでしょ?」
「えっ……どうして?」
「だって、入院中なにか言いたげな顔してたから。心が苦しいって、そう見えたもの」
「そんな……」

どきりとした。レイは思考が読めるのかとまで考えていると彼女は説明する。自身もかつて自爆したとき使徒と対話があったと。心の奥にあった想いが表面化して、最後の瞬間にようやく彼を愛していた自分を理解したと言う。

「――きっと、不快なことを見せられたのね。私を見る目がとてもつらそうだったわ」

アスカもまた告白した。レイに対する醜い嫉妬、いなければいいとまで願ってしまった性根。愛に気づいたレイとは正反対の黒い感情を思い知らされたのだ。それなのに彼女は生きている姿に喜んでくれた。口にするほど自身の悪意が嫌になって声を震わせる。

「ごめんなさ……い……。あたし、最低よ……」
「いいえ、私も同じよ。彼に好意を覚えるよりさきに自覚したのが嫉妬だもの。私にないものをあなたはたくさん持っている。私よりもずっと長く彼と一緒にいたわ。想い出と呼べるものだってとても少ない」
「それはこれからいくらでも……」
「そうよ。だから過去にこだわる意味なんてないの。あなたも私も、ここから始めればいいのよ。それに、過去の自分を否定することは、いまの自分を否定することだわ」

レイの力強い言葉を聞いて、アスカははっとした。過去の記憶があっても、感情を取り戻してはいても、いまのレイが経験したものではない。ともすれば昔の自分に対して嫉妬を向けるときもあるだろう。だが、それがあるからこそいまの自分が形作られたのだ。昔を否定しては成長もない。美醜あわせ持ってこその人間である。

「あたし、レイの……と、友達でいてもいいの?」
「ええ。あなたは私の友達で、恋敵。それはこれからさきも変わらないわ」

ぐっと歯を食い縛ったアスカだが、涙がひとつタイルに落ちた。シンジがレイの恋人になったからといってすべてを失ったわけではない。こうして大切な〝友達〟が得られたのだ。絆、戦友、友達の単語が頭の中で煌びやかなメリーゴーランドのようにまわり、ついもじもじとしてしまう。

「あ、ありがとう……レイ」

裸のつきあいとは、こうも心まで曝け出すものなのかと緩んだ口元に力を入れる。背中を向けててよかったと安堵したのも束の間、レイからさらに追い討ちをかけられれば動揺が隠せない。

「手を貸すから、立って。そしたら今度は前も洗うわ」
「あ、いやぁ……そのぉ……前は……」

同性とはいえ、いまのやり取りのせいもあって自覚するほど顔が熱い。片手で洗えなくもないが、さりとて好意を無駄にするのは気が引ける。ここまで来た以上頼むのが筋であると意を決して言われたとおり振り向けば案の定、美しい裸体だ。

「私は気にしないから」
「あたしが恥ずかしいの。ったく、丸出しじゃないの」
「羨ましいの?」
「べ、べつに……」
「私は羨ましいわ」
「そうなの? どこが?」
「秘密」

手すりへ掴まりレイに前面を洗われながら、しっかりと彼女の身体を確認した。とんでもなく綺麗な形の乳房、食べたものがどこへ入るのかというくらい細いウエスト、まるで主張するかのようにつるりとした恥丘。キスマークはもう消えてるが、きっとまたつくのだろう。レイの羨む気持ちがわからない。

「髪の毛と同じ色なのね」
「って、どこ見てんのよ。当たり前でしょ」
「縮れてるわ。ここもブローするの?」
「なんでよ。もうっ、引っ張らないで」
「私にもいつか生える?」
「ないほうがいいわよ。ってか顔近すぎ」

首の下から鎖骨、乳房とさがり、足の爪先まで布が這う。とても微妙なところへ手が入れば見てられなくて顔を背けた。膨らみの先端をぐるぐるされたり、ぷっくりとした溝の隙間を前後されたり、くれぐれもちょっと気持ちいいかも、などと思ってはいけない。入院中の禁欲生活が祟らないのを願って必死に意識を逸らす。

「息あがってるけど、平気? のぼせたのかもしれないわ」
「そ、そ、そんなこと、ないから。全然へーきだし」
「そう? ならこれも平気?」
「んくっ……あ、あまり、そういうのは、よくないと、思います」

なぜそこまでやるのかとレイを恨んだ。たしかに排泄物で白い塊が付着するけれども、なにも剥かなくてもいいではないか。引っ張ったり倒したり、やけに丁寧なのはわざとか、わざとなのかと腹筋に力を入れて唇を噛む。

「不思議な構造ね」
「もうっ、弄りすぎっ。自分だってついてんでしょ」
「見たことないもの。あなたもこうされると気持ちいいの?」
「ひぃっ。ちょ、ちょっと、ホントに、あっ……困る、からっ……」

絶対になにか出てると思えるほど熱くなったアスカだが、しばらくしてようやっと開放される。だが、受難はまだ続いていた。ひととおり泡まみれになったところでレイが小首をかしげるのだ。そのしぐさと表情が無邪気で可愛いから強く言い返せない。

「なぜ腋を隠すの?」
「こっ、こっ、ここは……しょ、処理が……」
「処理? 前に言ってた無駄毛を剃るということ? 問題ないわ。手伝うから」
「ちょっ、ちょっ、本気? ボーボーよ?」

残念ながら看護師は剃毛まではしてくれなかった。およそ1センチあまり伸びていると知っているだけに、顔から火が出るほど恥ずかしい。なんだか女として終わってやいまいかと思いつつも、ギプスの腕では困難なのもたしかだ。完治するまで長いからと頼むことにした。もうほとんど自棄である。それでも、友達と入る初めての風呂はすこぶる楽しかった。

それからほどなくして少女ふたりは風呂を終え、赤面したアスカにシンジがどうしたのかレイへ問うようなアクシデントを挟んでパーティの開始だ。冷蔵庫から出されたケーキがテーブルの上に乗せられるとアスカもレイも目を丸くする。売店でなにやらこそこそ買っているなとは思っていたが、まさかケーキを用意していたとは驚きである。しかも、なぜかローソクが三本立てられていた。

「アン……し、シンジってホント、器用よね。それにローソクってなに?」
「ほら、前に話した手抜きってやつだよ。なんとなく記念にいいかなって」
「いいわね、それ。お祝いは大切だわ」

さて、ダイニングの照明を落としたシンジだが、ロウソクの灯かりに照らされたレイはきょとんとした顔をしている。これは失敗したかと自分の迂闊さに慌てて尋ねた。

「あの、綾波はこういうのって……」
「経験ないわ。どうすればいいの?」

アスカもはっとした顔をしている。誕生日すら祝われたことのないレイが不憫でならないが、ここで気持ちを暗くしてはいけない。機転を利かせた彼女は一計を案じる。

「レイの誕生日っていつなの?」
「登録上は三月三十日よ。でも……いいえ、それが私の産まれた日」
「あら、もうすぐじゃない。その前にリハーサルってことね」
「お祝い……してくれるの?」
「あったり前でしょうが。いい? 誕生日ってぇのはね――」

アスカがレイに手順を教える。ドイツでは自分で開催するとか、とても大切なイベントであるといった薀蓄(うんちく)を挟み、自身を祝うのではなく両親と先祖に感謝して、家族の絆を深めるのだと説いた。いつになく真剣な彼女にシンジとレイがなるほどと感服したところでいざ消灯だ。一同声をあわせて、異口同音に発する。

「おめでとう!!」

クラッカーは鳴らないし、紙吹雪が舞うような祝賀会ほどの派手さもない。それでも大切なひととすごせる喜びはなにものにも代え難い。手を叩き、自然と笑顔を零しながら新しい時代の幕開けを祝った。

「さすがシンジね。最高の手抜き加減でおいしいわ」
「あははっ。それは褒め言葉として受け取っておくよ」
「碇くん、あとで教えて」

生クリームを口の端につけて始めるのは使徒戦の振り返りである。つらいこと、痛いこと、苦しいことがあり、傷つけあうこともあったけど、すぎてしまえば想い出のひとつだ。

「ミサトも水中戦を考慮しときなさいってぇのよ」
「アスカなんて、くちぃ!? とか驚いちゃってさ」
「あらシンジ。赤いプラグスーツ姿、レイにも見せてあげたら?」
「いや、あれはさ……構造とか……」

男性用と女性用ではプラグスーツの構造が大きく違う。空気を抜くことでぴったりと身体に密着するが基本的に個別設計のためアスカ用のものはシンジにとって太ももや尻がやや緩かった。あげく胸にプロテクターはあるし、股間もモッコリするしで散々な過去だ。

「私、碇くんに押し倒されたことがあるわ」
「あ、いや、だから。あれは事故だって、ねぇ?」
「胸にまで手を添えて……」
「ああもう、アスカもそんな目で見ないでよ」

レイがくすりと笑っているあたりわざと持ち出した話題だろうが、シンジは弁解に必死だ。いまとなっては隅々まで触れているのに、あのときの記憶が鮮明なのはやはり衝撃的だったからだろうか。何度となく思い返したなどとは言えない。

「あたしの水着姿ちらちら見てたくせにぃ。えっちぃ」
「あれはアスカがやたらと胸を強調するからいけないんだろう……って、綾波、ね? そうじゃないから、ね?」
「エロシンちゃんはなんのお勉強に夢中だったのかしら?」
「熱……膨張……」

発育のいい西洋人の体型を目の当たりにすれば視線が釘づけになるのもしかたのないことである。そう言えば、あのときのレイの白い水着は突起が微妙に浮いていたなどと言ったらどうなるか。火刑に処されそうだとシンジは緑茶を啜る。

「私のこともじっと見てたわね……なにを言うのよ」
「まだなにも言ってないじゃないか。でもそれって、綾波も僕の視線を意識してたってことだよね?」
「そ、そ……れは……知らない」
「へぇ。そうなんだぁ……へぇ……ははっ」

あのとき心に抱いた気持ちがまさかこのような恋人関係にまで発展するなど、思いもよらないことである。そんな想いはレイもまた同じだった。ふたりして見詰めあって微笑み、アスカが咳払いするのはご愛嬌だ。

そんな和やかな宴も睡魔とともにお開きとなる。アスカの自室へ来たときからシンジもレイもともに寝るのを想定しており、遠慮する彼女を言いくるめて歯を磨き、仲良く川の字になった。

「あたしはべつにぃ平気だからぁ、隣でシちゃっても構わないわよ? ちゃぁんと見ててあげるから」
「な、なに言ってるんだよ、アスカぁ」
「碇くん、惣流さんもああ言ってるの。ひとつになりましょう」
「どっかで聞いたような台詞だけど、駄目だから。って、綾波どこ触ってんのさ」

レイとしてはかなり本気だった。なにせ長らくご無沙汰だ。愛しの彼と密着してては鼻息も荒くなるというものである。下着は冷たいし、Tシャツもぴんと張っていた。そしてアスカも好奇心旺盛である。背中を向けて知らんふりをしているが、耳はしっかり(そばだ)ててるし鼓動はどきどきだ。風呂場の件もあって、じつはかなり疼いている。勢いに乗じて三人で……そんな妄想までしてしまった。

だが、当のシンジは困惑しきりでなんとかレイを抱き締めてことなきを得た。ちゃっかり元気になっててもごまかすしかない。本音は彼女と同じく爆発寸前だ。ふたりの少女が放出するとんでもないフェロモンに先端から涎が染みてくる。

誰かがなにかをすれば確実に股間計画まっしぐらの抜き差しならない状態なれど、やはり疲れと安堵から三人はすぐさま寝息を立てることになる。ダブルベッドに三人という無理な体勢で、夜中にアスカの堅牢なギプスがシンジの腹や脚に炸裂したり、レイがベッドから落ちたりしてもしかたない。彼は無意識にレイを抱擁したかと思えばその手でアスカを抱き締め、また少女たちがシンジに絡まるときもあった。ややこしいところに手が行ってしまっても意図しない熟睡中であれば不可抗力である。

朝一番に目が覚めたシンジが両隣の無防備なふたりを見て暴走しそうになるものの、煩悩は退散だ。レイのTシャツが捲れて白い下乳が出てようが、アスカのショートパンツがずれさがって赤いTバックらしきものが覗いてようが絶対に罠である。父のバリトンボイスでお前には失望した、と空耳してもじっと我慢の子であった。