第弐拾六話、其乃弐
パイロットの役目を終えたチルドレンたちは、基本的に暇である。三人で朝食を取るとリハビリを開始するというアスカを病院へ送り、少しの散歩を交えて自室に戻った。本部の中に目新しいものがあるわけではないし、地上の街へ行ったところで復興もされてない。学生の本分は学業であると初心に帰ってのオンライン授業だ。教科書がなくともノートパソコンさえあれば問題ない。進級もすぐに控えているので大幅な遅れを取り戻さなければいけなかった。
レイが借りた宿舎はアスカとべつの階にある。これは意図したものではなく、最終決戦を前に多くの職員が借りたためだ。間取りはアスカの部屋と同じで広々とした1DKである。部屋の隅には大きな観葉植物があり、スタンドライトも置かれている。壁にも風景画がかかっており、剥き出しのコンクリートながら色を添えていた。ミサトのアドバイスだと聞いて、どおりでと彼も納得だ。奥の寝室にはダブルベッドが見慣れたシーツとともに置かれており恋人との同棲が再開される喜びを感じた。
出撃も訓練もない新しい生活がここから始まる。誰にも邪魔をされないふたりだけの空間……そう考えているのはなにもシンジだけではない。お茶でも飲もうかと彼女を振り返った瞬間、もうすでに抱きつかれていた。
「ようやく帰ってきたわ……ようやく」
肩口に顔を埋めたレイが切ない声を漏らす。彼の傷に障ってはいけないと、なるべく穏やかにしているつもりだったが両腕を背中に強くまわしてしまう。まだ昼前なのに、勉強もしないといけないのに。貞淑と理性が頭の隅に浮かぶものの、どうにも止まらない。彼の手を背中に感じれば否応なしに鼓動は高まり、吐息を熱くした。
「綾波……きみが無事で本当によかった」
「いいえ。あなたが傷ついたわ」
髪を撫でられ、レイは目を細める。愛おしげに頬を重ね、彼の体臭を胸いっぱいに吸い込む。ゆっくりと顔を離せば絆創膏がなくなった唇はすぐそこだ。まだ縦に傷跡が残るものの、彼女には魅惑の部位でしかない。
「そんなのいいよ。きみに怪我がないほうがよっぽど……」
シンジが言い終わる前に唇を奪った。痛みがあったらどうしようかとためらっていたのは一瞬で、すぐさま舌を絡める。懐かしささえ覚える彼の感触に、目の奥が熱くなるのを感じた。すると、疼いていた細胞がかっと燃えるのだ。マグマのような血潮が瞬く間に全身を駆けめぐり指先まで脈動する。
じりじりとシンジの手がワンピースの裾から入り込む。大腿の裏側を撫で、ぷるりと尻を持ちあげられれば鼻から熱波が漏れた。背中のホックが慌てぎみに外されるのを知って、彼もまた激しい情動を滾らせていると喜ぶ。それでもレイは揺れる声であえて問う。
「碇くん……お勉強、しなくていいの?」
「いまは保健体育の時間だよ」
「私のこと、もっと知りたい?」
「うん。きみのこと、全部……」
間近で見詰めあって微笑む。互いの頬も耳も赤く染まり、瞳は潤んでいる。レイは肩を左右に振ってワンピースを床へ落とした。つぎにシンジのトレーナーに手をかけると上へ引っ張る。現れるのは鎖骨から脇腹にかけて斜めに走る大きな線と腹の傷跡だ。抜糸直後とあって赤黒い傷跡が盛りあがっていた。
「痛くない?」
「もう平気かな。突っ張る感じはするけどね」
レイはブラジャーが緩まるのを感じながら唇で傷口を撫でる。同時に彼のズボンに手をかけて、太ももまで下ろした。いっぽうでシンジも彼女のショーツに手をかけて同じようにさげるが、太ももまで来たところでレイは乱暴に蹴り脱いだ。すかさず尻の割れ目から指を忍ばせて手前の秘所へ向かえば外まで大量に溢れている。そんな自分がはしたないと感じた彼女は恥じらいとともに訊いた。
「ごめんなさい。私、こうなることばかり考えてしまってたわ」
「僕も、口実をどうしようかって考えてたんだ……いきなりじゃあれかなって」
彼の指の腹が泉を叩くたびにレイは腰を震わせ、自らの卑猥な水音に赤面した。静まり返った室内にぴちゅぴちゅとした潤いが響く。すると、そのときを待っていたかのようにシンジの鉄柱が下着から飛び出して彼女の雛尖にぺちりと当たるのだ。レイはたまらず肩を跳ねさせて小さく喘ぐ。
「あくっ……」
「ここ熱いね」
彼のほうが身長はわずかに高いが、脚はレイのほうが長い。荷物を引きあげるクレーン車さながらに反り返った鉄柱がぬらぬらと愛液を浴び、根元まで照りを放った。それが彼女の理性を崩壊させる合図だ。撫でられる背中と尻の愛撫よりいまは早く繋がりたい。レイは唇を押しつけつつシンジをベッドへ誘導すると、どさりと倒れ込む。いまふたりは少年少女から男と女をとおり越し、雄と雌に変貌していた。
「はぁはぁはぁ……」
荒い息をついて上を取ったのはレイだった。小鼻を膨らませ血走った眼で唇を何度も打ちつける。生粋のマゾヒストであってもこのときばかりはシンジを支配したくて止まらない。彼と自分がここにいるという現実をたしかめたかったのだ。鎖骨や胸板、肩に吸いつき両手で上半身を撫でまわす。尻をむんずと掴まれて泉がきゅっと窄まれば愛液の雫がぷるぷると揺れる。ほんのわずかな理性で枕元のスイッチに手を伸ばして照明を落とそうとするものの、彼が止めれば残されたのは本能の塊でしかない。
「駄目だよ、消したら。きみの姿が見えないだろう?」
実際のところ、彼女は本に書いてあった作法といままでの慣例、慎みという教育を実行しただけである。むしろ見られるほど肉欲が迸った。胸も股間も血が噴き出そうなほど充血させ、ギラついた瞳で腰を浮かせる。まるで見せつけるように大きく股を開くと跨って鉄柱に片手を添えた。それは、彼の愛撫が間にあわないほどの早業だ。下の口に先端をぴたりと符合させれば灼熱の情動はいよいよ限界である。じゅぷりと響く大きな水音、渇望により窄まった内部、それでいながらすこぶる潤沢な愛液によってなんら痛みも抵抗もない。だが、前戯をせずに挿入した弊害が思わぬ形で彼女を襲う。シンジをぶちゅると半ばまで飲み込んだところで凄まじい性感が四肢を駆け抜けたのだ。
「っんああぁぁ!!!! 逝っっっくぅっ!!!!!!」
失敗した。レイは達する寸前にそう思った。極めて敏感だとわかっていたはずなのに欲するあまり絶頂まで敷居が普段より遥かに低くなっている。いまだってまだ半分、たった半分しか入ってないのだ。息を止めて快感に打ち震えながら内部できつく抱き締めた。それがいっそう存在を際立たせるのだから腰さえ落とせない。全身を貫く圧倒的な痺れと至福に硬直する。
やがて、長い旅の果てに開放の息を吐けば自然と力も緩まるが、それは、とりもなおさず肉壺がふたたび開かれるのを意味している。余韻を感じる間もないまま腰を落とした彼女に逃れるすべはなく、易々と奥まで迎え入れてしまう。
「駄目っ!! またっっっっ!!!!」
連続して二度の絶頂に息を止めるレイをシンジは喜びの面持ちで観察した。眉を寄せ、下唇を震わせながら歯を食い縛る表情は何度も見ている。赤い顔を少しあげ、首に深い筋を現して閉じた目蓋まで小刻みだ。目尻から感涙を落とす彼女は平時に決して見られない。読書、買いもの、ミサトやアスカと話しているとき。あるいは昔ならシンクロテストや学校での様子など眉ひとつ動かさずともすれば冷たい印象さえ受けるレイ。それがいまや白い肌を桃色に染め、昂奮と快楽に汗を滲ませているのだ。絶頂後の吐息だって誰も知らないし、余韻の喘ぎ声や性感と鬩ぎあって倒れ込めないほど鋭敏な全身だって想像つかない。とても性行為と縁遠そうな彼女がこうして積極的に求めてくるとはなんという優越感か。
「ふふっ、すぐ逝っちゃったね」
「ま、待ってっ!! 動かっ、ないでっ……あっ! あんんっ……」
「僕はなにもしてないよ?」
ぜぇぜぇと息を切らし、しばらくしてようやく倒れ込んだレイをシンジは優しく抱いた。彼女は彼の首のうしろに腕をまわして時折ぴくぴくと背中を動かしている。肩口にある髪を両手で丁寧に撫でればぽつりとした涙を零して彼女は言う。
「私、すぐに逝ってしまったわ……」
「気にすることないよ。だって、それだけ気持ちいいってことなんだから」
レイは力なく首を振る。上下して当たる腹部と硬い乳首はまだ情動を滾らせている証だろう。ひとり外でかく汗は不快なのに彼女の汗はこんなにも嬉しい。感じやすい体質にしても早漏ぎみのシンジからすれば長所だ。逆だったら間違いなく自信を失くしていた。
「長く感じていたいのに、ゆっくりしてくれてるのに、いつも早いから……それに、欲求だってとても強いのよ?」
「僕には嬉しい限りだけど……」
「本当にいいの? 私、あなたに負担をかけてるわ」
「疲れてたりしたらちゃんと言うから大丈夫だよ。その、僕のほうこそいいのかなって思ってたくらいだし」
「そんなことない。碇くんに求められるのとても嬉しいもの」
「僕だって同じだよ。きみのこと知りたいってそういう意味だし……ここは僕たちだけの空間なんだから……」
「うん……」
「遠慮しないで」
レイは小さく頷いて上体を起こすとシンジを見詰める。この心と身体が落ち着くときがいつかくるのだろうか。いまはまだ慣れたくない。もっと彼に溺れていたいと思いながら激しく舌を絡めると赤い顔を隠すことなく言う。
「もっと私を知って、求めて欲しい……」
それは彼もまた同じだ。レイの身体が落ち着いたのを見てそっと陰茎を引き抜くと四つん這いになってもらう。彼女の両手は枕元の棚に添えられ、白い尻から背中までなだらかな曲線を描いて官能的だ。彼の目には性器同様、色素の沈着がとても少ない肛門が見えるがそこを攻めるような趣味は微塵もない。そして彼女はこの体勢を本で知っていた。期待に股は広がり、息を荒げる。
「もう少し腰を、そうそう……」
「はぁっ、はぁっ……碇……くん……」
「大丈夫?」
「ええ……来て……」
「入れるね」
そう声をかけてシンジはゆっくりと進入した。レイが感じるのは膣壁であり、いわゆるGスポットと呼ばれる場所だ。亀頭が擦れるたびに未知の快感が彼女を悩ませる。今度ばかりは耐えてみせようとするものの両手の自由なシンジがそれを許さなかった。そっと胸に忍ばされれば、性感の上乗せだ。撫でられる乳房、弾かれる乳首。ときに摘まれ捏ねられればぐんぐん高まってしまう。そこへ、右手がするすると股間へ向かうという意地悪が炸裂だ。唾液をしっかりと絡めた彼の指先は開かれた陰門によって剥き出しの肉刺を容赦なくしごく。以前から気になっていた性技をここで開放したのだ。三点同時の攻撃はレイの想定を大きく越え、またしても悲鳴をあげる。
「ひぃぃいい!!!!」
かっと目を見開いて棚に爪を立てたレイは、咄嗟に片手を彼へ向けるものの瞬く間に絶頂する。長い痙攣がベッドを揺らし頭もがくがくと落ちた。膣は陰茎を握りつぶさんばかりに窄まって会陰は波を打つ。きゅっきゅと肛門を締め、尻をぷるぷる震わせると背中までどっと汗が浮く。だが、この瞬間こそが彼の狙いであったのを彼女は知らない。
「綾波……いくよ」
シンジはいまだ絶頂の最中にあるレイに声をかけると、両手で腰を掴む。下っ腹に力を入れて大きく息を吸うとピストンを敢行するのだ。いつも彼女を気遣って回復してから動いていたが、ありあまる情動が暴君に変える。
「っあああっ!! いまっ、いま逝ってるのっ!! 逝ってるのよっ!!!!」
「もっとだよ、綾波ぃ」
ぐちゅぐちゅと粘性のある音はいっそう大きくなり、結合部からは愛液が何本も糸を垂らす。レイの全身はまっ赤に染まって痙攣と硬直を繰り返した。重力によって円錐へ形を変えた乳房は揺れ、降りてきた子宮と子宮口が亀頭によって優しくノックされる。もはや彼女は名前さえ呼べない。
「あなたっ! あなだっ!! 奥っ! おぐぅぅうっ!!!!」
蒼銀の髪を振り乱し、汗と愛液にまみれたレイは声を裏返させて喘ぎ続けた。両腕をぴんと張って自ら尻を突き出す。彼の陰嚢が振り子のように絶妙に陰核まで叩くものだから、普段の冷静さなど保てるわけもなく淫らに暴れては必死によがる。苦悶に満ちた顔に涙を交えて何度も絶頂し、ついには潮を噴きながら気絶するのだ。ふたりは午後にアスカを迎えに行くまで何度も肉体を蹂躙しあい、ついぞ授業を受けることはなかった。
激戦の日からひと月も経つと少しずつ以前のような雰囲気が戻ってくる。それはひとえにゲンドウと冬月による交渉の成果だ。一方的な脅し、と言い換えてもいい。
ネルフにはあらゆる資料と記録が残されていた。日本政府が根拠のない情報を元に職員とパイロットを殺害しようとした決定はその最たる例だ。証言や映像があり、命令書まである。いっぽうで補完計画を実行しようとしていたなどという事実は皆無だった。
ゲンドウは政府および国連に対し、本来であればありえないいくつかの〝提案〟をした。まずは第三新東京市の復興に尽力すること、つぎに今後研究機関として活動するネルフに資金と物資を融通すること、最後に職員と関係者、および元パイロットに対して身の安全を保障し、私的公的問わずいっさいの干渉をしないことだ。受諾するなら特務権限の大半を放棄する、と。
協議の時間は短く、どちらもふたつ返事さながらに承諾した。万が一にも反故しようものなら顛末を考えるだけで恐ろしい。私情はもとよりこの混乱の世にあって、それだけは防がねばならないのだ。
かくしてゼーレは保有する資金の多くを国連経由で各地の政府とネルフへ流すことになった。とはいえ、金だけあれば解決する問題でもないだけに、いまだ世界は暗黒に包まれている。やはりここでも日本だけが特殊だった。
「町の整備計画、あっさり了承されましたね」
いまや主従が完全に逆転したネルフとゼーレだが、このふたりの場合は変わらない。少なくとも表面上は、である。隣に立つゲンドウへ水を向けたのは私服の科学者リツコだ。
「死にたがりの老人たちは少しでも善行を積もうと必死だよ」
ゲンドウは白い巨人を見あげて言う。医師から義手を提案されても彼は頑なに断った。ゆえに、右腕の肘からさきは失われたままだ。贖罪かけじめか、自己満足などという小さい感傷でないのはたしかだとリツコは思う。彼女も彼に倣ってじっと見あげる。
「てっきり消えるとばかり思ってましたが、変わりませんね」
「まだ役目がある、ということかもしれん。ここからは誰にもわからんよ」
魂を産まない神の残滓。いまだLCLは流れているのでなんらかの活動をしているものと推察されるが、鼓動も脳波も計測されない神体は観測者が存在していると認識しているから姿を留めているのか。
「レイの発育も止まったままです。ひとになったはずですが……」
「子供の成長は早いものだ。杞憂で終わることも多い」
ゲンドウの言う子供にシンジが含まれているのは明白だ。多感な年頃ゆえに感情のぶれや迷いもまだ見られる彼だが、やはり戦いを通じてひとまわり逞しくなったように感じる。自分と同じ轍を踏んではいけないと、父親はそれだけを願っているはずだ。
「あと数年は必要、ということですか?」
「人間の適応能力は高い。だが個人差もある。レイにはまだ長い時間が必要だ。見聞を広め、経験させることが……」
口がすぎたと言わんばかりにゲンドウは顔を少し背けている。レイとシンジのことになると饒舌になるのを本人は酷く気にしていて、それがリツコには面白かった。ただ、あまり掘りさげると閉口するからほどほどが肝心である。とはいえ、かつてのような張り詰めたものがなくなれば踏み込みたくなるのもひとの常だ。
「初号機は月軌道を離脱したようです。これから徐々に速度を増すでしょう」
「そうか……」
ふたたびリリスを見あげる横顔に、憂いはあまり窺えない。完全に吹っ切るにはもう少し時間が必要だろう。太陽系を離れ、観測できない場所へ行ってこそ彼の目も地球に向くのかもしれない。それは彼女も同じ気がした。
「自らが存在できる世界を探す……神とは不便なものですね」
「ひとの起源なればこそ、だ」
愚問であったが、もちろんわざとである。誰しも居場所を求めるのは同じだ。リツコしかり、ゲンドウしかり。対象が組織か信仰か、個人かの違いでしかない。ユイはその新しい居場所を作るために旅立った。それだけ人類を愛していたのだろうか。
「居場所と言えばですが、チルドレンの――」
それからいくつかの報告をおこなった。すべて処理は完了しており指示を仰ぐものはない。権謀術数もここに極まれりといった手腕によってネルフは安泰だ。政治の世界に打って出ることはないだろうが、ゲンドウがその気になればいくらでも可能性はある。この場所は約束された治外法権なのだ。
やがて報告は研究内容へと移る。生命の果実と称されるS2機関をエヴァ以外でどのように扱えばいいのか。形而上にありながら形而下の実態をいまだ掴めていない。この世界から人間が消えるまでの猶予でどれだけのことができるのか、研究者として憂いは尽きなかった。そこへ、清聴していたゲンドウが話を遮る。
「下の者に任せるわけにはいかんのか?」
珍しいもの言いだと思った。声のトーンも少し違う。無能や不要と言われているわけでないのはわかる。ずいぶんと遠まわしだが、これが彼なりの気遣いであるのは知っている。ゆえに悪戯っぽく返すのだ。
「あら、私がいてはお邪魔でしょうか?」
「そうではない、赤木博士。私はきみの能力を高く評価している」
こういう返しかたは本当に親子そっくりだと笑みを堪える。ミサトにからかわれたシンジがよく発する話の流れだ。ほとんど一緒にいなかったのに、やはり似るものかもしれない。
「ご心配にはおよびません。戦いも終わって、私には余暇のようなものですから」
「そうか……」
片手間というわけではないが、使徒戦とは違う。未来への階梯は急務だが焦燥は研究の大敵である。さりとて前線から離れて休暇を取るわけにもいかないのはゲンドウも理解しているはずだ。したがって、これはつまりべつの意味である。もっとストレートに誘えばいいのにと口元が緩みそうになった。
「でも……そうですね、今夜は早めに切りあげようかと思います」
「わかった」
肌を重ねるどころか食事すらふた月はしていない。冷えた関係を修復したいとゲンドウの真意は丸わかりである。もう憎悪なんて抱いていないのに、彼はまったく気づいていない。こちらから押して向こうが応じるというスタンスは昔からそうだ。
「八時に、伺います」
今度こそ彼は言葉を失った。こうして明確に予定を伝えたことがないのに口にしたのは、つい浮かれてしまったからだろうとリツコは思う。そしてゲンドウはきっと妙なプレッシャーを感じているに違いない。お互いに向きあう時間がもっと必要だがあの日一石は投じられているのだ。長い沈黙のあと彼は、ああ、とだけ返した。
彼は軍事オタクでサバイバルゲームを得意とする勇者だ。パソコンの扱いにも長けており、しばしば父親の機密情報を覗き見しては悦に浸ってメガネを光らせている。中学生らしく異性にも興味を持ち、同級生を盗撮して売り捌く危険な可能性を持っていた。憧れはミサトで、シンジ以上にくまなく観察している分析家だ。今日のイヤリングはなになにで、爪の色はどうたら、前髪を変えたらしいと脳内に記憶する。長ずれば、あるいはスパイになれるかもしれない。その名を相田ケンスケと言った。
いま彼はひとつの任務を帯びている。ターゲットを言葉巧みに誘い出し、保有する情報を聴取せよとの特命だ。語彙力と胆力、そしてなにより洞察力が求められる重要な役割である。情報しだいでは血を流す結末も充分にありえた。
報酬はとても安い。だが彼はそこに不満を持たなかった。未来のため、平和のため、友のために己が心を鬼にして挑もうとしている。変装などの小細工は必要ない。ターゲットは油断しきっているため、なんら疑問を持たずこの店に現れるだろう。生活防水のデジタル式腕時計をちらりと見ればもう時間だ。緊張に唇が乾いたので無料の水をひと口煽る。氷が鼻に当たった。
やがて、店のドアが開く。ピンポンと来店を告げるチャイムとともにターゲットが周囲を窺っていたので片手をあげて場所を知らせた。店員が来なくてほっとしたという面持ちで対面へ腰かけるターゲット。今日の服装もよく見る黒いジャージ姿に松葉杖だ。
「いやぁ、暑いのぉ。毎日こんなんやと溶けてまうで」
そう言いながらジャージの男は袖で汗を拭おうとして尻からタオルハンカチを取り出した。水色の生地に青い縁取りがされた、彼にしては珍しい趣味だとケンスケは観察する。だいたいハンカチを持っているのすら見るのが初めてだ。そこでふと気がついた。依頼人が以前男に用意した弁当の包みと同じ絵柄であることに。なんともイヤンな感じだと思いつつも顔には出さない。
「なんか頼むか?」
「せやな。ならワシはお前のおごりでドリンクバーや」
得意げに男は言うので、ケンスケも必要経費と割り切ってテーブル上のボタンを押すと店員に注文する。あくまでも駆けつけ一杯、という雰囲気を出すのが長居の秘訣だ。これで二時間は粘れる。
「それで、最近どうなんだよ」
ケンスケは本題よりまずは雑談から入ることにした。こうして相手の口を滑らかにして少しずつ誘導するのは聴取の基本だ。目論見は成功し、男はつらつらと現状を語り出す。最近ようやく歩行にも慣れてきただとか、妹が元気になったといった内容だ。
「ま、言うてもそんなことろや。っちゅうか、近いんやさかいしょっちゅう会うてるやんけ」
男はぐびりと野菜ジュースを煽った。これもいままでにないチョイスだとケンスケは目を細める。いつも炭酸を飲んでおり、下品な噯気を出すのが常であった。健康に気を遣っているのかもしれない。それは誰の影響か。
「そうなんだけどな。俺たちを一箇所に集めるほうが保安上いいらしいぜ」
などと嘯く。よもやエヴァの適正などという機密までは知らない彼であるが、父親のパソコンからちょろまかした内容を推察して知らず当たりを引いていた。第三新東京市から離れた住人のうち半数は遠い他県へ引越し残りは親戚や知人の家で世話になってるが、チルドレン候補は全員が同じ町内に住んでいる。ケンスケと男の自宅も徒歩で十分とかからない。エヴァはなくとも万が一のためだ。
「ほー、そうなんや。なにかと便利やし、助かっとるな」
それから他愛もない話をいくつか語りあったところで入り口のチャイムが鳴る。背を向けている男からは見えないが、ケンスケは動揺していた。ハンチング帽を目深に被ってはっきりとした表情までは窺えないものの、ちらりと覗く頬にはそばかすがあり、左右に伸びた二本の特徴的なおさげがある。今日は学校の制服ではなくデニム地のオーバーオール姿だ。白いTシャツの胸元を押しあげるのはクラス内でも屈指の隠れ巨……とそこですぐさま振り払う。たしかに立派だしいまも歩くとぷるぷる波打つようにしているが、見とれてはいけない。さっと緊張が走る。なぜそこへ座るのかと。男の背中あわせに着席した女子にあせりを滲ませた。依頼人が自ら登場するとは予想外である。
報告という形ではなく直接耳にしようというわけか。男はまったく気づいておらず、いまも元気に偽関西弁を交えて話に夢中だ。ケンスケは気持ちを引き締めてかかる必要があると判断し、両肘をテーブルに突くと中指でメガネのブリッヂを押しあげた。口の前で手を組めばなんとなく偉くなった気分である。
「そう言えば、洞木がすぐ隣なんだって?」
男が住んでいるのはマンションだ。隣室が同級生であるというのは依頼人から聞いている。そしてそこでおこなわれる数々のイヤンな営みも既知だ。無論、極秘事項なためほかのクラスメイトはもとより男からも聞かされていない。この話題に照れるような反応を示せばさいさきはいいのだが、相手は腕を組んで渋い顔だ。
「せや。なんのめぐりあわせか知らんがイインチョが隣の家に住んどる。毎日来よるで」
「ほう……詳しく訊こうか」
「詳しくもなにもあらへん。掃除してメシ拵えて、妹と遊んで帰るだけや」
勉強を教わっている、というのを意図して伏せたのか、たまたまなのか。男の心情が見えない。情報が不足していると考えてケンスケはあえてからかいを投げた。顔を赤くして全力で否定したら脈ありだ。
「それって通い妻ってことじゃないのか?」
「かよいづま? なに言うとんねん。ありゃそんなもんやない、オカンや」
男はきょとんとして臭いものを退けるように手をひらひらと振った。すぐうしろの依頼人が少し肩を落としているように見えるのは気のせいではあるまい。
「迷惑してるってことか?」
「アホ抜かすな。大助かりや」
ケンスケのメガネが光り、依頼人の顔もはっとあがる。それほど男の言葉には力があった。だが続く内容がよくない。トイレをもっと綺麗に使えだの、肉ばっかり食べるなだの、靴はちゃんと揃えてあがれだの言われて姑のようだと口を尖らせた。先日なんぞ、自慰をしてたら突然部屋を掃除すると入って来てたいへんな修羅場だったと頭を抱えたのだ。
「もしかして俺があげたあの本は……」
「んなもん没収や。こないなもん見とるから現実に目を向けんとかなんとか……堪忍や、ケンスケ」
ケンスケが男へ渡したのは秘蔵の一冊であった。警察官、看護師、客室乗務員などの制服を着たうら若い女性たちがあられもない姿をしているマニア垂涎の品だ。自分のお古は仁義にもとると中は見ずにネットから新品を購入して退院のプレゼントとしたのだが、よもや想い出になってしまったのかと目頭を熱くする。
「そうか……すべては心の中か……」
「せやけどな、ワシはしっかり覚えとるで。とくに後半の現場女子ゆー、作業着姿はたまらんかった」
そこで男は持論を展開した。頬にオイルをつけてスパナを手にする女子こそ至高であり、OLなどはお子さまランチのようなものだと。農業娘、工場娘と健康的な褐色の肌が最高で、作業着やオーバーオールから覗く前腕や脹脛に浪漫を覚えると力説した。むっちりとした谷間と細い鎖骨が襟から出ようものなら自分のオイルが飛んでしまうと鼻息が荒い。
男のうしろに控える依頼人は初めこそ肩を怒らせいまにも拳を飛ばしそうな勢いだったが、彼が服装や体型に言及すると急に俯いてもじもじしだす。なるほど、そういうことかとケンスケは得心した。であるならば、ここで一気に核心を突いてみてはどうか。
「じゃあ、洞木に特別な感情はないのか?」
「特別な感情、ってなんや?」
「だから……その、恋愛的なものさ」
「れんあい?」
またしても鳩が豆鉄砲を食らったような表情をした男は二回ほどまばたきすると大きく溜息をついた。そしてその反応は当然ながら依頼人の耳にも入っている。彼女は落とした肩を小さくさせ、もう聞いてられないとばかりに立ちあがろうとした。慌てたケンスケがなんとかフォローをしようするが、その前に男が首を振りながら答える。
「なんぼケンスケでも笑えん冗談や。ええか? イインチョはそんな女ちゃう。あれは……菩薩や」
「菩薩?」
「せや。ワシもオトンも妹もホンマ助かっとる。妹が笑うたのなんぞ、久々に見たわ。ま、ワシには般若やけどな」
男の妹はかつて大きな怪我を負った。一時期は意識不明の重体だったのだが、医者の尽力と医療設備の充実によってからくも生還した。いまでも小さい傷が残ってはいるものの後遺症もなく生活を送れている。母親の死以来、つらいことばかりで笑顔の消えた妹がヒカリの来宅によって見る見る明るさを取り戻してくれたと男は歯を食い縛る。ケンスケが黙って聞いているのでさらに言葉を重ねてきた。
「ワシの家は裕福とは呼べんから、学校卒業したらオトンのいるネルフに就職するつもりなんやがアホな兄貴やったら妹に悪いやろ? せやからイインチョに勉強を教えてもろてる。それがまたよーわかるんや。高校行かへん、ワシの自己満足や言うても丁寧に教えてくれよる」
「そうなのか」
「ホンマ言うとな。イインチョみたいなオカンがおればええな思っとった。ガミガミ煩いし、細かいことばかり言いよる。ほんでもな、ワシの家にはそういうのがおらんかったからな。ジイジとオトン、ワシの男だけやからの……妹のこともあればなおさらや」
「なるほどなぁ」
男が妹想いなのはよく知っているケンスケであったが、自身の色恋はまったく頭にないと聞いてこの回答で果たして依頼人は納得できるのかとただ唸るばかりだ。感触は悪くないのだが、いま一歩である。
「自分かて遊びにも行きたいやろ? せやけど毎日家に来てくれるんやで。自分の勉強かてせなあかんのに、ワシの家のことばかりや。そんな菩薩さまをどうこうってバチが当たるわ」
「本人にも伝えてあるのか?」
「こん細かいことは言うとらんが、しっかり感謝は伝えとるし、握手もした。当然やろ? 男たるもん、礼を失したらあかん」
ケンスケがちらりと依頼人を見れば、目元をぬぐっているようだった。何度も深く頷いて肩を震わせている。その様子からきっとこれで正解なのだろうと納得した。そして男は最後にこう言うのだ。
「せやからな、ケンスケ。就職したら今度はワシが返さなあかん。こん脚でどこまでやれるんかはわからんが、ワシが妹とイインチョを守るんや。エヴァではできんかったが、丈夫な身体があるんや。根性見せたるで」
依頼人の耳はトマトのように赤い。ここで終わればいい男となるのだが、なんだかんだ言っても相手とて同い年だ。失われた秘法に代わる品はないものかとケンスケにねだった。作業着を押しあげるような立派な持ち主を所望である。本物のお宝はすぐそこにあるのに、いまは難しいのだろうと察した。野暮を口にする代わりにプリントアウトしてあった極上のイヤンな写真を懐から取り出す。
「で、実際のところどんなのが好みなんだよ」
ケンスケはすべての情報を取得せよという当初の目標に立ち戻った。かくして、特定の誰かとは言わずに服装やしぐさ、性格について質問する。店員が嫌そうな顔をして注文を取りに来るのはそれからすぐのことであった。
室内の照明は落とされており、ルームスタンドだけが淡い光を放っている。テーブルの上では電源が投入されたままのノートパソコンが変化のない画面を映していた。椅子に座ったアスカは片肘を突いてかれこれ一時間は同じ姿勢をしている。手の中のメモリーカードを見詰める瞳にいつもの活力は窺えない。
「はぁ……」
溜息を重ねるたびに気が重くなっていた。室内には彼女しかおらずシンジたちは夕食をともにしたあと自室へ戻っている。時刻は二十三時をまわっているが、さりとてこのまま寝る気にもなれない。そう思って昼間リツコから渡された記録を見ようとしたのだがなかなかさきに進めなかった。
内容は知っている。エントリープラグ内に備えつけてあるパイロットをモニタするためのカメラが映したものだ。自身がシンジに救助されたときの映像であり、弐号機からかろうじてサルベージされたと聞いている。なんの編集もされておらず、コピーも存在しない。中身を見たのはリツコだけで、分析する情報もないので処分するなり好きにしていいと言われていた。
「捨てられるわけ、ないじゃない……」
アスカはなにも自分がじつは死んでいる可能性があるだとか、怪我の状態を見るのが怖いといった理由でここまで悩んでいたわけではない。うっすらぼんやりと認識していたあの瞬間を見たあとどのような感情を持つのか、それをわかっているから迷っていた。
「見るか……」
意を決してメモリーカードを握ると一度眺めてからパソコンのスロットへ差し込む。ポインティングデバイスでドライブを選択してひとつだけ入ったファイルをクリックする。すぐさま動画プレイヤーが起動して映像が表示された。
始めはノイズ交じりの明瞭としないグレーがかった映像で、しばらくするとしだいに色を帯び画質も細かくなる。ポツポツとした音声も聞こえ、ブロックノイズが時折ちらついた。
「酷い顔色ね」
画面の中にいる自分へ向かって言う。映像は頭の頂点から下腹部までを捉えている真正面の全裸で、陰部はフレームの外だが乳房は丸見えだ。臍の横から脇腹にかけて深い傷が口を開いており左腕の前腕はさらに重傷である。骨が見えていてもおかしくないくらい肉が覗いているが出血はそれほどない。状況はLCLが緊急排水された直後だ。急造のシートベルトと跳ねあげ式のセーフティバーが機械的に動作して身体の押さえを外していた。
自身の顔はぐったりと斜め下を向き、紫色をした唇と力の抜けた肩がぴくりとも動いていないのを見れば明らかに死亡している。いまこうしてパソコンを見ている自分を認識しても、生きているのが不思議だと思えた。実際のところログでは心臓が停止しており、いわゆる仮死状態に近かったと説明された。詳しいことは誰も、リツコさえも不明なのでアスカもそれ以上は尋ねなかったが、処置が一分でも遅ければ蘇生が不可能だったのはたしかなようである。そして、それを可能とした存在が叫びながらエントリープラグに飛び込んできた。シンジだ。
『アスカぁああ!』
まさに焦眉の急を要するといった声色で後方から前方を目指す。ぬるついたLCLに足を滑らせて転倒し、壁面に顔を打ちつけても怯むことなく身をねじ込ませる。彼もまた全裸なのはもちろんだが、なにより傷が酷い。角度的に陰部は見えないものの、視線は全身の大怪我に釘づけだ。背の低い果樹園を走った際に受けた無数の裂傷もさることながら胸元の傷が生々しく開いて血が床に滴っている。赤いプラグスーツを着ているのではないかというくらい、顔も身体も血まみれだった。
『アスカっ、アスカっ!』
彼は青い頬や肩を叩いて声を荒げつつ、素早く脈を測り呼吸をたしかめた。この傷と顔色を見れば多くのひとが動転してなんの処置もできずに終わるだろう。仮にそうであったとしても責められない。何度も経験していなければそれが普通の反応である。訓練で習っても実技をしてても、教わるだけでは身体が動かないのだ。
だが、彼は違う。素早く跨って、心臓マッサージを繰り返した。画面には血で濡れた背中しか映っていないが、力強い背筋や激しい息遣いからもいかに彼が必死なのか伝わってくる。
『死ぬなぁ、死ぬなぁああ!』
人工呼吸をし、また体重をかける。そのたびにシンジの傷口から血が流れた。ぼたぼたと汗が背中を伝い、彼の尻を這う。こんな悲痛な声をアスカは知らない。あの公園のできごとをも上回っている。呼びかければ通じると、絶対に届くと確信している。諦めてなるものかと粉骨砕身で救命活動をおこなっていた。
『戻って来いっ、戻って来いっ!』
シンジは涙声だ。きっと歯を食い縛って絶望と戦っているのだろう。なおも動かない相手の口に息を吐き吸うたびに、彼の声に悲鳴が混じっていた。彼は一時間でもこうしていたのではないだろうか。認めたくない、まだ手はあるはずだと最後までこの場所から離れない気がする。自分が出血死しても構わないと身体の力を緩めない。だからこそ奇跡が起こったのだ。
『かはっ! ごほっ、ごほっ、ごほっ……』
『アスカっ、アスカっ……僕だよ、アスカっ』
LCLを口から噴いたのを見て蘇生の成功に気づいたシンジはすぐさま身体をどかすが、上体へ覆いかぶさるように顔を覗き込んでいる。本当に無事なのか、意識は戻ったのか、自分のことはわかるのか。もう二度とこの世界から去らせまいと、魂を繋ぎ止めようとしている。
『し……シン、ジ……シンジ、なの?』
『僕だよ、シンジだよ。ここにいるよ!』
自分で頬に触れてても存在がわからないのか、それとも目が見えないのか。彼はその可能性に恐怖し否定すべく頬や髪を撫で返す。震える声色と指先はもはや祈りだった。ゆえにつぎの問いへシンジは魂さえも懸けると、これが真実だと教えるのだ。
『あたし……生きて、る? まだ、生きてる?』
『うん、うん……生きてるっ。アスカは生きてるよ!』
肩口に顔を埋めて血塗れた片腕を脇腹から背中へ、震える片腕を首のうしろにまわした彼は号泣した。まるで助かったのは己だと言わんばかりに安堵し、力を込める。どこへも行かせてなるものかと、強い意思が感じられる熱い抱擁だった。
『シンジが、あたしを助けてくれたのね……』
画面の中の自分が彼の背中に片手をまわして呟いたのを最後に、映像は乱れて砂嵐となる。見届けた母が去ったのだろう。黒い画面が残され、メディアプレイヤーは再生を停止した。静まり返った室内を切り裂くのは視聴者の叫喚だけである。
「アアァァアアァァっ!!」
テーブルの上にいくつもの涙を落とす。途中から視界が滲んでいた。声も肩も震えて唇をきつく噛んだ。それでもここまで堪えていた。シンジの姿と声を決して見逃すまいと彼女はひたすら我慢していた。だがそれも限界だった。堰を切ったように一気に溢れさせると慟哭する。
助かった事実を喜ぶよりも彼の姿のほうが遥かに胸を打った。病院の医師でもあそこまでの感情を剥き出しにはしないだろう。いや、事務的に作業をこなすだけだ。戦友を救いたいという想いがあれば誰でも同じかもしれない。けれども、彼女はそれ以上のものを感じていた。普段から目線を逸らしておどおどして、少し調子に乗って、だらしない顔しかしないシンジの魂の叫び。必要だ、ここにいてくれと全身全霊で咆哮していた。こんなものを見てどうして普通でいられよう。
表情が見えないからこそ余計に彼の想いが伝わってきた。逞しくはないし手馴れてもいない。それでもなんとか帰還させようと歯を食い縛っている顔を想像して心臓を鷲摑みにされる想いだ。
「ムリよっ、こんなの……こんなのムリよっ!」
ただ命を救われただけならまだよかった。だがあの姿を見てこの震えた心をどうやって鎮めればいいのだ。やはり見なければ、知らなければよかったと思った。こんなもの到底返せないし、忘れられない。なにより、彼に抱く気持ちを捨てるなどできるわけがない。
「シンジっ、シンジっ!」
パソコンを胸に抱え啼泣した。どうしようもなく弱い自分を自覚して嫌になる。白いエヴァに侵食されたのは補完計画を望む気持ちがわずかでもあったからだ。彼をひとり占めしたい、ふたりだけの世界に行きたいと願ってしまったからなのだ。シンジの傷はその代償だ。醜い独占欲が彼を傷つけてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……でも、でもっ……」
それでも好きなのだ。醜悪な心をしているとわかってても、どうしようもなく恋い焦がれ愛しているのだ。それはいけない、彼にはレイがいる、ふたりはしっかりと結ばれていると押し込めても容易く噴出してしまう。
「ダメっ……ダメっ!」
胸の上に手を当てて高鳴る鼓動を必死に鎮めようとする。いますぐ彼の許へ行って抱き締められたい衝動に駆られた。レイの前から奪い去って誰も知らない場所へ逃げたい。自分だけを見て自分の名前だけを呼んで欲しい。片時も離れずいつでも傍にいて欲しい。
「あたし、どうしたらいいの。ねぇ、シンジ……どうしたら……」
どれも行動に移せないのに気持ちだけが先行してしまう。彼を傷つけたくない苦しませたくないと思うのに、頭に浮かぶのは強引なことばかりだ。それも女という武器を使った卑怯なやりかたである。心を掴めないからと身体の結びつきをさきに求めてしまう。なんて短慮で破廉恥なのか。
それから動画を見返す気分にもなれず、彼女は床へつく。枕を涙で濡らし、彼への想いをただ募らせる。そして行き場のない感情の向かうさきは結局のところ自慰しかなかった。だが倒錯する気持ちは鎮まらず虚しさにひとり、咽び泣くのである。
ネルフ本部の一角にはバーラウンジがある。ジオフロントを一望できる大きなガラス窓があり、いまや人工ではなく天然の月光が大地に降り注ぐ。照明はとても落とされジャズやシャンソンがスピーカーから小さく流れていた。窓に面したカウンター席とふたりがけのソファー席しか存在せず各座席の距離も離されているため少々の密談くらいではほかに聞かれる心配もない。観葉植物がほどよく生け垣となって極力ほかの目が届かないような構造だ。
とはいえ、税金を投じて建設された施設にひっそりと設けられたラウンジだけにバーテンダーやウエイターはおらず、酒類もIDカードをタッチして紙コップに注がれるしくみになっていた。中身はしっかりと生ビールであるし、リキュール類も本物だ。ウィスキーや日本酒もなかなか上質なものを取り揃えている。しかしいかんせん風情がない。見た目こそしゃれたビールサーバーのデザインだが実質的には自動販売機である。
ゆえに、たとえば意中の相手を誘ってなびかせるのは難しいだろうし、大勢で盛りあがるのにも静かすぎる。なんのためにあるのかと疑問を持つような場所だが、それが案外ぽつぽつひとの姿があるのでそれなりに利用されていた。宿舎でひとり酒よりは、といった用途がおもである。
今夜ここを利用しているのは三組だ。ひと組はカウンターで肩を並べる管理職の男性で、液晶端末を片手に町の復興プランについて意見を出しあっている。空いた大穴をどうするか、芦ノ湖の水量がジオフロントにおよぼす影響がどうといった小難しい話をしていた。ここで明確な指針が決まるなどと思ってはおらず、ほとんど雑談に近い。だいたいそんな感じで、と締めくくるのが常である。
もうひと組はソファーに座る女性らだ。会話で手招きする女性は童顔で、髪の色が明るく口紅の色も濃い。普段はズボンなのにわざわざ着替えた黒いタイトスカートの脚を組んで対面の目を困らせていた。童顔の女性が時折色っぽく微笑めば年下の後輩はさらに顔を赤くしてもじもじする。戦いが終わった開放感と妖艶な先輩のしぐさが後輩を禁断の世界へといざなう。互いに拗らせた者同士という共通点が心を開かせていた。
最後のひと組は金髪を茶色く染めたリツコと赤いジャケット姿のミサトである。広いラウンジの隅のカウンターに座っているからほかの座席は見えないし、某職員が年下相手に百合の花を咲かせつつあるのを知ったとしても干渉しない。成人しているのだからどうぞご自由にといったスタンスである。
「つまらない場所ね」
夜も十時をまわって、食堂で夕食を終えたミサトと鉢あわせした流れで連れて来られたリツコは、フルーツジュースに見えるカップの中身を揺らす。たしかに酒の味はするものの、グラスと場所が違うだけでこうも酔えないのかと人間の心理について分析しそうになる。
「そお? 私はこれでもべつに不満ないわよ?」
「あなたは橋の下で洗剤飲んでも同じこと言うでしょうに」
「失礼ねぇ。洗剤くらいわかるわよ」
「ビールとウィスキーを混ぜるという発想、どうかと思うわよ?」
麦ならなんでもいいのかと、変わらず味覚がおかしい友人に呆れる。なにを食べてもおいしいと感じるのは美徳であるものの、戦いも終わったのだしもう少し落ち着けばいいのにと思った。重圧と緊張がミサトを酒に走らせたと知っているだけに、まだ戦場を俯瞰している感覚が抜けないのだろう。
「混ぜる、混ぜるねぇ……」
「考えすぎよ。なるようにしかならないわ」
ミサトがなにかと三人の子供たちを気にかけているのはよくわかる。なるべく口を出すまいとしているようだが、必要のないブリーフィングに呼んでは三人に無駄な高説をしていた。今後のネルフについて説明を交えつつ、進路についてあれこれと話題を提供しているのを最近もカメラで見た記憶がある。
「こうなったら四人用の宿舎を借りて私も一緒に住む……とか?」
「さらに泥沼化するのが目に見えてるじゃない」
どうして余計な手をまわそうとするのかとリツコは説教できない。先日アスカに渡した記録映像を悔やんでいる。あれでは耽溺し、ますます拘泥を深めるだけだ。ただでさえシンジに対して愛憎のような感情をぶつけていた彼女がどうなるかなど充分に予測の範囲であったはずなのに、自身もまたミサトに感化されたのかもしれない。もしくは、それが転じてレイに変化があればという興味か。いまだ子供たちを道具として見てしまう己の業の深さを思い知らされた。
「わかっちゃいるんだけどさ……放っておけないのよ」
「それで、あなた自身はどうなの? 作戦なんてなにもないわよ?」
「保安部に転属でも頼もうかなって。いけすかない連中だけど」
「はぐらかさないでちょうだい。照れるような歳でもないでしょうに」
ミサトが新生ネルフに残留するのは知っているし、作戦本部長の肩書きがなくなるのもさしてさきではない。ひとの恋路に口を出すならと話題を変えた。案の定、彼女は気まずそうに頬を掻いている。
「まぁ、ヤるだけはヤっちゃったんだけどぉ……酒の勢いってやつ?」
「呆れた。あれだけ年下に興味ないとか言っておきながら」
「しかたないでしょうが。ちょっち乾いてたんだから……でもねぇ」
「本気になられて面倒になったってことね。いいじゃない、つきあえば」
あえてそう言う。ミサトの中に加持がまだ存在しているのは見ればわかる。遺体も残らず葬儀すらされていない恋人を忘れるなど無理であろう。寂しさからついほかの男に抱かれるのも彼女らしい。
「ったく、意地悪いわね。あんた、自分がうまくいってるからって」
「私は長く積みあげてきた結果よ? 一夜だけのあなたと一緒にしないでちょうだい」
「よーく言うわよ。それに、ひと晩じゃなくてふた晩よ」
「おやめなさい。回数の問題じゃないでしょ」
大学時代に加持とアパートへ引きこもって一週間も怠惰な生活をしていたミサトの姿が懐かしい。だからこそいま誰かに対して本気になることも絶対にないだろうし、アスカの姿に自分を重ねてしまう。
「いっそのこと海外の支部に行こうかしら」
「あら、だったらアスカも連れて行ったらどう?」
「あんたって平気で残酷なこと言うのね」
「じゃあどうして海外に行こうなんて言ったのかしら? しっかりと簡潔に述べてごらんなさい」
なにも一緒にいるだけがすべてではない。離れたからこそ見えてくるものもあるはずだ。その結果がさらなる傾倒となるかもしれないが、離心のきっかけにも繋がる。どちらにせよミサトもアスカも心を落ち着かせる時間が必要だ。
「とにかく、私は絶対に三人を離さないわよ」
「エゴイスティックね」
「ええそうよ。妊娠っていう既成事実もないんだから、ゴールを決めるのは早いわ」
「それで本人たちがしあわせになれるなら、ね」
こうなってしまったミサトが止められないのをよく知っている。これからもそれとなく根回しするだろう。任せられない性分は昔からだ。使徒との戦い然り、である。
「学校の教師になるっていう手もあったわね」
「冗談でしょ? 学級崩壊するわよ」
「そう? リツコは保健の先生やればいいじゃない」
「副司令が教頭とか誰でも考えつくようなことよ」
ミサトが話題を変えたので深く掘りさげないで相槌を打った。恋愛に関しては互いに温度差がある。いや、もともと彼女とは水と油のような性質だ。それでも自分にないからこそ刺激的で面白いと感じて友人を続けている。それは昔もいまも変わらない。今夜も興味深い話が尽きないのだろうとリツコは微笑んだ。この場所も、案外悪くないのかもしれない。
ダンプカーやクレーン車を始めとした多くの重機や車が町中を縦横無尽に行き交う。警備員の吹く笛の音がそこかしこに響き渡り、黄色いヘルメットを被った作業員が足場を組んでいる。国道一号線はかつてないほどの大渋滞を巻き起こし、あたりは排ガスと巻きあがった砂埃で視界も臭いも悪い。
随所に戦略自衛隊が睨みを利かせているためマスコミはもちろん、住人以外の民間人も立ち入りが許されず、上空についても報道ヘリコプターの進入は許されていない。第三新東京市は政府の大号令により、いまや空前絶後とも言える復興作業がおこなわれていた。
彼らが最初に取りかかったのは、ネルフ本部と地上を分断した経路の確保だ。職員用のエレベータ、カートレインの坑道、本部への搬入口などすべてが爆破ないし崩落しているため使えるように直す必要がある。フェノール樹脂まで流し込まれている場所もあるだけに、作業は難航した。
ジオフロント内部はある程度の自給自足ができるよう設計されていたが、それらを支える施設もエヴァの戦闘により破壊されたため補給は大穴を通じ、ヘリコプターでおこなわれていた。本部は引き続き研究施設として利用されるのでライフラインの確保は喫緊の課題である。
これはあくまでも災害時における対応というのが政府の発表であり、作業員はそれを信じていた。顛末を知るのは侵攻した戦略自衛隊だけであり、町を破壊したのは火山の噴火でも、隕石の落下でも、未知の大爆発でもない。誰も口にはしないしできないが任務に従事する隊員の心中は複雑であった。
ただ、さいわいにも被害は町の中心地がほとんどであり、郊外には民家や商店が多く残されている。物流という課題が残ってはいるものの場所によってはすぐにでも以前に近い生活をおこなうことが可能だ。もちろん道路が多数の人員と物資で溢れているから実際はなんら身動きが取れないのだが、少なくとも見た目では原型を保っていた。
我が春を謳歌するように市内へ繰り出していた野生動物たちは追い立てられるように森や山へと帰り、もう戻れない住居へ名残を惜しむ。人間の創りだした建造物は彼らにとっても楽園だったのである。風雨に強く、外敵から襲われる心配もない楽園を失った彼らはまた厳しい大自然の中に身を置くこととなった。
セカンドインパクトの爪痕すら払拭しきれていない世界中にあって、町は謎の資金と物資によって大車輪でしあげへと向かう。ただ、いかに膨大な援助があっても物理的な限界というものはある。飛散した瓦礫の撤去も、倒壊した建物の解体も、それを運搬する道路が塞がれば捗らない。新しい場所へコンクリートを流し込んでも固まらなければつぎの段階へ進めないのだ。
土木建築業が天井知らずの好景気に沸くほど金とひとがまわっても、完全な形に戻るまでは長い時間が必要である。そして町を復興させるためにはなにを置いてもひとがいなければならない。ある程度の姿になりさえすればすぐさま住人を連れ戻す、と政府は青写真を描いて鼻息荒く、瓦礫の撤去が完了した頃には早くも転居の募集を始めたのである。その中には当然ながらシンジのクラスメイトたちも含まれていたが、彼らが卒業するまでに中学校を再開させるのはかなり厳しい状況であった。無論、遊園地もである。
シンジとレイは、アスカに対して必要以上に気を遣っているわけではない。たとえばリハビリのために病院まで同行するのも、食事を一緒に取るのも自然にやってることだ。ましてやパソコンでオンライン授業を受けるとなればべつでやるより一緒のほうがなにかと都合がいい。ほかに遊べるような場所があるわけでもないし、まだ歩行に難のあるアスカを連れまわすわけにもいかないから彼女の部屋が溜まり場のようになるのは自然の流れだった。
アスカもシンジにのっぴきならない感情を抱えたままでありつつも、さりとて関係を絶つなどできず結局はふたりの好意に甘えていた。自分が余計なことさえしなければ決定的な破滅は訪れないと、ひたすら自制する。記録動画を観たあとの数日はとくにありがたかった。荒々しい言動はすっかり鳴りを潜め、笑顔を向けられ大切に想われるとそれだけで心が救われた。まだいてもいいのだと、この輪に混ざってても許されるのだと。
夜になってふたりが自室へ帰るのがとても寂しいし、シンジとレイが台所で料理する姿に強固な絆を感じるものの、それらを除けばなんの心配もないほど楽しかった。困ったことと言えば、せいぜい入浴を手伝うレイが必ず尻と胸を揉んでくるくらいだろうか。さすがに辛抱たまらなくなるような悪さはしてこないが、ひとの身体を触っても大きくならないと窘めても納得せずいつも口を尖らせては熱心に触る。訓練しなくなって少し肉のついたアスカだが、それが余計に相手の興味を湧かせているとなれば心中は複雑だ。
そんなある日、きっかけは外が雨で授業も休みという条件が重なったことから室内でなにをしようかという流れになった。だいぶリハビリの成果も表れ、間もなくギプスも外れるというアスカだがまさかプロレスごっこをするわけにもいかない。遊戯施設へ行くのも同じだ。
「映画とかどうかな?」
さも名案とばかりシンジが口にすれば、レイはぽかんとし、アスカはぽんと手を打った。彼曰く、どうやらネルフは税金で大量のDVDソフトを購入しており、その保管場所を知っているとのことである。以前にユイから聞いた話が気になってどこにあるのかそれとなくリツコに尋ねたらあっさり教えてもらった、との説明でいざ保管場所へ直行だ。
「すっごーい。お店みたい」
車椅子の必要がないのにあえて乗ってシンジに押させるアスカは棚を見て喜びの声をあげる。彼も入室するのは初めてなだけに、驚きを隠せない。食堂といい、ビデオといい、シェルターとしての機能もあるというジオフロントは究極の引きこもり部屋ではないかと推察した。
しばらく三者三様に作品を選び、部屋へ戻る。ポップコーンはないが大きな液晶テレビがあれば充分だ。丸一日どころか明日も授業は休みだし外も雨だかららとまとめて借りた作品を再生する。
まずはシンジが借りた不朽の名作、SFファンタジーの三部作だ。特徴的な音楽と黄色いタイトルから始まり、意外に長い物語が進んでゆく。ちなみに字幕になじみがないというアスカとレイにあわせて吹替え版である。
物語の中盤で敵の黒騎士がまさかの父親という衝撃の展開を迎え、レイは驚愕した。いっぽうでアスカは光線剣のチャンバラに鼻の穴をひくひくさせて喜ぶ。昼食を挟み、夕食近くまで熱中してひと息つけば各々に感想を語りあった。選んだシンジはほくほくである。興が乗って劇中の超能力を模すように静電気で手品を披露すればレイは目を丸くし、アスカはそんな彼女に純粋だと腹を抱えて笑う。
「ずるいわ、碇くん。私を騙したのね」
手品とわかっててもレイは手をかざし、目を細めて念じてはテーブルを持ちあげようとする。かつてATフィールドが使えるような気がしていた彼女なのであながち間違ってはいないが、いまやなんの変化も訪れなかった。片やアスカはリツコに頼めば光線剣が作れるのではないかと本気で思っているようだ。
それから食事をして、また明日となる。さすがに目が疲れて四本観るのは厳しかった。アスカは箒を持ってひとりでチャンバラの練習をし、レイは瞑想に耽る。影響されやすい少女たちであった。
翌日に観たのは日本の長編アニメだ。国内の興行収入を塗り替え、この製作会社におけるセル画を使った最後の作品だとシンジは薀蓄を語りたくてうずうずするが前知識は余計であると黙って再生する。
だが、残念ながら文化の違いか、アスカは首をかしげ、レイもいまひとつと言った顔をしていた。画面の中で白い狼が〝黙れ小僧〟と吠えるシーンもピンときていないようで、せっかくの名曲も心に染みないとあってシンジはしょんぼりである。ラストでカップルが別々の道をゆくというのも納得がいかないようだ。
「そっかぁ……うーん、僕は最高傑作だと思うんだけどなぁ」
つぎにアスカが選んだ作品を再生した。世界的に有名な豪華客船が処女航海で氷山に激突して沈没するパニックムービーである。何度も映画化されたものの中からもっとも有名な恋愛描写の多い金字塔だ。
圧巻のコンピュータグラフィックスと美術セットで作り出された実物さながらの映像美もさることながら、やはり劇中の男女が織り成す恋愛には涙を誘われる。視聴後にレイとアスカは目尻をぬぐい、シンジも涙を拭くふりをしつつ内心ではふたりで破片に乗れば助かったのではないかと首をかしげた。
「切ないわぁ……」
そんなアスカの感想を聞きながら彼女を病院まで送り迎えし、夜になってレイが選んだという映画を夕食後に上映する。シンジもアスカも知らないヨーロッパの作品で、パッケージの裏面を見ても室内が暗くてよくわからない。出てくるのは若い男女で、恋愛もののようだ。吹替えもなくすべて字幕だが、物語が進むとどうも状況が怪しい。具体的には肌の露出が多く、生々しいキスシーンもてんこ盛りだ。そしてついには目を覆いたくなるような光景が繰り広げられるのである。
『Feel so good...Ah, ah, oh...yes, yes! I'm...I'm coming!!』
残り三十分はひたすら男女の交わりと過激描写ばかりで物語があるのかどうかもわからない。しかも、なんと局部に修正が入っていないのだ。男性も女性も見事なくらい丸出しである。しっかり合体までしているしいろいろと溢れていたのだから役者根性とは恐るべしだ。
誰かがリモコンを止めてもきっと文句は出ないだろう。しかし年頃の少年少女は目を皿のようにして凝視するばかりで停止しようとは思わない。あのレイさえも気まずそうに目を逸らしながらちらちら見て、アスカは想いびとの手前、鼻を触ったり眉毛を弄ったりと落ち着きをなくす。シンジは前屈みになってそれどころではなく、作品が終わった頃には全員が無言で鼻息だけが荒かった。
「あ、あたしストレッチしようかしら」
まっ赤な顔をしてリハビリだとアスカは言いながら身体をしきりに動かす。レイも耳まで赤くしては微妙に下着を直している。シンジはジュースを飲みすぎたと言ってふたりに背を向けつつトイレへ駆け込んだ。ここでなにかを出すわけではないが、とても冷静ではいられなかった。
「わ、私はなにか飲もうと思うのだけれど、惣流さんも飲むでしょ?」
「そ、そ、そうね。もらおうかしら。あー、運動したから喉が渇いちゃったわー」
とりあえず深呼吸を繰り返して瞑想したシンジはなんとかエントリープラグを鎮め、部屋に戻る。いけないものを観てしまったとディスクをパッケージに収めながら説明を読めば〝恋愛・情熱・男女〟という言葉がそこかしこに踊り、小さく無修正と書かれていた。きっと目に入らなかったのだろうと、レイに同情する。
「そろそろ寝る時間だと思うんだけど、ど、どうかな……ははっ」
まだ二十二時だけれども、少々時間が欲しいとふたりとひとりは思った。あれはお芝居、あれは映画、しっかりとした芸術だとわかってはいても刺激的である。冷たい下着と悶々とした熱気が充満した室内にいてはまたもや非常事態になりかねない。アスカもレイも同意して、そそくさと解散だ。その後に各自がなにかと捗ったのは言うまでもないことである。