第弐拾六話、其乃参

地上とジオフロントを結ぶ要所のうち、最初に復旧したのはカートレインの坑道である。もともと決戦の(いとま)が稼げればという判断で入り口付近を爆破しただけであり、奥に被害はない。ゆえに、戦いから三ヶ月ほどで往復が可能となった。

天井の大穴をどうするのか、という問題が残ってはいるものの兵装ビルが主であったのもさいわいし、さしあたっての急務は周辺施設の復興である。多くの作業員が従事しているので日常に伴う諸々が必要になり、商売の種も転がっているとなればいち早く営業を再開するのは商人の常だ。

そして、穴倉生活からの開放を心待ちにしていたのは特務機関ネルフ改め〝生命科学研究所ネルフ〟の職員も同じである。休日ともなればカートレインに多くのひとが乗り、復興の途上にある街を練り歩いた。当然、年頃の三人もじっとはしておれずアスカのギプスが取れた快気祝いに買いものの流れとなるのだ。三年生に進級しても学校が再開されてないため、どうしても時間を持てあましてしまう。

「なぁんか、まだボッコボコねぇ」

そう言って片手を腰に、もう片手で(ひさし)を作りながら周囲の工事を眺めるのはアスカである。白いYシャツに黒革のマイクロミニスカートという装いだ。脚と腕の肌色が左右違うのは日焼け具合によるものだが、本人は気にすることなく露出していた。

「アスカ、脚の具合どう?」

そんな彼女をうしろから眩しいものを見るような眼差しでちらちらと窺うのはシンジだ。マイクロミニスカートはショートパンツと一体化しており、実際に下着が見えはしないものの少しばかり太くなった生脚がにゅっと出ていれば鼻の穴も膨らむというものである。わかってても目が行ってしまうのは男の哀しい性だ。

「惣流さんはなんの心配もいらないわ。さきを急ぎましょ」

同棲生活もそれなりの長さになって男性の心理を理解しつつあるレイは、片方の眉をぴくりとあげてシンジの手を取るとアスカを追い抜くように商店街の方面へ引っ張る。あれだけ食べているのに胸も尻もまったく成長せず、いっぽうで栗毛の少女は曲線を増すばかりだ。彼がどうこうというよりも対抗意識が芽生えてしまうのはしかたのないことである。ロングスカートにTシャツというコーディネイトは失敗だったかと参考にした雑誌を恨む。

「あっ、こらぁ。ちょっと待ちなさーい」
「ほらアスカも早く……」
「碇くん、瓦礫が足元にあるからよそ見しないで」

かくして三人は各自複雑な心持ちを抱えながら買いものへと向かう。ちなみに、誰も気づいてはいないものの、作業員や警備員に扮した保安部の人員が彼らをしっかりとガードしていた。ゲンドウ子飼いの、である。

さて、まず初めに来たのは下着屋だ。床も壁面も目が眩みそうなほどに白く、照明がそこかしこを照らしている。営業を再開したばかりで女性店員が入荷した商品を忙しなく陳列し、床にはダンボールが積みあがっていた。

「ふんふん。なかなか可愛いのあるじゃない」
「たくさん種類があるのね」

頷いてはあれこれ物色するアスカと感心しきりのレイだが、シンジは男子禁制の店舗に居場所がない。右を見ても左を見ても彩り鮮やかなブラジャーとショーツの数々。アルファベットと数字の書かれたポップ、谷間とか魅惑とかの文字で宣伝している。ポスターは西洋人の美しいモデルが半裸でポーズを取ってるし、液晶モニタではファッションショーの様子が映されていてお乳がぷるぷるだ。どことなく店内がいい匂いなのも脳を揺さぶった。

「あの……僕は、外で……ね?」

この言葉を何回伝えたのかわからないシンジだが、そのたびに力強く却下されていた。アスカ曰く、こういうときこそ男の真価が試される。堂々と胸を張って美女を侍らせているくらいの気概でいろとのお言葉だ。そうは言われても目のやり場に困るのは事実である。なにせこんな秘境に足を踏み入れるのは初体験だから立ち位置すら定まらない。

「いい? 勝負下着って言うくらいなんだから、同棲してても気を抜いちゃダメよ」
「つまり、ブラジャーは胸部装甲と同じということね」

姫君ふたりの会話を尻目に、シンジは頭を掻くふりをしては方々を盗み見た。店員が腰部しかないトルソーを逆さまにしてショーツを穿かせようとしているところだ。当たり前だが人体を模している以上、白い樹脂の人形はとても精巧にできている。尻の形も太ももも理想と言えるような造形であろう。生身でないとわかってても艶かしい曲線美に下唇を舐めた。くれぐれも、臍のくぼみが再現されているのだからほかにもいろいろとリアルにすればいいのになどと落胆してはいけない。なんだかレイの裸体を彷彿とさせてごくりと唾を飲み込んでしまうのも無理らしからぬ反応である。

「うわぁ……エロい……」

思わず呟く。店員がひらひらしたピンク色のショーツを穿かせ終えると途端に色気が増すから不思議だ。カーテンのような生地を見てなるほど、レイが着たら似合うかもしれないと思った。夜は素肌で抱きあっているが、それはそれ、これはこれである。たとえば外出中なにかの拍子にふわりとスカートが捲れたときに見えれば内心ガッツポーズだ。

「パッドを入れるって手もあるわ。大きく見せるのよ」
「それは欺くということ?」

店員は隣のトルソーを手にして今度はブラジャーを着けようとしているらしい。乳首らしき突起がまたなんとも卑猥だと思うのは男目線ゆえか。そう考えている間に作業を終え、こちらも同じようにひらひらとした素材でピンク色を着せられている。たしかに上下ちぐはぐでは不恰好だろうと納得してまたひとつ賢くなった。

「おおっ……光った……」

ぱちんと電源が投入されればトルソーが内側から照らされて商品の存在がアピールされる。あの薄い生地もほどよく透けていて素材がわかりやすい。しかしいっぽうで不思議に思った。こうも網目が多いといろいろ見えたり出てきたりしないのだろうか。通気性が高いと言えばそうであるが、いささか無防備な気もする。

「レイはアンダーいくつ?」
「よくわからないわ。赤木博士に渡されてそのままよ」

額の汗をぬぐったところで聞き慣れない単語がシンジの耳朶を弾く。アンダーとはなんであろう。教科書にアンダーラインを引く、というのは学校で教師に言われる。アンダースローという野球の用語もあった。アンダーとは英語で下を意味することくらいはわかるものの、さてこの場での下とはなにを指すのか。

「そういう……こと?」

光るトルソーへさっと目を向ける。そうか、アンダーとはすなわちアンダーヘアだ。アスカはレイに毛の長さがどれくらいのなのかを問うているのだと得心した。だがそうなると解せない点がある。レイはもともと生えていないと言っていた。体質的なものらしいが、じつは一本だけちょろっと伸びているのだろうか。頭髪や眉毛と同じ色と考えたらとても神秘的だ。いやいや、さんざんあれこれしてもそんな感触はなかったと否定する。それとも毛抜きで定期的に抜いているのか。彼女が風呂場で息を止めて痛みにびくんとしながら処理している姿が想像できない。

「まぁ、いいわ。あたしも選んだからとりあえず試着してみましょ」
「そうね。試してみたいわ」

ちらりと恋人を見れば手にしているのはブラジャーだ。てっきり性器の位置なのかと納得しかかっていただけに推理は振り出しへと戻ってしまう。とある書籍にあった上つき下つきは関係ないようだ。そう言えば、トップがどうのというのも耳にしたような気がして乳首の大きさを連想した。女性の下着とはそこまで詳細に把握しなければならないのかと戦慄すら覚える。勝負下着という比喩は伊達ではないのだ。

「僕、ひとりなんだけど……」

困ったことになったとうろたえる。堂々としていろと言った本人がレイとカーテンの向こうへ消えてしまえば完全にぼっちだ。さりとて中に混じるなどありえない。桃源郷がどのような場所なのか気になるが、アスカに女装させられそうだ。さいわいにもほかに客はいないし店員も忙しそうにしているから視線を集めはしないものの、外から見れば不審者そのものだ。黄色いポロシャツに膝丈ズボン、クロックスという格好を見て果たして〝侍らせている〟富豪やイケメンに見えるのか。童顔に見られるから下手したら迷子の案内をされてしまうかもしれない。

「やんっ。もう、レイってば触りすぎぃ」
「ここをこうするといいのでしょ?」

試着室から黄色い声が漏れてどきりとする。あの中でなにがおこなわれているのか。レイはアスカのどこを触り、どうしているのか耳を(そばだ)てれば熱いとか、きついとか、もっと押し当ててなどと言っている。よもや可憐な少女ふたりが禁断のなにかをしているのだろうかと胸が高鳴った。しまいには大きいだの、ぱんぱんだの、ぷにぷにだのと生々しいなにかの感触だ。

これはきっとサイズを測っているに違いないと自身に言い聞かせたときである。店員が持ちあげたダンボールの端を棚の上に置かれたトルソーへ当ててしまう。まことに運の悪い事故であり、忙しさから安全にまで気を配れなかった店員の不注意だ。トルソーはバランスを崩すと彼の目の前でいままさに落ちてゆく。床に当たれば粉砕されるかもしれない。

「あっぶ!」

だが、シンジの両手がそれを許さなかった。意外にも重量のあるトルソーを彼はかろうじてキャッチするのだ。少々仰け反りぎみだったため体勢を崩して尻餅をつくことになっても床への激突は免れた。さきほどまでの変な昂奮は一転して冷やりとした汗に変わる。加えて、残念にも尾骶骨を変に打ちつけており痛みより痺れでにやけ顔になってしまう。

「シンジあのね……って、なにしてんの?」

試着室のカーテンを開けたアスカは開口一番、なんとも言えない彼を見て眉を顰めた。シンジに抱えられたトルソーは首や腕がない胸部と腰部が一体となっているタイプだ。着せられているのはワインレッドのいわゆるセクシーランジェリーで、上下ともにたいへん生地が少ない。ショーツのウエストはゴムではなく紐で、Tバックだ。前面は恥骨を半分くらいしか隠しておらず、大半の女性がヒジキを出してしまうだろう。

ただでさえ猥褻な下着を、あろうことか彼は大事そうに抱えている。しかも右手は吸い込まれるように股間へ、左手は左胸を優しくかつしっかりと覆っており、その表情は変な汗をかいて半笑いだ。

「碇くん……その人形が好きなの?」

これは違う、こんな姿をレイに見せたくなかったとシンジは引きつった笑顔をなんとか堪える。とてもいいことをしたはずなのに、普段のおこないがこういう形で仇になると彼は悟った。百年の恋も冷めたかもしれないと落胆するシンジとは対照的にアスカは顔をまっ赤にしながら笑い、レイも頬を染めて口元を緩ませる。

「これは違うんだよぉ……」

なんとか弁解しようとするシンジに、店員という救いの神が降臨する。すぐさま彼に詫び、助かったと礼を言うのを受けて大切ななにかを失わずに済んだと安堵するのであった。無論、アスカもレイも顛末をだいたい察した上でのからかいである。

それにしてもとんでもない格好だと少女たちは内心どきどきだった。なるほどうしろからされたときはこうなるのかとアスカは変な想像をめぐらせ、ブラジャーもショーツも絶妙なシースルーの生地にレイは新境地を開拓した。全裸を見せているのになんとも淫らに感じるのは本にあった〝チラリズム〟の極意だと知る。果たして後日これを購入するのはアスカか、レイか。互いに目線をあわせないまま牽制するのであった。

女性の下着屋に行ったのならつぎは男性の下着屋へ行くのが道理である。系列店が向かいに出店していれば入店するのは当然だ。レイはもとよりアスカも訪れるのが初めてなだけに興味は尽きない。

「なんか地味ねぇ」
「言われてみれば、そうね」

女性のそれとは対照的に店内は落ち着いた雰囲気で黒や茶を基調とした色の壁や棚になっている。丸まったパンツも光るトルソーもない。せいぜいがやたらマッチョなボディやもっこりブリーフくらいである。当然と言えばそうなのだがフリルやレース素材は皆無で、布帛のハンカチ素材が大半だ。こちらは男性客がちらほら窺えるが絵柄などにあまりこだわって買っているようには見えなかった。

「気にしたことなかったけど、女のひとに比べたらそうだね」

ようやっと自分の領域へ来たとシンジは安堵しつつも、美少女ふたりを連れての下着売り場とはなんだか恥ずかしい。まわりの視線が痛いのだ。きょうだいには見えないだろうし、さりとて夫婦も早すぎる。彼の中では〝下着を一緒に買う=極めて親密な関係〟という図式があった。そして見目麗しい姫君たちが客の目を引くのは当然で、ともすれば嫉妬に似た感情を向けられていると思い込んで萎縮する。恋人はレイだけでアスカは違うと周囲に言いわけしたいが、過去のことがちらつけばこの際ハーレムだと胸を張ってしまおうかとあれこれ考えては否定した。そんなときである。

「シンジもそろそろブリーフ卒業しなさいよ」
「どうして惣流さんが碇くんの下着を知ってるの?」

なぜアスカは地雷を踏んでしまうのか。シンジの耳にはカチリと不吉な音が聞こえる。ふたりとも顔から血が引くのを感じた。浮気をしたとレイに謝罪してても、お互いどう説明したのかを知らないのだ。さっと周囲から視線が注がれて動揺が増す。店員が痛いものを見るような目線を向け、作業着姿の中年は溜息をつき、ホスト風の青年は首を振っている。やっちまったな、坊主……そんな声が聞こえてきそうだ。

「えっと、そ……そう、前にアスカと一緒に住んでたから、それでね」
「そっ、そうよ。シンジと洗濯物が混ざるからさ。うん、見たことあるの」

貴様、外国の美少女と同棲していたのか。などという視線はさておき、なんという完璧なフォローだとシンジは自分を褒めてあげたかった。実際にはユニゾン作戦の間だけでそのあとはまたべつに洗えとアスカに言われたのだが、レイのマンションにも干してあったのだし知ってて当然である。アスカもあからさまにほっとしているが、青ざめた顔から一気に赤くなるのは控えて欲しい。いろいろと生々しい情景を思い出してしまう。

「そうだった。でも……いいえ、なんでもないわ」

なぜその続きを言わないのかとシンジもアスカも喉元まで出かかった。これはあとでなにか聞かれると汗が止まらない。三人で一緒にいたら口裏あわせはできないし、レイの視界に納まっていればジェスチャーもできないのだ。

「僕はなににしようかなぁ。と、トランクスに変えてみようと思うんだけど」
「それがいいわ、シンジ。通気性が大切だって言うし、そうしなさいよ」
「そうなの? 惣流さん詳しいのね」

普通に話しているだけなのにレイの一言一句が胸に刺さる。シンジは軽いキス止まりにしておこうと決めた。どこかでひょっとこみたいな顔をして伝えなければならないと作戦を練る。まさかあんなことやこんなことをしたなどとは口が裂けても言えない。

「ほ、ほら、アスカは大学出てるから習うんじゃないかな」
「そうよ。いろいろと学んだから、人体のこととか……ええ」
「碇くんのことも詳しいみたいだし、もっと聞かせて」

これは言わば元カノに今カノが尋ねている状況に近いと思う。もしアスカの私生活を問われても食事やテレビの好みとかシャンプーがなんだったか朝の起こしかたには注意が必要だとかくらいしか知らない。だがいっぽうで、彼女はなにを知っているのか。訊きたい気もするがここは穏便に済ませたい。

「僕たちべつに四六時中顔をつきあわせていたわけじゃないし……ぱ、パンツ選んでいいかな」
「そうよ。せいぜい寝顔とか寝相くらいしか知らないわ」

せっかく買いもののほうへ誘導したのに、アスカは地雷から足をあげてしまう。彼女としてはろくすっぽ顔をあわせていないという意味で言ったのかもしれないが、捉えかたによっては危険なワードだ。なぜこうも事態が悪化するのか。だがレイは深追いしなかった。

「そう? ならいいわ。碇くん、選びましょ」

それから三人であれやこれやと言いながらシンジの下着を選び、結局は肌触りが心地いいというレイのひと言でシルクのトランクスをまとめ買いする。

手提げ袋を持って店を出ると昼食をなににするかという会話がアスカとレイの間でおこなわれるが、シンジは考えごとをしていた。レイは浮気という言葉をどこまで理解しているのか。いや、ただしくはどこからが浮気であると認識しているのか。これは個人差がかなりあるから難しい境界線である。たとえば、他意はなくてもふたりっきりでデートしたら浮気だと言うひとはいるし、セックスまでしてても気持ちが傾かなければセーフだと言うひともいる。中にはメールにハートマークを打っただけで天誅とのたまう女子もいる。彼としてもあの一件を否定するつもりは毛頭ないが、心の問題に着目した場合どうなのか考えると気持ちが晴れない。

「あ、うん、いいよ。そこにしようか」

前を並んで歩くふたりにこの店でいいかと聞かれて生返事をした。入ったのはチキンステーキの専門店だ。黄色いヘルメットを小脇に抱えた作業者で賑わう店内の熱気に、彼は思考を放棄していまを楽しもうと決めた。

「あー、食べた食べたぁ。つぎはお洋服よ」
「惣流さんは服が好きなのね」

食事を終え、アスカに促されるがまま服屋をめぐる。各自が何点か購入したところで雲行きが怪しくなってきたので宿舎へ戻ることにした。

ジオフロントへつく頃には雨が降り、大穴の上では雷が光っている。部屋へ帰り、これからどうしようかと思案している中、シンジは悪戯心から前に借りたホラー映画を提案した。ネタバレ禁止の案内が冒頭に表示される、怖さがありつつ推理要素もあり、最後は心温まる名作だ。幽霊という概念に恐怖心のないレイだがそれなりに楽しんだようで、いっぽうのアスカはタオルケットに包まりながらも感動の涙で締めくくっていた。

夕食後に、今夜は三人で寝ようとアスカから提案されるものだとばかり思っていた彼だがとくにそのような話はなく、やがて夜も遅くなれば自室へと戻る頃だ。

「じゃあまた明日ね、アスカ。おやすみ」

いつもドアのところまで見送ってくれるアスカにシンジは挨拶するが、彼女の表情は冴えない。それは彼も同じだった。なにか用件があるわけでも、また寂しさがあるわけでもなく、普段と変わらないはずなのにお互い無言で肩を竦める。結局それぞれ口を開くことなくその場を終えた。

「碇くん、どうかしたの?」

レイが問う。自室で入浴などを済ませたシンジはベッドの上で恋人を背中から抱き締めている。片腕で彼女を包み、もう片手で髪を撫でながら襟足に顔を埋めた。腹にタオルケットがかかり、素肌でいるところも変わらない。シンジの胸板がレイの肩甲骨に密着し、彼女の尻が彼の下腹にフィットする。ふたりはジグソーパズルのピースさながらに隙間を埋めた。

「なんでもないさ……うん、なんでも……」
「そう……今夜はもう寝る? あなた疲れているのかもしれないわ」

この部屋に住むようになってふたりが肌を重ねなかった夜はないし、レイがこうして気遣いの言葉をかけてくるのも一度だけではなかった。いまも変わらず月経は訪れず、この世界と同じく子を成せない身体。なのにこうして肌に触れるだけで全身は熱を帯びてしまう。

「そんなことないよ。僕だってきみを欲してるんだ」
「あっ……」

ぎゅっと腕の力が強まってレイの鼓動は早くなる。まだいけないと彼女は自分に言い聞かせた。もっと彼と話がしたい。なにかはわからないけれど、日中の表情には陰りがあった。明るく振る舞っているように見えたが、どこかいつもの彼と違う。いや、今日に限らずここしばらくはそんな気がした。あと少しで掴めそうなのに足りない自分が嫌になる。

「綾波……愛してるよ。僕はきみを愛してる」
「私もよ、碇くん。あなたを愛しているわ」

襟足を唇で左右に揺られてレイは甘い吐息を漏らす。幾度となく交わした言葉と身体。いつの日か慣れたとき、もっと彼のことが理解できているのだろうか。

「綾波……ずっと一緒だよ。ずっと、ずっと一緒だ」

さわさわと全身を撫でられてレイは声にならない頷きを返す。肩口を振り返ればいつもの優しい表情が見詰め返してくれる。熱い唇を交え、仰向けぎみになって片足をうしろへ絡めた。彼女は添い寝から始まる行為が一番好きだ。互いが隣にいるという体勢にこの上ない安心を覚える。

けれども、今夜のシンジはやはりどこか違う。束縛するように両手を繋ぎ、唇と舌で上半身を過剰なくらいに責めてくる。とても長い時間をかけて焦らされたかと思えば今度は激しい情動で何度も突かれた。カヲルを殺したあの日のような苦しみか、はたまた自身が寒かった夜と同じか。レイの思考はすぐさままっ白に染まってしまう。


三人で買いものに行った数日後からアスカは体調を崩し、部屋へ引きこもった。シンジとレイが訪ねても覇気がなく、しばらくひとりにして欲しいと言う。顔色も悪く目の下に隈が濃い。シンジはリツコなり病院になりかかるのを提案するが、女性特有のものだと聞けばそれ以上は言えなかった。

ただ、さすがに一週間ともなればなにかべつの病気ではないかと心配になり、ミサトにでも相談しようかというときアスカはメールでレイだけを部屋へ招いた。

「私が様子を見てくるから」
「そう……だね。うん、お願い。一応、起きてるからさ」

ひとによって生理前後は体調が著しく低下する、という保健くらいシンジも知っていたので言うべきことはない。同居しているときここまで酷いアスカは見た記憶がなかっただけに一抹の不安はあったものの、あとはレイに任せた。

そして、アスカの部屋である。室内の照明は薄暗く、テレビもついていないから枕元のデジタル時計だけが二十二時の光を放っていた。彼女はベッドへ腰かけており、裾の長いTシャツ一枚だけでショートパンツは穿かずに下着姿だ。髪もまとまっておらず下ろされたままぼさぼさである。

「惣流さん……」

寝室の入り口に立つレイが声をかけた。彼女の場所からは相手の表情まで見えない。黙考していたアスカがちらりと顔を向けたのでレイは彼女の隣に腰を落とす。互いの肩が当たらない距離に並んでしばらく経ってからアスカはぽつりと口にした。

「ごめんね。レイだけ呼んじゃって」
「べつに構わないわ」

一瞬だけ横に顔を向けるアスカだがすぐさま床を見詰めた。レイはそんな彼女の表情を窺う。目は腫れており、唇も乾いている。両膝をだらりと肩幅に弛緩させ、両手も力なくベッドの上に投げ出されていた。憔悴しきっているのは明らかだ。

「生理が酷いって言うのは嘘よ。精神的には参っているけど、身体は健康……とりあえずはね」
「そう」

アスカにあわせるようにレイも目線を落とす。木目調の床は鈍い色の光を反射しており、丸まったティッシュがゴミ箱に入りきらず散乱していた。

「タイミング悪いわよ、ホントに……あたしの個人的なことだから、ふたりがどうこうって話じゃないわ」
「個人的なこと?」
「そう、個人的なこと。ミサトにも相談っていうか話しておかなきゃいけないし」
「私になにか手伝えることはある?」

アスカはゆっくり顔をあげた。レイも同じように彼女を窺ってしばし見詰めあう。アスカはやがて深い溜息をつくと、顔を正面に戻して首を振る。肩を落とし、俯いた声はさらに力がない。

「あたし、ちゃんとレイに言ってないことがあるわ」
「私に?」
「シンジと浮気したって話したじゃない? なにがあったのかって、詳しいことよ」
「それはあなたの体調と関係があるの?」

アスカは唇を噛んでまた首を振る。頬に髪がかかっても彼女は払わず、顔が半分ほど隠れた。しばらく考え込んでから肩を竦める。

「あたしの体調とは関係ないわ。一応、言っとくけど妊娠したとかじゃないから」
「それは私が知らなければいけないこと?」
「ひとによるかもね。だた、あたしちゃんと言ってなかったから誠意がないなって……でもいまさら聞かされたっていい気しないわよね。この前買いもの行ったときにそう思ったからさ。最後まではシてないって、それだけよ」
「最後まで? それは性行為ってこと?」

アスカが頷く。頬の髪を半分だけかきあげて、正面のクローゼットに視線を移す。レイも視線を動かすが、すぐさま俯き膝の上に乗せた手を見詰める。互いに長い沈黙となり、枕元のデジタル時計が表示を三回変えたあとレイが落ち着いた声で言う。

「その話を私にして、なにを言って欲しいの?」
「えっ?」
「私にどんな反応を期待しているの?」
「反応って……」

アスカはレイを直接見ることができず、彼女の手元へ視線を向ける。白い手が少し握られておりダンガリー生地の薄いスカートに(しわ)が寄っていた。

「楽になりたくて、その話をしたの?」
「そういうわけじゃ……ただあたしは……」
「あなたは自分の過ちを小さくしたいだけ。不快だわ」

レイの言葉を受けてアスカの肩がぴくりと跳ねる。眉間に深い溝を作り、両手をきつく握りながら肩を怒らせた。見る見る顔をまっ赤にして口を開こうとするものの、赤い瞳に射抜かれて言葉を失くす。すぐさま眉尻をさげて溜息混じりに返した。

「ごめん……あたし勝手だった。レイの言うとおりよ。最後までシてないって言いわけしたかっただけね……清算のつもりだったわ」
「べつに。でも、それが話したくて私を呼んだのではないのでしょ?」
「う……ん……」

アスカは天井を見あげる。LEDのシーリングライトは常夜灯だ。青い瞳は虚ろで焦点も定まらない。やがてじわりと涙を浮かばせると瞬く間に溢れて頬を伝い、顎からいくつもベッドへ落とした。泣き声をあげまいと必死になって口を結ぶが、肩も息も震えてしまう。

「アスカ……話して」

レイがそっと頭を撫でるとアスカは堰を切ったように号泣した。肩へ縋りつき、嫌だ嫌だと連呼する。そんな彼女の頭をひたすら梳いて見守った。

アスカは多くを語る。何度も涙をぬぐい、嗚咽(おえつ)を漏らす。レイは相槌を打って彼女を慰め、あるいは提案する。少女たちの時間は長く、レイがアスカの部屋を出たのは零時を遥かにまわった頃だった。


翌日の夕方、髪を後頭部で大きな団子にしたアスカがシンジたちの部屋を訪れた。赤いフレームのプラスチックメガネをかけている。出迎えた彼は肌艶がよく目元に色の入った彼女へ驚きの表情を見せた。

「なんだか凄く大人っぽいね。具合は大丈夫なの?」
「ひさびさにお化粧してみたのよ。体調も治ったから、平気」
「よかった、安心したよ。メガネも、うん、可愛いね」
「もうっ、細かいことはいいから中に案内して」

頬を膨らませた顔を手であおぐアスカを見てシンジはほっとした。レイがなにかいい対処法を知っていたのかもしれない。一週間ぶりなのに、もっと前から逢ってないような懐かしさを覚えて部屋へととおす。

「そう言えば、この部屋にアスカが来るのって初めてだね」
「あたしもいまそう思ったわ。壁紙ちゃんと貼ったのね」

アスカは自室と比べてずいぶんと彩りが豊かなふたりの部屋をぐるりと見渡す。淡い緑色の壁紙にはところどころ木の絵が描かれている。白木の小さな本棚があり、白いテーブルと濃い緑色をしたランチョンマットが目を引く。前にレイが住んでいたマンションとはあまりの違いに目を丸くしているとシンジは嬉しそうな笑顔を見せた。

「驚いた? 綾波とふたりでおととい買い揃えたんだ」
「この壁紙も?」
「壁紙はネルフのひとにお願いして、木の絵は僕が上からカッティングシートで貼っただけ」
「マメねぇ……すっかり同棲カップルって感じじゃない」

前のマンションと同じようにマグカップが色違いのお揃いで並んでいたり箸やスリッパも同じ絵柄だったりしている。それでいて家具は最小限で台所用品もこぢんまりとしているから生活感があまり窺えない。

「あんまりごちゃごちゃするのも嫌いなんだ。掃除とか面倒だしさ」
「へぇ。でも、あなたたちらしいじゃない」
「そうかな。っていうかアスカの部屋こそ意外だよね。もっとこう、外国っぽいかなって」
「あたしそういうの苦手なのよ。服とか好きなんだけど、家具は使えればいいから」

アスカの部屋はとてもシンプルで、彩りもまったくない。もともと宿舎に長く住むつもりはなく、そのうち地上に家でも建てようかと思っていたというのもあって買い足してなかった。

「合理性ってやつ? いまお茶入れるから座ってて」
「ああ、うん。ってかレイはどこ行ったの?」
「綾波なら食堂だよ。ほら、まだスーパーもたいしてやってないだろ? だからいつも食材をもらいに行ってるんだ」
「レイが買いもの袋手にしてネギとか大根とか出てたらあたし、笑っちゃうかも」

その間にシンジが部屋の掃除をする、というのがふたりの役割分担だと聞いてアスカはつい遠い目をした。台所へ立つ彼を見るのは数え切れないくらいあるが、麦茶ひとつ用意するにもさまになっている気がしてしまうのは考えすぎか。

「今夜ここで食べてくでしょ?」
「いいの?」
「そんな水臭いこと言わないでよ。綾波だって元気なアスカに喜ぶし」
「そう……そっか。うん、じゃあごちそうになるわ」

アスカの返事を受けたシンジは彼女にグラスを手渡すと本棚へ向かい、ぱらぱらとページをめくりながら戻ってくる。寝室が視界に入った彼女は思わずベッドの上へ目を向けた。レイの誕生日会をしたときにプレゼントした枕がふたつ並んでいる。片面が〝出撃〟と赤い生地でもう片面が〝待機〟と青い生地になっている意味ありげなものだが、いまどちらも出撃体勢だ。タオルケットがくしゃくしゃに乱れててとても生々しい。

「ううん、なにがいいかな。さっぱりとしたものがいいよね」
「あ、うん、そうね……」
「こっちの本じゃないほうがよかったかな」
「あたしべつになんでもいいから、任せるわ」

唸りながら料理本へ目線を落としたシンジはふたたび本棚へ向かっている。アスカはそんな彼の背中をじっと見詰め、つぎに横顔を窺った。手にグラスを持って煽りつつ彼の口元をちらりと見てはごくりと喉を鳴らす。

「アスカの言うとおり、もっと食堂でお魚食べておけばよかったよ」
「でしょ? 上があんなんだから当分は難しいわよ」
「港が凄い近いのに? 沼津とかあるし……ああ、マグロ食べたいなあ」
「残念ねぇ。あたしの胃袋に入って、とうの昔に流れたわ」

シンジは一冊の本に目星をつけたようで、丸いテーブルの正面へ腰かけた。ふたり住まいなのに椅子は三脚だ。彼は横向きに座って熱心に読み耽っている。しばらくしてさっとアスカを見あげたかと思えば首を捻って本に目線を落とす。

「いやいや、そうじゃないんだよ?」
「なにも言ってないじゃない」
「アスカが魚に見えたとか、そうじゃないからね?」
「だから、あたしなんも言ってないでしょって」

おおかたあれにしようか、食の好みはなんだったか、そんなことを考えているのだろうとアスカは思う。おいしいと伝えられるようになった彼女だが、そうすると彼はより手の込んだものを作ろうとするからジレンマだ。三人で食べればなにを出されてもごちそうに感じるのだからメニューなんてなんでもいい。

「もうアスカが魚とか言うから、本当に食べたくなっちゃったじゃないか」
「えっ、いまのあたし? あたしなの?」
「ミサトさんに言ったらネルフで漁船とか出せないかな」
「ったくどんな強権使わせるつもりよ。だいたい釣りなんてできないでしょうに」

ややタイムラグを置いてシンジがくすくすと笑い出す。きっとミサトが捻り鉢巻して一本釣りしている姿でも浮かんだのだろう。両腕に抱いた大物がびちびち跳ねてる映像が浮かび、アスカもふふっと笑った。

「ミサトさんなら手掴みしそうだなんて、アスカも酷いこと言うなぁ」
「その手は桑名の焼きトマトよ。あたしあとで言いつけてやるんだから。あははっ」
「そっか! 冷製パスタにしよう。うん、綾波の食材にもよるけど、それがあったね」
「いいわね、それ。トマトとナスと、アボカドも乗せましょ」

本から顔をあげて嫌そうな顔をする。そう言えば彼はアボカドが苦手だったとアスカは思い出した。あの食感と青臭さがどうにも受けつけないらしい。マグロに似ていると言ったところでたぶん聞かないだろう。

「綾波って、意外にニンニクとか食べるんだよねぇ」
「ああ、たしかお肉とかの臭みをごまかすためだっけ?」
「うん。もともとはそうらしいけど、さ……いまでもね」
「あの可愛い顔から匂いが立ち込めるところに萌える、なんてノロケ聞きたかないわよ」
「そ、そんなこと言ってないじゃないか。やだな……あは、あははっ」
「じゃあ、あたしが納豆食べたら萌える? 糸引きまくっちゃうわ」

シンジはアスカの顔をじっと見て首をかしげながら唸った。青い瞳と艶のある唇を交互に注視すると、逃げるようにまごまご動く。しまいには赤い顔して真横を向くからパスタにタコを追加しようと決める。そうなると海鮮パスタになるから海老も欲しい、などと考えていると入り口のドアが開いた。レイの帰宅だ。

「あ、綾波おかえり」
「レイ~、おかえりぃ。お邪魔してるわ」

シンジはすぐさま椅子から立ちあがると子犬さながらに駆けてゆき、彼女を迎える。受け取った手提げの中身を物色し、ぶつぶつとなにかを呟く。レイはアスカの姿に小さく頷いて、ほんのわずかだけ口角をあげた。

「ただいま。惣流さんはメガネしてたのね」
「違うわ。これは伊達ってやつよ」
「それもおしゃれということ?」
「まぁ、そうって言えばそうだけど……ほら、ね?」

そんなふたりの会話が耳に入らないシンジは食材を並べて冷蔵庫に入れる作業を繰り返す。緑色をしたワニ肌の梨植物は見なかったことにして、イカとエビの姿を発見して歓喜していた。まだ夕食の準備には早いが、さきに下ごしらえだけでも済ませてしまおうと鍋を用意する。オリーブオイルよし、乾麺よし、バジルよしと指差し確認してヒヨコ柄のエプロンを装着だ。

「どう? 少しは元気になったみたいね」
「まあ……そうね。シンジにも助けられたかな」
「あまり難しく考えないほうがいいわ」
「うん……わかってる」

シンジが立てる料理道具や水の音が静かな室内には助かった。彼は鼻歌交じりに嬉々として料理に夢中だ。まな板を用意してイカの皮に手をかけているのでレイは彼の邪魔にならないよう麦茶を入れると、アスカの正面に腰を落とす。

「今日、食べていくんでしょ?」
「ごちそうになるけど、平気?」
「ええ。そのほうが彼も喜ぶと思うから」
「ふたりして同じこと言わないでよ。少し妬けるわ」

布巾を手にして腰に力を入れたシンジはぶるぶると腕を震わせながらイカの皮を剥きあげた。赤銅色が白い姿に変化する。目を瞑りながら気色悪い脚を掴んで引っ張れば、さらにグロテスクな内臓が晒された。ここで怯んでは一生捌けないと、勢いをつけて素早く解体する。

「碇くん、あなたのこと凄く心配してたわ」
「顔をあわせたとき、ほっとしたの見て、なんかなって思っちゃった」
「なんか?」
「正直、抱きつきたいくらいとっても嬉しかった。あたし、やっぱりダメみたい」

アスカはグラスを両手で挟む。10センチくらいの高さで黄色い花があしらってある可愛いデザインだ。レイは色違いで緑色の花が舞っている。縦に三つ並んだ氷の一番上が音を立てて形を変えた。振り返ってシンジの背中を窺っているとレイがフォローする。

「平気よ。料理中の彼には聞こえないから」
「うん……あの……さ」
「ええ」
「ごめんね、レイ。でも……嬉しかった」
「あなたと私はただの()()、でしょ?」
「いまそんなこと言わないで。ホント、また……ばか」

シンジはゲソや耳を水洗いして丁寧に水分を取ると、ラップに包んでステンレスのトレーへ乗せた。すぐさま冷凍庫へ直行させれば後日べつの料理に使えるのだ。つぎは胴体をひと口大に切りわける。味が染みやすいように隠し包丁も忘れない。そろそろ鍋のお湯が沸くので塩を振ってさっと下茹でする。

「お化粧が落ちてしまうわ。これ、使って」
「うん、うん……ありがと。ホント、本当に……レイ……」
「それは昨日聞いたから」
「でも……でもっ……」

腫れた目元をごまかすためのメイクが少し落ちてしまった。レイが差し出したティッシュを素早く当てれば小さい鏡まで用意してくれる。ちらりと鏡越しにシンジを見て、ポケットからコンパクトを取り出すと整えた。

「もう泣いては駄目。碇くんが見たら心配するから」
「うん、そうする」
「あなたは元気でいて。私もそんなあなたが好きだから」
「大丈夫。大丈夫よ、レイ……」

エビも一緒に塩茹でするのを忘れたと苦い顔をしたシンジは、生のエビを用意して爪楊枝を取り出しついでにレイたちを窺う。アスカは背中を向けているが、レイが微笑んでいるからガールズトークで盛りあがっているのだろうと判断した。スキンケアとか無駄毛の処理とか、男が聞いてはいけない話題だ。

「いま危なかったわ。碇くん、勘が鋭いから気づかれそうだった」
「だ、大丈夫だった?」
「ええ。さっきから口角あげすぎて顔の筋肉が吊ったくらいよ」
「レイって真顔でボケるタイプよね」
「いまよ、さあ急いで」
「う、うん」

レイの目配せを受けてアスカがコンパクトをポケットへ戻せば小さい鏡も撤収された。短い時間だけ立ちあがったレイは先日買ったミニスカート姿で、とても可愛いと思う。スーパーモデルさながらに脚が長いから下着が見えそうだと、つい覗き込んでしまった。

「そんなに確認しなくてもちゃんと穿いてるわ」
「あともう少しだったのよねぇ」
「今日は上も下も黒よ。ところで惣流さん、あの下着は買うの?」
「あ、あれはさすがにちょっと大人すぎない? レイはいいけど、あたし確実にハミ出るわ」
「でも、男のひとはああいうのが好きだって」
「うーん、レイのほうが喜ばれると思う。あたしが着てもギャップとかないだろうし」

シンジはいま息を止めてエビの背腸取りに夢中だ。横から爪楊枝を刺してゆっくりと振りながら引きあげる。慌てると切れてしまうのでリズムよくやるとうまくいく。ちなみに気色の悪い脚や頭はすでに取ってあったから安心だ。

「ギャップ萌え、ということ?」
「そうそう。さっきもシンジが言ってたわ。レイがニンニク臭させてると可愛いって」
「そ、う……なの? 男性の心理って難しいのね」
「あなた普段は澄まし顔なのに、そうやって恥じらったりボケたりするのずるいわよね。前はそんなこと知らなかったけど、こうして一緒にいるとよくわかるわ」
「そんなこと……ないから」
「あははっ、可愛い」

レイは耳にかかる髪の毛を下へ撫でつけた。羞恥するとすぐに耳まで赤くなるから隠したいのだ。アスカから指摘されたように普段は幽霊にさえ動じないが、容姿ではなく性格を弄られると弱かった。シンジが絡むとさらに動揺が増す。

「さっきから寝室を見すぎだと思うの」
「そ、そんなことないし。べつにふつーだし」
「嘘ね。だってあなた顔赤いし、鼻の下も伸びてるわ」
「あたしの表情観察しすぎよっ」
「ティッシュとかゴミ箱とかシーツとか……想像力が逞しいのね」
「で、でもちょっとだけ聞いてもいい? あのね――」

エビも無事に塩茹では終わり、イカと一緒に氷水で冷やす。水気をよく取ったらラップして冷蔵庫に保管だ。つぎはトマトをつぶしてソースを作っておけばあとは楽ができる。ニンニクはラップに包んで処理すると室内に被害がおよびにくい。レイのためにも増し増しだ。

「――という具合よ。息を止めては駄目」
「な、なるほど」
「エヴァと最初にシンクロしたときを思い出すといいかもしれないわ」
「エヴァかぁ。どうだったかしら……緊張してそれどころじゃなかったしなぁ」
「エントリープラグ……なにを言わせるのよ」
「た、たしかにエントリーよね」

ふたりして赤い顔を手であおぎながら麦茶を啜る。アスカが肩越しにシンジを振り返るとまっ赤なトマトを器用に湯剥きしていた。レイが席を立ち、冷蔵庫から麦茶を取り出すとアスカのグラスに注ぐ。いつの間にか空になっていた。

「それと、来月のことだけど、碇くん……」
「うん……遊園地も湖もダメだし。また、さ……」
「ええ。前ほどの頻度ではないわ。でも、まだ時間がかかると思うから」
「そうね……」
「ええ……」
「シンジ……」

アスカの憂いた表情と呟きが彼には届かない。トマトソース作りも終わり、こちらもラップして冷やしておけばあとは絡めてかけるだけだ。健啖家なふたりを考えて、なにか小鉢でも用意しようかと顎に手を当てる。冷蔵庫を開けてなんの食材があるかを眺めるが思いつかないので台所から離れると料理本を取りに棚へ向かった。途中、すてきな姫君たちに軽く声をかけるのも忘れない。

「なんの話してるの?」
「惣流さんに、どうしたら胸とお尻が大きくなるのかを聞いていたのよ」
「へ、へぇ。僕はべつに……いまの綾波でも構わないんだけど」
「構わない、ということは妥協してるのね?」
「なにを言ってるのかな。僕はそんなことないよ?」
「だって、好きなんでしょ? 胸とお尻。太ももだって短いスカートを穿くといつも見てるわ」

アスカはくすくすと笑っている。シンジは失言だったかとあれこれフォローしようと目を泳がせた。最終的に満足しているし形も感度も最高だと何度も力説して足早に台所へ逃げる。レイとしてもわざと言ったことであり、彼を引き離すための方便だ。私情が混じっていたのはぬぐえないが悩んだり怒ったりするほどでもない。

「レイってば、あまりシンジを苛めてはダメよ」
「苛めてなんてないわ。いつもたくさん愛しあってるもの」
「うくっ……そ、そうですか。よろしゅうございましたね」
「それなのに、あなたの胸とお尻はどうしてそんなに大きいの? 不公平だわ」
「知らないわよ、そんなの」
「いいえ、あなたは私に隠してる」

レイは目を細めてアスカの胸元を凝視した。黒いタンクトップに首周りのゆったりとした白いTシャツ姿という重ね着にもかかわらず、女らしい形は健在だ。入浴を介助するときに筋肉や脂肪の構造を把握しようと毎回アスカの身体を触っていたが触診だけでは理解できなかった。たくさん食べてもたくさん出るだけである。

「やっぱりお肉とかが重要なんじゃないの? 豆乳とかもいいって聞くわ」
「鶏肉も大豆もいっぱい食べてるわ。しっかり揉んでもらってるのよ?」
「ちょっ、生々しいこと言わないで。なんかエロいわ」
「トレーニングもしてるし、女性ホルモンは豊富なはずだもの」
「あとはビタミンEってのも耳にしたわね」
「ビタミンE……さっきもらってきた食材にアボカドがあったわ」

こういうときだけ言葉とは伝わるものである。レイの麗しい鈴のような声はシンジの耳に入っていた。それでも聞き違いだと思いたくて彼女を窺えば力強い頷きだ。口角まで大きくあがっているが、いっぽうで目は笑わず真剣である。愛しくて恋しくてしかたのないレイの頼みとあっては彼も断れない。もちろん〝なんでも一緒〟がいいと常から思っているふたりであるから彼女とアスカの皿にだけ盛るなど論外だ。健やかなるときも生臭いときも、ともにあらんことを、である。

「レイの赤い目って、結構なパワーがあるのね。対シンジ決戦兵器だわ」
「これ、じつはコンタクトなの」
「えっ!? 嘘でしょ? だって、その……」
「使い捨てだからそろそろ買わないといけないわ」
「マジで?」
「もちろん嘘よ。ふふっ」

もうかつてのレイではないとわかってても真顔でこういう冗談が出るのだから侮れない相手である。笑顔は何度も目にしているが、お笑い番組とかを観ると爆笑するのだろうかとアスカは思った。手を叩き、目尻に涙を浮かべて破顔する姿が想像できない。そう言えばこの部屋にはテレビがないことにいまになって気づく。

「レイたちってテレビとか観ないの?」
「前に碇くんにも聞かれたけれど、私はどちらでも構わないと答えたわ。あまりよくわからないから」
「まあシンジもそこまで熱心に観てたワケじゃないし、そんなもんかしら」
「でもあなたの部屋にあるゲームには興味があるから、そのうち買うかもしれないわね」
「じゃあさ、ふたりでいるときって、なにしてるの?」
「私も彼もよく本を読むわ。ネルフの中にはたくさんの蔵書があるのよ」

さて、レイのためにとアボカドを手に取ったシンジだが料理に使うのは初めてだ。そもそもこれをどうやって開ければいいのかわからない。そんなときは便利なインターネットである。料理用にタブレット端末は台所に置いてあるので検索すれば親切な動画がしっかり表示された。知ってしまえば、なんだそうなのかと納得である。

「本って、学術書とか?」
「いいえ、違うわ。漫画よ」
「漫画ぁ!? レイが読むの? 漫画を?」
「ええ。私も彼に勧められるまで存在くらいしか知らなかったのだけど、参考になるわ」
「うひゃあ、ひとって変わるもんねぇ」
「ほかにも小説とか詩集も読むわね」

驚きの声をあげたアスカだが、娯楽を知らなかったレイならばそれも当然だと得心した。ちらりと本棚を見ればはっきりとはわからないがコミックスらしき背表紙が窺える。努力、友情、義理だか人情だかの三拍子をモットーにしている出版社だろうか。そう言えばオペレータのメガネが週刊誌を読んでいるのを見たことがある。蔵書とは彼の趣味かもしれない。

「あとは?」
「インターネットで将棋の対戦もよくやるわね」
「ネット対戦?」
「ええ。この前の指し筋はきっと副所長だと思うの」
「なんでそんなことがわかんのよ……」
「七歳くらいのときに一度だけ教わったことがあるから」

だいたい女子は流行りものに目がないとシンジは常々思っていた。塩麹がどうの、ラー油がどうのとテレビが取りあげればすぐさま飛びつく。ミサトの世代では生キャラメルだとかもう少し古くなればナタデココやティラミスが流行ったらしい。さりとて美容、ダイエットという甘い言葉に甘いものを食べるのだから本末転倒である。

「けっこーいろいろと手を出してんのねぇ」
「最近よくやるのはテーブルトークRPGという遊びよ」
「なにそれゲームのジャンル?」
「サイコロを振って、冒険するの。見たこともない景色を思い浮かべる頭脳戦ね」
「なんか難しそう……」
「平気よ。想像力のある惣流さんならすぐに理解できるわ」

そう言われるとアスカも気になってくる。要所を押さえたレイの説明があれば概要もわかり、興味を惹かれた。遊びと言えばもっぱら身体を動かすかゲームという方向しかなかったから紙とサイコロだけというのは新鮮だ。今夜さっそく、と期待に胸を躍らせる。

「レイのことはそれなりに知ったつもりだったけど、さらに親近感が沸いたわ」
「そう? 趣味と言えば、日向二尉……係長が小説を執筆しているそうよ」
「小説ぅ? それって魔法とか王子さまが出るヤツ?」
「私も詳しくは知らないのだけれど、ここを題材にしたものらしいわ」
「なんかまわりがどんどん変わってくわね。あたしもなにかやってみようかしら」
「彫刻家はどう? 私よくわからないから教えて欲しい」

アスカに彫刻家は難しいだろう、と下ごしらえを終えたシンジは台所でうしろ手をつきながら思う。失踪と復調を経験してから性格がかなり丸くなったし溌剌(はつらつ)と可愛らしい彼女だが、ノミを片手に黙々と石を削るのは違うような気がする。直情径行なだけに、途中で破壊してしまいそうだ。いや、そういうほうが芸術家には向いているのか。そんな心の声が届いてしまったようでアスカはくるりと振り返った。

「って、そこで渋い顔してるなら話に加わりなさいよ、シンジっ」
「はははっ。いや、なかなか面白い問答だったから聞き入っちゃったよ」
「どーせあたしは壊してしまいそうですよーだ。ふんっ、いいもん」
「そこから新しく生まれるかもしれないだろう?」
「いーから、サイドメニューはどうしたのよ。シンジこそ新しく生みなさい」
「そう言えばそうだった。あははっ」

腕を組んでそっぽを向いたアスカだが、本気で怒っているわけではない。じっとしてられないのは自分が一番よくわかっている。たとえばドミノ倒しとかは秒で倒壊するし、将棋などの長考も向いていない。不器用ではないものの、ぱっとすぐに結果が出ないものを苦手としていた。

「却下よ、パス。レイ、なにか代案ない?」
「落ち着きがないのなら、スポーツがいいと思うの」
「な、なんか微妙に引っかかるけれど、どんなスポーツよ」
「ビーチバレーという競技があるそうよ。殿方の視線も受けられるし、碇くんも喜ぶわ」
「シンジが喜ぶって、どーせおっぱいが揺れるとかでしょーが」
「資源の有効活用は大切よ。そうでしょ? 碇くん」

なぜそこで自分を絡めるのだとシンジは頭を掻く。しかし悪くない案だとも思った。白い砂浜に赤と白の水着はさぞ映えるだろうし、栗色の髪がなびけば思わずホイッスルを吹きたくなる。小麦色に焼けた素肌と水着の跡……とそこまで考えて青ざめた。海に行ってはいけない。確実に泳がされるし、砂に埋められてスイカ割りのハズレにされる。

「う、海はやめようよ。血を見たくないからさ、うん」
「ヤラシィ。鼻血出すんだ」
「いやまぁそれもあるかもしれないけど」
「あー、認めたなぁ。聞きました? レイさん、お宅のカレシさんえっち魔神よ」
「そうじゃないってば。ね? だいたいわかるでしょ? ああ、そろそろご飯の支度しようかな」
「大丈夫よシンジ。塩分濃度高いから浮くわ」

ぎくりと背中を止めるシンジに向かって嫌らしい笑みを浮かべるアスカだが、レイも考えてみればプールに何度か行っても頭を頑なに水へつけなかったのを思い出した。今度行ったとき泳ぎを教えてあげるのもいいかもしれないと予定を考える。

「碇くん、私がしっかりと支えてあげるわ」
「綾波……僕はこれから料理をしなければいけないんだ」
「でも、あとは混ぜるだけでしょ?」
「さ、サイドメニューだってあるんだよ?」
「いま冷凍食品を確認してたわ」
「うくっ……そういうこと言うならアボカドとニンニク抜きにするよ?」

かくしてシンジの断固拒否によってひとまずの平和が訪れるのであった。夫婦漫才にアスカは腹を抱えて笑い、彼女のエビがひとつ減らされることになる。

「惣流さん、さきにお風呂へ入りましょ」
「もうへーきだから、いつもひとりで入ってるじゃないの」
「大丈夫、私は気にしないわ」
「どうせセクハラするんでしょ、あたし知ってんだから」
「それはもっと触って欲しいというフリなの? ええ、なら期待に応えてあげるわ」
「やーん、シンジぃ。レイを止めてぇ」

なんだかんだ言ってレイと入る風呂に楽しさを覚えているアスカは袖を引っ張られながらも笑顔を浮かべていた。やはり彼らに囲まれている生活はなにものにも捨て難く、最高の時間なのだ。あの日ふたりに発見されていなければ存在しなかった空間に、彼女は心からのしあわせを感じていた。永遠に続けばいいと、そう願っていた。