寒さに抗い、木々をわけて

私は、歩く



見たことのない、青い海とは、私の孤独な心を暖かく満たしてくれるだろうか


見たことのない、青い空とは、私の心を覆う闇を取り去ってくれるだろうか


その先に、見たことのない、陽の光が、私を待っているのだろうか



私は、歩く

寒さに抗い、木々をわけて


見渡す限りの緑の絨毯と降りしきる雨粒を見つめながら


あと、どれくらい…?


そう月に尋ねながら


自分が何者なのかを

自分が何処から来たのかを

そして、自分はどこへ行くのかを

この旅路に捜しながら



寒さに抗い、木々をわけて

私は、歩く

月の下








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第参話 − 樹海












木々が折り重なり、先を見通すことができない

ただ、山林を進んだときよりも歩きやすい環境で、大きな起伏などはなく、緩やかな傾斜を感じる程度だった

冷たい空気がゆっくりと動くだけで、風はほとんどない

身を刺すほどの冷たさではないが、衣服の隙間から流れ込んでくるこの地の空気は、少しずつだとしても着実に体温を奪っていった

踏み込む地面はしっとりと柔らかく、表面はまだ緑の残る落ち葉で覆われている

足でその覆いを少し剥いでやると、茶色くなった枯葉が、そしてその奥に腐葉土が出てくるのだが、
 この冷たい大気はひと時の間、死んだ動植物の遺骸を保存できるほどだ

吐く息が白く曇る






冬月と別かれた後、レイは彼の言葉の通り、この河を下る道をこれからの道として定めた

これは冬月から言われた言葉だけでなく、レイ自身の心が向いたからだ

冬月の言葉は信じられる気がした

わからないこと、二重三重の意味を持たせたようなことばかりの中に、すごく説得力のある言葉だった

初対面で私を知らないはずなのに、自分の旅や考えがわかっていた

不思議な人

でも、信じられる気がするし、そうだからこそこの進路を進んでいるのだ


…それにしても、何故私は、真っ直ぐ進んだんだろう?

いえ、何故進めたのだろう?

…私は冬月さんの言葉に立ち止まった

何故私は振り返ったんだろう?

いえ、何故振り返ることができたんだろう?


以前の自分では考えられない

人と自分との間を拒絶し無関心の壁で隔ててきた自分にとって

でもその事実はレイに不安を与えなかった

ごく自然に、ごく滑らかに

もともと持っていなかったものを受け入れたんじゃなく、もともと彼女の心の中にあったものが解かれたのだから

変わった、そういうことじゃない

いままで知らなかった自分の心に気付いたということ

そしてそれに目を向け始めたということ

きっかけはやはり言葉の鍵


…あの夜の森……あの人の言葉……


短い言葉、自分への言葉なのかすらもわからない

でも、心が涙を流したのは紛れもない事実だ

その涙そのものも、レイの心の解放が具象化したものだった

“もう一つ”の依り代としての束縛から、あの夜の言葉はレイを自由にした

けれど、夜の言葉はレイの依り代としての束縛の解消に過ぎない

レイの拘束具はそれだけではないのだ

レイの中に膨らむ恐怖

それは、自分が何処からきたのか?

そして自分は何者なのか?

この旅に見つけようとしている彼女の真実の根幹にかかわるものだ


知らないはずなのに、知っている自分

会ったことないはずなのに懐かしく思う自分

持っていないはずなのに持っていた自分

そして、何故涙を流しているのか知らないのに泣いている自分


『貴方は何人目?』


そう残酷に囁く心がいる

その言葉がよぎるとき、全身に恐怖が走る

耳を、目を覆い閉ざしてしまいたくなるほどに

その声が何を意味しているのか自分にはわからない

ただその言葉は残酷さと狂気の雰囲気を纏っていることはわかった

この意味はいつかわかるのかもしれない

でも知ったときの恐怖や不安もある


でも、知りたい


そのために旅をしているのだ

しかし、知らなくていい、知らないほうがいいこともあるかもしれない

それでも、足を鈍らせるわけにはいかない

河は視界から消えるまで流れつづけている


あとどれくらい?


そう空に向かって呟く自分がいる

どこまでも続く河の流れに

いつまでも規模を大きくしない河に

まるで自分の心を映すように

暗く深い色で河は何処までも流れる

知らなくていい、と言うかのように河は暗くながれていく


「私だけが知らないの?」


森の人も、冬月さんも、もしかしたら、森も山も河も、そして月も知っているのかもしれない


私が誰なのかを

私が何処から来たのかを


いま踏み締めている堅い岩が、一瞬、途方もなく脆く崩れやすいもののように感じた

世界の希薄

いや、逆なのかもしれない

自然は確固としている、不安定で消えやすいのは自分のほうなのかもしれない

足もとの存在が瓦壊しそうになった時にいろいろなことが頭をよぎった


『気付いて欲しい』森の人の言葉が、『迷うことなく』冬月さんの言葉が

そして温もりが、あの月の光に包まれた時のように


私はこの世界にいる

この先どうなるかはわからないけど、いまはこの世界を進んでいる

まだわからない

私だけかもしれない

でも、世界は私を拒絶してはいない

立ち止まってはいけないのだ

足元が危ういと感じても、この思いがまとわりつき、引きずり込もうとしても


暗く、知らなくていいというふうに流れていた河が、柔らかく流れ出したような気がした

自分の心を映す鏡のように

流れに乗って河を下る

少しいったところで小さな河が合流した

河幅が少し広がった






昼間、雲が覆う中流を下り、月が世界を司る頃に歩を止め、休み場に泊まった

森の中と同じく、大きな木の上で

河は森以上に警戒しなくてはいけない場所だ

動物たちの水飲み場となっている河

夜、ここまでの河となると大型の野生動物が喉を潤すためにやってくるはずだ

それに蛇のように流れる河は気紛れだ

いつ水という牙を向けてくるかわからないし、いつ雲のたゆたう空から河の表情を豹変させる雨が降ってくるかわからない

河の力

それは横を歩いているだけでも感じるものだが、それが牙を向いたときには想像を絶するものになるだろう

だから、なるべく河から離れた高い木に休み場を定めるようにした

冬月との会話の後、河を下って二日

その夜、食事やいつもの作業を終え、河の岸部の高い木の上で休もうとしていた時だった

毛布にくるまったレイの身体は、普段のこの地域の空気とは少し違う空気が混じり込んできたのを感じた

河の水の匂いの薫る比較的暖かい空気の中に、森の木々の匂いの薫る冷たい空気が混じっていた


「え………?

 これは…

 冷たい、森?」


レイはこの空気の感じを知っていた

何度か訪れ、感じたことのある雰囲気

「冷たい森」と呼んでいる気温が一年中常に低い森

常温の地域で生きる動植物たちには耐えられないほど寒く、独特の生態系を作り出している森だ

レイの持つ「マッチの木」の最適な生息地であり、沢山の栄養分を凝縮した木の実が取れる場所でもある

レイは毛布にくるまったまま鞄に手を伸ばし、ゴソゴソと中を探った

目当てのものを引っ張り出すとレイは毛布から顔をだし、手に握ったそれを持ってきた

レイの頬に暖かい空気と冷たい空気が混じりあった不思議なそよかぜが流れていった

目の前にかざしたのは木のスティック

先端は摩擦が集中しやすいようにナイフで適当に削ってある

レイの火の拠りどころとなるマッチの木のスティックだ

手の中で転がすとカラコロと高い音を立てる

それには薄い木の蔓が巻かれていて、着火しないようにされている


もう残り少ない

ちょうどいい機会

明日は冷たい森にいかなくてはいけないかもしれないわね


火、それは旅路に欠かせないもの

そしてそれを生み出すマッチの木も無くてはならないものだ

だからレイは明日の旅定を河から冷たい森に向けることにした

暖かい空気に混じる冷たい空気は、それほど遠い所から流れてきているのではなさそうだった

これくらいなら河に戻るのにもそれほど時間がかかることはないし、冬月の言葉からもこの河が消えてしまうことは考えにくかった

それに、冷たい森を見つけるのはなかなか難しい

この機会を逃してしまうと次にいつこの森を見つけられるかわからない

手元のスティックの少なさも、レイの旅定変更の決定につながった

レイはマッチの木を鞄の中に戻すと、再び毛布の中に潜った

冷たい空気が入ってこないようにしっかりと隙間を埋めて

レイが眠りに落ちようとしていたとき、上空の気流が凄い速さで流れ、大きな雲を運んできていた

大きく湿った黒い雲を





目を覚ましたのは霧の中だった

湿度の高い空気が鼻腔に入ってくる

やはり、暖かい河の空気の中に、冷たい空気が混じっていた

周りを覆うのはそれほど濃い霧ではない

向こうを流れる河がある程度見ることが出来た

昨日に比べ、少しだけ河の流れが速いような気がする

出発の準備を整えてから、木の実を幾つか取り出して軽い朝食を済ませた

それから、木を降りていつものようにお礼を言うと、河を背にして森の中へと足を踏み出す

いままで指標としていた河からの一時的な離脱

少しの不安、河を探せなくなるのではないかという思いを抱きながら

冬月は心配ないといっていた

基礎は定まったから、揺るがないだろう、と

レイにはその奥にある意味が自分の心と繋がっているんじゃないかと考えていた

そんな不思議なことがあるはずは無い

でもそんな気がしたのだ

河と自分の心が繋がっているような

心が迷えば、河は見つけられなくなってしまうような

そんな不安を微かに心に忍ばせてレイは河から森へと足を踏み入れた





道標は空気の流れ、空気の混じり具合、それらを感じ取る肌の感覚だ

冷たい空気の混じる比率、それが流れてくる方向

また嗅覚も頼りとなる

少しずつ少しずつ河の匂いが薄れていき、代わりに森の木々の匂いが増していく

森の匂いにもいくつか種類がある

高山部の森、低標高の森、河の近くの森、そして独特な生態系を持つ森の匂い

いろいろな道を進んできたレイにとってそういう空気の違いが判断の材料になる

レイの肌が空気の冷たさを感じるごとに、レイの嗅覚が冷たい森の匂いを感じるごとに、周りの森も姿を変えていった

暖かい森に生える木や草から、寒い地域に生える木や草へと

踏み締める大地の感触も変わってきた

レイは鞄からいつも寝るときに纏う毛布を取り出して身体に羽織った

この地独特のじわじわと熱を奪う寒気に直に肌をさらすことがないように

そのすぐ後、レイが装備したのを待っていたように、それが境界だったかのように空気が変わり、景色が変わった

刺すようなものまでではないにしろガクンと気温が下がり、そんなに密集していなかった木々が折り重なるように生えていた


「冷たい森の入口ね」


以前に経験した冷たい森もこんな感じだった

間違いないだろう

マッチの木など必要な特性を持つ木はもっと中心のほうに生息している

後ろにかすかに漂う暖かい空気もここから先は入ってこられない

レイは冷たい森の中心部へ足を踏み入れた

もう一つの意味でも表わされるこの森の中心へと




冷たい森の中は木々が密集して立ち並び、地面は森の木葉で埋め尽くされていた

まだ緑を残した葉が地面を緑色で覆う

天井も張り伸ばされた木々の枝、それに息吹く葉で覆われ、空を見ることは難しい

地面も緑、天井も緑

その間に茶色い木の幹がパイプラインのように地面と天井をつないでいる

閉塞した環境、上下、左右で同じような景色のこの環境で、視覚だけならすぐに方向感覚を奪われてしまうだろう

地面に落ちる木葉を一枚拾う

まだ緑が残り、表面を拭うとまだそこには艶が残っている

それを毛布の暖かい中に少しの間いれてやる


「……死んでる」


取り出した葉は瞬く間に茶色く枯れた葉に変わってしまった

ここは生の姿を保ったまま死を迎える森なのだ

一年中変わらない低温が遺骸を残すのだ

次の死が積もるまで

新たな死が重なるごとに、古い遺骸は死へと解放される

緑の覆いを足先で剥がすとさっきの枯れた葉の層が現れ、その下の層までくるとようやく分解され腐葉土となる

そのためこの地の木々は地中深くまで根を下ろすのだ

そんな森はまるで地下深く永封されたカタコンベだ

その奥底に向かう自分

いままでにない震えがレイを襲った


寒さからくるものじゃない

これは、怖れ?


こんな思いを持つのははじめてだった

いままでの冷たい森の中では

地下の薄暗い通路のように、天地もはっきりしない木々の道

視覚はあてにならない

長く居るゆえに覚えているような、触覚や嗅覚を使って進む

でも進むたびに、地の奥底に向かうような、月の姿を見られなくなるような気がしてならなくなる

月を失うような感じ

無意識のうちに月を求める心

何故なのか、その疑問にレイは気づいていなかった

今感じているのは、いつにもない恐怖

何が自分を恐れさせているのだろう?


…わからない

でも、怖い…


迷いの現れた歩が木々の開けた森の広場に出た

いままで木々の密集した道を歩んでいたからだろうか、その広場は整然と、そしてとても広く感じた

その中心に森の主と思えるような老樹が座していた

幹は幾重にも重なり、いくつもの枝をその頭から森へと伸ばしている大木

いままで通り過ぎてきた木々にはない、歴史と重みとを感じさせる雰囲気

この樹がこの森の中枢

この森自体がこの木の居ますところにして、この木を守るようにしているようだった

いや、この木からこの森が生まれたのかもしれない

聖園のような広場に足を踏み入れ、老樹に近づいた

その時には恐れや震えはどこかにいってしまっていた

寒いはずなのに暖かみを帯びた雰囲気に誘われるように

樹の幹に触れる

ひんやりとした中にこの気温によるせいかみずみずしい木肌


「お邪魔しています」


もう千年は生きている

立派な樹

それに…


レイは額をコツンと当てる

包まれるような感じがした

「ただいま」そう言いそうになった自分がいた

自分じゃない自分が

それを自らが留めた

言ってはいけないような気がして

ここで終わってしまうような気がして

だから、違うことを代わりに口から出す


「貴方の森から、少しだけ私に分けてください」


樹は何も語らなかった

いままでの雰囲気はもうなくなっていた

レイは幹から額を手を離し、一つ礼をして森に戻った

その時、冷たい森の天井に一雫の水滴が落ち、マッチの木の葉の先端を濡らした

その雫は葉の先から茎へと向かい、そしてポツンと黒い大きな塊の上に落ちる

その大きな塊はその雫にピクンと身体を揺らした

それだけが変化だった森とは対照的に、空は瞬く間に黒く覆われていった

上空がどれだけ荒れ、渦巻いているかを物語るかのように、黒い雲が空を満たしていった

レイは気づかない

空が涙を流そうとしていることに

そして、爪がその矛先を向けたことに

森の中心の老樹に触れたレイは不思議な感覚に包まれながら目的のものを探していた

心地いい家のような雰囲気、でもそこには何か残酷な影が渦巻いているような誘惑も感じた




ナイフのブレードの背で木の幹をコンコンと一本一本叩いていく

上質のマッチの木を選ぶための作業で、金属的な音がする木ほど良質なマッチの木だ

何本か探るうちに、一本の半分枯れかけたマッチの木がいい音を立てた

表面の皮を剥がし、中の密な木質部分を切り取っていく

いくつかのブロックごとに切り分けていき、枯れた部分や、変色した部分は避けて採る

その木からとったブロックに印をつけて、鞄に詰めていく

採らせてもらったマッチの木にお礼を言って、次の木の幹をナイフで叩こうとしたときだった

普通なら綺麗に皮で覆われているはずの木の表面が抉られ、中の木質まで傷つけられていた

普通ならありえないかなりの傷の大きさと深さ

自然に出来たものではないのは明白だった

この冷たい森で出来る傷跡は、内部が腐り、表面の皮が剥がれ落ちたときに出来る傷か、外的要因による傷跡だ

この傷跡は明らかに大きな力で抉られたもの、そう爪のようなもので

手袋を外し、指で傷の表面をなぞってみる

その傷跡はまだ表面に霜がおりておらず、みずみずしさの残る新しいものだった

悪寒が全身を巡った

バッと周りの木々にも目を向ける

数本先の木はガリガリと削り取られていた

ただでさえ堅牢な木の幹をここまで抉るもの


「…まさか

  …ドーヴの住む森なの…!?」


この森に入ったときから、レイの感覚は狂っていた

感覚だけじゃない、普段ならすぐ行動するはずの動作も遅くなっていた

ドーヴ、熊に似た姿をしていて、巨大な身体とそれには相容れないほどの機動力を持ち、その爪と牙はいとも簡単に頭蓋骨を砕く威力を持つという

森林生態系の頂点にある生き物だ

レイもその姿は見たことがない

恐ろしく攻撃的で、姿を見たもので生き延びたものが皆無に等しいからだ

ただレイは旅の途中で、この生き物に襲われたと思える略奪隊の残骸を見たことがあった

武装していた彼らも自然の生態系の頂点の前には無力だった

もし、それらの動物が近くにいる根拠を見つけたなら、武器を構え、すぐさま危険な森を離れるように行動するべきだ

普段のレイならそれをしているし、身体も自然とそう動くはずだった

何よりレイの鋭い感覚は危険な生き物の雰囲気を逃すはずはない

だが、この森の中でレイは立ち止まってしまった

そして、レイの感覚や身体の動きは、この森の不思議な雰囲気に狂わされていた

一瞬の判断が生にも死にもつながるこの森で

我に返ったレイはナイフを腰のシースに仕舞い、すぐさま肩に掛けた銃に手を掛けた

その瞬間、猛烈な殺気がレイを包んだ

反射的に後ろに飛んだレイの目には四本の白い軌跡が過ぎていった

大きな音とともに、半分枯れていたとはいえ堅牢なマッチの木が割れた

木に身を隠すようにしながら全速で木々の間を縫う

後ろを振り返れば追いつかれる

目の端で見たそれは、黒く分厚い毛皮を纏い、まるで壁がそびえるように大きかった


ドーヴだ!!


走りながら銃のフォアグリップをスライドさせ、弾丸を装填してセーフティーを外す

密集した木々の森では小回りの利くレイのほうに分がある

けれど、研ぎ澄ました感覚も、木々に分散する相手の反応にあまり当てにならない

とにかく離れなくてはいけない

チラっと後方を見ようとしたとき、横から白い爪がレイを襲った

間一髪、身体を反らしながら反対方向へ飛んだため身体が引き裂かれることはなかった

それでもその爪はレイが纏う毛布に掛かり、それを引き裂いた

毛布を引き裂いたすごい力の反動に吹き飛ばされる

着地のことは考えず、まっすぐ銃口をドーヴの顔に向け引き金を引いた

銃声とそれに続く咆哮

レイの放った弾丸は目標から外れ、ドーヴの肩に命中した

辺りに硝煙の臭いが広がる

レイはまともに着地出来ず、緑の絨毯の上に転げ落ちた


照準が合わない!


密集した木々、寒い気温、安定性のない地面

銃撃には最悪の状況だった

低い姿勢のまま地面を蹴り上げ、態勢を立て直すとすぐさま走る

それと同時に次弾を装填した

排莢した弾丸の空薬莢が頬を掠めて飛ぶ

その落ちる軌跡の後ろに巨大な殺気が迫ってくるのがわかった

深い毛と分厚い皮膚に、単粒弾といえど撃退するほどのダメージを与えていない

逆にドーヴの闘争本能を激化させてしまった

武装した人間でも太刀打ちできないのはそこにある

高機動性、破壊力にもまして、その分厚い皮膚がもつ防御力は銃弾を食らっても動じない

動きを潰すなら、防御力の低い目か脇を狙うしかないのだが、この状況でそれは至難の業だった


だめ!

ただ逃げてるだけじゃ追いつかれる!


木々をダミーにしてフェイントを掛ける

直線のスピードだけではやられてしまう

小回りを利かせた動きがレイの唯一の戦術だった

相手の動きを鈍らせたところで、照準を頭に合わせ引き金を引く

だが、相手の俊敏性も恐ろしく高い

二発目の攻撃はかわされ木を抉っただけだった

引き金を引いた次の瞬間には走っていなくてはいけない

レイが攻防戦をしている上空で、レイをあざ笑うかのように空が大粒の涙をこぼし始めた

辺り一面に雨の線が覆う

冷たい森にも雨は浸透し、レイの頭上から水が流れてきた

それらが地面を濡らしていく

身体を濡らし、体温を奪い、視界に霞をかけていく

三発目の射撃

装弾数は六発

弾丸の再装填は死に繋がる

リロードはレイの選択の中に入っていなかった

だから慎重に、しかし素早く狙わなくてはならない

ギっと大地を踏みしめると、レイは引き金を引いた

その軌道は確実にドーヴの頭に目掛けて飛んだ

心の隅で「いった」と思った自分が命取りになった

レイの弾丸はドーヴの眼球に吸い込まれる前に振るった腕に食い込んだ

先走った自分の考えにレイは動くのに一歩遅れてしまった

森で、楽観的な判断は、そのまま死につながる

「しまった」そう思って踏み込んだ地面は水分を含んだ葉の折り重なったところだった

踏み込んだ足が滑りつんのめる

相手がそれを見逃すはずがなかった

ドーヴの爪の一撃目は地面にレイのコート裾を引きちぎり深い穴を作っただけだった

瞬間レイが地面を蹴って離れたからだ

だが不完全な跳躍に姿勢を直すことが出来ない

二撃目の爪にレイは銃を盾代わりにした

重い衝撃に数メートル吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた

盾にした散弾銃はバラバラに砕けていた


「…くっ」


痛みに身体がいうことを聞かない

目の前に聳えるそれは死の象徴だった


…私…死ぬ…?


レイの目に、迫る白く大きな爪の軌道がスローモーションのように映っていた

その瞬間レイの中で何かが弾けた


オレンジ色、いや赤い水が何処までも広がる空間

目の前には真っ白な十字架

そこには七つの目に三角の仮面をつけた白い巨人が貼り付けられていた

それが、幾許かの静寂の後に形を歪ませ、崩れていく

すべてが崩壊しようとしたとき、巨人の仮面が剥がれ、その顔が醜く笑った

それは自分の顔だった

ドクンと身体に衝撃が走り、身体が葉脈に覆われていく


オマエハワタシ

ワタシハオマエ

ワタシガホロビルトキ、オマエモホロビルダロウ


『生きなさい』


オマエハワタシダ

オマエハワタシカラハナレルコトハデキナイ

ワタシガホロビニアユムトキ、オマエモオナジミチヲアユマナクテハイケナイ


『生きなさい』


オマエハ…


『生きなさい』



“貴方は死なない”

“私が守るもの”



レイの身体が真紅に輝き、神々しい光が放たれた








雨は降り止むことなく、地を濡らしていった

冷たい森に独り少女が歩く

ボロボロのコート、傷だらけの腕や足

壊れた銃と泥だらけの鞄をぶら下げて少女は森の中心に向う

彼女の身体は夥しい血で赤く染まっていた

髪も顔も衣服も手も、血塗られていた

彼女の後ろには切り刻まれた木々の残骸が広がる一帯と、その中心に肉塊に変わり果てたドーヴの遺骸があった

雨は彼女の身体から血を拭っていき、血と雨が混じった水が彼女の手の先や顎から滴り落ちる

その目は虚ろで、その歩みにも力はない

彼女の後には血の道

冷たい森はその気温をさらに下げ、滴る血と水は地面に落ちて赤い霜を作った

木々がその道をわけていき、レイは森の中心、聖園の広場に出た

死んだ緑の地面に赤い足跡を残しながら老樹に近づき膝を着いた


「……私は…

 ……私は…」


その後は言葉にならなかった

レイの身体はゆっくりと傾き、地面に倒れこんだ

緑の絨毯がレイの身体を優しく受け止める

レイの意識は闇に落ちた




真っ暗闇

そこから光が広がっていき、レイの身体は薄暗い光の中を、海の中に身を任せるように漂っていた

そこに光の粒子が集まり収束し人型を作りだした

それに導かれるようにレイは漂い行く

それは短い髪の女性だった

たがその顔は見えない

ただ雰囲気だけの表情が、その女性にはあった

その人の手が伸ばされレイを包み込む


この感覚…

……暖かい


その女性は子供をあやすようにレイの髪を撫でた

レイは瞼を閉じて身を委ねる


「もう、何も考えなくていいわ

 貴方は何も気にしなくていい

 私がいるから

 お休みなさい

 貴方はもう疲れたでしょ

 貴方はもう動かなくていいの

 貴方はもう旅をしなくていいの

 私が傍にいるから


 お休みなさい



 ワタシ

 オヤスミナサイ

 イツマデモ 」


女性の顔は笑っていた

醜く歪みながら



『 貴方は希望

   貴方は私の希望 』


声がした

レイの眸が開いていく

女性の顔が苦しそうに歪んだ

手を顔にあて、ひき毟ると、それは闇だった


「起きなさい、レイ」


世界の中心で光が溢れ、闇を消した


「起きなさい、レイ」


レイが瞼を開くとそこは聖園の広場、老樹の膝下だった

そして、倒れているレイの前には栗色のショートヘアーで優しい雰囲気を纏った女性がレイの眸を覗きこんでいた

優しい微笑みを浮かべて


「私は貴方に言うわ、生きなさい、レイ

 私は貴方に生きて欲しい

 今の世界は貴方の手の中にある

 貴方が自分に向き合うなら、貴方自身が道になるわ

 私が言うことはとても残酷なことだと思う

 私達が、いえ、私が貴方に言えるような言葉じゃない

 でも、今私は原罪にさらなる罪と罰を科されようとも、貴方に言う

 レイ、生きなさい、そして未来に歩きなさい

 貴方の道の先、その先に何が待っているか、神様じゃない私にはわからないけど、

 生きていこうと思えば何処だって天国になるわ

 だって、生きてるんですもの

 幸せになる機会は何処にでもある

 貴方にはその権利も力もあるんだから

 さあ、進みなさい

 私はいつでも貴方を見守っているから」


彼女はレイの髪毛を優しく梳いた

彼女の暖かい手がレイを撫でるたびに、レイの心は安らぎのうちに落ちていった

彼女の言葉を胸に刻みながら

寝息を立てるレイを少し悲しそうな顔をしながら彼女は見つめ、立ち上がった


「…この子は、見つけられるかしら?」

「……おまえの掛けた言葉通りになるだろう

  レイは独りじゃない…」


老樹の陰から黒い官服を着た男が姿を現した

普段掛けているサングラスは仕舞われていた


「私ほど残酷な女は居ないでしょうね

 世界を終焉に向かわせ、子供たちを地獄へと落としたんだから…」

「それはおまえだけの罪じゃない

 私も共にそれを受けよう

 …それに、何処であろうと天国になりえる、生きてさえいれば

 子供たちは地獄さえも天国に変える力を持っている」


彼はレイに近づくと彼女の装備品を集め、それからその身体をゆっくり持ち上げた

壊れものを扱うようにそっと


「…そうですね

 私達は私達の出来ることをするしかないんですよね

 それが私達の唯一の償い

 後はあの子たちを信じることしかできないんですね」


レイを抱き上げた彼は寂しそうにする女性に穏やかな笑顔を向けた


「…祈ることもできるさ

  神という存在がいるのならな」










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