森の家の中、少しの休息の中で

私は、考える



見たことのない、青い海とは、私の孤独な心を暖かく満たしてくれるだろうか


見たことのない、青い空とは、私の心を覆う闇を取り去ってくれるだろうか


その先に、見たことのない、陽の光が、私を待っているのだろうか



私は、考える

森の家の中、少しの休息の中で


森の家で暖を取り降りしきる雨粒を見つめながら


あと、どれくらい…?


そう月に尋ねながら


自分が何者なのかを

自分が何処から来たのかを

そして、自分はどこへ行くのかを

この旅路に捜しながら



森の家の中、少しの休息の中で

私は、考える

月の下








Goat for AZAZEL   aba-m.a-kkv

第四話 − 家












朧げな意識の中に薫る木のいい匂い

外は雨

室内にはかすかにその音が届く程度で気になるほどではない

暖炉には火が赤く遊び、パチパチと音を立てている

一続きの作りの部屋

コンロにはケトルがかけられシュッシュッと湯気を上げている

室内は広く、それなりの大きさのベッドにソファー、そして真中にテーブルが置かれている

テーブルの上には読みかけのシオリが挟まれた本が二冊

二脚の椅子に今は主はいない

室内に扉は三つあった

一つは玄関

もう一つは地下室に繋がる床に設けられたスライド式の扉

そして、家の隣に設けられた、この家の主の工房へと続く扉

少しだけ開かれたこの扉の向こうからは、小刻みな金属音が断続的に聞こえていた

その音が意識覚醒の階段を上る音のようにレイの眠りを浅めていく


パチ… パチ… パチ…

…コトンッ


暖炉にくべられていた薪の重なりが灰になって脆くなり、自重で崩れて音を立てた

それが目覚ましになった

レイの瞼がゆっくりと開いていき、紅い綺麗な彼女の眸が現れる

暖かい空気

木を組んだ天井


「……………………

  …知らない……天井…」


私は…どうしたの…?

ここは………?


疑問がまだ覚醒しきっていない頭を巡ったとき、冷たい森のことを思い出しハッとなった

バッ!と飛び起きるように身体を起こす


「えっ…?」


そこは見知らぬ場所だった

木造の家の中

天井には光源があり、部屋の中を明るく満たしている

レイはベッドの中に寝かされていた

ずり落ちた掛け布団は柔らかく、いままで自分を肩まで包んでいたそれは温かい


「…ここは……?」


和やかな空間、時がゆっくりと流れているようだった

ベッドの横にある窓

淡い緑に黄色の模様が入ったカーテンを少しずらすと、そこは森の中だった

外の景色は雨に霞んでいた

部屋の中を見回すが誰もいない

ただ、コンロにはケトルが火にかけられているから、近くに人がいるようだった


あの栗色の髪の女の人の家かしら…?

いえ………違うような気がする

あれは…夢?

いえ、そんなことない

あれは確かに……


ベッドから足を下ろす

そこには猫の模様が描かれた柔らかいスリッパが並べられていた

それに足を通したとき、自分の服装も変わっていることに気づいた

薄手の動きやすそうな、淡い青色のパジャマ

袖をめくると、傷だらけの腕は丁寧に治療され包帯が巻かれていた

治療者の腕がいいのか痛みはさほど感じられない

けれど身体の各所に動かしにくい違和感があった


「……誰か、いますか?」


起き抜けだからだろうか、声がうまく出ない

レイの小さな声に帰ってくるものはなかった


コンコンコンコン……

カンッ、カンッ、カンッ……


金属音が響いた

音のするほうへ目をやると、少し開かれた扉の向こうからするようだった

レイは立ち上がり、その扉へと近づく

扉の向こうには確かに人のいる気配があり、何かの作業をしているようだった

ノブに手を掛けて押してみる

扉は重厚で動きは重く、レイのいまの力では開けるのに苦労するほどだった

いまの部屋に繋がる面の扉は木製だが扉の向こう側に繋がる面は分厚い鋼鉄製の装甲板で出来ていた

扉の向こうは玄関のようになっていていくつかの靴が並べられている

玄関の横には張り紙があり「入室の際は安全靴及び各種作業着の着用、義務」と書かれていた

レイは少し考えてから、その言葉どおりスリッパから安全靴に履き替え奥に向かう

各種作業着に関しては見当たらなかったので諦めた

細い廊下の途中にはいくつかの部屋に繋がる扉があった

どの部屋も明かりがなく人気がなかったが、

扉の前には「警告、IDチェックの後、対NBC用宇宙服の着用を命ずる」

「防爆スーツ及び耐熱シールドの使用を義務づける」

などの不思議な張り紙が張られていた

とりあえず無視して通り過ぎることにする

いくつかの見知らぬハザードマークを過ぎて、一つの広い部屋に出た

工作機械がいくつか置かれ、少し油の臭いがする工房の中

床に散らばった細かい金属片がキラキラと輝いている

その中に電気が輝く机があり、音はそこから響いていた


彼女はデニムの丈夫そうなツナギに黒い安全靴姿

安全帽を後ろ向きにかぶる彼女の髪は金髪でショートヘアーだ

頭につけるタイプのルーペを帽子の上からかけ、手には調整用の器具とハンマーがあった

机の上にはいろいろな工具や精密測定器、指向性のライト、椅子の背には白衣がかけてあった

顔は作業のせいで煤汚れているが、綺麗な人だ

レイは見入っていた

その人の様子に

コン、コン、コンという金属音は、工作物に刃物のついた工具あて、ハンマーで叩いて少しづつ削りとる作業のものからだった

彼女の前に万力で固定されているのは細長い鉄製の筒のようなもの

工具で削った個所を細かい紙ヤスリを使って磨いていく

彼女は指で加工した所を撫でて仕上がりを確かめながら調整を続けていた

レイが見入ったのは彼女がする作業ではなく彼女自身のほうだ

頭の中には未だに霞がかかる

別の記憶が幾つも重なっているような

でも、レイの頭の中には彼女の姿がある

ジッと見つめるレイの視線に気が付いたのか、その女性は手を止めレイのほうに振り返ってルーペを上げた

レイは驚いて身を少し引いてしまった

そんなレイの反応に少し飽きれたような顔をしながら女性は口を開いた


「気が付いたのね

 良かった

 でも、もう少し安静にしていたほうがいいわ

 こっちはもう少しで終わるから、ベッドのほうで待っていてくれるかしら」


そんな彼女の言葉に何も言わず、ただ頷いて無意識に答える自分がいた

彼女は椅子ごと机に向かおうとしたが、何かを思い出したのかそのまま一回転して再びレイのほうを向いた


「それと、悪いんだけどお湯を火に掛けたままなのよ

 消しといて欲しいんだけど」


レイがまた頷くのを見ると少し微笑み返し、彼女はルーペを下げ加工に戻った

レイはその後も少しだけ彼女の背中を見つめてから、ベッドのある部屋へ引き返した






腰を掛けると木製のベッドは緩やかにしなり小さな音を立てた

ベッドにひかれたマットは弾力をもった柔らかいもので、レイの羽のような身体をゆっくりと沈めていく

部屋の中の動きあるものといえばパチパチと燃える暖炉の火と、頼まれて火を消したケトルから緩やかに昇る湯気ぐらいだった


あれは夢だったのだろうか……

でも、あの女性の言葉は今でも鮮明に心に刻まれている

あの夢の中、あそこにいたのは誰だったんだろう?


人型をした闇、声だけの少女、そしてあの女性

現実か夢なのか、それともどちらともなのか

わからない

まだ、わからない

でも、レイの旅は、現実のそれも、心の旅も着実に進んでいるのは確かだ

室内を見回す

そこには動も静も調和よく整っている

ただ一つあっていないのは自分自身のように思えた


何故、私はここにいるのだろう?

どうやってここまで来たのだろう?


ドーヴとの戦闘の後の記憶はとても曖昧なものだ

朧げながらも記憶にあるのは、森の老樹の前で倒れたところまでだ

夢の中のような霞んだ景色の中で優しい女性に授けられた言葉は深く刻まれてはいるが、それでもその背景はよく覚えていない

その女性の言葉を最後にここまで意識はなかったようだ

しかも、自分がどうやってドーヴを殺したのかも、どうやって生き延びることが出来たのかも、それさえもレイの中では記憶が揺れていた

両手を膝に置き、見つめる

いまは綺麗に拭われている手

でも、あの瞬間周囲の全ての生あるものを絶った光の感触は残っていた

木々を、そして肉を切り裂いた感触が



レイに襲い来る凶暴な爪

それが彼女の身を引き裂くことは永久になかった

レイの前面に煌く赤い光

それが、堅木をも砕くドーヴの爪を受け止め、腕を砕き、レイを取り巻く光は盾から刃へと姿を変えた

一瞬の輝き

それで全ては絶たれた

無数の光の刃が光速度で周囲を通過し、ドーヴの巨大な身体を中心に、森の一角を尽く切り裂き平地にした

レイの身体に爪が掛かることはなかった

唯一レイに触れたのは雨のような血だけだった



レイの光

絶対的な忌むべき力

自分の旅路の終結、自分の謎の最後まで離れないだろう力

レイの存在をいつまでの揺らし続けている原因の一つだった


私の中には、謎が多い…


自分でも収拾がついていない謎

しかし、この短い期間の中、いろいろなきっかけの基でレイは自分の真実の扉へ近づくことが出来ていた

本人が気づいているも、気づいていないにも関わらず

いままでの変化も発見もない旅路から明らかに変わってきているのだ

「あと、どれくらい?」旅の初期に口にしたこの言葉と、あの森の夜の出来事以来、月に向かって呟くそれとは違うものになっていった

旅の初めは旅自体に対するもの、いまのレイが言う言葉は自分の心の真実へ辿りつくことに対するものだ

その言葉の意味はずっと重くのしかかるものになっていた


時計のない部屋

それでも時間は過ぎる


あの人は誰なんだろう?


工房への扉へ目を向ける

まだ、その姿が現れる雰囲気はない

金髪のショートヘアー、泣きボクロ、そして白衣

レイの記憶の中にどこかつながるものがあった

人に関心を持ったことのないレイが覚えている人物

記憶している中でも昔の、小都市集合体にいたときの人々まで巡らしても当てはまる人間はいなかった

とはいっても、この世界でレイがしっかりとした存在として触れた人間がいただろうか

現実の存在として触れた人間は皆無だった、まるで亡霊と接するように

でも、まったく知らない人というのは考えられなかった

とても身近にいたような存在

しかし、記憶の検索はあと少しのところで壁にぶつかってしまう

明確な人物の情報は思い出せない

ただ、自分の知っている人とは雰囲気がすこし異なっているように思えた

レイの中にある氷のように冷静なその人の印象

でも、工房であった彼女にはクールな感じではあるが、氷のような冷たさはなかった

それに、人を見下すような態度や、論理的思考中心に固執するような雰囲気もなかった

とても柔らかい雰囲気

とても優しい雰囲気


やはり知らない人なんだろうか?


そうレイが思ったとき、音とともに重たい扉が開いた

そこからさっきの金髪の女性が現れた

ただ、さっきのような服装ではなくて、ラフな綿パンに淡い黄色のタンクトップという出で立ちだ

手には黒くて長いケース、足にはレイ履くものに負けないくらいの猫の絵柄のスリッパを履いていた


「お待たせ」


そういうと女性はケースをテーブルの上に置いた

チラッと台所のほうに目をやり、火が消されていることを確認した


「ありがとう」


片手でケースのロックを外し、片方で台所を指差しながら彼女は言った


「あ、いえ」


彼女はそのままケースを開き、中から長いものを取り出した


「見覚えは?」

「あっ…

 私の銃です」


その答えに満足したのか、ニコニコしながら銃をレイのほうへ持ってきた

彼女のもってきたのは、確かにレイの散弾銃だった

あの戦闘で盾にして砕けたはずの


「はい

 確認に、ちょっと操作してもらえる?

 弾丸は入ってないから」


レイは銃を手渡されるとカチャカチャと各動作部を動かしてみた

それから一度メンテナンスのときと同じように分解し組み立てなおす

その間金髪の女性はカップを二つだし、そこにインスタントのコーヒー入れ、適温になったケトルのお湯を注いでいた

それからカップを持ってテーブルに向かい、自分の席についてレイの動作を見ていた

レイは組み立て終わると、空の弾倉を戻し、試射の態勢に入った

カシャッ!

フォアグリップを引く

パチッ

窓の外の一つの木に照準を定め、セーフティーを下ろす

カチン!

引き金をひくと小気味いい金属音が響いた

そこまでしてから、レイは自分の銃を見て、目を見開いた

金髪の女性は少し悪戯っぽい笑みを浮かべると口を開いた


「いかがかしら」

「すごい…

 これは、貴方が…?」


壊れたはずの自分の銃

それが、まるで新品にして使い込まれたような状態で手元にあるのだ


「ええ

 最初に見たときにはかなり損傷していたわね

 バレルは完全にひしゃげていたから、それは新しく作り直したわ

 それから、ポンプアクションのところもけっこうズタズタだったから、手を加えさせてもらった

 ベースは手に馴染んでるだろうからなるべくそのまま残して磨いたの

 照準も一から調整しておいたわ」

「あ、ありがとうございました

 …………」


レイはお礼をいいながら、その眸で疑問を投げかけた

貴方はどなたですか?私はどうなったんですか?と

そんなレイの視線の言葉をすぐに察知して金髪の女性は口を開いた


「そうね、自己紹介をしなくてはいけないわね

 でも、尋ねるなら、まず自分の名前を言ってから」

「あ…私は…綾波レイ、です」

「…レイ…いい名ね

 私は赤木リツコ

 この森で自然の研究をしながら生活する科学者兼鍛冶師ってところね

 だから、そういうことも少しは出来る、というわけ」


リツコは片方のカップをレイに手渡すと話を続けた


「…貴方は冷たい森の入口で倒れていたのよ

 全身血塗れの姿で

 側にはその壊れた銃と泥だらけの鞄があった

 服もかなり引き裂かれていて、最初は死んでるんじゃないかって心配したくらいでね

 目が醒めて本当によかった」


リツコは心から安心した感情を隠すようにコーヒーを飲み干した

レイは彼女の言葉から袖をまくり、包帯が巻かれた自分の腕をさすった


「それじゃあ、これは貴方が?」


リツコは少しだけ頷いた


「…ありがとうございます」

「いいの、気にしないで

 私がしたくてしたことなんだから

 …………

 …雨が、強くなってきたわね」


室内まで聞こえるようになってきた雨音に、リツコは空になったマグカップを片手に窓に向かう

シャッ

カーテンを開くと向こうの森が霞んでみえるくらいの雨が降っていた


「今晩は泊まっていきなさい」

「でも…」

「いまの身体ではまだ無理よ

 今日一晩は安静にしておきなさい

 これは医者としての私の進言

 でも、命令じゃないわ

 これはお願い

 泊まっていきなさい」


リツコのなんともいえない眸にレイは目を逸らし、窓の外を見つめる

外はザアザア降りの雨

しかも、装備は整っていないし、身体も万全ではない

すぐさま旅を再開するのは無理だった

でも、そんな状況論だけじゃなく、レイの足は根を伸ばしていた

「命令じゃなくお願い」

その言葉はレイの中に温かく流れ込んだ


少しだけ、ここにいたい


そんな自分の考えに内心驚きながらレイはリツコのほうに向きその目を見つめた

リツコはレイの言葉をじっと待つ

レイの言葉が聞きたかった

レイは少しの逡巡したあと、上目使いに口を開いた


「…い、いいんです、か?」

「もちろん」

「…それなら、お願い、します」


そういって、頭を下げた

リツコは椅子の背によりかかると柔らかく微笑んだ


くぅぅ

「あっ」


和やかな雰囲気で止まりそうな時を正常に戻したのはレイの食欲だった

思わず手をおなかにあてる

リツコはそれにクスクス笑いながら席を立った

レイは少しバツが悪そうな表情を浮かべる


「しょうがないわよ

 一日近く寝ていたんだから

 ちょっと待ってね、いまから夕食を作るから」


そういうとリツコはキッチンへ向かった

リツコの話によると、自分は一日近く寝ていたらしい

今は夕刻、本来ならば月が顔を現す時刻だ

昨日は午前中に森に入り、午後に冷たい森を見つけた

そこでのドーヴの襲撃と攻防

あの時、雨が空を覆い、時の指標である月が見えなかった

冷たい森の中心、あの老樹の前にたどり着いたのは月が顔を現す頃だったようだ

それから、一日が過ぎていたのだ


月が、いないから……


月がいないと、月の光が見えないととても不安になる


何故だろう?

月は私のかけがえのないもの?


外の景色に目をやる

雨は横殴りで降り注ぎ、空は黒くて分厚い雲に覆われている


今日も見えない……


「月が見えないから不安?」 
 

エプロン姿のリツコがサラダの入った器を手にレイに尋ねた

まるで心の中を読まれたような質問にレイは戸惑う


「珍しいのよ、雨は

 ほんのたまにしか降らないはずの夕刻から夜にかけての雨が、今回は二晩も降り続いてる

 誰かの心にこんなふうな雨が降ってるからかしらね…

 ていうのは母親の言葉なんだけどね」


テーブルクロスをひき、スプーンやフォークを並べていく


「でも今は雨に濡れてないから

 この家にいるうちは、私が月がわりね」

「…リツコさん」


レイは小さな声で呟いた

リツコは一瞬驚き、その後はにかんだように、そして逃げるようにキッチンに戻った


「…リツコさん」


もう一度口に出してみる

何かくすぐったい感じがした

そのうちにキッチンからいい匂いが流れてくる

リツコはラストスパートと言うように忙しく動いていた

レイは「手伝いましょうか?」と腰を浮かしたのだがリツコはそれを制した


「貴方はそのまま休んでて」


それから数分のうちにテーブルの上には温かい料理が並んだ

本当にみるみるうちという感じに

最後にリツコは黄色い器を持ってキッチンから出てきた


「待たせたわね

 さあ、食事にしましょう?」


そういってリツコは席を勧めた

促されるまま椅子に腰掛ける

テーブルの上に広がる料理

メインはクリームシチュー、パンが添えられその他に森の野菜サラダや魚のムニエルなどバランスの良いものばかり

どれもレイの食欲をくすぐる美味しそうな料理だった

しかもレイの苦手な食材が一切入っていない

自分の好みがわかっているようで不思議に思った

リツコはボトルを傾け、レイのコップそして自分のコップにアイスティーを満たした

琥珀色の紅茶が踊り、中の氷がカランコロンと心地好い音を立てる


「すみません、こんな素晴らしい料理まで…」

「いいのよ

 客人なんて久しぶりだし、こうやって二人で食事が出来るなんて嬉しいことだから

 さあ食べて」

「…いただきます」


レイはスプーンを握り、シチューの器をとった

ミルククリームのいい匂いが広がる

少しかき混ぜてから掬い、少し冷ましてから口に運んだ


「美味しい……」


身体の芯から温まるようだ

また色とりどりの野菜がクリーム色の中を鮮やかに彩っているのも綺麗だ

ブロッコリー、ジャガイモ、ニンジンとどれも柔らかくホクホクと温かい

サラダもシンプルな作りだが、森の野菜や木の実の味がうまみと特製ドレッシングが素晴らしくマッチしていた

魚は白身の河魚で身も締まってあっさりしていて、かけられたソースもとても美味しい

レイはその一口一口が驚きと共に感動だった

何より彼女の優しさを感じたからだった

これほど食事というものが楽しく感じたのはそのためだろう


「すごく、美味しいです

 ……こういう料理、作れたんですね

 ……嬉しいです」


温かい料理を口に運びながら、しんみりと呟く

レイは純粋に美味しいということを伝えているつもりなのだが、出てきた言葉は暫しリツコを絶句させた


「レイ…貴方……」

「?」


リツコの言葉がなくなったのに軽く不思議に思い顔を上げる

レイのキョトンとした表情を見て、自分の思い過ごしと思って、リツコは顔を和ませた


「いいえ、なんでもないわ

 …ありがとう

 そういってもらえると、作ったかいがあるわね」 


食卓の席は終始暖かかった








食事が終わり、リツコが後片付けを終えたあと、レイは工房へ招かれた

あの重たい扉の奥へ

まるでその先は異世界につながるみたいな感じを持つ

例のいくつか不思議な部屋を通りこし、一つの部屋に来た

生活部屋と同じくらいの広さ

部屋の真中には一つ大きな机

机というには作業台と呼んだほうがいいようなそれには、いくつかの溝がつき、脚部は床に固定されていた

このことを尋ねると、小型の作業用機械をボルトで取りつけるように切られた溝なのだそうだ

脚部が固定されているのも振動でがたつかないようにするため

なるほど、ここは一種の多目的室ということのようだ

リツコは白衣をレイに羽織らせると、倉庫に何かを取ってくるといって一旦姿を消した

レイは机に備え付けの椅子に座り待った

数分もしない内にリツコは戻ってきた

ゴロゴロとカートに二つのケースを乗せて「よっと」ケースをカートから持ち上げてレイの前に置く

不透明なプラスチックケースにはそれぞれいろいろなものが入っているのはわかったが、何かというところまではわからない

リツコのほうを向くと詳しいことは何も言わずに手を前にかざし、その手は「どうぞ、開けてみて」と言っていた

それで片方のケースに手をかけ、上蓋をとめるロックをパチンパチンと外す

そこにはレイのいままでの持ち物が入っていた

革製の鞄、ナイフ、靴、それからコートや身につけていた服が綺麗に畳まれて入っていた

開けたとき、血や泥の臭いはしなかった

鞄は泥や雨にいくつもシミが残っているが、汚れは綺麗に拭かれている

ナイフも磨かれ、研がれてシースとは別にして置かれていた

服は洗濯されきちんと畳んで重ねてあった

さすがにマントがわりにした毛布はなかった

自分でもどこでバラバラにされたか覚えていない


「でもね」


様子を見ていたリツコが加わりケースから黒のコートを取り出した

畳んであったそれを広げる


「これなんかそうだけど、これから着れるような状態じゃないわ」


リツコが指をなぞらせた個所には引き裂かれたあとがあり、それは一つではなくボロボロだった


「それに、この靴ももうだめね

 こんなにすり減らしてはこれからの旅はつらいはずよ」


靴の片方を取り上げ裏側を見せる、先の戦闘で限界を超えたらしい

レイもいくつか手に取り、損傷の加減を見た

リツコのいう通り、これから旅を続けるには大きな不安材料になってしまうだろう


「それで、もう一つのほうを開けてみて」


リツコは猫のような笑みを浮かべて促した

レイはすり減った自分の装備を置くと、もう一つのケースに手をかけた

ロックを外し、蓋を取る

そこには鞄、ナイフ、靴、そしてコート等の衣服が整えられていた

隣のケースと同じ配置、同じ数

ただし、その形状や材質は大きく異なったものだ

鞄は、肩掛けのものではなく、シンプルなバックパック

材質はよくわからないが合成繊維らしく、持ってみると革鞄よりはるかに軽い

しかも、収容性は明らかに大きい

ナイフは同じシースタイプで腰の後ろに挿すことが出来るもの

引き抜き手にとってみるとハンドルはレイの手に合う大きさでブレードも使い回しやすい形状大きさだ

靴は足首まで包み込むもので、動きやすく頑丈なものだった

衣服類は柔らかくなおかつ保温性や耐久性を持たせてある

だが、どの装備も最初に思ったのは非常に軽いということだった


「どうかしら?服や靴はどっちにしろ替えるとして、他のものも一新したら

 鞄やナイフはまだ使えはすると思うけど、今の状態だと貴方の重荷になるわ」


どうしよう


レイはそう思った

確かに今まで使ってきた装備は長距離の旅に、耐久性に問題がではじめている

それに、レイには今まで使ってきた慣れはあるが、固執するほどの思い入れもない

問題を引きずるよりは替えてしまったほうがいいし、またとない機会ともいえる


でも、どうしてだろう?

森の中で倒れていた自分を助けてくれたこと

治療と世話をしてくれたこと

そして今度は旅の支度まで

見ず知らずのはずなのに

何故?

私なんかに、こんなに親切にしてくれるんだろう

何故?


「…何故…?

 私は貴方に何もしてあげられない

 なのに、何故?

 貴方はそこまでしてくれるの?」

「……何故?…か

 人っていうのはね、ロジックじゃないわ

 何故という疑問に明確に答えられるような答えなんて思いのほかないものよ

 行動で表している原動、それは抽象的なもの

 私が貴方にするのは、…貴方の旅を完遂させたいから、っていうことにしておいてもらえるかしら」

「でも、いいんですか?」

「……私はね、レイ

 昔は科学者として女として人として、してはいけない禁忌に手を触れたのよ

 私の中には罪がある

 償い切れない罪がね

 でも、少しでも自分の出来るだけはその償いをしたい

 それを貴方に向けているのかもしれないわね」


リツコは自嘲ぎみに笑った

偽善ね、というように

レイはリツコの目を見つめていた


私は知っているのかもしれない

この人のことを

そして、この人も、知っているのかもしれない

私のことを

………この人も、未だに背負っているのね


レイは俯いた

思い出せない過去を引きずる自分に

それから、過去の罪を背負い歩こうとするリツコの姿に悲しみを感じながら


「調整は明日の朝でも間に合うわ

 明日には出発するんだから、今日はもう寝ましょう」


そう言葉を掛けたリツコの表情は優しかった

リツコの手に促され、多目的室に荷物を残し工房を出る

出発は明日の午前中にすることに決めた

朝、装備の調整と荷物を積めば出発できる

部屋に戻るとベッドの上に座るように言われた

レイを一旦待たせるとリツコは箪笥から治療ボックスを取り出してきた


「上着は脱いで

 あと、足のほうはまくり上げるだけでいいから」


レイがそうしている間にリツコは純水を含ませたタオルと消毒液に浸した脱脂綿を用意した

そしてレイの包帯を解いていく

あらわれる白い肌に、十数ケ所に及ぶ裂傷や擦傷が痛々しかった

外していった包帯にはところどころに血が滲んでいる

リツコは濡らしたタオルを取ると、包帯を覆っていたところを丁寧に拭いていく

それから傷口一つ一つを消毒し、薬を塗る

少し沁みるのか、時々レイは顔を歪めた

それが終わり、新しい包帯を腕、足に巻いていく


この薬品の匂い…

白衣…

包帯…

血と傷と痛み…


レイのいまいる状況が、記憶の中に映る情景に霞ながらも重なる

視界が反転し、ネガフィルムを見るような光景が現れは消え現れは消えた


いくつもの機器が並べられ配線が床を這う研究室

広い実験場

大量の水が張られたケイジ

ガラスばりの管制塔

それは無音でスライドのように流れていく

人気のないロッカールーム

薄暗い空間、赤く浮き出る文字

白衣の女性


リツコは最後に余った部分を切り離しピンで包帯を留める


「さあ、終わったわよ

 レイ、服を着ていいわ」


そう言ってボックスに器具を終っていく

が、レイは俯いたまま動かない


「レイ?どうしたの?」


不審に思ってレイに手を伸ばした時だった


「…この記憶は、何?…私は…」


リツコの手が驚きと共に止まる

だが、すぐに俯くレイに服を着せ、その手を握った


「レイ、話してくれないかしら

 貴方の思考の中にいま何があるのか

 私に話してくれない」

「…私の中に私の知らない私がいる……」

「どういうこと?」

「私の頭の中を記憶が通り過ぎていくの

 私の経験したことのない景色が

 それが何なのかわからない

 私の中にあるはずの記憶なのに

 私はそれを知らない

 私の中にある知らない私の記憶が、私の中で膨らんでいく

 私の心を崩していく」


レイの身体が震え出す

自分自身の中で膨れ上がるものに恐怖を感じて

リツコの心が警告を鳴らした


「レイ、レイ!落ち着いて、拒絶してはだめ」


その言葉がレイの耳に届いたかどうかはわからない

届いていたとしても、混乱にかき消されているに違いない

レイの身体は小刻みに震えたままだ


いけない、心が閉じてしまう


リツコはレイの手を引き、力一杯抱き締めた

その衝撃にレイの混乱が途切れる

それからリツコはレイの耳元で微かに、でもはっきりとした声で、言葉を紡いだ


「レイ、聞いて、レイ」

「リツコさん、私は…」

「レイ、まずは力を抜いて、身体を私に預けて

 いまは何も考えないで」


リツコは背中に回される手と寄りかかり重くなったレイを感じてさらにしっかりと抱き締めた

幾許か静寂がながれ、レイの震えが収まる

それでリツコは静かに口を開いた


「レイ、貴方が恐れる気持ちはよくわかる

 自分の中で物凄い勢いて膨らんでくるそれは恐ろしいものだと思う

 でも、拒絶はしないで

 それは貴方のものなんだから」

「でも、私は…」

「それは貴方の記憶よ、レイ

 知らないわけでも、貴方じゃない貴方の記憶でもない、ただ思い出せないでいるだけ

 それは貴方の記憶、貴方が経験したもの

 だから、拒絶してはだめ

 拒絶したら何も始まらないし、何も見えなくなってしまうわ

 それは貴方だから

 貴方は綾波レイでしょ

 貴方は貴方

 貴方の記憶は貴方の記憶

 だから、拒絶しないで、向き合って

 貴方ならたどり着けるわ」


どうしてだろう?

心の混乱が収まっていく

私の心を壊そうとした記憶が


彼女の中で叫ぶ影が消えたことにレイは気付く

レイの心を止めようとするのは、その心を壊そうとするのは、彼女の過去ではないことに

リツコの言葉が気付かせる

レイの心の欠片

彼女の心を縛る“影”に


私が拒絶するのは記憶じゃない

私が拒絶するのは、私の道を止める影なんだ

私の道、それは私の行く先を見つけること

自分は何処からきたのか、自分は何者なのか、そして何処にいくのか

私は拒絶してはいけないんだ

自分の過去の記憶を

どんなに辛くても、どんなに悲しくても

私は向き合わなくてはいけない

それは私なんだから

私は私だから


「リツコさん…」

「大丈夫、レイ?」

「はい、ありがとうございます

 私は貴方の言葉で少しだけ知ることが出来ました

 忘れていた記憶に

 もう、後ろは向かない」

「よかった

 貴方の道はその先にあるはずよ」


赤木リツコの言葉はレイの最大の拘束を外すことはできない

それはリツコ自身もわかっている

それでも、赤木リツコの言葉はレイの心の霞を取ることが出来た





「さて、じゃあ寝ましょうか」

リツコはレイのためにベッドを整え、その近くにソファーを引きずってくる

ソファーは今日のベッド代わり

枕を置き、布団を被せれば簡易ベッドになるからだ

普段使うベッドは一人で寝るものとしては大きいものだが、二人で寝るには少し狭い

それこそくっついて眠らなくてはならない

ベッドメーキングをしているリツコの横でレイはハーブティーを握って座っていた

リツコが、心が落ち着いて良く眠れるようにと配合したハーブで淹れられている

温かい湯気の中にハーブが薫り、気持ちを和ませると共に体のほうも温まっていった

最後を飲み干すと同時に、リツコのふぅーという声で就寝の準備が整った


「すみません、何もかもやらせてしまって」

「貴方はその腕だから

 この家に居る間はさせたくないからね」


この言葉は医者からなのかしら、私自身なのかしら、など自分に対して小さく呟くリツコがおかしかった


この人も私と似ている

自分の感情の現れが良くわからないのね


そう思いながらマグカップを手渡した

リツコはハッとしたようにそれを受け取ると電気に手をかけた


「消すわよ」

「はい」


カチャン…

天井の光源が光の供給を止める

明るかった空間になれた目には室内は漆黒の世界だ

かすかな電気音も途絶え、静けさが広がった

外の世界の雨音は小さく聞こえないが、カーテン越しに照らす光もない

目が慣れ、闇の中にリツコの姿が見えるようになってくる

電気を消した彼女はソファーに横になって布団をかけようとしているところだった


「おやすみなさい、レイ」

「…おやすみなさい」


口に出してみて気付いた

これははじめての言葉だ

いままで知識としてはこの言葉は知っていた

だが使うのは初めてだった

人の中に居た間も、森の木の上で夜を過ごした日も

木々や小動物たちは確かに側にいた

でも、彼らにその言葉をかけることはなかった

やはり、人と人とのつながり

それがとても甘美で切なくて

それはとても心地いいものだが、人と人との絆は孤独な旅には辛い

自分が孤独だということを教えるからだ

でも、大切なことだと思う

何故か雲の向こうの月に目を向けた

夜空に輝く月が教えてくれるようで、思い出させてくれるようで

でも月は見えない


「リツコ、さん」


かすかな呟きは闇の中に包まれ消えていく

布団を握り締めた


「眠れないの?レイ」


リツコの声が聞こえ、彼女ののぞき込む顔が見えた

彼女の名前を呼んでみたが、もう寝ているだろうと思ったリツコが返事を返したことに驚いた

それでも、レイの中に期待の気持ちがあったのもまた確かだ


「あっ…

 はい…」

「しょうがないわね」


そういってリツコはベッドに潜り込んだ

レイが驚きに身を固まらせている間に、レイを抱き包んだ

自分以外の人の温もり

リツコの身体に包まれて、レイの身体から力が抜けていく


………あたたかい……

……なんだろう……

…月の光に包まれているみたい………


レイは他の人のぬくもりを知らない

レイは家族のぬくもりを知らない

でも、リツコに包み込まれた、柔らかさ、暖かさは自分の知らないそれらのように感じた

リツコは自分の首もとにレイの顔を引き寄せ、囁いた


「おやすみなさい、レイ

 ぐっすりと眠れるといいわね」

「…リツコ、さん

 …………おやすみ、なさい…

 ………………………………………」


レイはリツコを掴む手に力を入れる

だが、その力もだんだんと抜けていき、リツコの腕の中でレイは夜の世界へと落ちていった

レイの微かな寝息と、無垢な寝顔にリツコは目を細める


「………………

 ……私は、この子にとって支えとなる存在になれるかしら

 私の手は………」


レイを包む手の片方をかざしてみる


「………………

 私に、資格はない…

 私の罪は、消えないものだから……

 ………………………………

 …でも

 前に進まなければ、歩かなくては

 その少しも、償うことすら出来ない

 ……それに

 …この気持ちは、償いとしてなんかじゃない

 ……これは

 私がこの子を支えていきたいという気持ち

 私は歩くわ、この子の後ろを

 それが私に出来ること

 それが、私のしたいこと


 ……ねえ、そうでしょう?」


腕の中の可愛いぬくもりを感じながら、リツコは空を仰ぐ

雲は消え、雨は止み、森々は静かに並び、仰ぐ空には月が

彼女の言葉に頷くように、丸い月が静かに輝いていた










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