草を掻き分け、風になびかれ

私は、歩く



見たことのない、青い海とは、私の孤独な心を暖かく満たしてくれるだろうか


見たことのない、青い空とは、私の心を覆う闇を取り去ってくれるだろうか


その先に、見たことのない、陽の光が、私を待っているのだろうか



私は、歩く

草を掻き分け、風になびかれ


見渡す限りの草原となびく草色の海を見つめながら


あと、どれくらい…?


そう月に尋ねながら


自分が何者なのかを

自分が何処から来たのかを

そして、自分はどこへ行くのかを

この旅路に捜しながら



草を掻き分け、風になびかれ

私は、歩く

月の下








Goat for AZAZEL   aba-m.a-kkv

第伍話 − 草原












朝が来た

そう自分の身体が時間を告げる

それは頭へと流れていき、覚醒の準備が整えられていく

森の朝を知らせる小鳥たちの歌声も聞こえるが、それはどこか遠くのほうに聞こえるような感じだ

周りを取り包む空気が暖かく、レイの目覚めを緩めていた

そんな中、レイの鼻腔にパンの焼けるいい匂いが流れてくる

少し香ばしく、少し甘い匂い

パンという食物にまだあまり接したことのないレイにとって、その匂いの正体はわからないが、それがいい匂いであるということはわかった

レイは無意識にリツコの姿を探るが、その伸ばした手は空を切る

その行動と、何も触れなかった感触がレイの覚醒につながった

それと共に、レイの瞼が開いていくのをまるで見ていたかのように、リツコの声が朝を告げた


「朝よ、起きなさい」


朝、誰かに起こされる、という初めての経験に少し驚きながらも、寝惚け眼で身体を起こした

ふと、目を上げるとベッドと部屋の間にカーテンが引かれているのに気がつく

手を伸ばしてカーテンをそっと開いてみる

そこには光が溢れていて、思わず目を覆った

天井部の光源が室内を照らし、それは起きたばかりの目にはとても眩しいものだった

それでも段々と目が光に慣れ、室内の様子がわかるようになってくる

それと共に、料理のいい匂いもはっきり届いた

目をこすり見回すと、リツコがキッチンに立っている姿が見えた

丸テーブルの上には食器が並べられている

ベッドを降りるとき、リツコが眩しくないようにカーテンをかけて食事を作ってくれていたことに気付き、心の中で感謝した

リツコの「顔を洗ってきなさいな」という言葉に、揃えられた猫柄のスリッパに足を通し、洗面所に向かった

冷たい水で顔を濡らし、乾いたタオルで拭って、レイの意識がはっきりする

テーブルに戻ると、リツコが料理を作り終えたようだった

彼女が器に料理を盛っている間に、レイは紅茶を淹れる

リツコに何か出来るか聞いたときの答えが「紅茶をお願い」だったからだ

ティーポットと茶葉を棚から出す

この時はごく普通に取り出した

そしてティーポットなど扱ったことなどなかったはずなのに、その手はスムーズに紅茶を淹れていく

本人は気付いていない

よく蒸らしカップに注ぐと、テーブルに持っていく

朝食が出来上がった


「いただきます」

「…いただきます」


朝食はサラダ、スクランブルエッグ、メインはミルクトーストでほのかな甘さがとても美味しい

デザートに果実入りのヨーグルトが添えられていた


「食べ終わったら、支度をしなくてはね」


そうリツコは言ったが、ゆったりとした朝食の時間を過ごした

それでも、食べ終わった時刻はそれほど遅い時間じゃない

午前中の出発という目標には十分間に合いそうだった

決して急ぐ必要はない

けれど、時間を延ばすとこの場所へ根を下ろしてしまいそうだった

離れたくない、という気持ちが膨らまないうちに

レイはそう心に言い聞かせていた

それに、リツコもレイの心を知っているのか、滞在を引き伸ばすようなことはしなかったし、レイが快く出発できるように整えていった




朝食とその片づけを終えてから、工房の多目的室に向かった

そこで最後の治療と包帯の交換をする

昨日と同じように、包帯を解き、丁寧に拭き、塗り薬を傷口に塗ってから、新しい包帯を巻いた


「だいぶ、よくなってきているわね

 もう次の時は外してしまってかまわないわ」


傷口もだいぶ塞がり、薬を塗ったときも痛くはなかった

腕足の違和感もほとんど消えていた


「ありがとうございます」

「さあ、次は着替えね

 はい、これ

 合うと思うんだけど…」


ちょっと自信なさそうにいいながら、リツコは服を手渡した

ズボンにシャツ、上着と順に

レイはパジャマを脱ぐと、それらを着ていく

リツコの心配をよそに、どれもちょうどいい大きさだった

靴下を履き、靴を足に通す

足にピッタリと合う軽い靴だ

紐を留め金具に交差させ、蝶々結びでしっかりと結ぶ

革ベルトを取り、ベルトループに通していく

その時に、ナイフのシースが腰にくるようにベルトに通した

そしてナイフを取り、シースに差す

それから鞄の準備だ

古い革鞄から新しい鞄に荷物を詰め直していく

そんな中にリツコは食料と医薬品を持ってきた


「これ、少しだけど持っていきなさい

 ここから先、食料を手に入れにくくなるかもしれないから

 あと、必要ないかもしれないけど、一応薬も持っていて

 使い方は書いてあるから

 それと、これ」


リツコは布袋を差し出す

中を見ると、そこにはマッチの木のスティックが入っていた


「これは……!」

「貴方の忘れ物、必要でしょ」

「リツコさん…」

「さあ、行きましょう

 銃のほうは準備しておいたから、予備の弾薬も」


最後にレイは深緑の新しいコートを羽織る

鞄を持ち、銃を肩にかけて全てが整った

リツコに伴われて工房を出る

そして二日ぶりの森へ

前日の雨のせいか、森の空気は潤っていた

それでも霧はなく、レイの出発する心を表すようだった


「レイ、いい

 貴方はもう河にすすんではだめよ」

「え?」

「貴方の道の指標はもう河じゃないわ

 このまま、真っ直ぐ森を抜けなさい

 ずっとずっと行くと森から草原にかわるはず

 草原にたどり着いたら、森と草原の境界線を背に真っ直ぐ進みなさい

 貴方なら見つけられるわ、新たなる指標を」

「リツコさん…」


レイはリツコに近付き抱き締めた

お別れの抱擁

リツコもそんなレイに驚きながら、それから嬉しさと寂しさを湛えてレイを抱きしめ返した


「ありがとうございました」

「私もよ、ありがとう、レイ

 また、会いに来て、貴方が青を見つけたら」

「はい」

「それじゃあ、さよならは言わない

 貴方も振り返らずに進みなさい

 真実を常にみて

 気を付けてね」

「リツコさんもお元気で

 また会いましょう」


レイは微笑んでから森へ向けて足を一歩踏み出した

リツコはその姿が消えるまで見送った

レイはリツコの言葉に従い、振りかえることなく森の緑の中に消えた


「これで、良かったのかしらね?

 ……どうあれ、私は私の役を終えた

 後はあの子次第

 私は、あの子が尋ねて来てくれるのを待つことしか出来ない


 月よ、彼女は四つ目の指標を越えたわ

 あと三つ

 あの子はたどり着けるわよね

 ……………

 残酷な真実へ」


リツコの姿が霞む


「それでも私は祈る

 あの子が見つけられるように

 世界を、未来を、現実を」



森の中、レイの足跡だけが残る

その出発点には森

ただ森だけ

木の家はまるで幻だったかのように、その姿を消した

いや、どちらが 幻なのか

それは綾波レイ、彼女の道の先に――










森の中、少女が一人歩く 

冷たい空気も、悪路にも妨げられず、軽やかに

彼女を包む深緑のコートは冷たい森に近いこの場でもしっかりと温度を保っている

木の根が地中から幾つものぞく地面も、その靴は衝撃を和らげ、歩みを助けてくれていた

二日というタイムラグに身体は本調子ではないが、その分を十分に補ってくれるものだ

レイはリツコの装備に感謝していた

特に彼女の足をスムーズに進めるのは、明らかに軽くなった装備のお陰だ

ただ身体が軽くなっただけではない

その精神の重みも大幅に軽くなった現れでもある

人のエゴが絡んだ重たい装備からの解放という抽象的な面にあって

緑の葉が天井を覆い、茶の幹が密集する中、彼女に道を空けるように、導くように木々の道が伸びる

不思議なほど真っ直ぐと

リツコの元を出てから半日近く

途中昼食の時間と休憩を入れ森を歩く

レイの時間はそろそろ月出の時間を示していた


月、そういえば三日も見ていない

何か心細い気がするのは気のせいかしら

あの場所ではリツコさんがいてくれたからわからなかったけど

………………………………

……月、貴方の姿が見たい


その想いは足を鈍くすることはなかった

逆にそれは足を速め、森を抜ける原動力になった


時が刻々と過ぎ、月が地平線から高く上がったころ、森と草原との境界で紅い眸が空を見上げていた


緑の海に浮かぶ月

海というものを見たことがないレイにとって、この情景をどうやって表現したらいいかわからなかったが、見渡す限りの草原はレイを驚かせた

森と草原とが見事なまでの境界線を持ち、森を背に180度、水平線まで草原が広がっている

緩やかな風がその上を流れ、草が生き物のように揺れ、波を作っていた

森の中で見るのとは違い、草原に浮かぶ月は大きく見える

草原という草色のキャンバスにただ一つだけ描かれる月だからだろうが

月の光が草原全体に行き巡り、そよ風に揺れる度にキラキラと幻想的に輝いている


この草原は、私に何を教えてくれるのかしら?

この草原の先には何が待っているのかしら?


暫し躊躇した後、レイは森の土の地面から足を踏み出した

その一歩で境界を越える

草の地面がレイを柔らかく迎え入れた


よかった、拒絶してはいない


そんな言葉がでたのは、レイの心が周りを拒絶しなくなったからだ

また一歩進む

境界の草は足首ほどだったのが、草原に数メートル入る頃には腰の高さまで伸びた草で囲まれた

見ると草の高さは統一されたようにその高さで見渡す限り広がる

まるで草の絨毯のよう

立ち止まり草を指で掴み、撫でてみる

軽い力で形を変え、草の縁も柔らかい

今歩いただけでも、それほど抵抗のない感じだ

それからもう一度草原を見渡した

月が静寂を司るかのように、草原はとても静かだ

風がその表面を流れるときにだけ、サァァと風の声が聞こえる

レイは眸を閉じると手を広げた

静寂、時々の風の声、草原の命の存在を聞くために

何度目かの風の声にレイは閉じた瞼を開く

危険な声は聞こえなかった

それにこの新たな草原の声はレイの心を落ち着かせた

暫く草原の彼方を見つめたレイは、さっきより高く上がった月を見て森に身体を向ける

そして森と草原の境界を越え、高い木の上に登った

今日はまだ草原へは入らない

この夜は森の最後の夜として、境界の木の上で休むことにしたのだ

このまま草原に入るには遅すぎる時刻

それに、草原に入るには不安も少しある

未知の大地へ進むという不安

それはただ環境的というだけでなく、場所というものが心に与えるものに不安を覚える

この草原は何を教えてくれるのか?

何を思い出させてくれるのか?

山や河や樹海、森の家で体験したように

最初は何も感じなかった記憶が、山や川、樹海、森の家、そしてそこで出会った人々と触れて、真っ黒のキャンバスから色が現れ始めた

そこに何が描かれているのか?

自分の中枢に関わることに不安はある

でも、それと等しい期待もたしかにあるのだ

自分の探す謎に近づいているという期待


例え、それが残酷な真実でも


レイは木の上に休み場を設け、草原を眺めていた

闇の中でも月明かりと草原の緑とで、森の中よりも明るい

そのため、草原の表面を走る風がわかる

もしこの草原に風がなかったなら、昔の私のように冷たい感じだったかもしれない、そんなふうに思う

今は風がある

それは安定という言葉からは遠いけれど、けして氷りついてはいない

変化ある草原の表情、それを作り出す風

今の自分に似ているように思う

安定などしていない

本当の記憶、自分の存在の謎を抱えている

でも昔の、それらさえも拒絶していた冷たい自分はもういない

そして旅路の途中の言葉に心を解いていっている

この草原のように


私はいま変化している

止まった心から動きだし、前に進んでいる

この草原が私の心なら、真実を全て知ったとき、記憶を思い出したとき、何が起きるのだろう?

そして全てを受け入れた時、安定を取り戻した草原はもう冷たくはないのかしら?

………いえ、たぶんそれが“青”なんだろう


毛布にくるまり、木の幹に背をもたれる


「私は明日、あの草原を進む

 私の新しい指標

 私の新しい心の鍵

 私は、私はもう目を背けない

 私は立ち止まったりしない

 夢のような儚い今の私から、確かに足を地につけた私に

 私は誓うわ

 私の言葉を履行すると

 あの空に浮かぶ月が、輝く限り」


草原に目を向け、そして月を見上げた


「お休みなさい」


レイは月にそういうと瞼を閉じた

月はそんなレイに光を注ぐ

彼女に彼女の夢、または現実を見せるために

レイはその夜、初めて夢を見た





白黒の無声映画のような夢だった

映画というものを何故知っているのかはわからない

でも漠然と、これは映画だと認識していた

映画館の中、座席の真ん中にただ一人座り、映画を見ている自分が居る

場内は真っ暗で、目の前のスクリーンだけが明るく、視界いっぱいに広がっていた

白黒で音のない映画だと思ったのはどうやら違うようだ

色がないわけではない

私の目に見えないだけ

音はあるのだろう

ただ、私の耳に聞こえないだけ

そして、登場人物たちの表情は何故か霞んでいてそれが誰なのかわからない

場内はとても静かで、フィルムの回る音だけがいやに大きく聞こえた

スクリーンに映る映画

見たことのあるものだった

ただ見たことがあるという以上の感覚

映画で見た、実際に見た、そうではない

自分自身が実際にそこにいた、そういう感覚

それなのに、自分独りがこの映画館でそれを眺めていることに違和感があった


あの画面の中に、私の記憶がある…


画面に映し出される映像に目を凝らした

でも、いくらそうしてもある程度までしか理解できない

フィルムの回る音だけが場内に響き、刻々と終劇の時間が迫る

でも、焦ることはなかった

じっと目を凝らす

そのうちに、映像の中に吸い込まれるように、目の前が広がる


そこには

巨人が居た 

使いが居た

槍があった

街があり

人々が居た


見知る面影の人が過ぎ去り


綺麗な笑顔がそこにあった


でも、映像は悲しみを帯びながら終劇した




目が醒める

紅い眸に映ったのは揺れる草原

その耳に聞くのは森を踊る小鳥たちのさえずり

いま自分が居るのは草原と森との境界

その木の幹の上


…朝


自分の体内時計が告げる朝と、森が教えてくれる朝に、これがいつも通りの朝だと感じる

映画館もスクリーンもない

あのぼやけた映画も


あれは、夢、というもの?

初めて見た

夢など見たことなかったのに


いつもの起き抜けのだるさはなかった

すがすがしい覚醒ではないが、目が醒めた時からはっきりとしている

そしてあの夢のこともよく覚えていた

音が聞こえず、色がわからず、映像もぼやけた白黒無声映画を


何故こんなに悲しいのかしら

あの映画のラストには何があった?

あの映画が現すのは、私の記憶?

また一つ…


一つの謎と、一つの疑問と一つの不安が増えた中、一つの鍵もそれだとわかっていた

そしてそれがもう少しだということも

映像の霞み具合は真実からどれだけの距離にあるかということ

霞みがかかるとはいえ、レイは映画を最後まで見たのだ


あと少し

だから、もう「あとどれくらい?」と尋ねることはしないわ


レイは身を起こすと、それは低くなった月が雲に隠れようとする瞬間だった

レイは毛布を纏いながら立ち上がり、月を見送った


「また夜の世界で会いましょう」


世界の空を雲が、あの映画の霞みのように覆い、夜を司る月が姿を消すのを見てからレイは活動を開始した

朝食を取り、旅の支度を整えて木を降りる

そして再び境界線の前に立った

見事なまでに境をわける森と草原

レイは深呼吸をすると大きく一歩踏み出し、境界線を越えた

昨日と同じく草原の草はレイを柔らかく迎え入れた

草をわけ、草原へ入っていく

最初は足首までの草、そして中に行くごとにそれは高くなり、昨日踏み入れた腰の高さに安定したところまできた

そしてその先へと進む

昨日作った草の道を越えて新たな道を作りながら

進むスピードはそれほど早くない

初めて踏み込む未知の地にはいままでの経験が通用しない

森の中と草原の中、住む生き物も自然の流れも異なる

ある程度の流れと、雰囲気を感じる力は使えるが、それでも慎重を期した

周りの気配に気を配り、見えない足元に気を配り、そして進む

草を分け入りながら

緑のキャンバスの上に一筋の道、独りの少女

やがて後ろの森は見えなくなり、森と草原の境界線が地平線へと変わる

四方が草原になる中、最初の夜を過ごした

再びあった月に見守られながら、レイは草原の真ん中に休み場を作っていく

草がクッションになるように草原の一部を重ねて押さえ、その上にビニールシート、毛布を置いてベッドを作った

草の中に埋もれて隠れるため周りからは見えない

少しは安全性が上がるだろう

レイは毛布の上に横になる

それからサンドイッチのように、毛布を被り、ビニールシートをかけた

空気が湿っているこの草原では、朝になると空気中の水分が水滴になって毛布を濡らすかもしれないからだ

腰からナイフを抜くと枕もとの近くに突き立てる

腰に差したままでは寝にくいのもあるし、いざとなったとき寝ている体勢からでも手に取ることができるからだ

そして銃を抱き枕のようにして毛布の中で丸くなった

柔らかい草のクッションが心地いい

草の壁に囲まれながら、レイは空を見上げた

光を降らす月が見える


「おやすみなさい」


レイはその紅い眸を隠した

そして、月はレイに夢を降らす







夢を見た

映画館の中、座席の真中に座る自分がいた

場内には自分独り

前日に見た夢と似ていた

夢とわかりながら、静かに席に座り、流れる映像を見ていた

場内にはフィルムの回る音だけが響き渡る

カタカタカタ

スクリーンに映るのは同じ映画

音は聞こえない

ただ色が見えるようになっている

白黒から色のついた映像

カラーというよりかはペイントされたような色

絵の流れを見ているかのようだ

巨人が纏う、白、黒、赤、青、そして紫

色鮮やかな使い達

真紅の槍

緑に囲まれた街

白灰色の建物

過ぎ去っていく人達にも色があった

印象的だったのは髪の色

官服を着た、黒髪の人

同じ服装の白髪の人

白衣を着た人は金髪

同じ服装の栗色の髪の人

赤い制服の人は紫がかった黒髪

黄色いワンピースを着た亜麻色の髪の少女

紅い瞳と銀髪の少年

そして、漆黒の綺麗な瞳と黒髪の少年

未だ、それが何なのか、記憶は霞んだままはっきりとしない

でも色が出てきたことで、レイの記憶のぼやけが少しずつ晴れていくようだった

映画は進み、やがて終劇を迎える

スクリーンに映し出されていた映像が途切れ、暫くの間映写機が回った後、プツンと光が消えた

場内は真っ暗になり、静寂が満ちる

真っ暗闇の中、レイの脳裏には一つの言葉が残っていた


福音ヲ告ゲル者の名が




 
目が醒めた


「…エヴァン…ゲリオン………?」


朝の眠気の余韻などなかった

朝露が付く草が綺麗に光っていることにも気付かない

ただ一言、小さく紡ぎだした言葉はレイを考えさせた

初めて戻った記憶の断片


何を示すの?

エヴァンゲリオン…

福音ヲ告ゲル者の名

映像の中から引き出せた名前

なんだろう、この感じ

何かとてつもなく大きい影…



オマエハ、ワタシ―


“貴方は誰?”



草に溜った朝露が落ち、レイの鼻の頭を濡らした

ハッ、と我に返る


今の二つの声

誰?


一つは恐怖を、そしてそれを遮ったもう一つは静けさを帯びた声

どちらも同じ感じがした

“自分と同じ”感じが

身体を起こす

草原が朝露を纏っているのに気付いた

一本の草に顔を寄せ、朝露の玉をのぞき込む

露玉は忠実に光を屈折させ、小さな鏡のようにレイの顔を映し出した


「そこに居るのは、誰?」


レイの言葉に露玉は揺れて像を消すと、草の上を滑り落ちる


「…私の中には、誰かがいる

 気付いていたこと

 だけど、ただ単に両手を広げて受け入れてはいけないものも、いる」


そう感じた

自分の中に、自分に近い二つの影を感じる

一つはとてつもなく大きい影

もう一つの影はまだ姿といえるものを現していない

ただ静かで澄んだ声が聞こえるだけ

冷たい森の中、同じ声が聞こえた気がした

薄れゆく意識のもとで聞こえた言葉

それは自分の行く道にとって、どういう方向性をもつのか

未だに全てを表さない影

ただ、今の状態で現れたときに、果たして自分が自分を確立した状態で向き合えるのかどうかは自信がない

それだけ大きな影を感じる


でも…

いずれ、向き合わなくてはいけない

“自分に近しいもの”に


そしてもう一つ

『エヴァンゲリオン』というキーワード

これは自分の心の封印の一つの鍵になることは間違いない

それに

あの夢の中のスクリーンに映った全てが、私の謎の鍵に繋がるはず


レイは身を起こした

力があまり入らないのがわかる

思考は起きたばかりとは思えないほどしっかり覚醒しているが、身体のほうはそうでもないようだ

それとも、あの影のせいかもしれない、とも思った

もう一度毛布で身を包み、身体を十分温めてから、出発する支度を始めた





見渡す限りの草原、腰の高さまである草

それをわけいりながら進むのだが、草たちはレイの歩みをそれほど邪魔しない

見た目よりもずっと抵抗少なく進むことが出来る

時おり吹く風が草原に波を起こし、レイの軽い身体を持っていこうとするが、それでも進むことが出来た

少し問題だったのが、食事を取るときに火を起こす時だった

周りが全て草のため、いったん周りの草を刈ってから火を起こさなくてはいけない

しかも森と違って、昇る煙を薄めるものがないから、火を起こせばそこにいることが簡単にわかってしまう

銃を支柱にして、アルミのシートを天幕代わりにすることで何とかごまかすようにしたが、火を扱うのは大変だった

それに、食料の問題もある

周り一面、草原なだけに、手に入る食料が極端に少ない

今はリツコの食料があるからいいが、なくなる前に食料が見つかる環境を探さなくてはいけないと思っていた

そう思いながらも冬月の言葉が頭を掠めていった

昼食と休憩を取り、再び草原を進む

草を波立たせる風

それは上空の雲たちにも早い勢いを持たせていた

そのうちに、徐々に薄暗くなり、空を覆っていた雲が散り散りに分かれ始めた

夕刻が近くなっている

今日も再び、月に出会うことが出来る

レイの心はそれを思うと和んだ

どういうわけだかはわからない

ただ、月が空に浮かび、その月光を浴びるとき、レイの心は不思議と落ち着く


さて、今日もそろそろ、休み場を探さなくてはいけないわね


真っ直ぐ進む日中の行路から、ちょうどいい休み場を探そうと周りを見回したときだった

草原の表面を流れる風が、その中に声を携えてレイのほうへ吹いた



「だからぁ、もうちょっと向こうだってばぁ

 早くしないと月も出始めちゃって、真っ暗になってくるじゃない」

「いや、ここでいいはずだ」



声のするほうへ近づいていく

もちろん、姿を草の中に隠し、気配を断ち、銃を構えた状態で

風の流れが草を揺らし、レイの足音を消していた

十数メートル進んだとき、草原に人影が見えた

数は二つ

もう少し近づいてみると、それは男性と女性だった

男性のほうは、伸ばした髪の毛を後ろで束ね、ジーパンに革のジャンバーを着ている

女性のほうは紫がかった綺麗な黒髪で、ロングヘアー、ジーパンにホワイトのセーターを着ていた



「もう、だって、ぜんぜん見つかんないじゃない」

「なんだ、俺を信用してないのか?

 少なくともお前の方向音痴よりはましだと思うけどね」



どうやら、場所のことでもめているようだった

男性のほうは自分の鞄の上に腰をおろし、タバコをふかしている

一方女性のほうは、そんな男性に抗議しているようだったが、男性のほうは動く気がないらしい



「うぅ、でも…」

「こういうのは俺のほうが得意なんだ、少しは信用しろよ」

「でも………」


 
どうやら言いくるめられたようだった

女性のほうも、乱暴に荷物を下ろすとその上に座る

さて、どうしようかとレイは迷った

既に銃口は下ろしていた、危険な人たちには感じなかったからだ

このまま通り過ぎてもいい、真っ暗になるまでにはまだ時間があるから、少し移動することも苦痛ではない

そんなふうに思いながらふと女性の髪を見たときに、レイの足が止まった

紫がかった黒の綺麗なロングヘアー

どこかで見たような髪形

しかも、その女性自身もどこかで会ったか、見たような感じだった

今までの四人の姿と同じ

どこか、レイの記憶に引っかかる


これも、もしかして鍵の一つなのかもしれない

自分の中で、自分の知らない記憶が、引っかかっている


レイは迷った

姿を現すべきか、このまま移動してしまうべきか

そう思案しながらレイの中で答えは固まっていった

このまま移動してしまうのは間違っているように思える

自分の心の中でそういっている

彼等も自分に何かを指してくれるような

しかも、彼等二人は決して知らない人ではない

確かに記憶がある

それが何処からのもので、何処で会い、彼等が何者なのか、それはいまでもぼやけている

それでも知っている、そう思う

思い返せば、以前の四人の人達も確かに知っていた

あの時は今より記憶が霞んでいたために、確かにはわからなかった

だが今はあのときに比べて記憶が鮮明になってきている


二人に、会う


レイはそう決めた

銃を肩に掛け、消していた気配を通常に戻した

その瞬間男性が振り返った


「どうしたの?リョウジ」


怪訝そうに尋ねる女性を制して男性は立ち上がった


「……………

 こんばんは、お嬢さん」


その言葉と共に草原から身を現す

男性は人なつっこい表情で、女性は驚きいった様子だった


「……………

 …こんばんは

 ……何かあったんですか?」


レイはとりあえず旅人として接することにした

自分が彼等を知っていること

また、もしかしたら彼等も自分のことを知っているかもしれないことは出さなかった

とりあえず彼等に近づくために

平静を装いながら、レイの内面は緊張していた

何かを知っているかもしれない

何かを教えてくれるかもしれない

何かを示してくれるかもしれない

思いが渦巻く

そんなレイの思いを知ってか知らずか、男性は苦笑いをしながら口を開いた


「いや、すまない

 聞こえてしまったかな」

「ええ、何か揉めているようだったので…」

「これはとんだところを見せてしまったね」


男性は後ろ髪をかいた


「実は人を待っていてね

 ただ待ち合わせの場所が曖昧で、俺はここだと思ったんだが、ミサトが違うっていうもんでね

 なっ、ミサト」


男性は女性のほうに向くとウインクをして言う


「えっ?

 あ、そうなのよ」


いきなり話を振られた女性は少し戸惑ったように答えた


「だが、今回は俺の間違いみたいだな

 ミサトのほうが合っていたわけだ

 珍しいね」

「な、何よ、リョウジ、失礼ね

 それよりどうするのよ?」

「そうだなぁ」


男性は周りを見回した

雲の離散が広がり、薄暗い空が見え始めている

もう少しすれば、空の支配権が変わる時刻になるだろう


「今日中にもう一つのポイントに向かうのは難しいな

 すぐに真っ暗になるだろうし

 今日はここで一泊過ごすか」

「そ、そうね、そうしましょう」


レイはそんなやりとりを見て少し驚いていた

二人がとても仲がいいこと、二人が名前で呼び合っていること

別に変わったことではないはずなのだが、その時は何故か驚いていた

ただ驚きの中に嬉しさが混ざっていたのは不思議な感じだった


「貴方はどうするの?」


いままで二人の会話を眺めていたレイに女性が声を掛けた


「私、ですか?」

「ええ、貴方もそろそろ泊まり場所を見つけなきゃいけない時間でしょ?」

「はい

 でも、探そうと思ったときにあなた方がいて…」


そう言いかけたとき、女性はその答えを待っていたかのように口を開いた


「それなら、今晩は一緒に過ごさない?

 独りよりかはずっといいはずよ

 夕食もささやかだけど御馳走するからさ」


予想していない答えではなかったが、このスピードある展開には少しびっくりした

だが、独りでのビバークより複数集まったほうが安全であること、食料を節約したいときの丁度いい、この申し出を断る理由などない

しかも、レイは彼等と話をするために姿を見せたのだ

これ以上の機会もない


「…いいんですか?」

「もちろん!」

 
 その明るい言葉にレイは小さく頷いた


「よかった」


女性は安堵したように微笑んだ


……優しい人ね


「料理を作るのは俺だけどね」


横から飛んだ野次に女性は頬を膨らました


「また!そういうことをいう

 私だって昔よりはマシになったわよ」

「ああ、悪かった、悪かった

 だ、だから殴るな」


少し本気気味なのか、けっこう痛そうだったりする


クスッ


仲のいい二人の喧嘩に思わず笑みが零れる


「「あっ…」」


二人は思わず手を止め見つめ合うとバツが悪そうに笑った

それから男性が近づく


「それじゃあ、短い期間だがよろしく

 俺は加持リョウジだ

 加持さんとでも呼んでくれるかな」

「私は葛城ミサト

 ミサトって呼んでね」

「……加持、さん…ミサト、さん…

 私は、綾波レイです

 よろしくお願いします」


加持もミサトもうれしそうにレイを迎えた

簡単な挨拶を終えて三人は泊まり場を整え始める

ミサトも加持も、それぞれ荷物を解いていく

面白かったのは、ミサトが主にテントや折りたたみ椅子などを持ち、加持が食料品や調理器具を持っていたことだ

家事全般の実権は加持のほうが握っているらしい

手際よく調理の準備を始める姿はプロのような雰囲気だ

そのことを言うと加持は少し空を仰いで、友人から教わったこと、その人はもっと上手だ、と言った

その間にもミサトがテントと焚火の用意をテキパキとこなしていた

ベースを築き、テントを張り、杭でしっかりと留める

見る見るうちに組み上がっていった

それから立てたテントの中にレイと自分たちの荷物を運び込むと、次に燃料を組み、火をつけた

薄暗くなっていた草原に明かりが灯る


「リョウジ、火がついたわよ

 お鍋掛ける?」

「そうだな、頼む

 それと、そっちが終わったら材料切るの手伝ってくれ

 それから、レイちゃんは、こいつらを洗って一口大に切ってくれるかい?

 ミサトもくるから」

「はい」


加持は米を入れた飯ごうを持つと火のほうに向かう

火の明かりが加持とミサトの顔をはっきりと照らす

手を動かしながらレイは彼等の顔を眺めていた


加持さん、ミサトさん

聞き覚えのある名前

もう、どこでだろう?なんて思い出す必要はない

私の霧のかかった記憶の中に、彼等は居るはず

だから、私がしなくてはいけないのは、欠片を集めこの記憶にかかる霧を払うこと


手もとの野菜を洗い終えたレイは腰からナイフを抜き、皮を剥いたり適当な大きさに切る作業に移った

ミサトも作業を加持に代わってもらい、レイの加勢にきた


「ねぇ、レイ

 そんな大きいナイフじゃ切りにくいでしょ

 これ使って」


手渡されたのは3in程の薄刃のナイフ

使ってみるとなかなか使いやすかった

横を見るとミサトが着々とこなしていく姿がある


「料理、苦手なんじゃないんですか?」

「え?ああ、私、味付けが苦手なのよ

ナイフなんかを扱うようなのはいいんだけどね」


自覚しているのか、苦笑いを浮かべていた

ミサトが加わり働き手が二人分になったことで作業はとんとんと進んだ

切った材料を火にかかっている鍋の中に入れて煮込んでいく

その間に加持がいろいろな調味料を混ぜていった

幾許もしないうちに、いい匂いが漂い始める

よく煮込んで野菜が柔らかくなってきたところで、黄色のペーストが入れられた

すると中身の色も、匂いも変わり、空腹感をくすぐる

加持が飯ごうを火から離し、蓋をとると白いご飯が綺麗に炊き上がっていた

ミサトがテントから食器類を取り出し、ご飯を盛り、煮込んでいたそれを器についだ


「う〜ん、いい匂い

 私もカレーには自信があったんだけど、やっぱ、リョウジにはかなわないわねぇ」

「…………(汗)」


目の前の料理がカレーだということを知った

苦手な肉類も入っていないし、野菜メインのカレーはとても美味しそうだった

ただ、ミサトがカレーのことを話したとき、加持の顔色が一瞬変わったのに気づいたが、気にしないことにした


「それじゃぁ、食べようか」

「いっただきまーす」

「……いただきます」


「ささやか」といっていたが、加持の野菜カレーは甘口でとても美味しく、レイを大いに満足させた

食事の間も和気藹々と過ぎていった





暗闇の中に煌く一つの炎

360度、見晴らしのよい草原に囲まれた中、炎の光に影を伸ばす三つの人影


パチ…パチ…パチ…


火の揺らめく音と簡易椅子の関節部が立てる音が聞こえるだけで世界は静かだ

レイが空を見上げると、月が丸く、彼女を見守るように輝いている

時折吹く風がレイの蒼銀の髪と草原の草をなびかせた


「はい、レイの分」

「あっ……ありがとうございます」


ミサトがマグカップを渡し、魔法瓶を傾ける

濃い琥珀色の液体がカップに注がれ、湯気を立てた


「さて……どこまでいったかな?」

「その女性の森の中の家を出るところまでよ」


ミサトが注釈を入れる

レイはコーヒーを冷ましながら一口飲むと続きを話し始めた


「準備を整えて、それから森の家を出たんです

 リツコさんは扉の外まで送ってくれました

 それから、この草原に続く道を教えてくれたんです」


ひと区切りおいてカップに口をつける

ほろ苦いコーヒーだが、炎の熱と共に身体を温めてくれる


「それから別かれました

 私の旅が終わったら、また遊びにきて欲しいと言ってくれて…

 …いつでも真っ直ぐに、真実を見つめながら歩きなさい、って言葉をもらいました

 私を抱き締めてくれて、あの温もりはいまでもはっきり覚えています

 でも引き留めるわけでもなく、さよならを言うわけでもなく、私を送り出してくれました

 何故かはよくわからないけれど……嬉しかった」


レイは言葉を留めた

ミサトが静かに息を吐く

その眸はかすかに潤んでいた


リツコ…貴方も一歩踏み出せたのね

良かったわね、リツコ


「こうやって…」


ミサトは顔を上げてレイを見る

レイはマグカップを両手で包むように持ち、少し俯き加減にしていた


「こうやって、考えてみると、私は沢山の絆を築いてきた

 沢山の人に支えられてきた


 ……偶然でも運命でもなしに」


ミサトの表情が硬くなる

加持もタバコをくわえながら空を仰いでいた

「偶然でも運命でもない」レイの到達した一つの結論だった

この数週間の内にであった人々

それまでの数年間、人の姿さえまともに見なかった旅の中、断続的に現れ、レイに指標を残し、そして姿を消していった人々


偶然じゃない

運命でもない


思い返したとき、レイの頭に浮かぶ言葉は「必然」だった

記憶の中に確かに残る彼等の影

あの夢との重なりもレイの確信を深めた


ここにも、一つの鍵があるはず

森の人、冬月コウゾウ先生、冷たい森の女性、赤木リツコさん

…そして


「加持リョウジさん、葛城ミサトさん、貴方たちは…」


ミサトはレイと目を合わせることができなかった

紅い、射抜くような眸が二人を見つめた


「君は…」


加持が空から目を戻しレイの目を見て息を吐いた

紫煙が広がる


「君は何の為に旅をしているんだ?」

「えっ…?」

「君はもはや人の定めた枷の中にはいない

 『Goat for AZAZEL』

 人々の罪の贖罪のために荒野に放たれた山羊

 君は何を目指しているんだい?」

「…私は…」


心の中で何かが反応した

『Goat for AZAZEL』

旧約聖書に書かれた古代イスラエル人の契約

神に対して人々の贖罪の為に二頭の山羊をとり、片方を焼燔の犠牲、もう片方をアザゼルのために荒野へと解き放つというもの


「君はこの世界で贖罪のための解き放たれた山羊として歩み始めた

 だが今は違う

 そうじゃないのか?」

「そう、私は私の謎を、隠された記憶を呼び覚ますために旅を続けています」

「…でも、貴方はまだ二重の霞みの中を揺れ動いている」


ミサトの突然の言葉にレイは顔を上げる

さっきまで目を合わせられないでいたミサトがレイをしっかりと見つめ言葉を紡いだ


「貴方は夢を見始めたはずよね」

「!?」


ミサトの言葉がレイの心中を突いた


「何故…?」


話していないはずの事

わからないはずのこと

レイは緊張感に包まれた

危機的感覚とは違う

その中にはこれから示されることへの期待と恐怖が膨らんでいた


「さあ、何故なんでしょうね

 貴方とこうやって座って、会話をしていると、まるで全てが真実のように感じてしまう

 これも一つの妨げなのかもしれない」


ミサトは視線をそのままに、加持の手をしっかりと握った


「貴方はこの世界において、贖罪のために解き放たれた山羊、の道から外れた

 自分のために歩み始め、それを理解しようと歩き始めた

 この旅路を

 でも、貴方はまだ一つしか知らない

 いえ、まだ一つしか気づいていない

 何が幻で、何が真実なのかを」

「どういう………ことですか……?」

「貴方は、何処からが夢で、何処からが現実だと思う

 いえ、夢、というのは必ずしも適切ではないのかもしれない

 以前に、私の知る一人の少女が言っていた

 『夢、それは現実の続き、現実、それは夢の終わり』

 現実と夢との間には境目がない、って

 だから、貴方が今いる状況は夢と、現実の重なるところじゃない

 貴方の置かれる状況には、明らかな境目があるから」


レイの心は混乱していた

期待感や恐怖などはもはや意味を成さない

ミサトの紡ぐ言葉が、更なる謎を呼び、レイの謎への道を遠くしていっているように感じる

だが、一方でこれは近道なのかもしれない

いや、もしかしたら、自分はもっとも扉に近いところにいるのかもしれない

ただそれに気づいていないだけで

加持とミサトの言葉が、それを気づかせる鍵になっているのかもしれない、と


「私は、何をしたら……」

「経験したことは忘れないもの、それは必ず君の中にある

 そしてまだ気づいていないことは、必ず気づくことが出来る

 君は今たくさんのキーを持っているはずだ

 それをどうつなぎ合わせるかは、君しだいだよ」

「忘れないで、レイ

 全ては貴方の中にある

 全ては貴方しだいよ」

 
レイの中で何かが崩れていくような感じだった

一つの長い、長い道が

そして、その崩れた道の先に何かが見えたような気がした


「私には、まだわからない

 私には、まだ見えない

 でも、何かが…」

「いいの、焦らないで

 いま、この瞬間は無理かもしれない

 でも、貴方は確実に進んでいる

 だから、ゆっくりでいいのよ

 貴方の心が確かなものになるまでは」


レイは俯く

レイの思考の中ではいろいろなことが駆け巡っていた

夢、記憶の断片、言葉、人々、そして自分の中に在るモノ

俯くレイに、ミサトと加持は顔を見合わせ、それから明るく声をかけた


「さあ、今日はもう休みましょう

 明日はまた早いんだから」

「そうだな、じゃあ、今日は俺が外にいることにするよ

 明日は、途中までは一緒に歩けるだろうしな」

「……………」


レイは無言で頷く

ミサトが席を立ち、レイをテントの中に促す

その焦点は揺れていた

レイの中ではいろいろなことが浮かび、組み合わせようとしては消えていった

ミサトの手を握りながらテントの中に入る

その姿を見送ると加持が自分の分を残して椅子を畳み、火を消した

辺りに闇が戻る

すぐにテントの中に小さなランプが灯るが、零れてくる光は外の闇を押し退ける程ではない

加持は再び腰を下ろすと胸ポケットからタバコを一本取り出し、膝の上でトントンと数回叩いてから口にくわえた

ライターの炎が微かな音を立てて灯る

タバコに火をわけると一息深く吸い込み、大きく息を吐いた


「今日は、苦いな」


そう呟いて空を見上げた

空に紫煙が広がる中、テントの中のランプが消えミサトが姿を見せた

加持が片手で折りたたみの椅子を開き、隣に置く


「ありがと」


ミサトは静かに座った


「お休みなさい、だって

 強いわよね、私なら気が狂いそう」

「強いわけじゃないさ

 レイも一人の女の子なんだ

 支えはいる」

「そうね、そうよね」


ミサトは加持の肩に寄りかかった


「でも、私達はレイにこうやって寄り添ってあげられる存在にはなれないのよね」

「まあな…

 それが出来るのは一人しかいない

 俺たちは俺たちが出来る限りのことをするのが、今一番重要な役割だ

 それで、レイがもう一つの段階に進めるならそれが一番いい」


ミサトはやりきれない面持ちで加持の腕にすがった


「お前の優しすぎるところも好きだよ

 さあ、ミサトも休めよ

 明日には明日の役目がある

 俺たちの少しでもの贖罪が」


加持が優しく促すとミサトはその固い腕を解き、席を立つ


「おやすみ」

「ああ、おやすみ」


それから、ミサトはレイを起こさないように静かにテントに入っていった

見送る加持の手から、タバコの長くなった灰がポトリと落ちる

草原に一つの赤い小さな点

その持ち主はいつまでも夜空を見上げていた

月と会話をしているかのように








寝袋というものにくるまって、ランプも消えた真っ暗なテントの中、紅い眸は寝つけずにいた

ただ眠るふりをしていただけ

ミサトが自分を起こすことがないように静かに入ってきたのも知っていた

だが寝ているふりを通していた

その間、ずっと考えていたのだ

夢に落ちることもなく、眠気が襲うこともなく

身体を静かに横たえてはいたが、その頭の中はフルスピードで回転していた


もう少し

もう少しで光がさしそう

二重の霞、幻と真実

私は霞の中、二重の表層、幻の中にいる


疑う、という言葉は適切ではないかもしれない

けれど、いままでの出来事、森の中であの人にあった夜からミサトと加持に合うまでの数週間に限定して、様々なシーンを検証していく

鍵となるものはないか

不自然な片鱗を感じていないか

いまでは経験した数週間の体験が偶然などではなく、全てが必然だと思っていた

指標の移動、まるで導かれるように

人々との出会い、まるで自分が来るのを待っていたように

そして彼等がくれた言葉、それぞれがパズルのように絵柄を持っている

組み上げた先にどんな絵が見えるのか

レイの思考の中で隠されたピースを探していく

最初に森での出会い

森の人の姿を見た時、無意識に呟いた「司令」という称号

彼が語った、拘束とその無効化

そしてそれらの言葉全てが自らの進む道を変えたこと

その人が消えた道を歩んだすぐ後に始めての指標となる河を見つけたこと

河での出会い

冬月が言った、レイの行動次第で指標が変化しえるという言葉

そして「“青”は君の中にある」その言葉の意味

冷たい森での出来事

意識が朦朧とする中で見えた影、三つの声

そしてぼんやりとしかわからなかったがそれでもぬくもりを感じた人の姿

その雰囲気は誰かに似ていた

森の家での一日

リツコに抱きしめられたときの言葉

自分の中にある記憶の断片

そして加持とミサトの話

全てが一つに繋がると語っているような気がする

語られた言葉、出会ったもの全て、そして何気ない身近なもの

それら全てが導いてるような感じ

自分を、もう一つの何かへと

思案の海に落ち、神経をそこへと集中させていた

そんな中、記憶の探索がふと途切れた

思案の淵から上がった時、違和感に気付く

周りが全て闇に包まれていた

だが、それは夜を象徴するようなただの闇ではない

全てを覆い尽くすような濃い暗闇

光さえも飲みつくすような

何故か隣で寝ているはずのミサトのことは考えなかった

寝袋から出て暗闇の世界に立ち上がる

濃密な闇はまるで触れれば抵抗がありそうな程だ

闇を分けいって進む

幾許か歩くと目の前がぼんやりと明るくなっていった

その中心へと進む

この少しだけ明るい空間と外の闇とは完全にわかれることなく、混在していて輪郭のぼやけた部屋に入ったようだった

そしてこの部屋の真中に浮かぶものがある


「『死海文書』」


唇から零れた言葉は、思考の下に出たものではなかった

自らの口が放った言葉を聞いても、レイはその意味を理解できない

考えよう理解しようとするがそれは空回りしてしまう

だが、そんな頭の中とは裏腹に身体は宙空に浮かぶ本へと歩んだ

そこだけがはっきりと視認することができるように明るくなっている

本の外見はいかにも古そうなもので、いくつか崩れている部分がある

紙ではない、ということが判る程度の不思議な材質

表紙に文字はなく三角形に七つの目が描かれた紋章があった

神の許から出る七つの御言葉をあらわして

レイは手を伸ばして触れようとした

その瞬間、本の紋章が紅く浮かび上がり、独りでに表紙がめくられた

そして手を広げるレイのもとに本は移る

中には見たこともない不思議な文字が彫られており、その一つ一つが鮮やかさを持っていた

その文字は読むことが出来なかった

だがそれは、イメージとして内容をレイに伝達し始めた

莫大な量を、かつ人の脳機関が処理できないほどに高速で

それは真実というものだった


壊れる!


レイは叫ぶと本を閉じた










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