「少し痩せたかな?」
「そお?」

 修復中の零号機。そのスケジュールチェックにキーボードの上を踊っていた指が止まった。やっと来たのね。

「悲しい恋をしてるからだ……」
「どうして……そんな事がわかるの?」

 ゆっくりと締まっていく腕。こうなるとオペレーションの継続はムリ、とサスペンドのコマンドを落とし込む。すぐ横に迫っている男の息遣いを感じる。

「……それはね、涙の通り道にほくろのあるヒトは、一生泣き続ける運命にあるからだよ」

 相変わらずの悪い癖。耳元で囁くのは止めて欲しい。何年経っても覚えてる……この男。

「これから口説くつもり? ……でもダメよ。こわーいお姉さんが見ているわ」

 視線を前方に戻したリツコ。男も徐にリツコから離れて立ち上がるが、湛えた微笑を消すことはない。
 目の前のウィンドウに張り付くようにして二人を睨みつけているミサト。その目は完全に据わっている。鼻息も荒そうだ。

「お久しぶり。加持君」
「よっ、しばらく。やっと会えたな」
「加持君、アスカの随伴だったものね。先週私はテストテストで地下に潜りっぱなしで」
「そして俺は、今週松代に出っ張りっぱなしだったからな」
「しかし加持君も意外と迂闊ね……」
「こいつのバカは相変わらずなのよ」ミサトが大股で部屋に入ってくるや、加持を睨みつけ、吐き出すように言い放った。「あんた、弐号機の引き渡し済んだんなら、さっさと帰りなさいよ! と、辞令出たんだっけ……」
「今朝、正式な辞令が届いてね。ここに居続けだよ。また三人でつるめるなぁ、昔みたいに」
「だ、誰が、あんたなんかと――」

 突如、施設内が真っ赤に染まった。耳から頭の中に刺し込むような警報がけたたましく鳴り響く。

「敵襲!?」

 俄かに騒然となる発令所内。職員が続々と持ち場に就き、初動プロセスが組み立てられていく中、通信班よりの報告が流れる。

「警戒中の巡洋艦『はるな』より入電。『ワレ キイハントウオキニテ キョダイナ センコウブッタイヲ ハッケン データヲ オクル』」
「……受信データを照合。波長パターン、青! 使徒と確認」
「総員。第一種戦闘配置!」

 発令所に冬月副司令の声が響き渡った。
 この時、総司令碇ゲンドウは、旧世紀の栄光と挫折そして希望に象徴されるベルリンの空の下にいた。




「いい? 先の戦闘によって、第3新東京市の迎撃システムは大きなダメージを受け、現在までの復旧率は26%。実践における稼働率は0と言っていいわ。従って今回は、上陸直前の目標を水際で一気に叩く。初号機ならびに弐号機は交互に目標に対し波状攻撃。近接戦闘で行くわよ!」
「「了解」」

 使徒上陸予想地点へと空輸される初号機と弐号機。ミサトは移動指揮車から指示を飛ばす。

「あーあ。日本でのデビュー戦だっていうのに、どうしてあたし一人に任せてくれないの?」
「仕方ないよ……作戦なんだから」

 アスカ様は不満一杯のご様子……。なだめる様に声をかけたシンジだったが……。

「言っとくけど! くれぐれも足手まといになるようなことはしないでね!」
「うっうん」

 一渇され、あえなく引っ込むシンジ。

「なーんで、あんなのがパイロットに選ばれたの……」

 輸送機から切り離され、着地する両機。アンビリカルケーブルの接続プロセスに移行する。

「二人がかりなんて卑怯でやだなー。趣味じゃない……」
「私達は選ぶ余裕なんて無いのよ……生き残るための手段をね……」

 両機の遥か前方。ゆらりと海面が盛り上がるや飛沫が上がった。

「来た!」
「攻撃開始!」

 ミサトの声より早くアスカは反応していた。弐号機はターゲットに向かい躊躇なく駆け出している。

「じゃ、あたしから行くわ。援護してね!」
「えっ!? 援護?」
「レディファーストよお!」
「ちぇっ、後から来たくせに仕切んなよなー」

 文句を言いながらも、第7使徒に向け的確なタイミングでパレットガンを掃射するシンジ。海面から姿を現した地点に使徒を釘付けにするように弾幕を張った。怯んだかのように一瞬動きを止めた使徒に対し……アスカはその瞬間を見逃さなかった。

「いける」

 蒼い目が閃いた。恐ろしいほどの俊敏さで建物を踏み台のように跳ねるや、次の瞬間大きく跳んだ。

「だあああああ!」

 思いっきりタメを効かせて上段から振り下ろされたソニック・グレイブは、寸分違わず第7使徒の頭頂部に入った。腰を入れて一気に切り下げる。

「………お見事」

 まさしく電光石火の早業。真っ二つに割られた第7使徒を前にシンジは呆然とした。

(……やっぱすごい……どうしてあんな風に動けるんだろう)

「どうお? サードチルドレン。戦いは、常に無駄なく美しくよ」

 二つに割られた異形の生命体。絶命したかに見えたソレが小さく震えだすまでに、それほど時間は掛からなかった。割られた双方の体躯が身を捩じらせるような不気味な動きを始めたと思った次の瞬間、二体の第7使徒にその身を変えた。各々の体躯にコアが現れる。

「ああっ!」
「ええっ!?」
「なんて、インチキ!!」

 乾いた音を立ててミサトの握り締めていたヘッドセットが手の中で砕けた。




「あーダメ。こんなのやってたら第二波への作戦立案なんて到底出来ないわ。あと七日しかないんだもん」

 作戦局第一課執務室。デスクに山積された抗議文に被害報告書、更にはネルフ広報部からの苦情に請求書の類のサマライズだけでもと思い、二三のレターに目を通したミサトはすぐに萎えた。自慢ではないが、元々事務作業は得意な方ではない。が、これをそのままマコトに丸投げするわけにもいかない。
 責任者なんだから責任は取るわよ、などと独りごち、伸びをしながらリツコとお揃いのハイバックチェアに背中を預けた。

(……アスカはシンクロ率の高さからして単独でのパフォーマンスは抜群なんだけど……チームワークとなるとレイと同じ訳には行かない、か……でも第二波は七日後……建て直しの時間が稼げただけでも有り難いと思わなくちゃ。でもあの使徒を倒すとなると……)

 何気に天井に向けていた視線を、デスクの隅に置いてあったメディアに落とした。

「ったく、あのバカ。なーにが『マイハニーへ』よ……」
(……………ホントに……)
(…………もお……)
(……………)

(…………)


(……)



(…)



 あの時もそう

 いつだって
 あたしにヒントをくれる
 助けてくれるのね


 しばらくの間、そのメディアを掌で弄びつつも、穏やかな表情を浮かべながら、かの日に思いを馳せているミサト。徐にデスクの引き出しからマルチスロットのアダプタを取り出し、ラップトップに繋いだ。メディアを滑り込ませ、最初に『ようこそ、マイハニー』とネーミングされたテキストファイルを読み始めた。
 内容は簡潔に詳述され、コンセプト・目的・方法論共に理解しやすいものだ。同じメディアにストアされている音源に合わせた攻撃パターンを、双方のパイロットが習得する為のトレーニングカリキュラムで、キーワードは『ユニゾン』。ターゲットは、分離中の第7使徒のコアへの二機のエヴァによる二点同時の加重攻撃での殲滅。

(ふんふん、なるほど。流石は加持君ね。あの使徒のコアの特異性については、既に見切っていたわけね)

 そして、トレーニング手法としては……、とここで座礁した。

「なによ、コレ? ……ツイスターゲーム? ……んなわけ無いか……でもこんな物どっから調達すんのよ!?」

 ウチの購買部であれば可能かもしれない。困ったときの楠三佐に、アルピーヌの修理と一緒に相談しようか……などと、親指を顎にあて考え始めたその時、ミサトの携帯端末が鳴った。



「ヨオッ。やっと来たな」
「……ごめん、ちょっち迷っちゃったー。……これがそうね」

 技術開発部第3作業室。加持からの連絡を受けた後、施設内を激しく迷ったミサトが漸くその部屋に駆けつけるや、加持は笑顔を浮かべながらリモコンを操作した。
 一見すると、やはりツイスターゲームのように見える。だが二つ並んで置かれているマットの上にデザインされた13ものサークルが、音楽に合わせリズミカルに次から次へと点灯している。凝った構造だというのは、後方にセットされているLEDライティングシステムやPAシステムのスピーカースタンドを改造したような電光掲示板を見れば理解できる。一部のパーツについてはネルフの倉庫にバンドの機材を無断で保管しているシゲルから無理やり徴発したのかもしれない……。

「どうだ? オリエンテーションで説明されてるイメージ通りだろう。急ごしらえだけど、そこは開発局四課。かなり本格的なものを作ってくれたよ」
「……リツコね」
「ん?」
「リツコを巻き込んだのね……どおりであのメディア、リツコが持ってきたわけだわ……」
「そうだ。りっちゃんも心配してたからな、葛城の首をな。いいもんだろ。昔からの仲間ってヤツは」
「……どーだか。でもこのアイデアは有り難いわ。今度の使徒を倒すにはあなたも指摘した通りよ。二点同時の加重攻撃しかないと思う。そして、その為にはシンジ君とアスカの協調、そして完璧なユニゾンが必要だもの」
「ああ。シンクロ率と身体能力の高さにモノを言わせてスタンドプレーに走る傾向にあるアスカ。そしてそんなアスカに気圧され気味のシンジ君。先ずはお互いを認めるところからだろうが、丁度いい機会なんじゃないのか? シンジ君とレイちゃんとのチームワークは既に定評のあるところだろうから、このヤマを越えれば最強のトリオも期待出来るかもしれないじゃないか」
「確かにそうね。チームワークの基本は協調。このアイデアはその基本をメンテする為にも使えるわけね。……恩に着るわ、加持君」
「惚れ直した?」
「……ばか……でもお願いがあるの……」
「葛城の願いなら……何でも叶えて見せるさ」
「嬉しいわ。この機材、車に積み込むの手伝って」
「力仕事なら、バカ力の葛城ひとりでじゅうぶ――うぐっ」

 ミサトの見事な正拳突きが、これ以上ない角度とタイミングで加持のみぞおちに入った。

「しっつれいしちゃうわねー。こんなか弱いおねーさんがお願いしてんのにーって……あら、だいじょーぶ? かあるく突いたんだけどぉ……」
「ぐぐぐ……加減してくれよ……ヤサ男で通ってんだから、俺は……」
「あはは。ごめん……ちょっち、まともに入っちゃったかなぁ? ……でも、これ全部載るのかしら」
「……これでフルオプションの状態だが、なんだったらコントロールボードとマット、そしてヘッドセットだけでもトレーニングは可能だ。あとは言わばアクセサリーみたいなモンだからな。ただ、電光掲示板はモニタースピーカーを兼ねてるから、葛城がトレーニング内容を監督するんだったら必要だな」
「だったら全部持っていく必要有るわね。それにフルオプションの方がなんだか楽しそうだしぃ。得点も出そうだしぃ。そおだ、加持君も車出してよ。ねっ」
「いいけど、でも俺のロータスじゃあそれほど積めないぞ」
「何とかなるっしょ、二台もありゃ。じゃあ、早速」
「今からか? もう遅いんじゃないのか?」
「善は急げよ。今日の内にマンションの地下の納戸に入れておきたいのよ」
「へえへえ」




 第7使徒イスラフェルとの戦闘翌日。シンジはいつも通り学校に登校していた。
 使徒との戦闘時は勿論、本部での訓練やテストなどのパイロットとしての職務により、チルドレンの出席率は他の生徒に比べるとどうしても低くなってしまう。だが、学校での勉学も彼らの本分とされている以上、いかに世界の命運をかけたパイロットとは言え、戦闘の翌日でさえ理由なく学校を休む事は無い。またシンジなりに気に掛かる事があるのも事実だった。

(……綾波、やっぱり今日も休んでた。一昨日、ネルフに運び込まれたばかりだから、今日は学校には来ないとは思ってたけど……)
(……どうなんだろ? 具合は……。昨日、本部でミサトさんに経過を聞こうと思ってたんだけど、戦闘後の緊急招集で惣流と一緒に別室に呼び出されていたからなあ……)
(………………………)
(…………………)
(………………………)
(……綾波、ごめん……負けちゃったよ。強くなって綾波を守るんだ、なんて言ったけど……こんなんじゃダメだよね……僕って、本当にダメだ……)
(……でも……六日後の決戦では絶対勝つよ……絶対に今の綾波に出撃命令なんか出させない……どんな事があっても)
(………ただ、綾波の時とは違うんだ………惣流とは何か合わないんだ……でも、あと六日しかないんだ。何とかしなくちゃ……)
(……惣流も今日、学校を休んでたけど……やっぱりショックだったのかなぁ)

 どっぷりと思考の海に浸りながら、学校からコンフォート17への道を一人トボトボと歩いている。
 第7使徒との交戦結果がケンスケから伝えられていたからだろう。今日は級友たちがシンジに気を遣っているのがわかった。しかも、綾波に惣流、二名のエヴァパイロットが学校を休んでいるのだ。沈殿する空気。ややもすると教室内に影が差しこんでくる。かのトウジでさえ、あんじょうしいや、とだけ声をかけて帰っていった。
 委員長もなんか言いたげだったなぁ、などと思い起こしているとコンフォート17の前まで来ていた。

「ただいまーって言ったって…誰もいない、か」

 なんだか廊下が狭いと思ったら、引越用のカートンが廊下の左側に積み上げられている。以前見たミサトの荷物が詰まっていたカートンと違うなぁ、などと思いながら自分の部屋を開けて、シンジは本当にたまげた。部屋の中も廊下と同じカートンで埋め尽くされていたからだ。

「なっな…なんだこれ!」
「しっつれいねー。あたしの荷物よ」

 ソコにいるのは、紛れもない惣流・アスカ・ラングレー。
 いつも通りの高飛車、もといエネルギッシュな態度に言葉、そして格好。

「えっ、な何で惣流がココにいるんだよ」
「あんたこそまだ居たの?」
「まだって……」
「あんた、今日からお払い箱よ。ミサトはあたしと暮らすの。まーどっちが優秀かを考えれば、当然の選択よね」憎まれ口を叩きつつも、加持の事になるとコロッと態度も表情も豹変する「……ホントは加持さんと一緒のほうがいいんだけど」
「うっ……」
「しっかしどうして日本の部屋ってこう狭いのかしら。荷物が半分も入らないじゃなーい」

 何気に廊下の先に視線を移したシンジは、憐れ……自分の荷物がダンボール一個に無造作に放り込まれているのを廊下の隅に発見した。

「ああーあっ!」

 そのダンボールを抱きかかえるシンジは涙目になっていた。その状況を歯牙にもかけず、アスカ様は強制占有した部屋の襖を開閉させながら独りごちている。

「おまけに、どうしてこう日本人って危機感が足りないのかしら。よくこんな鍵のない部屋で暮らせるわねー。信じられない」
「日本人の身上は、察しと思いやりだからよ」

 いつのまに帰ってきたのか、ミサトがアスカの横に立っている。なにやら荷物を抱えて。

「「ミサト」さん」
「おかえりなさーい。早速上手くやってるじゃない」
「「何が?」ですか?」
「今後の作戦準備」
「「どうして?」」

 うんうん、ふたりとも綺麗にユニゾってる。ちょっち幸先いいじゃないー、と心の中で呟いた。




「あら、ミサト。どう? 上手くいってる? 副司令がヤキモキしてるわよ。あなたから報告が無いんでベルリンにいる碇司令に何も言えんって」
「あー言わないで、リツコ。思った以上に大変だったわ、あの二人を協調させるのは……」

 リツコは端末を左肩で挟みながら、淹れたてのコーヒーをマグカップに注いだ。砂糖もミルクも入れずにそのままカップを口に運ぶ。

「その為のトレーニングでしょ。どこまで進んだの?」
「それがね……まだ第一ステップもクリア出来てないのよ」
「それホント? アスカがあなたの家に引越して、もう三日経ってる筈よね」
「そのアスカが特にね……シンジ君に合わせてパフォーマンスの低い動きをするのはプライドが許さないみたいなのよ。シンジ君はシンジ君でアスカ並みの動きを期待できないんで第一ステップからトレーニングを始めてんだけど、三日経てど、てんでばらばらの状態………頭が痛いわ」
「副司令が聞いたら卒倒するわね」
「ああーだから言わないでぇ、それを。それでリツコ、相談なんだけど。明日レイは本部に来る?」
「ええ。学校には昨日から行ってる筈だけど、明日の午前中は技術開発部での定期健診を予定しているわ」
「なら、午後連れ出してもいい?」
「いいわよ。ミサトん家ね。レイとシンジ君のユニゾンはいい刺激になると思うわ。アスカの反応は読めないけど。それに……」
「それに? ……何よ?」
「……あなただから言うけど、多分シンジ君のこと気にしてると思うわ。ミサトの家で何をやっているかは話してあるけど、学校でも会えてないしね」




「レイ、ご苦労様。今日はコレで終わりよ」
「はい」
「今週の本部でのスケジュールはこれで終了ね。明々後日の決戦日は本部で待機して貰うことになるけど、大深度地下施設でのテストは司令が帰ってくる来週からの予定だから、それまではゆっくりと休んで頂戴」
「はい」

 午前中に技術開発部での定期健診を終えたレイは、職員食堂に足を向けた。
 レイが食堂で食事を摂るようになったのは最近になってからのことだ。それまでは、ゲンドウに誘われたときを除いては、業務の手順の一つを踏むように、ロッカールームやレストコーナーで固形栄養食品で済ます事が多かった。ところが、先日シンジからアドバイスを受けて以来、時間に余裕が無いときを除いては、ネルフでは職員食堂に向かい、学校には昼食として以前シンジが選んでくれたサンドイッチを登校途中にコンビニで買っていくのが日課となっていた。



(んー、もう来てる筈よね。えーと、どこだ?)

 トレーに竜田揚げと少し控えめに『えびちゅ』350ml缶を1本載せたミサトが、食堂内を見回している。お昼どき真っ只中ということもあり、広大なこの職員食堂もそれなりの賑わいを見せてはいるが、空色の髪の少女を見つけ出す事はさほど難しい事ではなかった。

 その少女に近づいていく人影を視界に認め、とろろをかき混ぜる手を止めた一人の男。それがミサトだと認めるや、意識を戻し、とろろを豪快に麦ご飯にかけた。

「レイ」

 言葉に反応して、徐に上げられた顔に表情は見られない。深紅の瞳が放つ射るような視線は相変わらずだと思った。

「どう? 身体の調子は」
「問題ありません……。葛城一尉」
「そう……よかったわね」

 ミサトはにっこりとレイに微笑みかけた。

(……葛城一尉……作戦局第一課課長……エヴァパイロットの戦闘指揮官……)
(……私のことを解っている、よく知っている気がする……)
(……今の表情……嬉しいときの笑顔? ……)
(……この気持ち、嫌じゃない……)

 ミサトはレイの中に微かに和らいだ雰囲気を見出すと、レイの向かい側の席に腰を落ち着けた。『えびちゅ』のプルトップを引く。
 お昼どき、他の職員の目もあるので、自宅にいる時のような飲み方はしない。チビチビと竜田揚げを肴に飲みつつ、穏やかな表情を浮かべながらレイを見ている。目の前に座っている少女は夏野菜のカレーライスを口に運んでいたが、体躯がかなり華奢なだけにキチンと食事をしている姿を見ると心底ホッとする。

(……そういえば、最近まで食堂でレイを見かけたことは無かったわね……でも、いいことだわ……)
(……ほんとうに綺麗な子……でもなんか、年の離れた妹を見ているって感じなのよね……)

「レイ」
「……はい」
「今日、午後から予定ある?」
「いえ、特にありません」

 命令という形にしたくなかったので、思わず心の中で、ヨシ! と呟いた。

「そう。じゃ、午後からちょっちおねーさんに付き合ってもらいたいんだけど、いい?」
「……?……」

 スプーンを宙に漂わせながら小さく首を傾げる仕草を見せたレイに、話した内容が伝わらなかったと反省。言い方を変えてみる。

「……リツコから聞いてると思うんだけど、今シンジ君とアスカがあたしの家で泊まりがけで訓練してるの。訓練の内容は、自己修復中の使徒を倒すために考え出されたものなんだけど、協調による完璧なユニゾンを完成させるのが目的なの。ただ成果が今ひとつ芳しく無くてね……。シンジ君とピッタリ息の合うレイにも一度見て欲しいのよ」
「問題ありません」

(あっちゃー、命令だと思ってるわね…こりゃ……)
「ありがと。レイが来たらシンジ君も喜ぶと思うわ」
「………」

(……ふ〜ん、やっぱシンちゃんの話になると少し優しげな表情になるんだ………可愛いじゃない)



「それで、少しは本部にも慣れましたか?」
「いやあ、ぼちぼちといった所ですか。なにぶん第3支部と勝手が違う所だらけで、戸惑いを覚えるシチュエーションが多いってのが正直なところです」
「便利すぎるんでしょう、こちらは。ヨーロッパに比べるとね。勿論、一事が万事、流れるスピードも違います。が、こればかりは勘を取り戻してもらう他ありません。まあ今のペースでリハビリを進めていってください。そして、先日もお話しましたが本部職員の顔を覚えていってください。これはあなたの職責柄MUSTではありますが」
「解りました、楠三佐。……ところで、先日の引継ぎでもお聞きしましたが、ウチの部の構成としては部長代理としての三佐、そして私の二名で当面変更は無い、との理解で宜しいですね?」
「ええ。特に予定してませんが、何か有りますか?」
「申し上げにくいのですが、三佐は正式には総務局第三課長としてアサインされ、同四課そして管理局第四課まで預かっておられる。つまり、私達が今いるこの職員食堂の運営まで所轄しておられるとの理解ですが―」
「それで特殊監査部の管理職責まで手が回るか、という素朴な疑問ですね」
「はい。先週内示を頂いてから、引継ぎを受け、私なりに部員としての準備は進めてきた積もりですので、そろそろ具体的なターゲットなど、何らかのご指示を頂くタイミングだと思っています。実質的な業務遂行は私単独によるものと理解はしておりますが……」
「尤もな話です。部としての行動指針は先日の打ち合わせの際に述べたとおりですが、具体的なターゲット、それにかかわるスケジュールというものは現時点では特段存在していません。なにぶん特殊な性格の部署でもあり、業務予算といった類のものもありません。我々の初動への動機となるリソースは問いませんが、基本的なスタンスとして職務執行に従事している職員の動きに注意を払って頂く必要はあります。内部統制や法令順守という側面からその職務執行が適正であるかどうかの定規にかけ、適正でないと思われる部署・個人・イベントについてターゲットを策定する。初動プロセスとしてはこのようなものだと理解していただけますか」
「はい」
「だからこそ、前回の打ち合わせでもお願いした通り、先ずは本部に慣れ、職員の顔を覚えて貰う必要があるのです」

(……泳いでろってことか……)



「…………解りました」

 加持は箸を再び動かし始め、思考を切り替えた。改めて周りを見回してみる。広大な食堂だと思った。第3支部も職員数に併せてそれなりの規模だったが、ココは桁違いだな…などと思っていると、右斜め前方の少し離れた席にいる見慣れた姿が飛び込んできた。

(葛城……とレイちゃんか……。なんだアイツ、レイちゃんを肴に飲んでんのか? ……オイオイ、まだ昼間だぞ)

 そう思いながらも、穏やかな笑顔を湛えてレイを見ているミサトに、次第にその気持ちも和んでくる。

(……少し年の離れた姉妹みたいな、いい情景じゃないか……)

「作戦課長さんの二列向こうに、グレーのジャケットを着た男が座ってますよね」

 突然の言葉に驚き、目前の男に意識を戻した。楠はその姿勢を変えず、幕の内弁当をつついている。

(……俺の視線を追っていたのか)

「彼は二課の人間ですよ。ガード作業班ですがね」

 目だけでそちらに視線を流すと、確かにその男を認めることが出来た。麦とろろを豪快にかき込んでいる。

「ファーストチルドレン担当……てことですか」
「そうです。そして彼らもまた我々が重点的に視察すべき対象であるといえます」
「彼らの分掌は要人警護との認識ですが……」
「だからこそ重要なのです。特にチルドレンはネルフにとって、生命線そのものと言っても過言ではありません。彼らがいないとさしもの決戦兵器も動かないんですからね。職務執行そしてその報告が適正に為されているか、そこに公で無い意志が働くことがあってはならないのです」
「……そのような事実があるという事なのでしょうか?」

 少し身を乗り出し小声になった加持に対し、楠はそれを遮るように静かに箸をおいた。

「そろそろ行きましょうか。あなたは明日と明後日は非番だ。続きは別室でお話しましょう。一課の皆さんへのサービスはこれ位で十分でしょう」

 トレーを持って立ち上がった楠に続く加持。再びミサト達の方に顔を向けてみた。ミサトは何やら楽しそうにレイに話しかけている。その向こうに座っていた筈の男の姿は消えていた。




「しかしー、シンジのヤツ、どないしたんやろ?」
「学校休んでもう三日か……」

 トウジとケンスケはコンフォート17のエレベーターの中にいた。前回の使徒戦の結果が芳しくなかったと聞き、そっとしておこうと申し合わせたのも束の間、三日も学校を休まれるとさすがに心配になってきた。結果、どちらからとも無く見舞いに行こうということになったのだ。
 滑らかに上昇するエレベーター。目的のフロアに到着し、静かに扉が開く。エレベーターホールに降りると、ほぼ同じタイミングで隣のエレベーターから降りてきた人影に少なからず驚いた。委員長のヒカリだった。

「あれ!? イインチョやんか」
「三バカトリオの二人……」
「なんでイインチョがココにおるんや?」
「惣流さんのお見舞い。あなた達こそ、どうしてココに?」
「碇君のお見舞いー」

   (((……???……)))

 お互いの姿を見た時から予感めいたものがあったのかもしれない。互いの言葉を咀嚼しつつ、釈然としない思いで歩を進める三人は、果たして同じ部屋の前でその足を止めた。

「「「なんでココで止まるの?」」」

 疑念は確信へと変わった。三人一緒にインターフォンのボタンを押し込む。

「「はーい」」
「「「ん?」」」

 ハモってる!?

 エアロックがリリースされ、ドアが開く。と、ソコには何とペアルックの衣装を着たシンジとアスカが立っていた。
 驚きのリアクションのまま固まったのは二人の少年。そして少女はぷるぷると震え始めた。

「う、裏切りモン〜」
「またしても……、いまどきペアルック……イヤーンな感じ」
「「こ、これは……に、日本人は形から入るものだって、無理やりミサトさんがー」」

 そしてヒカリが激しくキレた。

「フ、フケツよっ!! 二人とも!」
「「誤解だよ」だわ!」
「ゴカイもロッカイもないわ!」
「あら、いらっしゃい」
「「「「ミサトさん!」」」」全員が顔を向けた先には、にこやかな表情を浮かべたミサト。隣にはレイが立っている。

 ヒカリが取り乱すほどに大きく誤解された二人は、戸惑う以上に面白くなかった。そもそもこの衣装がいけないのだ。協調が重要なのは解るし、目標が完璧なユニゾンだということも了解した。が、なんでこの衣装なのだ。なんでペアルックなのだ。友人たちにあれこれ言い訳しているうちに、自分でも訳が分からなくなってきた。アスカなどは爆裂一歩手前の感情を辛うじて抑えつつも、強い光を湛えたその蒼い視線を叩きつけるようにミサトに向けている。兎にも角にも、この事態を収拾するには、仕掛けた張本人に説明してもらうしかない。

「これは、どーいう事か説明してください」
「みんなよく来たわねー。まっ、あがって。中で話すわ」
「はあ……」

 ぞろぞろとミサトの部屋に入っていく友人たち。が、皆一様に釈然としない表情を浮かべている。ヒカリなどはまだ両手で顔を覆ったままだ。

「さ、レイも……」

 しばらくみんなの遣り取りを黙って見ていたレイだったが、ミサトに促されると玄関に入っていった。中では一転変わって明るい表情のシンジが出迎えるように立っている。

(……綾波、いつもと同じに見える……もう大丈夫なのかな? ……)

 そんなシンジの前を、顔を向ける素振りすら見せず通り過ぎようとするレイ。

「……あ、綾波?」
「………何?」

 シンジに向けられる深紅の瞳。どんな些細な嘘も見抜かれてしまうような、射るような視線。この感じ。シンジにとって、いまだ記憶に新しいものだった。かつて感じていた冷たさを敏感に感じ取ると、シンジは条件反射的に顔を俯かせた。

「……い、いや…ご、ごめん……」
「……………」

 そんなシンジの様子を見ていたアスカは、もはや臨界点寸前にまで感情を昂ぶらせていた。
 事の始まりは、日本でのデビュー戦とも言える第7使徒戦で喫した思わぬ敗北からだ。そして、決戦に向けてパフォーマンスの劣るパートナーとの三日間にも亘るトレーニングでも全くといっていいほど成果を出せていない。更には在ろう事か、このペアルックにより親友にまで心外な誤解を受けてしまったのである。
 エリートパイロットとして、これほどプライドを傷つけられたことは無い。そしてトドメがこれだ。そのパートナーは、今ひとつ自分と相性の良くないもう一人のパイロットの顔色ばかりを伺っているという、全てがネガティブに振れているこの状況。

(なによ! ファーストの態度一つで信号機みたく反応しまくっちゃって! …くぉの、バカシンジがっ!!)

 そんな人間模様を意思のこもった目で静かに観察していたミサトだったが、何かを思いついたかのようにリビングルームに急ぎ足で向かった。大掛かりなトレーニングマシーンを興味深げに観察している子供たちを尻目に、一足先にテーブルについているレイに本部から持ってきたハードコピーを手渡した。

「レイ」
「はい」
「これ、トレーニングマニュアル。読んでてね」
「……はい」

(……レイにはイキナリで悪いけど、閉塞状況に陥っている二人への刺激と、もう一つ……確認させて貰うわ)


「なるほどねぇ……そりゃ難儀やなぁ……そうならそうと、早よゆうてくれたら良かったのにー」
「で、ユニゾンは上手くいってるんですかぁ?」
「それは見ての通りなの……」

 ミサトの言葉に続いて鳴り響くエラーのブザー。
 がっくりとうな垂れる子供たち。レイだけが超然とした様子でマニュアルに目を通している。幾度繰り返せど、スタートしてから一分も続かずエラーメッセージと共にブザーが鳴り響く。初級パターンさえクリア出来ていないのは明らかで、これで合宿三日目なのかという思いに子供たちの気分も重く深く沈んでいった。滅びの刻は近いのか……。

(もう、もう、限界よ!! なんだってんのよ!!)

 トレーニングを再開する前から既にメルトダウンへのカウントダウンは始まっていた。ここにきて更に衆人環視の中で屈辱を味わうに至り、ついにアスカは切れた。ヘッドセットをどこへともなしに投げつける。一様に驚く子供たち。レイだけは黙々とマニュアルを読んでいる。

「当ったり前じゃない! このシンジにあわせてレベル下げるなんて、上手くいくわけないわ! どだい無理な話なのよ!」

 ミサトにとっては想定内。落ち着き払った声で問いかけた。

「じゃあ、止めとく?」
「他に人、いないんでしょう!?」
「……レイ」
「はい」
「やってみて」
「はい」

 想定外の事を言いだしたミサトに一同驚いたが、それを受けて平然と立ちあがったレイにはもっと驚いた。
 そんな中、アスカからの一方的な恫喝を浴びせられ、肩を落とし冴えない表情を浮かべていたシンジだったが、ヘッドセットを手にマットに上がったレイにその意識を覚醒させた。半身をシンジに向け、深紅の瞳がシンジを一瞥する。何故か先程とは異なる淡い視線。そして、その眼差しからいつものレイを感じ取ったシンジ。緊張感が薄れていく。麻痺を解かれたかのように、心の底辺で穏やかに流れていた感覚が持ち上がってきた。
 ヘッドセットを装着するレイ。それを横目で見届けたシンジが前方を見据えるや、間髪入れずピピッという電子音が鳴り響き、音楽が始まった。最初のサークルが光る。
 シンジとレイのデモンストレーションは、一同を三度驚かせた。子供たちから感嘆の声が漏れる。二人のステップはスムースで全く淀みがない。互いの動きに注意を払っている様子など見られないが、タイミングのズレどころか、手足を繰り出す速さやその強弱までが同一のように見えた。

(……なんでだろう……綾波の動きが手に取るようにわかる……)
(……身体がひとりでに動くようだ……気持ちいい……こんなに簡単だったんだ……)

 二人のステップは完璧なユニゾンのラインを織り成し、第一ステップを終了。第二ステップの開始を告げる電子音が鳴ったその時、ヘッドセットが剥げるかと思うほどの大声が飛び込んできた。アスカだ。

「もうイヤッ! やってられないわ!」

 慌ててそちらに顔を向けるシンジ。開け放ったドアの向こうに消えていくアスカの紅い髪の毛が見えた。直後に激しくドアを閉める音が響いた。

「アスカっ!」
「鬼の目えにも泪や……」

 ヘッドセットを外して呆然とするシンジは、何が起こったのかまだ理解できない。エラーのブザーが鳴り響き、その音にレイも動きを止めた。
 ヒカリがズズズっと肩を怒らせている。

「い〜か〜り〜く〜ん〜」
「……???……」
「追いかけて! 女の子泣かせたのよ! 責任取りなさいよ!」

(へ? 惣流、泣いてたの? なんで?? ……)

 何も事実認定できない頭を抱えながらも、命令には条件反射的に従ってしまうシンジ。レイを一瞥した後、慌しく部屋を飛び出した。そしてその背中を見送るレイ。シンジが部屋を出ていった後も、なお開け放たれた廊下に無表情に視線を留めている。ミサトはそんなレイを静かに見つめていた。

(……結果は予想通り、か……)

「はー、ほんだら、ワイらもこの辺で失礼しょうか。状況もあんじょう解ったよってな……で、イインチョはどうすんねん?」
「わたし、アスカを待ってる」
「ほうか。ほな、ケンスケ、去のか」
「………」
「ケンスケ? ……どないしてん?」

 ケンスケは落ち込んでいた。迂闊さ……いや、タイミングを得ることができなかった自身の不運を目の当たりにして。
 今日に限っていつも持ち歩いている小型のデジカメを忘れてしまったのだ。まさかアスカがシンジと一緒にいるとは夢にも思わなかったし、さらにレイまでこの場に現れるとは想像だにしなかった。しかもコスプレもどきのあの衣装を身に纏ったアスカ。そんな彼女が部屋から出て行くときの悲しげな表情も貴重なカットになっていたであろう。
 そして、レイだ。あのデモのときに垣間見せた表情は、先週シンジに話しかけていたときと同様に、微かではあるが優しげなものだった。とんでもないチャンスを見逃してしまった。企画モノに使えたかもしれない。逃がした魚は大きいというのはこのことか。だが、流石にビデオカメラは回せなかった。命が惜しいのは当然のこととして、今後の事を考えるとあまり露骨な事は避けたほうが賢明なのだ。
 浮かんでくるのは、包括契約を結んでいる屈託の無い顧客、もとい少年達の顔。ケンスケは心の中で彼らに詫びた。




「セカンドチルドレン、出てきました」
「了解」
「長門にてトラッキングします。杉一尉はサードの監視で現状維持――」
「いやいい。もう現着するんで、俺がトラッキングするよ」
「えっ? 課長が、ですか?」
「ああ。まだセカンドの専任者をアサインしてなかったからな。取り敢えず今セカンドを捕捉したので、このままトラッキングに入るよ。君たちは引き続きサードの監視を頼むよ」
「了解しました」

 無線を切ったのと同じタイミングで、シンジがコンフォート17を飛び出してきた。周りを見回している。

「シンジ君も……これまた奇抜なカッコをさせられてるんだな……」
「でも、思ったよりやるわね、彼……。アスカちゃんとペアルックじゃない」
「三日後に迫った決戦に備えてのトレーニングだと聞いてたんだけど……そのユニフォームなのかなぁ? ……コスプレっぽいけど」
「それで、アスカちゃんが思いつめた顔をして出てきて、シンジ君が追いかけて来たって事は……何かあったのね、あの二人。うーん、あとに残されたレイちゃんはちょっと複雑ね……」
「解らん……レイと一番あったのかも知れん。なんてったってココにレイを連れてきたのは作戦のプロなんだからな」
「……ビックリした……香取さん、居たんですね」
「爆睡してて悪かったな……シンジ君のトラッキングだろ? 俺はココで降りるよ」

 プジョーの後部座席から降りると、少し伸びをしてからタバコをくわえた。

「では香取一尉、後ほど。失礼します」
「ああ……」
「では、失礼します……あっ、香取さん、レイちゃんもあのカッコしてたら写真とっておいてくださいね」
「…………」




「二人ともすごいわ! あと残すところ最終ステップよ!」

 先の一件を契機としてアスカは変わった。
 ミサトとレイを見返すといういささか不純な動機。それを起点として、これまで蓄積された爆発的な怒りが、その動機を完遂するためのエネルギーとして昇華された事実。それこそが、ミサトによるこの作戦の目的に相違なかった。
 今やシンジとアスカは相対的存在として認め合い、互いの動きを常に意識下に置いていた。その上で、あれほど拒絶していた初級パターンでさえ、アスカは全身全霊で取り組んだ。その身体能力の高さ故に知らずリズムが走り出すと、シンジに強く意識を傾け、自らにリミッターをかけるように動きを制御する。物心がついた時より、常にベストを尽くし最良の結果を得る事が信条だった。これまで持ち得なかった経験則故に、他者との協和を図りつつ、自身を制御する事の難しさを噛みしめる事となったアスカだった。だが、そこは努力と根性のセカンドチルドレン。生来の身体能力の高さも手伝い、すぐに絶妙のバランス感覚を以って、自らを制御下に置けるようになっていった。そして、シンジはそんなアスカの動きから眼を離すことなく、同調をプライオリティに必死の動きで応えようとした。シンジが苦手なパターンでもたつきそうになると、アスカの蒼く強い視線がシンジをリードするように煌めく。それに応えるように自らを鞭打つシンジ。そうした彼らの不断の努力は、その相互協調を高いレベルへと徐々に引き上げることとなった。
 各ステップにおいて次々とユニゾンのラインを織り成してきた彼らは、このトレーニングの天王山とも言うべき最終ステップを踏み、決戦における攻撃パターンの完成は目前に迫っていた。

 そして、決戦日を翌日に控えた10月10日。午前中にカリキュラムを二回、午後からは夕食をはさんで四回通してのミサトからの概評は、ユニゾンはほぼ完成。攻撃パターンの習得においても及第点に至った。

「どお、シンジ? 完璧でしょ!? あたしがちょーっと本気になるとこんなもんよ。まーあんたも良くここまで付いて来たけどね」

 ニコッと屈託の無い笑顔をシンジに向けるアスカ。エリートパイロットとして取り戻したプライドが、尚一層アスカの笑顔を輝かせている。一般の男子なら間違いなく下僕化してしまうような笑顔だ。つられるように笑顔を浮かべるシンジ。

(やっぱ、惣流は凄いよ。ただ運動神経がいいってことだけじゃないんだ………でも、何より機嫌が良くなってよかった……ホントに)

「さーて、これで明日の決戦への準備は万端。いい汗かいたし、先にお風呂入らせてもらうわね」
「う、うん」

 この上なく上機嫌。お風呂場に向かう足取りも軽いアスカ。脱衣所からは衣擦れの音に混じって鼻歌まで聞こえてきた。そんな情景を腕を組みながら温かい表情でミサトが見つめている。

(アスカはこれでOKね。あとは……)

「じゃ、シンちゃん。あたしは今からネルフに戻らないといけないから」
「えっ、今からですか?」
「そっ。明日の準備よ。ネルフについたら状況確認して連絡するけど、多分帰れないと思うわ」
「………そおですか」
「なぁに〜、シンちゃん。寂しいの〜? なんてったって今週はずっと三人仲良く川の字になって寝てたんだもんねー。でも、二人っきりになったからってアスカに悪い事しちゃダメよ」
「そんな危険な事しないですよ……僕も命は惜しいですから……」
「いい心がけだわ……レイが悲しむもんね」
「ちょっ、またぁー。なんでソコであ綾波なんですか!?」
「やーねぇ。毎度毎度律儀に反応するんだからー、シンちゃんたら。赤い顔しちゃってカワイイわ」
「も、もうっ。出かけるんなら早く出かけたほうがいいんじゃないですか、ミサトさん」
「あーはいはい。あっ、でも、あのユニゾンのトレーニングマシーンについて、ちょっち説明しておくわ。セルフトレーニングモードにもなんのよー。不安がある部分は自習できんのよ。覚えててねん、シンちゃん」



「ミサトは?」

 湯煙を纏いつつ、バスタオルで髪を梳くように拭っているアスカ。入浴前と変わらない機嫌の良さは口調でわかる。
 シンジは、S−DATを聞きつつパラパラと雑誌に目を通している。

「仕事。今夜は徹夜だって、さっき電話が―」
「じゃあ、今夜は二人っきりってわけね」

 明るく言い放つや、リビングに敷かれていた自分の布団を抱えて隣の部屋に移動した。

「これは決して崩れることのないジェリコの壁。この壁をちょっとでも越えたら死刑よ。子供は夜更かししないで寝なさい!」

 呆気に取られるシンジを尻目に、ピシャリと閉じられる襖。

(……なんなんだよ、一体………まあいいけど……それにしても寝るにはまだ早いだろ……)

 この二日間、シンジはまともに睡眠を取れていなかった。
 一昨日アスカが奮起して以来、必然的にシンジはアスカ以上の努力が求められる事となった。パートナーの動きに常に意識を注いでおかなければならないこのトレーニングは、体力の消耗以上に精神面においての負担が大きく、失敗した際のアスカの罵声も含め、長時間に亘り過酷なまでの緊張を強いられる結果となった。自律神経の失調が、ホメオスタシスの維持に干渉しているかも知れない。加えて決戦を翌日に控え、その緊張感はピークに達しているといっても過言ではない。しかし、早々に消灯したアスカに逆い雑誌などを読んでいると、後々何を言われるかわかったものではない。詰まるところ、シンジにはS−DATを聴きながら眠りの精の訪れを待つしかなかった。
 S−DATの作動音のみが小さく聞こえる暗闇の中で、時計の秒針の奏でるリズムが浮かびあがってくるようだ。どの位時間が経ったのだろうか、何の予兆も無く隣の襖がスッと開いた。条件反射的に寝ているフリをするシンジ。ばれたかな、とも思ったが、アスカは一直線に洗面所に歩いていく。足取りからすると、少し寝ぼけているのかもしれない。しばらくして水洗の音に続き、洗面所のドアが開く。ゆっくりと足音が近づいてくる。やがてそれが頭の上を通り過ぎたと思った次の瞬間、バサッという音に続いて、柔らかな風がシンジの前髪を揺らした。

(……な…んだ? ……)




         !



 シンジは目を見開いた。

 すぐ目の前にはアスカの寝顔。何気に下げた視線の先には、半ばはだけた胸。アスカはそんな状態でシンジに寄り添うように横たわっていた。状況を理解するに従い、二次曲線的に心拍数が上昇する。

 起きているときからは考えられないほどに清楚な顔をしている……。シンジの中でゆっくりと溶けていくジェリコという名の理性の壁。それを破ったのは、他でもない惣流の方なんだ……、などと説得力の無い言い訳を虚ろな頭に浮かべながら、シンジはゆっくりと顔を寄せていった。少しずつ近づいてくるアスカの寝顔。2センチ…1センチ…いま、というところで、その口が僅かに開いた。

「……マ…マ」

 零れ落ちる涙は、アスカの寝顔を清楚なものから無垢なものへと、変えた。

 途轍もなくイケナイ事をしているという思いに囚われた。
 急速に膨張していく自己嫌悪の思いに追われるように、自分の布団から這い出した。

(……僕は…僕は、何をしてるんだ……何を……)

 アスカの布団には入れない。アスカの残り香にまたオカシな気分にならないとも限らない。結局、部屋の片隅に横になるしかなかった。
 なんでこんな事になるんだろう……。越境したのは惣流の方なのに……。

「……自分だって子どもの癖に」

 アスカの寝姿が視界に入らないように頭から布団をしっかり被った。鼓動の高まりはまだ収まりそうになかった。


 あれから、どれ位の時間が経ったんだろうか。いまだ高揚した意識が弛緩する様子もなく、依然冴え渡る頭の中。一向に眠りの精はシンジに訪れる様子は無かった。
 溜息を一つつくと、シンジは無理に眠ろうとするのをやめた。
 イメージトレーニングのつもりで、これまでの訓練内容を思い返してみる。
 あの一件でアスカが奮起してから、ユニゾンは格段に良くなったと思う。お互いに協調を意識し、相手の動きに注意を払うようになった。あれほど自分のペースに妥協しなかったアスカがシンジに合わせようとしているのが良く解ったし、そんなアスカに応えるためにも、シンジも持てる力を全て出し尽くすほどに精一杯頑張れていると思う。そんな二人の歩み寄りが、着実にユニゾンのラインを生みだしていくようになったのだ。そして、結果としてミサトから与えられた及第点という評価。

(……でも……)

 レイとのユニゾンを思い起こしてみる。
 隣に並ぶだけで感じる心地良さは以前からあった不思議な感覚だ。そしてレイと一緒に踏んだステップ。何も考えなくてもユニゾンがピッタリと決まる気持良さに、簡単だった、という思いだけが、今は朧げに残っている。

(……違うんだよな……)

 そんな事があるんだろうかと自分でも驚いてしまう。あれほどにリラックス出来ていた自分。

(……一回きりのステップだったけど……)
(……綾波は……どうだったんだろう? ……)
(………………)
(…………)
(……)







「……今頃どうしてるんだろ……もう寝ちゃったかな……」

 掛け時計のある辺りに視線を流してみた。

「明日は決戦。絶対に失敗できないんだ。……もう一度思い出せないかな? ……あの感覚を……もう一度……」




「ヨッ、お疲れさん。作戦局は夜を徹しての準備作業らしいな」
「あら、加持君。だって明日は決戦だもん。やれる事は後で後悔しないように全部やっておかないとね」

 明日の決戦に向け、関連部署との調整に余念が無いミサト。全ては明日発動される作戦の精度を0.1%でも向上させるため。先ほど迎撃システムへの兵站の準備についての確認作業を戦術作戦部内で終了するや、その足で技術開発部に向かった。だが、リツコが執務室にいないと聞き西棟のカフェテリアに足を向けたところで、エレベーターホールでバッタリ加持と出くわしたのだった。

「いいことだ。準備の分だけ勝率は上がる。ユニゾンも良い出来だそうじゃないか」
「ありがと。加持君とリツコのお陰よ。正直アスカがここまでの反応を見せてくれるとは思わなかったけど、シンジ君との協調も問題無し。攻撃パターンはかなりのレベルで仕上がっていると考えているわ。あとは……」
「ん? ……まだ心配事があるのか?」
「……ん、何でもない。ところで、加持君。こんな時間まで何してんのよ」
「俺か? 俺は今日は非番だよ。相変わらず人遣いが荒くてな。デスクワークはこんな日にするしかないのさ」
「げー、それってサイテイ」

 軽い電子音と共にエレベーターのドアが開く。ミサトが9階のボタンを押すと、ゆっくりと閉じていくドアが密閉された空間を作りだしていく。ミサトは指を浮かせたまま加持を振り返った。

「加持く――」
「だが、今日はこれで終わり。葛城には悪いけどゆっくりさせて貰うさ」

 ミサトの声を遮り、その右肩越しにPマークのついたボタンを押し、そのままミサトの宙に泳いだままの右手を握った。背後から重ねるようにミサトにその身体を寄せる。左手はとうにミサトの左の二の腕を掴み、その自由を奪っていた。

「ちょっ! かっ加持くん」
「こないだから葛城にはお礼ばかり言われてんだけど」
「ここをどこだと、こらぁ!」
「気持ちが俺の中に入ってこないんだ……」

 キッと表情を引き締めるや、加持を振り返り頬の傍で囁いた。

「ばか。ここにもあんのよ。耳」
「だったら喋らなければいい……」

 多少の強引さはこの男の芸風。その顔をミサトの頬を辿るようにゆっくりと口許に近づけていく。

「やだ。見てる」
「だれが?」
「だれって……んっ……」

 ミサトの腕から零れ落ちた書類が、エレベーターの床面で乾いた音を立てた。




「……シンジ君ね」
「明日はいよいよ人類の命運を賭けた決戦だからな。技術的な部分はほぼ完成したって聞いたけど、大きなバッグを持ってるところを見ると、仕上げが必要だという事なんだろうな」
「でも、大丈夫かしら。無理をして体調を崩さなければいいんだけど……」
「中学生とはいえ、人類の未来を担うパイロットだよ。彼なりの確信があってのことだろう」




 この時間、まるで蒼黒を貼り付けたかのようなこのエリア、拡張地区。日中途絶えることの無い建設工事による騒然さと、人間の生活の息吹さえ感じることのない静謐さとのコントラストはどれほどのものであろうか。そんなエリアに、綾波レイの住む建設職員用団地6号棟はあった。
 しかし、レイはこれまでその生活環境を意に介したことはただの一度も無かった。
 昨年、突然決定された中学校への編入。そしてそれに伴い指示を受けた一人暮らしの為に、割り当てられたこの部屋、402号室。
 本来、存在しえない筈の自分。それゆえにヒトの姿で生を受けてからこのかた、自身の存在自体への違和感に不安を訴え続ける本能との対峙、そして必然の帰結として、無への回帰をひたすらに願う自分がいる。
 しかし、造られた存在であるという、もう一つの真実。その命が至上神たる創造主の目的のためだけに在るという絶対的事実の前では、自らの意思による無への回帰など許される筈も無かった。今は、その創造主より下された命令を遂行し、与えられた任務をこなしていく日々の中で、自分の存在意義を全うする『その日』が来るのをただひたすら待っている。それがレイにとっての全てだった。呪縛と解放。それこそが創造主との絆。そして、それは時に不安に打ち震える胸の空虚をその触れあいを通して埋めてくれるモノ。だが、それも自分が消えるまでのあと少しの間だけのこと。
 だから、レイには未来の事を考える必要は無かった。住まいも一時的な居住に耐えるものであれば十分であり、その生活環境に不平、不満、そして疑問などあるはずも無かった。
 ただ一度だけ、一人暮らしを始めるに際し、レイはゲンドウに問うた事がある。なぜ将来を考える必要の無い自分を中学に編入させるのか、やがて消えゆく自分が新しい生活を始める必要があるのか、と。

(……あの人には珍しく、ハッキリとした答えを出さなかった。かすかに微笑を浮かべただけ……)

 レイは思考を止め、頁の進まない文庫本をゆっくりと閉じた。
 ここ数日あまり眠ることが出来ないでいた。ミサトと一緒にシンジとアスカのユニゾンのトレーニングを見に行った日から、取留めのない思考のループに陥ってしまっていた。
 最初、マンションの玄関で同じ衣装を纏ったシンジとアスカを見たとき……ここ最近、胸の中に感じていた温かさが薄れていくのを感じた。胸の奥が冷えて堅くなっていく。そしてそこに現れるのは、ぽっかりと空いた暗い空洞。そしてそれは、時折りその少女を堪らなく不安にさせてきたモノだった。

(……解らない。どうして温かさが消えてしまったのかが……)
(……でも、もともとソコには何も無かったもの……)
(……でも、そのときの気持ち……)
(……好きじゃない……)
(……どうして私…そんな風に思うの?)
(…………解らない)

 さらに思考は、あの日シンジと踏んだユニゾンのステップへと移りゆく。ヘッドセットを手にシンジの隣に立つや、心地良さがレイを包み始めた。それはヤシマ作戦以来のこと。レイがシンジに視線を送るのと同時に、レイに顔を向き直したシンジ。その表情を和らげた時、再び胸の奥が温かく満たされてくるのを感じた。
 ヘッドセットの中で電子音が小さく鳴り、最初のサークルが光る。覚えたばかりのトレーニングパターンだったが、シンジの動きが良く解った。織り成されていくユニゾンのラインに、膨らんでいく一体感。レイはシンジが自分の一部で、自分もまたシンジの一部であるような、そんな不思議な感覚に陥っていった。



 なんだかヘンな感覚
 でも
 心地いい
 とても気持ちいい



(…………………わたし…………)
(……以前にも感じたことがあるような気がする)
(……………………思い出せない)

 更に少女の思考は、まるで何かの鍵を求めるかのように、過去、そしてこれまで考えたことも無かった自身の存在に対する遡及へと必然的にシフトしていった。一つ一つ縺れた糸を解くかのように記憶を辿っている自分自身に戸惑いを禁じ得ない。

 そんなレイに今日も眠りの精は訪れそうになかった。

 開け放たれたベランダから漏れるようにゆっくりと吹き込む風が、所かしこにほつれが見られるカーテンを微かに揺らした。
 レイは閉じた文庫本をチェストの上に置くと、そのカーテンを引きベランダに出た。スリッパをつっかけたまま、ベランダに置かれている古ぼけた洗濯機の横で、手すりに両手をあずけて夜空を見上げた。

(……わたし………どうしてこんなことを考えているの?)
(……………………………………解らない)

 月明かりの下、穏やかに流れる風がレイの空色の髪を撫でていく。心地良い。そんな時だった。何か別の感覚が彼女の意識を過ぎったのは。レイはまるで吸い込まれるように漆黒に沈んだ路上に視線を移し、その人影を認めた。



「………綾波」

 この時間だ。ダメもとでここまで来た。
 例え部屋に明かりが灯っていたとしても、レイの携帯を鳴らす勇気もなければ、部屋をノックする度胸などある筈も無い。それがどうだ、いまシンジが見上げてる階上にレイが佇んでいる。シンジは息を飲んだ。
 月の光を浴びながら佇んでいるレイは幻想的に煌いていた。柔らかに風に梳かれる髪はところどころにプラチナの輝きを湛え、夜目にも白い肌は透明感を覚える程に美しく、ややもすると現実感を失いそうな程に儚げに見えた。ヤシマ作戦。あの夜のイメージが重なる。このまま消え入ってしまうような不安感を覚え、知らずその少女の名を呼んでいた。

(……あ、綾波)
(僕だと解ってくれたかな? ……でも、こんな時間にやってきて、驚いてるだろうな……)
(……非常識だよな……誤解されたくないんだけど……でも……)

 しかし、レイの次のリアクションはシンジの想定外のものだった。ベランダから部屋の内側、つまり玄関に向けて小さく指を差している。シンジは深く息を吸い込むと、暗闇の中で小さく頷き、左肩に抱えているスポーツバッグを掛けなおした。早足に、それでも足音を殺しながら階段を上り始める。右手は今はしっかりと握りしめられている。


(……どうしよう……こんな遅い時間にドアをノックするのも………でも、勝手に開けるのも……)

 逸る気持ちを抑えつつも、一気に駆け上がってきたシンジは、少し乱れた呼吸を整えながら402号室のドアの前で混迷していた。少しの逡巡の後、ドアノブに手を伸ばそうとしたシンジの目の前で、ガコッと言う小さな音と共にドアが開いた。レイの姿が飛び込んでくる。
 深紅の瞳は真っ直ぐシンジに向けられている。女の子の部屋を訪れるには十分過ぎるほどに非常識な時間だとは理解している。が、そんな思考とは裏腹に自然と顔が綻んでしまう。
 そんな自分に気恥ずかしさを感じ、視線を落としたシンジに思いもよらない緊張感が待っていた。この時間、当然にレイはいつもの制服姿ではなかった。パジャマ代わりにしているのか、2サイズ程度大きめの白いワイシャツに包まれただけの姿で立っている。二次曲線的に上昇する心拍数。瞬時に顔が赤くなるのが自分でも解る。今出来る事は辛うじて目線を上げる事、そして……。

(……な、何か、何か話さなきゃ……)

 喉の奥の粘膜が引っ付いてしまったのではと思った。カラカラに渇いた喉に、生唾を飲み込んだ音が異常に大きく響いた気がした。バツの悪さに拍車がかかる。

「……入らないの?」

 しばらくの間、ジッとシンジを見つめていたレイだったが、踵を返し部屋の中に戻っていく。慌ててその背中を追うシンジ。玄関で靴を脱ぎながら、やっぱりこんど自分のスリッパを持ってこさせて貰おう、などととりとめのない事を考えている。
 部屋の中の様相は、先日お昼を一緒に過ごしたときと変わりは無いようだ。あの時と違うのは…………レイの格好。とてもではないが、今ベッドに腰掛けているレイをまともに見ることなど出来ない。シャツの裾からスラリと伸びる白い脚が眩しすぎる。

「…………何?」
「……い、いや……ご、ごめん……こんな時間に……」
「………」

 シンジはレイのその深紅の瞳だけに意識を集中した。

 お、落ち着け……。落ち着くんだ。な、なんだっけ? そ、そうだ……。

「……こないだ……ミサトさんの家でさ、ユニゾンの練習見に来てくれたよね……それで、綾波も一緒にやってくれたよね……」
「………うん」
「……それでさ、そのお陰でさ、……あの時から惣流も張り切ってさ、ユニゾン自体はほぼ完成したんだ……」
「…………」
「……で、でも……なんて言ったらいいんだろ……そう、綾波とやった時とは違うんだ……」
「……?……」
「……惣流の時はさ、……惣流も必死に自分を抑えてて……、僕は僕で精一杯頑張ってんだけど、そんな惣流に引っ張られている感じでさ、……なんかさ、ずっと緊張しっぱなし、みたいな……」
「…………」

 シンジは一呼吸おいた。気のせいだろうか? 何となくアスカの名が出てくるとレイの視線が強くなるような……。

「……で、でもさ、綾波の時は……なんていうか……そう、自然に身体が動くんだ。意識しなくても……なんか、まるで僕が綾波で、綾波も僕であるような……解るんだ。綾波の動きが……ははは、何言ってんだろうね……」
「……!……」
「……それで、なんかすごくリラックスしてさ……すごく簡単に出来るみたいな感じだったんだ……それでさ、出来れば、もう一度だけ一緒にやってもらえないかな、なんて……そ、それで……」
「…………」
「……あっ、ご、ごめん。変なこと言っちゃって……こんな時間に、ひ非常識だよね……」
「…………」

 レイは徐にベッドから立ち上がると、まっすぐシンジに歩み寄った。シンジを真正面から見据える。

「……あ、綾波?」
「練習……するんでしょ?」
「えっ? あ……あ有難う……でも……」
「………何?」
「……い、いや、あの、着替える、の?」
「必要ないわ……問題ある?」
「い……いや、ううん」

 僕の方に問題があるかもしれない

 ダメだ。そんな事でどうするんだ。明日は人類の命運をかけた決戦日なんだ。
 それにベストな状態で臨むためにも、あの時の感覚を思い出して、過度の緊張感は取り除いておきたい。そのために、レイに迷惑をかけてまでココにいるんだ。
 ココまで来て何を考えているんだ、僕は……。さっきの惣流との事といい、僕って本当にダメだ……。

 内罰モードに陥りそうになる思考を頭から振り払うと、シンジは持参したスポーツバッグを開き、セッティングを始めた。
 コントロールボードと二枚のマット、そしてヘッドセットだけでも、自主トレーニングが出来るとミサトは教えてくれた。とてもではないが、電光掲示板やらライティングシステムやらは中学生の機動力では持ち出すことはできない。これは実用的だと思った。
 ミサトのリビングほど広くはないので、実際に敷いてみると互いのマットは思った以上に近い。
 そんな事にも敏感に反応しそうになる心を鎮めつつ、電源のコンセントを入れた。

「綾波、ごめん……お待た――」

 振り向こうとしたとき、視界の隅に白いものがかかった。レイがストレッチ体操で身体を伸ばしていると気付き、慌てて顔を元に戻す。

「……?……」
「い、いや……その……は、はじめようか……」
「………うん」

 正直、マットに上がるまではギクシャクしていたと思う。自分から頼んでおきながら、レイにあまり視線を向けようとしないので変に思われたかもしれない。だが、並んでヘッドセットを持ち上げた時から感じていた。昂ぶっていた意識が沈下していく。目を瞑って深呼吸をすると、心の底辺で穏やかに流れていた感覚が持ち上がってくる。解っていた。その感覚は少し前からあったもの。ベランダに佇むレイを見つけたときから。静かに目を開きレイに視線を向ける。ほぼ同時にシンジを振り返ったレイ。
 どこまでも深遠なスカーレット。温かみを湛えて揺れている。

 この感覚だ、と思ったシンジはリモコンを握り締めた。ピピッと軽やかな電子音に続き、音楽と同時に点灯するサークル。寸分たがわないタイミングでステップを踏み始めたシンジとレイ。完璧なユニゾンのラインが織り成されていく。体が自然に動いていくかのような感覚は前回と変わらない。心地よいユニゾンのラインに比例し、膨らんでいく一体感。瞬く間に第一ステップが終了した。息つく暇なく第二ステップのイントロが流れ始まる。点灯したサークルにこれ以上ないタイミングで左足を踏みこませると、二人は再びステップを踏み始めた。そして織り成されるユニゾンのライン。やっぱり簡単だ、と思った。

(……呼吸が合っている……)
(……というより、何か、どこか繋がっているような……)
(…………そんな感じだ……)

 そしてシンジは気付く。何かしら清々しくも微かに甘い香りが、シンジの心をより一層落ち着いたものにしていることを。

 …………綾波の匂い?

 思わず向けた視線の先には、リズムに乗って軽やかにステップを踏んでいるレイ。その表情は柔かい。



 あのとき吹き込んできた夜風に誘われるままに、思索に疲れた頭を冷やそうとベランダに出た。
 レイは月が好きだった。月は癒してくれる。虚ろな心が不安に震える時も、月を見ていると落ち着きを取り戻すことができる。望郷にも近しき思い。だが今日は違った。それを感じることができない。いつもの自分を取り戻すことができない。それほどまでに思考を巡らせてしまう理由がレイには解らなかった。

(………何かが引っ掛かっている…………)

 右の掌をそっと自分の胸にあててみた。

(………そう……わたしの胸の中で………)

 そんな時だった。良く知った感覚がレイの意識を過ったような気がしたのは。そして、迷いなく向けた視線の先に、自分を見つめながら佇んでいるシンジを見つけた。気がつくと玄関を指差していたのは、絶え間ない思考のループが急速に薄らいでいくのを感じていたからに相違ない。そして部屋に来たシンジとの会話。弐号機パイロットの名前に反応する自分に戸惑い、先日シンジと踏んだステップで、シンジがレイと同じく特異な感覚を持っていた事に驚きを禁じ得なかった。
 温かさ。ヤシマ作戦で見つけたレイにとっては初めての言葉。それは、そのままシンジのイメージとなった。今はシンジを見ていると心が温かさで満たされるのを感じ、それがレイをこの上なく落ち着かせるようになった。そして、その温かさの奥でレイが微かに感じるもの。何かがその扉をノックしている。そこに意識を持っていったとき、思い出したようにレイを包み込んでいる微かな香りに気が付いた。

(………碇くんの匂い?)
(……………………………)
(………………とても安心する)
(…………懐かしい…気がする)



「これでシンジ君がレイちゃんの部屋に入って二時間ね……」
「首尾は上々ってとこだろ。仕上げはやっぱりレイちゃんという事なんだろな」
「二人とも良く似てるからな」
「でも……シンジ君、トレーニングが終わったらレイちゃんの部屋から出てくるのかしら? ……なんか最近お互いあまり会えていなかったみたいだったから、ついふらふらーとならなきゃいいんですけど……」
「うーん、そうなると明日はどうなるんだ? あるいは最上の結果が期待できるのかもしれないが……アスカちゃんは騒ぎ出して、ウチの課長なんかはヘロへロになるんだろうな……。いずれにしても僕達の報告はこりゃ難しいぞー」
「そうなったら、一尉。お願いしまーす、と言いたいところですけど……シンジ君、相当な奥手らしいんで……まあその心配はないんでしょうね」
「まあ、俺達が出来る事は、とことん彼らを信じてやることだよ」

 男は切なげな笑みを湛えてそう言い放つと、先の短かくなった煙草を消した。



 心地良いユニゾンのラインを重ねていくシンジは、既に当初の目的を忘れつつあった。が、はたと気付いた。既に深夜に突入している筈だ。これはマズい。思わず隣のレイに顔を向け…………思考を止めた。




          ! 




 レイは微笑を湛えながらステップを踏んでいた。
 まさに天使の微笑。
 あの時から、シンジが望んでやまない笑顔がそこにあった。

「……………」

 そして、ヘッドセットの中でその日初めてのブザーが鳴り響いた。

 動きを止めたレイがシンジに向き直るや、呆然とレイに見惚れているシンジを見て、目をパチクリしながらヘッドセットを外している。

「………何?」
「…………」
「……?……」
「…………い、いや……ごめん、今日はもう遅いからこの辺で……」
「……そう……」

 すっと立ち上がるレイ。条件反射的に目で追おうとしたシンジだが、はたと思い出し慌てて視線を逸らした。視界の片隅にかかるレイの白い脚から意識を逸らせるように、後片付けを始める。離れていくレイの軽い足音が耳に残る。床に敷いてあるマットをゆっくりと巻きながら、静かにお約束の内罰モードに沈んでいった。

(こんな非常識な時間にやってきて、綾波は純粋な気持ちで、快く引き受けてくれたってのに……、そんな綾波にこんな感情を持つなんて……最低だ。僕って……僕って……)

「……碇くん」
「………へ?」
「………はい」

 屈んだ体勢のまま振り向いたのが拙かった。シンジの前に差し出されたコップ。レイの両手が添えられている。
 そして、コップのむこうで徐々にフォーカスされる……白い……白い脚に……。







 シンジは神経接続をカットした。



 目に映っているだけだ……僕には何も見えていない……。











 ……綾波ぃ……無防備だよぉ……。


 シンジは何を飲んだのか解らなかった。



「出てきた出てきた」
「だから言ったろう」
「……でも何か変な歩きかたしてるわ」
「いろいろ有るんだ……じゃ、俺はこれで失礼するよ」

 リアウィンドから暗い街並みに視線を彷徨わせていた香取は、やおら後部座席から降りた。

「はい。香取一尉。われわれは引き続きサードチルドレンのガードを継続します」
「ああ」

 漆黒の闇にテールランプが滲んでいく。
 プジョーを見送った後、香取はタバコに火をつけ不機嫌そうに声をあげた。

「これも報告するかね? ……加持一尉」

 漆黒を塗りこんだような路地から加持が姿を現した。

「……流石です。香取一尉」
「………」
「今日は非番です。それに明日は…もう今日の事ですが、人類の命運をかけた決戦日です。念入りに準備を進める彼らを邪魔だてする理由も無いでしょう……尤も今の私の立場上、本来の視察対象は貴方がたになるわけですが……」
「………」
「そんな怖い顔をなさらないで下さい、一尉。……それに」
「……なんだ?」
「何より馬に蹴られたくはありません」

 おどけたポーズを取りながら、再び暗闇の奥へと消えていく加持。
 見送る香取。視線をそのまま天空へと躍らせてみた。吸い込まれそうな夜空。無数の瞬きに目を細める。レイの部屋の灯は消えている。タバコの火を靴のかかとで消すと、携帯用灰皿に放り込む。シルバーのセダンに乗り込み、運転席に身体を沈ませると溜息にならない溜息が出た。

「今日も……晴れそうだな」



 ロータスエランを夜風に乗せるように走らせる加持。ウェバーから撒かれる吸気音、そして風の狭間から切なげに浮かぶギターの音色『`Cause we`ve ended as lovers』をBGMに、凡そその男らしくない表情を浮かべている。

「……どうも、良く解らない。何を考えている? ………碇司令」



 シンジはコンフォート17への道中を、急ぐでもなく歩いていた。
 ほうほうの体でレイの自宅を後にしてからも、しばらくの間は鼓動の高まりをどうする事もできなかった。だが夜更けの街に響く自分だけの足音を聞いているうちに、いつしかレイと一緒にいた時の穏やかな感覚が戻ってきた。
 リズミカルにステップを踏むように歩いてみる。
 心地よかったステップ、ユニゾン。そして、

 もう一度会うことができた…………笑顔。



(……綾波…笑ってた、確かに……)
(……なんだか、ずっと以前にも見た事があるような気がした…………けど、そんな筈ないか……)
(………………………………………)
(……でも、来て良かった……ほんとうに………)
(……こんな遅い時間に、綾波には悪いことしたけど……)
(……でも、もし僕と同じように感じていてくれたんなら……)
(……だったら、嬉しいん…だけど……)

 夜空を見上げてみる………と、いつもより瞬く星の数が多いような気がした。

「今日はきっと、上手くいく……」



 絶対に守ってみせる



 そして









 もう一度







 レイはベッドの上で膝を抱えている。既に部屋の灯りは消え、ゆるりと流れ入る夜風がカーテンを僅かに膨らませている。

(……碇くん……サードチルドレン、初号機専属パイロット、碇司令の子ども……)
(……近くにいると、とても落ち着く……温かい気持ちになる………)
(………………………)
(……………)
(……頭痛……原因不明……半年ほど前からの症状……)
(……少しずつ……間隔が短くなってきている……)
(……………)
(……無に還る……)
(……その日までもてばいい身体……だもの……)
(……わたしの望み……ずっと待ち続けていた………)
(……でも……)
(……でも、まだ還れない……あの人との約束…その日までは…………)
(……その時に……還ることができる………)
(……消える……)
(……約束だもの……)
(……………)
(……でも………)
(……碇くん……)
(……ユニゾン……お互いの感覚が溶け合ったような不思議な感じ……でも、とても心地いい……)
(……碇くんの匂い……とても安心する……懐かしい感じ……がする)
(……………)
(…………)
(………)
(……わたし…………)
(……わたし……なにか……大事なものを思い出せないでいるような気がする…………)
(………………………………)
(…………わからない)
(……でも、一緒にいると心地いい……安心する……)
(……碇くん……)

(……その日までは………)



(……その日が来るまでは……)





(……碇…くん……)


(……もう少しだけ……)















(………一緒にいたい………)


The End





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