「エントリースタートしました」
「LCL電化」
「第一次接続開始」

 ネルフ本部第二実験場においての、零号機専属パイロットと初号機専属パイロットによる第一回機体相互互換試験。
 初号機の起動プロセスが組み立てられる中、綾波レイはそのエントリープラグの中で目を瞑っていた。

「初期コンタクト、すべて正常」
「第三次接続を開始」
「双方向回線開きます」
「A10神経接続開始」

 管制室に詰めているスタッフの殆どが、目の回るような速度でデータが流れるモニターに釘づけになっている。そんな中、赤木リツコだけはパイロットを大写しにしているモニターにその視線を留めていた。ふとレイの表情が動いたような気がした。素早くグラフを映し出しているモニターに視線を走らせたリツコ。

「セルフ心理グラフ安定しています」
「絶対境界線まで、1.5…1.2…1.0…」

 さすがに緊張しているのだろう。マヤの声が固い。鉛を引きずるようなカウントダウンに、次第に高まる緊張感。

「0.8…0.6…0.5…」

 後方で腕を組みモニターを食い入るように見つめていたミサトも、今日は壁面にその背中を預けてはいない。その視線が次第に鋭さを帯びていく。更にその後方には一層深い皺を眉間に浮かべる冬月が屹立している。

「0.4…0.3…0.2…」

 数値上の進捗を見せているグラフから、レイのモニターへと再びリツコが視線を戻した時、レイが微かに表情を和らげた。

(……起動、するわ)

「0.1…突破!!」
「初号機、正常に起動しました!」

 ビーブ音が鳴り響いた一瞬の後、マヤの快活な声が響き渡った。続いて、管制室に安堵のため息が流れる。
 俄かに活気を取り戻した管制室を尻目に、リツコは事務的にマイクを手元に引き寄せた。

「どう、レイ? 初めて乗った初号機は?」

 目覚めの時を迎えたかのように、ゆっくりと開かれる深紅の瞳。

「……碇くんの匂いがする」

(えっ!?)
(はうっ!)
(……レ、レイちゃん)
(な、なな!!)
(い、いつの間にぃ)
(あらあら)
(………………)

 モニタースピーカーから流れてきた予期せぬコメントに、瞬時にして凍てついた管制室。無責任かつ身勝手な妄想の後、スタッフの多くはその視線を管制室の隅で待機していたシンジに向けた。その表情は千差万別であるものの、視線は概して強い。シンジが唯一出来たことは、俯き、心を閉じる事だけだった。ATフィールド全開。

(……綾波…それは、とてもマズイよ)


「おっはよー! ……ん?」

 エアロックの解放音に続いて、アスカが管制室に姿を現した。零号機に続く機体連動実験の準備を整えて、赤いプラグスーツにその身を包んでいる。室内でリツコとマヤによるテストデータの出力とチェックが慌ただしげに為される中、何かしら淀んだ空気を敏感に感じ取ったアスカは、ツツツとシンジに寄っていく。

「ちょっと、シンジぃ……何よ? この雰囲気」
「……い、いや…その」

 ありのままを話せば最後、どのような展開になるのかは大よその見当はつく。怪訝な表情を浮かべ始めたアスカを前に、次第にしどろもどろになってきた。

「はあ? あんた、何言ってんのよ!? だからアタシが――」
「――では、テスト終了。レイ、上がっていいわよ」マイクを切り、アスカに視線を向ける。「続いて弐号機の機体連動試験に移ります。アスカ、準備いいわね?」

 大きな助け船。アスカは小さく返事を返すと、シンジから渋々離れ、出口に向かった。シンジは壁に貼り付いていた身体を元に戻し、小さくため息をついたのも束の間、半ば相好を崩したミサトからの視線に気付くと脱力感に見舞われた。


「弐号機のデータバンク終了」
「ハーモニクス全て正常値」
「パイロット、異状無し」

「……アスカは相変わらず安定しているわね」

 弐号機は単独の機体連動試験。これまでの実績からして、弐号機によるこのレベルでの試験結果を気に掛けているスタッフは皆無と言えた。現在のアスカのコンディションからすると、シンクロ率とハーモニクス指数の高位安定だけがターゲットとなり、今回のテストでもハーモニクス指数の確認とデータ採取だけが目的に過ぎない。
 ミサトが思考に沈む時の癖ともいえるポーズ。腕を組み右手の親指で顎を支えながら、その視線を流れるようなグラフを映し出しているモニター越しに浮かんでいるリツコに留めている。
 突然変更となった実験内容。ダミーシステムプログラムにおける一連の進捗の中で必要不可欠とされる実験。機体相互互換試験。それについては理解できる。でも……。

(……どうして零号機と初号機なの? 弐号機とではダメなの?)
(……シンジ君とレイのパーソナルパターンが良く似ているからと、リツコは言っていたけど……)

 では何故、このスケジュールなのだろう?
 敢えて零号機と初号機の機体相互互換試験の間に弐号機の機体連動試験を組み込む理由があったのだろうか? 本来ならば零号機と初号機のみで実施されてしかるべき今回の試験ではないのか? 時間と労力の浪費を何の目論見も無しに容認するE計画責任者ではない事だけは、確かな事実だと思う。
 そしてもう一つの懸念。弐号機パイロットに不要な疑念を抱かせるという可能性。
 惣流・アスカ・ラングレーは聡明だ。その評価においてネルフ関係者間における温度差は見られない。頭脳明晰である事は周知の事実として、非凡な感受性も手伝い、その捉え方が鋭い。そして大人であれば片目を瞑ってやり過ごすようなイベントであっても、五感を駆使して全力で対処する。これはセカンドチルドレンが信条に掲げるポリシー。全ては最良の結果をアウトプットする為に他ならない。


「エントリープラグ挿入完了」
「零号機のパーソナルデータは?」
「書き換えは既に終了しています。現在、再確認中」

 エアロックドアを潜ってレイが管制室に姿を現した。静かに待機用のベンチに腰を下ろす。その気配にレイを振り返ったミサト。普段と変わらない様子のレイを確認すると、再び零号機に意識を戻した。まるで自らの気配を消し去っているかのように、身じろぎ一つしないレイはLCLに濡れそぼっている。その顔に表情は見られない。


「被験者は?」
「若干の緊張が見られますが、神経パターンに問題無し」
「初めての零号機。他のエヴァですもの。無理無いわよ」

 フォローを入れたミサトに、弐号機のエントリープラグの中からアスカが割り込む。

「バッカねー、そんなの気にせずに気楽にやればいいのに」
「それが出来ない子なのよ。シンジ君は」
「知ってるわ。だからバカなのよ」

 アスカのこの程度の毒舌に悪意の無いことは十分に承知している。ミサトは苦笑いするしかない。

「ところで…あの二人の機体交換テスト、あたしは参加しなくていいの?」

 来た

「どうせアスカは弐号機以外、乗る気無いでしょ?」
「まあー、そりゃそうだわ……」

 正面からドアをノックしてきたアスカの問いかけに対しては、いささか不誠実な、そして不本意な答えになってしまった。アスカの事だ、釈然としない思いを抱いて当然だろうが、今はプライドをくすぐるような回答を返す事で、こちらの意図を汲んでもらうしかない。

 先日のユニゾンのトレーニングがこんなところでも功を奏しているとはね、でも……

「……確かにエヴァ弐号機の互換性、効かないわね」


「エントリー開始」
「LCL電化」
「第一次接続開始」

「どう? シンジ君。零号機のエントリープラグは?」

 リツコが口を開いた。グラフを映し出しているモニターに厳しい視線を落としながらも、事務的な口調にならないように注意を払っている。初めての実験で必要以上のプレッシャーを掛けたくはない。

「……なんだか変な気分です」
「違和感があるのかしら?」
「……いえ……ただ…綾波の匂いがする」

(えっ!?)
(はぶっ!)
(……シ、シンジくん、まで……フ、フケツ)
(や、やっぱりぃ)
(あらあら、この子達ったら)
(………………)

「なーにが匂いよ! 変態じゃないの!?」

 再び空気が淀み始めた管制室。悶々とした一部のスタッフが何かしらの期待を込めた視線をそっとレイに向けたものの、予想通りの無反応を確認すると、かぶりを振って意識を次のプロセスに集中させた。

(……この子たち、一体)

 ソッと横目でミサトはレイを盗み見た。

「データ受信、再確認」
「パターングリーン」
「主電源、接続完了」
「各拘束具、問題無し」
「了解。では、相互互換テスト、セカンドステージへ移行」
「零号機、第二次コンタクトに入ります」

「どお?」
「やはり、初号機ほどのシンクロ率は出ないわね」
「ハーモニクス、全て正常維持」
「でもいい数字だわ……これで、あの計画遂行できるわね」

(……ダミーシステム!?)

 耳に届いたその言葉に敏感に反応したのは、少しでも多くの情報を得ておきたいからに他ならない。作戦局一課長たるミサトに対しては、オフィシャルな説明は既に為されているし、チルドレンを使わずしてエヴァを動かすという最終目標に対しては、諸手を挙げて賛成すれど反対する理由など有る筈も無い。だが、何かが引っ掛かっている。それは本能的なものかも知れないが、何か得体のしれないものを感じるのだ。最高機密とはいえ、余りに開示されている情報が少なく、またパーソナルデータの提供者としてレイだけが関わっているという大深度地下施設での実験においては、司令、副司令そしてリツコのみが立入る権限を有しているという事実もミサトの疑心暗鬼をより深いものにしていた。今も、ミサトの視線の先でリツコと会話を交わしているマヤが、おかしな表情の曇らせ方をしているのを目の当たりにするに至っては、ある種不吉な影が差し込んでくるのを感じざるを得ないのだった。


 蒼銀が揺らいだ。
 思考の淵に浸っていたミサト。
 視界の中に突如として割り込んできた少女により、弾かれたようにその意識が戻された。
 少女は窓際まで歩を進め。その紅い瞳は一直線に零号機を射抜いている。
 一見表情を伺うことのできないその横顔に、ミサトはいつもと違った色を見たような気がした。
 少女は右手を窓に添えた。

(……心配…している?)


 何を?


「第三次接続を開始」
「セルフ心理グラフ安定しています」
「A10神経接続開始」
「ハーモニクスレベル プラス20」

 シンジの表情がわずかに歪んだ。その手で額を押さえる。

(何だ、これは?)
(……頭に入ってくる)
(直接……何か)

 シンジの脳裏に浮かんでは、

(……あやなみ……綾波レイ)

 霧散していく綾波レイのイメージ。

(……綾波レイだよな、この感じ)

 どれも見覚えのある情景のひとコマ。

(……綾波……違うのか?)






 そして、奥底より俄かに膨れ上がった






(……綾波レイだけど……)






 一つのイメージ









(……綾波じゃない……)










 碇シンジを




















キミは














Episode 14.01
忘れえぬPurity / for you
Written by calu




「シンジぃ? 今のミサトから?」
「うん。今日は残業しなくて済むって……その、帰るコールだったんだけど……ああダメだ」

 何やらシンジがキッチンでガサゴソやっている。リビングでテレビを見ながらポテトチップスをぱりぱり頬張っていたアスカがダイニングに顔を出した。

「……あんた、何やってんの?」
「う、うん……久しぶりに皆でゆっくりと晩ご飯を食べれそうなんで、ちゃんと作ろうと思って食材を探してるんだけど……何にも無いんだ」

 余った豚バラやら野菜やらで、一昨日夜遅く帰って来たミサトの為に特製賄い丼を拵えたことを思い出した。着けたばかりのエプロンを解く。

「あたしも滅多にここの冷蔵庫ん中は見ないけど、ホントにビールとおつまみ以外、なんにも無いのね……あっきれた」
「うん。仕方がないから買ってくるよ。どうせ残りものじゃキチンとしたもの作れないしね」
「あたしも一緒に行ってあげよーか?」

 少し悪戯っぽい笑顔を浮かべて、シンジの顔を覗き込むアスカ。

「い、いや……すぐに戻るから。待っててよ、アスカ」少し頬を赤くして、アスカから顔を逸らした。
「ふーんだ。折角このアタシが付いてってやろうって言ってんのに……美味しいもんしっかり買ってくんのよ、バカシンジ」
「……う、うん」

 後ろ手に手をひらひらと振ってリビングに戻ったアスカは、ころんと寝転び、元の体勢におさまった。読みかけの雑誌と食べかけのポテトチップスを引き寄せる。この『Lay‘s』というポテトチップスはアスカがドイツ第3支部時代に、ヴィルヘルムスハーフェンに出張したドイツ人職員がアスカの為にわざわざオランダに立ち寄って買ってきたもので、一口食べて以来夢中になっているものだ。日本には同じブランドでも米国産のものしか輸入されてなかったので、来日する際に大量にケース買いして持ち込んだのだ。
 一枚、袋から摘まんで、目の前にかざしてみる。そして口に運ぶと、先程までとは違った控えめな音が鳴った。

「……ふーんだ」



 結局、いつも行く近所のスーパーではなく、少し単価は高いが洋食材の品揃えのいい、少し離れたところにあるスーパーに行くことにした。チラシの内容は既に玄関でチェック済みだ。コンフォート17の1階エレベーターホールで、戻りの予想時間を逆算するや、俄かに走り出した。
 勿論、道中でメニューの内容を考えることは忘れない。外せないのはミサトの晩酌とアスカの好物だ。スーパーの入口をくぐる頃には、前菜をトリアー風ソーセージとチーズの盛り合わせ、メインを煮込みハンバーグといったお品書きが頭の中に刷り上がっていた。颯爽と買い物カゴを手にすると、何はともあれメインの食材を物色すべく食肉売り場に向かう。主婦に混じって、頬杖をつきながら合挽きを厳選しているその目は、まさに主夫の中の主夫。誰がエヴァパイロットと気付こうか? チーズ売り場でも、運良く試食コーナーの出ていた欧州フェアで、イタリア産のペコリーノとゴルゴンゾーラ、英国産のスティルトンをご奉仕価格で手にすることに成功した。ミサトの喜ぶ顔が目に浮かぶ。アスカご指定のソーセージも少し多めにカゴに放り込んだ後、続いて野菜の物色に入る。スイーツも忘れてはならない。ミサトは別にして、ドイツで生まれ育ったアスカには欠かすことのできないものだ。


「……シンジ君、すごい手際ね」
「ああ、なんてったって、あの年で三足の草鞋を履いてるんだからね。人類の命運もだけど、身近なところでは、葛城三佐とアスカちゃんの『食』をも担ってるってとこだろうね」
「その見解に反論は無いわ……それにしても、出かける方向からして、レイちゃんのとこに行くのかと思ったけど、このスーパーだったのね。何だか品揃えも違うし、買ってる食材の内容からして、葛城家の今日の晩餐はきっと豪勢なんでしょうね……。いいなー、ご相伴にあずかりたい」
「……戦いが終わって、普通の生活に戻ればさ、そんな機会も…きっとあるよ」
「……切望、するわ……あっ!? いけない、シンジ君、こっちに――」

 反射的に振り返った長門は、今更ながらに気が付いた。すぐ後ろの棚はスイーツコーナー。このタイミングで散開するのは不自然。近づいてくる足音。

 マズッた――

「ミキ、ショコラなんかいいんじゃない?」

 肩を抱き寄せるように回された腕が、長門の身体をスイーツコーナーの隅へと引っ張っていく。若干強引なリードに仕方がないとは思ったが、一応抗議してみることにする。一足先にベルギーチョコレート特集のディスプレイに顔を覗きこませている杉に倣って腰を屈め、囁いた。

「……杉さん、アリガト……でも、少し痛かった」
「ごめんよ……咄嗟の事だったんで、ああする他無かった」
「……それと、変なとこ触らないで下さいね」
「なっ! ぼ僕は肩――」
「一尉、声が大きいです」
「〜〜〜〜〜」

 杉が息を飲んでシンジの様子を伺っているのが解る。同じく数メートル離れたところでスイーツを選んでいるシンジを横目で捉えた。シンジは、ピンクに彩られたコーナーを前に、何やら深刻な表情を浮かべている。


(ヴィタメールのチョコって、アスカ、好きかなぁ?)
(あっ、これなんかラミエルにソックリだ)
(…………)
(……ラミエル、か)
(…………………)
(……あの時…………)
(……食事をキチンと採っていなかったんで、心配した事もあったっけ……)
(……今は、学校でもネルフでも以前よりはちゃんと食べてくれているみたいだから……)

 左手に提げている買い物カゴを睨むように、何やら逡巡している。しばらくして、ピンクの棚からマカロンの包みを一つ取り上げ、カゴに入れると踵を返した。

(……やっぱり、ミサトさんに話してみよう)



 見栄え良く盛り付けられた前菜のプレートが、お風呂からあがったばかりのミサトの前にサーブされていく。バスタオルの中のミサトの顔がみるみる明るくなっていく。『えびちゅ』がまだ出ていない事に気がつくと、冷蔵庫からとびきり冷えた一本を選んでミサトに手渡した。

「ア・リ・ガ・ト。それにしても、相変わらずシンちゃんのお料理は見事よねー。ずぇーったいに、いいダンナさんになれるわ」
「そ、そんな……ただ、冷製の前菜を盛り付けただけなんで、大したこと無いですし」
「まーた、謙遜しちゃってぇー。美味しそうに盛り付けれるのはねぇ……その人に美味しく食べてほしいと思う気持ちが入っているからよ」

 上機嫌でプルトップを開け、んぐんぐと『えびちゅ』を一気飲みし始める。シンジはもう一度冷蔵庫を開け、二本目の『えびちゅ』を取りだした。今日も葛城家のロジスティクスは健在だ。
 今なら切り出せると思った。アスカもまだお風呂から上がってきていない。

「ぷっはー!! くーぅ! やっぱ人生、この時のために生きてるようなもんよねー」

 目尻に涙さえ浮かべながら、ミサトは人生最高の瞬間を謳歌している。シンジにはフォローできない瞬間だ。

「……あ、あの、ミサトさん」
「ん? どしたの? シンちゃんも飲みたいー?」
「い、いえ……あ、あの……あ…」
「???」
「……その…」
「……シンちゃん……あのねー、もっとハッキリと言いなさい! 男でしょ!!」
「はっ、はい……いや、その……綾波のことなんですけど……」
「……ん? …レイがどしたのぉ?」
「い、いや…以前、ミサトさんが綾波を晩ご飯に呼ぼう…て言ってたのを、その…思い出して」
「……?……」

 ミサトは屈託のない表情で首を傾げている。

「あ、あの…覚えてないですか? ヤシマ作戦から少し経った頃、今日みたいに、珍しくミサトさんがネルフから早く帰ってきて……スペイン料理で飲んでる時に……あ、綾波も呼ばないか、って言って……」
「……そんなこと言ったっけ?」
「ええっ!? ミサトさん、本当に覚えてないんですか?」

 シンジの中で、スーパーからの帰途、ずっと想像に妄想を塗り重ねてきたその日の情景が儚くも崩れていく。砂上の楼閣だったのか。

「ゴ、ゴメーン。でもいいじゃない、レイだったら、いつ呼んでも。シンちゃん次第じゃない」
「えっ、ぼ僕がですか!? そ、そんな。む、無理ですよ………」
「そんな事は無いと思うわー、おねーさんわぁ」

 ミサトの相好が俄かに崩れ始めた。これはダメだ。話題を変えなければマズい。が、車は急には止まれない。

「ど、どうして、ですか?」
「やーねぇー、シンちゃんに誘われれば、レイ、喜ぶに決まってんじゃないのぉ」
「な、なな――」
「ちょっとぉー、さっきからうっさいわねー」

 一瞬で凍りついた。蝋人形のような動きで後ろを見返るシンジ。喉までせり上がった悔恨の言葉は辛うじて呑み込んだ。いつからソコにいたのか、どこから話を聞いていたのか。バスタオルを纏った惣流・アスカ・ラングレーは、憤然一歩手前の表情を浮かべている。その少女から湧き立つ湯気に乗って何とも言えないいい香りがシンジの鼻先に届いたとき、改めて浴室のアコーディオンカーテンが開け放たれているのに気が付いた。

「……ア、アスカ…いつあがったの?」
「ついさっきよ……ところであんた、さっきから何うじうじ言ってんのよ?」
「シンちゃんがね、何でもレイを晩ご飯に誘いたいらしいのよ」
「ファーストぉ!?」その表情がピクリと動いた。
「い、いや、ミサトさん、ぼ僕は何も――」
「そんなんで騒いでんの? バーカみたい。そんなのバカシンジが誘いたい時に優等生に声をかけりゃいいことじゃない」
「それが出来ないらしいのよね……シンちゃんは」
「はっ、だっから、バカシンジなのよ!」ばっさと切り捨てる。
「まあまあ……それがシンちゃんたる所以でもあるんだからぁ……でも、あたしからレイに声を掛けると命令だと思っちゃうだろし……それじゃあ、またアスカからレイに声を掛けてあげたら?」
「ええー! なんでこのアタシが!?」
「あら、アスカはこないだレイを説得して、ラーメン屋さんの屋台にまで連れて来たじゃない」
「あっ、あれは、同じパイロットなのに、ファーストが余りにも付き合い悪過ぎるから……」
「とかなんとか言っちゃってー。ホントは優しいくせに…アスカったら。今回もシンちゃんの為にひと肌脱いであげたら?」
「なっ! なんでアタシがっ!」

 ちらりと横目でシンジを見遣る。と、ソコには縋るような眸も不安げなシンジが。
 な、何でこのアタシが!

「ふ、ふん!」

 ぷい、と顔を背ける。
 視界の隅で、シンジががっくりと肩を落としたのが分かった。



 刻一刻と角度を変え、強さを増して差し込んでくる陽光に、街から闇の名残りが追い立てられている。
 変わらぬ夏日を予感させるにはまだ早い貴重なひとときに、朝の清々しさが満ち満ちている。
 その刹那の時間を惜しむように届けられる小鳥たちのさえずり。
 夜明け前には時折り不気味な光沢を湛えていたかのように見えた建機も、今は沈黙に疲れたかのように目覚めの刻を待っている。

 缶コーヒーを片手に、オールドファッションを頬張っていたその男が腕時計に視線を落としたのは、聞き慣れたドアの開く音が耳に入ってきたからだ。

「……時間通りだな」

 食べかけのドーナツを紙袋に突っ込み、ウェットティッシュで指先を拭うと、イグニッションキーを人差指で静かに押し込んだ。インパネの中に浮かび上がったDレンジのインジケーターランプを確かめると、フロントウィンドの中で小さくなっていく空色の髪の少女をしばしの間、眺める。少ししてブレーキアシストシステムから解放された銀色のセダンはのそりと発進した。
 ルーティン通り、徐行するような速度でコンビニの前を通り過ぎようとしたが、店の中にいる筈の少女は入口に佇んでいた。両手で鞄を持ってドアの前で見上げるような視線の先には、何か貼り紙らしきものが見てとれた。
 大凡の事情を理解した香取だったが、ガード作業自体への影響は無い。少し先のパーキングスペースに車を乗り入れると、待機ポイントでエンジンを停止する。若干チルトさせたサンルーフからは、目覚め始めたばかりの蝉時雨が遠慮がちに降ってきた。両手を組むようにハンドルの上に乗せ、ルームミラーの中を覗き込むと、空色の少女は普段と変わらない調子で歩を進めていた。男は助手席の上に無造作に置かれた紙袋にチラリと視線を落した。



「おはよう。綾波」

 文庫本から切られた視線がシンジに向けられる。今学校に着いたばかりのシンジは、鞄を肩に掛けたままだ。

「おはよう」
「……あ、あの、ゴメン」
「……何?」

 文庫本に戻しかけた視線を再びシンジに向け直すレイ。深紅の瞳が湛える柔らかさは変わらない。

「……い、いや」
「……………」
「…あの、そのさ……」
「……?……」
「……そ、そう、き今日の午後、シンクロテスト、だよね…」
「……うん」
「今日も、その、一緒にネルフに行ける…かな?」
「問題無いわ」
「……あ、有難う」

 踵を返して机に向かうシンジ。やや朱に染まったその表情は少し複雑だ。机の上に溜息と一緒に鞄を落とすと、脱力したように腰を下ろした。

「なんや、センセ、朝からごっつい溜息ついとんなー。相変わらず大儀なんかのー」
「いや、大丈夫だよ」

 教室の後方で、シンジとレイのやり取りを何気に見ていたジャージ姿の少年と、一心にレンズを向けていた少年。いつも通り駄弁る口調は軽い。

「なんや…何で解んねん?」
「綾波だよ……いい表情してたもん、碇としゃべってる時」

 ウィンクしながら、新しく手に入れた小型のデジカメ、ライカD−LUX4サファリをトウジの目の前に持ち上げたケンスケは至って上機嫌。今朝は、シンジがレイに話しかけてくれたこともあり、期せずして数ショット余分に写真を撮ることができた。いま撮った画像にしても、既にクラスの何人かの男子から購入申し込みのメールが入っていることだろう。なんせ先日、敢行したアスカとレイのダブルキャンペーンは大成功。アスカの下僕友の会の会員が大幅に増えただけでなく、レイの年間包括契約の新規申し込みが相次ぐ等、予想を遥かに上回る好評を博していたのだった。

「せやなぁー、ワイはカメラマンとはちゃうよってにな…ケンスケほどには敏感には解れへんけど、何ちゅうか、シンジとしゃべっとる時の雰囲気がな、以前とはちゃうわなー、ん?」
「はあ? どしたぁ?」
「……なんや惣流、センセを睨んどるやないかー、このレベルやったらワイにもよーお分かるでえ。なんぞあったんかいな?」

 原因はともかくアスカの機嫌には注意しなければならない。先日のダブルキャンペーンでアスカのブルマ姿をボーナスショットとして配布したのがバレて、それまで愛用していたデジカメを回し蹴りで破壊されたばかりだ。気持ちを落ち着かせて席に着き、口元を隠すように両手を組んだ。第一種警戒態勢。メガネに淡い光を湛えながら、そっとカメラを懐にしまった。



 四時限目終了と共に鳴り響くスクールベル。タイミング良く教師の言葉を引き継いだ学級委員長の声が、歯切れ良く教室内にこだまする。待ってましたとばかりに生活音が溢れ始めた。

「おっしゃあー、今日も元気に、行くでぇ! 購買やー」
「トウジよ、相変わらずメシとなると気合が違うよな……それじゃあ、行く――」
「えーー!!」

 二人が腰を上げようとしたまさにその時のことだった。顔を向けるまでもなく、教室中に響き渡るような声の主はすぐに分かった。

「何や、何や?」
「何やってんだ? あいつら……」

 トウジとケンスケが視線を向けた先では、席に座ったままのシンジにアスカが何やら罵声を浴びせ掛けながら詰め寄っている。

「ちょっとー! このアタシにお昼抜きで過ごせって言うのっ!?」
「い、いや…昨日の晩、お弁当の分もちゃんと余分に作ったんだけど、結局全部食べちゃったし…夜中まで宴会のようになっちゃったんで、今朝下拵えから準備する時間に起きれなかったから、その――」
「信じらんないー!! なんでそうなんのよ!」

 更にシンジにグイッと詰め寄るアスカ。

「なんやと思ったら、まーた夫婦喧嘩かいなー、犬も食わへんでぇ…建設的やないよって、その辺で止めとき」

 ゆっくりとトウジ達に向けられる蒼い視線。そこに湛えられている光を敏感に感じ取るや、ケンスケは条件反射的に体が竦むのを覚えた。
 これ以上、怒らせてはマズイ……回し蹴りはイヤダ……

「い、碇ぃ、それじゃあ一緒に購買行こうかー、そんで惣流の分も買ってきたらいいよ…うん、そうしよう」
「……う、うん。アスカ、ゴメン…お昼買ってくるから、ちょっと待っててよ」
「フンッ!」

 シンジはアスカの反応を待たずに、慌てて教室の出口に向かった。途中、思いついたようにレイを一瞥した後、ケンスケに続いて教室を後にした。



「センセ…何やねん、惣流のあの機嫌の悪さは……センセが弁当持ってけえへんかったくらいで、あんなに怒るか? そもそも、センセが好意で拵えとる弁当やねんやろ? 今日は、アノ日とちゃうんか?」

「……う、うん…なんだか昨日の晩から少し機嫌が悪いみたいなんだ……何でだろ? 昨日の晩ご飯の味付けが口に合わなかったのかなぁ……アスカの好物にしたんだけど……」
「なーに、気にするこたぁ無いよ。惣流お好みのフランクフルトにカツサンドをゲット出来れば、一発で機嫌も直るって」

 その軽い口調とは裏腹に、ケンスケには余裕が無かった。顧客への次のデリバリが明日に迫っている。何とか機嫌を直してもらって、今日中にいいショットをあと1、2枚は確保しておきたいところなのだ。その為にも何としてでもこの昼食で満足して貰う必要があった。思わず力が入る右手。何としてでも、今日――。

「あーあかんなぁ……ちょっと出遅れてもたからなぁ。今日は、焼きそばロールは完璧にアウトやなぁ」

 ハッと、ケンスケが視線を上げたそこには、砂糖に群がる蟻の如くの人だかりが出来ている。……あああ、と声を震わす暇もなく急速に萎えていく思惑。

「こりゃ、ワシらが物色出来るんは、祭りの後かの……おっ、センセ、それでも行くか!? えらい男前やないかー」

 このシチュエーションだと、いつもは陳列棚の前が空くまで大人しく待っているシンジが、今日は果敢に人だかりの中に飛び込んで行った。

「……さしものエヴァパイロットでも、これは分が悪いよな。でも、最悪でも惣流の分は確保しないとな」

 辺りを伺っていたケンスケの目がレジで止まった。そこに顧客、もとい級友の一人を見つけると僅かに口の端を吊上げた。落ち着いた所作で淡い光を湛えたメガネを右手中指でグッと持ち上げ、レジにゆっくりと近づいて行った。


 一方、慣れない人だかりにすっぽりと飲み込まれたシンジは、大方の予想通り揉みくちゃにされていた。売り場はお弁当・おにぎり・パンのコーナーに分かれているが、人の流れ方に何らルールを見い出せないまま、シンジはひたすら手探りでパンコーナーを目指した。それにしても、まだ残っているんだろうか? こんな無秩序状態に身を置くのは久しぶりの事だった。明日からは、事情はともあれ、やはり弁当を作ろうと心に誓った。いいじゃないか、日の丸でも。


「なっ、なんや、ケンスケ。どしたんや、ソレ!?」

 仁義なき戦いの様相を呈している売り場を尻目に、ケンスケが購買部の袋を提げている。その顔に不敵な笑みを浮かべながら。

「なんだはないだろう……オレタチの昼メシ以外に何があるんだよ」
「自分…それ、カツアゲしたんとちゃうやろなー? ワシ、平和主義よってに、ソラあかんで」
「人聞き悪いなぁ…バーター取引だよ。なに、レジのとこにいた常連顧客の何人かに、今朝水揚げされたばっかの綾波の写真のことを話したら、向こうから持ちかけてきたんだよ」
「ほんまかいなー、ワシャ知らんでぇー。オッ! や、焼きそばロールも入っとるやないか! で、でかしたでぇ、ケンスケ!」
「はいはい、変わり身早いな……で、碇は?」
「センセは、まだ格闘中や。さっきから人の波間で、沈んでは浮いとる――」
「や、やった!」

 トウジが肩越しに指差した後方の人だかりの中から吐き出されたシンジ。一つ収穫物らしきものを抱えるように持っていた。



「……ア、アスカ?」

 静かな背中が余計に怖かった。半ば裏返ってる自分の声。や、やっぱり、まだ怒ってるんだろうか?
 両手で頬杖をついた状態のまま、近づいてくるシンジに顔を向けるアスカ。怒ってはなさそうだ……が、何かを疑っているかのような表情だ、と思った。右手を二度三度と開いては閉じる。

「ゴ、ゴメン…遅くなったけど、……コレ」

 頬杖をついたままのアスカの前に差し出された袋の中には、ケンスケから譲って貰ったカツサンドにジャイアントフランクと、いずれもアスカの好物が入っている。興味無さげに横目で袋の中に視線を落したアスカ。今まさに少年たちの緊張感はピークを迎えようとしていた。
 袋の中身を確認したアスカは少なからず驚いていた。あのタイミングからして、完全に出遅れた筈だった。よくこれだけ買えたもんだと、少し感心してみる。
 頑張ってくれたんだ……あたしの為に

「ふ、ふーん、まあまあの内容ね。いただくわ」

 右手をグッと握りしめるシンジ。その後方で、いざという時の為に間合いを取っていた三バカの残り二名も等しく胸を撫で下ろした。そして、アスカの周辺で、事の成り行きを固唾を飲んで見守っていた男子生徒達。春の訪れにも似たほんわかした解放感を肌で感じながら、各人よかったよかったとお昼ごはんに手を付け始めた。アスカ様より先に箸を付けることなど許されないのだ。


 うららかな陽光を湛えている窓から程良い明るさと暖かさが教室の中に染み込んでいる。
 お昼休みのほのぼのとした時間が流れる中、自分の席で文庫本を読んでいたレイは、近づいてきた気配に本から意識を戻された。

「……あ、綾波…邪魔して、ゴメン」
「……何?」
「こ、これ、良かったら……」

 シンジは、文庫本を持つレイの手の傍に、サンドイッチをそっと置いた。さっきシンジが人波に揉まれながら確保したポテトサラダのサンドイッチだ。

「……?……」
「あ、いや…余計なことして、ゴメン……昨日さ、綾波の近所のスーパーに行ったんだけど…その途中でさ…綾波が前に寄ってたコンビニに改装工事って貼り紙が、入口に貼ってたんだ…それで、ひょっとして、今日は、お昼ゴハンを持ってこれなかったんじゃないかって、その、思ってさ……」

 僅かに見開かれる瞳。レイへの説明に神経を集中させているシンジには、その僅かな変化には気付かない。

「あ、でもさ…実はお昼、持って来てたり…その、食べたくなければ、無理して食べないでね……どうせ、それ、僕が買い過ぎたもの、だからさ……あっ、トウジが呼んでるから行かなくちゃ…そ、それじゃ、また」

 一気に喋ると、少し染まった顔をレイから背けるように、教室の入口に向かってそそくさと歩き始めた。
 人知れず溜息を漏らす。結果として、たかだかサンドイッチを一つ手渡しただけのこと。何故こんなに緊張してしまうのだろう。
 レイとの距離は以前よりは縮まったとは思う。レイの雰囲気も以前のような冷たさを感じる事はなくなった。だが、自分自身はどうなんだろう? 日常的に交わすコミュニケーション以上の接触を図ろうとした途端、相も変わらず緊張感がせり上がってくる。
 先ほどのレイとのやり取りを顧みてみると、実感としてあるのは、何ら進歩が見られないと言わざるを得ない自分。しかし、一方で臆病ながら前向きにコミュニケーションを試みようとしている自分がいることも事実であり、これまでには無かったことだと思う。
 深く息を吸い込み、少し背筋を伸ばしたシンジ。教室を後にするその背中を深紅の瞳が見送っていた。その少女は大切そうにサンドイッチに両手を添えていた。


 一連のやり取りを黙って見ていたアスカ。消されていた表情が揺らいだかに見えたが、姿勢を戻して昼食を再開した。食べかけのサンドイッチを一口かじる。

「なんや、惣流。あんまり食べとらへんやないか。食欲ないんか?」

 気は進まなかったが声の主へと顔を向けた。その声の調子とは裏腹に少し心配げな表情を浮かべたトウジが立っている。

「……あんた、まだ居たの?」
「えらい言われ方やなー、忘れもん取りに来ただけやがな。それより今日もネルフやろ? あんじょう食べなもたへんで」
「あんたに言われなくっても分かってるわよ。女の子にはね、色んな日があんのよ」

 反応したのはトウジよりも周りに座っている男子生徒達だった。何か喉に詰まらせでもしたかのように、何人かは慌ててお茶やジュースを一気飲みし始めた。常時ワッチしてるのか。

「……ほうか、そら済まなんだな」少し染まった頬をポリポリと掻きながら踵を返した。
「これ持ってっていーわよ」

 振り返るトウジ。机の上には購買部の袋から手付かずのジャイアントフランクが顔を覗かせている。

「なんや今日は弁当が無いとかシンジに食ってかかっとったけど、気分が悪うなって食われへんようになったんはしょうがあらへん。せやけど、惣流な、それ惣流が腹減らしとるっちゅうて必死になってシンジが調達してきたもんやねんで。あとで気分がマシになった時にでも食べたらええと思うから、持っとき」

 アスカの返事を待たずにトウジは立ち去った。

「……分かった風な口の利き方して……なんだってんの…」



 総務局四課の番になった。課を代表して出席している係長の緊張掛かった声が室内に流れ始めると、俄かに意識を戻された楠は壁面の時計に視線を移した。
 午後1時より開始されたネルフ管理部門における調達計画に関わる合同定例会議。ネルフの福利厚生を所轄する総務局四課、そして本部施設の資材や兵器などの調達を分掌とする管理局四課の調達の一元管理によって効率化を推進することを目的としているが、それも楠が双方の課長職を兼務しているからこそ実現できたワークショップと言えた。調達物品の貯蔵及びプランニングを実質的に管理している総務局三課の係長である最上をチームリーダーとして指名し、この場を取り仕切らせている。

「――と、職員用購買部での当月の仕入れ内容及び総額は、売上予測共に、ほぼ予算並になる見込みです。次に来月度の見通しですが――」

 福利厚生は、ネルフに勤務する職員にとっては重要事項ではあるが、それに関連して動く金は、この非公開組織で支出予算計上された額の中では微々たるものであり、あくまで上位機関に対しての体裁を整えるレベルであれば問題は無い。当然に、収支の透明性を問うような監査法人などの外部団体が、この組織に対し査察を行う法的根拠は無く、予算目論見との誤差、そしてトピックのみに耳を傾けていれさえすれば事が足りると言えた。今はそれよりも、手許にある報告書のある頁にその意識の大半を支配されていた。何度も眼鏡をかけ直しながら懸命に説明を行っている四課の利根一尉には申し訳ないとは思ったが、楠は再び手許の資料に意識を集中した。

「――となります。総務局四課からは以上です」
「はい。結論としましては、当月実績並びに来月度見通しもほぼ予算通りの推移とみていいですね……買掛金も……はい、特段注意を要する点も見られず、特別な資金要請が必要となるイベントも無いですね」
「はい」
「結構です。では、次、管理局四課からの報告をお願いします」
「えーでは、当月実績から報告いたします。が、当月は支出圧縮月間でもありましたので、兵装ビル装填用の通常爆雷を200マガジン、そして第46区画用の建造関連資材のみでありました。来月度は、本年度の調達プランからN2爆雷5セットの調達が予算計上されておりますので、計上数値もそれなりのものになっております。先だって入手した情報では、納期は予定通り――」

 分厚い資料がデスクの上に放り投げられた音に、管理局四課の係長の報告は遮られた。何事かと、他のメンバーの視線も楠に集中する。

「N2の調達は3セットに変更しましょう。予算数値との差額を対人要撃兵器の調達に充てます」

 ひどく驚いた表情を浮かべたまま、言葉を失う三人のメンバー。報告用のレジュメを片手に茫然と楠に視線を留めていた管理局四課の係長が、息を吹き返したかのように、浅く息を吸い込んだ。

「……い、いえ…三佐。それは、拙いと思います。予算の用途外執行は…即、査問委員会の対象となります」
「納品書の辻褄を合わせれば問題ないでしょう。この組織にあって納品書や貯蔵品台帳をチェック出来る第三者機関は存在しません。それに…この手の発注先は、どうせ窓口は一本で、いつものネルフ通商でしょう? どうにでもなります」そして、唯一の監査執行権限も手の内にある。
「し、しかし…予算の補正承認無しには、拙いですよ、やはり……それに、銃器等は戦自と同一のルートで、半期に一度、国連よりある程度の数量が供出されております……」

 非公開の軍事組織とは言え、やはり科学者上がりが多勢を占めているわけだ。根本的なところを理解している人間が少なすぎる

「では、総務局三課の最上一尉に説明いただきましょう。ネルフ本部の実質的な兵器廠としてこのレポートを準備してもらったのですが、記載されている対人要撃兵器の明細について、読み上げて下さい」

 慌てて楠が放り投げたレポートを手に、該当の頁を探してペラペラとめくる。

「……ええー、これは現在ネルフ本部に貯蔵されている兵器、についてサマライズしたものでして……初めに――」

 黙って説明に耳を傾けているメンバー。皆、上目遣いに何が問題なんだ、といった表情を浮かべている。

「――となり、それらの銃器は、全て西棟射撃練習場に隣接している貯蔵庫で厳重に管理されております。但し、一部、職務上のステイタスによりライセンスを保有している職員……例えば、保安諜報部のメンバーなどには常時携帯が認められています。その他、リストには作戦局一課の課長も入っていますが、これは例外ですね……過去に従軍経歴があったのでしょうか……後は――」

 特殊監査部、という言葉を飲み込み顔を上げた。レポートを捧げるように楠の前に戻す。ぼんやりとそこに視線を投げかけていた楠は、シャツの中で嫌な汗が滲んでくるのを感じた。

「私の指示に変更はありません。管理局四課は、今お話した件について、速やかに発注先との調整に入ってください。本日はこれまでとします」

 他のメンバーが退室するのを見届けると、総務局四課の利根がいつもずり落ちている眼鏡を直しながら楠に近づいてきた。

「……楠三佐、一件報告させて戴きたいのですが」
「お聞きしましょう」
「はい。先日報告しましたファーストチルドレンの件ですが、その後も職員食堂を利用しているとの確認が取れているのですが、どうも肉類が苦手だとの情報が入ってきております」
「ほお…何かありましたか?」
「ファーストチルドレンが食堂を訪れるようになってから、メニューを担当する職員も彼女が好んで選択する料理…と言いましても、シンプルなものが多いのですが、それらの料理のバリエーションを増やしてまいりました。申し上げるでもなく、十分なカロリーと栄養を摂取して貰うためなのですが……」
「いいことです。これまで本部内でも固形栄養補助食品しか摂っていなかったと聞いていましたからね」
「はい。それにつきましても担当職員に情報共有が為されておりまして、余計に気合が入ったようです。ただ、特定のカテゴリーのバリエーションが増えたのではと、他の職員が訝しく思っているかも知れませんが……」再び眼鏡を直した。
「問題ありません。特段そんな報告は受けていませんし、また気に掛ける必要もありません」
「有難うございます。それで、バリエーションを増やしたまでは良かったのですが、どうも肉類が入っている、若しくは入っていると疑わしいメニューは避けているようなのです。だからだと思うのですが、どうしてもベーシックなメニューを選ぶ傾向が強くなっているようです」
「なるほど…ただベジタリアンという訳ではなさそうですね。動物性たんぱく質に対してアレルギーを持っている事も考えられますね……では、入口のウィンドに並んでいるメニューのサンプルのタグに『肉抜き』と表示してはどうでしょう? これで彼女のチョイスも増えるのではないでしょうか。またメニューを考える側にモチベーションを保って貰うことも大切ですからね」
「……確かにその通りですね。了解いたしました。また、肉抜きメニューに不足する栄養を補えるようなアイデアは担当職員にも検討させます」
「よろしいのではないのでしょうか? ファーストチルドレンの基礎代謝を考えますと、最低でも一日に1300kcal程度のカロリーは摂取すべきですからね。朝食と夕食も栄養補助食品で済ませている可能性を考えれば、ここで昼食を摂る日くらいは何とか補って欲しいところです。……何より」
「はい?」
「いや、チョイスするメニューが増えて、少しでも食べることの楽しさを分かってもらえれば、と思いますね。誰かは知りませんが、彼女に食べることの大切さを説いた人間がいたという事ですからね」



 今日もいい天気だった。
 幾重にもうねるような蝉の鳴き声が、この瞬間の夏をより一層色濃く映し出している。
 シンジは、窓の外に向けていた視線を少し後方にずらしてみた。
 視界の中に登場した一人の少女。いつものように片手で頬杖をついて、窓から外を眺めている。
 まるで、その少女一人にスポットライトが当てられているかのように、午後の陽射しが柔らかく降りそそいでいる。
 光の妖精たち。その小さな手で梳かれるかのように、少女の繊細な髪の毛の一本一本がプラチナブルーに煌めいている。
 綺麗だ、とシンジは思った。それは意識せずに織り成されるルーティンのように、日に幾度かはこうしてその少女に視線を留めてしまうのだ。こうして眺めているだけでも気持ちが落ち着いてくるのはどうしてだろう? 何故か気に掛かる存在、というのが出会った当初の印象だった。それから、決して長いとは言えない時間の中で幾度かの接点を乗り越える度に、シンジの中で大きくなっていったその少女の存在。好意という言葉で素直に言い表せないのは、どこか繋がっているような錯覚に陥るまでの不思議な近さを感じる時があるからなのだろうか。

「――とぉ、聞いてんの? バカシンジ!」
「……え? あ、うん」

 現実世界が動きだす。

「……あんた、大丈夫? とっくに鐘はなってんのよ……」
「う、うん…ご、ごめん」
「さっ、目が覚めたんなら、さっさと行くわよ! 今日はあんまり時間無いんだから。リツコに冷たい目で怒られんのは、あたしぜーたい嫌よ」

 既に帰り支度を済ませていたアスカは、ぶつぶつと呟きながら教室の出口に歩いて行った。慌てて、教科書やら文具を鞄に詰め込むシンジ。

「……碇くん」

 囁くようで明朗。その声に続いて手許に落ちる影。視線を上げると微かに淡い紅が胸の中に染みいってきた。

「……あ、ゴ、ゴメン。行こうか」
「……うん」



「――以上がマギに残されていた当時レイに施された治験内容についての履歴と概要です」
「……ふむ。それで、君の所見はどうなのかね?」

 相変わらずの明度の低さに、広大な空間そのものが底なしの淵に沈みこんでいくような錯覚に陥ってしまう。ネルフ総司令室。
 相変わらずの体勢でリツコの報告を聞き終えたゲンドウの表情を垣間見ることは出来ない。眉間に皺を浮かべている冬月に視線を移し、言葉を続けた。

「……結論から申し上げたいところですが、余りに未知数な部分が多く、近い将来レイの身体に何が起こるかについては、明確に申し上げることはできません。ただ……」
「……ただ?」やや頭を前に向けるようにして、目を細める表情を作った冬月。眉間の皺が一層深くなる。
「……やはり、幼少期に治験の過程で受けた措置並びに投薬が、今回の片頭痛と何かしらの因果関係を持っている事はほぼ間違いないと思います」
「……ナオコ君か……」ゲンドウを一瞥し、言葉を続ける。「単なる片頭痛では無いということだな……何とか予測出来ないのかね? 次にレイの身体に起きることを」
「……解りません…正直申し上げて。当初、司令よりレイを引き継いだ時に、その成長の速さに、母…赤木ナオコ博士は科学者として純粋に興味を持ったようです。そして、その解析の過程で何かしらの増殖因子についての解明に辿りついたらしい記録が残っていました。この生体技術はそのまま初号機の生成に応用されたらしいのですが、治験と称してその後も続けられた投薬、そして実験は、遺伝子レベルでレイに更なる成長促進プログラムを走らせる結果になったと考えられます」

 ゲンドウが堅く目を瞑ったのがサングラス越しにも分かった。数音高くなる副司令の声。

「なんと…拙いのではないか、それは……それでは、行きつく先は……」


体組織の崩壊



 呼吸さえも停止したかのような時間が流れた。広大な空間に揺れる三人の中心に滴り、静かに広がっていく沈黙という名の波紋。

「……赤木博士」
「はい」
「先ずは、今発症している片頭痛への効果的な対処療法を実施して貰いたい。そして、並行して根本的な解決方法の模索を頼む」
「はい。本日、シンクロテスト後に技術部でその為の措置を開始する事になっています。手探りの状態なので臨床実験的となる嫌いはありますが、薬剤の投与による体組織からのフィードバック例を一つ一つ地道に拾っていく他ありません」
「……それでいい……それと」
「はい」
「レイの扱いについても、これまで通りでいい。余計な拘束などは必要無い」
「おい…い―」
「はい、解りました……」

 そっと吐いたリツコの溜め息が二人に届くことは無かった。



「あ〜あ、結局今日もこんな時間じゃなーい! つっかれたぁー」

 シンクロテストを終えたチルドレンたちが更衣室へと歩を進めている。連日のテスト。今日は特に過去データとのベンチマークとやらで、弐号機のデータ取りが集中的に為される中、休憩さえ与えられないプログラムに流石のアスカも少々お疲れのご様子だ。シンジの横で生あくびを堪えるアスカに苦笑いを浮かべようとした途端、シンジ自身も足がもつれそうになった。二人の後方では、いつものようにレイが少し離れて付いてきている。やや視線を落しているのは、やはり疲労感に襲われているからであろうか。いずれにしてもリツコによる概評は既に終わっているのだが、シャワーに着替えが終われば帰途につける、とは素直に喜べないのは今のシンジの立場だ。早々に主夫モードへの切り替えを余儀なくされるシンジは、取り敢えずは帰路途上での食材の買い出しに思いを馳せた。昨日買い込んだ大量の食材は、ものの見事に二人の同居人により昨晩の内に平らげられてしまったからだ。

「……ねぇ、シンジぃ」
「な、何?」
「今日の晩ゴハン、何?」
(な、なんで考えてることが解ったんだろう…)
「う、うん、何にしようかな……何か食べたいものある、アスカ? いずれにしても帰りにスーパーに寄らないといけないから」
「えー! 今日もぉ? 昨日、行ったじゃないのぉ……」

 失望感に疲労がピークに達したのだろう。弱々しく言葉尻がしぼんでいく。

「で、でも…昨日買い込んだ分は、ミサトさんとアスカとで全部食べちゃったじゃないか」
「……あんたって…ホントにしっつれいなオトコね……レディに対しての言葉じゃないわ。まーいいわ、今日はあたしも買い出しに付き合ったげる。食材見ながら今日食べたいモノ、考えるわ」

 一寸思案し、後ろを振り返ったシンジは、思いっきりレイと視線が合ってしまった。大きく鳴った鼓動に自分でも驚く。

「あ、綾波も一緒に寄ってかない? 近くのスーパーなんだけど……」
「……今日は、これから赤木博士のとこに行かないといけないから」
「そ、そうなんだ……」

 アスカの脚が止まった。顔を上げると女子更衣室のドア。

「……綾波、そ、それじゃあ、また明日……。あっ、アスカ、メインゲートを出たとこで待ってるから」

 また明日、と小さな声で応えるレイ。シンジの背中に一瞬視線を留めた後、更衣室の中に消えた。その後方、少し面白くなさそうな表情を浮かべていたアスカは、更衣室のドアが閉る寸前、叩くように解放ボタンを押してレイに続いた。



 水の中に滲ませたインクのようにゆっくり広がる夜の帳に、思い出したように冷え込む身体。思わずコートの襟を立てていた。年も明け早やひと月が過ぎようとしているこの時期、まだまだ日は短く芯まで冷え込む寒さに吐く息は早々に凍てつき始めた。セカンドインパクト前であれば、そんなシチュエーションだったのだろう。他愛も無い想像に駆られていると、すぐ近くで乾いたスキール音が木霊した。ボディボードのように駐車場に滑り込んでくる一台の車。銀色のアウディが目に入った。

「……結構、掛かったね」
「だいたい、無理があるわよ…二課の課長職責だけでも途轍もないタスクがあるっていうのに……アスカちゃんのガードまで自分でやっちゃうなんて」
「理由があるんだと思うよ。何でもドイツから随伴してきた前職から、課長が直接引き継いだって言ってたからなあ」
「えーでも、その前職って特殊監査部の加持さんでしょ? ウチにとってはマズイ相手なんじゃないの? ちょっとカッコいいけど」
「どうだろね。悪い人には見えないけどね。まあ、身内からもあまり歓迎される存在でないことは確かだろうね……ウチと同じさ」

 プジョーの隣に慌ただしく停止したアウディに向き直る二人。タイヤの焼ける匂いが鼻についた。



 キョロキョロと蒼い視線をあちらこちらに落ち着きなく彷徨わせている。思えば、来日してから日本のスーパーに来たのは初めてだった。これまでの買い物は専らコンフォートすぐ傍のコンビニとネルフの購買部で済ませてきた。今、彼らがいるスーパーは、規模でこそアスカがドイツでいつも通っていた大型スーパーとさほど変わらないが、品揃えが圧倒的に違う。食材からお菓子に至るまで、日本産は勿論のこと、陳列棚の過半数が外国産品で溢れかえっていた。中にはアスカがドイツで好んで食べていたお菓子もある。

「シンジ、見て見て」
「……え?」

 食肉売り場で、片手で頬杖をつきながら手羽先を厳選していたシンジ。何事かとアスカに歩み寄る。

「シンジぃ、アイスバイン、アイスバイン」

 そんなの見りゃ分かる。アスカが指差した先には、紛うこと無きドイツの名物料理、アイスバインがケータリングパックの中ではち切れんばかりの存在感を主張していた。レイが見れば卒倒するだろう。

「だ、だめだよ、こんなのデカすぎるし…アスカとミサトさん二人掛りでも食べ切れないよ…それに完全にカロリーオーバーだよ」

 いくら何でも大き過ぎる。余ったら明日のお弁当に入れろなどと言われても困る。罵声を浴びる覚悟で反対してみた。が、何故かアスカの反応はシンジの想定外のものだった。

「……ダメ?」

 俯き気味に目線を落とした後、ションボリと上目遣いにシンジを見つめている。見たことのないしおらしさに思わず心拍数が上昇しそうになった。今日はどうしたんだろう、本当にアスカなんだろかと思ってしまう。頬が少し熱い。
 シンジはそのパックを黙って買い物カゴに放り込むと、顔を逸らすように元の鶏肉コーナーに大股で向かった。
 アッサリと折れたシンジに、キョトンとした表情を浮かべていたアスカだが、次の瞬間パッと花が咲いたような明るい笑顔を浮かべた。

「シンジ、次、あそこ!」

 後ろからの軽い衝撃に続いて右腕が前方に持って行かれた。

「ちょちょっと、ア、アスカ」

 シンジの右腕にアスカの白い腕が絡んでいた。


「仲良く買い物してんじゃない、あの二人。シンジ君、てっきりアスカちゃんに家来のように扱われてんじゃないかと思ってたけど」
「僕にはシンジ君が補導されているようにしか見えないけどなあ」
「今日の買い出しは二人一緒か。どういった風の吹き回しなんだろう…それに今日のセカンド、いつもと少し様子が違うね」
「あら、課長。ここ最近ですけど、シンジ君と一緒の時には偶にあんな表情を見せることがありますわ」
「そうだったかな。それにしてもいつもと落差があるような……ツンデレというやつかね」
「そうとも限りませんわ。女の子には色んな日がありますもの」
「……そうだね」

 その時、野菜コーナーに向かってシンジをけん引していたアスカの脚がパタッと止まった。後方を伺うように見返る。自分たちに視線を注いでいる三名の大人達を見出すや、静かに見据えた。が、次の瞬間ニコッとして、再び野菜コーナーへとシンジを曳きまわし始めた。

「……流石ですね」
「ああ、何てったってあのセカンドチルドレンだよ」



「予算の補正?」

 冬月の声が広大な総司令室に響いた。いつものように口元を隠すように両手を組んでいるゲンドウ。その斜め後ろで屹立している男は俄かに釈然としない表情を浮かべた。

「……それは、ネルフの運営関連…つまり総務局四課の、かね?」
「いえ、管理局四課です」
「むう…そちらは簡単ではないぞ。動いている額も大きいしな。知っているとは思うが、ネルフの運営に関わる総務局との予算とは違い、管理局の予算執行は第3新東京市の建造ロードマップにリンクし、毎年委員会から一方的に割賦されるものだ」
「はい。存じております」
「よって、期中での修正は基本的にありえんし、当方からの補正申請の手順なども存在せん」
「……………」
「……何かあったかね?」
「ネルフ本部施設ですが、警備面での瑕疵が散見されます」
「……聞かせてくれるかね?」
「保安局にも確認したのですが、第一に対人要撃システムが本部施設の中に組み込まれていません」
「……………」
「次に銃器等、対人兵器の類です。絶対数量が不足しているばかりか、その殆どが西棟射撃練習場隣の貯蔵庫で管理されており、これでは重火器でなくとも武装したテロリストなどの侵入を阻止する術はありません。人類の切り札とも言える決戦兵器を擁する軍事組織とは到底思えない警備状況であると思います」
「ふむ……………実際に楠三佐が指摘した通りだよ。だが、事実としては、本年度の予算執行に際して、昨年ネルフより追加申請された対人要撃システムについてはプライオリティの低さを理由に却下されておるのだよ」
「それは……おかしいのでは無いでしょうか? 繰り返すようで恐縮ですが、今の状態では訓練された集団であれば、ここを占拠するのに半日と掛からないでしょう。占拠された後の破壊工作は至極自然なルーティンです。そのようなリスクを上位機関が容認しているという事なのでしょうか?」
「……………」
「事後報告で申し訳ないのですが、私の職責と権限で出来る限りの措置を取らせて頂くこととしました。管理局四課の予算より、微々たる額ではありますが対人兵器の調達に回させて頂きます。予算の補正が困難であると判明した以上、非合法的な手法を敢行せざるを得ませんが、背に腹は変えられないと思います。勿論、委員会への納品証憑の提示については細心の注意を払わせていただくつもりですが」
「ふむ、だが本部施設への対人要撃システムなどの大掛りなものは無理だぞ。目立ち過ぎるからな。連中に気付かれて、それこそおかしな口実を与えることになる」
「ご心配には及びません。当面は銃器類と弾薬の調達、そして施設内の職員の持ち場での管理を目標にしたいと思います。常時携帯までの必要性は無いと思いますが、銃器類の運用方法が変更となる点については、私の総務局三課と保安局とのすり合わせが必要となりますので、予め副司令よりも保安局長にお話を入れておいて頂ければと思います」
「その点については問題は無いな。だが、もうひと捻り必要だな」副司令は天を仰いだ
「……楠三佐」
「はい」
「本部施設においての警備上の問題点は語るに尽くされている。正面切った動きが取れない中、かつて警備局に籍を置いていた君を呼んだ理由の一つでもある。今報告を受けた事項についても反対する理由は無い。存分にやってくれ」
「はい」
「ただ、冬月が言った『目眩まし』は必要だろう。来週にでも、対人要撃システムの追加予算申請についての稟申を再度委員会に上げる」



 ぐつぐつと暴れ始めたル・クルーゼのステン寸胴鍋を視界に留めながらも、シンジは茹でたじゃがいもの皮を剥く手を休めることは無かった。じゃがいもは予め切り目を入れてから茹で上げ、冷水に浸していたので、皮むきは簡単だ。続いて包丁で程良い大きさに切り分け、オリーブオイルの湯気が立つフライパンに放り込む。本日の前菜の一つとなるジャーマンポテトを作るシンジの手際は冴えていた。もう一つの前菜、ポタージュスープにかけている火も直に止めなければならない。ベーコンを短冊切りにする傍ら、バケットをトースターに入れる時間を逆算していた時、キッチンにインターフォンの音が鳴り響いた。

「アスカ! ゴメン。手が離せないんで出てくんない!? 多分ミサトさんだよ」包丁を使う手は止めずに首だけをリビングに向ける。
「シンジぃ…あたしダメ。お腹空いて、もうぐにゃぐにゃ……」
「もうすぐジャーマンポテト、出来るんだけど」
「あーい」

 アスカの返事が終わらない内に、エアロックドアが開放される音に続き、どたどたとミサトがダイニングに姿を現した。

「たっだいまー。あー暑っちいわねぇー。シンちゃん、外にまでいい匂いが充満してんだけど、今日は何ー? わあっ! 美味しそー」

 いつもと変わらない明るさに、体感温度が2、3度は上がった気がした。そして、案の定ドサクサに紛れて冷蔵庫のドアノブに手をかけているミサトに目敏く気付いた。

「ミ、ミサトさん…ダメですよ。先にシャワーを浴びてきて下さい。どうせ晩ごはんの準備ができるまであと少しかかりますので」
「シンちゃん…あたし、もお喉が渇いて…んだから、ちょっちだけぇ……」
「……ミサトさん」
「あーい」

 うなだれ気味に浴室に向かうミサト。これでいいのだ。ここで許してしまうと、食事が始まるまでに3、4本は空けてしまうだろう。
 シンジはトースターのスイッチを入れ、その思考を前菜の仕上げと翌日のお弁当の準備に意識を戻した。冷蔵庫を開けて、予め下拵えを済ませていた夏野菜の入ったトレーを取り出し、キッチンの天板に置いた。お弁当は、前日のおかずをアレンジして使うのが鉄則だ。でも明日は特別だった。キッチンの天盤には4ツのお弁当箱が口を開けて待っている。



 ひっそりとした室内に微かに漏れてくる小鳥たちのさえずり。時折り聞こえる紙のような軽い羽音が耳に心地良い。突然の事だった、無粋な音が加わったのは。断続的に表現し難い異音を撒き続けているそれは、何やら特殊な振動をも発しているようだ。やがて根負けしたように白い手が伸びていく。机の上を少し弄った後、やっと手に取ったそれは携帯端末だった。震え続けているそれをベッドの中に引きずり込み、おでこにくっ付けるようにしてディスプレイを覗き込んだ。良く見えない。目が開いてないからか。手の甲で目をゴシゴシ擦ると、今後はディスプレイにぼんやりと文字が浮かび上がった。

 シンジ

(……な…に?)

 ほぼ同時に部屋のドアを控え気味にノックしている音が耳に入ってきた。

「ねえ、アスカぁー! どうかしたの? 学校に遅れちゃうよ」

 瞬時に覚醒した。もう一度携帯端末を見る。今後は、ひときわ大きいフォントの現在時刻が見て取れた。

「あーー!」
「どっ、どうしたの? アスカ! あ、開けるよ!」
「イッ!?」

 ベッドから飛び出していたアスカは自分の格好に今更ながらに気が付いた。身に付けているものは身体に辛うじて引っ掛かっているような下着だけ。

「ダ、ダメーー!!」

 車はすぐには止まれない。これでもかと開け放たれた襖の向こうから、次の瞬間すさまじい破壊力の蹴りが繰り出された。



「イテテテ」

 第3新東京市立第壱中学への登校途上、シンジは痛む左頬をさすりながら覚束ない足取りで歩いている。

「あんたが悪いのよ。ダメだって言ってんのに開けんだもん。ま、見物料と思えば安いもんだわ」
「……だって、アスカ、何回起こしに行っても反応無かったし、早出のミサトさんはサッサとネルフに行っちゃうし、携帯を鳴らしても全然出ないんだもん。なのに……ひ、ひどいよ」
「なによ、あんた…このアタシが悪いって言うの?」
「い、いや、そういう訳じゃなくて……」
「ま、いいわ。昨日の晩はあたしも疲れきってたしね。晩御飯食べた後、直ぐに部屋に戻ったまでは記憶あるんだけど、目覚ましも掛けずにそのまま寝ちゃったのよね。ところで……」
「な、何? ……」
「そのお弁当だれの?」

 シンジが鞄と一緒に持っているエコバッグに蒼い視線が注がれている。

「……え、これは僕とアスカのじゃないか」
「あんた、バカァ? 誰が二つも食べるのよ」
「……だ、誰って」
「……ファーストでしょ?」
「……あ、いや………う、うん」
「べーつに、コソコソ隠すこと無いのに」
「……その、隠している訳じゃあ」
「ふーん、こないだは夕食に誘うだの何だの言ってたのに、お弁当に格下げしたんだ」
「……い、いや、そんな訳じゃ無いんだけど」
「だったら何なのよ。ほーんと、ウジウジしたオトコね……」
「……だよね。僕なんかがさ、誘ったって、綾波が喜ぶはず無いんだ……だから……」

 顔を俯かせたシンジ。その横顔に浮かんだ寂しげな笑顔を見たとき、アスカの胸の中で何かチクリとしたものが走った。

「……………」

 脚を止めたアスカを置き去りにするように歩を進めるシンジ。その背中を追っている蒼い視線には気付かない。

「……何なのよ……いったい」囁くように呟いた。

 ふと顔を上げ、隣にアスカがいないのに気がついたシンジ。どうしたんだろうかと後ろを振り返る。そして予期しない蒼に驚いた。

「……ど、どうしたの? アスカ?」
「……なんでも無いわよ…さっ、行くわよ。学校に遅れるわよ」



 4時限目の終了を告げる鐘の余韻が尾を引く中、徐にその少年は懐からデジカメを取り出した。ターゲットに向けてゆったりと構える姿は、剣士の立ち合いを彷彿とさせる。これまでの経験則から、アスカがシンジからお弁当を受け取る瞬間も間違いなくシャッターチャンスの一つだと認識している。今朝、ケンスケはシンジが持ってきていたエコバッグをしっかりとチェックしていた。昨日の今日だ、もはや抜かりはあるまい、などと独りごちている。が、シンジからお弁当を受け取ったアスカの表情は、パイロット専属カメラマンとしては今ひとつ納得のいくものでは無かった。

「……あれえ?」
「はぁ? …どないしてん?」
「いや、惣流だけど……どうしたんだろう……」
「ケンスケ、そらあかんで。覚えとるやろ。昨日もアノ日でたいがいやったんやで……今日もアウトに決まっとるやろ」
「そうなのかなあ? ……今日は碇も弁当作ってきてるもんなぁ」
「せやせや、さわらぬ神に崇りなしっちゅうやっちゃ。それよりワイらのメシや! 購買購買! 早よ、行くで」

 あ〜あと溜息をつきながらデジカメを懐に収め、教室の入口に向かおうと立ち上がった時、シンジが教室の奥の窓際の席へと歩を進めていくのが目に入った。ケンスケは条件反射的に懐から再びデジカメを取り出していた。


「あ、綾波」
「…………何?」

 珍しくレイの返事がワンテンポ遅れたのは、何か考え事をしていたからだろうか。文庫本からシンジに向けられた顔の前にゆっくりと差し出された包み。

 ???

「こ、これ、お弁当。良かったら…その、食べてくれないかな?」
「……?……」
「いや、例のコンビニの改装工事さ…当分かかるんじゃないかって、その、思ってさ……」

 ハッキリと分かるほどに見開かれる瞳。差し出されたランチボックスに紅い視線を落した後、再びシンジを見上げる。

「……毎日はムリかも知れないけど、それまで良かったら、と思って…あっ、それと、お肉は入って無いから…」
「碇…くん……」
「……へ?」

 囁くような声のレイに思わず身体を寄せるシンジ。レイに差し伸べられていたランチボックスを胸に抱くような体勢になった。思ったよりレイの顔が近い。次第に頬が熱くなるのを自覚する一方、微かに漂う甘い香りに、緊張感を霧散させていくいつもの感覚がゆっくりと持ち上がってくる。

「………ありがと」

 囁くような感謝のことば。レイは微かに頬を染めていた。


 ゆっくりとカメラを下したケンスケは感動に包まれていた。
 最近レイが時おり垣間見せる優しげな表情は、もはやクラス中の誰もが知るところとなっている。もともとが凄い美少女。しかしながら生来の無愛想に無表情。そこにエヴァパイロットであるためか欠席がちであることも加わり、近寄りがたいというイメージがクラスの皆の共通した認識であった。今は先のダブルキャンペーンの効果もあり、人気も生写真の売り上げもクラス内に留まらずウナギ登りとなっている。そしてエヴァパイロット専属(?)カメラマンとして楽しみにしている今後レイが見せてくるれであろうポテンシャル。まさか今日このタイミングで、新たな一面を垣間見れるとは思わなかった。そして、それは最高のアングルでこのカメラに収められたのだ。

「なんや、ええ雰囲気になっとるやないか」
「……何だよ、トウジ。まだいたのか」
「エライ言い方しよるなー。自分がけえへんから、心配して戻ってきたんやでぇ」
「悪いな。千載一遇のチャンスだったからな……バッチリだよ」
「ヨシャ。これでワイらの昼メシも安泰や……せやけど、ケンスケな。綾波の最後の写真はアカンで」
「分かってるって。あれは碇のモンさ」
「はーしかし、ええよなー。シンジ、ワイにも作ってくれへんかなー、ごっつい美味いらしいって聞いとるよってなー」
「まっ、他を当たってみるんだな。取り敢えずは購買に行こうぜ。あーあ、また今日もバーターだよ、こりゃ……」

 平和な雰囲気を醸し出しながら教室から出ていく二人組。アスカと一緒にお弁当を食べていたヒカリは、その内の一人、頭の後で手を組んでいるジャージ姿の少年の後ろ姿を見つめていた。

「……そんなに気になる? あの熱血バカのこと」
「えっ!? な、何言ってんのよ、アスカ」
「……言うわよ。目の前でこんなに熱い視線を送ってんだモン」
「そっ、そんな、熱い視線だなんてぇ。な、何で、す、鈴原なんかに」
「あら、あたし、鈴原なんて一言も言ってないんだけど」
「ちょっとぉ! アスカぁ!」

 学級委員長として凛々しい印象が多分を占めるヒカリが、見る見る顔を朱に染めながら普通の女の子へと還っていくのを、アスカは微笑ましい気持ちで眺めていた。人を好きになるという事にはこんな力があるんだ、と思った。

「……どいつもこいつも判り易いったらありゃしない」

 ヒカリにも届かない程の小さな呟き。はぁ、と溜息をついて窓際に座っている空色の髪の少女に視線を投げかけた。その少女はランチボックスに両手を添えて、紅い視線を落している。今日、アスカのランチボックスは、ボリュームたっぷりのイベリコ豚の一口カツがメインに詰められていた。言うまでも無くアスカの大好物だ。昨日の事を気に掛けたのだろう。その準備にシンジが手間を掛けてくれたことが良く分かる。一方、レイは肉を食べることが出来ない。シンジの事だ、レイの為にわざわざ肉抜きのメニュー、それも手抜きしない内容のものを準備したのだと思う。どんな気持ちで作ったのだろうかと考えてしまう。

(……ファースト、あんな顔するんだ)



 ネルフ本部西棟。更衣室へと続くそれほど広くはない通路に、心持ち疲れ気味の足音が響いていた。IDをスリットに通すと、控えめな音を従えてエアロックが開放される。

「あーあ、毎日テストばっか。つっかれるわねー。まあ、今日はまだマシだったけどさ」
「…………」

 更衣室に姿を見せたのは惣流・アスカ・ラングレー。レイも続いて入ってきた。リツコによる概評を終えたばかりで、プラグスーツ姿の二人はまだLCLに濡れている。早くプラグスーツを脱いでシャワーを浴びたい。もはや日常のルーティンになってはいるが、心と身体の緊張がジワリと解かれる瞬間に気持ちが逸る。後は帰途につくだけなのだ。一日の終わりをここまで実感することは、普通の14歳の少年少女ではあり得ないことだろう。穏やかな疲労感に少しの充足感を乗せつつ、アスカはロッカーを開けた。後ろからエアの抜ける音が聞こえた。振り向くと白いプラグスーツがベンチ脇に脱ぎ捨てられている。シャワー室へと歩を進めるレイ。相変わらず身支度が早い。


「ねえ、ファースト」
「何?」

 シャワー室から出てきたアスカは、バスタオルで髪を拭いながらレイに声を掛けた。ブラウスのボタンをとめていたレイ。アスカを振りかえった顔に表情は見られない。青藍の瞳に向けられる射抜くような深紅の視線。相変わらずだな、と思ったが構わず続けた。

「あんた、こんどの日曜日の晩ってヒマ?」
「……特に何も無いわ」
「そう…じゃ、話は早いわ。なんだかバカシンジがあんたを夕食に招待したいらしいわ」
「ば…か?」
「シンジよ、シ・ン・ジ……今日もあんたにおべんと渡してたみたいだけど、ホントは夕食に誘いたいらしくてウズウズしてるらしいわ」
「…………」
「来る? それとも――」
「行くわ」
「ふ、ふん…そお。分かったわ。バカシンジに伝えとくわ。場所はミサトのマンションだけど、一回来たから知ってるわよね? 時間は…ネルフでのテストは無いから夕方の5時集合ってことでいーわね」
「うん」

 話しているうちにも、レイが雰囲気が柔らかなものに変わっていくのが分かる。
 まったくもって、何でこのアタシが……



 何か伝えたいものがあるのか。一心不乱に翌日の弁当の下拵えを進めていくシンジには、そう思えるほどの集中力が漲っていた。浴室からはアスカの軽やかなハミングが聞こえてきている。夕食の準備は万全だ。前菜の豆腐サラダは既に大皿に盛りつけられ、中華ドレッシングが和えられるのを待っていた。メインの二品についても、海老チリはフライパンの中でてらてらと盛り付けを待っている状態で、ネルフから帰ってきて直ぐに漬け込みダレに寝かされていた手羽先も、今や片栗粉を纏ってスタンバイOKの状態だ。兎に角、アスカがお風呂からあがってくるまでに、出来るだけ翌日の弁当の準備をしておきたかった。ネルフからの帰途、熟考したメニューの下拵えを、夕食を調理する合間のちょっとした手持ち時間を利用して取りかかる。アスカの入浴中にその準備を集中するのは、下拵えの内容を見て何か突っ込まれるのではないか、という意識が働いているのは言うまでもない。なにせ、昨日の晩から拵え始めた弁当はこれまでとは俄然内容が違っていた。もはや前日の残り物を使った賄い料理の延長線上のものでは無かった。綾波はお肉が食べれないから別のメニューを考えないとダメなんだ、などと言い訳を浮かべてはいるが、詰まるところ夕食に呼べない分、お品書きを添えたくなるほどに手間暇かければ、その分美味しく喜んで食べてくれるかもしれない、というささやかな意識がシンジをモチベートさせているのだ。


       ありがと


 知らず手を止めていたシンジ。少し顔を綻ばせた。

「あんた、おべんとの準備するのに、えらいニヤニヤしてんのね」
「わあっ! びっくりした。ア、アスカ、あがったんだ」そのままの姿勢で15センチは飛び上がった。
「……なんであたしがお風呂からあがったら、いつもビックリすんのよ。なーんかコソコソしてるからじゃないの?」
「な、なんでお弁当の準備するのにコソコソしなけりゃならないんだよ」
「そーかしら……ふーん。明日のおべんとも豪華みたいね……」シンジの傍らにジトっとした視線を向けている。
「こ、これは、アスカの分も入ってんじゃないか」
「ふーん、まあいいわ。今日のは内容も味も良かったしね……ところで」
「な、なに? ……」まだ何かあるのか?

 何故か一呼吸入れたアスカ。ワンテンポおいて続ける。

「あんたがファーストを誘えないとか、うじうじ言ってた件だけど、今日ファーストに話したら来るってさ」
「は? え? ………ええっ!? ア、アスカ、そ、それって!?」
「あーもう、何度も言わせないでよ。それで日程も決めてきたからね。こんどの日曜の夕方5時スタートよ。どーせ、あんたに日程決めさせても、うじうじ言って何も決まんないだろうからね」
「あ、有難う、アスカ」

 抱きつかんばかりの勢いでアスカに歩み寄るシンジ。久しぶりの屈託のない笑顔を浮かべている。シンジの急速接近とその笑顔に、少し気圧され気味となってしまったアスカ。すぐにプイと横を向いたが、その頬は少し染まっているように見える。

「あ、あたしは別に……で、でも分かってるんでしょうね! ファーストは肉が食べれないんだからね。そこんとこ考えて美味しいもん作んのよ。勿論、あたしの好きな料理に手を抜いたりしたら承知しないからね」
「も、勿論だよ。でも、今度の日曜日の夜って、ミサトさんは大丈夫なのかな」
「もーちろん、大丈夫よん」
「「ミサト(さん)!」」

 いつのまに帰ってきたのか、ダイニングの入口のところでミサトがにこやかに立っている。エアロックが解除される音には二人とも気付かなかった。

「ナーイスよお、アスカ。なんだかんだ言っても、やっさしーんだからー」
「な、なに言ってんのよ…あたしはただ、あまりにもバカシンジがウジウジして鬱陶しいから……」
「はいはい、まっ、そーゆうことで今日はシンちゃんが念願に向けて第一歩を踏み出しためでたい日になったわけね。メンツも揃ったことだし、パーッといかなきゃね!」手に持った『えびちゅ』350MLを高らかに掲げるミサト。いつのまに冷蔵庫を開けたんだ?
「ミサトったら、何でも飲む為の口実にすんだから…ま、いっか、今日はあたしも飲んじゃおーっと」冷蔵庫のノブを勢い良く引き出し、手に取ったのはサワーらしきもの。これはアブナイ。

 しばしミサトとアスカのやり取りをポカンと見ていたシンジだったが、水をぶっ掛けられたように我に返るや、激しくかぶりを振った。いけない。自分がシッカリしなければ。明日は、いや今晩から大変な事になる。

「だ、ダメですよ!! ミサトさん、先ずお風呂ですよ! お風呂にお願いします。それに、アスカ! アルコールはマズイよ。アスカの好きなガス水冷やしてあるんだ。今、出してあげるからさ」
「シンちゃーん、そんなお母さんみたいな事言っちゃ、だ・め。先ずは激励会でいーじゃない。それにもうビール開けちゃったしぃ」
「そーよ、偶にはいいじゃない。あたしは向こうでは折につけ飲んでたから大丈夫よ。問題ないわ。スパガスは後で貰うわ」確かによく飲んでたのだろう。キューと非常に飲みっぷりがいい。
「だ、ダメです! こないだだって、ミサトさん、酔ってから浴室に日本酒を持ち込んで飲んでたじゃないですか。湯船にお盆まで浮かべて。なかなか出てこないんで、すっごく心配したんですよ。僕が様子を見に行くわけにはいかないんですからね」
「あら、あたし的は別にかまわないけどぉ…見に来てくれたって」既に『えびちゅ』を遠慮気味に半分ほど一気飲みしたミサトはシレッと返した。
「えええっ!!」健全な男子として標準的な想像をしたシンジ。真っ赤だ。
「あんた…えっちな目になってるわよ」

 アスカ、ミサトさん、本当に有り難う。でも、これはマズイよ。このシチュエーションは耐えられないよ。こんなの綾波に見せるわけにはいかないよ。
 来る日に思いを馳せる一方、どのようにしてこの凶暴な同居人たちを抑え込むかについて思考をフル回転させ始めた。作戦だ、とシンジは思った。アルコールの封印でも考えようか。とうにただの酔っ払いと化したミサトとアスカの対応に追われる最中、躁と鬱の狭間の中で、果たして実現可能か疑わしいシナリオを夢想し始めていた。



To be continued





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