小さな窓から零れている。黄色く濁ったような木漏れ日にも似た明かり。その如何にも人口めいた灯火のみを頼みとしているその部屋。陰鬱な仄暗さが重く沈殿しているその中では、ときおり紙が捲られる音だけが唯一つ静寂を破りえるものだった。

(……ここも、他のダミー企業と同じ、か)

 男が手にしているのは、幾多のバイオ関連企業の登記簿の複写。それらの資料をチェックしては、手帳に何やら書き込んでいる。大抵の職員が閉口してしまうくらいに薄暗いこの地下資料室の小さな閲覧用の机の上で、その男はそんな地道な作業をおよそ半日もの間、続けていた。今、手にしている登記簿は通算107社目のものだった。これまでと同じ手順で、それらの事業報告書に記載されている内容と登記されている役員の名をチェックし、手帳へのメモを終えると、机の上に投げ出した。溜息が洩れる。

(残る一社は、京都の下京区か……実態は読めてきたが)
(解らない……何故こんな事をする必要があるんだ)

 しばらく頬杖をつき思考に沈んでいたが、やがてゆっくりと立ち上がった。

「……机の上で考えていても、仕方無いってことだな」自分の目で確かめるだけだ

 登記簿の束を乱暴にポケットに捻じ込むと、資料室の入口へと歩き出した。
 何気にドアのノブに手を掛けたが、次の瞬間、その表情を引き締めた。豹のようなしなやかさで、ドアとすぐ傍に置かれている書棚との間に身体を滑り込ませ、背をコンクリートの壁に預ける。右手はジャケットにもぐり込みM92FSの安全装置を解除していた。
 仄暗い室内で流れる幾ばくかの時間。皺だらけのシャツの中で腋の下を流れた一条の汗に少しばかりの不快感を感じた。

(……気のせいか)

 身体の位置を変えずに、そっとノブを回し指の先でドアを押した。撫でるように転がされたボールのような勢いで、半分ほど口を開けるとドアは動きを止めた。再びの沈黙。沈殿する空気に変化は見られない。
 一頻り通路の様子を伺った後、その周辺に何者の気配も存在しないことを確認すると、音を立てずに通路に身体を滑り出した。今一度通路の左右に素早く視線を走らせる。大概の資料室がそうであるように、ここネルフの資料室もまた本部西棟の最下層に位置し、職員の出入りなどは殆ど見られない。その男が今立っている明らかに照度の足りない通路もエレベーターと資料室を結ぶ為だけのものに過ぎない。エレベーターと反対方向は5メートルほどで行き止まりになっており、清掃用具が収納してある納戸が一つあるだけだった。男は通路をエレベーターに向かって歩き始めた。
 それにしても、と先程までの思考が再び胸の中に湧き出してきた。マルドゥック機関。エヴァンゲリオンの専属パイロットを選出する為の人類補完委員会直属の諮問機関。きっかけはネルフ本部を内偵する途上で偶然手にした複数の企業についての事業報告書と決算報告書だった。いずれの企業についても唯一記載されているステークホルダーは株主としてのマルドゥック機関のみ。法令に基づく年次報告書としては不可解な内容と言わざるを得ない。そして、そこに付属されていた役員名簿を見るに至り、興味を持つと同時に抱いた不審な思い。更に、それら企業への調査を進めていくにつれて明らかになってきた幾つかの新事実。これまで調査した107にもなる企業は、全てバイオ関連及び生体工学関連企業であったのだが、幾つかの企業については身近にある意外な団体との繋がりを明確にしていた。

(恐らくとんでもない裏がある、コイツには……それでも解らないのは、どうしてソコに彼らの名前が載っているかだが―)

 !

 迂闊だった。突如として背後から意識の中に侵食してきた気配。明らかに先ほど感じたものと同質のものだった。俄かに頭の中で点滅し始める警報。思考の淵に沈ませていた意識は、その男の起動を僅かに遅らせた。この世界では、そのコンマ数秒が命取りになる。
 幸運だったのは、すぐ目の前に通路の曲がり角が迫ってきていること、そして銃の安全装置は解除されたままになっている、という二点。走り出したい衝動を強靭な意志の力で抑え込み、角を曲った途端、壁面に背中を叩きつけるように張り付かせた。右手にはM92FSが握られ、グリップに左手が添えられている。汗がどっと噴き出した。
 息を殺しつつも呼吸を整える。ようやく本来のモードに還った男は、持てる全ての感覚を駆使してその気配の補足に掛かった。

(なん…だ?)

 またしてもその気配が消失している。

 どれだけの時間が経過したのか、自らの気配を深く沈めていた男は、意を決すると曲がり角から資料室へと延びる通路に身を躍らせた。電光石火の身のこなしでシューティングフォームを組み立て、両肘を伸ばしてM92FSをロックする。
 だが、その男の靴が床を噛む反響音だけが通路に木霊しただけだった。そして、静謐。先ほど感じた得体のしれない気配がふたたび首をもたげてくる様子は見られない。男の肘が少し緩んだ。少し間そのシューティングフォームを保ち、通路の奥に鋭く眼光を光らせていた。が、やがて銃を下すと、踵を返しエレベーターホールへと歩を進めた。気持ちは緩めてはいないが、今更ながらに背中に汗で張り付いたシャツに気が付いた。エレベーターホールで上階へのボタンを押しながら銃をホルスターに戻す。が、オウム返しのように鳴った電子音に開くドア、そして中にいた人物に少し驚かされた。


「加持一尉。警告と捉えるべきじゃあないかね」

 エレベーターが上昇を始めると、薄い笑みを浮かべていた男は徐に口を開いた。奥の壁面に背中を預け腕を組んでいる。

「……そう仰られる以上、あなたのチームの作業では無かったわけですね。若竹三佐」
「二課のミッションは要人警護だ。原則として我々がプロアクティブに仕掛けることは無いよ」
「よろしいんですか? ココ、耳があるんじゃあないですか?」
「案ずるには及ばん。今はモードSSだ。一課長には話を通してな」
「……では伺いますが、どうして私をツケたんですか? いや、恩人かも知れないあなたに申し上げる言葉ではないでしょうが」
「二つあってな。一つは、君と二人で話さなきゃいかん事があるということ。もう一つは君へのアドバイスだ」
「……………」
「以前、ウチの課員に現場で接触したことがあると思うんだが、ガード作業中の視察については配慮願えんかね。業務に支障を来すことも考えられるのでな」
「これは意外ですね。ウチが動くにはそれなりの根拠があっての事なのですが。よもやお忘れになられた訳ではないでしょうが、こちらのミッションは委員会の実行組織たるネルフが行う職務執行に対しての査察です。我々の業務執行に対しては、いかなる部署からの干渉も受け入れられるものでは無い筈ですが」
「だから『配慮』という言葉を使っとるんだ。我々が担っているミッション、中でもチルドレンに対してのガード作業にミスが許されないというのは、一尉ならベルリンでの経験上理解していると思うがね」
「勿論、理解しております。中学生としての日常生活への配慮もあり、露骨な監視やガード作業が出来ない、文字通り影としての存在を強いられるのがチルドレンのガード作業班ですからね。そんな過酷な現場であることは理解しています。しかし、そのガード作業班からの報告はいかがでしょう? 適正さを疑問視する声が上がってきているのも事実です」
「……それについては、惚けるつもりはないが、明快な答弁も残念だが出来ん。……ひとつ、二課長レベルの判断でなされているものでは無い、とだけ言っておく」腕を組みながら若竹は天を仰いだ。

(……やはり上が絡んでいる、しかし――)

「それともう一つ、いかに特殊監査部員と言えども分を超える情報を持つべきじゃあない。君みたいな男が興味だけで首を突っ込んでいるとは思えんが、高位の機密情報には必ずと言っていいほどオマケが付いてくる。リスクという名のな。そのオマケを適正に処理する、若しくは転嫁するなど出来りゃいいだろう。だが、消化不良を起こしたが最後、墓場まで持っていかなきゃならん。下手すりゃ天命を全うすることなくな。例えば、いま君の懐に入っているソレだよ」
「……ご忠告有難うございます。真摯に受け止めさせて頂きますよ」
「額面通りに受け取っておこう。それと…分かっているとは思うが、楠三佐の目は節穴じゃあない」
「そう、ですね」みんなバレバレか「……でも、なぜ私にそこまでアドバイスを?」

 身体にかかっていたGが和らいだ。軽い電子音と共に滑らかに開いていくドア。

「セカンドチルドレンを引継いだ縁って訳じゃないが、君のここでの行動を見ていると、何をそんなに急いでいるのか気になるのは確かだね。果たして、君の視線の先には『未来』はあるのかってね。この戦いにも終わりはあるだろうからな」

 再び薄い笑みを浮かべると、若竹はゆっくりとした動作で壁から背中を離し、エレベーターホールへと歩きだした。



 キッチンのビルトインコンロの上で磨き上げられた寸胴鍋がコトコトと音を立てている。その隣のシンクには大量の野菜がゆらゆら浮かびながら出番を待っている。
 日曜日の午前10時。いつもより早く目覚ましをセットしたシンジは、身体を引きずるように向かった浴室で熱いシャワーを浴びて早々に頭を覚醒させると、早速下拵えの準備に取り掛かっていた。そろそろ朝食の時間。アスカも起きてくる頃だ。今晩の食事会の準備を一旦切り上げて、朝食の準備を始めなければならない。シンクから四つ切にしたレタスを掴んで、まな板の上に載せた。

「……おはよう、シンジぃ……何でそんなに早いの?」
「あ、アスカ、おはよう。……今日さ、結局、何のかんの言って大人数になったじゃない。これまでそんなに沢山の量を作ったこと無かったからさ、もう一つ段取りが読めないんだ」
「ふーん…さすがは主夫ね、ふわぁ……でも、今日ヒカリもなんか作ってくるって言ってたわよ。午後ヒカリの家に行く約束してるから、あたしも持ってくるの手伝うわ」
「あっ、それ、すごく助かる。出来れば洞木さん家に着いたタイミングで、お料理の内容を電話で教えてくれたら有り難いんだけど」
「ん、分かった」
「それと、シャワー浴びるよね? 朝ごはん作り始めるよ」
「うん」

 アスカを振り返ったシンジ。案の定、立ったまま目を閉じているアスカはまだ眠っているように見えた。そのまま浴室へと歩を進めているが、ぶつからずに器用に歩けるもんだといつもながら感心してしまう。さて、後はどうやってミサトを起こすかだ。右手に握った包丁にシンジは視線を落とした。



 エレベーターホールに入り、押し付けるように壁に背中を預けると自然と溜め息が漏れた。会議というものは、どうしてこんなに時間を掛けなければならないのだろう。
 ミサトは早朝から総務局を議長役とする会議に参加していた。議題は、現在総務局で一元管理している銃器の管理及び運用の変更について、というものだったが、第一回のキックオフミーティングでは現時点で既に銃器類の携帯許可を受けている職員に対して招集がかかったのだ。
 確かに、とミサトは思う。ネルフとして保安局を持ってはいるが、第3新東京市と本部施設双方の警備を受け持っているせいか、本部施設では偶に正面ゲートで立番をしているのを見かける位で、施設内での巡回パトロールなどは見たことが無かった。人的な要因もあってか、定期的な巡回などはスケジュールは組まれてはいないのだろう。それでもネルフは非公開ながら、れっきとした軍事組織だ。ドイツ第3支部時代に参謀候補生としての研修名目で出向した国連軍などと比べると研究所のイメージを払拭出来ないのだが、ここで保有しているものは人類が生き残るための決戦兵器なのである。今回の事にしても、本来あるべき運用に戻そうという事なのだろう。でも……。

「ヨオッ、どうした、葛城? 朝からあんまり考え込むと老けるぞ」

 いきなりヌッと出てきた屈託のない顔に現実に戻される。

「いっきなり失礼なこと言うわねー。だいたい、なんであんたがこんな所をうろついてんのよ」
「俺も今の会議に出てたからな」
「あ、そっか」
「それで、何を悩んでたんだ? 葛城の力になろうじゃないか」

 グッとミサトに覆い被さるかのように接近する加持。この男からすれば一種癖のようなリアクションかもしれない。条件反射的に身体を逃がそうとした時、エレベーターの到着を知らせる電子音が響いた。

「ちょ、ちょっと、加持君。行かなきゃ」前回の事もある。エレベーター周辺は鬼門だ。

「乗らないんですか?」

 ぱっと離れる二人。エレベーターの中では開放ボタンを押しながら楠が不思議そうな表情を浮かべている。

「あっ、いえ、楠三佐。葛城三佐と少し打ち合わせをしますので」
「そうですか。では……ああ、そうそう、加持一尉」
「はい」
「松代への出張申請は承認しておきましたので」
「有り難うございます」
「ただ、くれぐれも気をつけて作業を行ってください」楠の言葉尻を飲み込むように閉じられるエレベーターのドア。
「…………」

 閉じられたドアに視線を留める加持は神妙な表情を浮かべている。そんな加持を少しばかり釈然としない表情で見つめるミサトの様子に気付いてはいなかった。



「うん、分かった。じゃあ着くのは五時ちょっと前くらいだね……うん、じゃあ後で、アスカ」

 ヒカリの自宅から掛かってきた電話を切った途端、待ち構えてたかのように電話が鳴り出した。

「はい、葛城―あっ、ミサトさん」こんな時間にどうしたんだろう
「シンちゃーん、どお? 準備の方は?」
「え、ええ、順調ですよ。なんか洞木さんも色々と準備してくれたみたいで、今日はかなり豪華な内容になると思います」
「いーじゃないー、おねーさん、楽しみだわー。それでねー、今日は早退けして帰ることになったから。帰りに一人拾ってくからね」
「えっ、一人って? ……」
「やーねぇ、レイに決まってんじゃあないのぉ。なんてったってシンちゃんにとっては今日の主役だかんねー。お迎えくらい行かなきゃ。あーごめーん、やっぱシンちゃんが迎えに行きたいー?」
「い、いえ……ヨ、ヨロシクお願いします」今からこれだ

 電話越しにもミサトが邪悪な笑みを浮かべ始めていたのが容易に想像できる。それにしても早やこのテンション。恐らくは明るい内から旨い肴で飲めるというシチュエーションから来るものなのだろう。第一種警戒体制。シンジがおタマを握る手に力を籠めて呟いた時、インターフォンが鳴った。



「あら、ミサト。珍しいわね。今日は飲んでないのね」

 ネルフ本部施設内の職員食堂。お昼のピークが過ぎ去ったこの時間。落ち着いた空気が流れている。幾分柔らかさを取り戻した陽射しに誘われ、ミサトはテラスにほど近いテーブルに陣取っていた。見た目に立派な焼き野菜が載っているご飯に、サラッとしたカレールーをたっぷりとかけたところで、声の主に顔を向ける。リツコが手に持っているトレーには長崎ちゃんぽんが載っていた。

「なによソレ? 人聞き悪いわねー」
「いまさら人聞きが悪いも何も無いわ。あなたのトレーにアルコール飲料が載っていない事実こそ不自然だもの」
「……反論できないところが辛いところなのよね…まあいいわ。実は、今晩ウチで食事会を予定してんのよ。そこでやっぱ景気良く飲みたいじゃない。んで、今はちょっち控えてんのよ」
「あら、そうだったの。でも、子供たちの前で飲み過ぎるのは感心しないわね」ミサトの向かい側にトレーを置き、悠然とした物腰で椅子に腰を落ち着かせた。「特にあなたの場合、酔うと子供でも酒の肴にしかねないもの」
 う、なんで知ってんの?
「偶に夜中まで後片付けに時間を費やすことがあるって言ってたもの」
 シンちゃん、喋ったわねー。べらべらと、おっとこらしくないわ
「い、いや。たまーにシンちゃんとの会話が弾んで、そーなることもあんだけどぉ…そんなに飲まないわよ。せいぜい」
「ビール1ケース位ね。データはあるわ」
「てへっ、それに日本酒もちょっちぃ」
「あっきれた。シンジ君もそろそろ同居人を見極めたほうがいいわね」
「今から大人の世界を少しだけでも見せてあげようと思ってんのよ、なんて。ところで、リツコは今晩ヒマ?」
「え? でも今日はあなた達三人でやるんでしょ?」
「ううん。今回の主賓はレイよ。シンちゃんがどーしても晩ごはんに呼びたいって言ったとっから始まってんのよ」
「あら。あの子何も言わなかったけど、そうだったの……ふふ、それは良かったわね」
「でもそれから、なんか知らない間に子供たちの数が増えてきたんで、保護者増員名目ってことで、さっき加持にも声掛けたのよ。どーせやるならパーと盛大にやりたいじゃない」そのほうが盛大に飲めるしぃ
「それなら喜んでお招きにあずかるわ。噂のシンジ君のお料理にも興味があるしね。ところで…ミサトはお料理担当しないわよね?」
「あたしの十八番のカレーでも作るわって言ったんだけど、シンちゃんに却下されちゃったのよねー。何か大人は飲み物担当だって言って」
 賢明だわ。シンジ君
「そう。だったら私はアルコール飲料と清涼飲料水を持っていくわ。日本酒は獺祭でいいわね」
「さっすがリツコぉ。分かってるぅ。それじゃあ機動力いるだろうから、ウチには加持に乗っけて貰って来てね。あたしはレイを拾ってくから。うー、楽しみだわー、今日の飲み会」
 お食事会でしょ



 数えたところ12ケースあった。カートンの外観、そして表面の印字からして、ビールや日本酒といった類のものであることは容易に理解できる。シンジは、宅配業者の手で玄関に運び込まれたそれらの山を目の当たりにしてしばし茫然と立ち竦んでいた。

 これだけのお酒。まさか今夜のために? ミサトさん一人で飲むつもりなんだろうか? でも

「それ以外、考えられないよね……」なんとかしなくちゃ

 シンジの脳裏にさーと浮かび上がるミサトが激しく相好を崩した顔。何かしら邪悪さにも似たものを感じたシンジは、思わず身震いした自分の肩を抱いた。

「センセ、何しとんねん?」
「ひゃあ!! ごごめんなさい!」

 驚いたシンジが顔を向けた先には、見慣れた友人の顔が二つ。シンジのリアクションに目を瞬かせている。

「な、なな何で」
「何でやあらへんで。来たら玄関全開やし、何やシンジは自分のこと抱いとるし」
「何かあったのか? 碇?」
「い、いや……突然これだけのお酒が運び込まれてさ、ココに置いとくのも、困ったなーなんて考えてて」
「なんやー、そないな事、ワイらにヘルプゆうたら済むことやないかー。シンジも水臭いのー」
「そうだよ。どうせココ、地下に納戸あるんだろ?」
「う、うん…地下一階にあるって聞いてる」
「ヨシャ、ほんだら三人で運ぶで。ああ、これでミサトさんに褒められるかも知れへんなー」
 いや、バレたら多分おしおきだよ
「……相変わらずだよな。さあ、始めようぜ。納戸はどうせこの部屋のカードキーで開くんだろう?」
「うん……」

 これで少しは犠牲者が少なくなるだろう。
 今晩だけは、レイの前で酒の肴にされる訳にはいかないのだ。何としてでも。地鎮祭にでも使うのかと突っ込みたくなるような日本酒のカートンを胸に抱きながら、それでも湧き立つ後ろめたさに、幾千もの言い訳を頭の中で懸命に積み重ねていた。



 幾皿かの前菜の中でも今日の目玉として考えたのはブイヤベースだ。寸胴に再び火を入れてから約二十分。香ばしい魚貝の香りがダイニングルームに漂っている。他の料理の手待ち時間を見つけては、塩コショウで味を調えていく。起動実験さながらの真剣な表情で、鍋の中の具材を崩さないように慎重にお玉を上下に揺するようにかき混ぜていた時、インターフォンの音が響いた。掛け時計の針は五時を少し回ったところ。火をトロ火にして、素早く手を洗う。エプロンの裾で手を拭いながら玄関に向かう姿も板についている。

「はーい」

 シンジが返事を返した直後、カードキーがスリットに通された電子音に続いて、玄関のエアロックドアが開放された。

「ただいまー、シンちゃん。レイ連れて来たわよー。さっ、入って」
「お、おかえりなさい、ミサトさん……あ、綾波」

 ミサトに続いて玄関に入ってきた少女を認めるや、シンジは花が咲いたような明るい笑顔を浮かべた。見慣れた制服に身を包んでいる少女。顔に表情は見られないが、深紅の瞳を真直ぐシンジに向けている。

「はいはい、あんまり女の子をジロジロ見ない。先ずは部屋に案内する」シンジの目を覚ますように、ミサトは両手をパンパン叩いた。
「あ、は、はい……綾波、ゴ、ゴメン」
「……別に」
「んー、廊下まで漂ってたけど、やっぱシンちゃんだったのねー。この美味しそーな匂い」
「は、はい、前菜は最後のを仕上げてるところですけど、洞木さんもかなりの量のお料理を準備してくれたらしいです。さっきアスカから電話があって、先に来てたトウジとケンスケを手伝いに呼び付けた位だから、もしかすると作り過ぎたかもしれないです」
「ふふん、その点はダイジョーブよん。そんなこともあろうかと、加持も呼んだしリツコも来るわ」
「えっ!? みんな来るんですか?」まさか父さんは来ないだろうね
「そっ、大人数で盛大にパーとやった方が楽しいっしょ? 飲み会なんだからぁ」
 お食事会なんだけど

 いけないよ。ミサトさんってば、いつのまにか飲み会に変わっちゃってるよ
 やっぱり届いたお酒を納戸に入れておいたのは正解だったよ

「……碇くん」

 沈みかけた意識がレイの言葉で引き上げられた。レイはミサトに続いてダイニングに入りかけたところで、シンジをジッと見つめ佇んでいる。エプロンの裾を握りしめていた手が緩んでいく。

「……あ、綾波」

 なんだか

「……ど、どうしたの?」

 いつもとすこし違うような

「……お鍋」

 へ? あ

「ああー! ブイヤベース!」

 シンジの声に呼応するように寸胴から吹きこぼれたスープは、香ばしい匂いを部屋中に撒き散らした。



 まだ陽が沈むまでには少しの猶予があるだろう。それでも刻一刻とその表情を変えていく空、街並み、人々の息吹、そしてそれを見つめる人の気持ち。車の中から慈しむような表情を空に向けていた長門ミキは、視線をコンフォート17の駐車場入口付近に落した。直後にロータス・エランS4スプリントが心地良い排気音を従えて滑り込んできた。

「――はい、あの車両は特殊監査部の加持一尉のものに間違いありません。今、停車しました。助手席に乗っているのは……赤木博士、です。何か荷物を持っています……葛城三佐のご自宅に持ち込むようです。…ああ、そうですか、はい、では後ほど」

 シンジを担当する杉・長門チーム及びレイ専任の香取の車両二台はコンフォート17の駐車場の奥、ちょうど枝葉を伸ばした木々の下に並んで停められている。監視作業のやり易さもあり、そこはコンフォート17での二課の指定席でもあった。たった今無線を切った男、シンジを担当する杉のオペラグラスは、ロータスから降り荷物を抱えてエントランスに向かっている加持とリツコを捉えている。

「もうすぐアスカちゃんも戻ってくるのね」
「うん。何かクラスメート三人を引き連れて、こちらに向かっているらしい。男子二人はこれでもかというほど荷物を持たされているらしいよ」
「これで決まりですね。絶対、今夜は晩餐会よ。シンジ君、昨日もすごい量の食材をお仕入れしてたもの」
「かといって、俺達には関係ねえがな」プジョー407の後部座席で興味無さげに香取が呟いた。
「う……確かにそおなんですよね、でも何だかいいなーって」
「そんな声出すなって、明後日は朝からチルドレンのテストがあるから、食堂で旨そうなの奢ってやっから」
「え? 香取さん、ホントですか? 最近ウチの食堂、なんだかメニューのバリエーションも増えて美味しくなったんですよねー。でもランチセットでないのがいいなあ」
「なんでもいいぞ。俺がいつも食ってる『とろろ定食』なんかどうだ」
「え? でも折角ですから、もう少し単価の高いものがいいなあ……」
「………」



「あーえらい難儀やったで。もうアカンかと思たわ。もーくたくたや……」

 加持とリツコが到着して十分ほど経った頃、アスカがヒカリを連れてコンフォート17に戻ってきた。生気溌剌とした表情を浮かべている。そして、二人の後ろには奴隷の如く大量の荷物を持たされたトウジとケンスケが息も絶え絶えに従っていた。

「この程度のことで音を上げるなんて。ホーント情けないオトコ」
「なっ、何ぬかしとんねー、このアマぁ。そもそもオンドレがやなー、ワイらが機嫌ようココで茶ぁしばいとったら、電話掛けてきてヘルプとかぬかしたんやないかー!」
「トウジよ……いま惣流とやり合ったら確実に死ぬぞ」
「アンタ、それ誰に向かって言ってんのよ……やる気?」
「い、いや、ちょっとタンマ。あかん、ごっつい声だしたらホンマに腰が砕けてしもた」
「と、とにかく、トウジもケンスケもお疲れ様。持って来てくれたお料理貰うね」
「おーセンセ、これやこれ、何やごっつう旨そうなもんやで。イインチョの力作らしいで、なっ?」
「そうそう、見栄えからして違ったもんな。お重に入ってんだぜ」
「そ、そんなに大したもの作れなかったんだけど、少しでも足しになればいいなって思って」

 ヒカリは、ダイニングでだらしなく尻餅をついて座り込んでしまったトウジの隣に、ちょこんと正座するように座っている。トウジを心配げに見つめているその様子に、アスカがにへらーとした笑顔を浮かべた。

「この熱血バカがこれだけ疲れちゃってる理由の一つはね、ヒカリの分まで荷物を無理やり引き受けたからなのよね。ホント、仲のヨロシイことで」
「な、何ゆうとんねん。ワ、ワイはただ食いもんが気に掛かっただけやからやな……」
「ア、アスカ…勘弁して…」
「ま、いいわ。まだまだ序盤だしね。許したげる。シンジ、これで役者も食べ物も揃ったわ。さっ、始めましょ」
「う、うん」
「おーい。葛城がもう我慢できないって言ってんぞー」

 隣のリビングからぬっと姿を現した加持。アスカの顔が、ぱああっと輝く。

「加持さぁん! 来てたの!?」
「ああ。今日の晩餐会の引率としては、葛城だけじゃあ心配だからな」
「けってーい。あたし加持さんの隣に座るぅ」

 加持の腕にぶら下がるようにしがみつくアスカ。その勢いに加持は体半分ほどリビングルームに押し戻されてしまう。

「っと、シンジ君、悪いがビールをお願い出来るかな? そろそろ限界のご婦人方の為にね」
「は、はい。えーと。皆さんビールでいいですか?」
「ああ、取り敢えずはそうだな。おっと、オイオイ、アスカ、あまり押さないでくれよ」
「えー、早く座りましょうよー、ぶー」
「加持さん、座っててください。すぐに持って行きますから」
「バカシンジも偶には気が利くこと言うわね」

 なんだよ、アスカのあの豹変ぶりは……
 独りごちながら冷蔵庫からビールを取り出していたシンジであったが、その口調とは裏腹に心中は穏やかなものであった。気になっていた加持とリツコが持ち込んできたアルコールの類。二人が部屋に入ってきた時、その大量の荷物を見てシンジは、終わった…綾波ごめんよ……、と思わず胸の中で呟いてしまったのだが、実はその三分の二ほどは、乾き物やら珍味といったツマミの類であり、お酒は日本酒の一升瓶が二本とリツコ専用というバーボン位だったのだ。

 これで多分、夜8時位にはアルコール類は底をつき、酔っ払いも活動限界を迎えるだろう
 そして、和やかな雰囲気の中、皆でデザートをつつくのだ
 それでいいんだ。それでいいんだよね、アスカ、ミサトさん
 深夜までの深酒だけは絶対に避けなければならないんだよね
 何といってもお食事会なんだからね、今日は

「シンちゃーん、ビールぅ!」
 はいはい


「ふわー、これシンジが作ったんだ」
「うん、ブイヤベース。アスカはヨーロッパに居たんだから知ってるよね」

 リビングでは皆がテーブルを囲んで色々な話題に花を咲かせている。取り急ぎビールとヒカリのお惣菜をサーブしたところで、シンジはすぐにダイニングに戻って前菜のセッティングを始めた。時間を掛けて煮込んだブイヤベースを幾つかのスープ皿に取り分けてたところにアスカがダイニングに入ってきた。

「勿論、知ってるわよ。でも、なんだか香ばしい香りがするわね」
「前もって、魚貝類をオリーブオイルで炒めたからね。結構コクも出てると思うんだけど」
「ふうん…手間掛かってんだ。あんた、エヴァの捌き方はてんでダメだけど、お料理の腕は確かね」
「……なんか…あんまり嬉しく無いんだけど」
「もおっ、いちいち真剣に取らないでよっ! これ運ぶわよ!?」
「う、うん」

 先に取り分けたプレートをトレーに載せたアスカがリビングに戻るのを見送り、シンジはブイヤベースを残ったスープ皿に取り分けた。特にレイのプレートには細心の注意を払う。見た目にレイが苦手そうな海老や貝の具材は避け、白身魚とイカの小さな切り身を入れた。

「すいません、遅くなって」

 シンジが残りのスープ皿を持ってリビングに入ると、先にサーブされていたトウジや大人たちから称賛の声があがった。

「センセ、これヤバイで、ごっつ旨いわ」
「トウジ、これ、バゲットをスープに浸して食べてよ」
「こいつぁかなりイケルな。大したもんじゃないか、シンジ君」
「あ、有難うございます」
「シンジ君…噂は伊達では無かったってことね」
「最初で最後かもしれない…リツコさんに褒められるなんて」
「シンひゃーん。すっほふおいひい」
 熱いんで注意して下さい

 シンジは皆のコメント一言一言に律儀に反応しつつ全員にサーブを続けた。最後はレイだ。

「……綾波。お肉は入って無いから」

 物珍しいのか、レイは目の前にサーブされたスープ皿をやや覗きこむように視線を落している。

「そ、そう、魚貝類で作ったスープだと思ってよ。お魚は大丈夫だよね?」
「うん」
 よ、よかった
「でも、中に入ってるお魚とかイカの身が苦手だったら残してよ」
「……たぶん大丈夫だと思う」

 レイは少しスプーンで掬って口に運んだ。注目してはいけないと思いつつも、ジーとレイを注視してしまうシンジ。

「……おいしい」

 囁くように零れた呟き。
 辺り気にせずシンジは顔を綻ばせた。それは本当にささやかだけれど、シンジにとってはとても大切な悲願だった。

(……そっか、それでこんなに手間暇掛けてたんだ)

 シンジとレイのやり取りをジッと見ていたアスカ。そっとスプーンを口に運んでみた。確かに美味しかった。口に運ぶたびに、飽きの来ない新鮮な旨みが感動と共に身体に染みてくる。一心に包丁の腹でニンニクをつぶし、微塵に切った鷹の爪と一緒にフライパンの中で湯気を吐いているオリーブオイルの中にダイブさせ、炒めてベースを作る。辺り一面に広がる香ばしい湯気に包まれながら、具材を次から次へとじっくりと炒めては、時間を掛けて下拵えを進めていくのだ。そんな下拵えの段階から寸胴鍋の中で慎重にオタマを上下に掻き混ぜ続けていた間も、シンジはその少女が美味しそうに食事を進める姿に思いを馳せていたのだろう。自分だってダテにヨーロッパで生まれ育ったわけではない。料理は手間をかけた分だけ美味しさに深みが加わり、作った人の気持ちが伝わるものだ。

(……ふう)

 ハッと意識を戻して顔を上げた。
 な、なんで、このアタシが沈み込まないといけないのよ! なんだってんのよ、もう!

「シンちゃーん、よかったじゃないー、レイに美味しいって言ってもらえて」
「ハ、ハイ…なんだかホッとしました」
「レイ」
「はい」
「シンちゃんのお料理、美味しい?」
「はい」
「ずっと食べたい?」
「…………」
「なっ、ちょちょっと、ミミサトさん!」
「なぁにぃーシンちゃーん?」

 迂闊だった。ミサトと加持の間に隠れて良く見えなかったが、既に『えびちゅ』350mlの空き缶が5,6本転がっている。隣で駄弁っている加持もリツコもバーボンをロックで飲んでいるところを見ると、全てミサト一人で飲んだのか。

「あ、綾波…困ってるじゃないですか」
「だって、おねーさん、ちょっち興味あるもん」

 シンジの頭の中で、突然、警告のシグナルが点滅し始めた。本日最大の懸案であり、いかに上手く回避しようかとここ数日ずっと考え込んできた。想定外なのは、まだ前菜も一品目なのだ。いくらなんでもこのペースは早い。早すぎる。早すぎるよ、ミサトさん。
 今シンジにとって最良の選択肢を考えた。浮遊する離脱の二文字。

「あっ、つ次のお料理を取ってこなくちゃ」

 シンジによって断続的にサーブされた前菜に歓喜し、合間の箸休めとしては豪華すぎるヒカリの惣菜に皆が舌鼓を打った。大人たちは程良く酔い、子供たちも今日ばかりは非情な現実を忘れ、普通の中学生に戻ったお喋りは留まるところを知らない。ますますもって盛り上がっていく飲み会、もといお食事会。
 そんな中、いつもと変わらないテンションを保っているチルドレンが約二名。シンジは、一品サーブする毎にレイの隣に座り込み、レイが食べる様子を不安そうな眼差しで伺っている。

「……く、口に合うかな?」
「うん」
「……お、おいしい、かな?」
「うん」
「……お、お水も置いとくね」
「うん」

 よかったぁ

 いよいよメインだ。キッチンに駆け込むと、慌ただしくコンロを点け、予め下拵えをしていた鴨肉と豆腐ハンバーグの入ったトレーを冷蔵庫から取り出した。フライパンの焼け具合を見ながら、いちじくを潰してソースを作っていると、アスカが再びダイニングに姿を現した。

「あんた、いいの? ファーストを放ったらかしにしていて」
「べ、別に放ってなんかいないよ。お料理を持ってった時にちゃんと声を掛けてるさ」
「ふーん。ま、確かにココでのシェフ役もあんたしか出来ないしね」
「それよりアスカ、メインは鴨ステーキなんだけど、最初は照り焼き風にしようかと思ったんだけど、ノルマンディー風のほうが好きだよね? ソースはイチジクと林檎をベースにしたよ」

 蒼い瞳がシンジの手許を覗きこむ。たっぷりと脂ののった鴨肉に、見た目に鮮やかなルッコラが寄り添っている。屈託のない笑顔を浮かべるアスカ。こんな時のアスカは本当にカワイイ。

「うん!」
「それと悪いんだけど、ミサトさん達が飲み過ぎないように見ていて欲しいんだ」
「ん、わかった」


「待ってましたぁ! センセ。なんやさっきから台所でえらい音しとったからのー、それに、ごっつええ匂いや」

 トレーごとシンジに襲いかかりそうな勢いのトウジに若干引きながらも、テーブルの上にメインをサーブしていく。最後の特製欧風煮込み豆腐ハンバーグはレイの為に準備したものだ。これで暫くの間はレイの隣に座ってられる、とレイの方に向き直った。レイは先ほどシンジがミネラルウォーターを入れておいたコップをクーと飲み干している。
 そんなに喉が渇くものがあったかな? と、周りの様子を確かめようとした時、レイの隣で嬉しそうに一升瓶を抱えているミサトに気が付いた。

「ああーっ!」

 シンジのリアクションをよそに、レイはコクコクと小さな喉を鳴らしている。
 ま、まさか。まさかそれは無いよね。そんなはず無いよね……ミサトさん!

「ぷふうー」

 テーブルの上に戻されたグラスはきれいに空いていた。頬が薄っすらと紅くなってるのは、照れているからではなさそうだ。

「……はい、いかりくん」
 はい、いかりくん、じゃないってば
「レイー、いい飲みっぷりじゃあないのー。おねーさん、感激したわー。ささ、もう一杯」
「ミ、ミサトさん! な、なんて事を!」
「レイ、やるわね。これまでのデータでは予見できなかったことだわ。どお? 違和感ある?」リツコは見た目に酔ってるようには見えないだけに恐ろしい。
「……問題、ありません…あかぎはかせ」
「ちょ、ちょっと」いけないよ。これはダメだよ。すぐに助け出さなくちゃ
「……な…に?」

 シンジに向き直るレイ。少し頬を染め、やや淡げな紅い瞳はいつもとは違う悩ましげな光を湛え……要するに、トロンとしているのだ。
 間違いなく酔っているんだね

「あ、綾波、いま飲んでるの……」
「……にほんしゅ。米とこおじを主げんりょうとしたアルコールがんゆういんりょう」
「ど、どの位飲んだの?」
「……分からない…たぶん三ばいめ」
「だ、だめだよ、綾波。僕たち中学生はまだ飲むことは出来ないんだよ」
「……そお? よくわからない」
「まーまーシンちゃん、そんな、かったい事いわないでー。せっかくレイも呼べたのにー」
「バカシンジ。相も変わらずウジウジとうっさいわねー。さっ、アンタも飲むのよ」
 ア、アスカ、ミイラ取りがミイラになっちゃてるよ
「せやで、センセ……オトコは黙って清酒の常温や。大吟醸っちゅうのは、ありゃ女の飲むもんや」
「……そおだ、碇。イカンじゃないか、邪魔しちゃあ。艶やかな写真が撮れんじゃあないかぁ」
「で、でも今日はお食事――」

 ぱさっ

 それはとても軽い音だった。同時に右肩に掛かった重みがレイのものだと理解するまでにコンマ数秒を要した。

 !

 レイに身体を向き直すと、右肩から滑り落ちるようにシンジの胸元にしな垂れかかって来た。両手でレイの身体を支えようとしたのも虚しく、シンジの正座している膝をクッションのようにして、辛うじてレイの身体を受けとめた。

「あ、綾波! どうしたの!?」

 シンジは一瞬のうちにパニックに陥りそうになった。不自然な体勢でシンジの膝に倒れ込んでいるレイを、なんとか膝枕するような体勢に直した。慌ててレイの顔を覗き込む。と、聞こえてくる微かな呼吸音。

「……あ、綾波…寝ちゃってるの?」

 レイの反応は無い。静かな寝息が寄せては引いている。

「少し休ませてあげればいいんじゃないかな? その場所が安心できるみたいだしね」

 穏やかな表情を浮かべている加持は、右手でロックグラスを弄んでいる。いつの間にかレイの左手はシンジが着けているエプロンの裾をキュッと握っていた。

(……安心できる? こんな僕でも?)

 先程から置き場に困っていた右手をそっとレイの髪に近づけようとしたが、周囲から注ぎこまれる邪悪な視線を感じるや、ふたたび床の上に落した。惜しい、というケンスケらしき声が聞こえてきた。

(……でも…やっぱり前と同じだ。この感じは何なんだろう? 身体に染み込んでくるようなこの感じ)

 それはこれまで数えるほどではあるけれど、その少女に触れるたびに持ち上がってくる感覚。安心という言葉を通り越して、なにかしら懐かしさに近いような、こうして二人が触れ合っている事が当たり前であるかのような感覚。それはこの第3新東京市に着いた日、シンジの前に舞い降りてきた幻かも知れないその少女を見た時に覚醒し、そして月夜に気づいた感覚。


「ねえアスカ…綾波さんったら、イガイに大胆だったのね」
「…………」
「……アスカ?」
「……え? あ、ううん。なんでもないわ」
「どうかしたの? アスカ?」
「なんや、えっらい熱い視線をセンセと綾波に送っとったやないかー。ええなー思て見とったんやろ」

 すっくと立ち上がったアスカ。蒼い視線を向けられるや、トウジは飛び退くように後退りした。こういうときのアスカは有無を言わせない迫力がある。ダテに使徒を相手に命のやり取りをしてはいない。

「おっ、な、なんや、やるっちゅーんか? さっきの件もあるよってな」
「……少し、飲み過ぎたみたいだから、風に当たってくるわ」

 アスカはバルコニーへと踵を返した。

「なんや、一体全体どうなっとんねんな、あれは?」
「……鈴原、デリカシーが無い」
「なっ、イインチョまで、なんでやねんな」



 後ろ手にサッシを閉めると、先程までの現実が遮断された。
 珍しく風が冷たい。何もかもが飲み込まれてしまいそうな静けさの中で、虫の鳴く音だけが小さく鼓動している。星が満ち満ちている夜空を見上げるようにバルコニーの手すりに身体を預けたアスカは、静かに意識を思考の淵に沈ませ始めた。
 碇シンジ。初めて空母の甲板で会ったときの印象は、とても頼り無い華奢な少年、だった。実戦で使徒に連勝しているとドイツ支部でも噂になっていたサードチルドレンのイメージとは、やはり大きなギャップを感じざるを得なかった。シンクロ率にエヴァの操縦能力、そして一個人としての身体能力と、あらゆる面において秀でた能力とセンスを発揮するアスカにとっては、碇シンジの存在は今ひとつパッとしない同僚というものだった。
 いつからだろうか? その少年のことが気になり始めたのは。キッカケは第七使徒イスラフェルとの戦いだったと思う。第一波でのよもやの敗北。そして、第二波に備えてのユニゾンの特訓では、指揮官の命令によりその少年と寝食を共にする事になった。その訓練でアスカはチームワークの礎となる他者との協調そして調和をテーマとしてトレーニングに取り組むこととなり、結果、碇シンジという個人を認めるに至ったわけだが、同時に他人により自分を理解され、受け入れられることの喜びを知ることにもなった。それはこれまで他人に弱みを見せず、自分自身の存在を絶対的なものとして人生を歩んできた惣流・アスカ・ラングレー自身にとっては、大きなカルチャーショックとも言える出来事でもあった。そして、使徒殲滅というプロセスを共に完遂した碇シンジという存在が、アスカの中で同僚以上の存在として育ち始めたことは、ある意味必然の帰結と言えたかも知れない。
 そしてアスカにとって忘れえぬ出来事。浅間山火口で発見された第八使徒サンダルフォンへのA−17発令による出撃。熱膨張を応用した戦法で、寸でのところで使徒の殲滅には成功したものの、奈落の底に落ちていく使徒の爪が弐号機と地上を繋ぎとめているケーブルを切断した。脳裏に当時の記憶が鮮明に甦ってくる。


   やだな……ここまでなの



 最期の言葉になる筈だった。意外なまでに落ち着いて死を覚悟出来たのは、この世に執着すべきものが無かったという事なのだろうか。
 落ちていく。使徒によって切り裂かれたケーブルは、たった14年だったけれど生を受けてきた、どちらかと言うと辛かったことの方が多かった、現世とのささやかな絆に思えた。それを失い、堕ちていく。そして――。


 アスカの脳裏に浮かんできたのは、さきほどリビングルームで目の当たりにしたシーン。シンジの膝枕で穏やかな寝息を立てているレイ。シンジのエプロンをしっかりと掴んで、見たことも無い安堵の表情を浮かべていた。そんなレイを少し照れながらも優しげに見つめているシンジ。


 シンジ、あんた良かったじゃない。ウジウジ言ってたけど、念願叶ってさ


(……アタシは、あんたたちと違ってエリートなんだもん……これまで通り一人で生きていくの)


 ふいにシンジの顔が浮かんだ。それは、マグマの中で落ちていく弐号機を寸でのところで初号機が掴んだ瞬間のこと。


(……一人でヘーキよ)


 モニター越しではあるけれど、アスカにとっては一生忘れられないであろう必死の表情を浮かべたシンジがいた。


(………ヘーキな)


 そのシンジのイメージが、突然アスカの意識の中で遠く小さくなっていくような思いに囚われた。少し目を見開くアスカ。




「…………シ…ンジ」











「アスカ」

   !

 いつのまにバルコニーに入ってきたのか。室内からの光は届かず顔はよく見えない。けれどよく知るこの声。

「……加持さん」
「ちょっとおセンチになってたかな? ……悪かったな」
「な、なんでも無いなんでも無い」

 両手で目尻をゴシゴシ擦った。その隣で手すりに背中を預けた加持は、懐からくしゃくしゃになったマルボロのソフトパッケージを取り出した。萎びた一本をくわえる。

「葛城に聞いたよ。今日の晩餐会はアスカの協力があったから実現したんだってな」
「別に、大した事をしたわけじゃないわ。シンジがウジウジ言ってたのが鬱陶しかったからよ」
「……日本に来てそれほど日も経っていないが、少しの間に成長したな、アスカ」
「……え?」

 思いもよらない加持の言葉に、顔を向き直した。加持は包み込むような微笑を浮かべながらアスカを見つめていた。

 そうよね、ダテにこないだまでアタシの保護責任者を務めてきたわけじゃないわよね。全部分かってんだ

「……人を想うってことは尊いことなんだ。いろんなヒトとの関わり合いの中で、想いに想いを重ねて生きてこそ、ヒトは輝けるし、変わっていけるのさ」

 そうかもしれない

「……そうさ」

 それは僅かな変化かもしれない。ドイツ第3支部で保護責任者として出会って以来、年の離れた妹のように感じる時さえあったというのは決して大げさな表現ではない。その少女の辛辣な過去に触れる度に痛んだ心は、自然その少女の幸せを祈る想いへと変わった。チルドレン、仕組まれた子供としてのご多分に洩れずその少女もまた、耐え難い過去、大人達の独善的な思惑によりエヴァパイロットとしての超然的な自我を確立することで心を閉じていた。心を閉じればその成長も止まる。そして他者との関り合いを持つ可能性という芽をも摘んでしまう。事実、パイロットとしての能力、また一個人としての卓越した能力が客観的に評価されるに従い、アスカは自我をより絶対的なものへと強めていった。
 当時より綿々と綴られた想いを自身の中で回想すればするほどに、例えわずかなものではあってもその少女の成長に純粋な喜びがこみ上げてくる。その少女の華やかな外観に見合うまでに成長した心で、その少女にとって最高の出会いを持ち続けて欲しいと思う。この戦いもいずれ終わる。その少女が将来幸せに微笑む姿を恐らく自分は見ることは叶わないだろう。それでも――。
 そこまで思考を巡らしたところで、加持の脳裏に突然一人の少年の姿が浮かんだ。ベルリンでアスカのガード作業の折りに何度か見かけた少年。銀色の髪に深紅の瞳が印象的なその端正な顔は、暖かな微笑を湛え、どこか遠い眼差しでアスカの後ろ姿を見送っていた。幾度かその姿が確認されたことで、保安諜報部の視察対象としてリストに上げられた筈だったが、最終的な回答は保留されたと記憶している。単なる学校でのクラスメートだったのかも知れないが。
 今、何故ここでその少年の事を思い出したのかと思考を巡らした加持。その答えは見つからなかった。



 ?

 バルコニーから夜の帳が降り切った街並みを見渡した、その時に気付いた。コンフォート17の階下部分は既に闇に沈んでいる。所どころに小さな街灯が小路を照らしているだけだ。そんな中、確かに小さな灯りが一瞬浮かんで消えた。加持は漆黒の奥に目を凝らした。

「さーて、気分もすっきりしたし部屋に戻るか……おっと、葛城に車の中からCDを取って来てくれって言われてたんだった」



 こんなに涼しいと感じる夜は久しぶりのことだった。長門ミキは、身体を伸ばそうと車から降りたものの、ふたたび後部座席のドアを開いて薄手のブルゾンを手に取った。相方は、トランクの横でナイトスコープをコンフォートの上層階に向けている。ブルゾンを引っ掛け、その横に並んだ。

「ねえ、杉さん」
「ん?」
「おなか空いたね」
「ああ、もうそんな時間か」
「うん……」
「それじゃあ、コンビニに買い出しに行ってくるとするか。交代して貰っていいかい? 課長と香取さんのも買ってくるよ」
「あのね」
「ああ、何がいい?」
「……コンビニのお弁当…飽きたね」
「……うーん、でもこの辺りってコンビニしかないからなぁ」
「……ヘンな事言ってごめんなさい。あたし、のり弁以外――」
「コンビニ弁当の存在は俺達に取っちゃ有り難いが、こう続くと確かに食傷気味だな」
「あっ、課長、すぐに買ってきますんで。何かリクエストはありますか?」
「いやいい。俺が行ってくるよ。5キロ程飛ばせば偶に行く寿司屋があるんだ。こっちの視察対象は盛大な晩餐会だと聞いとるからな、こっちも寿司桶くらいはいいだろ。酒は我慢して貰わんといかんがね」
「ナイスです、カチョー」

 若竹に飛び付かんばかりに歓喜している長門に苦笑を浮かべる杉。そして、彼らの後方にはいつのまに車から降りたのか、香取が煙草をくわえて立っていた。

「その前にお客さんが来たようだな」

 駐車場の中心部に一つ立っている街灯が周辺を淡く照らし出している。その明りの向こうの闇に何かしら影が動いたような気がした。真っ先に撃鉄を起こしたのは香取か若竹か。
 杉は長門を庇うように電光石火の身のこなしで前方に踏み出した。右手は既に懐の中、左肩に吊っている銃のグリップに吸いつかせると、その瞳には俄かに冷徹な光が広がった。
 まるで深雪の中のような静寂の中、その来訪者の足音だけが切り取られたように響いている。

「おーい。タンマタンマ」
「何やってんだ…あいつ」

 誰ともなしに呟くと、各員がハンドガンのセーフティレバーを戻した金属音が静かに響いた。街灯の下に姿を現した加持は、何やら両手で大きなトレーのようなものを抱えている。

「いやー本当に撃たれるんじゃないかと焦りましたよ、若竹三佐。わざわざ街灯の下を歩いてきたんですけどね」
「加持一尉。死にたいのかね。ガード作業中の要員に不用意に近づくべきではない事くらい、理解していると思ったがね」
「いいのかい? 毎度毎度、特殊監査部の人間が視察対象たる俺達に絡んでも」
「今日は非番ですよ。これ、ココに置いてもいいですか?」アゴでプジョーのルーフを指し示す。
「いいけど、非番が多い部署で羨ましいよ……っと、なんだそりゃ?」
「ジャーン、差し入れですよ。いつもお疲れ様ですってね」

 プジョーのルーフに載せたトレーに被せていたクロスを取ると、そこには本日の晩餐会の料理が二枚の大皿に盛大に盛られていた。ほこほこと流れる湯気と何とも言えないいい匂いが籠から飛び出した蝶のように舞い始める。

「あっ! それって若しかしてシンジ君の手料理なんですか?」

 杉の背中から顔を覗かせていた長門がツツツと近寄り、早速トレーに乗っている大皿の中身を検分し始めている。

「そうだ。クラスメートの子が作ってきてくれたお惣菜もあるぞ……極めつけは、このシンジ君の魂の一品とも言える…」

 ソコで言葉を区切ると、勿体付けるように悠然と肩から水筒をおろした。紙コップを一つ取り出し中身を注ぐ。一同、スープみたいだなと理解した。

「……ブイヤベースだ。お嬢さん、飲んでごらん」

 長門は、えっ? あたし? といった表情を浮かべながらも、湧き立つ匂いには勝てなかった。ふーふーしながら、両手を添えてひと口飲んでみる。
 お、美味しい。な、何これ?

「美味しいだろ」
「……は、はい」
「シンジ君の、真心が籠ってるからな。さっ、皆さんもどうぞ。それと、アルコールはご法度でしょうから、このクーラーにノンアルコールビールとミネラルウォーターを入れてます。ご自由にどうぞ」

 プジョーのルーフに紙コップを並べてブイヤベースを注いでいく。

「細かいところまでよく気が利くな。職を変えた方がいいんじゃねえのか」
「ご婦人相手限定だったら喜んで」

 プジョーの周りは一転し、ささやかな宴の様相を呈している。加持は少し離れたところでナイトスコープを片手に監視作業を続けている若竹に紙コップと小皿を手に近づいていった。

「このあいだは有難うございました」
「ああ」
「……一つお伺いしたいのですが、セカンド…アスカのガードは、これからも三佐ご自身で担当されるお積りですか?」
「当面はな」
「それを聞いて安心しました。アスカの事、どうか宜しくお願いします」
「二度目だな。君からそれを聞くのは。これも言ったかも知れんが、元よりチルドレンの身辺警護は我々二課が負う責務の中でもトッププライオリティだ。ネルフが存続する限りそれは変わらん。我々は最後まで義務を果たすだけだ」
「はい」
「それで安心しただろう、と言いたいところだが……君の身にもしもの事があったらセカンドチルドレンの受けるダメージは計り知れないものがあるんじゃないかね。君より引き継いでから此の方監視作業を続けているが、表層上の強さがガラスの礎の上に作られているような脆さを感じるよ。君に対して兄、いやそれ以上の感情を抱いているとの情報は入ってるが、君の存在自身が彼女にとっては最後の逃げ道のようになってるんじゃあないのかね?」
「…………」
「……急いで何をしようとしているのか、君の本当の目的は解らん。そして繰り返すようだが、それが未来に繋がっているのかどうかについてもな。ただ、君を必要としているのは、葛城三佐だけではないという事実は斟酌すべきだとは思うがね。このネルフにだってそう願っている人間はいる。このあいだ君が地下で受けた警告だってそうだろう、殺気など感じなかったんじゃないかね」
「……そう、ですね」

 一礼の後、その場を立ち去ろうとする加持。

「加持一尉」
「はい?」
「差し入れ、アリガトな。みんな喜んでいる。本当に感謝するよ」

 微かに笑顔を浮かべ踵を返した加持は再び振り返ること無く闇に溶け込んでいった。




 ロータスに乗り込むと、差し込んだキーをアクセサリーの位置まで回した。
 グローブボックスの中から一枚のCDを取り出し、暫くそのジャケットを眺める。

 しばらくしてカーコンポに飲み込ませると、煙草に火を点け天空を見上げた。
 やがて流れ始めたイントロが耳に入ってきた時、男は眼を閉じていた。















 引き返すことが出来るのであれば




 八年前のあの日に戻れるのであれば




 もっとしっかりと掴まえていることができたのであれば












 もっと…大人だったのなら












 それでも、おまえとの出会いにこれっぽっちの後悔も無い


 おまえの苦しみを、その目的を知ったとき、心に決めた


 俺なら出来ること、俺にしか出来ないこと


 そして俺でこそ伝えれること


 例えそれが破滅への路であったとしても


 俺は俺が決めたことに殉じたい












 それがおまえへのせめてもの……













「……鈴原ぁ」
「ん、なんや?」
「ほら、あそこ…暗くてよく分かんないけど、なんだか賑やかそう」
「んー? どれや?」

 バルコニーのリクライニングチェアに腰をおろして星空を眺めていたトウジは、徐に立ち上がった。

「……なんや、なんも見えへんけどな」
「でも、さっきも女の人らしい声も聞こえたのよ」
「ふーん、ほな闇鍋でもしてるんとちゃうか?」

 ヒカリがトウジの顔をそっと盗み見ると、ヒカリが指差した先を目を細めて懸命に探っていた。多少の酔いもあって、その目は少し虚ろ。結果に満足がいかないのだろう、少し首を傾げて唸り始めた。

「うーん、分かれへんなー、不良が溜まっとるわけでもないみたいやしな」
「……鈴原」
「ん? 分からへんもんは分からへんで」
「……今日はちゃんと食べた? 鈴原はいつも食い意地はってるから」
「なんや、イインチョ……それを言いにわざわざワイの後、ついてきたんかいな」
「だって、鈴原、学校でもいつもお腹空いたって言ってるから……」
「なんや、まるでワイ、餓鬼みたいやな…せやけど今日はごっつう食わしてもろたでぇ」
「美味しかった?」
「そりゃ、めちゃくちゃ旨かったで。イインチョ、料理えらい上手いんで感激したで」
「……良かった」
「出来たら、いつかまた、食べさせて貰いたいと思たくらいや、な」

「……鈴原…くん」

 零れそうなほどに瞬く星を湛える夜空。
 そのとき一筋の綺麗な尾を曳く星が流れた。
 ほんの一瞬の出来事だった。

「イインチョ、いまの見たか?」
「……それだったら、こんど」

 見た

「いまの流れ星っちゅうやっちゃなー」
「……ピクニックに行きたいな」

 たしかに見たよ

「あれな、願い事をすると叶うらしいんやな」
「……あたしは、朝早く起きてお弁当を作って」

 お願いしたもん

「ワイも抜け目のう願い事したでー」
「……朝10時に、駅の近くの木の下で」

 叶えて欲しいって

「少し寝坊したワイは、早足で」
「……鈴原を…待つの」

 その時がくるのを

「……そこに迎えに行くんや、ワイが」

 信じてる

「……鈴原…くん」
「……なんや?」

 ゆっくりとトウジの前に出されたヒカリの小指。満天の星の微かな光に照らされ、白魚のように輝いているそれに、トウジは躊躇なく自分の小指を絡ませた。瞬間、星の瞬きが止まったかに思えた夜空をバックに、二人の小さな約束がシルエットを造った。

 信じるんや。ワイは信じるでえ
 この戦いが済んだら、そん時はな……
 それまでは何があっても、こいつを守らなアカン

 絡ませている小指を伝って微かに感じる少女の体温。少女を見つめるトウジの表情はこの上なく優しく、凛々しい。



「加持さん、遅ーいっ!」
「いやー悪い、葛城に頼まれたCDがなかなか見つかんなくてな。トランクの中まで探してたんだ」
「そのミサトなんだけど……」

 リビングで相変わらずの姿勢でバーボンを傾けていたリツコが、やや気の毒そうな表情を浮かべながら傍らに視線を移した。

「ありゃりゃ」

 ミサトはセンターテーブルの傍で爆睡中だった。小脇にしっかりと獺祭の一升瓶を抱えながら。胸までかかった毛布はリツコが気を利かせたのだろう。何故かミサトの足元にケンスケが空の一升瓶に混じって転がっていた。寝入ってるのか、はてまた気を失っているのか。目撃者のシンジによると、どうやら寝入ったミサトを際どいアングルで撮影しようとしたところをアスカの回し蹴りを喰ったらしい。

「なんだよ、葛城が聞きたいって言うから折角持ってきたんだけどな」
「そのCD、何?」
「昔コイツとよく聴いてた曲さ。昔話で盛り上がってるうちに聞きたくなったんじゃないかな」
「加持君、それ私も聴きたいわ」
「ただのフュージョンだよ。俺達が生まれる少し前、クロスオーバーって言われてた頃のもんだけど、多分リッちゃんも聞いたことがあるんじゃないかな」
「ふーん、セカンドインパクト前の音楽なのね。シンジ、かけてよ」
「う、うん」

 レイはまだシンジの膝枕で静かな寝息をたてている。少し残念な気もするが、ずっとこの体勢のままでは確かに何もできない。そっとレイの背中に手を当てて優しく揺すった。何て華奢で柔らかい背中なんだろうと思った。

「あ、綾波……そろそろ、起きようね」

 レイはビクともしない。シンジは先の動作を繰り返した。

「あ、綾波……じ、時間も遅いからさ…お、起きようね」
「……ん、ん」
「……あ、綾波ぃ」

 レイは、少し愚図ったような声を漏らし、エプロンの裾を再びキュッと握り、蒼い髪をシンジの膝に擦りつけるようにした。離れたくないらしい。

(なによ! 爆睡してんだから、そんな猫なで声で起きる筈ないじゃない! くぉの、ウルトラバカシンジ!)
「あ、あーら…ほんっと、相も変わらず仲のおヨロシイことで。加持さん、貸して。あたしがかけたげる」
「ああ、悪いな」

 しばらくするとBOSEのセンタースピーカーから軽快なリフが聞こえてきた。

「加持君、確かに懐かしいわね」
「やっぱり一緒に聴いてたんだな」
「だって、私たち三人でよく一緒にいたもの」
「もう十年近く経つんだよな」
「ほんとあっと言う間だったわね。それにしても、今でも良く持ってたわね」
「偶に聞くのさ。クルマの中でばかりだけどな」
「昔を懐かしむ為に?」


「………い…や」


 リツコの手の中でロックアイスがカチリと音を立てた。次第に意識を沈ませ始めた加持に、続く言葉を諦めるリツコ。そっと視線を手許のグラスに戻した。ゆっくりとその表情を消していく加持。存在までをも消し去って行くかのような雰囲気を纏い始めている。その意識は時空を超え、ぷっつりと糸の切れた凧のように、もはや手に届くことのない希望を求めて彷徨っているのかも知れない。これまで見たことのない暗さを瞳に湛え、加持らしくない希薄さを感じたアスカは言いようのない不安を覚えた。

「加持さん」
「…………どうした? アスカ?」
「デザートの時間よ。コーヒーか紅茶どっちがいい?」
「ダンケ。コーヒーを頼めるかな」
「アスカ、私にはカフェソロをダブルでお願い出来るかしら」
「はいはい、シンジはファーストが起きてからの方がいいわよね?」
「う、うん、ごめん」

 シンジに手をヒラヒラさせるとキッチンに向う。途中、ふと背筋を伸ばしたかと思うとダンスを舞うようにクルリと振り返った。

「加持さん」

 向き直る加持。アスカは小さく人差指で天を指し、笑顔を零した。

「……軽快で、とても心地の良い曲ね」

 返事の代わりにアスカに微笑を向ける加持。ダイニングに消えていくその少女の背中に視線を留めていた。が、その姿を直ぐに滲ませた。










 揺らぎ流れていく旋律




 Room335




 確かめるために


 あの日の想いを
 自らに課した約束を
 変わることの無い俺の気持ちを




 このメロディーで





 これまでに見たことの無い雰囲気を纏う加持に不安げな表情を向けていたシンジ。ふいに膝に掛かっていた重みが消えたことに気が付いた。慌てて視線を落とした。シンジの膝の上から既に上体を起こしていたレイ。深紅の瞳は真直ぐに加持へと向けられていた。その左手をシンジのエプロンから離してはいない。








「……いえ」


 レイはそっと目を閉じた。











「……切ない…曲だわ」














「………そうだ……な」

 加持はミサトを見つめる目を微かに細めた。

 その様子を遠巻きに見ていたリツコ。両手に包まれているロックグラスに呼び戻されるように視線を落した。待ち疲れたかのようにロックアイスが小さく弾けた。



「アスカ、ごめん。僕、紅茶を準備するよ。アールグレイでよかったよね」
「あ、ファースト起きたのね」ネスプレッソにカプセルを詰めていたアスカが顔を上げた。
「う、うん。何かさっきの曲で目が覚めたみたいだよ。でも少しヘンなんだ」

 食器棚からティーメーカーとフォートナム・アンド・メイソンの缶を取り出しながら、先程のシーンを思い起こした。
 どこかしら感じる違和感は、やはりらしからぬ表情を浮かべていた加持から来ているんだな、と思った。

「何が」
「うん。よく分かんないんだけど。ただ、何か綾波が加持さんをジッと見てて」
「何ですってえー! くおら、ふぁーすとぉ!」
「ち、違うよ、アスカ。アスカが心配しているようなことじゃ無くて」

 火を吐く勢いのアスカの右腕を必死で掴んだ。この状態でリビングに戻すわけにはいかない。

「じゃあ、どういうことなのよ?」
「だから、それが…何て言ったらいいんだろ。ただ、何だか今日の加持さん、ちょっとヘンだなあって」

 あたしだけじゃ無かったんだ

「ふ、ふん。加持さんくらいの大人にはね、あんたみたいなお子様とは比べ物にならない程の悩みがあんのよ」
「そ、そだよね」

 確かにアスカの言う通りなのだろう。あの明るく軽いイメージから、仕事でもプライベートでも真面目にやってるんだろうかと感じることもあった。だがこの時代にネルフに従事しているのだ。背負わされている重責、そして抱え込んでいる問題は生半可ものではないだろう。それでもあのパーソナリティはネルフでのムードメーカーのみならず、ミサトやアスカにとって無くてはならない存在であることはシンジにも容易に理解できる。シンジ自身だってそうだ。時に兄のような相談相手として頼りたいと思ったことは一度や二度ではないのだ。それ故にあの明るさに影が差すことに皆が敏感になっているのだと思う。何があっても最後には後ろで微笑を湛えて見守ってくれている、そんな存在を失うわけにはいかない。自分の掌から零してはならないのだと心が反応しているのかもしれない。

「弐号機パイロット」

 !

 振り返ると、いつの間に入ってきたのかすぐ後ろにレイが立っていた。

「ちょ…ちょっと、あんた。いきなり真後ろから声掛けないでよ。ビックリするじゃない」
「……ごめんなさい」レイは少し視線を落した。
「い、いや…」何よ、今日はこの子、なんだか調子狂うわね「つ、次からは気をつけなさいよ。ファースト、いい? ポイントは入ってくるタイミングで声をかけることよ」
「……分かったわ」
「あ、綾波、……どうかしたの?」
「弐号機パイロットが私を呼ぶのが聞こえたわ」
「え? あー、あれ。間違いよ」
「…………」
「まーでもついでだから、ちょっと運ぶの手伝ってくれる?」
「問題ないわ」

 デザートとコーヒー・紅茶の類は既にダイニングテーブルの上にセットされていた。

「えーと、それじゃ綾波。紅茶を運んで貰っていい?」
「……うん」

 伸ばそうとしたレイの手が止まった。深紅の瞳の先にはティーメーカー。ガラスボールの中はもう十分琥珀色に染まっている。

「どうしたの?」
「……きれいな色」
「あ、そだよね。この紅茶の種類、アールグレイっていうんだけど、どうしてだか昔からリーフティーが好きなんだ。でもミサトさんはコーヒーばっかり飲んでるから。これを飲むのは僕ばっかりなんだけど、でもたまにアスカも飲むかな……」
「……そう」
「あっ、ゴメン、こんな話、詰まんなかったよね」
「そんなこと、無い」
「あ、有難う。それで、綾波も僕と同じ紅茶にしちゃったんだけど、よかったかな?」
「……うん」
「二人で仲良くお話ししてるところ悪いんだけどぉ、早く持ってかないとコーヒー冷めちゃうわよ。リツコが怒ると恐ーいわよ」



「杉さん…あたし、もう駄目……」
「……同情の余地は無いよ」

 プジョーのルーフに所狭しと置かれていた大皿二枚は、今や綺麗に平らげられている。杉などは、加持が手にした大皿に盛られた料理を目にしたとき、内心では余ったらどうしよう悪いな、などと考えていた。が、全ては杞憂に終わった。相方の長門二尉が途轍もないパフォーマンスを発揮したからだ。
 最初、『若いってことはいいよな』などと余裕のコメントを吐いていた香取も、やがて呆れ果てた表情で沈黙してしまったし、若竹に至っては、乾いた笑いを発する他なかった。

「だって……久しぶりのまともなお料理だったんですもの」
「い、いや…決して責めてるんじゃないよ。ただ加減てモノが――」
「責めてる。やっぱり責めてる」
「い、いや、アノその、なんだ」
「まあまあ、いいじゃねえか。とにかく念願叶ってシンジ君の手料理を食べることが出来たんだ。有り難いことに俺達もご相伴にあずかることが出来たしな」
「その通りだな。しかし、よくよく考えると長門二尉も因果な商売に就いたもんだ。年頃の女性が食事もきちんと採れないんだからな。預かってる上司が今更何言ってんだとお叱りを受けそうだがな」
「ま、パッと見は機捜ってキャラの長門も、元公安一課出身のツワモノが多勢を占めるウチの中ではよく頑張ってるとは思うけどな、まだまだ若いんだし、まともな生活を送れる方法を考えた方がいいかもな。そういえば長門の姉貴はどこかの研究所の研究員さまなんだろ? 確か葛城さんや赤木さんとは大学での同級だって言ってたよな。転がりこんだら、おまえ一人の食い扶持くらい何とかなるんじゃないのか?」
「香取さん、止めて下さいよ。この年でそんなこと出来ないですよ。それにこれでも誇りを持ってこの仕事に就いてるんですから」
「ふーん。こりゃ独り立ちできる日も近いかな」
「ええ、準備は万端ですわ。でも出来れば慣れてるシンジ君専任がいいなあ」
「なんだよ、それ。じゃあ僕はお払い箱?」
「杉一尉は、そおね……アスカちゃんは課長が担当してるしぃ。司令か副司令は?」
「余り激しく動かなさそうだし、楽かもしれない……別の意味で疲れそうだけど…つか、いまウチの誰か専任やってんですかね?」
「黒服組だろ」
「あとは、香取さんからレイちゃんを奪う……でも、一番難しそうかな?」
「ありゃ、俺で無いと無理だ」

 食欲も満たされ、珍しく話に花が咲いている二課チルドレンガード作業班。チルドレンが一つどころに集まり一元管理が出来ていることも、余裕を持てている一因となっているのだろう。

「そうかも知れない。大深度地下施設に司令と潜られたら最後、出てくるまで入口で大人しく待ってるしかないし、自宅の玄関も施錠してないらしいから神経が休まる暇もないですよね」
「そうかな? そんなこたぁないけどな」
「仕事だけで考えるとダメってことですよね。たまに香取さんのレイちゃんを見る目がパパになってますもの」
「……そうかも知れんな」

 香取はコンフォートに遠い眼差しを向けた後、やおら駐車場の出口に向かって歩き始めた。

「……あたし、何かイケナイことを言ってしまったんでしょうか」長門は、小さくなっていく香取の背中を見つめながら不安げに呟いた。
「いや、トイレだろ。ただ……ちょっと思いだしたかな」
「……思いだしたって」
「ご家族の事さ。彼はセカンドインパクトで奥さんと当時一歳のお嬢さんを亡くしてるんだ」
「……そう、だったんですか…あたしったら無神経なこと言っちゃって」
「そんなこたぁないさ。逆に気付かせて貰ったって感謝してるんじゃあないかね。思い入れが過ぎると判断が鈍る時もある。今頃、頭冷やして整理してんだろ」

 微笑を湛えつつ若竹が振り返ると、長門は何やら真剣な表情で空になった大皿を睨んでいる。次の展開に付いていけてないことを自覚した若竹は、慌てて思考を切り替えようとした。

「加持さん、次。デザートとかコーヒー、持って来てくんないかなー。別腹だもの」
「…………」



 エアロックの開放音に続いて葛城邸のエントランスドアが開いた。湧き出したようなお喋りと一緒に姿を現したのは、黒いジャージ姿の少年と黒いおさげ髪の少女の二人。

「いやーほんまに今日は楽しかったわ。ぎょうさんご馳走になったし。シンジに惣流、えらい遅うまですまなんだな。ミサトさんにもあんじょう伝えとってんか」
「うん」
「あんた、ヒカリをちゃんと送んのよ」
「あったし前やないかー。ワシ、これでもごっつジェントルマンやねんでぇ」
「あんたバカァ? なに誤解してんのよ? そんな意味で言ったんじゃないわよ。あんた、ヘンな事考えてんじゃないでしょうねー」
「な、何ゆうとんねん! それこそ誤解やっちゅうに。なー?」
「も…もう、勘弁して……」

 楽しい時間というものは、あっという間に過ぎてしまうものだ。非情とも言える現実の中にあっては、普段は持つ事さえなかなか許されない時間だった。少年少女、そして大人達にとって刹那の休息が終わりの刻を告げようとしている。
 葛城家のドアを抜けることが現実への回帰の象徴と感じたか、辞する二人も見送る二人も名残惜しげな表情を消すことが出来ない。

「……また今度、こんな食事会出来たらいいね」
「んーワシャ、いつでも大歓迎やで。もっぱら食うほう専門やけどな」

 カカカ、と笑うトウジの横でヒカルが、もおっ仕方無いわね、と溜息交じりに呟いている。トウジを見つめるその眼差しは限りなく優しげだ。

「シンジな、そりゃ大したことあらへんで。この戦争もいつかは終わるんや。そしたら毎週でも出来ることやで。勿論、今日のメンバー全員でやで」
「うん」
「ワイな、大人の人らも含めてやけど、このメンバーホンマに好っきゃねん。生意気や言われるかも知れへんけど、ホンマにかけがえの無い仲間やと思てる………せやからこそ、信じるんや、こんな時間をしょっちゅう持てるような日常が必ず戻って来るって信じることやと思うんや」
「そ、そだよね」
「……せや」

 以前ミサトの昇進祝いと称しケンスケが企画してくれた祝賀会を思い起こす。今回と同様にささやかな宴の場ではあったが、今後も訪れるであろう苦しみに苛まされるという強迫観念は、シンジの思考をややもするとネガティブな方向へと導いた。何故こんなに騒がなくてはならないんだろうか、と。
 あれからそれほど時間が経過している訳ではない。だが、明らかに当時の強迫観念が薄まっているのを感じる。徐々にではあるが、日常の関わり合いを持つ中で育んできた仲間との人間関係への手応えは、かつては想像だにしなかった未来への想いを育ててきているんだと思った。
 一瞬、シンジの脳裏に空色の髪の少女のイメージが過ったような気がした。

「ああ、せや。綾波はどうすんねん? 良かったらまとめて送ってくで」
「う、うん。でも、まだリビングで寛いでると思うから、あとで僕が送ってくよ」
「ほうか…そらそやな。ワイもそんな野暮ゆうたらあかんわな」
「い、いや…な、何か誤解を受けそうな言い方なんだけど」
「はあ、相変わらずやのー……ほなこれでな」
「じゃ、アスカ、あさって学校でね」
「うん、気をつけてね。ホントに熱血バカに何かされそうになったら思いっきり蹴りあげんのよ」
「〜〜〜〜〜〜〜」


 そろそろレイを送って行かねばならない。足早にリビングに戻ったシンジは室内を見渡した。
 抱き枕のように一升瓶を抱きしめながら変わらない体勢で熟睡しているミサト、そしてロックグラス片手に会話を楽しんでいる加持とリツコは静かにマイペースで飲んでいる。その傍らで、やはり酒瓶のように転がっているのはケンスケだ。思わず憐れに思ったシンジは毛布を掛けてやる。
 ところでレイがいない。お手洗いかな? まさかお風呂ではないだろう、などと考えながら加持の前から空になったアイスペールを引き上げた。

「シンジ、あたしがやっとくから着替えてきなさいよ。ファーストを送ってくんでしょ?」
「あ、うん。ごめん」

 エプロンを解きながら、加持とリツコは朝まであの調子で飲んでるんだろか、車運転できないし、だったらリビングに来客用のお布団敷かなくちゃ、ああこないだの日曜に干しときゃ良かった、などといった思考の進め方はまさしく主夫のそれ。
 後の段取りを頭の中で組み立てながら、シンジは自分の部屋のドアをゆっくり開き、そして固まった。
 レイがいた。
 すこしだぶっとしたシャツだけを身につけて、シンジのベッドに腰掛けている。
 その傍には、制服やブラウス、そして靴下などが脱ぎっぱなしにされたまま無造作にベッドの端に掛けられている。
 シンジを真直ぐ見つめている少女。その顔に表情は無い。

 突如として脳裏に甦った情景。真夜中のユニゾン。
 シャツから伸びる白い脚がシンジの意識の中に飛び込んできた。

 !!

 静かに立ち上がり、シンジへと歩を進めるレイ。

「……あ、綾波?」

 金縛りから解放され、辛うじて再起動を果たしたシンジが声を絞り出す。レイはシンジの目前で歩みを止めた。
 どこまでも深遠なるスカーレット。見えない糸に引かれるようにゆっくりと身体を寄せていくシンジ。意識の底で清流のように穏やかに流れていた感覚が持ちあがってくると、シンジは徐々に緊張感から解放されていった。

「ちょっと、シンジぃ。フツーの氷しか無いんだけど、ロックアイスって何処にあんのよ?」

 ひょこんとアスカがリビングから顔を出した。が、何ら反応を示さないシンジに憤然一歩手前の表情を浮かべつつ、廊下をドスドスと歩いてきた。

「ちょっと、あんた。アタシの言ってること聞いて――」

 シンジの肩越しにグッと部屋の中を覗きこみ、たちまち凝固するアスカ。

「――あ、」

 金縛りは解けたが、エプロンそして何よりこの誤解は解けそうもない。シンジはエプロンの結び目の上に手を彷徨わせながら、ロジックモードを変更し恐るべき処理速度で可能な限りの言い訳を思い浮かべた。しかし悲しいかな、タイムリーにアウトプット出来ないのがこの少年の悲しいところ。

「あんたっていうヤツはねー! 何やってんのよ!! ファーストに下だけ脱がせて!!」
「えあうっ!? ち、ちがちが」
「この状況下で何が違うのよ! あんた…よもや、嫌がるファーストを無理やり……」
「えええっ! なな、なんでそんな。ぼ僕はただ、あ綾波をー」
「ちょっと…騒々しいわね」

 リツコだ。廊下に姿を現すと、ゆら〜とシンジたちの方に近づいてくる。目がすわっている。少しいやな予感がした。

「リツコ、ちょっと聞いて。とんでもないのよ、このバカ」
「ふーん。レイ、かなり挑発的な格好ね。いえ、即物的とさえ感じるわね」
「…………」
「リ、リツコさん、た、助けて下さい!」
「問題無いわ。概ねの状況は客観的に掌握したわ。つまるところ……レイ」
「……はい」
「いい? 初めての時は、三つ指ついて『よろしくお願いします』って言うのよ」
 だから違うんだってば

「あーもう煩い。ゆっくりと眠れやしないわ」
「「ミサト(さん)」」

 これで終わった。全て終わった。朝まで僕は弄られて時を過ごすんだ

「ちょっと、ミサト! 何とかしてよ、コレ!」
「んーどしたの? あら、レイ。着替えたんだ。ちょっち刺激的だけど、かわいいカッコしてんじゃない」
「「はあ?」」
「あっ今日、レイには泊まってって貰うかんね。もう時間も遅いし、明日もお休みだしぃ」
「ちょ、ミサト、そんなの初耳よ! あたし聞いてない」
「今、言ったわ。ま、問題無いっしょ。それともレイが泊まってくのは嫌?」
「べ、別にそんなことは言ってないわ。ただ、何も聞いて無かった上に、いきなりファーストもそんな恰好してんだモン」
「へへー、ごめん。それでぇ、レイの寝る部屋は、と」レイに視線を向けるミサト。
「シンちゃんのお部屋はちょっちマズイわね。レイのそのカッコにシンちゃんがクラっときてもアブナイしぃ」
「え? な、そ、そんな」
「バカシンジは黙ってんの。ま、消去法でいくとアタシの部屋ね。ファースト、いーわね?」

 チラとシンジに視線を向けた後、レイはコクリと頷いた。

「さっ、これで全て丸く収まったわ。良い子は第二部に移行するわよ」
 まだ飲むのか





 ネルフ本部第二実験場。各員が起動実験プロセスの組み立てに追われる管制室には、咳ばらい一つで全てが崩れ去ってしまいそうな程の張りつめた空気が押し込められていた。その緊張を切り裂くように突如響いた副司令の声。

「これより、零号機再起動実験を行う」
「レイ、準備はいいな?」

 管制室の窓際で屹立していたゲンドウの声が低く響いた。

「はい」

 俄かに膨らんでくるノイズに、幾名かのオペレーターが条件反射的に顔をしかめた。地底深いところで燃え始めた炎のように、静かに持ち上がってくるどこか異質な緊張感。

「第一次接続開始」
「主電源、コンタクト――」
「稼働電圧、臨界点を突破!」
「了解! フォーマットをフェイズ2に移行!」
「パイロット、零号機と接続開始」
「パルス及びハーモニクス正常」
「シンクロ問題無し」
「オールナーブリンク終了」
「中枢神経素子に異状無し」
「1から2590までのリストクリア」
「絶対境界線まで、あと2.5」
「1.5…1.2…1.0…」

 管制室に木霊するマヤのカウントダウン。緊張感がその声を一層澄んだもののようにしている。

「0.8…0.6…0.5…」
「0.4…0.3…0.2…」

 ゲンドウの右手は眼鏡に添えられたまま動きを止めている。

「0.1…突破!!」
「零号機、正常に起動しました!」

 ボーダーラインをクリアする際に鳴り響くビーブ音に続き、マヤの快活な声が管制室中に響き渡った。
 見えない巨人がついたかのようなため息が厚く流れた。



「あれ? リツコ、今日のテストの講評は?」

 リツコの執務室に慌ただしく駆け込んできたミサトは、傍目にも息があがっていた。ミサトの体力を考えるとそれなりの距離を走って来たのだろう。

「終わったわよ。今日のテストはレイ単独の起動実験だもの。無事終了したわ。あなた、今日は立ち会えないって言ってたじゃないの」
「打ち合わせが予想以上に早く済んだんで、慌てて戻ってきたのよ。何てったって、こないだの機体相互互換試験での事故以来、零号機の起動実験は初めてだったもん。気になるわよ。作戦局一課としては」
「そりゃそうよね。事後レポートより自分の目で確認したいわよね。特にあなたの立場ならね」
「まあ、今日は司令も立ち会ってるって聞いてたから、あたしが気になるようなポイントは全部その場で指摘されただろうし、それなりの事後レポートも出されるんでしょうけど」
「結果は良好だったわ。全てのフェーズにおいての各々のマイルストーンでの問題も皆無。シンクロ、ハーモニクスの数値も特段の問題は見られず。特にレイのここ最近のシンクロ率の上昇率は目を見張るものがあるわ」

 そう、と返しながらリツコの机の上にあるコーヒーメーカーのサーバーを取り、ゲスト用のマグカップにたっぷりと注いだ。湧き立つアロマ。

「んで、レイは? もう帰ったの?」
「碇司令と食事よ。今日は講評まで一緒にいらしたもの」



 第3新東京市の行政官庁と金融機関が集中しているエリア。夕刻にあっては、日中の喧騒が嘘のように感じられるほどに閑静な佇まいを見せるその一角に、一見痩せすぎの塔にも見える、そのビルは屹立していた。
 そのビルの最上階、奇をてらったようなデザインの外観も誇らしげなそのフロアに、ほんのりと幾つかの灯火が浮かび上がっている。その心許ない明りの下で、碇ゲンドウそして綾波レイは静かにカトラリーを動かしていた。南仏のオーベルジュで見られるような質感高く大きな木製テーブルに布張りの肘掛け椅子が二つ。ゲンドウとレイの距離は若干離れてはいるものの、耳に柔らかく触れているようなBGMは偶に交わされる二人の会話を邪魔することは無かった。広大な空間を持つそのフロアには他のゲストの姿は見られない。
 既に冷製前菜がサーブされ、二人は慣れた手つきでカトラリーを動かしている。
 ふと手を止め視線を上げたゲンドウ。前菜を口に運んでいる少女が視界に入る。心なしかいつもよりリズミカルなペースで食事を進めるその少女に表情を少し和らげた。

「レイ」
「はい」
「美味しいか?」
「はい」
「メインは白身の魚だったと思うが、問題は無いか?」
「問題ありません」
「……そうか」

 少しばかりの驚きと安堵が交錯する。先日届けられた報告の内容を思い起こし反芻した。

「碇司令」
「どうした?」
「みんなで食べると……より美味しくなると思いました」
「…………」
「……理由はよく解らないのですが」
「……そうか」

 BGMが変わるとメインディッシュがサーブされてきた。舌平目の切り身のムニエルを前にして早速カトラリーを動かし始めたレイを眺めながら、ゲンドウは僅かに微笑を湛えたその口元に、程良く冷えたビゴの白を運んだ。



「――はい。そうですか…い、いや、そんな。はい、分かりました」
「シンジぃ、今日はミサト、遅くなんの?」

 シンジが受話器をそっと置くのを見計らって声を掛けたアスカは、お風呂からあがったばかりだ。身体を覆うバスタオルの上に湯気を纏っている。大きなタオルで髪の毛を拭いながら、どっかとダイニングの椅子に腰を落した。何気にアスカに顔を向けたシンジは、慌てて視線を逸らせた。

「ア、アスカ…そ、そんなカッコで座りこまないでよ」
「ふーんだ。こないだ、ファーストも際どいカッコしてたと思うけどね。それで? ミサトがどうしたって?」
「い、いや、もうすぐネルフを出るって」
「一人で?」
「え? あ、うん」
「ふーん。じゃ、ファーストを呼ぼうとしたんだけど、ふられたんだ」
「えっ!? いや…あの」
「今日、単独試験だったから、司令のお誘いがあったんだ」
「い、いや……そうなのかな」
「ちょっとお、真面目に考え込まないでよ…ホント、つまんないオトコね」
「…………」
「ま、さっさと使徒を全部やっつけちゃって、この戦争を早いとこ終わらせることね。あの熱血バカが言ったようにしたけりゃね」
「う、うん。そだよね」


 気が付くと育みを見せているものがあった。
 少し前までは考えてさえいなかった。
 いつしか未来に期待を寄せている自分がいる。

 望むものは日常。
 普通の日常。
 平穏な日常。
 非常で無い日常。
 そして、未来に想いを馳せることが許される日常。

 破滅という名の扉を開き、混沌の中を喘ぎ、絶望と隣り合わせの日々をまるで深雪の中を彷徨うように歩いてきた。
 遥か上空から降り立ってきた光明。それはまだ本当に細く頼り無い糸のようではあるが、
 その存在を感じ取った時、シンジは使徒との戦いの意味を理解できたような気がした。



 記憶の中で流れるシーン。目の前のショーウィンドにオーヴァーラップするように、その時の一部始終がレイの思い出として鮮明に脳裏に映し出されてくるのを感じた。

「……どうしたのだ?」

 レイの姿を淡く鏡のように映しだしていたショーウィンドのガラスに、もう一つ男の影が生まれる。その紅い瞳が捉えていたティーメーカーをサングラス越しに捉えた。

「…………」

 これまで、レイがこういった嗜好品の類に興味を持った事例は記憶に無い。エヴァパイロットとしての責務を全うするために、そしてゲンドウの命令を遂行するためだけに、必要となるものだけを選択してきた。そして、そこには興味なり個人的趣向なりが入り込む余地は無かった筈だ。
 それだけに、ゲンドウに掛けられた声に反応すらせずショーウインドに見入っているレイに、少しばかりの戸惑いを隠す事は出来ない。だが、ずっとこうしている訳にもいかない。

「……どうした? 入ればよいではないか」
「……はい」

 そのショップは先程まで二人が食事を摂っていたレストランが入っているビルのグランドフロアにあり、広い店内にはスムースジャズが微かに漂い、様々なキッチンウェアやテーブルウェア、そして嗜好品類がバランス良くコーディネートされるように陳列されていた。殆ど客らしい姿も見られないが、店のスタッフも遠巻きにゲンドウとレイを何気に見ているだけで、呼ばれれば来るといったものであろう。
 嗜好品のコーナーへとゲンドウは足を向けた。後に続くレイ。周りの商品には目もくれず真っ直ぐに歩を進めていく。

「紅茶が気になるのか?」
「……はい」

 立ち止まったゲンドウ。右手の飾り棚にピラミッドのように陳列されていたアロマティーのティーバッグを一つ手に取った。ここ最近女性に人気の高い紅茶で、ネルフでもマヤが好んで飲んでいるものだ。

「これなどはどうだ? 香りもよく、手軽に美味い紅茶を楽しむことができるが……」
「……アールグレイがいいです」
「……そうか、ならば、これはどうだ」

 次に手にしたのは、フォートナム&メイソンのアールグレイクラシック。ティーバッグタイプだ。

「これも手軽だが、とても薫り高い紅茶だ」
「……リーフティーが…いいです」

 そういえばショーウィンド越しにレイが視線を留めていたのはティーメーカー……だが、

「……自分で嗜むわけではないのか?」

 思いがけないゲンドウの言葉にレイは少し顔を俯かせた。その頬を少し染めている。

(……シンジ、か)

 小さなため息を一つつくと、話を続けた。

「確かに、薫りそして風味はリーフティーが勝る。ただ、そのための道具も必要だし、手間もかかるが……」

 ゲンドウは、徐に飾り棚の一番上の棚から一つ缶を手に取り、レイの顔の前に差し出した。二三度瞬きを繰り返したレイ。

「これなどは、私がいつも嗜んでいるものだ」

 テイラーズ・オブ・ハロゲイトのアールグレー。レイはその缶を両手で受け取った。まるでにらめっこをするように、その缶を見つめている。

 そんなレイの様子に表情を和らげながら、飾り棚に視線を戻したゲンドウ。少し考えるような素振りを見せている。

「……これも、必要だな」

 先ほどウィンド越しにレイが見つめていたハリオのティーメーカー、そしてシルバーのスプーンを手に取った。
 ショーウィンド越しにレイがどんな情景を思い浮かべていたのか知る術は無い。しかし今のレイには必要なんだろう、とゲンドウは思った。視界に入った店のスタッフに軽く手を挙げる。
 ふとその時、この紅茶の淹れ方を自分が教えることはないのだろうな、と思った。





















 地底から押し出されてきたような低い鳴動が長く尾を曳いている。
 ネルフ本部エヴァンゲリオン初号機専用ケージ。湧き出るような間接的な淡い明りにより、朧げに浮かび上がったアンビリカルブリッジに、その男は佇んでいた。暗色の士官服に身を包み、いつものように左手をポケットに突っ込んでいる。初号機を正面から見据えるように佇んでいるその男は、ただ見つめているだけのようでもあり、そのサングラス越しの視線に些少の意思を託しているようにも見えた。

「……碇」

 いつの間にケージまで降りてきたのか、ゆっくりと男へと歩を進めながら冬月が徐に声をあげた。

「やはりここにいたか……折角のところ邪魔をして悪いんだが、もう間もなく委員会の審議が始まるぞ。連中、余程ダミーシステムの進捗が気にかかるのか、事前に送ってきたアジェンダには先の機体相互互換試験の事故原因について、準備段階からの報告をも求めてきておる……手順についても事細かに突っ込んでくる気だぞ……」
「……ああ、すぐに戻る」

 その男は初号機から視線を外すことなく低い声で応えた。

「既に審議の為の想定問答のようなものも準備させたが、どうしても腑に落ちない点があってな。事故の原因だが、レイの時と違ってエヴァ側からの侵食によるものだったとの事だ。パイロットはサードチルドレンだったのだぞ。理論上、考えられんことだがな」
「…………」

「……碇」
「……ああ」
「……レイの事だが……」
「…………」
「……本当にこのままでいいのか? ……このままでは本格的にお前の計画に影響するのではないか?」
「…………」
「……まあいい……いずれにしてもお前のシナリオだろうがな」
「……もし……」
「……?……」
「……もし……われわれのシナリオよりも、ずっと以前に」
「……何だ?」
「……約束…別のシナリオが存在していたとしたら……」
「何なのだ? ……何を言っている? ……」
「…………」

 視線を落とすと、暗色の男は俄かに踵を返し、靴音を響かせ始めた。

「何を……、おいっ 碇!」



The End





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