身体に伝わる振動が心地良い。
 ゴトンゴトンという音を乗り越えるごとに深みを増していく緋色。
 水面に滴るインクのような広がりを見せたイメージに、堪らず薄眼を開けて応えようとした。
 薄暮。無限軌道をひた走る汽車の中。
 淀んだ空気の中に浮かんだ旧式のシートは、ぼんやりとビロードの輝きを所々に湛えている。
 くすんだオリーブの色彩はメルヘンチックなイメージを際立たせ、ややもすると銀河に駆け上がっていくような思いに囚われる。
 追い越された踏切がその警笛を遥か後方に消し去った頃、吊革に囚われた少年は車窓を茫然と眺める自分に漸く追いついた。ゆっくりと背中を伸ばす。

「……なんで…ワイ、いつのまにこんなんに乗っとるんや……」

 鉛を詰めこまれたような頭をぐるりと回した。しかし、他に乗客は見当たらない。
 暮色を一杯に孕んだ車窓にふたたび顔を映し出したとき、森の中から漏れ聞こえてくる囃子のように、囁き声が耳に届いた。

「……なんや…シンジと綾波やないか……」

 隣接する車両で、向かい合ったシンジとレイが列車の揺れに身体を任せている。
 二人は二言三言、言葉を交わしていたが、母がわが子に言い聞かせるような口調のレイにシンジが声のトーンを上げ始めた。

「……なに口喧嘩しとんねや…あのふたり……」

 とうとう頭を抱えこんでしまったシンジ。

「……あかんやないか……仲良う、やっていかんと……」

 シンジを黙って見つめるレイに表情は見られない。
 やがてゆっくり立ち上がると、そのたおやかな肢体をトウジに向けた。

「……なんちゅうても……シンジに綾波、自分らは……」

 めくるめく夕間暮れの茜。
 昏れ堕ちていく刹那、その姿を黒いおさげ髪の少女に変えた。


「…………イインチョ」


 トウジに切なげな表情を湛えていた少女。すこしだけ頬を緩めた。



「………すまんかったなぁ」



 少女はやや俯き加減の顔を上げ、ゆっくりとかぶりを振った。



「……それでもワイは、な」



 瞳に湛えた気持ちそのままに。







「……これで、ええ」









「………これで、よかったんや」
















Episode 18.01 to 20.01
伝えたい / I wish I could be with you
Written by calu





 夏の空が高い。夕暮れの気配を感じるまでにはまだしばらく時間がかかりそうだ。終業の鐘が鳴り終わるのを待って、長門ミキは小さく伸びをするとプジョーのドライバーズシートに腰を落とした。助手席では相方の杉が校門に向けたオペラグラスを覗き込み、後部座席では香取がサンルーフの向こう一つ浮かんだ雲を眺めていた。

「神妙な顔して何を見てたんだ?」
「空、ですわ」
「ふーん。炎天下の下で、あんまり長い間突っ立ってると熱中症になるぜ」
「……変わらないなぁ、と思って」そう、あんなことがあったのに。
「なんだぁ?」
「……いえ、何でもありませんわ………ところで、ここんところ香取さんとはいつも一緒ですよね」
「あの二人がそうだからな……お前さんたちにとっちゃ迷惑かもしれんがな」
「そんなことはありませんわ。大先輩からOJTをいただく絶好の機会ですもの」
「かわいいこと言うじゃねえかー。だがな……何にも出んぞ」
「あっ、分かっちゃいました?」
「…………」

 視界の隅でオペラグラスが揺れた。

「香取一尉、ファースト並びにサードチルドレン出てきました。長門、トラッキング開始」



「あれ? トウジ、碇は?」急いで洗面所から教室に戻ってきたのか、ケンスケはハンカチで手を拭いながら教室の中を見回している。
「おお、シンジやったらさっき綾波と帰ったでー。今日はネルフ言うてたからな」
「あ、そっか。それじゃあ今日どうする? ゲーセン行くかぁ?」
「あーすまんけど、今日はアカン」

 鞄に教材を詰めこんでいたケンスケは、待ち合わせを忘れていたかのような表情を浮かべて顔を上げた。

「……病院か。ナツミちゃん、良くないのか?」

 忙しなく帰り支度していた手を一瞬止めたトウジ。次の瞬間、ケンスケを振り返ったその顔には笑顔が創られていた。

「……そんなことあらへんよ。まあじき退院やろけど、偶に行って顔見てやらんと拗ねよるよってなー」
「そっか、ならいいんだけどな」

 少し沈殿した空気をかき分けるように、言葉を飲んだ二人は黙々と帰り支度を進めた。

「……なあ、トウジよ」
「ん、なんや?」
「……最近、碇、付き合い悪いよな」
「………………」
「いや、綾波が学校に来るようになったのはいい事だし、雰囲気も良くなったけど、ここんところ放課後もずっと二人一緒なんだもんなー」
「ケンスケな、そらしゃあないで。こないだの戦闘ではシンジも相当危なかったらしいやないか。生きるか死ぬかっちゅう状況を乗り越えた二人が必死になって支え合っとる……ワイにはそないに見えるで」
「……そう、だよな。あいつら、エヴァパイロットが身体を張って戦ってくれたからこそ、オレタチもこうして生きてられるんだよな」
「……せや」
「……でもさ」
「んー? まだ何かあんのか?」
「いや、やっぱくっついちゃったのかなー、あの二人?」
「はぁー、そりゃ分からへんなー……ごっつお似合いやとは思うけどな」

 ほなまた明日、と教室を後にして後ろ手にドアを閉める。溜め息がひとつ零れた。
 ここ最近のシンジの様子が気にならない筈はなかった。先の戦闘。ケンスケから聞いた話では、レリエルといわれる第12使徒はここ第3新東京市の中枢にそびえる幾つかの兵装ビル、そして出撃した初号機をシンジごと飲み込んだという。今更ながら人類の敵といわれる使徒という得体のしれない生物に背筋が寒くなる思いがしたが、シェルターに避難することしか出来ない自分などには到底理解できない恐怖を体験したのだろう。戻ってきたシンジは、取り戻しつつあった14歳らしい明るさは影を潜め、ネルフという言葉にさえ沈痛な表情を見せるようになっていた。そして綾波だ。シンジが退院してからこのかた、急激にシンジとの距離を縮めだしている。まるで自らに残された時間の全てをかけて寄り添うかのように。そこまでの思いつめた何かをトウジはレイに感じていた。
 火山灰のように意識の底に積った澱が凝固を始めた。慌ててかぶりを振ると、トウジは歩を進めた。妹が入院している病院の面会時間は限られている。急がなくてはならない。医師は精一杯の治療をしてくれているというが、それでも経過の良くない妹に寂しい思いはさせたくはない。今日はどんな話を聞かせようか。



『――はい、加持です。用件のある方は――』

 これが最後と念じてかけた三度目のコールも結果は同じだった。聞き慣れている筈の、いつもと変わらない優しげで頼もしい声。たとえ着信メッセージでも、その暖かさを感じたかったのかと幾度自問を繰り返しても、否の言葉は訪れては来ない。

「……おかしい……いつ電話かけても最近留守ばっかり……」

 ディスプレイとのにらめっこに飽きると、呪文のような言葉を投げかける。最近はいつもこのパターンだ、と溜息にならない溜息を吐くと、携帯端末を無造作にスカートのポケットに押し込んだ。右腕にかき抱くようにして持っていた箒に気付いて、慌てて持ち直す。

「……どうしたんだろう」

 廊下の床を撫でる箒の音の背で、校庭に響く生徒たちの声は遠かった。

「アスカ」
「え? うん」
「週番日誌書いたから、先生のところに持っていってくるね。提出したら帰りましょ」
「うん」



「……ねぇ、アスカぁ」
「ん、なに?」

 学校からの帰路。肩を並べて歩を進める二人の少女の影が陽炎に揺れている。

「今日もネルフだよね」
「うん、そう」
「ここのところ、碇君たちと一緒に行かないね」
「うん」
「最近、碇君もすこし元気がないような気がするけど」
「そう、ね」
「……やっぱりこの間の戦い……大変だったんだね」
「……うん」

 第12使徒レリエル。嘗てないほどに得体の知れない使徒との戦いだった。この戦いでアスカは幾多の楔をその胸に打ち込まれることとなった。
 第3新東京市上空に突如として現れた異形の物体。そして出撃。波長パターンさえ読めず、使徒かどうかマギも判断を留保せざるを得ない未確認物体だった。そんな中、結果として自分がシンジをけしかけ、先鋒に立たせることになってしまった。後々に訪れる悔悟の情を知ることもなく。そして、初号機はディラックの海と言われる虚無空間に飲み込まれた。状況を客観的に見ると、後方援護に回った零号機と弐号機の到着を待たずに独断で先制攻撃に移ったシンジ自身の責任であり、自業自得とも断罪できる行為であった。だが、シンジが飲み込まれた瞬間、自分でも理解できない感情がアスカの体を駆け上がってきた。



     アスカッ、レイッ、後退するわ!
     ちょっと――!!


 冗談では無い。悲壮な叫び声を残してシンジが飲み込まれてしまったのだ。身の危険を感じた自分はただ退避行動を取る事しか出来なかったが、何もせずに後退なんて出来ない。戦闘指揮官の命令が絶対だなんて、理性では理解できる。だが胸の底はじんじん焼けて、納得出来ないと悲鳴をあげていた。

 そして、次の瞬間の事だった。天から撒かれたような声がアスカの声を掻き消していた。



     待って!! まだ、初号機と碇くんが!




 聞いたことがない程に切実な声をあげたレイがいた。共に天上より降り立った確信に、アスカはモニターの中で見たことも無い表情を浮かべる蒼銀の髪の少女を凝視していた。



「――ぇ、アスカ?」
「あ、何、ヒカリ?」
「だいじょうぶ? アスカも疲れてるよね。ごめんね……あたし…なにも出来なくて」両手に提げた鞄に謝るように俯くと、ヒカリは表情を曇らせた。
(……だめね、ヒカリに心配を掛けてるようじゃ)
「な、なーに言ってんのよお。このアタシが疲れるわけないじゃないのよー」糸で吊ったように背筋を伸ばしたアスカ。ニコッと花が開いたような笑顔を浮かべる。「ま、あのバカも大変だったけど、使徒もやっつけたし、優等生ともラブラブになったんだから結果オーライでしょ。じきに元気になるわよ」
「そう、そうよね」つられるように控えめな笑顔を浮かべたヒカリ。同性から見てもカワイイと思う。熱血バカもこの笑顔に参っちゃったんだな。
「ところで……熱血バカとは、その後ウマくいってんの?」
「えっ、ええー!? 突然なにを言いだすのよ、アスカ!」
「だって、誰かさんがピクニックとか何とか言ってたなーと思って」
「べ、別に、まだそんなんじゃないし……」
「へ? 止めたの、熱血バカのこと?」
「……ううん。最初はお弁当からにしようかなって、思って」
 はぁ……バカシンジとおんなじで多分に牛歩的だわ、こりゃ。
「ダ・メ。そんなのダメよ。今のこの時代、明日はどうなるか分かんないのよ。出来るだけのことを出来るうちにやっとかなくちゃ」
「そお、かなぁ?」
「そおよ。ピクニックだろうが湖畔ボートだろが、超豪華スペシャルおべんとで釣れば即決に決まってんじゃない」
「……分かった。がんばる」

 胸元で小さくガッツポーズを作った少女に柔かく微笑むと、その視線を少し濃くなった自分たちの影の先に戻した。
 やや透明感を取り戻した陽炎が水草のように踊っている。色づく小鳥たちの声。夏のいちばん重たい時間が足を引きずるように逃げていく。











 加持さん。




 瞬間、アスカの内側をラベンダーの残り香が掠めていったような気がした。











 それでも。




 ……いま、声を聞きたいよ。











「……状況としては芳しいものではないわね」

 本部施設内第7試験場。モニターに映し出された数値を俯瞰して、ミサトが洩らした声のトーンは低い。その隣では科学者然とした顔を崩さないリツコがモニターの中で激流のように流れるデータを厳しい眼差しで追っていた。

「シンジ君は、先の戦闘の件もあるから、少し時間がかかるわね。でも……このアスカの数値はどうしたのかしら」
「直近ではシンクロ率でシンジ君に抜かれてはいましたけど、あれだけの高位安定を見せていたのに……何かあったんでしょうか?」不安げにその黒目がちの瞳を揺らしながらリツコを振り返るマヤ。

 リツコの視界の隅では、ミサトが小さく溜息を吐いたが、すぐにその表情を引き締めていた。

「仕方ないわね。それでも救われるのは、レイのシンクロ率がここ最近は高位安定を見せていることだわ。作戦局一課としては現状を考慮したうえで、今後のフォーメーションを検討するわ」

 ミサトの言葉を最後まで待たずに、リツコはふたたびその意識をモニター上のグラフに戻した。

(……じきに完成を迎えるダミーシステム。これで、間違いなく碇司令からは導入への命令が発動される。そして、はじまるわ……)

 その隣のモニターの中では、眸を閉じた蒼銀の髪の少女が痛いほどに無辜な表情を露わにしていた。

(……レイ……あなたの…苦しみも)



「アスカ」

 昇りのエレベーターを苛立ちながら待っていた時に、背後から唐突に掛けられた声。今の精神衛生状態を考えると、極力顔を合わせていたくない相手だった。だからこそ、リツコの概評が終わると逃げ出す様に部屋を抜け出てきたのだ。一瞬強張った肩の力をゆるりと抜くと、いつもの表情で振り返った。

「アスカ、もう帰る? 寄り道しないんだったら一緒に帰らない?」
「いーわよ」
「シンちゃんは、先に帰っちゃったんだ」
「バカシンジは、メインゲート前にいると思うわ。今日は優等生がリツコんとこに寄ってから帰るらしいんで、待つって言ってたから」
「あ、そう。じゃあ晩ごはんは自分たちで何とかしないとダメってことね。ま、取り敢えずそこのリフレッシュコーナーでちょっち待ってて。さっと片付けて戻ってくっから」
「ん、分かった」



 ネルフ本部本棟に位置する技術開発部技術局第一課。いま赤木リツコは執務室内に備え付けられた複数のモニターに溢れかえるデータのチェックに余念が無かった。ときおり一連のトランザクションを捕えては、隣の診察室のレイにマイク越しに話しかけている。

「レイ、データキャプチャ終了したから。こちらに戻ってきて」
「はい」

 湯気を吐いていたサーバーから残ったコーヒーをカップに移すと、メガネを外した。ハードに出力した検査結果をトランプのように机の上に広げると、ハイバックに背中を落とす。

(……今回も特異なフィードバックは見られなかった。でも、この作業を地道に続けていくしかない……問題は時間――)

「赤木博士」
「ああ、レイ、御苦労さま。今日はこれで終わりよ」
「はい」
「それと、これは新しい薬よ。明日から五日間、食間に服用して。万一、服用して気分が悪くなったりしたら、すぐに服用をやめて連絡して、いい?」
「はい」
「じゃあ、今日はこれまでよ。気をつけて帰ってね」
「……赤木博士」
「え、何?」
「……いえ、なんでもありません」

 出口に向かうレイを見届け、リツコは意識を机の上に戻した。検査結果のコピーを手許に引き寄せ、難問を解く準備を整えるように頬杖をついたとき、カタっと小さな音が部屋の片隅から湧き出たように響いた。
 反射的に入口に顔を向けたリツコの視線の先で、レイはそのか細い肢体をドア横のスツールにしな垂れ掛らせていた。その天板に添えるように置いた左手で身体を支え、辛うじて耐えている。だが、その小さな背中は小刻みに震えているようにリツコには見えた。

「!!」

 ハイバックチェアから弾かれたように身体を起こしたリツコ。

「レイ!」

 勢いよく浮いた腰が机を激しく踊らせる。倒れたカップが執務机の上に黒い地図を描いた。

「大丈夫!?」慌てて駆け寄ったリツコが、レイの両の肩を抱くように掴んで支えた。
「…………」
「……少し横になったほうがいいわ。隣の――」
「……すこし立ち眩みがしただけ、です……だから大丈夫、です」
「……レイ……無理をしないほうがいいわ」

 苦しいのか眉根を寄せ只耐えるレイを覗き込んだリツコ。レイを抱く腕に知らず入った力に気が付くと慌てて抱き直した。

「……いえ、問題ありま…せん」
「……レイ……あなた」



 IDがスリットに通されたチャイムが響くと、世界から全てを隔絶するように視線を足元に縛り付けていた少年は、ばね仕掛けの人形のように身体を起こした。セキュリティゲートが重々しく開放されていくのを眺めながら、S−DATから伸びているイヤホンを外そうと慌ただしくコードを弄る。

「あら、シンジ君じゃない」

 光の中で華奢なシルエットを浮かび上がらせたのは、隣接しているネルフ中央病院の第一脳神経外科病棟でチルドレンの専属看護師でもある千代田ユキだった。少し考え込むように俯かせていた顔は、シンジを認めて明るさを取り戻したかに見えた。

「あっ、そおか。レイちゃんを待ってるんだよね」

 同年代の女の子と見紛うようなピュアな笑顔を零したユキに、シンジは思わず頬を染めてしまった。

「あっ、は、はい」
「わたしも赤木博士のところに行ってたんだけど、レイちゃんならもうすぐ上がってくるわよ」
「そ、そうだったんですね……ありがとうございます」
「ふふ…それでレイちゃん、早く帰りたそうにしてたんだ」
「ええっ!? いえ、あのその」
「それじゃ、あたしはこれで。レイちゃん、ちゃんと送ってあげてね、とわたしが言うまでもないか……」

 軽く手を振り、ユキは中央病院へと続く通路に姿を消した。その後姿を中途半端に手を上げ見送っているシンジ。

(……ユキさん。綾波の検診に立ち会ってたのかな? チルドレン担当だからかな――)

 シンジの思考を破ったのは、ふたたびスリットに通されたIDの音だった。慌ててゲートに向き直ったシンジの目に飛び込んできた少女のシルエット。淡い光をバックにプラチナブルーの髪の毛が煌き、深遠な紅の瞳をより印象深くした。

「あ、綾波」

 母親を見つけた迷子のような屈託の無い笑顔を浮かべるシンジ。やや逆光気味でもあり、シンジから少女の表情を読み取る事は出来ない。

「……………」
「どうかしたの?」
「なんでも、ない」
「そう…じゃあ、行こうか?」
「……うん」



 それはここ最近、頻繁に目にする光景ではあったが、やはり慣れるものではなかった。
 ネルフ本部施設近くのコンビニ。少し離れた場所に青いルノーが無造作に停められている。アスカは目の前で嬉々としてレトルト食品やお惣菜のケータリングパックを物色しているミサトを眺めていた。
 先の戦闘以降、ネルフでのテストが終わるとシンジがレイを自宅に送っていくようになった為、シンジが夕食を準備する回数は激減することになった。ミサトなどは、元々当番制だもん、とさばさばした表情で言い放ってはいるが、やはり先の戦闘でシンジが受けた内的なダメージを気遣っているのが言葉の端々に見て取れる。自分はどうなんだろう? 思わぬきっかけで始まったミサトとシンジとの同居生活。そして家族という関係を斜に構えて観ていた自分。その家族ごっこが、気がつくと家族になっていた。そして、その中心に象徴のようにシンジの温かい手料理があったのだ、と今改めて思う。だが、その少年が先日の戦闘で心にダメージを受けてしまった。そして、それを機に急速に接近し始めたシンジとレイ。胸に湧きでる茫漠とした靄と対峙しつつも、今はそれしか無いんだと思ってきた。まるで自分に言い聞かせるように。その一方で、時を同じくして露わになったミサトと加持の復縁。更に何かに追い立てられるかのように多忙を極める加持とは連絡さえもつかない。ここのところ、そんな様々な思考がアスカの中でシーソーのように次から次へと持ちあがってくるのだった。
 アタシまた同じ事を考えてる、とスイッチを入れ直す様に、かぶりを振って顔を上げた。

「ミサト」
「ん、なあに、アスカ?」
「なんだか、おツマミしかカゴに入ってないような気がするんだけど」
「んー、そんなことないわよ。今悩んでんのよ。メインのカレーをドレにしようかなって。アスカは激辛がいい? それとも大辛? ガツンと特辛ってのもあるけど……」何気に幾つかのレトルトパウチを手にしては、傾げた頬に人差し指をあてて思案気な表情を作るミサト。

 ジョーダンではない。

「い、いや…あたしは今日はそんなにお腹空いてないし、何か別の、その、もう少し軽いものがいーわ」
「うーん、でもそういう訳にいかないのよ。今日は、ウチにゲストが来ることになってんからね」
「えっ? リツコが来んの?」尚更、カレーはマズイのではないの?
「ううん。あたしの大学時代のトモダチよ。リツコも知ってるけどね――」

 二人の会話に割り込みように鳴り出したミサトの携帯端末。ミサトはディスプレイを覗きこんで、噂をすれば何とやらね、とアスカにウィンクすると着信ボタンを押した。

 だめよダメダメ絶対に駄目。ミサトのカレーだけは絶対に避けなきゃ。明日は休日っていっても、ベッドで寝込んでなんかいたくないもん。あーもう。これもみんなバカシンジのせいなんだから。

「あれぇ、アスカ?」

 えっ? と振り返った先には、たった今しがた胸の中で罵倒していた少年が、いかにも平和な表情を浮かべて入口に立っていた。

「シ! ――」瞬間、パアッと表情を輝かせたアスカ。

 そして、シンジに寄り添うようにレイが店内に姿を見せた。

「…………」
「とっくに帰ったんだと思ってた」
「ミサトを待ってたのよ……あんた達は、晩ごはんの買い出し?」
「う、うん」
「――あー参った! ったく、うっさいんだからー。んーと、どーしよーかなー? っと、あら、シンちゃんにレイ」

 なにやら話し込んでいたミサトが携帯端末に忌々しげな一瞥をくれた後、アスカに向き直る。

「アスカ、ごめん。今日カレーはダメになったわ」
 いい……それでいいのよ。
「アイツ、お呼ばれのくせに、なんかカレーだけは止めてって言うのよ」
 やっぱ、みんな一度は被害にあってんだ。
「ほんとゴメン。カレーはとっておきのを別の日にすっから」
 いやだからカレーはいらないんだってば。
「だから…別のを考えないとダメなのよねー。まさかケータリングのお惣菜だけっていうわけにもいかないしぃ。っと、シンちゃん、どこに行くの?」

 レイの背中を押すようにして、そーと退避を始めていたシンジ。その背中がびくりと持ちあがった。

「あ、いえ、なんだか取り込んでいるようなんで、僕たちはこれで失礼しようかなーって」
(……このバカ、逃げんじゃないわよ!)
「別に取り込んでるわけじゃないんだけどぉ……そおだ! シンちゃんにレイ、今日は晩ごはんウチで食べてかない?」
「え、ええ!? でも……」
「ごめーん、聞いてたと思うんだけど、今日ウチに交流研究会で来たメンバーの一人があたしの学生時代のトモダチでね。今晩ウチに来て貰うことになってんのよ。それで、あたしの十八番のカレーで饗応しようと思ったんだけど、どうしてだか拒否られたのよねー。でも、せっかくウチに来て貰うのに店屋物っていうのもねー」

 はぁ、と溜息を吐いたミサトに気弱な視線を泳がせているシンジ。「で、でも…綾波の都合も……」伺う様な表情でレイを振り返る。

(なによ! あんたがリードしないでファーストが来るわけ無いじゃないのよ! くぉの〜〜〜ウルトラバカシンジが!!)

「……別に、構わないわ」
(……へ?)
「……あ…うん。綾波がいいんだったら」
「あー良かったー。アリガトね、レイ、シンちゃん。ほんじゃあ、善は急げということで」

 はい、とシンジに買い物カゴを手渡した。へっ? と言いながらも素直に受け取るシンジ。シンジのごはん、と湧き立つアスカ。いつものように反応のないレイ。



 乾いたエアロックの開放音に続き、壁を割って部屋の中に足を踏み入れた男は、無言のまま広大な総司令室の中央に据えられた今やオブジェとも言える執務机へと歩と進めた。

「……あの男のことかね?」
「はい」
「何かあったかね。相変わらず何やらコソコソ作業を続けているようだがな」
「既に本部施設深くにまで彼の内偵行為は及んでいるものと考えられます。迂闊ではありましたが、想定外のスピードです」
「ふむ……どこで訓練されたのやら、そちらの方は有能だったか……そろそろ潮時かね……」後ろ手に手を組んだまま司令に一瞥をくれた冬月。
「……いましばらく静観すべきかと考えております。コミントからも彼は入手した情報をいずれの組織にも差し出した形跡はありませんので……最もその理由は明確ではないのですが。内務省は相変わらず呆けたように口を開けているだけですし、委員会への定例報告にも何かの暗号文書が組み込まれている形跡はこれまでありません。気になるのは……」
「…………」やや目を細めた冬月。眉間の皺が深くなる。
「次の委員会の動きでしょう。彼のココでの動きはネルフ内の『協力者』を通じて委員会につつぬけでしょうから、彼の動きに対してかなりフラストレーションが溜まっているのも事実でしょう。そのうち、なりふり構わない手段を打ってくる可能性も考えられます」
「なるほど、な……今更こちら側に寝返らせてフェイクな情報を委員会に流させることも出来ん……となると、連中が仕掛けるタイミングを見極め、先手を打って彼を拘束、若しくは排除する……かね」
「……その選択肢についてはセカンドチルドレンへの影響を考えますと慎重に対処すべきではないかと。先ずは彼に対しての監視レベルを引き上げます」
「……楠三佐」それまで沈黙を守っていたゲンドウが徐に口を開いた。
「はい」
「彼の処分がセカンドチルドレンに及ぼす影響については二課よりも報告を受けている。今後まだ襲来してくる使徒のことを考えると、それは極力避けねばなるまい」
「はい」
「一方、彼が老人たちの思惑通りに動いていないことは我々にとっては有難い誤算でもある。だが、君が言ったように今後の老人たちの動きや彼が手にした情報を抱え込んでいる事実を考えると、我々との関係を見直すべき時かもしれん。彼の性格上、困難かもしれないが、懐柔という可能性を模索して貰いたい」
「了解致しました」



 コンビニから吐き出されるように出てきたシンジは両手に大きなビニール袋を提げていた。少し距離を置いて、前方ではミサトとアスカが何やら楽しそうに会話を弾ませながら路駐しているルノーに足を向けている。

(……なんだか久しぶりに見るような気がする……ミサトさんとアスカがあんなに楽しそうに話してるなんて……)
(……それにしても……なんで、こうなってしまうんだろう……)
(……でも…綾波もいいって言ったんだから……前のお食事会、少しは楽しんでくれたってことかな……)

 チラリと横目でレイを盗み見た。シンジと肩を並べて歩を進める少女の表情に何かの色を見出すことは出来なかった。

「シンちゃーん、何してんの?」
「シンジぃ、なにグズグズしてんのよ。日が暮れちゃうわよ」

 視線を上げた先には、大きく開いたルノーのドアに凭れてシンジを待つ二人の美麗なるシルエット。大げさに手を振るミサト。僥倖に巡り遭えしその表情は、眩いまでに明るく輝いているように見えた。
 かたや深海魚のように大地に頭を垂れたシンジ。見目麗しい女性陣の期待の籠った視線に、鉛の中敷きを詰められたような足取りは一層重く感じられた。葛城家への訪問客への饗応名目にもかかわらず、何故かミサトとアスカのリクエストがマシンガンのように繰り出される中、即興でメニューを組み立て、気がつくと夥しい量の食材を胸に抱えていたのだ。ここ最近は、当番の日でさえちゃんと作っていなかった気がする。いや厳密に言うと作る気になれなかったのだが、久しぶりにまとまった量の食材を目の当たりにするとシンジは軽い眩暈を覚えた。しかし、それでも条件反射という言葉は息絶えてはいなかった。その意識下で、知らず熟慮に入った下拵えの段取りに、主夫モードへの絶対境界線は近い。

「……あら、ミサトじゃない?」

 その声は、突然シンジとレイの後方より掛けられた。えっ? とシンジ達の向こうに意識の焦点を合わせるミサトとアスカ。振り返ろうとしたシンジの脇を足早に白いブラウスと柑橘の香りが過ぎった。

「ああ、やっぱりミサト。良かったわ」
「あなた……なんで、こんなとこに居るの? カクテルパーティーじゃなかったの?」
「へっへー。抜け出してきちゃった。知ってる顔ばっかりで詰まんないんだもん」

 あ、そうと少し呆れ顔のミサトに小さく舌を出している女性。くるりと追い越したばかりのシンジとレイに向き直った。黒いタイトスカートに柔かそうなオフホワイトのブラウスが眩い。無造作にホーガンのバッグを掛けた華奢な肩が美麗なるイメージを膨らませていた。綺麗な女性だ、とシンジは思った。でも……。

「……ったく、アンタくらいよ、民間の研究員でウチに対してそんなに強気なのは。副司令まで出てるっていうのに。まーいいわ。えーと紹介するわね、こちら――」

 ミサトの言葉を遮るように小さく右手を挙げた女性は、ミサトにウインクを送るとチルドレンたちに改めて向き直った。

「あたしは長門マキ。マキって呼んでくれていいわ」
「マキさん……」
「そ。あなた達が噂のチルドレンね。ミサトからあなた達の話はよく聞くのよ。えーと、あなたがアスカちゃん、あなたがシンジくん、あなたが……」

 天真爛漫な笑顔を浮かべつつ、ひとりひとり指さしながら名前を呼んでいく。

「そう……レイちゃんね」一瞬浮かんだ慈愛に満ちた表情は、すぐに陽気な笑顔にかき消されていた。「みんな、よろしくねー」

 ま、まあそういう事で周りに人も集まってきたしぃ、と殆ど蹴り込むようにマキをルノーの後部座席に押し込んだミサト。続いてチルドレンを詰め込むと、早々にルノーを発進させた。スキール音が残った頭の中でぼんやりとシンジは考えていた。チラとレイを挟んで後部座席に座っているマキを盗み見る。レイの名前を呼んだ時のあの一瞬の間。あれは何だったんだろう。後部座席より身を乗り出すようにしてミサトと楽しげに言葉を交わしているマキ。その雰囲気に喋る調子が…。そうだ、似てるんだ。ソックリなんだ。ミサトさんに。



「はい。たったいまセントラルネルフ駅前のコンビニから出発しました。……はい、そうです。葛城三佐の車にチルドレン全員と三佐の知人だと思うのですが、女性が一人、合計5名のフル乗車で帰途につくものと思われます。……はい、了解しました。こちら一、二班で全チルドレンのガード作業を継続します」

 暮色迫る駅前。閉じ込められていた熱気が先を競って夜に向かって逃げだし始めた。シフト勤務を終えたD級勤務者たちの雑踏。ある者は携帯端末を片手に帰路を急ぎ、またある者は数人連れ立って止まり木を求めてセントラル横丁へと消えてゆく。そんな情景を横目に、コンビニの監視を始めて早や40分が経過しようとしていた。動き始めたルノーのテールランプから杉はオペラグラスを外した。

「よし、長門、トラッキング開始」
「まあコンビニの近くに停まってるあの車を見たとき、この展開は予想できたな」すでに指定席となったプジョーの後部座席でゆったりと紫煙をくゆらせていた男が吸い殻を灰皿にねじ込み、ウィンドを上げようとスイッチを押したがうんともすんとも反応しない。
「……長門?」
「おーい、長門さん、出発ですよー」
「……あっ、はいはい、ではトラッキング開始!」

 長門どうした? 具合悪いの? ヒソッと尋ねた杉に、いえ何でもと短く返す。小さく頭を振ってステアリングを握り直した。照準を定めるように、遥か前方を走る青いルノーの点滅しているウィンカーに睨むような視線を据える。

(なんで……なんでここでお姉ちゃんが出てくんのよー、なんでぇ〜)



「あっ、マキさん、すいませんが、そろそろひっくり返してもう片方の面を焼いてください!」
「ええっ、もお!? はいはい」

 夕食前のひと時。なにやらドタバタと擬音ひしめくキッチンとは対照的に、葛城家のリビングは静寂に包まれていた。帰宅してから直ぐに、急いで夕食の準備しますんでとキッチンでエプロンを着け始めたシンジに、あたしも手伝うわと自信満々に申し出たマキ。その颯爽とした風姿にカッコイイと思ったアスカだったが、先程から漏れ聞こえてくるキッチンの様子に当初のイメージはあえなく崩れ去った。ミサトのトモダチだもんね、と自分を納得させた。浴室からは、ミサトの軽やかなハミングが流れている。ふともう一つ、耳についたペラリという頁を繰る音に、手許の雑誌に向けていた顔をおもむろに上げた。いつものように、行儀よく揃えた膝に置いた文庫本に視線を落としている少女の姿が浮かび上がる。
 どうしてなんだろう。どうしてこの子は来てもいいって言ったんだろう。とんとんと時を刻む秒針が部屋の中で浮かんでいるような静けさの中、ベランダに面したレースのカーテンが柔かく膨らんでは弾けた。心地よい風が頬を撫でていく。その少女のショートカットのおぐしが揺れると、刹那、プラチナブルーの煌めきが零れた。少女は少し乱れたそれを手で梳き直すと、印象深い深紅の瞳を上げた。どうしてアンタたちは――。

「あーいい湯だった。おっさきぃ。次、アスカかレイ、入ったら? ん、なに二人してにらめっこしてんのぉ?」
「あー、もおダメ。シンジくんのお料理、緻密すぎんだもん」

 突如闖入してきた二人によってリビングルームは一転、祭りの最中へと変貌を遂げた。
 このふたり似てるんだわ。やれやれだわ、とアスカは浴室へと姿を消した。

「レイちゃん」

 唐突にレイの隣にペタリと座りこんだマキにその瞳をしばたたかせたレイ。ニッコリと微笑むマキ。その手にはミサトから渡された『えびちゅ』がしっかりと握られている。

「あなた将来苦労するわよー」
「……??……」
「シンジくんのお料理の腕……ありゃ只者ではないわ」
「……?……」
「だってね、鰻を焼いてるときなんかね、あっ今日のメインはひつまぶしなんだけどぉ、サラダを作りながらカウントダウンしてんのよ。0.3、0.2、0.1、はい、マキさんトースターから出してください、アルミホイルごとタレをこぼさないようにって風によー。起動実験みたいよねー」
「…………」
「だから、将来レイちゃんがシンジくんの為にお料理を作るときなんかは大変かなーて思っちゃったのよ」
「……わたしが?」
「そ。作りたいでしょ? シンジくんのために」
「……碇くんのために」
「そうよ。シンジくんの為によ。……喜ぶわよ、きっと」
「……は…い」
「あーレイちゃん、かわいい。ほっぺがすこーし赤くなったわ」
「…………」
「お、遅くなってスミマセン! とりあえず前菜入ります!」

 こういった間の悪さもその少年の生来の芸風であろう。前菜の和牛のたたきと海藻サラダをトレーの上に載せたまま、シンジは忽ちの内に激しく相好を崩したミサトとマキに捕まり、部族の儀式に供される生贄のように身体を沈ませた。


 数分後、メインの仕上げを理由に何とか酒の肴から開放されたシンジは、へなへなとレイの隣に座り込んだ。レイはしゃりしゃりとレタスを青じそドレッシングで食べている。

「あ、あの、綾波さ」
「なに?」
「マキさんに何か言った?」
「……別に」
「で、でもマキさんが」
「……なにも言って、ない」
「で、でもミサトさんも聞いた、って」
「………………」
「し、将来、あ綾波がぼ僕の、ために」
「………………」
「て手料理をつくって、その、くれるって……」
「………………」レイのフォークの動きが止まった。


「……ホント、かな?」

 感じる違和感は、いつもと違ってレイが真正面からシンジを見ようとしないからだと分かった。どうしたんだろう。気を悪くしちゃったかな? 怒らせちゃったかな? などと呆気なく負のスパイラルに陥っていくのも等しくこの少年の十八番とするところ。だが、陥る寸前シンジは気がついた。レイの頬が微かに染まっていることに。







「……な、なにを言うのよ」



「やっぱ、若いっていいことよねー」

 誰に言うでもなく呟いたミサトに顔を向けたマキ。リビングテーブルを挟んだ少年少女に見守るような視線を注いでいる友人の表情はとても穏やかなものだった。お互いプライベートに割ける時間は年を重ねるに従い少なくなり、最近では近況を確かめ合う機会さえ持つことができなかった。微妙に利害が絡む各々の立場がそれを困難なものにしていることも事実ではある。学生時代に周りからよく言われたことがあるのだが、二人はどうやら性格的に似ている、らしい。本人達はさほど意識している訳ではなく、確かにウマは合うが価値観や思考パターンにおいては、互いに独自のカラーを傲岸なまでに貫く強さを矜持として昔から持っていたとは記憶している。そういった性格的なところや『感じ』が似ているのだろう。そんな二人だから学生時代は時間を見つけては一緒にいた。似た者同士の気軽さで、ある時は阿吽の呼吸で、自分達なりの近しい道を肩をぶつけ合いながら歩んできたような気がする。ところがある日突然、葛城ミサトという女性は全てを棄てた。まるで何かに覚醒し唐突に訪れたタイムリミットに、自らに赦される青春に終止符を打つように。忘れえぬ純真を枕に、千夜一夜を紡いだ蜜月を共に過ごした加持リョウジとの絆さえも断ち切って。そして、振り返ることなくネルフという特務機関のトビラの向こうに姿を消したのだ。当時の決然たるさまに瞠目したあの日が昨日の事のようにマキの脳裏に蘇った。そして今日、八年という時を経て、かつて姉妹のようだと言われた二人が時の輪を重ね、こうしてグラスを交わしている。かの日の記憶の先に佇む女性。セカンドインパクトから独り抱き続けた決断と血が滲み出るまでの哀しみを、太陽の明るさで包みこんだ独りぼっちの女性。菫色の髪はどこまでもつややかに。その笑顔どこまでも暖かに。今でもあたしの中のあなたはあの日のまま。でも、いまやその身も心も特務機関ネルフの作戦局一課長。美しい外見に隠されてはいるが、鋼鉄の強さと凄みを感じる。色んなことがあったんだと思う。

(……そう、こんな時代にあたしのように民間の組織に腰を据えることになった人間には理解できないような……それでも……)

「なにバアさんみたいなこと言ってんのよ。ふふん、あたしが何も知らないとでも思ってんの? しっかりと聞いたわよ、加持君とのこと」
「あー加持ね。なんっか腐れ縁みたいなのよねー。大学出てから何だがフラフラしてたらしいけど、いきなりネルフの第3支部に現れんだもん。ぶったまげたわよぉ」
「あなたを追ってきたんじゃないの? なんてね」
「ちょっち、やめてくれるー? ヒトゴトだと思って」
「あらぁ、ちょっと羨ましいなーなんて思ってたんだけど」
「どーだか……まいっか。今日はなんせ飲むわよ。八年振りなんだかんね」
「さんせーい。飲もお! とっぷりとミサトの近況裏話も聞きたいしぃ。まずは乾杯ね!」

 八年振りの気まぐれか。神様のいたずらにも思えるささやかな同窓会。

 Prosit!
 ¡Salud!

 あの日の気概そのままに、重なるクリスタルグラスの澄んだ音は一層深くなった夜の底に吸い込まれていった。



 どこか遠いところで犬の遠吠えが聞こえたような気がした。突如として沼の底から引き揚げられた意識の大半には漆黒の断片が詰め込まれ、しばらくは覚醒を許してくれそうもない。それでも頭の深い部分で今日という日が休日だと認識してるのだろうか、沼の底へと意識を戻そうとする力が強く作用する。だが、それにしては昨晩は余りにも飲み過ぎていた。生理現象は若干意識を覚醒させ、戻った先では処理ができないと小さいながらも警告音を鳴らしている。旧式のポイントを手動で切り替えるように、アスカは強靭な意志の力でベッドから身体を剥がした。目はまだ瞑ったままで、ベッドの下に落とした爪先でスリッパを探す。何とかつっかけ、ベッドの端に腰掛ける体勢になったところでいつもとは違う違和感に気がついた。
 ……いきづかい? な…に? と起きたばかりのベッドにふたたび視線を戻して薄眼を開けた。常夜灯に照らし出されているプラチナブルーの髪の毛。ああそうか…ファースト……泊ってったんだ、と昨晩の記憶を手繰ろうとしたのも束の間、その髪が小刻みに震えているのに気がついた。

「……ファーストぉ?」

 その枕もとに顔を寄せて不審げに問いかける。間近で見るとハッキリ分かった。その少女は身体を縮め、いかにも不自然に震えていた。

 !

 尋常でない状態にあることは、すぐに分かった。瞬時にして覚醒したアスカ。室内等を点けると、小さな肩を小刻みに震わせながら苦悩の表情を浮かべるレイの姿が露わになった。

「ファースト!」

 条件反射的にレイの額に掌をあてたアスカは、その予想に反した冷たさに驚き思わず手を引っ込める。咄嗟に思い浮かんだのは体温を維持しないと駄目だということ。押入れを叩き開け、毛布らしき感触の寝具を力任せに引っ張り出すとレイの身体を包むように被せた。更に二人分の掛け布団で覆う。

「ファースト! あんた、しっかりすんのよ。ちょっとまっててよ。みんな呼んでくるから」
「…………で」
「えっ!?」

 踵を返し部屋を飛び出そうとしたまさにその時、浅い呼吸を繰り返していたレイの口から絞り出すような声が耳に届いた。振り返るアスカ。

「………が…い」
「……ファースト?」
「……いかり…く…ん」
「え?」
「……は…呼ばない……で」
「……ちょっと…あんた」

 ……何で……何を、言ってんのよ。

「――ちょっと、どうしたの? 何かあったの?」

 ミサト!? 襖をほとほととノックする音が神の救済のように思われた。幾多の思考が跳梁跋扈するアスカの頭の中では、可能な限り多くの人間を巻き込む必要があると判断していた。その直後、入るわよと遠慮気味に入ってきたのは誰あろう長門マキであった。少し眠たげな眼をこすっている。

「……マキ…さん」
「……アスカちゃん、どうしたの? なんだか大きな音が聞こえたけど」
「え? そ、そう、ファーストの様子がおかしくて」
「えっ、レイちゃん!?」言うが早いか、スタスタとベッド脇まで足早に歩み寄ったマキ。ベッドの上で毛布に包まれているレイの様子に顔色を変えた。
「マキさん、どうしよう。救急車を呼んだ方がいいわよね?」
「……いえ」そっとレイの額に掌を載せたマキ。「……ちょっと訳があってね、普通の病院じゃダメなの……リビングでミサトが休んでるから、起こしてきてくれるかしら?」
「……え?」
「……いま詳しくは話せないんだけど、赤木博士に連絡を取らないといけないの」
「……え、リツコ?…そ、それって」
「お願い。早く」
「う、うん」
「ふにゃー、なんだか騒がしいけど、みんなして何してんの?」
「「ミサト!」」

 半ば寝ぼけた状態で戸口に佇んでいたミサトがいた。次の瞬間、アスカの白い手により半ば強引に部屋の中に吸い込まれた。

「ミサト、寝ぼけてる場合じゃない。非常回線で赤木博士にコンタクトして。レイちゃん、例の症状が出てるみたいなの」
「え!?」

 ミサトは唐突に表情を変えると、ジーンズのポケットから何度かつっかえながらも携帯端末をひっぱり出し、秘守回線へのPIN CODEを落としこんだ。

 親指の爪を噛みながら、端末を操作するミサトをジッと見つめていたアスカ。ちらとレイに一瞥をくれた後、開け放たれた部屋の入口にその視線を据えた。

(……二度あることは三度ある)

 静かに歩を進めると、暗闇に包まれている廊下にニュッと首だけ出して様子を伺った。蕭然。そこには何の気配も見られなかった。ホッと溜息を吐き、ソッと後ろ手で襖を閉めた。
 少し顔を上げたアスカの視線の先で、毛布にくるまれたレイはマキの腕の中にいた。体温を分け与える母親のようにレイを抱くマキは心配げな表情を浮かべている。昂る気持ちが紙飛行機のようにゆるゆると堕ちてゆき、シーソーの片側に座っていた幾つかの疑問が代わりに持ち上がってきた。

(……なによ、例の症状って)

 眼の前で苦痛に耐えているレイは、どうみても尋常な状態では無い。それが『例の症状』と大人達にとっては既存の共通認識となっている。更に初対面のマキまでが知っているという事実に釈然としない思いが胸の中を広がった。

 そして、苦痛に魘されつつもシンジを呼ぶなと懇願したその少女。プラチナブルーの髪を小さく震わせている少女の心象には届きそうにない。

(……あのバカ……上向いて寝てる場合じゃないわよ……)



「どお? レイの様子は?」通話を終え携帯端末をジーンズの尻ポケットに乱暴に突っ込むと、ミサトはマキの腕の中のレイを緊張な面持ちで覗き込んだ。
「……ええ、少し落ち着いたみたい。やはりリツコの措置、そして指示は的確だわ」
「そう…取り敢えずは安心ということね……でも」
「あとは朝まで安静にしていれば――」
「なんであんたがレイのこの事を知ってんのよ……」
「きょうリツコに呼ばれたわ。交流会の後にね」
「……え、リツコが?」
「そ、リツコ。これでもあたしは生体工学の世界ではそれなりの実績を積んできたし、そちらの分野では世界でもトップレベルの頭脳と施設を擁する特務機関からもラブコールを受ける唯一の民間シンクタンクの主任研究者だという自負もあるわ。それでも、リツコには全てにおいて遠く及ばないけどね」
「…………」
「それが、そのリツコがね、プライドも何もかもかなぐり捨てて、教えを請うのよ、このアタシに……あのリツコがよ」
「…………」
「訳を聞いたあたしに、リツコは言葉を選んで口を開いてくれたわ。民間に籍を置くアタシのためにね」
「…………」
「レイちゃんのことは前からリツコから偶に聞くことがあったんだけど……正直、ショックを受けたわ。そして思った、あたしに出来ることなら何でもやらせて貰おうって。……あんまりだもんね」

 腕の中で浅い呼吸に身を任せている少女から眼を離すこと無く、その髪を慈しむように撫でているマキ。
 普段は臆面にも出さないが、やはりリツコはレイの保護者だった。何かの折につけ、リツコからレイの話を聞くたびに、知らずマキの中でその少女のイメージが作られ、育みを見せていたのだろう。その瞳の中の仄かな灯がどれほどの想いにより紡いでこられたものであるか。それは、いまだ知りえぬものではあったが。
 以前、やはり自室で倒れたその少女を救いに行った日のことをミサトは思い出した。月に一度の割合で発症するという原因不明の頭痛は、その原因を特定する事が出来ないままに、マギの手も借りありとあらゆる臨床治験を交えた検証がなされていたとの認識だ。が、いまだ解決の糸口には辿り着くこと無く、その間隙は徐々にではあるが短くなっていると聞いている。そしてその一方で、まるで時間を惜しむように、日に日にシンジとの距離を縮めていくレイがいる。それは、先の戦闘でシンジがディラックの海に飲み込まれてから顕著になったことであり、その一件を契機として発露した自我は、色を失っていた少女にヒトとしての色を徐々に取りもどさせ、ここ最近は時折見せる普通の少女らしい表情に、ミサト自身の胸が熱くなることは一度や二度では無かった。そして、そんな少女の変貌を誰よりも感じていたのは、他ならぬリツコであった筈だ。思わずミサトは両の手で顔を拭った。

(……なりふり構ってられないのはリツコも同だったってこと、ね)


「……ちょっと――」

 この大人達は何を言っているのだろう。聞いたことも無ければ、理解に困難な言葉だらけなのだが、ファーストチルドレンと呼ばれるこの少女はどこかが悪いのだろうか? 致命的な問題点でもあるかと感じるほどの会話の内容に、アスカはただ聞き耳を立てるしか術は無かった。そうだ。シンジ。シンジは知っているのだろうか? ようやく口をついて出たアスカの言葉は、暗澹とした室内を薙ぐように響きだした異音に掻き消された。一瞬、方向感覚さえ消し去るように全員を揺さぶったそれは、はたしてミサトのジーンズの尻ポケットに収められた端末からのものだった。アスカなどは聞いたこともないような非常招集とも違った喧しい着信音。高位の秘匿回線だろうが、アスカにはそれが何かしら途轍もなく不吉なものに感じられた。

「――はい、葛城。……日向君? 何かあった? ……問題無いわ、起きてたから。それで…………」















「何ですってぇ!!」



To be continued





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