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 来訪者を知らせるチャイムが鳴ったのは、冬月にしては珍しく乱暴に受話器を戻した直後のことだった。淡い照明に照らしだされた壁面が割れるように開放されると、その顔に陰影を色濃く浮かび上がらせた男は一直線にゲンドウの執務机へと歩を進めた。

「……その様子だともう米州支部とは話したか。相変わらず早いな」

 その口調とは裏腹に、男をきっかり見据えた副司令の醸し出す雰囲気は堅い。

「さきほど、第1支部の総務局GMより本件の顛末についてのヒアリングを終えました。ネバダ州の第2支部ですが、施設・職員・エヴァ四号機は近隣の関連施設も含め、地層ごと抉りとられるように消滅したとのことです。原因はいまだ調査中との事ですが、どうやら本部に提出していたスケジュールを独断で前倒しし、S2機関の四号機への搭載作業を強行した模様です」
「なんと……ではウチの技術局一課のサポートも受けずに着手したわけかね………セカンドインパクトの惨禍を以ってしても変らぬか、あの国は……旧世紀から世界の警察だとか何かと理由とつけては先走りよる」
「等しくS2機関の参号機への搭載作業を一週間後に控えていた第1支部では、一部パニックに陥った職員、そして跋扈し始めた風説なども散見された為、現在軍規に基づくISA――Internal Security Actが発動されています。これにより表層上の平静を保っている状態ではありますが、このたびの一件、単に我々ネルフ米州支部の一つが物理的に消滅といった問題だけではなく――」
「当然だ……国連そして米国政府との調整含め権限から守備範疇まで、早急に失われた一組織の役割を繕わねばならん……膨大な作業と調整が必要なことは言うまでもないがな」
「……楠三佐」
「はい」
「君の事だ。第1支部総務局との擦り合わせは既に出来ているとは思うが、急ぎボストンに飛んで貰わねばならない」
「心得ております。総務局三課にて此度の事態収集を図ります」
「よろしく頼む。一週間をターゲットに全ての調整を終えてくれ。老人たちが自らのシナリオを前に頭を抱えている間に全てを終了させる」



 小鳥のさえずりが微かに届くダイニングでは、時折りコーヒーメーカーから湧き立つアロマが、瑞々しさを届ける朝靄のように朝の香りを濃いものにしていった。
 つい先ほどまで朝食の準備に追われていたシンジは、ミサトの寝室から起き出してきたマキから昨夜の出来事を知らされるや、顔色を失った。辛うじてコーヒーメーカーのセットだけを終えると、檻の中の猛獣よろしくアスカの部屋の前を行ったり来たりしていた。そのギュッギュッとフローリングを踏み鳴らす音は、浴室から聞こえるマキのハミングとは、とても相容れるものでは無かった。

(……綾波…どうしちゃったんだろう)
(……疲れてたのかな? …急に具合が悪くなっちゃったのかな?)
(……病院には連れてかなくて良かったのかな?)
(……それにしても…ミサトさんも、アスカも冷たいよ……起こしてくれても良かったのに……)

「はいはい。女の子の部屋の前をウロウロしない」

 パンパン手を打つ音に、どっぷり浸った思考の海から吊りあげられたように現実を取り戻すシンジ。顔を向けた先には、一瞬ミサトとイメージをだぶらせたマキが立っていた。悪戯が見つかったような表情を作ったシンジに、マキはすこし頬を緩めて応えた。

「シンジくん、いい? さっきも言ったけど、レイちゃん、今は落ち着いて休んでるわ。そっとしといてあげたほうがいいわ」
「……は、はい」
「それにアスカちゃんも傍にいてくれてるんだから、大丈夫よ。二人が起きてきたタイミングで、何か美味しいもの作ってあげて」
「……はい。そうします」
「……お願いね。あたしはそろそろ研究所に戻らないといけないから」
「え? マキさん、もう帰っちゃうんですか?」
「ええ。ちょっと急ぎの調べものが出来ちゃったから」マキはアスカの部屋を仕切る襖に一瞥をくれると、シンジの両肩に繊細な手を添えた。「……シンジくん」
「は、はい?」
「……レイちゃんをお願いね。絶対に離しちゃダメよ。あなたが守るのよ」
「え? あ、は…はい」

 フッと指先から力を抜いたマキは、とろけるような笑顔を浮かべると、玄関に向かった。思い出したように、柑橘の残り香がシンジの鼻をついた。



 サンルーフをあけると朝の匂いが吹き込んできた。浅葱色に染まった空に、ちぎれ雲が迷い込んではその輪郭を滲ませている。この時間だけに許される心地よさだと、杉は思った。
 …う…ん。滴り落ちる朝露のような声に、ドライバーズシートへと曳かれた視線の先ではリクライニングさせたシートの上で仮眠をとるミキの肢体が穏やかに波打っていた。コンビを組んではや数ヶ月。もはや日常生活のひとコマとなった光景だった。だが、杉はその寝顔から目を離せない時がある。刹那、止まった時を裏切るように、ひと摘みのおぐしがミキの額にパサリと落ちた。忽ちにして、その整った面差しにいたいけな印象が色濃く映し出される。朝を囀る小鳥の声の遠さに、杉は暫しの間、今を現実の向こうに追いやろうとした。が、時を同じくして後部座席で突如として湧きあがった噴火のような高鼾。跳ね上がりそうになった左胸に手を置いてフロントウィンドに視線を戻した時、朝靄に煙るコンフォート17をバックに、プジョーの前に佇むシルエットを視界に捉えた。

 !

 咄嗟にホルスターに滑らせた右手がM92Fのグリップに届いた時、ゆらりと風に薙がれた朝靄は一人の女性の姿を露わにした。フロントウィンド越しの世界で、まるで絵画の中でしか見られないような穏やかな微笑を湛えた美麗なる女性が佇んでいた。そして、その女性には見覚えがあった。

「?」

 杉は、深山幽谷に沈殿した霧の中、今世のものとは思えぬ美女に出会ったような表情を消せないでいる。

 呆然とする杉に優しげな表情を湛えたまま、ドライバーズシートの傍まで歩を進めた女性は、腰を少し屈めてサイドウインドからプジョーの中を覗き込んだ。

「おはようございます」
「……お、おはようございます」

 なんて綺麗な女性なんだろう。少し…年は上かな、と殆ど条件反射的にパワーウインドを下げていた。次の瞬間、その女性はニッコリ微笑むと、ごめんなさいね、と言って運転席を覗き込んだ。

「長門さん」
「…………」
「長門さん」
「……う…ん」
「……ミキちゃん」
「……う、うん?」
「朝ですよ」
「……うう、うーん」
「まだ覚めないかぁ。今朝はいつもより手強いわね」

 上半身にはおったジャケットに頬を擦り付けるように顔を埋めたミキに、小さく溜め息を吐いたその女性は、やや決然とした表情を浮かべると息を深く吸い込んだ。成り行きを静かに見守っていた助手席の男。訳も分からず手に汗を握っていた。

「わあっ!!」
「ひゃん!」

 ミキもビックリしたが、隣の杉も心臓が飛び出るくらいにたまげた。後部座席で爆睡中の香取はいっそう高い鼾でそれに応えた。

「はい、ミキ。起きるのよ。ぐずぐずしてたらシンジくんたち出てくるわよ」
「ふにゃー……もう食べれ…え? あ……お、おねえちゃん!?」
「「お姉ちゃん!?」だあ?」
「朝早くからお騒がせしてゴメンナサイ。……えーと、二課の、香取さんに杉さんですよね」プジョーの中に向かってペコリと頭を下げると、マキははにかむような笑顔を浮かべた。「申し遅れまして、長門マキと申します。ミキがいつもお世話になっております」
「…………」二人は呆けたように口を半ば開放し、活動停止状態に陥っていた。
「……あ、あのー」どうしたんだろうこの人たちは、と思いながらも笑顔を崩さないマキ。
「…いっ、いえっ、こちらこそ初めまして。こんな所でお会いするなんて奇遇ですなぁ。いやぁ、長門君は良く頑張ってくれとりますよ。お姉さんの事も偶に聞いとりますです、ハイ。……それにしても、こんな別嬪さんだったなんて…さすが長門君のお姉さんだ、ってなあ、杉君よ」
「あっ、は、はい……初めまして…杉です。ミ、長門さんとはコンビを組ませて頂いています」

 ふーんといった感じで、杉はマキに眸の内奥まで覗きこまれたような気がした。……まさか、さっきのを見られてたのだろうか。

「……ちょ、ちょっと、おねえちゃん。あたし今お仕事中なんだけど」
「あら、ゴメンナサイ。あたし肝心な事忘れてた。ご挨拶もそうだったんだけど……これを持ってきたのよ。朝ごはんはまだでしょ? 腹が減っては何とかってね。喜んで。シンジくん特製よ」

 ぱんぱんに膨れ上がった紙袋には、溢れんばかりの碇家謹製BLTが顔を覗かせていた。ぱぁぁああ、と輝きだしたミキの顔。食べ盛りのムスメ故、実に単純にして明快。花より団子。

「ところで、ミキ。最近、気になってんだけど……」
「え?」
「あなた……スカート、短すぎない?」
「ええっ!?」

 朝っぱらから何を言いだすのだろう、この姉は。反射的に太股を閉じてスカートの裾を慌てて直すと、露骨な視線を注ぐ二匹の輩に気がついた。ちょ、ちょっと、と抗議の声を上げようとしたが、耳まで赤くなってしまったミキにはいつもの調子で言葉が出てこない。

「こ、この位でないと動き辛いのよ! あたしなりに考えてんだから、もお」
「冗談よ、冗談。なにムキになってんのよ、この子ったら」

 それじゃ私はこれで、お仕事中お邪魔しました、とお使いに来た子供のようにぺこりと頭を垂れると踵を返す。柔かな陽が燦々と降り立ちはじめた緑なす葉むらの下、ローファーの靴音を高らかに響かせたマキは優雅に歩き去った。

「……なんだか嵐が通り過ぎたって感じだな」
「でも、お姉さんとても綺麗なヒトだね。びっくりしたよ、と――」

 ミキのジト目に言葉を詰まらせた杉は、続く言葉を追いかけるのを諦めた。



「少しいいかね?」
「あら、副司令。どうかなさいましたか?」

 技術開発部技術局第一課。検査機器が偶に思い出したように作動音を発する以外、あらゆる生活音に疎い赤木博士の執務室の中では、エアロックの開放音に目を覚まされたようにコーヒーメーカーがコポコポとアロマを添えて音を立てはじめた。

「いや、きょう碇は第2新東京市に行っているのでな、偶にはここで話をするのもいいかと思ってな」
「……第1支部の件、ですね」
「ふむ……現地では国連そして米国政府との調整を楠三佐が進めているがな、正直難航しておるよ」
「結果として,在米州支部は物理的に半減することになりましたので、いかに国連直属と言えど超法規組織として付与されたこれまでの権限をこれまで通り許容されるとは到底思えませんわ。それこそ千の理由を付けて弱体化を目論んでくると思います」
「その通りだよ。よしんばこれまでと同等の権限を確保するとしてもだ、等しき義務が存続する。君が言った通り物理的にはアセットも職員も半減しておる中でだ。第1支部の極端な拡張や増員が困難である以上、旧来の義務の遂行など覚束ないくらいに第1支部のパフォーマンスは落ちるだろう。そして、対応策として出された結論の一つが……」
「……エヴァ、ですね」
「そうだ……一部の幹部職員でさえ第1支部まで失うわけにはいかないなどと、自分達のやったことを棚上げして戯言をほざいておるが、現実問題としては米州でのエヴァ素体開発については諦めざるを得ないというのが正直なところだろうて。まあ、この件については米国政府のコンセンサスを取り付けるのも今となっては容易でな。あれほど建造権を主張していたにも関わらず、あの事故で完全に尻込みしておる。やはり頼りになるのは旧来の兵器、N2兵器、という潮流に変わったらしい。昔からボタン一つで何もかも吹き飛ばして表層上の解決をもたらす安直さが好きな国だからな」
「……エヴァの開発部門を本部に接収することについては同意出来ますわ。ただ、その場合……パイロットが必要となりますが」
「ふむ……マリイでは専属というわけにはいかんしな。……新たに一名選抜する必要があるか……参号機のコアのデータを確認しておいてくれるかね? いきなりダミーを使えなどとは言わんだろうが、念のため碇にも下話を入れておくのでな」
「解りました」
「そちらの運用については、葛城君との連携も含めよろしく頼む……この件については、解決すべき問題が山積しているでな」

 柔かな陽射しの中で、部屋を後にする冬月のしゃんと伸びた背中に謹厳さが立っている。通路に飲み込まれた灰色の影を横目で確認すると、リツコは予め予定されていたかのように執務机の右袖の引出しから一冊の薄いファイルを取り出した。第2支部の消失事件が発生して直ぐに、リツコ自身の人的パイプで取り寄せた資料で、内容はエヴァンゲリオン参号機の基礎データとテストパイロットによる試験報告書から構成されている。
 それは、とても簡単な作業だった。案の定、マギにストックされているCODE707内のパーソナルデータから最適の予備を見つけるまで、数分を要する事はなかった。リツコが打ち込んだコマンドに対し、何ら人的なゆらぎを発生させることもなく、その情報は目の前のモニターに、瞬時に結果として反映された。モニターに映っていたリツコの表情が動く。

「……この子、なの?」



(……ん、なんや?)

 5時限目も残り時間が10分を切った時だった。トウジのラップトップのモニターに、紙ヒコーキのアニメーションが浮かびあがった。画面右下ではメール着信を示す☒マークが点滅している。
 カチャカチャとキーボードを叩く音を背中で聞いて、頬を緩めたのは黒いおさげ髪の少女。次の瞬間、あっ、と声を上げた少年を振り返る数人の生徒たち。それには倣わずヒカリは、ばか、と小さくため息を漏らした。

 ☒ 鈴原。今週から週番なんだから。忘れないでね。

 ばつが悪そうにトウジは左腕で自分の頭を押しつけるようにして机の上に身体を沈めた。その体勢のまま器用にキーボードを叩きはじめる。

 ☒ せやったか? あかん。そりゃマズイで。今日はケンスケとゲーセン行くっちゅう約束しとんのや。
 ☒ 学級委員長としては看過できない発言ね。ダメよ、サボっちゃあ。
 ☒ またそんな情無いこと言わんとってえやー。なんや駐禁やっとる婦警さんみたいやでー。
 ☒ 泣きを入れてもダメよ。……それとね。
 ☒ はあー、なんや…まだ、なんぞあるんか。
 ☒ 鈴原の相方……綾波さんよ。
 ☒ あやなみぃ〜? 今日休んどるやないかー。こら本格的にアウトやわな〜はは。
 ☒ 男のくせにウジウジ言わないの。仕方ないわね……。
 ☒ ……へ?
 ☒ 手伝ってあげる。
 ☒ ホ、ホンマか!?
 ☒ 委員長だから。監視役も兼ねて、なんだから。そうなんだからね。
 ☒ 分かっとる分かっとる。

 解ってない、わよ。

 キーボードから手を離し、そっと左手を胸の前に添えたヒカリ。やや上目遣いに覗くモニターの受信箱では、到着したばかりのメールが瞬いていた。
 そんなヒカリを数列後ろの席で頬杖をつきながら見つめていたアスカ。二人の進展の遅さに、ある種まだるっこさを感じてはいたものの、何気ない日常に落ちている小さな幸せを紡ぐように暦を重ねる少女を見ていると、これでいいんだなと思えてきた。遠くない未来には佳日も訪れるんだ、きっと。それまでは…ううん、ずっと、この世界はあたし達が守るから。
 そんな少女から切った視線の先には、しなやかな黒髪に端正な顔立ちを備えた少年がいた。教壇ではなく、校庭を風景画のように湛えた大きな窓の傍にある誰もいない席にその双眸を向けていた少年には、アスカが期待した表情を見出すことは出来なかった。



 気は進まないが急いてはいた。技術開発部技術局第一課へと伸びる通路を、ミサトはいつもより一層高い靴音を響かせ闊歩していた。
 昨日付けで作戦局に正式に告知されたダミーシステムの開発完了とエヴァンゲリオン参号機のネルフ本部への転属決定。そして、つい今しがたリツコから受けた何故か改まった口調の内線電話。
 ダミーシステムに対しては、全く以て不吉なイメージを払拭できないでいる。いや、正確には、検証を為すための情報の欠片さえ入手出来ず今日に至っているのだ。そんな中、実質的に接収になったと噂に聞くエヴァ参号機は、米州本土を逃げだすようにして今週末にも松代に到着するという。そして、一連の意思決定の進捗の過程において、作戦局には何の下話も無かった。戦闘時における運用上の全責任を一身に負っているにも拘わらず、だ。更に……肝心の専属パイロットは? ……マルドゥック機関は沈黙を守っている。
 自分の乗っていた電車が知らない間に転轍され、不可知の軌道を走らされている。そんな感覚だった。それでも、全ての事象が書類上の形式的な稟申承認のみで機械的にベルトコンベアに載せられるように進捗を見せている。作戦局三佐という立場を以ってしても十分な情報共有がなされない現状に、ミサトは途方もない焦燥感に無力感を重ねていた。だが、直近のテストにおいてシンジとアスカのシンクロ率の低下が明白となっている事実の下では、なんら明確な根拠無くして、ダミーシステムの実戦導入に対しオブジェクションを唱える状況には無かった。何の事はない、気がつくと巧妙に外堀を埋められ、ミサト自身がベルトコンベアに載せられていたのだ。濁流の中で、不安げに周りをきょろきょろしながら、お椀の縁に両手をついて必死にバランスを取っている一寸法師のようなもんだ。……そしてその先に待ち受けるものは、未知なるカタストロフィ。全身を内側から逆なでされるような感覚に、この身に刻まれた古傷をパックリ開いて警告にも似た疼きがとめどもなく湧出してくるのを強く感じていた。この胸の底を静かに焦がし続ける感覚は、あの日ヘヴンズドアの向こうに讐敵と見えてから動き始めた胎動に相違無かった。

 執務室のエアロックドアが割れると、白衣に伸ばされたリツコの背中が飛び込んできた。が、待ち焦がれているわけでもない来訪者を振り返ろうとはしない。その白い背中に漂う堅さを敏感に感じ取ったミサトは、いつものような軽口は叩けない。いや叩かない。執務机の袖に腰を落とすと、改めて作戦局一課長としての表情を引き締めた。

「何よ? 改まって」
「松代での参号機の起動実験。テストパイロットは四人目を使うわよ」
「四人目? フォースチルドレンが見つかったの!?」
「……昨日ね」
「マルドゥック機関からの報告は受けてないわよ」
「正式な書類は明日届くわ」
「……赤木博士。また、あたしに隠し事してない?」
「別に」
「……まあいいわ……で、その選ばれた子って誰?」

 ミサトの言葉に呼応させるようにマウスを操作したリツコ。次の瞬間、モニターいっぱいにデータが映し出された。見開かれるミサトの瞳。双眸に映ったパーソナルデータに、刹那、黒髪の少年の姿が重なった。

「……よりにもよってこの子なの?」
「仕方がないわよ。候補者を集めて保護してあるのだから」
「話し辛いわね…この事……。アスカはいいのよ…エヴァに乗ってる事にプライドを賭けてるから。レイは例外としてもね。いい事無いもの…あたし達とエヴァに関わったって。それを一番よく知っているのがシンジ君だものね。これ以上辛い思いはさせたくないわ」
「でも、私達にはそういう子供たちが必要なのよ。みんなで生き残る為にはね」
「……綺麗事は止めろと言うのね」
「その通り」
「…………」

 レカロのハイバックを少し回転させると、リツコは座ったままミサトと向き合った。その右手にはコピーが握られている。

「これ、フォースチルドレンの基礎データよ。目を通しておいて。彼への通知はマルドゥック機関から書類が届き次第、私がする事になると思うわ。起動実験の下打ち合わせもあるから」
「…………」
「シンジ君とアスカへの通知はあなたに任せるわ」
「……そうよね、そうなるわよね」

 会話から逃れるように、ミサトはコピーに視線を落とした。ふたたび寂寂たるオフホワイトに沈み込む執務室。何かの機器の作動音に、ぱらりとコピーを捲る音がときおり加わる。

「……ところでリツコ」ミサトはコピーから目を外さず問いかけた。
「……何?」
「さっき言った、候補者を集めて保護してるって、どういう意味?」
「…………別に、深い意味は無いわ」キーボードの上を泳ぐ指を一瞬とめたリツコ。「……いまの学校の定義の一つにすぎないわ」



 ネルフ本部にほど近いB5シェルターの北出入り口。そこから緩やかに山裾へと広がる丘陵地で、黙々と一人の男が身体を動かしている。いつもの縒れたスーツのジャケットを腕捲りして男が転がしているのは、近年滅多にお目にかかれない立派な西瓜だった。一見単純そうなその作業を暫く続けた後、首をもたげて眩しげに空を仰ぐと、そのまま雲の間に探しものをするように立ち上がった。燦然と輝く太陽に薄められた碧色へと向けられた眼差しは遠い。大きく伸びをし、左手で腰をポンポン叩くのを待っていたかのように、加持の後ろで砂利を噛む音が聞こえた。

「……『玉直し』かね」
「そうです。これをやらないと色づきが良くならないですからね。それに、すぐに病気にかかっちまいます」
「何だ……気付いてたんだな」
「ご婦人に劣らぬ熱い視線でしたので」加持は両手を少し広げると、おどけた調子で振り返った。「……若竹三佐」
「相変わらず忙しそうだな」

 フッと微笑を浮かべると、加持は再び西瓜畑に向き直った。珍しく黒服に身を包んだ長身痩躯の男は、加持の皺だらけの背中を何気に見ながら煙草に火をつけた。

「そんな事は無いです……最近一日の半分はここで過ごしてますよ」
「ほお……そうなんだ」続けようとした言葉を飲み込んで、辺りを見回した。眼の前に広がる畑は、よく見るとそれなりの規模だった。土を創る段階から考えると、相当な手間と時間を掛けたのだろう。今の時間を費やしてまで、やっておきたい何かを見つけたということか。
「ご存じだと思いますが……ここ最近は色々と厳しくなりましたので、ここにいる時間が長くなったって訳です」

 ヨシ出来た、と独りごち手をパンパン叩きながら腰を伸ばした加持。

「それでかね……この辺りには不似合いな連中が何人かうろついていたな。どこかに行っちまったようだが」
「泣く子も黙る諜報二課長が登場したんです。驚きもするでしょう」
「……ふうん。俺は何もしてないがね」

 畑の縁で腰を屈めてスイカの表面を撫でている若竹の口調は呑気なものだった。限りなく白くなった陽射しの狭間に、小鳥の鳴き声が山間の稜線を撫でていく。

「……それで、今日は何か?」
「ああ、そうだった」若竹は、ヨイショっと腰を伸ばして加持に向き直った。「……単刀直入に言うと、君と取引きがしたい」
「……取引き、ですか? この私と?」
「そうだ。取引きだ。解っていると思うが、もうあまり時間が無い」
「…………」
「我々を取り巻く状況は次なる局面を迎えようとしている。そして、それに紐付いた幾つかのタスクが動き出した」
「…………」
「君がこれまで手にした情報を持って、私と一緒に来て欲しい。……言ってる事は解るな? 理由はともあれ、結果として君は連中のいずれに対してもその期待に応えなかった。これはネルフにとっては有難いことだったが、今や君の立場は風前の灯と言ってもいい状態だろう。内務省はまだいい。問題はもう一方の連中だ。彼らが仕掛けてくる前に手を打たなければならない。君の安全を確保する為にもな」
「……お申し出の内容は理解しましたが、残念ながら私にはお応えすることが出来ません」
「加持一尉」
「……私は、私の仕事をまだ終えていません」
「…………」
「私には…どうしてもやり遂げなければならない仕事があります」
「…………か」
「は?」
「…いや。君の本懐たしかに聞き届けた……邪魔したな」

 右の手で顎を挟むようにして考え込むポーズをとると、若竹はやおら踵を返した。

「これで終わり、ですか?」
「ああ、何故?」
「……いえ…お断りした時点で、処理されるのではと思ってましたので」
「バカなことを言うもんじゃあない」放たれた矢のような口調に、瞬間、若竹の背中が膨れ上がったように見えた。「ここの世話はどうするのかね?」
「場所は……三佐が既にご存知です」
「御免こうむる。君にとって意味のある事なんだろう? 最後まで責任持ちたまえ」

 若竹の鈍く光った黒靴の皮底が土を噛み始めた。次第に遠ざかっていくその音を背中で聞いていた加持。名前を呼ばれた子供のように天を仰いだとき、眩い午後の光が瞼を柔かく刺した。



 やや傾げた陽がその輪郭を露わにし、陰影が立ち始めた坂の途中で少し長くなった影を曳く二人の少年。シンジの前を歩くトウジが、伸びをするようにして頭の後で手を組んだ。

「ほんま、エヴァのパイロットって変わりモンばっかやなー」
「え? な、何だよ、イキナリ」
「イキナリもウリナリもあらへんで。シンジはシンジでオンナの部屋に勝手にあがり込んで掃除しとるし、綾波は綾波で散らかしっ放しにしとるくせしてシンジに片付けてもろて赤こうなっとるし」
「い、いいじゃないか、別に……ゴミくらい拾ったって」
「別に誰もアカンなんか、ゆうとらへんでー。さっきも言うた通り、そりゃシンジの余裕からきとることやろしなー。まっ、取り敢えずは良かったっちゅうこっちゃな。今週に入ってから学校休んどった綾波も元気そうやったし。これでシンジもひとまずは安心や」
「う、うん…」
「……それにしてもや」
「な、何?」
「いや……なんでもあらへんわ」

 ポツリと呟いたトウジ。道端の小石を蹴ると、道路に落ちた木立の翳の中ですぐに見えなくなった。トウジの視界の隅で不審気な表情を浮かべていたシンジは、やがて小さく溜め息を吐くと再び歩を進め始めた。

「ところで、今日はネルフとちゃうんかいな? 綾波と一緒に行かんでよかったんかいな?」
「今日はトウジとプリントを届けに行くのが目的だったから……だから、いいんだ」
「は、なんやけったいな理屈つけよるなー。別に照れんでもええと思うけどな」
「な!? て照れるってなんだよ。ぼ僕は別に……」
「はあ、やっぱ変らへんのー、シンジ……。綾波、ベッドの上でのの字書いとってもワシャ知らんでー」



 すれ違う職員が何か得体の知れないものに出くわしたような表情を浮かべては道を開けていく。それほどに険しい表情を浮かべているのだろう。焦がれるような胸の底では、少なくとも悠揚さとはほど遠い状態にあるとは思ってはいる。やはり身体は正直だ。やや前傾気味に構えるような姿勢で、靴音を響かせ闊歩する様は凡そネルフでは目にかかれない軍の将校然としたオーラを迸らせていた。
 思わず舌打ちが洩れる。胎動を感じたシナリオに載っていたフォースチルドレン。誂えたようなタイミングで告知された次なる適格者の名は、予想だにしない子供のそれだった。マルドゥックの影さえ掠らない中でのこの展開。これで終わりだとは到底思えない。疼いてやまない古傷に左の掌を添え、この先に待ち受ける途轍もなく不吉なものを明確に感じ取るに至っては、一歯車の徒手空拳が何を齎すわけでもなく陰惨な顛末しか残されていないという実感だけが身体中から滲みでてきた。リノリウムに噛みつかせた靴音が一層高くなる。

(……情報が欲しい、今は)

 廊下に反響する靴音ごとに進行方向から零れる乳白色の光が近づいてくる。突然、観音開きの黒壁を開放されたような白一杯のリフレッシュコーナーに足を踏み入れたとき、はたして目当ての男はそこにいた。一人ではない。技術開発部の伊吹二尉の傍で何かの話に耽っているようだ。更に歩を進めて、耳の感度を上げたとき、加持は腰を折ってマヤに顔を近づけた。ミサトは顔が熱くなるのが分かった。でも……いまは。

「お仕事すすんでるー?」
「いやあ…ぼちぼち、だな」

 飛び跳ねるように立ち上がったマヤとは対照的に、加持は鷹揚な物腰でミサトに向き直った。能天気に思えるほどの笑顔を添えて。

「では…わたしは仕事がありますから……これで」マヤがそそくさとリフレッシュコーナーを後にすると、やれやれといった表情を浮かべ加持は床に散らばった空き缶を拾い始めた。
「あなたのプライベートに口出すつもりは無いけど、この非常時にウチの若い子に手を出さないでくれる?」
「君の管轄ではないだろ…葛城ならいいのかい?」
「これからの返事次第ね。……地下のアダムとマルドゥック機関の秘密、知ってるんでしょ?」
「……はて」少し表情を動かした後、加持は惚けたような声を上げながらも監視カメラに視線を走らせた。
「惚けないで」
「他人に頼るとは君らしくないな」
「なりふり構ってられないの。余裕無いのよ、今。都合良くフォースチルドレンが見つかる。この裏は何?」
「……一つ教えとくよ」

 加持は泰然たる物腰でベンチから腰を浮かせた。ここにも恐らく耳はある。こんなところで間諜としてマークされている自分と情報の受け渡しが行われているなどと勘ぐられれば最期、ミサトの立場上致命傷にもなりかねない。それだけは絶対に避けなければならない展開だった。素早くしなやかな動作でミサトに上半身を被せるようにしてその目を覗き込む。狂おしいほどに愛おしさを感じる瞳には一片の曇りさえも無かった。俄かに身体の中枢を駆け上がってきた遠い昔に封印した筈の想い。それを辛うじて脳に至る寸前でせき止める。今は…最小限の情報に留めよう。この女性に負わせるリスクを最小限のものにする為にも。少しだけ……もう少しだけ時間が経てば全てを伝えることが出来るから。それまでは。

「マルドゥック機関は存在しない。陰で操っているのはネルフそのものさ」
「ネルフそのもの? 碇司令が?」
「コード707を調べてみるんだ」
「707……シンジ君の学校を?」
「そうだ。2−Aの子供たちを、ある共通項で括ってみるんだ。表立った行動は、くれぐれも慎んでな」
「……学校と言えば、リツコもおかしなことを言ってた」
「……りっちゃんが、か」
「リツコが何かを隠しているのは間違いないと思う。加持くん、何か心当たりある?」
「いや……俺がいま葛城に教えることが出来るのはここまでだ」
「でも――だめ、誰か来るわ」

 加持はミサトの言葉に押されるようにゆるりと身体を離した。淡く膨らんだラベンダーの結界に自らの魂だけは置き去りにするように。



 弾けるように響いたエアロックの開放音がシンジの意識を呼び戻した。待機用ベンチの上で身をよじって振り向いたシンジの視界に蒼銀の髪の少女のたおやかな肢体が飛び込んでくる。

「綾波…ど、どうしたの?」
「……………」

 レイは沈黙を守ったままシンジの隣にそっと腰を落とした。いつもより心持ちシンジに近い位置に。
 いま二人は、シンクロテストが執り行われた第7試験場にほど近いパイロット専用待機室にいた。シンクロテスト自体はリツコによる概評まで終了し、いつもであればメインゲート前のベンチでS−DATを抱いてレイを待っている時分だ。だが、今日は明日未明に実施される単独実験の準備とやらで急遽レイへの本部での待機命令が下されてしまった。技術開発部を胡乱な表情で後にしたシンジは、触角を喪った蟻のように実験場近辺を彷徨った挙句、この待機室に身を滑り込ませたのだ。
 シンジは疲弊していた。ここ最近のシンクロテストの結果が芳しくないことは、その手応えからも概評からも理解できてはいたが、周りの大人たちはその結果に対しては露骨な叱咤などはしない。加持などはスイカ畑を手伝わせながら、さり気無くシンジの内なる煩悶へのケアをしてくれたりもした。だが、そんな腫れ物に触るような気遣いの上で辛うじてバランスが取られていたシンジの精神は、実験が始まるや、身体を割って噴き出す恐怖に例外無く縮みあがるのだった。
 怖い。怖かった。何より怖い。エントリープラグ。その中が。いまでも耳に付いて離れない生命維持モードが終焉を迎えようとする電子音。朦朧とした頭のどこかに巣食ってしまったような頼りげの無い警告音。澱み始めて久しいLCLはとうに電化による回流を諦め、シンジの身体から優しく体温を奪っていく。何もかも飲み込んでしまうような睡魔がシンジの手を引き、導いていく。朧な光に満ち満ちた甘き死。ブラックアウトの間際にシンジが感じたもの。それは、血の匂い、だった――。

「……碇くん」

 弾かれたように姿勢を戻し、レイがいることに初めて気が付いたかのような表情を向けた。

「……きょうはネルフで待機だよね? どうしたの、綾波?」
「……赤木博士との打ち合わせが終わったから」
「えっ? じゃあ今日帰れるの?」
「次のテストは夜半過ぎから始まるわ。だから今日は、帰れない」
「……そ、そうなんだ」

 視線がぽとりと床に落ちた。ここ最近、シンクロテストがあった日には、レイと一緒に帰途に就き、夕食まで共に過ごすことが多かった。二人の間で特別に何か会話が弾むことは無い。実際には、思い出したように話を切り出すシンジにレイが相槌を打つといった程度のものであったが、それでもレイのアパートを出る時分には、シンジはまるで調律がなされたように、その心に穏やかさを取り戻しているのだった。
 しんと沈んだ広くもない部屋の中、いつもより距離の近い少女の体温が、じんわりと伝わってくるような気がした。

(……どうしたんだろう……きょう一緒に帰れないから、だから)
(……招集がかかるまでは、一緒にいてくれようとしている、のかな?)
(……だったら…嬉しいんだけど…でも)
(……ダメだよ。夜中からテストがあるんだから…身体を休めないとダメだよ……綾波)

 背筋を伸ばし、やや決然とした表情を作ってレイに向き直ったシンジは、自分を静かに見つめるレイに固まってしまった。魂の髄まで紅に貫かれたシンジは、次第に耳の中で大きくなる自分の鼓動を聞いているしかなかった。透きとおるほどに深遠なるスカーレット。その淡い緋色の灯に、いつもと違う色をシンジは感じていた。

「碇くん」
「あ!? う、うん」
「…………」
「あ、綾波……ど、どうしたの?」
「……なんでも、ない」

 かげろうの羽音のように悲しげな声で応えたレイは、静かに顔を俯かせた。



「――さきほど楠三佐より連絡が入ったよ。参号機は予定通り現地時間、明日未明に出発するそうだ」
「では、四人目の適格者への告知執行についても、予定通り本日でよろしいですね」
「ふむ…マルドゥック機関からの正規文書もこの通りだ。議長のサインもな、ちゃんと入っておるよ」
「……拝見します」

 ネルフ本部総司令室。暗澹とした空間に浮かんだ小島のような執務机に、リツコは歩を進めた。入室時より沈黙を守っている総司令、碇ゲンドウを目の縁に捉え、冬月が差し出した封書を受け取ると躊躇なく封入された文書を取り出した。

「…………」
「それでだな……松代での起動実験も予定通りと考えて良いのだな?」
「はい」
「彼が拒絶したら、どうするかね? まあ、選択肢は存在しないがな」
「彼は…断りはしないと思います」
「……知っているのかね、彼を?」
「サードチルドレンの友人、です」
「……そうか。まあ、よろしく頼む」

「……それと、もうひとつ」確認を終えた書類を封書に戻すと、リツコは改まった視線を二人の男に向けた。
「レイのことかね?」
「はい……これまで報告した通りなのですが……残念ですが、未だ有効な対処法を見出せていません。…現在例の発症の間隙は…約半月、にまで短くなってしまいました……」
「……ふむ」
「……そして、ここ数日においては……日常生活の中でも、発症が見られるようになりました」
「…………」
「現在の状態では、いつ何時、緊急に手当が必要になるかもしれず……これまでと同様の生活を継続する事は困難であるかも知れません」
「……ふむ」
「……赤木博士」
「はい」
「このことは、香取一尉に伝えているか?」
「いえ……レイの身体の変調には気付いているとは思いますが」
「レイの今後の生活については検討する。香取一尉には一度召喚を頼む。機密に触れさせるわけにはいかないが、非常時の対処法を含めての説明は必要だろう」
「はい」


 リツコがドアの向こうに姿を消した後も、二人はゲンドウの執務机に添えられたフィギュアのように微動だにしなかった。組んだ指に載ったサングラス越しに辛うじて見て取れるゲンドウの目は、固く閉じられていた。

「……僅か五年の限られた月日、そして約束の日」
「…………」
「……大地に自らの足で立つ偽りの自由。そしてその代償とは言え、いかにも儚き存在、だな……一人目と同様、どうにか出来るものではないが……」
「…………」
「ここに来てナオコ君の凄絶なまでの想念を感じるよ……」



 地底深く沈みこんでいくエレベーターの中。階層をくぐる毎に流れるベルの音をBGMに、リツコはその意識を思索の雲の中に漂わせていた。
 いまから会いに行く少年のパーソナルデータは、かねてからサードチルドレンとの関わり合いのなかで、幾度かクローズアップされた事があった。リツコの記憶に新しいのは、葛城家での食事会の時だ。明るく天真爛漫な表情に、時折り見せる老成された雰囲気が印象に強かった。一方、その少年の実妹がエヴァと第3使徒との交戦に巻き込まれて重傷を負い、未だ治癒途上である事。そして、それが原因でサードチルドレンに暴力を振った事まで公式記録に見られるものの、事実としては、現在サードチルドレンにとって数少ない親友の一人であり、最大の理解者であると思われた。だからこそ思う…彼は拒絶しないだろう、と。

 リツコの意識を狭い箱の中に引き戻したのは、ひと際大きいベルの音だった。開放されたドアの先に、暗灰色に沈んだ地下駐車場がぼんやりとその姿を現した。ローファーの皮底を控えめにコンクリートの床に打たせながら、ラテンの滾る血潮に例えられるイタリアンレッドに染め抜かれた308GTSへと歩を進めたリツコ。芸術的な曲線を持つそのフェンダーに自身のシルエットを映しながら、バッグからキーを取り出そうとした今まさにその瞬間、背中で微かな物音を聞いた。キーからブローニングに握り替えると、リツコの手の中でグリップセフティはタイムラグ無く解除された。

「ヨオッ」
「……加持君?」

 308GTSから距離にしておよそ五メートルのところで、加持はロータスのフェンダーに腰を預け、煙草をくわえていた。いつも通り不敵な笑みを浮かべている。

「どうしたんだ、リッちゃん? ボーとしながら歩いてると悪い男に攫われるぞ」
「そんな殿方がいたら、その度胸に免じて攫われてあげてもいいわ…ふふ」
「立候補させて貰えるんなら、いつでも」
「言ったわね……それで、今日は何?」
「別にリッちゃんを待ち伏せてたわけじゃあ無いさ。こんな場所で偶然会ったんだ。出掛けるんなら、どことなりにでも送らせてもらうさ」
「嘘ね。顔に書いてあるもの」
「嘘なもんか。どうして俺がリッちゃん相手に嘘を吐く必要があるんだい?」大仰に両の手を広げ笑顔を零した加持。

 ――変わらない。リツコの脳裏に、かの日の光景が投影されるように回りだした。

「……解ったわ。じゃあお言葉に甘えさせて貰おうかしら」八年前の笑顔で応えたリツコ。今は、この瞬間を委ねるのもいいだろう、この男に。
「そいつあ光栄だな。では早速」加持は一流のホテルマンのような鷹揚な物腰でパッセンジャーシートのドアを開放した。悠然とその細い腰を滑り込ませるリツコ。
「行先は分っていて?」
「……ああ」

 ウェーバーが呼吸を始めると、火の入ったエンジンの咆哮が加持の声をかき消した。

 この時があるいは最期のチャンスであったと、リツコは後に気付く事になる。事実、その時リツコは加持のロータスに揺られながら、胸の内の葛藤に思考を沈ませていた。若し…身体を寄せ、情の赴くままに希求したのであれば、全てをネルフに委ねてくれるのではないか、と。だが、リツコは直ぐにかぶりを振るしかなかった。どのような想定を巡らせても、加持リョウジはどこまでも加持リョウジだった。ここに至っても尚変わることのない信念は、いかなる甘言をも唾棄するほどの高潔さに満ち満ちている。かの日と見紛う明るさと温かさでリツコに接する加持に、ある種悲壮なまでの決意を見出したリツコ。良き時代の象徴そのままのこの助手席からの光景を。フロントウィンド越しに映えるグラマーなフェンダーの曲線を。陽に焼け色褪せたダッシュボードに浮かんだタバコの焦げ跡を。そして加持リョウジという男の横顔を、しっかりと目に焼き付けておこうと思った。



 第3新東京市立第壱中学2−A。ガラリと入口が開いた音に、シンジはいち早く反応した。入ってきたのはだれあろうケンスケで、左手にはパンが一杯に詰まった袋を提げている。教室内を一頻り見回すと、大量に買いだしたパンを自分の机にドサッと預けた。その量からしてケンスケ一人の為のものでないことが分る。ケンスケは少し不安げな表情を浮かべるとシンジに向き直った。

「碇ぃ、トウジはまだ戻ってきてないんだよな?」
「う、うん」
「ったく、何をやらかしたか知らんが、ちゃっちゃと謝って戻ってこないと昼休み、終わっちゃうんだけどな」
「……そだよね」
「ところで、今日は綾波だけネルフなのか?」
「うん、なんか単独テストとかって言ってた」
「……そっか、それなら屋上に付き合えよ。トウジのやつ、直接屋上に戻ってくるかもしれないからさ」
「うん」

 二人の少年が会話を交わすやや前方では、アスカとヒカリが机をくっつけ昼食のお弁当をつついていた。前夜に放映されたテレビドラマの感想をまくし立てるアスカに時折りコメントを添えたり律儀に相槌を打っているヒカリ。が、意識の半分は教室の入口のドアにぶら下がっているのだった。そして、今また耳に入ったガラリという音に、弾かれたように顔を上げたその少女は、またもや失望と共に小さなため息を漏らす事になった。

「……ヒカリ、そんなに心配? ダイジョーブよ。直に戻ってくるわよ」
「ええ!? あ、あたしは別に……委員長として心配してるだけで。いきなり校長室に呼びだされるなんて、鈴原がまた何かやらかしたんじゃないかって思って……」
「はいはい。まっ、ちょうどいいんじゃない? ガッコがはねたら委員長への報告名目であの熱血バカ呼び出して、ピクニックだかデートだかの打ち合わせもやっちゃえば?」

 花を咲かせていたドラマを語る延長戦上にしては、内容が微妙過ぎた。まるで忍びのように気配を消して昼食を啄んでいた周囲の男子生徒たちは、何を錯誤したのか一様にビクリと肩を震わせた。そんな男子生徒たちの視界の縁で、ヒカリはトマトのように真っ赤になってしまっていた。

「――ア、アスカぁ!!」



 丈の長い窓枠を通し夏の陽が燦々と降り注いでは、薄暗い部屋の中に様々な文様を浮び上げていた。塵挨踊る幾条かの陽射しの対岸では、ダークスーツを身に纏った女性が丁寧に話を紡いでいる。鈴原トウジはその内容を現実感を覚えることなく、街頭で大衆に向けられる演説のように、ただ聞いていた。

「――という事になります。ここまでで何か質問は?」
「……いえ」

 ふたたび説明を開始したリツコの隣では、校長が萎んだ風船のような体躯をソファーに沈ませている。神妙な表情を貼り付かせる校長には脇目も振らず、リツコは言葉を紡ぐ。ネルフに勤務している父親と祖父には既に下話を入れている事。パイロットとして従軍するにあたっての処遇、日常生活における制限などの細かい説明が綿々と綴られていく。リツコのややハスキーな声を遥か上空を飛び去る航空機の音のように感じながら、トウジはシンジが転校して来て以来、関わり合いを持ってきた幾多のシーンを思い起こしていた。
 突然の避難命令、妹の怪我、そして出会い。激情、暴力、涙、氷解、友情、そして仲間。

「――と、私の説明はここまでとなります。ここまででは?」
「……いえ」
「そう。勿論、いま直ぐに返事を貰えるとは思ってはいません。しかし余り時間が無い事も事実です。だから今晩にでもじっくりとご家族で相談して貰って、早々に結論を出して貰えればと思います」
「…………」少し顔を俯かせると、トウジは自分の膝が小刻みに震えているのに気が付いた。手で押さえつけるようにすると、その振幅は更に大きくなったように思えた。
「鈴原君。私たちは出来ればあなたに乗って貰いたいと思っています。人類がこの手で未来を手に入れるためにも」

 未来。なんて有り体な言葉なんだろう。少なくとも旧世紀までは、黙っていても与えられるもの、何ら労せずして手に入れることができるもの、であった。
 エントリープラグといわれる狭隘な空間。操縦桿にしがみつくように泣き崩れているシンジ。激しい戦闘と入退院を繰り返しながらも、様々な人との関わり合いを経て普通に暮らす事の出来る未来に想いを馳せるようになったその友人は、前回の戦闘で心に大きな傷を負ってしまった。その彼にもまた守りたいと思うヒトがあり、その手で掴み取りたいと希求した未来があった。そして、この自分にも、だ。厳粛な儀式の始まりを待つように、夜空までもが息をとめた月夜の小さな約束。少年の脳裏で稲穂のように揺れる少女の慎まし気な笑顔。トウジは、震える膝を押しつけるように両の拳を握りしめ、顔を上げた。

「……ワイ、乗らさしてもらいます」
「えっ?」トウジの向かいで優雅に足を組みソファーに臀部を沈ませた金髪の女性、そして校長が、思いもよらないタイミングで受けた想定外の反応に身体を反らせた。
「……せやけど、一つ相談させてもらいたい事があります」

 ようやく自分らしい表情を取り戻していたジャージ姿の少年は、しっかりとした口調で言葉を綴り始めた。



 米国マサチューセッツ州の州都ボストン。旧世紀においては、植民地時代の妙なる欧風建築が映え、アメリカ独立の気運を色濃く残した学術都市であった。今は海洋遺跡さながらの容貌を晒しているこの州都の郊外に、ネルフ第1支部はその礎を打ち込んでいた。落日がこの世の一切を浄化するように、あまねく世界を朱一色に染めている。その浄化の炎から逃れるように、麾下の最上一尉を従えた楠は、本棟から高速移動するリニアシャトルの慣れないGに身体を委ねていた。楠たちと対面するシートには、行儀良く腰を落とした一人の少女が、シャトルの上半分を覆ったガラスを通し、緋色にその綾を滲ませた光景に淡い群青の瞳を留めていた。

「ビンセンスさん」徐に最上が口を開いた。
「はい」
「漸く許可が下りて、我々もこうして参号機のケージに向かっているのですが、第1支部の総務局職員はどうして立ち会われないのでしょうか?」
「彼らはそれを望んでいません」
「第2支部の一件で多忙を極めておられることは理解できますが……エヴァンゲリオン参号機の所有権移転でのプロセスの山場でもあるのですが」
「それについては反論はありません。しかし、私もテストパイロットとは言え、身分の上では当支部総務局に所属する職員です。ご不満でしょうか?」
「……いえ、そういう訳ではありませんが」

 暗幕を被せられたように、シャトルの中は瞬時にして闇に包まれた。身体に圧し掛かるGの変貌から、それなりの角度でトンネルを沈降しているのだろう。シャトルを挟み込むようなトンネル内のセンサーライトが光の帯となって後方に流れ飛び、少女の白磁のような頬を輝かせていた。
 マリイ・ビンセンス。米州出身の十四歳。専属パイロットではない唯一の適格者として、米国における参号機及び四号機の建造にテストパイロットとして携わってきたが、本部から綾波レイのテストデータの供与を受けることもなく二機ものエヴァンゲリオンを完成に至らしめた実績から、その実力は高く評価されてきた。頑なまでに独自路線を貫こうとする米国、そして国連本部からの押し潰されそうなプレッシャーを受けたネルフ在米州支部が強硬に二機ものエヴァンゲリオンの建造権を主張した根拠の一つとして、このマリイの存在があったと聞く。しかし、先の第2支部の消失により、この超大国は決戦兵器の開発に関して持てるリソースの殆どを失ってしまった。数週間後に迫った参号機へのS2機関の搭載準備の為に一旦第2支部入りしていたこのマリイを除いては。

「到着しました。参号機のケージはこの先五百メートル程のところにあります」
「ビンセンスさん」目がついていかない程に明るいプラットホームに足を踏み出した楠が、顔を顰めながら前を行く少女に声をかけた。
「はい」
「先程の話ですが、理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「…………」
「いや失礼、スペイン語の方がよろしいのでしたら――」
「いえ……米語で問題ありません」

 歩を止め二人の男に向き直ったマリイは、ゾクリとするほどに妖艶な表情を浮かべていた。

「恐れているのです」
「……は、恐れて、ですと?」
「はい」
「第2支部の件があったから、ですか?」
「それもあります。しかし、本質ではありません」
「ビンセンスさん。どうも良く理解できないのですが」
「……職員が消失していったのです」
「は?」
「第2支部が消失する1週間ほど前の事でした。ケージで参号機の定期点検をしていた一人の整備員が忽然と姿を消したのです」
「…………」
「当然、支部内は大騒ぎになり、大掛かりな捜索も実施されたのですが、どうしてもその職員を発見する事は出来ませんでした。そして、それはこれから起こる様々な不可解な事件の始まりに過ぎなかったのです。職員の神隠しのような消失はそれで終わることは無く、整備職員、警備官を含め、これまで確認できただけでも10人ほどの消失が確認されています」
「……そして、そこに第2支部の事件が起こった」
「その通りです。今やエヴァンゲリオンはこの国にとって禁忌たる象徴そのものになってしまいました」
「……そのような事実があったのですか。それで、誰も近づきたくない、という事ですね。ただ残念なことに、本部にはそのような報告は入っていませんでしたが」

 楠の言葉を最後まで待たずに、マリイがIDカードを壁面のスリットに通すと、亀裂が浮かび上がるように壁面が割れはじめた。徐々に露わになる巨大な暗澹たる空間に聳えるように伸びているのは、アンビリカル・ブリッジだろう。その先に、薄っすらと形骸を露わにし始めた参号機を目に捉えたとき、二人の男は固唾を飲んだ。一瞬、その目に虚ろに灯った火を見たような気がしたからだ。



「……鈴原」

 夕間暮れ。峰の端に落ちかかる入り日の陽射しが差し込む教室。下校時間を知らせるスクールベルが鳴って久しく、がらんどうの教室では一人ぽつんと残った黒いジャージの少年が黙々とパンを齧っている。いつものかきこむ様な食べ方では無く、ぼそぼそ詰め込み牛乳で流し込むように。
 そんな少年を気遣うような目を、教室の入り口から影のように向けている少女がいた。お昼前に受けた呼び出しの後、校長室から戻って来た時には既に少年の様子はいつもとは違っていた。何かあったのだろうか? いや……あったに違いない。胸騒ぎにも似た塊に胸の底を焦がされ、ヒカリは終礼後の図書委員の仕事が終わるや教室に急いで戻って来たのだった。クラスメートに何かあったのなら、それを把握して解決に向けて助言するのも委員長の務め、なのだ。それに、週番を手伝うとも約束した。どっちも委員長としての公務、だから。……そうなの? ……いいえ。胸の底から這い上がって来た感情を自律制御するように顔をあげると同時に、ヒカリは少年に声を掛けていた。

「ん?」
「週番なんだから。机並び直して、週報を書かないとダメなんだからね」
「ワイ、昼メシまだやってんで。帰る前にやるわ」
「鈴原って、いつもお昼は購買なんだね」
「誰もワイの為には作ってくれんからのー」

 まるで惰性のままに開け放たれた窓を通して、校庭で部活に励む生徒たちの声が柔かい風に乗って吹き込んできた。

「……鈴原…くん」
「……ん?」
「あたしね、姉妹が二人いてね。こだまとのぞみって言うんだけど、いつもあたしがお弁当を作ってんだ」
「はあーそりゃ大変なこっちゃなあ」
「これでもあたしお料理は得意なんだよ。でも…いつも作りすぎちゃうんだ」
「そりゃ、勿体ないことやなあ。残飯処理やったらいつでも手伝わしてもらうで」
「うん、手伝って!」
「せや」
「…なに?」
「……弁当ゆうたら、そろそろ計画立てんとあかんなあ」
「え?」
「いや…イインチョ、覚えてるかぁ? 弁当持ってどこぞに行こゆうとったやんか……」
「う、うん」
「ワイ、これからちょっと忙しなるけど、少しして落ち着いたら、計画しよか?」
「う、うん、もちろん!」

 どこがええやろなー、天気のええ日にボートの上でイインチョのスペシャル弁当っちゅうのも堪らんやろなー、と独り言のように呟くトウジに、わ、わたしは何でもいいよ、それより早く週番の仕事やっちゃいましょ、と小さく応えるヒカリ。

 良かった。変わってなかった。変わらないでいて欲しい。ずっと。ずっと。

 囁くように紡いだ言葉が少年に漏れないように、少し染まった頬を少女は黒板に逸らせた。



 しんと静まり返った部屋の中では、秒針の音だけが存在感を誇示するように刻を打っていた。壁にはでたらめに貼られた旧車のポスター。乱雑に敷かれた万年床の脇には何冊ものカー雑誌が無造作に積み上げられている。その部屋の隅を占領する小さな机で、ミサトは開いたラップトップの上に細い指を走らせていた。やがてリターンキーを強く叩き、溜息を吐く。冷めたコーヒーが残ったマグカップに手を伸ばしたところで携帯端末が騒ぎ始めた。早い時間に帰宅するとコレだ、などと独りごちながら受信ボタンを押しこんだ。

「はい、かつら―あらリツコ?」
 ―――ミサト、今日は早いのね。用件を先に言うけど、明日からの松代への出張は予定通り行われることになったわ。
「え? それって……」
 ―――そう。鈴原トウジ君は承諾してくれたってこと。
「……そう」
 ―――参号機もボストンを今日発つしね。あとは、私たちが松代入りして粛々と受け入れ準備を進めるだけ。起動実験も含めてね。
「分かったわ。明日、出発の30分前にはリツコん部屋に行くわ」
 ―――……ミサト。
「なに?」
 ―――……いえ、何でも無いわ。



 耳を劈くようなタービンノイズ。まるで参号機を生け捕った猛禽類を彷彿とさせるエヴァンゲリオン専用輸送機が、爆音を轟かせながらボストンの大地を蹴った。その後方。空港管制室では常勤の航空管制官と数名のネルフ第一支部職員に混じって、本部総務局三課の楠と最上がこの出立に立ち会っていた。そして、さらに彼らの後ろに控えるように佇んでいる一人の少女。管制室の窓越しに豆粒のようになってしまった参号機を瞬き一つせず寡黙に見送っていた。感傷といった類の感情をどこかに置き忘れてきたような少女に楠は顔を向けた。

「ビンセンスさんは、これからどうされるのですか?」
「え?」少女にとっては思わぬ質問だったのだろう。十四歳の素顔が顔を覗かせる。
「いえ、お聞きになっているとは思いますが、ここ米州支部において、エヴァ素体の開発は凍結され、再開の見込みは立っていません」
「………」
「そして、それはここでテストパイロットを必要としないことをも意味するのです。いかがでしょう? 日本に来られるという選択肢はあなたの中にありませんか、ビンセンスさん? あなたは参号機建造当初から関わってきた。ただのテストパイロットだったわけでは無いと我々は認識しています」
「確かにここ第一支部での私のポジションは、今この瞬間をもって消失しました。米州はエヴァを禁忌なるものとしてその開発に関わるもの全てを封印し、最早ここに私の居場所はありません。そしてまた、早々にこの地を発たなければならなくなりました。次なるミッションの為に」
「……次なるミッション、ですと?」
「欧州……ベルリンです」



「あれぇ、トウジ?」

 スーパーの出口で買い忘れチェックに勤しんでいたシンジの前を通り過ぎていった少年は、はたして鈴原トウジだった。シンジが声を掛けるまでに一瞬躊躇ったのは、視線を落としてトボトボ歩く様が、あまりにトウジのイメージとかけ離れていたからだろう。黒いジャージの少年は、シンジの声を認識するまでに時間を要したのか、数メートル進んだところで歩を止めた。ホラここにあるよ林檎、と誘われた象のように、ゆっくりその首をシンジに向ける。

「お、おう。シンジやないか。何してんねん、こないなとこで」
「夕飯の買い出しだよ。珍しく今日ミサトさんが早く帰ってきたんで、慌てて買い出しに来たんだ。トウジこそ、どうし…あそっか、今週は週番だったんだよね」
「せや。さすがのワイも真面目にお役目を果たさんといかん週っちゅうわけや」
「うん。ご苦労さま。途中まで一緒に帰ろうよ、トウジ。……あっそうだ、これ食べない?」スーパーの袋の中をゴソゴソ掻き回してトウジに差し出したものは、アイスバーだった。
「おっ、さすがに気が利くのー。有難くいただくで」

 薄暮の傘に覆い尽くされた天空の裾が捲れるように宵闇が顔を覗かせるこの時間、蝋燭のような影を曳く二人の少年は、アイスバーを齧りながら急ぐでもなく肩を並べ歩を進めていた。

「なあ、シンジよ」
「え、何?」
「いや……シンジもこれまで大変やったなって思てな。なんや訳分からんうちにエヴァに乗ってから、バケモンとのえげつない戦いが続いてやな」
「…………」
「挙句の果てには、こないだみたいな目に遭うて…満身創痍っちゅうんはこのことや。せやけど、ワイはシンジの為に何にも出来へんかった。守られてる一方やったんや」シンジがトウジに顔を向けると、宝物を返しそびれた子供のような表情を浮かべてシンジを見つめるトウジがいた。「ほんま堪忍やで」
「ど、どうしたんだよ、トウジ。そんな改まって……」
「ワイな、ほんまに後悔してんねん。あんときシンジを殴ってしもた事をや。シンジの気持ちを解ってやれんかった。ほんで何の事は無い、おんぶにだっこやったんや。せやけど、これからはやな……」
「……何かあったの、トウジ? ……なんだか変だよ」
「……い、いや、なんでもあらへんわ」
「そ、そう、だったらいいんだけど……あっ、当たってるよ、トウジ!」
「なんや?」トウジは虚を衝かれたように顔を上げた。
「アイスの棒だよ。当たるともう一本貰えるんだよ。よかったね、ツイてるよね、トウジ」
「……当たり、か」

 俄かに裾野を広げた宵闇の狭間から一陣の風が吹きつけ、トウジの前髪を薙いだ。しみじみと当たり棒を見つめるその横顔から、何故かシンジは視線を離せないでいた。



 遠く鳴り響くスクールベルにヒカリの澄んだ声が重なった。喧騒を思い出した学び舎に、午後の風が穏やかに流れ始める。空は今日も抜けるように蒼く、高かった。
 レイは校庭から視線を外し、ざわめきに埋もれいく教室に顔を向けた。レイの席から見て、右側少し前にいるシンジはケンスケと会話を交わしている。楽しげな表情を浮かべるシンジに暫くその目を留めた後、レイはおもむろに席を立った。今しがた教室を後にした少年の背中を追って。
 昨晩、定期健診が終わった後の概評で、通常の業務連絡の延長線上で付け加えられた参号機専属パイロットの名。レイにとっては同僚が一人増えるだけのことだった。何ら感慨を受けることもなく、一つの意思決定を連絡事項として粛々と受け入れた、筈だった。

(……………)
(……気になる?)
(……気になってるの? 彼のことを?)
(……………)
(……違う気がする)
(……………)
(……鈴原くん、フォースチルドレン)
(……参号機専属パイロット、そして……碇くんの友人)
(……そう、碇くんの親友と言われるヒト)
(……………)
(……わたし……どうして気になるの?)
(……解らない)

 粗末なペンキで仕上げられたトビラを開けると、午後の風がレイの頬を優しく押した。目の前に拓けた蒼一色に塗られた情景の中、その少年の背中は気の早い午後の陽射しを一杯に受けていた。

「……鈴原くん」
「ん? なんや綾波か。シンジやったらここには居らんで」
「…………」
「知っとんのやろ? ワシの事……惣流も知っとるようやし」
「……うん」
「知らんのはシンジだけか―。……人の心配とは珍しいなあ」
「そう? ……よく解らない」
「お前の心配してんのはシンジや」
「そう!?」刹那、レイの脳裏に弾けるように掠めた一人の少年の影。糸で曳かれたように上がったレイの顔には、天使からお告げを授かった子供のような表情が宿っていた。「そうかも知れない……」
「……そうや」

 何もかも包み込むようなトウジの口調はどこまでも優しい。



 低く鳴動した地響きにも似た音が、夜気を慄かせた。
 松代第2実験場。蕭寥とした仮設ケージを孕んだ巨大な地下空洞に深く降り立つ闇を、二条の光と靴音が招かれざる闖入者のように割り込んだ。

「異常無し。これでAブロックは完了だ」
「了解。次はアンビリカル・ブリッジを渡って反対側のBブロック。そこが最後のチェックポイントだ」

 二人の保安局員はハンディサーチライトを揺らしながらアンビリカル・ブリッジを移動した。いかにも気味が悪い。奈落に引かれるような奇妙な気流を感じた二人の足音が一瞬高くなる。

「ん? おい、どうした?」

 いかにも傲岸然とした人相の男が、アンビリカル・ブリッジの中ほどで立ち止まったままの相方に気が付いた。その男はサーチライトで参号機の頭部の辺りを忙しなく照らしている。

「……いや。なんか、いま頭部周辺で何か光ったような気がしたんだ」
「おい、冗談はよせよ。こいつは今日到着したばかりなんだ。内部電源はゼロだよ」
「まあ、気のせいだとは思うんだが、それ以外の要因もあり得るから、一応な」

 どうにも今日の相方は融通が利かない。納得がいくまで確認しないと何事も次に進めないようだ。溜息が洩れると、胸の中で張り詰めていた緊張の糸がゆっくりと弛緩していくのが解る。タバコが欲しいなと思った。が、次の瞬間、何気に頭の中に持ち上がった記憶に、そんな余裕は根こそぎ消し飛んだ。

「……ところで、この参号機だけど、アノ噂聞いたか?」
「うん? …いや、何かあったのか?」その相方は何度も参号機の頭部をライトで舐めるように照らしながら、興味なさげに応えた。
「いかにも不可解な話なんだが、第2支部が消えちまう少し前から、ケージに詰めていた何人かのスタッフが神隠しにあったように消失しちまったらしい。それこそ煙のようにな」
「なんだよ、それ。気味が悪いな」
「だろ? まあ非科学的なこの手の話には上層部は関心を示さなかったらしいがな。まあ当然か」
「まあ、詰まるところそんな噂話が蔓延するくらい米州支部は呪われてるってことだな」
「さっ、もういいだろ。行くぞ」

 いかに頑迷固陋を芸風にしようが、身体の内側を撫でつけるような薄気味悪さには勝てなかった。いつのまにか粟立っていた二の腕を小さく擦りながらアンビリカル・ブリッジを足早に立ち去った。



 雨戸を開け放った先に浮かんでいたのは、いまだ暁を覚えぬ様相を漂わせる朝霧だった。薄い霞の中に、まるで光の柱のように幾条もの払暁の光が枝垂れている。その少年は眩しげにやや目を眇めると、黎明を繊細に描写した額のような窓に背を向けた。ジャージとお揃いの色のスポーツバッグを肩にさげると、なぜかしみじみとした視線を部屋の中に漂わせる。そして数分の時を待つことも無く、少年はそっと自宅を後にした。薄いドアが閉じる軽い音だけを残して。

 同じ頃、うっすら漂う朝霧の中に浮かんだような街路樹に背中を預ける少女がいた。黒いおさげ髪が印象的なその少女は、清楚な制服に身を包み、容赦なく差し込みはじめた早暁の光にその身を晒している。ふと思い出したように動いた風。少女の頭上の葉むらをたおやかに踊らせては、時おり少女の肩に涙のような朝露を遠慮気味に降らせていた。それでも少女の扇のように閉じられた瞳は微動だにする事は無く、少女が纏う清冽な佇まいが崩れることは無かった。
 どれ位の時間が経過したのだろう。少女の意識の中に滲み出した点のような気配が慣れ親しんだ足音へと変貌を遂げたとき、少女はその双眸を薄っすらと開かせた。

「イインチョ、やないか?」
「……鈴原」

 その声に呼ばれたように風が薙ぎ、ふたりを隔てていた薄い壁は忽ちのうちに姿を消した。

「どうしたんや? ガッコに行くにはまだ時間早いでえ……なんぞ、あったんか?」
「ううん」小さくかぶりを振ると、少女は少し顔を俯かせた。「アスカから、鈴原が二三日学校を休むって聞いたから」
「ほうか。はあー惣流が、なあ」
「で、でも誤解しないで。あくまで委員長としてクラスを代表して激励に来たん、だから」
「分かっとる分かっとる」
「……やっぱり、分かってない」
「へ?」

 糸で引かれたように二三歩進めると、ヒカリとの距離は手が届くほどに縮まっていた。気のせいだろうか、吸い込まれるような漆黒の瞳が揺れたような気がしたのは。頭上の葉むらを掠め去った小鳥が、清々しい唄声を落として群青に翳る天空に飲み込まれていく。

「……アスカから聞いたよ。大切な用事だって。だから、頑張って。……だから」ベージュのクロスに包まれたランチボックスがトウジの前に差し出された。次に視線を上げたトウジの目には、微かに頬を染めるヒカリが映っていた。
「……アリガトやで。なんや、肩に入とった余計な力が抜けたような気がするわ」
「このお弁当は、きっと鈴原にとっては前菜のようなものだから……だから、メインは鈴原が帰って来てからの楽しみだからね。まだまだ美味しいもの一杯あるんだから……」
「せやな。ごっつ楽しみにしとるわ。……ほんじゃ、イインチョ、有り難く頂いとくわ。ホンマおおきにやで。……ほな、そろそろ行くわ」この上無い爽やかな笑顔を浮かべると、踵を返したトウジは小さく片手を上げて歩を進めた。
「鈴原…くん」
「ん?」
「約束…よ」
「……分かっとるで」

 朝靄の中に溶け込んでいく少年の背に、これほどまでの切なさを感じるのはどうしてだろう。今はそっと忍ばせた小さな絆にこの想いを託すことができればと思う。とうに朧の影となった少年は振り返る事も無く、ただ清々しさだけが際立つ景色の中に溶けこんでいった。



 幾度の熟慮を重ねても、シンジにはその理由を理解できなかった。何か怒らせるような事をしたのだろうか。自問自答を繰り返せどやはり心当たりといったものを見出すことは出来ない。考えあぐねたシンジは、隣で肩を並べて歩を進める少女をそっと盗み見た。朝の風に吹かれた茜の髪は、ときおり艶やかな残像を置き去りにする。

「……アスカ」
「何?」
「い、いや…何かあったのかなって思って……ここんとこ、何だか怒ってるみたいだからさ」
「…………」
「……ア、アスカ?」
「……べつに怒ってなんかないわよ」

 面倒くさげに口を開いたアスカ。前方にせり上がってきた学び舎を見据える視線は強い。

「で、でも…最近、家でもミサトさんを避けてるようだし――」
「もう、うっさいわね! 何、男のくせにウダウダ言ってんのよ!」不安気にアスカを伺うシンジの鼻先に照準を合わせるように、アスカはその細い人差し指を突き立てた。「アンタってば、デリカシーの欠片も無ければ、感度ゼロ。そんなんだから参号機のパイロッ――」
「……なに? 何だよ、参号機パイロットって。……やっぱり知ってるの、アスカ? ねえ、教えてよ」
「し、知らないわよ! もうバカシンジと話なんかしてらんないわ、先に行く!」

 アスカは一瞬怯んだ表情を元に戻すと、シンジを引き剥がすように駆けだし校門の中に姿を消した。縋るように中空に差し出されていた右手を戻すと、シンジはふたたび殆ど鉛のような足を動かし始めた。

「碇くん」

 条件反射的に振り返ったシンジの視界に飛び込んできた少女。風そよぎ、銀無垢を織り込んだ蒼銀の髪がプラチナブルーの煌めきを放ちながら波打った。その深い緋に囚われた双眸はシンジへと一直線に向けられている。俄かにその表情を溶かしたシンジは縋るようにレイへと足早に歩み寄った。

「あ、綾波……おはよう…今着いたんだ」
「うん」
「じゃあ、行こうか?」
「……碇くん」
「ど、どうしたの?」
「……なんでも、ない」

 参考機パイロットをレイは知っているんだろうなとシンジは思った。だが、シンジからは聞けない。いまだシンジの頭の中で激しくリフレインするアスカから放たれた拒絶の言葉。もし同様の拒絶をレイから浴びせられたら、僕は……。
 シンジは、嘗てよくやったように、頭の中のブレーカーを落とし思考を照らし出していた灯を一斉に消した。心の汀に掠った退行への嫌悪感をも掻き消すように。途端にシンジの中で膨らみを見せるレイの存在。温かでどこか懐かしい感覚が、徐々に開かれるトビラの隙間から清流のように流れ込み、硬化しつつあったシンジの心を優しく溶かしていく。いつもより心持近くに感じるレイに、陽春の風にも似た甘い香りを感じながら。

 そんなシンジの隣。肩を並べ歩を進める少女は、そのいつもと変わらぬ歩調にちぐはぐな心を添えていた。いかにも瑣事なこととして連絡を受けて以来、理由も見出せないままに気に掛っていた四人目の適格者。そこに灯火を齎してくれたのは奇しくも鈴原トウジその人だった。


 恐いの?
 恐れているの?
 そう。恐れているの……私が? 何を?
 傷つくのを。誰が?
 鈴原君? それとも…。
 そう、碇くんが。……碇くんが、碇くんの心が傷つくことが。
 どうして……碇くんが傷つくの?
 鈴原君は、碇くんのトモダチだから、親友といわれるヒトだから。
 どうして……碇くんが傷つくの?
 トモダチが戦いに巻き込まれるから。
 どうして……碇くんが傷つくの?
 碇くんが守ろうとしているトモダチが戦いに……。

 ループ状に囚われた思考の内奥で、事実を合理的に処理出来なくなりつつある不全状態にレイは戸惑いを隠せない。その意味さえまだ知らない溜め息をそっと吐いた。



 松代第2実験場。参号機の起動実験を二時間後に控え、慌ただしさがピークを迎えた管制室内の人影は濃い。
 様々な電子機器が唸りを上げ膨大なデータをディスプレイに走らせている。職員の靴音と声が交錯する中、ミサトはいつものように背中を壁面に預けていた。腕を組みモニター越しにきっかり参号機を見据える瞳には、見た事の無い底光りを沈ませている。

「ミサト」
「…何、リツコ?」声の方に顔を向けると、端末の前で鷹揚にマグカップを口に運ぶリツコがいた。その表情からは何ら感慨めいたものを読み取る事は出来ない。
「彼、来たわね」
「……そうね」
「まあ、心配には及ばないわ。基礎データと引継ぎ書を見る限り、既に実戦に耐えるレベルにまで仕上がっているもの。今回の起動実験と接続試験レベルなら懸案事項さえ見つけることは出来ないわ」
「そう願いたいもんだわ」
「……………」
「………ところで、思ったより第1支部から職員を引っ張ってきたのね」普段見慣れない米国人職員を見遣って、今更ながらその数の多さに気が付いた。どうりで息苦しいわけだ。
「エヴァ素体開発部門にいた職員は根こそぎ引っ張ってきたらしいわ。調達できる限りの対人要撃兵器と共にね。大したものだわね。ウチの総務は」
「楠三佐が行ってんだもんね。でも、マリイ…マリイは? ……テストパイロットまでは引けないか」
「そう、マリイは本部には来なかった。第1支部に居場所席を失った彼女はベルリンに発ったわ」
「ベルリン? 第3支部に――」

 ふたりの会話にブレイクをかけたのはミサトの携帯端末だった。ジャケットの内ポケットから素早く取り出し、ディスプレイに映った見慣れない番号に小首を傾げながら受信ボタンを押した。

「はい、葛城………え、鈴原君?」



「あ、ミサトさんですか? 忙しくしてはるときにエライすんません」

 鈴原トウジは、管制室から仮設ケージへと通じる専用シャトルの中にいた。濃緑のプラグスーツに身を包み、携帯端末片手にその目はシャトルの窓越しに外界を望んでいた。
 ――― 鈴原君? どうかしたの? 何かあったの?
「いや、ミサトさんにゆうときたい事がありまして」
 ――― どうしたの? 何か気になる事があるの?
「なんや改まったら、こっ恥ずかしいんですけど、お礼だけ言わして貰いたいんですわ」
 ――― お礼、って?
「……ワイ…これまでずっとシンジが苦しんでんのを、傍で見てることしか出来へんかった。傍観してることしか出来へんかったんです」
 ――― ………。
「妹のこともありましたよって、なんや最初はけったいな、いけすかん奴や思てましたけど、何の事はあらへん…あいつは自分の居場所を探しあぐねてもがいてただけやったんですわ。どんないきさつでエヴァに乗るようになったかは知れへんけど」
 ――― ……そう。
「ほんでもここでみんなに出会うて、将来のことを考え始めてるシンジがおりました。早うこの戦いを終わらして、普通にみんなと暮らせる世界が来るんを望んでるシンジがおりました。そんな中でですわ、あんな事件が起こってもて、シンジの心は壊れ始めてもて……」
 ――― ………。
「……ワイ、堪えきれへんかったんです。なんでワイは地中のシェルターで祈っとる事しかでけへんのか、と思いましたんや。正直言うてワイがエヴァに乗ってどれだけ役に立てるか解りません……せやけど同じところでシンジを支えることは出来ると思います。そのチャンスを貰えた事に感謝しとるんです」
 ――― ……鈴原君。……ごめんね。
「ミサトさん、そんなん、謝らんといてください。それに…ワイにも自分の手で守りたい思うヤツがおりますんや。そいつとの未来は自分の手で引き寄せたいと思ってます。これ、ワイの正直な気持ちやよってに」
 ――― そう…そう言ってくれると、正直言って救われるわ。
「そういう事で、ワイ、いまスッキリしとるんですわ。妹もネルフの病院に入れてもろて、あないな立派な設備で診てもらえることになりましたし……これで万が一、ワイに何かあったとしても安心ですわ」
 ――― ダメよ鈴原君、そんな事考えちゃ。戦闘時には、あたし達がネルフの総力を挙げてあなた達をサポートするわ。安心して。そして、絶対に帰ってくるのよ。
「えらいスンマセン。ミサトさんの言う通りですわ。安心しておりますよってに……あ、もうケージに着きますんで、ここらで切らしていただきますわ。ほんじゃ行ってきますんで。忙しいとこ、えらいスンマセンでした」
 ――― いってらっしゃい……頑張ってね、鈴原君。


 おおきにです、と精一杯の朗らかさを詰め込んで電話を切ると、小刻みに震える膝が俄かに視界の中で大きく映し出された。ゆっくり這わせた視線の先で、両の掌が、右手首が、そして全身が、まるで壊れた玩具のように震えていた。殆ど条件反射的に両手で自らの肩を抱いたとき、トウジは血が逆流するほどに魂を揺さぶる恐怖に襲われた。
 な、なあに、大した事あらへん。ただの武者震いっちゅうやつや。なんやこんなもん……これまでシンジが遭うてきた目に比べたら、大した事あらへんわい。なんや……こんなもん……。
 身体を這い上がる恐怖に竦み上がってしまう前にミサトと話をしたかった。今日、この松代第2実験場で満面の笑顔でトウジを迎えてくれたミサト。オリエンテーションでは、およそ戦闘指揮官とは思えない朗らかさでトウジとの接触を図り、少しでもトウジの緊張を解きほぐそうとしてくれた。そして、時折トウジを見つめる悔恨を滲ませた瞳に、今の胸の内をきちんと伝える必要があると思った。震えは止まりそうにない。トウジには、通り過ぎる嵐をやり過す森の小動物のように、身体を縮めることしか出来なかった。プラグスーツの中で腋の下に流れる筈のない汗を感じて頭を上げた時、テーブルの上にぽつんと置かれたランチボックスが目に留まった。

「……イインチョが拵えてくれた弁当。ワイの為に」

 思えば第4の適格者として通知を受けてからこのかた、消え失せた食欲はトウジにまともな食事を許さなかった。一次的欲求さえ置き去りにしてしまったかのように、以来殆ど何も口にしていない。震えの収まらない手で危うげに掴まれたランチボックスは、思った以上の重量感をトウジに齎し、その手に現実感という色を添えた。いつしかトウジは孵化を待つ卵のようにそれを懐深く抱いていた。



 異国の街角に犇めくバーさながらの陽気さに浮かれていた中央統括指揮車内の空気は、技術開発部責任者赤木リツコの冷厳さに研がれた声により引き裂かれた。

「Time to get started. Take up your position, please」
「Y..Yep, Dr.AKAGI. We now proceed to do, sure.....」

 つい数日前に第1支部から部署ごと曳航されてきたエヴァ素体開発技術者たちは、夕立のように降り注いだ緊張感にぎこちない笑顔を撒きながら持ち場に就いた。
 新大陸の住民は何が楽しくてこんなにへらへらしているのか。第3支部とはえらい違いだ。畳みかけるように、より一層高い靴音を響かせるリツコ。

「Is the entry plug available? and ...we would start the entry...all right?」
「Energize LCL now」
「Start the first contact」
「It...it`s..well..all green」
「We may proceed to the 3rd contact...be so kind to set the interactive circuit up!」
「Contact to the A10 nerve....It`s all stable in transit....hi! your turn, KAGA san!」

 リツコが視線を移した先では、マヤの名代として派遣されてきた技術開発部員の加賀ちあきが穴が開くほどモニターを凝視している。起動テストのプロセスでは天王山とも言えるこの局面。更に呪われた米州で開発された曰く付きの機体だという事実に、僅かな綻びも見逃すものかと全身のスケールを総動員してモニターの中を濁流のように弾けるデータを評価していた。ややあって納得したように微かに頷くと、その花びらのような小さな口を開いた。

「Upto absolute border line, 1.5…1.2…1.0…」

 腕を組んだいつもの体勢でモニターの中の参号機を睨み据え続けるミサト。緊張感を編み込んでいく加賀のカウントダウンの向こうで、誰かが固唾を飲んだ。

「0.4…0.3…0.2…0.1…」

「Are about to break――!!」







 次の瞬間のことだった。
 茜一色に染め上げられた世界の中で、この数週間もの間、胸を騒がせてきたものの正体を、その降臨を、そして禁忌なるすべての始まりをミサトは理解した。
 そんなミサトを嘲るように、圧倒的な負の力はそこにあったもの全てを蹂躙した。



 窓いっぱいに穏やかな陽光を孕んだ午後を背景に、静かに流れる学び舎のひととき。時折り校庭に湧く生徒たちの声も遠く、教室の中では教師が黒板に打ちつけるチョークだけがリズムを刻んでいた。そんな学校の日常におけるひとコマは、携帯端末の着信音により造作も無く破られた。
 瞬時にして教室内を包んだ異様な呼び出し音は秘匿回線によるものだ。非常招集。弾かれるように身体を起こしたシンジ、レイそしてアスカ。彼らチルドレンたちの反応は早かった。各自が端末のディスプレイに浮かんだメッセージを素早く読み取り視線を交わす。が、一人顔を強張らせたシンジはその顔をやや俯かせた。小さく舌打ちしたアスカは自分を取り巻く不安いっぱいの眼差しを振り切るように、教壇の上で硬直している教師に向き直った。その瞳に底光りする蒼を湛えて。

「先生。非常召集。ネルフのヘリがここに来るわ」
「わ、分かりました。校庭の生徒たちは直ぐに誘導させます……くれぐれも気をつけて、ください――」

「お願いするわ。シンジ、ファースト! 行っくわよー!」

 ドライアイスを幾層にも詰め込まれたような胸の底。必死に足を動かす事で、シンジは辛うじて身体の中を渦巻く暗い恐怖を押さえ込んでいた。携帯のディスプレイで確認出来た伝言内容はとても簡単なものだった。松代第2実験場で爆発事故発生。当該事故においての死傷者不明。エヴァンゲリオン全機に対し緊急出動命令。チルドレンは学校校庭にて移送ヘリを待て。事は急を要す、以上。
 ……ミサトさん。ミサトさんはどうなったんだろう? 無事なのかな? ミサトさんに何かあったら…僕は、僕は…。ミサトさん……すぐに助けに行くから…だから…だから無事でいてください。……でも……そうだ……なんで…エヴァなんだろう? なんで? ……。
 三人の先頭で風を切る惣流・アスカ・ラングレー。その流麗な姿とは裏腹に釈然としない表情を浮かべていた。エヴァに処理させるという事実。ただの事故では無いということは簡単に理解できる。ネルフ関連施設の爆発とは言え、事故処理レベルでエヴァの出動命令が出される事はまず有り得ない。経験則から飛び出た回答は、戦闘、だという事。それも通常兵器では埒が明かない相手。そう、それは使徒との戦いに他ならない。それは…松代に現れたのだろうか…それも唐突に? そして、起動実験中の参号機に攻撃を仕掛けてきたというのか? ミサト、そしてリツコは生きているのだろうか…そしてあの熱血バカは。ジャージの少年に被さるように脳裏を過った一人の少女のイメージ。小さくかぶりを振ると、アスカは改めて前方に焦点を合わせた。今は考え過ぎてはだめだ。目の前の事実に対して自分が出来る事を、全力でやるだけだ。
 そんな二人のしんがりで軽い足音を鳴らしているレイ。物憂げにやや俯かせていたその眼差しを、時おりシンジの背中へと向けていた。嘗て見せたことも無い切なさを湛えて。



 身体に伝わる振動が心地良い。
 ゴトンゴトンという音を乗り越えるごとに深まっていく緋色。
 水面に滴る紅いインクのような広がりを見せたイメージに、堪らず薄眼を開けて応えようとした。
 薄暮。無限軌道をひた走る汽車の中。
 淀んだ空気の中に浮かんだ旧式のシートは、ぼんやりとビロードの輝きを所々に湛えている。
 くすんだオリーブの色彩はメルヘンチックなイメージを際立たせ、いまにも銀河に駆け上がっていくような思いに囚われる。
 追い越された踏切がその警笛を遥か後方に消し去られた頃、吊革に揺られていた少年は車窓を茫然と眺める自分に追いついた。
 ゆっくりと背を伸ばし頭を揺すった。

「……なんで…ワイ、いつのまにこんなんに乗っとるんや……」

 鉛を詰めこまれたような頭をぐるりと巡らせた。しかし、他に乗客は見当たらない。
 暮色を一杯に孕んだ窓にふたたび顔を映し出したとき、森の中から漏れ聞こえる囃子のように、何か囁き声のようなものが耳に届いた。

「……なんや…シンジと綾波やないか……」

 隣接する車両で、向かい合ったシンジとレイが列車の揺れに身体を委ねている。
 二人は二言三言、言葉を交わしていたが、母がわが子に言い聞かせるような口調のレイにシンジが声のトーンを上げ始めた。

「……なに口喧嘩しとんねや…あのふたり……」

 とうとう頭を抱えこんでしまったシンジ。

「……あかんやないか……仲良う、やっていかんと……」

 シンジを黙って見つめるレイに表情は見えない。
 やがてゆっくり立ち上がると、そのたおやかな肢体をトウジに向けた。

「……なんちゅうても……シンジに綾波、自分らは……」

 めくるめく夕間暮れの茜。
 昏れ堕ちゆく刹那、その姿を黒いおさげ髪の少女に変えた。


「…………イインチョ」


 切なげな表情を湛え少年を見つめていた少女は、すこし頬を緩めた。



「………すまんかったなぁ」



 少女はやや俯かせていた顔を上げると、ゆっくりかぶりを振った。



「……それでもワイは、な」



 瞳に湛えた気持ちそのままに。







「……これで、ええ」








「………これで、よかったんや」















 緋に染め抜かれた世界に降り立つ光の中で、ただ慈しむように視線を重ね合わせるふたり。
 歩みを忘れた時がふたたび刻み始めたように、少女はその白きたおやかな腕を少年につと伸ばした。
 少女の白魚のような指先で何かが揺れている。
 少年が凝らした視界に浮かんできたものは、パッチワークで出来たフィギュアだった。
 眼の前で像を結んだそれを少年が掌で受け取るのを待っていたかのように、少女のイメージがふわりと揺れた。
 慌てて抱きとめようとした少年の腕の中で、少女は恥じらうような微笑を浮かべると、儀式の終焉を受け入れるかのように目を閉じた。
 途端、風に浚われた桜の花弁のように茜に四散する少女の姿。
 空を抱くように交差する少年の腕。バランスを崩して大地にその身を投げ出した。
 終息の息吹のように瞬く少女の断片が、散り落ち大地に吸い込まれていく。
 その最期の欠片を拾い上げようと、必死に手を伸ばしたその少年の想い虚しく、
 最後の一片も微かな光の残像を残して大地へと姿を消した。
 しばし魯鈍な表情で大地に残滓を求め、目を彷徨わせる少年。
 片肘をついて上半身を起こしたとき、天空を走る哄笑のような雷鳴が大地を揺るがした。
 あまねく世界を貫く雷光に、今世の汀から足を踏み外したと思った次の瞬間、
 少年の意識は薄暗いエントリープラグの天蓋を浮遊していた。
 回流を忘れたLCLの中、混濁した意識の表層を丁重に捲り上げながら、その中にいる理由を思い出そうとした。
 鉛より重い頭を抱え込むと、等間隔で大地を割るような激震に揺れる脳を覚えた。
 殆ど条件反射的に、操縦桿から手を離し頭を押さえようとしたとき、少年は自らの手を見て目を剥いた。

「……な、なんやねん、これは?」

 慌ててもう一方の手を操縦桿から引き剥がして、目の前に据えるや、少年はシャックリをするような悲鳴を上げた。掌には無数のミミズ腫れのような脈絡が奇怪な文様を描き、蠢いていた。それでも目の錯覚と疑わない少年を嘲笑うように、それらは脈動を激しくし、時におかしな隆起物を作ってはプラグスーツを風船のように膨らませた。今度こそ絶叫を迸らせた少年は、本能の為すがままに立ち上がろうとした。しかし、根が生えたような臀部は微動だにせず、伸びあがった上半身は、その反動で激しくシートの背面に叩きつけられた。呻き声が涎と共に口の端から糸を曳く。それでも緩慢に上半身を起こした少年は、都心に迷い込んだ野生動物さながらの表情を浮かべ、掃くようにこうべを巡らせた。漸く覚醒しつつある脳の命令に従い、そろりと自身の身体に視線を落とした少年は、二度目の絶叫をエントリープラグの中に轟かせた。



 発令所では、メインモニターに映し出された画像に、目に見えない巨人が吐いたような呻き声が流れた。すべての職員がほぼ例外なく顔を強張らせている。松代第2実験場を消失させたN2爆雷にも匹敵する大爆発。それも爆心地にいた参号機はダメージを追う事も無く、単独で本部に向って進行している。実験中の異常事態により本部に帰還、などとおめでたい想像を巡らせている職員などひとりも存在しなかった。なにより夕陽を背負うように本部へと一直線に歩を進める様相に、背筋に氷柱を突っ込まれたような身震いが止まらないのだ。
 あれはエヴァだ。人智を超越した嘗て無い敵、使徒との戦いのために、人類が禁断のトビラを開いてまで造った使徒と同等の力を持つ決戦兵器なのだ。そして、今その刃は相違なく創造主たる人類に向けられている。発令所にいる殆どの職員は、根源的な恐怖をその魂で感じ取っていた。

「やはりこれか」

 冬月は不穏と不安が入り混じり混沌とした発令所全体に頭を巡らせ、溜息を吐いた。その斜め前では、総司令碇ゲンドウがいつもの姿勢を崩さず、スクリーンに厳しい視線を注ぎ込んでいた。

「活動停止信号を発信。エントリープラグ強制射出」
「はい!」緊張に裏返るマヤの声に被さるように、キーを叩き込むノイズが発令所に響く。「駄目です! 停止信号およびプラグ強制コード認識しません!」
「パイロットは?」
「呼吸、心拍の反応は有りますが…恐らく……」
「……そうか」サングラスの奥で静かに眼を閉じたゲンドウ。しばらくして開かれた漆黒の双眸には決然とした光が湛えられていた。「エヴァンゲリオン参号機は現時刻をもって破棄。目標を第13使徒と識別する」
「し、しかし!!」
「予定通り野辺山で戦線を展開。目標を撃破しろ」



 ぐうう、と喉の奥から蛙を潰したような音が吐き出された。少年は漸く自分に何が起こっているのかを理解しつつあった。何かが、身体の中に侵入している。考えられない。考えたくもないが、身体中のあらゆる脈絡を通ってカテーテルのような触手が自分の身体を侵している。内臓を内側からざらりとしたようなもので撫でつけられたような感覚が走るや、直接心臓を握られたような恐怖が少年の身体を貫いた。身体の隅々から幻聴のように沸き立つ得体の知れない声に、自らの絶叫と共に少年の魂は激しく揺さぶられた。突如エントリープラグの中で逆転する大地。少年の意識は天空へと真っ逆さまに堕ちていった。大地を裂いたような衝撃音がその意識を再び現世に引き戻したとき、霞んだモニター越しにうっすらと開けた視界に、紅い機体が映し出されていた。

「……そ、そ惣流、なんか?」

 不自然な体勢で大地にその紅き肢体を投げ出し、

「……ワ、ワイが、か?」

 体躯の至る所から細い煙が天に呼ばれた陽炎のように糸を曳いていた。

「そ、惣流…………ワイが、このワイが、やってもたんか……」

 茫漠とした頭を抱え、口の端から絞られた喘ぎ声は嗚咽にも聞こえた。目前の光景が後方に流れ始めると、大地を割るような地響きが再び少年の内臓を揺らし始めた。
 突如、滝のような警告音が頭上から降り注いだが、少年はただ自らの頭を抱えるようにして俯いていた。ロックアラート。酷く混濁した意識の中で、辛うじて自分が攻撃の対象となっていることを、少年は遠い別世界での出来事のように感じていた。わずかに上げた瞳に入ったモニターに、ライフルを構える紺碧の機体が映し出されていた。

「……あ、綾波」

 少年は縋るような眼をモニター越しに零号機に留め、やがて到達する衝撃を待った。刹那、プラグ内を跋扈するアラート音が禍々しい金属音に変ると、次いで少年の身体の中に、ぬらりと流れ込む敵意を感じた。

「な、なんで撃たへんの、や……あや――」

 参号機は上空高く舞っていた。落下エネルギーの全てを零号機に伝えるように着地すると、倒れ伏した零号機を後方から組伏せた。

「!」

 鳴動止んで、しばしの沈黙の後、少年の中に何かが流れ込んできた。

「……お、おんどれ……あ、綾波を」

 混濁に攪拌された少年の脳裏に微かに浮かび上がったひとつの光景。流れ込む紙縒りのように切なげな感覚に、屋上であの日レイと交わした会話が脳裏に甦る。少年は両の目を見開いた。

「うわああああああーヤめろォォォー」

 叫び声が収まらないうちに響いた爆裂音に併せて、その感覚の流入は止まった。ふたたびリズムを取り戻した地響きの中、行き場を失った子供のように、少年は総てを拒絶するように頭を両手で抱えていた。異形のものへと形を変えつつあるその手で。

「……シ、シンジーーカンニン、や、で……わ、ワイ」

 突如として大地を裂く音と震動が停止した。まるで電池が切れたように、それまで動的であったものがゆっくりと空気中に溶かれいく。
 少年がゆっくり見上げたモニターのなかで、紫色の巨人が魂の抜けた抜き身のような風体を晒していた。

「……シ、シンジ」

 少年が辛うじて親友の名前を喉の奥から絞り出した次の瞬間、その意識は空に吸い込まれていった。凄まじいまでの衝撃。全身の経絡を伝って敵意が毀れるほどに滴り、その触手は今や少年の脳にまで到達しようとしていた。もはや呻吟さえ自分のものではない。朧に浮遊する意識の下で、少年はそれでも霞んだ目を必死に巡らせ捉えていた。古い8ミリ映画のようなフレームの内側で、ノーガードで参号機の一方的な攻撃に晒されている初号機の姿を。生命の灯を断たれたように佇立するだけの巨人からは、辛うじてパイロットの苦しみだけが滲み出ている気がした。

「……あかん……シン、ジ」

 自爆装置。ブリーフィングで念のためにとレクチャー受けた非常措置の一つ。そして最期の選択肢。細る意識が消えゆくまでに。まだ人間としの分別を保っている、ヒトとして命の灯ある内に。

 しかし、その意図は、自爆装置のレバーが格納されたシートに縫い付けられたようにピクリとも動かない身体を前に脆くも崩れ去った。既に少年のものとは判別できないほどに変貌を遂げたその体躯は、脳からの命令を受け付けなかったのかもしれない。

「……わい…じ、ジバクもも、でけ、でけへんのか」

 締め上げられる初号機の頸部。

「……そ、それだけは、アカンのや……」

 特殊装甲板が撓む音が不協和音となって身体中を駆け巡る。

「……お願い、や……ゼッタイにアカンのや…し、シンジジジ……わわいの」

 少年の体躯の末端にまで生体融合を進めた使徒の触手は、今まさに初号機の頸骨を砕こうと、その暗い想念の鎌首をもたげた。ふつふつと沸かしたてた敵意を添えて。

「し、シンジーーー!」


 それは突然のことだった。肺の中の空気をすべて吐き出したように四肢をでたらめに投げ出していた初号機は、暗闇に沈ませていた眼孔に鋭い光を迸らせるや、ロボットアームのような動きで頸部に絡んだ参号機の腕首を捩じり上げた。参号機の腕が特殊装甲ごと拉げる音が轟く。突如身体を縦横に走った激痛に、痙攣を起こしたような呻き声を漏らした少年。しかし、その呻吟もかなりの部分で物理的融合が進んだ身体の内奥から滲み出る禍々しさに満ちた声に飲まれていった。


 ひとつになる


     ヒトツニナル


   ひとつに


       ワイハ


     なるんか


          ワイハ


    わいは


            ヒトツニナルンカ


      ひとつに


                モウジキ、ヒトツニ





 ……いやや。


 ……シンジ…何が恐ろしいかっちゅうたらな。いま、ごっつう気持ちがええんや……もう、なんでもどうでもええ位にやな………おそ恐ろしい……わわいは。

 締め上げられていた参号機の頸骨が粉砕されると、大地を裂くような悲鳴が緋色に黄昏る山間に轟いた。粗大ゴミのように放り投げられると、参号機は突然死したように四肢をおかしな角度に曲げ、その巨躯を大地にだらしなく投げ出した。間髪を入れずに振り下ろされる初号機の鉈と化した鉄拳に頭蓋は大きく穿たれた。四散する脳漿。使徒の細胞はおかしな痙攣に身を躍らせながらも、儀式の手仕舞いを行う独立した生き物のように少年との融合を粛々と進めていく。
 少年は眼を見開いているだけで何も反応してはいなかった。初号機による圧倒的な蹂躙に、ときおり電極パッドを押しつけられたようにシートの上で身を弾ませるだけだった。



 ……シンジ…早よ、ワイ…ワイを殺してくれんか………ワイがまだワイでいるうちに。ヒトとして死なせてくれんか――。





 刹那のフラッシュバック。
 虚空に色の失せた視線を投げ出していた少年の眼前に、零れそうなほどに瞬く星を湛える夜空が広がった。
 流麗な尾を曳く星屑が、想いを孕んだ一筋の光となって天空を横断した。



……鈴原…くん
……なんや?

ゆっくりとトウジの前に差し出されたヒカリの小指。
満天の星の微かな光に照らされ、白魚のように輝いているそれに、トウジは躊躇なく自分の小指を絡ませた。

瞬間、星の瞬きが止まった。




 少年は薄暗いエントリープラグの天蓋に向けて右手を伸ばしていた。

「……ワ、ワイ」

 とうに異形の肉塊へと変貌を遂げているその先端部分は、それでも小指を伸ばしているようにも見えた。

「…………約束…ま、まもれ…へん」



 エントリープラグが後方に引っ張られるような激しいGに、身体を人形のように躍らせた少年。鋼鉄が擦れる音が悲鳴のように尾を曳いた。

 天へと漂わせていた少年の指に、白く輝く細い指が絡んでいた。

 ブラグの側面に小さな亀裂が走った。ビスが弾け、プラグの中で踊る。

 しっかりと結ばれた指のシルエットの向こうで、頬を朱に染める少女がいた。

 炸裂音と共にプラグが大きく捻じれ、ハッチが飛んだ。逃げるように吹き出すLCL。

 穏やかに流れる夏の午後。湖に浮かぶボートの上。広げるお弁当。

 ハッチを喪った開口部から剣のように差し込む夕間暮れの斜陽。

 満面の笑みでお弁当を掻きこむジャージの少年。

 鋼鉄が悲鳴を上げ、内壁の亀裂が大きく口を開けた。

 喉を詰まらせた少年に、微笑みながらお茶を差し出すおさげ髪の少女。















 この世で最期になるであろう涙が少年の頬を暖かく濡らした。







「…………わい」


 エントリープラグの大きく裂けた側面から、燃えるような紅に包まれた世界が大きく開けた。


「…………イインチョに……忘れられとう、ない」


 涙にぼやけた視界を通して、少年はその少女の姿を見たような気がした。


「……わい」


 その少女は、少年が焦がれるほど会いたかった笑顔を確かに浮かべていた。











 …………ヒカリのこと。

















 ………忘れたく…あらへん。















 世界を二分するような耳を聾する轟音が、呟くような少年の最期の言葉を飲み込んだ。

 少年の想いと願いは、落日に染め抜かれた世界の中、朝まだきに咲いたうたかたのように儚く散っていった。



















To be continued





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