一人目は笑わないWritten by 双子座
2. 「!」 シンジは目を覚ました。瞬間、自分がどこにいるのか分からない。 溺れている時のような恐慌に陥るが、ぼやけた視点が急速に回復し、自分がどうやら病室にい るようだと分かると、落ち着きを取り戻して深いため息をつく。 ――何でこんなところに……。 シンジは記憶を探る。 そうだ。人造兵器とやらに乗せられて巨大な化け物に一方的にやられて……そこからは記憶に なかった。 とにかく、酷い目にあったことは間違いない。そうでなかったら病院にはいない。 「知らない、天井だ……って、何だ?」 何か白いものが天井に貼られている。あれは……紙? 紙には字が書いてある。 目を凝らすと、 役立たず と書かれてあった。 「なっ……何だよ、これ」 シンジは呆然とした。 「何でこんな目にあって……わけが分からないよ」 横を向いて頭を抱える。 「何だよこれ……ひどいよ……」 □
レイはシンジの様子を想像して、くっくっと喉の奥で鳩のように笑った。さぞ驚いて、不安に なったことだろう。 天井に貼った(貼らせた)紙きれは、レイの仕業だった。 特に深い意味はない。単なる悪戯だった。他人を不安の谷底に陥れるのは、もはやレイの本能 といえるほどまで身に着いている。その本能に従ったまでだった。 とはいえ、この種の悪戯はほどほどに留めておかなくてはならない。何しろシンジは他のネル フの職員たちと違って、重要な存在――エヴァのパイロットなのだから。 レイは手に持った手帳をぱらぱらとめくった。最新のページには碇シンジの名前と、これまで の生い立ち等、基本的なデータが書いてある。 ああいうタイプは難しい――とレイは思う。碇シンジという少年には、あまり手酷く扱うとぽ きりと折れそうな印象がある。 もっとも、そこが面白いところでもあった。 簡単すぎるゲームはつまらないものだ。 弱みを握って脅せば言いなりになる人間ばかりではない。むしろそういう人間のほうが少ない だろう。 鞭だけではダメ。飴も与えなければ。 飴と鞭――人間を操る基本中の基本。 シンジの記録を見ると、母親はエヴァの実験中に死亡。幼くして他人の家に預けられたとある。 ほとんど捨てられたようなものだ。 シンジの人格形成に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。ゲンドウとの会話もそれを 証明している。 レイはボールペンを手にとって、シンジのページに「父親との関係」と書いた。これは使える。 直感だった。レイの直感はほとんど外れた試しがない。とりわけ、他人の弱みに関する点では。 それから初号機に乗り込んだ際のシンジの行動を書きはじめた。誰のどういう言葉にどういう 反応を示したのか。どんな表情だったのか。可能な限り、詳細に書き連ねていく。 ここまでするのはゲンドウ以来、久しぶりだった。 人の気配を感じ、顔を上げると、蝶ネクタイに黒ベストのウェイターが腰を屈めて注文を聞く 姿勢をとっていた。 「失礼します。ご注文はいつもので構いませんか?」 レイは黙ってうなずいた。かしこまりました、と言ってウェイターが下がる。 手帳に目を戻す。 ふと、今ごろシンジは誰と食事を摂っているのだろうと思った。 もちろん、ミサトとに決まっていた。レイがそうさせたのだから。 □
シンジと同居したらどうかとレイはミサトに提案したのだった。 もっとも、形としては提案だが、実際は強制のようなものだ。 当初はシンジは一人で暮らすという話だった。 しかし、世界を救おうという中学生を一人暮らしさせるなど、言語道断である。 体調や精神面の管理はどうするのか。誰かが一緒に住まなければならないのは明らかだった。 本当はゲンドウと同居のほうがレイは対応しやすいのだが、シンジが拒否をしたという。 何年ぶりかの対面にもかかわらず、ああいう会話を交わすのを見ると、それも当然という気が する。 上手くいってないのだろう。 それならミサトがベターだとレイは判断したのだった。 しかしミサトは気が進まない様子だった。 「でもね〜。いくら中学生でも赤の他人の男の子と同居するってのは……」 ミサトは渋る。 「大丈夫、あなたみたいなオバサンには興味ないと思う」 「オバサン……」 もはやレイに何を言っても無駄だと観念してるものの、額に青筋が立ってしまうのはやむを得 ない。 「あっ、あのねー。これでも三十前なんですけど。それにあんたと違ってナイスバディだし」 中学生と張り合うなど馬鹿げていると思いながらも、つい口にしてしまうミサトであった。 「ま、もしそういう関係になってもそれはそれでいいんじゃないかしら。いえ、むしろ好都合 かも」 「……は?」 ――この子は一体何を言ってるのだろう。 ミサトはぽかんと口を開けてレイの目を覗き込んだ。 「身体で言うことを聞くなら安いものでしょ?」と、レイはすまし顔で答えた。 「あ、あ、あ、あんたね。自分が何言ってるか分かってるの!?」 ミサトは仰天した。 いつの時代でも子供は大人が思うよりも成熟してるものだが、レイのような、いかにも儚げな 美少女の口から出るとやはり効果が段違いである。 「世界の命運がかかってるのよ。身体を張るのは私たちだけなの?」 「そ、そういう問題じゃないでしょ! っていうか身体を張るってのはそういう意味じゃ……」 「あなたこそコトの重要性を分かってるの、葛城さん。最優先は何? 使徒の殲滅。使徒の殲 滅に一番大切なものは? 私たちパイロットとエヴァ。あなたは私と碇君を最優先にしなけれ ばならないのよ」 「まぁ……それはそうだけど……だからって身体を張るとか……」 「司令と碇君の会話、聞いてどう思った?」 レイはミサトの困惑に構わずに会話を進める。 「ん……まぁ、普通の親子の会話じゃあないわね」 「あの二人が一緒に住んでうまくやっていけると思う?」 「それは……やってみないと……分からないんじゃないかしら」 空気が抜けた風船のように声が小さくなっていくのが自分でも分かる。 「やってみて、碇君が帰るとなったらどうするの?」 「どう……しましょ?」 「どうしましょで済まないのは分かるわよね。一番都合がいいのはあなたなのよ、葛城さん」 「うーん。やっぱりそうかしら、ね……」 ミサトは考え込んだ。実を言うと、ミサトもシンジと暮らすことを考えないでもなかったのだ。 しかし自分から同居を申し込むとなると、さすがのミサトでも他人の目が気になった。いくら 中学生とはいえ、男の子なのだ。 あと一押しと判断したレイはとっておきを使うことにした。 「テープ」 「う゛っ」 ミサトの顔色が変わる。具体的に言えば、顔から血の気が引いて青ざめたのである。 「いいの? まかり間違ってあのテープが流出したらそれはそれはもう大変なことに」 「わーっ、わーっ!」 ミサトは叫び声を上げつつ、周囲を見回して誰もいないことを確認した。 「卑怯よ、レイ! 脅迫する気!?」 「卑怯とか脅迫とか言う前に、理屈が通っているのはどっち? 私、それともあなた?」 ミサトはぐっと喉を鳴らすと、がっくりと肩を落とした。 「……分かったわ」 長く深いため息を白旗代わりに、ミサトは降参した。 満足げに頷くレイ。本当はメガネのオペレーターにコピーを渡してあるのだが(受け取ったこ とでメガネは弱みを握られたのである)、もちろんそれは秘密だ。 この手は多用できないし、本当に相手が嫌がっている時には基本的に使えない。 ミサトが受け入れたということは、ミサト自身、思うところがあったのだろう。レイは背中を 押しただけのことだった。――かなり乱暴に、ではあるが。 「さすが、責任感あるわね」 レイは心にもないお世辞を言った。 「あんた、本心で言ってるの?」 「言ってない。言うと思う?」 「……もういいわ」 ミサトは天を仰ぎながらその場を立ち去っていった。 □
レイはミサトとの会話を思い出して、くすくすと笑う。 ――場所は市内の高級ステーキ専門店。 レイは一番奥のテーブルに一人で座り、食事を摂るところだった。 ゲンドウに一緒に食事をしようと誘われていたのだが、断った。そもそも食事は一人でしたい 上に、あんな陰気な男とテーブルを共にするのは真っ平だった。 ゲンドウの、断られたときの俯き加減の顔を思い浮かべ、レイは唇の両端を吊り上げる。 他人が自分の行動のせいで悲しい想いをすると、いつも楽しい気分になるのだ。 とはいえ、少しは機嫌をとってやらねばならない。あの男が自分に何を見ているのか知らない が、利用できるものは最大限に利用するのがレイの信条だった。 ウェイターの姿を視界の隅に認めると、手帳をぱたんと閉じてカバンにしまう。 ウェイターが恭しい仕草でテーブルに皿を置く。 レイは、旨そうな音を立てている肉を、慣れた手つきで切りはじめた。 最高級の米沢牛のシャトーブリアンを、血の滴るようなブルー・レアで食べるのがレイの好み だった。 ブルー・レアとはレアよりも生に近い焼き方で、店員に教えてもらって以来、レイの好みにな っている。 まさに自分のためにあるような焼き方だと思う。味付けは荒塩とレモンのみ。これが一番肉の 旨みを引き出すのだ。 常連はレイの姿に慣れたもので、ことさら見つめたりはしないのだが、新規、あるいは新規に 近い客は不審げにちらちらレイの様子を窺っている。 それはそうだろう。このような高級店に制服姿の中学生が一人で食事をするなど、気にならな いほうがおかしい。 もっともレイは他人の目など一切気にせずに食事を続けている。他人の目など生まれてこのか た気にしたことがなかった。 レイにとって、ヒトとは、今現在自分の言うなりになっているか、将来自分の言うなりになる かの二種類しかいない。 わざわざこちらから気にかけるような存在ではないのだった。 ステーキを食べ終わると、半分固形物のようなとびきり濃いブラック・コーヒーを、ゆっくり と時間をかけて飲み干した。 それから支払い金額に制限がないカードで清算し、店員のありがとうございましたを背に店を 出る。 むっとする熱気がレイを包んだ。今日は夜になっても湿度が高く、蒸し暑さが残ったままだっ た。もっともレイは暑さをさほど感じない。ほとんど汗もかかないのだ。 異常なことだが、レイは不思議に思ったことはなかった。それで不都合はなく、不都合がない ことにこだわる性格ではない。 雲のせいで星が見えなかった。レイには星を見て物思いに耽るような感傷癖はないので、星が 見えようが見えまいがどうでもいいことだったが。 自宅に向かって歩き出す。いつもは車を待たせておくのだが、今日はそういう気分ではなかっ た。 自分の足で、歩いて帰りたい。 どうやら高揚しているらしい。使徒との戦いのせいだ。 使徒を虐殺したときの快感を思い出して、レイはぞくっと身を震わせた。 ……レイは使徒の腕を掴んで、思い切り引きちぎった。腕から血のような液体が迸り出る。 それからはやりたい放題だった。もう片方の腕を握りつぶし、両足をナイフで切断してやった。 レイには、使徒の胴体にある、赤い球体を破壊すればいいのだと何故か分かっていた。 分かっていたから、敢えて狙わなかった。 馬乗りになり、ナイフで使徒の身体を突きまくる。 レイは、笑っていた。戦闘がはじまってから、ずっと笑っていたのだ。 何と楽しいことなのか。 こんな楽しい思いをするのは、生まれて初めてだった。 他人の弱みを握って脅迫するなど、これに比べたら塵芥に等しい。 ――死なないでね。まだ楽しみたいから。 しかし、戦闘の最中にケーブルが切れていて、内部電源に余裕がなくなったので、仕方なくコ アを破壊した。本当ならもっと遊びたかったところだ。 使徒は最期にレイを道連れにと自爆したが、まったくの無駄に終わった。レイの強烈なATフィ ールドに阻まれて、かすり傷さえつけることが出来なかった。 発令所に帰還すると、押し殺したどよめきに包まれた。 レイがゆっくりと見回すと、目が合った職員は青ざめた表情で目を伏せていく。 人類の未来を決する戦闘に勝った英雄を見る目ではなかった。 女性のオペレーターが、レイが前を通るときに「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。 凍りついた雰囲気の中、ミサトが「ご苦労様。ゆっくり休んでちょうだい」とねぎらいの言葉 をかけた。 レイはそれに返事をすることなく歩き去った……。 夜道を歩きながら、レイは思う。 あの化物に感情はあるのだろうか。怯えたのだろうか。恐怖を感じたのだろうか。 ――あればいいのに。感情や痛みが。 レイは心からそう思った。 ――あれば、いいのに。 何も感じない化物を嬲り殺しても面白みなど何もない。それでは仕事と同じだ。 レイは、使徒に、激烈な痛みを感じて欲しかった。 狂ったような憤怒をぶつけて欲しかった。 どうしても敵わぬ相手を目の前にして、尽きることの無い絶望を感じて欲しかった。 ――どっちでもいいか。楽しいから。 そう。使徒を倒すのはとても楽しかった。 これで終わりではない。これからも機会はある。そのたびに、あのぞくぞくするような快感が 味わえるのだ。 小物をいびり倒して退屈を紛らわす日常とは、これでおさらばだった。 ――楽しい……。 レイは身体を震わせた。 「あはっ」 容器いっぱいに満たされた水が、なお注がれて縁から零れ落ちるように、ふいに、笑いが漏れ る。 「あはは」 笑いながら両手を広げ、その場でくるくる回る。 「あははははは!」 髪を振り乱し、白い喉をのけぞらせて、レイは狂った花のように笑った。 夜の熱をじっとりとふくんだ闇は、レイの哄笑に彩られ、さらにその色を濃くしていくように 思われた。 |