一人目は笑わない

Written by 双子座   


3.

レイは頬杖をついて、つまらなそうに外を見ていた。実際つまらないことこの上ない。
普段は学校になど気が向いた時――つまりクラスメイトをいびりたくなった時にしか来ないの
だが、碇シンジの転入以来、毎日登校するようにしている。シンジを探るためだ。
包帯姿になってからのほうが登校する頻度が上がるというのもおかしな話だが、誰も気にする
様子もない。
いや、本当は気になるのだが、気にしないフリをしていると言ったほうが正確だろう。
レイに余計な関わり合いを持とうとすると痛い目に遭うのが、今までの経験上、分かっている
からだ。
……それにしても、シンジほど監視のしがいのない人物も珍しい。それがレイの退屈の原因だ
った。
誰と話すわけでもなく、休み時間になるとイヤホンをつけて音楽を聴いているだけ。
たまに視線を向けてはくるものの、レイにすら話しかけてこない。
少し当てが外れた感があった。どうやら想像以上に内に篭る性格らしい。やっかいなことにな
りそうだった。
……突然、教室がどっと沸いた。騒ぎの中心に視線を向けると、シンジの回りに人だかりが出
来ていた。
会話を聞いてみると、シンジがエヴァのパイロットだと分かっての騒ぎのようだった。
――馬鹿?
レイは心持ち眉をひそめてシンジを見る。今、パイロットであることを明かして何の得がある
のだろう?
どうやら後先を考えて行動するタイプではないようだった。もっとも後先を考えて行動するな
らここにはいないだろう。とっくの昔に逃げ出してるか、最初から来ていない。
「ちょっと!? みんな、最後くらいちゃんと……」
――こっちも馬鹿ね。
顔を真っ赤にして怒る洞木ヒカリを、レイは鼻で笑った。

長めのチャイムが昼休みを告げた。
「転校生。お前にちょっと話がある。顔貸せや」
関西弁を喋るジャージの男と、メガネをかけた小柄な男が(レイは同級生の名前など覚えない)、
シンジを連れて教室の外に出て行く。
レイはひっそりと席を立つと、距離をおいて二人の後を尾けていった。
普段から妖しい雰囲気を醸し出しているレイが意識して気配を消すと、まるで本当の幽鬼のよ
うだ。通りすがりの生徒がぎょっとした顔をする。
校舎の裏に来た二人とシンジを、見つからないように物陰から観察する。
と――トウジがなにやらシンジに声をかけた後、いきなりシンジを殴りつけたではないか。
メガネが倒れたシンジに何やら声をかけている。
レイは舌打ちすると駆け寄って、シンジとトウジの間に立ちふさがった。
「ちょっと待って」
トウジは驚いた顔を見せる。どう考えてもレイはこの騒ぎを止めそうにない人物だったからだ。
むしろ殺人事件の最中でも無視して歩いていくタイプである。
「何やねん、綾波。お前には関係のないこっちゃ」
「何でこういうことするの」
「お前には……まぁええわ。お前もさっき知ったやろ? こいつがあのロボットのパイロット
や言うやないか。
この間の戦いでワシの妹が大怪我をした。もっと慎重に戦っていれば妹は怪我をせずに済んだ
んや。だから、ワシはこいつを殴らなあかん」
それ見たことか、とレイは胸の中で毒づいた。調子に乗って余計なことを言うからこうなる。
「関係、あるわ。私もパイロットだもの」
仕方ない。気乗りはしないがバラすことにする。
「何やて!」
トウジは驚きのあまり呼吸が止まりそうになった。ケンスケも口をあんぐり開けてレイを見て
いる。
「な、何や、お前みたいな女まで乗ってるんか!」
「そうよ」
トウジは、女までパイロットとはどんだけ人材難やねん、と言いかけたが、レイとシンジを交
互に見ると、納得したように頷いた。
シンジがパイロットというのは信じがたいが、レイは容易に信じられる。
レイのように冷静沈着かつ冷血な人間ならパイロットにもなろうというものだ。
「ということは、妹に怪我させたんはお前かも知れん、ちゅうことやな」
「そうかもね。私も殴る?」
レイは思わず笑いそうになった。「お前かも知れん」どころか、怪我をさせたのはまず間違い
なく当のレイなのだ。
「……」
トウジは険しい表情を崩さずに、レイの痛々しい包帯姿を――これは嘘なのだが、トウジには
知る由もない――見る。
「……止めとくわ。ワイは女は殴らんよってな」
ふん、と鼻息をもらすと踵を返して歩き出す。
ケンスケがちらちらと後ろを振り返りながらトウジの後を追った。
「今度はちゃんとまわりをよう見て戦えや!」
トウジの罵声は校舎の壁に跳ね返って、雲一つない青空に吸い込まれていった。

シンジは殴られた場所に手をあてて立ち上がり、制服についた砂をはらった。痛みはあまり感
じなかった。それよりも、やる瀬無さで心が痛かった。
――何で殴られなきゃならないんだろう。自分が望んだことじゃないのに。
このまま消え入りたいくらいだったが、その前に言うべきことがあった。
「綾波」
「何?」
「……助けてくれてありがとう」
シンジはうつむきながら礼を言った。さすがに女の子に助けられるのは恥ずかしく、顔が赤く
染まっている。
「いいの。私の責任でもあるから」
本当は責任などまったく感じていないが、これはシンジを懐柔するための「飴」だとも言えな
い。結果としてはプラスに転びそうな騒動だった。少なくとも教室でじっと座っていられるよ
りはいい。
「でも、嘘をついてまで……」
「え……?」
レイは一瞬、混乱した。
そうだ。シンジには、意識を失っている間に初号機が暴走して使徒を倒したいう説明がなされ
ているはずだった。
いざとなれば初号機が暴走して倒してくれるかも知れないという希望があれば、エヴァに乗っ
て戦う恐怖も少しは和らぐのではという理由からだ。
用意周到なレイは初号機暴走のニセの動画まで作らせたが、シンジが説明の真偽を問うことは
なく、無駄な努力に――もっとも努力したのはネルフの職員だが――終わった。
もしシンジが嘘を暴いたとしても、それはそれで問題はなかった。
シンジの性格を考えると、嘘をつかれたことに対する怒りや不審よりも、大怪我で瀕死の状態
だったレイをエヴァに乗せてしまったという自責の念のほうを感じるはずだ。
感じないようだったら、シンジに余計な負担をかけないために偽動画を作ったとでも言えばい
い。どちらに転んでもレイに損はない話だった。
それにしても――と、自分で仕組んだことではあるが、レイは呆れてしまう。こんな都合のい
い説明で素直に納得するとは、とんだお人よしというべきか。もっともお人よしでもなければ
エヴァには乗らないだろうが。
――いえ。お人よしというより、他人が決めたレールから外れるのが怖いのね。
この性格だと長生きはできないだろう。使徒と戦ううちに、いずれ死ぬ。
――それまでせいぜい利用させてもらうわ――。
レイは、ちらりと薄い笑みを浮かべる。
「必要な嘘だから」
シンジは何か言いたそうにもごもごと口を動かしたが、レイの笑みを何と誤解したのか、結局
言わないことに決めたらしい。
レイはそんなシンジを冷酷な目で見つめている。シンジの取るそういった反応の一つ一つが、
レイにとっては分析の対象になるのだった。
「失礼します」
二人が振り返ると、黒服を着た大柄の男が立っていた。
男からは、冷静に暴力を振るえる――それも躊躇無く――雰囲気が、冷凍庫から取り出したば
かりの氷のようにひんやりと漂っている。
シンジは我知らず顔をしかめた。好きなタイプとは到底言えなかった。いや、好きどころか半
径100m以内でも近寄りたくないタイプだ。
「綾波様。緊急招集がかかりました。お急ぎを」
シンジは耳を疑った。綾波様……? どこかのお嬢さんか何かなのだろうか? 自分にはこん
な恭しい態度はとらないのに……。
レイは男を見ずに、さっさと歩き出した。
「私たちは歩いていくから。あなたは戻っていいわ」
「し、しかし……。緊急時のマニュアルでは……」
黒服の男はハンカチを取り出して、額にふきだしてくる汗を拭う。
「二度言わせるの?」
レイは振り返らず、前を見たままゆっくりと言った。
「い、いや、そ、それは」
黒服は絶句した。
「じゃ、いいわね」
レイは黒服を後に残して歩き出す。
シンジは驚きのあまり、そこに突っ立ったままだった。
中学生の女の子が、大の大人にまるで部下のように――いや、部下というより家来という言葉
のほうが相応しい――接しているのだから驚くのも無理はなかった。
シンジのレイに対する印象は「謎めいた美少女」というものだったが、謎めいたどころでない。
謎だらけだ。
「何してるの? 置いていくわよ」
レイは振り向いて、立ち止まったままのシンジに声をかける。
「あ、ごめん」
シンジは反射的に謝り、レイに追いつくために駆け出した。
二人はしばらく無言で歩いていた。その沈黙の重さに耐えかねたようにシンジが口を開く。
「ひとつ、聞いていい?」
「何?」
「綾波は何でそんな大怪我したのかな……って。ミサトさんに聞いても教えてくれなかったん
だ」
「え?」
レイは虚を衝かれた。迂闊にも全く考えていなかったのだ。ミサトに答えられるわけがなかっ
た。
レイの沈黙を、シンジは誤解したようだった。
「あ、ごめん……。嫌なこと聞いちゃって。そんなこと、思い出したくないよね。今のは無視
して」
シンジは申し訳無さそうに言う。
「でも、何でそんな酷い怪我してまでエヴァに乗るのか、知りたかったから……」
「……起動実験の最中に、零号機が暴走したの」と、レイは言った。こんな程度でいいだろう。
あとでミサトやリツコに言っておかねば。
それから、レイはふと思いついたことを口にした。「そのとき、司令が助けてくれた」
司令のくだりはシンジの父親への複雑な感情を刺激するために思いつきで付け加えたものだっ
た。
案の定、シンジは微妙な表情を浮かべる。
「父さんが……?」
レイは心の中でほくそえむ。こうやって父親のことをちくちく刺激してやれば、操りやすくな
るだろう。
一番扱いにくいのは、感情に揺れのない人間だ。シンジにそうなってもらっては困るのである。
「でも、いいの……?」
落ち着きの無い様子でシンジが問いかける。
「何が?」
レイは振り返らない。
「緊急招集されてるんでしょ? ってことはまた使徒が襲ってきたんじゃ……」
つまり、走らなくていいのかとシンジは言いたいのだった。しかしレイの包帯姿を見るとそう
も言えない。
「大丈夫よ。余裕あるはずだから」
特に確信があるわけではなかったが、レイはそう答える。
車に乗らなかったことに大した理由はない。単に主導権は自分にあることを知らしめるためだ
けだ。
「じゃあ、僕だけでも」と言いかけたシンジを目で制して、レイは「一緒にゆっくり行きまし
ょ」と言った。
「私、碇君とお話したいから車に乗らずに歩いて行くことにしたの」
「え……」
シンジの顔が赤くなった。
「迷惑?」
「とんでもないよ! 別に、……いや、全然迷惑じゃないよ」
「そう? 嬉しい」
レイは唇の端に微笑を溜めた。罠にかかった獲物を見る猟師は、こういう笑みを浮かべるに違
いなかった。
「でもさ」と、シンジは戸惑いがちに口にする。
「何?」
「い、いや、やっぱり何でもないよ」
レイの声を聞いて、考え直したように手を振る。
シンジは本当はこう言いたかったのだ。別に今じゃなくてもゆっくり話はできると思うんだけ
ど、と……。
そして、早く行かないとまたミサトに怒られるのではないかと気が気でないシンジをよそに、
二人は悠々と発令所に到着した。
「遅い! 何してたの?」と叱責するミサトに、レイは「うるさい、牝牛」と答えた。


レイは内蔵のモニターでシンジと初号機を見ていた。零号機に乗り込んで、待機中である。
今度は最初から出撃したかったが、大怪我をしたという設定でシンジを騙したのが仇となった。
さすがにこんなに短時間で戦闘ができるまで回復した、というのは嘘が過ぎる。
いや、いざとなれば出るのは仕方ないとしても、本当にどうしようもない状況まで待たねばな
らない。
前回と同じくシンジがピンチになったら出撃するという条件を、ミサトは意外とあっさり呑ん
だ。
ロクにエヴァを動かせなかったサキエル戦とは違う。それなりに訓練を積んだシンジが一人で
どう戦うか、様子を見てもいいというのがミサトの判断だった。
だったのだが……。
「やっぱりダメか」と、レイはパニックに陥っているシンジを見て呟く。
それにしても頼りない男だ。もっとも使徒など自分ひとりで撃退できるから、頼りにするわけ
ではないのだが。
司令は何でこんなのを呼び出したのだろう? レイは不審に思う。息子というのが理由? だ
としたらとてもではないが司令に相応しい器ではない。首をすげ替えることも頭に置いておく。
後任は冬月でいいだろう。自分の言うことを聞く人間ならだれでもいいのだが、未知の人物だ
と改めてその身辺を調査しなければならないのが面倒だった。
……画面には一般市民の姿が映し出されている。見覚えのある顔だった。
あれは――さきほどの二人組だ。シンジを殴ったジャージと子分のメガネ。
こんなところで何をしているのだろうか。逃げ遅れたのか、シェルターから出てきたのか。
シンジは二人を庇って戦おうとしない。
――私だったら踏み潰しているところだわ。
レイはだんだんと苛立ってくる。初号機の活動限界まであと3分。
二人組はミサトの判断により、初号機のエントリープラグに収納された。
「シンジ君? 命令を聞きなさい。退却よ」
当然尻尾を巻いて退却するものとレイは思った。その後は自分の出番だ。再び虐殺の快楽を味
わえると思うと、身体が震えてくる。
しかし――シンジは反対の行動を取った。
プログレッシブナイフを手に取ると、凄まじい絶叫を放ちつつ使徒に向かって突進したのだ。
その瞬間――
レイは背骨に電流を流されたようにぴくんと背中を反らせて、かすかに「あ」と声を漏らした。
シンジの叫びと呼応するようにレイは「あ、あ、あ、あ」と立て続けに小さな叫び声を上げた。
眩暈がした。
うなじの産毛がチリチリと焦げ付いたように逆立っていた。
ミサトが自分に何か言ってるようだが、聞き取れない。そもそもミサトの言うことなどどうで
もよかった。
今、この瞬間、レイの世界はシンジの絶叫で埋め尽くされていた。
そう――。
魂から無理矢理搾り出されるようなシンジの絶叫を聞いて、レイは――碇シンジを自分の手で
壊したくなったのだった。
なんて素敵な悲鳴なのだろうとレイは思った。まるで天上の音楽のように心地良かった。
シンジの叫びに共鳴するように、レイの身体が震えていた。
喉がからからに渇いているときに、甘美な果物にかぶりついたようだ。シンジの叫びが身体の
すみずみまで行き渡り、全身の細胞を活性化させていく感覚にとらわれる。
恍惚の表情を浮かべながら、レイは強く想う。
――碇君の叫びを、ずっと聞いていたい。
その欲求の強さは、ほとんど吐き気を催すほどだった。
ずっと。
いつまでも。
そう、いつまでも、いつまでも――。
操縦桿をきつく握り締めて、レイは誓った。
またこの絶叫を上げさせてあげる、と。
私だけのために――。

いずれ思いもよらぬ人物から今のシンジの絶叫と同種の叫びを聞くことになるのだが、今のレ
イにはむろん、知る由もなかった。




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