一人目は笑わない

Written by 双子座   


4.

レイは頬杖をついて、不機嫌そうに窓の外を眺めていた。
いや、不機嫌そう――ではない。レイは実際に不機嫌極まりない状態にいた。メーターがつい
ていれば針が振り切れるほどの不機嫌さ加減だった。
その原因は、しつこく降り続く長雨ではなく、シンジだった。
第四使徒との戦い以来、学校に来ていないのだ。
使徒戦で怪我をしたわけではない。病気ではないかと疑ったが、病院を調べてみてもシンジは
入院していない。
ということは精神的に落ち込んで家に引き篭もっているのだろう。
これでは何のために学校に来て、下らない授業を聞いているのか分からない。
――甘く見ていた。
レイにしては珍しく、その顔には反省の色がある。
これほどまでとは想像しなかったのだ。シンジの脆さが。
多少の紆余曲折はあったものの、はじめて一人で使徒を倒したのだ。自信がついたとさえ思っ
ていた。
――行くしかないか。……面倒。
これから自分が取る行動を考えると、レイの不機嫌はさらに募っていく。


レイはチャイムを押して、ドアが開くのを待った。
「はーい。……あら、レイ。どうしたの?」
ドアが開いて、ミサトが意外そうな顔をしてみせる。
「碇君は?」
レイは入ってと言われる前に足を踏み入れていた。
「あ、シンちゃん?」ミサトは一瞬視線を上に移動させた。「シンちゃんは今……病院よ。ち
ょっと、風邪引いたみたいで」
「……」
レイは黙ってミサトの目を凝視した。視線を外したのはミサトだった。
「どうして、嘘をつくの?」
ミサトは額に手を当て、ため息をついた。
「あんたには通用しないか。本当はね、彼……家出しちゃったのよ」
レイの頬がぴくりと動いた。唇も同程度に動かして言った。
「役立たず」
ミサトは気色ばんだ。
「ちょっと。そんな言い方……」
「何のためにあなたは碇君と同居しているの? 管理者失格ね」
保護者と言わないところがレイらしいところだ。
ミサトはむっとした顔を憂い顔に崩し、またため息をつく。
「レイ、あなたみたいな強い子には分からないだろうけど、シンジ君には辛すぎるのよ。私と
しては、このままエヴァに乗らない道をあの子が選ぶなら、それも仕方ないと――」
レイは苛立たしげに手を振って、ミサトの言葉を遮った。
「そんな生温いことを、本気で言ってるわけじゃないでしょうね、葛城さん。天秤の片方に乗
っているのは人類の未来なのよ」
というものの、人類の未来など、レイにとってはどうでもよかった。レイにとっては何より優
先されるのは自分の快楽だった。レイは、そのために――そのためだけにエヴァに乗っている。
「分かってるわよ、あなたに言われてなくても――」
「常習性の強い薬を投与することは考えてる? エヴァに乗ることと引き換えに薬を処方する」
ミサトはまるで殴られたようにのけぞった。その手法が採られる可能性はあるとミサトは思っ
ていた。
なにしろこの勝負の賭け金は人類であり、勝つためにはありとあらゆる手段が採用されるに決
まっていた。
ゲンドウは実に息子にそこまでやるのか――。ミサトは、そう問われると絶対ないとは断言で
きないものをゲンドウに感じている。
むろんシンジへの薬物投与など、万が一実行されるとなれば職を賭してでも阻止するつもりだ
った。
「冗談よ」と、レイは真顔で言った。
「……」
ミサトは、レイにはお馴染みの目付きでレイを見ている。人間ではない異形の生物を見る目付
きだった。
薬物使用の可能性を政府のお偉方が口にするならともかく、当のパイロット、十四歳の綾波レ
イが言っているのである。投与される側ではないか。異常というより他はなかった。
もっともレイにとっては冗談というのは本心の言葉だった。シンジに薬物を使うことなど、と
うてい許されない。
といっても倫理的な問題ではなく、薬漬けの鳥がいい声で鳴くとは思えないという、それだけ
の理由だが。
「どうするの?」
ミサトは黙っていた。正直、これからどうすればいいのかミサトにも分からない。こうやって
レイに責め立てられると、やはり自分には荷が重かったかという思いに駆られてしまう。
「飴はきちんと与えていたの?」
「アメ?」
「飴と鞭。人間を操るときの基本でしょ?」
ミサトは唖然とした。まったく十四歳の子供の言うこととは思えなかった。
「まさかと思うけど、命令違反はいけませんと説教するだけだったんじゃないでしょうね」
レイの目付きがきつくなった。
「軍規に違反したことは確かだけど、使徒を倒したのも事実。一人でよく出来ましたねと頭を
撫でておいて、命令違反のことは後で付け加えればいい。
軍人でもない素人の中学生相手に叱り付けるだけなんて、葛城さん、あなた、犬を飼う資格も
ないわ。人間なんてもってのほか」
ミサトは黙りこむ。シンジの家出という結果を考えれば、何も言うことがない。
「自分の感情のおもむくままに行動するなんて、あなたの使徒殲滅への想いはその程度のもの
だったのね。……お父さんが草葉の陰で泣いているわよ」
しょんぼりと下を向いていたミサトだが、最後の言葉を聞くと、キッと顔を上げた。血の気が
引いて蒼白になっている。
「あんたね……世の中には、言っていいことと悪いことがあるのよ」
すでにレイはミサトの気を外すように一歩下がっている。視線はミサトの手に据えられていた。
ミサトがいつ殴りかかってきても対処できるようにだった。
「さよなら」
レイはミサトから目を離さず、後ずさりながら部屋を出て行った。
外に出ると、かすかに笑った。他人のトラウマを抉るのはどんなときでも楽しいことだ。不機
嫌も多少はおさまる。
廊下の角を曲がり、エレベータの扉の前で待つ。しばらくして扉が開くと、中にジャージとメ
ガネの二人組みが乗っていた。
「綾波、何しとんのやこんな所で」
レイは話しかけてくるジャージを無視をしてエレベーターに乗り込む。
「あ、お前も碇の様子を見に来たんか。同僚やもんな。どうやった?」
返事をせず、閉ボタンを押して扉が閉まるのを無表情に見つめる。
「ちっ、何やねんあいつは。無愛想にもほどがあるで」
ジャージの言う台詞が扉越しにかすかに聞こえてきた。遠い外国の知らない言葉と同様に、レ
イには意味のないものだった。


さて、これからどうするか――。家出までするとは想定外の出来事だった。
外に待たせてあった車に乗り込んでレイは思案する。
シンジの行方なら保安部の連中が見張っているだろうから問題はない。自分で戻るか、連れ戻
されるかどちらかだ。
問題は、この家出が一時的な逃避衝動なのか否かということだった。正式にネルフから離れる
ことにならないだろうか。それは困る。
レイはシンジの絶叫を思い出し、ぞくりと身体を震わせる。シンジには、レイが飽きるまで鳴
いてもらうつもりだった。
「碇シンジが今どこにいるか、分かる?」
レイは運転席の男に声をかけた。
「はい。分かりますが」
「そこにやって」と、レイは言った。
演技の時間だった。

「碇君」
映画館を出てきたシンジに声をかけてきたのは、レイだった。
「あ、綾波……。どうして、ここに!?」
シンジは呆然とした。偶然? まさか……。
レイはシンジの問いに答えなかった。
「どうして学校に来ないの? その様子じゃ病気じゃないわね」
「え……。それは、その……」
シンジは俯いた。レイの視線が痛い。
「僕は……」
それきり黙り込む。
レイは何も言わなかった。こういうときにぐちぐち責めるのは逆効果だとレイは知っているか
らだ。
しばらく沈黙した後、ころあいを見計らって、
「碇君、帰ってくれるわよね……。私、車で来てるから。一緒に帰りましょう」
レイはシンジの返答を待った。内容は聞くまでもない。
シンジは今にも泣きそうなくらい顔を歪めた。
「僕は……」
顔を上げ、必死に言葉を紡ごうとする。
「ダメなんだ……。僕は、ダメなんだ」
シンジは手を広げて見る。震えていた。
「もうイヤなんだよ。もうあれには乗りたくないんだ。父さんや、ミサトさんや、綾波やみん
なの期待には……応えられないんだ」
レイが何か言おうと口を開いた瞬間だった。
「ごめん、綾波」
シンジはそう言うと、背を向けて駆け出していた。
「えっ?」
レイはきょとんとシンジの背中を見送った。何か現実ではない、奇妙な光景を見ている気がす
る。
シンジは自分の言うことをおとなしく聞いて、ミサトの家へ戻るはずだ。
なのに、なぜ遠ざかっていくのか。
ふいにレイの顔に朱が差した。
拒否したのだ。
――私の言う通りにしなかった。
レイにとって、これほどの侮辱はなかった。
目がくらむほどの怒りを感じる。腹のあたりでぐつぐつと何かが煮立っているようだった。
そう――。他人が自分の言うことを聞かないことほどレイを怒らせることはないのだった。
脅迫したわけではない。演技にせよ、私が頼んだのだ。この私が。
それをあの臆病者は拒否し、背を向けて逃げ出した。
許せることではなかった。
――!
レイは無言でそばにあるゴミ箱を思い切り蹴飛ばした。
隠れていた野良猫がレイに向かって牙を剥き出して威嚇する。しかしレイの顔を見ると、素早
く反転して逃げていった。

レイは家に帰るとすぐにシャワーを浴びた。レイが感じた怒りは湯で洗い流せるほど単純なも
のではなかった。
その原因には、レイにはもうどうしようもないということもある。
シンジがもうエヴァに乗りたくないと言えばそれで終わりなのだ。
まだシンジの弱みを握っていないから、脅迫しようにも出来ない。あとは、それこそ拷問か薬
かの世界になる。
そこまではやらないだろうとレイは踏んでいる。あの男にそこまでする度胸はない。
肝心のミサトの説得は期待薄だった。
打つ手がない。失敗したのだ。
歯噛みする思いだった。
それでも何か手を打つとすれば――。
いや、これ以上の行動はレイのプライドに関わることだった。もう何もしない。
レイは鏡を見る。鏡の中の綾波レイが赤い目を光らせてレイに話しかける。
――甘く見てたわね。
(そう。父親との関係を突っついて操ろうなんて甘く考えていた)
――私は戻ってくると思うわ。
(そう? もう、どちらでもいいけど)
――怒ってないの?
(怒ってるわ)
――じゃあ、もし、碇シンジが逃げ出さずにネルフに留まるようだったら――。
(そう。そのときは)
レイはうなずいた。
弱みを探り出すなんて甘いことはしない。
こちらから作り出してやる。
鏡の中の綾波レイは、唇の両端を吊り上げた。


次の日、シンジはネルフに残ることになったという連絡が保安諜報部から入った。
「そう……」
レイは呟いて電話を切った。
どういう経緯があったか知らないが、結構なことだ。
そうなればなったで、こちらにも考えがある。
まずは協力者が必要だった。
レイは頭の中で候補者を選びはじめた。

放課後のことだった。
レイは鞄を手に持ち、いつもの憂い顔で校門を出るところだった。
「綾波!」
シンジが後ろから駆けてきて、レイの前に回りこんだ。必死になって走ってきたのだろう、膝
に手をつき、息を切らしながら、
「綾波! この間は……ごめん」
「何?」
レイは小首をかしげて、まるで何のことか分からないように答える。
「あの、謝りたくて……。綾波がわざわざ来てくれたのに、あんな……逃げたりして。本当に
恥ずかしいよ。自分でも情けないって思ってるんだ」
シンジはやや俯きながら、しかしどこかさっぱりしたような顔で、
「でも、もう……逃げたりしないから。……本当のこと言うと、今だって逃げ出したい気持ち
はあるんだ……。僕は、こういうことに向いてないと思う気持ちは変わらない。
だけど、頑張るから。ここで逃げたら結局同じなんだ……。だから、出来るだけ頑張ってみよ
うと思う」
「そう。頑張ってね」
レイはシンジを見ずに、呟くように言った。いまだに冷たい怒りが身を浸している。顔も見た
くなかった。
「……うん。それだけ、言いたくて。じゃあ」
シンジの駆け出した先には、ジャージとメガネの姿があった。この間あのジャージに殴られた
ばかりだというのに、どういうことだろう? 
手下にでもなったのだろうか。いかにもシンジのやりそうなことだ、とレイは思った。常に保
護者を必要とするタイプなのだ。
レイは整った唇を歪め、シンジの言葉を反芻する。
ごめん? 謝りたくて?
笑わせる。 
それで済まされるはずがなかった。
見てなさい。
頑張らなくても逃げ出さないように、いや、逃げ出せないように――私の奴隷にしてあげる。


シンジとの会話から何日か経ったある日、レイは、とある男子生徒が一人でいるところを見計
らって背後から声をかけた。
「ちょっと、いい? 話があるの」
「うわっ!」
その生徒は飛び上がらんばかりに驚いた。それから辺りを見回し、レイが自分に話しかけてい
ることを確かめてから言った。
「え、俺に?」
「そう。あなたに」レイは目を細め、薄い笑みを浮かべて言った。「あなたに、よ」




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