一人目は笑わないWritten by 双子座
5. 「……手続き面倒よ。シンジ君、本チャンのセキュリティカードもらったばかりなんだもの」 ミサトは手に持ったビールの缶を中指と親指でつまみ、ぶらぶらと左右に振りながら言った。 そこでミサトにとって唯一の宇宙の真理――すなわち飲み干せば、新しい缶が必要だというこ と――に気づき、「あ、シンちゃん、ビールお願い」とシンジに向かっておねだりをする。 ミサトの他にはリツコとシンジがいて、そんなミサトを呆れた目で見ていた。 三人でミサト家で食事をしているところなのだ。ただし、シンジとリツコにとっては食事とい う名の拷問であったが。 「あっ。忘れるところだったわ。シンジ君、頼みがあるの」 思い出した、という顔のリツコ。 「何ですか?」シンジは満面の笑みを浮かべるミサトにビールを手渡して言った。 「綾波レイの更新カード。渡しそびれたままになってて……悪いんだけど、本部に行く前に彼 女のところに届けてもらえないかしら」 リツコはバッグからカードを取り出して、シンジに渡した。 「はい」 シンジは素直にうなずいた。それからじっとカードを見る。 ミサトはこういうことには目ざとい。シンジの様子に素早く気がついて、 「どーしちゃったのー? レイの写真をじーっと見ちゃったりして」 「あっ、いや……」 シンジは慌ててカードから目を離す。 「まったまた、テレちゃったりしてさ。レイの家に行くオフィシャルな口実ができて、チャン スじゃない!」 「からかわないでよ、もう!」 シンジはふくれてその場に座り込んだ。 ミサトの台詞を聞いて、リツコは苦笑する。 ――オフィシャルな口実、ね。その口実を作ったのは当のレイなんだけど……。 「赤木博士」 残業中のリツコが突然レイの訪問を受けたのは、PCを前に、その日十杯目のコーヒーを飲み、 二十本目のタバコを吸っているときだった。 「あら、なぁに? 珍しいわね」 リツコは内心驚きつつも平静を装って返事をする。レイはいつも気配を消して訪れるので、そ の度に驚いてしまう。心臓に悪い。 一度注意したが直す様子はなかった。わざとやっているのだろう。他人が嫌がることをするの が天性になっているのだ。 レイは黙って手を差し出した。掌には、セキュリティカードが乗っている。 「私のセキュリティーカード、更新した」 リツコは眉をひそめた。 「……いえ、確か、してないわよ」 レイはちらりと苛立ちの表情を浮かべる。 「更新してなくても更新した。それで、あなたが私に渡し忘れたということにして、碇君に渡 して」 「それでどうするの?」 「碇君に、私の部屋まで届けるように言って」 「……なんでそんなことを? と言ってもあなたは理由は言わないんでしょうね」 「分かってることをわざわざ口に出すのは馬鹿のやること」 レイはそう言うと踵を返し、部屋を出て行った。 リツコはドアをしばらく見つめると、二十一本目のタバコに火を点け、肩をすくめてやり残し た仕事に戻った。 「でもねー、あのコちょっと性悪かも知れないわよ、シンちゃん。覚悟はできてる?」 「しょ、性悪!? 何ですかそれ!? っていうか、覚悟とか何とか……意味が分からないで す」 「いや、ちょっとじゃないか……かなり性悪かもよ」 「ええっ、か、かなり?」 ――さてさて、どういうつもりなんでしょうね。 リツコはミサトとシンジの他愛のない遣り取りを聞きながら、謎めいた微笑を浮かべた。 □
道路沿いに立ち並ぶ集合住宅はアスファルトから立ち昇る熱気にゆらゆらとゆらめいて、海原 のごとく無限に続いているように思われた。 その中の、廃墟のような一棟にレイは住んでいるらしい。少なくとも、ミサトのメモはそう言 っている。 シンジは額の汗を拭って、四階のあたりを見上げた。 ――ここ、本当に人が住んでるのかな? 人の気配がない。この時間帯なら、幼稚園や学校から帰った子供や母親の姿があるはずだ。 しかし、辺りは静まり返り、ガン、ガンという工事の音だけが響いている。 日の光があるだけに、夜よりもかえって不気味さを感じてしまう。 何回見直しても、ミサトからもらったメモに書いてある住所とここの番地は合っている。 使徒の襲撃で疎開してしまったのだろうとシンジは考えた。シンジのクラスでも転校していく 生徒がいる。その数は増える一方だった。 階段を上る途中でも、人の姿を見ることは無かった。 シンジは「402 綾波」と書かれたプレートを見上げた。いざ来てみると、やはり緊張する。 女の子の部屋を訪問するなど初めてのことだった。 掌をズボンで拭うと、おずおずとインターフォンを押す。 ――。 返事がない。 ――どうしようか。 シンジは困惑した。このまま帰るわけにはいかなかった。カードがないとレイは本部に入れな いのだ。 ドアノブに手を伸ばして、回してみる。何の抵抗もなくドアは開いた。 ――あいてる? 「ごめん……ください」 やはり返事はない。シンジは靴を脱いだ。 「ごめんください。……綾波、入るよ」 シンジは忍び足で廊下を歩いていき――息を呑んだ。 ――ここに……住んでる? そこは、とても十四の女の子の部屋とは思えない場所だった。ベッド、冷蔵庫、パイプ椅子… …必要最小限の家具しかない。 床にカーペットが敷いてあるわけでもなく、壁にポスターやカレンダーが張られてるわけでも ない。 無機質で、寒々とした光景だった。監獄でもここよりは人間らしい場所と言えた。 シンジは驚きのあまり立ち尽くす。 黒服に綾波様などと呼ばれていたから、もしかすると、どこかいいところのお嬢様なのかと思 っていたのだ。 まぁ、よく考えるといいところのお嬢様が人型の決戦兵器などに乗って怪物と戦ったりはしな いのだが。 ますますレイのことをどう考えればいいのか分からなくなるシンジだった。 物思いに耽るシンジを現実に引き戻したのは、そのレイの声だった。 「何、してるの」 「あっ」 振り返ったシンジの目の前には、バスタオルを肩にかけたレイ。 シンジは自分の目を疑った。おそらく幽霊を見てもこれほどは驚かなかっただろう。 レイは――何も身に着けていなかった。 「!」 シンジの頭はまるでストロボを焚いたように真っ白になった。心臓が口元までせり上がってく るような感覚。口が急速に渇いていく。 慌てて後ろを向いた。心臓の動悸が激しすぎて、胸とこめかみが痛い。 「いやっ、あのっ」 とにかく弁明しなければという一心で舌を動かす。 「僕は……その……僕は、た、頼まれて……つまり……何だっけ……」 「そう、カード! カードが新しくなったから、届けてくれって、だから、だから別にそんな つもりは……」 「リツコさんが渡すの忘れたからって……ほ、ほんとなんだ。それにチャイム鳴らしても誰も でないし、鍵が……開いてたんで……その……」 シンジの独白はレイの言葉で遮られた。 「ちょうだい」 「え?」 「カード」 「う、うん! 今すぐに……」 バッグからカードを出して、目をつむって――後ろを向いてるからその必要はなかったのだが ――レイのほうに突き出す。 しかし、シンジは緊張のため、カードを強く掴みすぎていた。それに付け加え、レイがひった くるようにカードを取ったため、シンジはバランスを崩してレイに寄りかかる格好になった。 一瞬ののち――他人が見ればレイを床に押し倒したような姿勢になった。 シンジの左手はまるではじめからそこにあったようにレイの右の乳房におさまっている。 シンジはきょとんと不思議そうな顔でレイを見ていた。事態はシンジの理解できる範囲を超え てしまったのだ。 レイの「どいてくれる?」という台詞までシンジは現実に戻れなかった。 「え? ……あ。あ、あ、あぁぁぁぁっ!」 叫びながら、バネ仕掛けの人形のように立ち上がる。 「ち、違うんだ綾波! これは……これは間違いで……そんなつもりは……とにかく、ごめん! 本当にごめん!」 シンジはまるでライオンに追いかけられているような猛烈なスピードで走り去っていった。 □
レイは下着をはき終えると、「出てきていいわよ」と声をかけた。 ベッドの下から、手にビデオカメラを持ったケンスケがのろのろと這い出てくる。 「ちゃんと撮れてるわね?」 レイは確認を要求した。ケンスケがチェックすると、一部始終がきちんと映っている。 「うまくいったわね」 レイは喉の奥で満足げに笑うと、服を着はじめた。 横を向きながらも、ちらちらと目を向けてしまうケンスケ。性格はともかく、容姿は抜きん出 ているのだからこれはやむを得ない。 当のレイはケンスケのことなど全く気にしなかった。備え付けの家具ほども気に留めない。 シンジに裸を見られた――いや、見られたのではなく見せたのだが――ことも気にならなかっ た。犬や猫に裸を見られて恥ずかしがる人間はいないのと同じ理由だった。 ケンスケはうな垂れ、ため息をつく。 ――いったいなんでこんなことになったんだ……。 こうなるに至った経緯を呆然と思い起こす。 それは昨日のことだった。 ケンスケは不安げな様子できょろきょろと様子を窺っていた。 場所は体育館の裏で、こんなところにも放課後特有の突き抜けたような、それでいて気怠い雰 囲気が漂っている。 ケンスケは同じ場所をうろうろと歩きながら考える。 自分に用があるなんて一体どういうつもりだろう? 不吉な予感がしてならない。これが普通 の女の子なら――たとえ可能性が万が一でも――告白されるかも知れないと妄想できるのだが、 レイが相手だとそんな可能性はまったくのゼロだ。あるいは告白ではなく脅迫かも知れない。 ……残念ながら、ケンスケを待っていたのは後者だった。 レイは約束の時間よりも十五分遅れでやって来た。ケンスケを不安がらせるための、意図した 遅刻だ。 顔を会わせるなり単刀直入に、レイは「あなたにやって欲しいことがあるの」と切り出す。 「……まさか、法に触れることじゃないだろう?」と、ケンスケは眼鏡のズレをなおしながら、 「やだぜ。殺人の手伝いとか」 冗談のつもりで言ったのだが、レイはくすりともしない。あまりに真剣な顔なので、かえって 冗談を言ったケンスケのほうが不安になる。 「おい、まさか……」 「あなたの持ってるビデオカメラで撮影してもらいたいの」 「……で、何を撮るんだ?」 ケンスケは思わず胸を撫で下ろしつつも、疑いの表情を崩さずに訊いた。レイのやることだ、 ロクでもないことに決まっている。 「あなたは知らなくていい」 「知らなくていいって……。じゃあ俺は協力しないよ、そんなの」 「あなた……父親からエヴァの情報をくすねてるわね。それだけじゃなくて、他の生徒に教え ている」 「エヴァの情報って……そんな大したことじゃないよ」 ケンスケの顔に警戒心が浮かび上がる。第一種戦闘配置といったところだが、戦闘員はケンス ケしかいない上に相手はレイだ。甚だ不利というしかない。 「たとえ大した情報じゃなくても、そして相手がたとえ同級生でも、情報漏洩の罪は重いのよ。 ネルフをなめないほうがいいわ」 「情報漏洩って……」 ケンスケは口ごもった。まさか、と思う。そんな大それたものなのだろうか? 「おまけにこの間の事件もあるし。私の命令ひとつで闇に葬ることもできるのよ。あなたの父 も、あなたも。嘘だと思う?」 レイは赤い目を光らせる。夕日の光加減で白い顔が血のように赤く染まっていた。 ケンスケは真っ青になった。 「た、頼むよ……。そんなことはしないでくれ」 「だったら私の言うことを聞きなさい」 「……わかったよ」 ケンスケはため息をついた。とんでもない女に目をつけられたものだ。誰か俺の頭の上を見て くれ、とケンスケは考える。禿鷹が舞っているに違いない。 「で、いつどこで撮るんだ? まさかそれは教えてくれるんだろう?」 「明日、私の部屋で」と、レイは答えた。 「綾波さ……もうこんなことやめろよ」 ケンスケはレイが服を着終わるのを確認すると、レイに向き直って、強い調子でそう言った。 「どうして?」 レイは不思議そうに首をかしげた。 「こんなことして、何が面白いんだよ」 「面白い? 面白いとか面白くないとかじゃないのよ」 「じゃあ何なんだよ」 「あなたには、関係ない」 「お前さ……碇の気持ちも考えてみろよ」 言っても無駄だと知りつつも、ケンスケは口を出さずにはいられなかった。 ケンスケはシンジが綾波のことを気にかけているのを知っている。その感情がどういう種類の ものかは別の話だが、気にかけていることは間違いない。 レイはケンスケが下を向くまでケンスケの顔を見つめ続けた。 「碇君の気持ちがどうだろうと、私は私のやりたいことをやるのよ」 当たり前のことではないか。自分がなぜ碇シンジの気持ちなど考えなければならない? 「今日撮ったやつ、どうするんだ?」 「あなたの知ったことじゃない」 レイは吐き捨てた。いい加減うるさくなってきたのだ。上機嫌の燃料もそろそろ尽きかけてい る。 「用は済んだ。帰って。カメラ代は渡したわよね?」 ケンスケはまだ何か言いたそうな顔をしながらも、部屋から出ていった。 ――碇の気持ちも考えてみろよ、だって。 「はっ」 ――他人の気持ちを考える――? 私が他人の気持ちを考えるのは、弱みを握りたいとき。他 人を効率よく支配したいときよ。 レイは呆れたように首を振る。 いや、そんなことはどうでもいい。 ――これで碇シンジは私の奴隷になったも同然。折に触れてこのことを思い出させてあげる。 今度ネルフから逃げ出そうものなら……。 カメラ役にケンスケを選んだのも、どうやらシンジと仲良くなりつつあると見たレイの底意地 の悪さの表れだった。 このビデオを撮ったのがよりによってケンスケだと知ったら、シンジはどんな顔をするのか。 想像しただけでレイは胸が張り裂けるような興奮を覚える。 さぞかし傷つくことだろう。その目に涙をいっぱいに溜めて、泣き言を言うのだろう。 レイはくすくすと笑い出した。立っていられなくなってベッドに倒れこみ、しまいには身体を 二つに折って笑い転げる。 笑いは、なかなか止まらなかった。 |