一人目は笑わない

Written by 双子座   


6.

「あ……」
レイは身体を仰け反らせて軽く呻いた。
相変わらず鳥肌が立つようなシンジの悲鳴だった。第五使徒の荷粒子砲をもろに受けたのだ。
オペレーター、ミサト、リツコの状況報告や指示が慌しく行き交う。
最初に出撃しなかったのは正解だった。奴隷は見事に自分の役割を果たしたことになる。
「レイ、一旦待機」
初号機が格納されたあと、レイに指示が飛ぶ。
「了解」
レイは肩をすくめた。今度の使徒は、もしかしたらこの手でナイフを突き立てるというわけに
はいかないかも知れない。
――それだと詰まらないわ。あの感触がいいのに……。
目を閉じて、LCLが排出されるのを待つ。

……レイは病院の廊下を物音も立てず、猫のように歩いている。目的地はシンジの病室だった。
シンジの容態が気になるのだ。ここで死なれるのは困る。まだ早い。
ペットは飼い主よりも早く死ぬが、だからといって、今死んでいいというわけではない。出来
るだけ長生きして欲しいというのが飼い主の共通の願いだろう。それと同じことだった。
レイは病室に行こうとする看護婦に身分を明かして交替を申し入れ、食事と服を差し入れに行
く。ミサトが立てた作戦も伝えねばならない。
病室に入ってシンジの様子を窺った。
シンジは死んだように眠っている。
男にしてはやや長い睫毛と、白い肌。こうやって寝ていると、中性的な顔立ちも相まって、こ
の少年がどこからかやってくる得体の知れない化け物と戦う兵士なのだというのはひどい冗談
のように思えてくる。
レイはシンジの寝顔を見守りながら、ふと想像する。
――エヴァでこの細い身体をぎゅっと握り締めたら、どんな悲鳴を上げるのかしら。
信じられないといった顔で、やめてよ綾波、と懇願するだろう。僕が何をしたっていうの? 
と、言うだろう。
何をした? あなたは私の言う事を聞かなかったのよ。奴隷のくせに……。ごめんなさい? 
今さら謝っても遅いのよ。もっと鳴きなさい。ほら、もっと……。
レイは思わず、足を前に一歩踏み出していた。何をするつもりだったのかはレイにも分からな
い。
そのとき、シンジの意識が回復した。シンジが最初に見たのは、自分を見下ろすレイの白い顔
だった。
「……あ。綾波……?」
このときレイが考えていることをシンジが知ったなら、再び意識をなくしていただろう。もち
ろんそんな術はないから、シンジはレイの淡々と告げるヤシマ作戦のスケジュールを聞くこと
になった。
「これ、新しいの」
レイは服をベッドの上に放り投げる。
シンジは反射的に上半身を起こした。それにともなってシーツが下腹部まですべり落ちる。
「寝ぼけて、その格好で来ないでね」
「え? ……わっ! ……ごめん……」
シンジはレイが指摘した「その格好」に気づき、慌ててシーツを引き上げた。
少しの間、その格好で固まっていたシンジが視線をレイに向けた。レイがそれに気づく。
「食事」
シンジは俯いた。
「何も、食べたくない」
「六十分後に出発よ」
レイに苛立ちの感情がふつふつと湧き上がってくる。たかだか死にかけたぐらいでグチグチと、
情けない男だ。だいたいこの間頑張ると言ったばかりではないか。
――その可愛い口を開かせて、無理矢理詰め込んでやろうかしら。
「また、あれに乗らなきゃならないのかな……」
レイの苛立ちも知らず、シンジは鬱々と独り言のように呟く。
「ええ、そうよ」
――当たり前よ。あなた、他に何の役に立つの?
「僕は……」と、暗い顔でシンジが口を開きかけたのを、レイがかぶせるように、「怖い?」
と訊いた。
シンジは目を見開いて、身体を震わせた。
「当たり前だよ! 僕は死にかけたんだ! あんな……」
「案外意気地なしなのね。女の子の胸を触る勇気はあるのに」
シンジは口を閉じ、人種が変わったのかと思うほど真っ赤になった。
「あれは……ごめん。でもホントに間違いで……。って、僕、昨日から、謝ってばかりいる…
…」
シンジの相手をするのにもうんざりしてきた。レイは我慢できるタイプではない。「じゃ。葛
城さんと赤木博士がケイジで待っているから」と言い放つと病室から出た。
極度に清潔な、しかし死の匂いが濃厚に香る廊下を歩きながらレイは呟く。
――逃がすものか。


ミサトとリツコは書類だの資料だのが乱雑に散らばっている――ミサト曰く、何がどこにある
のかすぐに分かり、しかもすぐに手に取りやすい絶妙なバランスで整頓されている――ミサト
の個室で、ひと時の休憩を味わっている。
「役割はどうするの?」リツコが湯気を立てているコーヒーカップを両手で持ち、湯気越しに
ミサトを見ながら言った。
「そうね……シンクロ率が高いシンジ君が砲撃手、レイが防御役でいこうかなと考えてるとこ
ろよ」
ミサトは頬杖をつき、右手の人差し指で机をとんとんと叩きながら答えた。
リツコはコーヒーカップを机に置いた。さすがにそのぐらいのスペースはある。
「シンクロ率が高いといってもほんの少しだし、そもそも装甲は初号機のほうが頑丈だわ。逆
のほうが良くなくて?」
「そうねぇ……まぁ、まだ決まりってワケじゃないから」
「それにね」
リツコはカップの縁を人差し指でゆっくりとなぞる。
「あの子たちの意見を無視するのはどうかしら?」
「どういう意味? まさか自分で選ばせろっていってるわけ?」
リツコにしては珍しい意見ね――とミサトは思った。いや、そうでもないのかも知れない。長
年の友人と思っていても、思いがけない面というのはきっとあるのだろう。
「あの子たちが一番力が発揮できる役割がいいんじゃないかしらと思っただけ。押し付けられ
るものより自分で選ぶほうが納得できるでしょうしね。
まぁ、作戦立案の責任者はあなただから口出しするつもりはないけれど」
「そうね……。考えてみるわ」
ミサトは腕組みをしながら答えた。
一番力が発揮できる役割という言い方をミサトは気に入った。押し付けるのが軍隊というもの
だが、何しろ前代未聞の作戦なのだ。それに相応しい配置方法があっていいのかも知れない。


目も眩むような照明に照らされて、シンジとレイ、ミサトとリツコの影が床に長く伸びている。
最終のブリーフィングだった。
「……と、いうわけ。私はシンジ君が砲撃手、レイが防御と考えてるけど、あなたたちはどう?」
「……どっちが、危険なんですか?」と、シンジ。
ミサトはシンジの目を真正面から見て、
「どちらも危険なことに変わりはないし、どちらの責任が重いわけでもないわ。お互いやるべ
きことがあるだけ」
「できれば、僕……防御役をやりたいと思います」
シンジが片手を挙げて言うと、レイを見る。
「綾波も、それで構わないよね?」
「ええ」と、レイは言った。シンジが言い出さなければ自分が砲手をやると言うつもりだった。
自分が防御役など、王様にトイレ掃除をさせるようなものだ。冗談ではない。
それにしても――。レイはシンジを横目で見る。
実のところレイは少し感心していた。主人の守りをかって出るなど、まさに奴隷の鑑ではない
か。やはりレイの部屋でのあの出来事が功を奏しているに違いなかった。レイは自分の行動に
満足する。
ミサトはにっこり笑った。「そう。じゃあ、そうしましょう」
それからリツコにより、ポジトロンライフルの説明を受ける。
「それと、一度発射すると、冷却や再充填、ヒューズの交換などで、次に撃てるまで時間がか
かるから」
レイは、もし外して敵が打ち返してきたら?――などと馬鹿げた質問をしたりはしなかった。
一撃で倒す。当然のことだ。
「時間よ。二人とも着替えて」


二人は更衣室でプラグスーツに着替えている。シンジがちゃんと服をたたむ一方で、レイが適
当に放り投げているのは、それぞれの性格を表しているものか。
着替え終わったシンジは、床にこの現実を抜け出す解答が魔法のペンで書いてあり、見つめ続
ければあぶり出せるかのようにじっと足元を見つめている。
シンジは気配でレイが着替え終わるのが分かった。顔を上げ、
「ねぇ……綾波は、怖くないの? さっき、僕に怖いのかって訊いたけど」
「何が?」
「死ぬのが。僕は怖いよ。……男なのに、情けないと思うかも知れないけど。綾波は、どうな
の?」
「私は怖くない」
実際、まったく怖くなかった。そもそもレイは、自分が死ぬなどと想像したこともない。
「そう……。やっぱり、綾波はすごいな。僕には到底……」
シンジは台詞を途中で止める。レイが入ってきたからだ。
「だって、私は死なないから」
レイは口元に冷ややかな笑みを浮かべ、シンジの独白を遮った。
ゆっくりとシンジに近づいていく。
「あなたが守ってくれるもの」
「え……」
レイは、戸惑う様子のシンジに、お互いの息がかかるほどの距離まで近づくと、少し首をかし
げてシンジの目を覗き込んだ。
レイの瞳に、シンジが映る。
シンジの瞳に、レイが映る。
シンジはびくっと身を引いて目を逸らした。顔が少し赤くなっている。
「でしょ?」
「う、うん……」と、シンジはか細い声で答える。
レイは掌で包んだ小鳥を空に放すように、そっと言った。
「守ってくれるわよね、碇君」
「……守るよ、綾波」
小声で言うと、シンジは逸らした目をレイに再び向けた。
そして、「僕は、君を守る」と、今度ははっきりと言った。
満足そうに頷いて立ち去るレイの背中を、シンジは唇を噛みしめて見送った。
青ざめたその顔には、強い決意が浮かんでいる。

シンジとレイは離れて座り、作戦開始を待っていた。すべての準備は整い、あとはエヴァに乗
り込むだけだ。
天を圧するような満月の光が二人を照らしている。
月がこんなに明るいなんて知らなかったな――シンジは膝を抱えながら思う。日本中の電力を
ここに集めるための必死の努力をあざ笑うかのような明るさだった。
シンジはレイに視線を向ける。レイは、月光のせいで全身から燐光を発しているように見えた。
何を考えているのか、その横顔からは全く窺い知ることができない。
思わず、声をかける。
「綾波は……何故これに乗るの?」
面白いこと言うのね、とレイは思った。そんなことは考えたことがなかった。目を閉じて言葉
を探す。すぐに見つかった。
「そうね……面白いから」
「……え?」
シンジは驚いて聞き返した。
「どこが? 酷い怪我をしてまで……。これからだって、死ぬかも知れないんだよ?」
怪我などしたことはないが、それを言うわけにはいかない。それに、これから怪我をするつも
りもなかった。
「面白いじゃない。エヴァに乗るから大の大人たちが私みたいな小娘の言うことを聞くのよ。
まぁ乗れなくてもそれなりに手はあるけど、面倒になるわね。碇君は他人の鼻面を掴んで引っ
かき回すのは好きじゃないの?」
「はあっ!? そ、そんなの好きじゃないよ!」
シンジは何を言い出すのかとびっくりして、つい叫んでしまった。
「そう。じゃあ、引っかき回されるのが好きなのね」
「ち、違うよ! それも好きじゃないよ! 何言ってるんだよ、綾波」
シンジはレイの姿を上から下まで見直した。最初のころの可憐でいたいけな少女というイメー
ジがどんどん変わっていくように思われる。
「でも、碇君を見てるとそうとしか思えないわ」
「何で?」
「だって人の言うなりじゃない、碇君」
シンジが口を開くまで少し時間があった。
「……綾波って、結構、きついこと言うんだね」
「この位、序の口だけど」
レイは小さな声で言った。
「え、何か言った?」
「いえ、何も」
そのうちもっときついことを言ったり、きついことをしてあげるわ、とレイは胸の内で呟いた。
「時間よ」
レイは立ち上がった。


「外した!」
レイは舌打ちした。信じられないが、事実は事実だ。使徒が放った荷粒子砲に影響されて狙い
が逸れてしまったのだ。
衝撃で揺れる零号機の中で、レイは屈辱にかっと頭を熱くする。
「第二射、急いで!」
ミサトの指示を待たずに第二射の準備が整えられていく。しかし使徒はそれまで待ってはくれ
なかった。
レイの目が光を感知し、衝撃に備えて奥歯を噛みしめる。
衝撃は――来なかった。
シンジが盾を構えて零号機の前に立ちふさがっていた。
盾はフライパンに乗せたバターのようにどんどん溶けていく。
「盾が持たない!」というリツコの悲鳴にも似た声がレイの耳に届いた。
見たままのことを言って何の役に立つのか、と頭の片隅で思うレイだが、さすがに焦燥感が出
てくる。もちろん案じているのはシンジではなく自分の身だ。
「早く……」
――あとどれくらい?
歯を食いしばってその時を待つ。限界まで引き絞られた矢が解き放たれる瞬間を見守るような、
ぎりぎりの切迫感。
「早く……!」
照準が合った。
レイは引き金を引いた。


使徒と初号機が地面に崩れ落ちるのはほとんど同時だった。
面倒だったがこのまま放って置くわけにはいかない。
レイは零号機で初号機のエントリープラグをつまみ出すと、地面に置いた。
零号機から降り、プラグのハッチを開けにかかる。熱を持ってるらしく、掌がジュッという音
を立てて煙が立つ。
耐熱加工でなかったらとてもではないが持っていられないだろう。レイは歯を食いしばってハ
ッチを回転させた。熱で変形しているのか、開けるには通常以上の力が必要だった。
「大丈夫? 碇君」
レイはプラグの中を覗き込み、おざなりに声をかける。
意識を失っているのか、それとも死んだのか――シンジはぐったりとしている。
中に入って確かめてみるかどうか、一瞬逡巡した。いや、もう一声かけてみる。
その前に、シンジは目を開けた。「綾波……」
「いか……」
レイは、開きかけた口を途中で止めた。
シンジは泣いていた。同時に微笑んでいた。
レイが無事だから、泣いているのだった。
レイが無事だから、笑っているのだった。
「よかった……綾波が無事で。本当によかったよ」
シンジの両目から大粒の涙が零れ落ちる。涙はシンジの柔らかそうな頬を伝ってプラグスーツ
に落ちていった。
どういうわけか、レイはシンジの泣き顔から、笑顔から目を逸らすことができなかった。
息をするのもを忘れてレイはシンジを見詰めていた。まるで魔法だった。
レイはかすかな恐怖を覚える。シンジの涙が溜まった目を見ていると、透明度の高い湖をじっ
と見ているときのように、吸い込まれそうになるからだった。
その状態のまま、どれくらいの時間が経ったのか分からない。ほんの数秒のはずだが、レイに
は永遠にも等しく感じられた。
魔法を解いたのは、空気をかき乱して近づいてくるヘリのローター音だった。
「来たみたいね、救助」
レイはシンジから外へ視線を移動させると、ほっとため息をついた。助かったという思いが浮
かんでくる。
――いったい何から助けられたのだろう?
外へ出ると、安心した自分に急に腹が立った。何故かは分からなかった。分からないことにも
腹が立ったし、腹が立ったこと自体にも怒りを感じた。
「ちっ」
舌打ちすると、足元の石ころを思い切り蹴飛ばした。
その瞬間、レイはあることに気がつき、硬直した。
そう。
――私のせいで誰かが泣くのは何回も見たことがある。しかし――
・・・・・
私のために誰かが泣くのは、はじめて見た。

――それが、何?
レイは掌を見つめた。表面のコーティングが溶けて、黒い焦げ目がついている。その焦げ目で
さえも、月の光をふんだんに浴びて、きらきらと輝いていた。
理屈で言えば、レイが見てないところでレイのために泣いた人はいるかも知れない。
しかし、レイが感じたのは直感だった。直感ゆえにその正しさは疑いようもなかった。
碇シンジが、レイのために泣いた、はじめての人間だということを。
レイはその思考を振り払うように頭を振る。
だから何?
まったく、それが何だというのだろう。
――他人が自分について何をどう思いどう感じようが、私の知ったことか。
ふたたび、目の前が真っ赤になるような、原因不明の激情に襲われた。
ぎゅっと握りこぶしをつくって、プラグの外殻を思い切り叩く。
――泣きたければ、勝手に好きなだけ泣いていろ。
ふと気がつくと、ローター音が頭上で炸裂していた。
ヘリの巻き上げる風で、髪の毛がざあっと掻き乱される。
レイは手をかざしてヘリが放つサーチライトの光を遮り、少しため息をついて満月が我が物顔
で輝く夜空を見上げた。
しかし、月は、何も語らない。




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