一人目は笑わない

Written by 双子座   


8.

伊吹マヤは誰もいない休憩室でレモンティーを飲んでいる。冷房が効きすぎる部屋で飲む温か
い紅茶は格別に美味しいものだ。
時計の短針はもう少しで9時を指そうというところだった。9時といっても夜の方で、今日は遅
番の日なのだ。
さて、そろそろ行こうかな――紅茶も飲み終わり、伸びをして立ち上がろうとした、そのとき
だった。
「伊吹さん」
「ひいっ」
突然声をかけられて、危うくひっくり返りそうになる。
「レ、レイちゃん……」
後ろを向くと、綾波レイが亡霊のように立っていた。
――どこにいたの?
マヤは思わず部屋を見回す。
マヤが休憩室に入ってきてから、誰か入ってきた気配はない。とするとずっとここにいたのだ
ろうか? まさか、だって私が入ったときも誰もいなかったんだし……。
レイはマヤの動揺を気にすることなく、薄い笑みを浮かべて「頼みごとがあるの」と言った。
「な……何?」
マヤは思わず唾を飲み込んだ。
レイの"頼みごと"は頼みなどではない。断ることが許されない強制事項なのだ。
「今度赴任してくる弐号機パイロットの個人データが欲しいの。取ってきて」
「パイロットの個人データはクラスAのアクセス制限がかかってます。私でも閲覧できません。
というか、そんなの必要ないでしょう?」
レイは唇をゆがめた。
「そう。じゃあ、この写真を赤木博士に見てもらって、感想をいただいてくるけど」
レイは胸ポケットから写真を一枚取り出すと、指で摘まんで魚のようにひらひらと泳がせて見
せた。
「ああっ、そ、それ、それはっ」
マヤの顔色が変わり、涙目でレイから写真を取り上げようとするが、レイは闘牛士のように華
麗に避けつつマヤを振り回す。
マヤはどたばたとひとしきり追いかけたものの、とうとう力尽き、床に突っ伏して、ううう、
と泣き崩れた。
「ひどい……。そ、それだけは……」
「じゃあ、お願いね」
「で……でもっ」
「赤木博士がどんな顔するか」
「わっ、分かりました! もう、私、こんな犯罪みたいなことを……いや、みたいじゃないわ。
犯罪よ……」
「ところで、パイロットの名前は?」と、泣き崩れるマヤを意に介せずレイは質問する。
マヤは泣きべそをかきながら、
「え? だって名前は知ってるはずじゃ……」
「私、人の名前覚えないから」
それじゃ今私が言っても意味ないじゃないと思いながらも、マヤは名前を告げた。

「惣流・アスカ・ラングレーです!」
転校生は黒板にチョークで自分の名前を書くと、くるりと振り返ってとびきりの笑顔を振りま
いた。
鮮やかな赤毛、肌理の細かい白い肌、すらりと伸びやかな肢体。
笑顔は太陽のように眩しい。
――嘘ね。その顔。
賞賛の口笛で、歓迎の歓声で、嫉妬のため息でざわめく教室の中、レイはひとり頬杖をついて
アスカをじっと観察している。
――弐号機パイロット。あなたのその偽りの笑顔、暴いてあげるわ。仮面を剥ぎ取ったらどん
な顔があらわれるのか、楽しみね。
レイは唇の片側を吊り上げて、背筋が凍るような笑いを浮かべた。
その笑みに気がついた人間は、いない。


チン、とやや間抜けな音を立ててエレベーターの扉が開く。
三十才くらいで髪を後ろで結んだ男の先客がいたが、レイはまるで中に誰もいないかのように
乗り込んだ。
エレベーターの個室のように狭い空間に誰かと二人でいると、特別に意識せずとも普通なら若
干の緊張が生まれる。人を人とも思わないレイにはそれはなかった。
先客が口を開いた。
「おやおやこれはこれは。確か君は……ファースト・チルドレンの綾波レイちゃんかな? 俺
の名前は加持リョウジだ。はじめまして」
「新しく特殊監察部に配属された男ね」と、レイは扉を見つめながら答えた。
「俺なんかの配属先を知っているなんて光栄だね。ところで、ここの連中はだいぶ君に振り回
されてるみたいだな。お手柔らかにお願いするよ」
レイは後ろを振り返り、じっと加持を見つめた。
加持はレイの凝視を受けても、目を逸らすことはなかった。珍しいことだ。レイに見つめられ
るとたいていは視線を外す。
韜晦で本音を隠し、弱みを決して見せない種類の男か。
……いや、違う。本音を言うべきときを知り、弱みを見せてもいい相手を心得ている男だ。
最も厄介なタイプだった。
「あなた、長生きできないタイプね」
加持は苦笑した。ポケットに突っ込んだ手を出し、顎の無精髭を撫でながら、
「そう思うかい? 同じことを言われたことがあるよ。特に長生きしたいとは思わないが、早
死にしたいとも思わないんだがね。ま、せいぜい気をつけるとするよ」
目的階につき、レイはエレベーターを降りた。
――この男は要注意。やるなら本気でやらねば。
加持は人差し指と中指を揃えて、ピッと振った。
「それじゃ、また」
のちに加持はこの時のやりとりを思い出すことになる。
長生きできないと言い放ったレイが、皮肉にも加持の命を救ったあとに。


セカンド・インパクト以来、常夏と化した日本だが、夏は夏でも微妙に違いがある。
日差しが強く、肌がひりつくような夏は過ぎ、今は湿度が低く、快適な、いわば「読書の夏」
とでも言う季節にさしかかっていた。
レイはベンチに腰掛けて、世界拷問大全というぶ厚い本を読んでいた。
人間の想像力の限界を試しているような――あるいは超えているような拷問の数々を、シンジ
に当てはめて楽しんでいるところだった。
その本に影が差した。人影だった。
――?
レイは顔を上げた。
目の前に弐号機パイロットがいた。正確に言えば、花壇を取り囲むコンクリートブロックの上
に立ち、レイを睥睨していた。
本に夢中になっていて気がつかなかったのだ。
レイは小さく舌打ちをする。もし弐号機パイロットに悪意があったら完全にやられていた。気
の緩みすぎだ。
「ハロー! あなたが綾波レイね。プロトタイプのパイロット」
アスカは腰に手を当てて、なぜか勝ち誇るように宣言する。
「あたし、アスカ。惣流・アスカ・ラングレー。エヴァ弐号機の専属パイロット。仲良くしま
しょ」
レイは心持ち首を傾げて答える。最後の意味が分からない。
「仲良く? どうして?」
「その方が都合がいいからよ、いろいろとね」と、そんな分かりきったことを訊くなんて、と
いう表情を露骨に出すアスカ。
「……そうね」
レイは本を閉じると立ち上がり、下から視線を上げていき、最後にアスカの顔を見つめて、何
かを確認するようにゆっくりと言った。
「仲良くしましょうね……」
アスカは思わず一歩下がろうとしたが、立ち位置を思い出して踏みとどまる。
「な、何よ」
「……別に」
レイは本を鞄にしまうと、踵を返して歩き去っていく。
「変わったコね」と、アスカは呟いた。
ふと気がつくと、二の腕に鳥肌が立っていた。


初号機はまだ修理中であり、シンジは待機となっている。そのさなかに使徒が来襲した。
今回は第3新東京市の迎撃システムが壊滅状態ということもあり、本土上陸直前に迎え撃つ作
戦だった。
「零号機ならびに弐号機は、交互に目標に対し波状攻撃。近接戦闘で行くわよ」
「了解!」と、アスカが元気よく言う。レイは無言。
「あーあ。日本でのデビュー戦だって言うのに、どうして私一人に任せてくれないの?」
レイは失笑した。いくらネルフの面々が馬鹿揃いとはいえ、戦力の逐次投入をやるわけがない。
「何がおかしいのよ?」
アスカが気がついて問いかける。
「……別に」
あなたの猿なみの知能によ――とレイは心の中で答える。
そう言えばキーキー喚くところなども猿にそっくりだ。これからは赤毛猿と呼ぶことにする。
「言っとくけど、くれぐれも足手まといになるようなことはしないでね!」
ぴくりとレイの頬が動いた。いったいこの女は誰にモノを言っているのだろうか。
――後ろから狙い撃ちしてあげようかしら。近代戦争における死因はフレンドリー・ファイア
が結構な割合を占めているっていう話もあるし。
二人は輸送機から降下、地上に降り立って攻撃に備える。
「……来た!」
派手な水飛沫とともに使徒がその不気味な姿をあらわした。
「じゃ、私から行くわ!援護してね!」
「……どうぞ」
レイは大人しく譲ってバレットライフルを使徒に向けて撃ちはじめる。
――と、すっと銃口を滑らせて弐号機の頭を狙い撃ちする。二、三発当てるとまた使徒に狙い
を向けた。
「痛っ! ちょっと! 何やってんのよ!」
アスカが憤然と抗議する。
「ごめんなさい。手元が狂った」
平然と謝るレイ。言葉とは裏腹に、謝罪の気持ちなど全くないのは明白である。
「バカ! 気をつけなさいよ!」
気を取り直したアスカはビルからビルへと飛び移り、威勢のいい掛け声とともに槍を振るって
使徒を真っ二つにした。
「どう、ファーストチルドレン! 戦いは、常に無駄なく美しくよ!」
「……さすがに猿だけあって身軽なのね」と、レイは呟く。
「何か言った?」
「いえ。何も」
アスカが口を開きかけたとき、真っ二つにされた使徒が蠢動をはじめた。
「えっ?」
次の瞬間、左右に分かれた使徒のそれぞれが新たな使徒になり――
「なんてインチキ!」
ミサトは叫び声を上げた。


「まったく恥をかかせおって」
冬月は珍しく苛立ちを隠せない表情だった。これから冬月を待ち受ける、各方面からの抗議や
叱責、皮肉、圧力、それに伴う折衝ごとが煩わしいのだ。
そもそもネルフは他の組織に好かれてるとはとてもではないが言いがたく、いきおいネルフの
失敗は冬月の雑事を増やすことになる。
「同05分、N2爆雷により目標を攻撃」
「構成物質の28%を焼却に成功」
次々とスライドが切り替わっていく。
「やったの?」
「足止めに過ぎん。再度侵攻は時間の問題だ」
副司令の不機嫌そうな顔を盗み見ながら、シンジは自分が出撃してなくて良かった、と思って
いた。自分が出ていてもどうにかなったとは思えない。あんな風に分離する使徒なんて、いっ
たいどうやってやっつければいいんだろう……。
「いいか君たち、君たちの仕事は何だか分かるか!?」
アスカがきょとんとした顔で答える。
「エヴァの操縦」
「違う! 使徒に勝つことだ! このような醜態を晒すために我々ネルフは存在しているわけ
ではない! そのためには君たちが協力しあって……」
「何でこんな奴と!」と、アスカが吼える。
ここでレイの我慢の緒が切れた。もともと細い上に短い緒なのだ。むしろここまでよく我慢し
てきたと言える。
「それは私の台詞ね」
「何ですって!?」
アスカがテーブルを叩いて立ち上がる。
「だいたいあんたが逃げたせいでせっかくのデビュー戦が目茶目茶になっちゃったのよ!?」
レイは使徒が分裂したあと、手を出さずに撤退したのだった。
理由はもちろん、下手に相手をすると、また分裂するかも知れないからだ。もしかすると無限
に分裂するかも知れない。そうなるとさすがのレイにもお手上げであり、ここはいったん引い
て対処の方法を考えるべきとレイは判断したのだった。
「戦略的撤退は逃げるとは言わないし、そもそもあなたのデビュー戦なんか知ったことじゃな
いわ、お猿さん」
「猿!? 誰のことよ!」
「あなたのことよ、お猿さん。猿でもそのくらいのことは分かると思うけど」
「あんた、喧嘩売る気!? そっちがその気なら私はいいのよ? いつでも相手になってやる
わ」
アスカは立ち上がり、腕まくりをする。
レイも静かに立ち上がった。
「……外、出る?」
「上等!」
「やっ、止めなよ、綾波! 惣流も!」慌てて二人の間に割って入ったのはシンジだった。
「喧嘩なんかしてる場合じゃないよ!」
「そうだ、シンジ君の言うとおりだ。ここで喧嘩しても何も解決しない。な、アスカ?」
加持が険悪なムードに全然気づかないような、リラックスした様子で話かける。こちらは割っ
て入る気はなさそうだ。
「……まぁ、加持さんがそう言うなら……」
不承不承の態でアスカは腰を下ろす。
「覚えておきなさいよ、ファースト!」
しかめ面を作ると、べっと舌を出した。
レイはその舌を引っこ抜きたい誘惑に駆られた。
――あなたこそよく覚えておくようにね、お猿さん。世にも珍しい猿の泣き顔で見物料をせし
めてやるわ。
「……もういい」
ため息とともに冬月の乗ったリフトが視界から消えた。
「あの、ミサトさんは?」と、話をそらせようとするシンジ。このままだととばっちりが自分
に来そうなことが本能的に分かってるので必死だ。
「後片付け。責任者は責任取るためにいるからな」
加持は肩をすくめてそう言った。


トウジとケンスケは、マンションのエレベーターを降りたところでヒカリと遭遇した。
トウジが不思議そうな顔で、
「あれ? イインチョやんか」
「三バカトリオの二人……」
ヒカリも呆気にとられた表情だ。
「なんでイインチョがここにおるんや?」
「惣流さんのお見舞い。あなたたちこそどうしてここに?」
「碇君のお見舞い」と、トウジの代わりにケンスケが答える。
三人は同じ部屋の前で立ち止まった。顔を見合わせる。
トウジは「なんでここで止まるんや?」と言い、ケンスケは「なんでここで止まるんだ?」と
言い、ヒカリは「なんでここで止まるのよ?」と言った。
三人同時にチャイムを鳴らして、ドアが開いて顔を出したのは、シンジだった。
三日前に比べると、かなりやつれているように見えた。目の下に隈ができている。
「おう、シンジ。やっぱり病気か?」
「え? ああ。うん。いや、違うんだ。病気で休んでるんじゃないんだ……」
俯いて答えるシンジだが、今にも倒れそうなその様子はまさに病人そのものである。
「そうか? 明らかに具合悪そうだぞ」
「ちょっと待って、碇君。私、ここに惣流さんが住んでるって聞いて来たんだけど。住所も部
屋の番号も合ってるよ?」と、ヒカリ。
「ああ、それは……」
ケンスケは誰か知ってる人の声が聞こえた気がして、シンジの肩越しに部屋の中を覗き込んだ。
すぐに顔色が変わり、叫び声を上げる。
「うわっ! 碇、お前!」
「何や何や」トウジもつられて覗き込む。「げえっ! ……この裏切りモン!」
「どうしたの?」
ヒカリが腰を屈めて二人の隙間から中を見た。「ああっ!?」
「誰が来たの、シンジ?」
ひらひらの珍妙な服を着たアスカが冷蔵庫から取り出した飲み物を手にやってくるところだっ
た。三人に気づいて「まずいところを見られた」という顔をする。
「ちょっと、碇君!?」ヒカリがぷるぷると怒りに震えながらシンジに人差し指を突きつけた。
「どういうことなの!?」
「ち、違うんだよこれは! 作戦の一環で……」
シンジの弁解をケンスケの素っ頓狂な声が覆い隠した。
「それに――綾波も!?」
いったい何の騒ぎかと、アスカと同じ服装をしたレイがちらりと顔を出したのだ。こちらはア
スカと違って無表情。
ヒカリは額に手を当て、ふらふらとよろめいた。事態はヒカリの許容範囲を超えてしまったの
だった。
「不潔……。いえ、不潔どころのレベルじゃないわ。これはもう……犯罪よ。碇君には刑務所
に入って反省してもらうしかないわ……」
三人の冷たい目に囲まれてシンジはたじろいだ。
「いや、だからっ。これはそんなんじゃなくてエヴァの……」
なんで刑務所なんだ、と慌ててまた説明をはじめるシンジの肩に、ケンスケが手をぽん、と置
いて、
「安心しろ、碇。お前はまだ十四歳だから刑務所じゃなくて初等少年院で済むぞ」
「イヤだよ、初等でも! っていうか何でそんなことに詳しいんだよ!」
「あら、いらっしゃい。どうしたの?」
四人の目がミサトに向けられた。買い物帰りらしく、両手にスーパーのビニール袋をぶら下げ
ている。
「これはどういうことか、説明して下さい」と、トウジが言った。


話は三日前――アスカとレイが第七使徒に撃退された日に遡る。
加持から使徒撃退のアイディアを貰ったミサトは、シンジ、レイ、アスカの三人を作戦会議室
に呼び出してこう告げた。
「第七使徒の弱点はひとつ! 分離中のコアに対する二点同時の荷重攻撃、これしかないわ。
つまり、エヴァ二体のタイミングを完璧に合わせた攻撃よ。そのためには二人の協調、完璧な
ユニゾンが必要なの」
ミサトは言葉を切って、にこりと笑った。
「そ・こ・で、あなたたちにこれから一緒に暮らしてもらうわ」
「誰と誰が?」アスカは訊いた。
「あなたとレイよ」ミサトは答えた。
「冗談じゃないわ」憤然とアスカは言った。
「冗談じゃないわ」無表情な顔でレイは言った。
「その通り。これは冗談なんかじゃないわ」
腰に手を当て、ミサトはきっぱりと言い切ったのだった。

「ちょっと待って下さい」一瞬の沈黙ののち、シンジが手を上げた。「どこで暮らすんですか?」
ミサトは笑顔を崩さない。「あら、決まってるじゃない。私の家よ。そのぐらいのスペースは
あるから」
「ということは、僕も、一緒に……ですか?」
展開の早さについていけないシンジは、少し呆然としている。
「あったりまえじゃない。シンジ君を追い出すわけにはいかないでしょ」
「はぁぁ!? こいつも一緒に?」
シンジを指差して絶対ヤダ! と大声を上げるアスカに、ミサトは断固たる口調で「指揮官の
私に従ってもらいます」と言ったあと、慌ててレイの後を追いかけた。
「あー、ちょっと待った! レイ! どこ行くの!」
「……帰る」
「そう。着替えとか、必要なものを持って私の家に来ること。なるべく早くね」
「行かない」
「ダメよ、レイ。こればっかりはあなたの我儘は通らないわよ」
レイの前に立ちふさがり、決然と告げるミサト。
レイの眉がピクリと動いた。自分の意のままにならないことがあると不機嫌になるのが常だ。
「シンジ君、ちょっと」
ミサトは手招きしてシンジを外に連れ出した。レイが逃げ出さないように扉をしっかりおさえ
る。
「シンちゃん、アスカは私が何とかするから、レイを何とか説得して」
「ええっ……。僕がですか?」
「そうよ。使徒の再度侵攻まで時間がないの。何とかしてユニゾンを完璧にしないと、人類が
滅んでしまうのよ!」
「分かり……ました」
何を言えばいいのか、と悩むシンジだが何とかするしかない。今回は戦闘の出番がなさそうだ
から、せめてこれくらいはという気持ちもある。
会議室に再び入室した二人は、扉の前で立っていたレイにぶつかりそうになった。
「碇君、どいて」
「あ、綾波……」
シンジは必死になってレイを引き止める口実を考える。
「何?」
シンジにはレイの不機嫌ぶりが手に取るように分かり、焦る。早く何か言わないと……。
「そ、その……一緒に暮らすって言ったって、一週間もないんだし、その間僕の手料理食べに
来ると考えたらどうかな……」
ミサトは思わずひっくり返りそうになった。
アスカもぽかんと口を開け、目を見開いている。
(ちょっと、シンちゃん!? それでレイが説得されると思ってるの?)
(ご、ごめんなさい。でも何て言えば分からないんですよ……)
ひそひそと喋る二人をよそに、当のレイは黙って何か考えているようだった。
「だっ、ダメかな……。やっぱりダメだよね……」
後悔するシンジ。とっさに頭に浮かんだ台詞を言ったのだが、やはり失敗だったか。
不吉な緊張を孕んだ沈黙が暗雲のように立ち込めた。
シンジには永遠に思えた数秒ののち。
「……分かったわ」と、レイは頷いていた。
シンジはほっと胸を撫で下ろし、ミサトはやれやれと首を振って安堵のため息をついた。
普段から何を考えているのか分からないが、まぁ、さすがのレイもコトの重要性を認識してい
るのだろうとミサトは納得することにした。
「アスカ? あなたもいいわね?」
「うー」と、アスカは唸った。

「……というわけで」ミサトはビールをあおった。「シンちゃんの役割は二人のバックアップ
と」
「……喧嘩の仲裁ですね」と、暗い顔でシンジはミサトの言葉を先回りする。
アスカの引越しという一騒動が終わったあとのミサト家。心配していたレイも無事に来て、晩
御飯も食べ終わり、アスカとレイはミサトの指示のもと、居間でさっそく練習している。
「ま、そういうこと。協力お願いね」
「カンベンして下さいよミサトさん! だいたい綾波と惣流が一緒に住むこと自体無理がある
のに……」
ミサトはビールの缶を威勢良くテーブルに叩きつけた。「無理が通れば道理は引っ込むのよ!」
何だかやけに調子がいい。もう酔いはじめているらしい。
「……全然解決方法にならないのに、もっともらしいことを言わないで下さいよ……」
シンジはため息をついた。これからどれだけため息をつくんだろうとシンジは憂鬱な面持ちで
考える。まさに前途多難、艱難辛苦の六日間だ。
「大丈夫! 神様だって六日で世界をつくったんだから。何とか間に合うわよ」
「ミサトさんは、楽天的でいいですね」
シンジはふたたびため息をついて居間を見た。あと六日でユニゾンを完成させなければならな
いのだ。それなのに……。
さっそく練習を開始した二人だが、案の定ユニゾンどころの話ではなかった。
「あんたが私に合わせなさいよ!」
「何で人間が猿に合わせなきゃいけないのかしら? あなたが人間様に合わせるのよ」
「はぁぁぁ!? あんた人間やめてみる? やめてみるかぁ!?」
初日からこんなことで間に合うのだろうか。それとも初日だからまだ余裕をもっていればいい
のだろうか。
――この二人を六日で協調させるのと、世界を六日でつくるのはどちらが難しいか、神様に会
ったら訊いてみよう。
シンジはそう思いながら、二人の間に入るために立ち上がった。

……そして三日後。
「そうならそうと、はよ言うてくれたらよかったのに」と、トウジが笑いながら言った。
「しかし、ま、惣流と綾波と同じ屋根の下で暮らすなんて、まさに前門の虎、後門の狼ってと
ころだな、碇」
ケンスケがジュースを手に、半分面白そう、半分気の毒そうに言った。
「何ならわしらが葛城さんと暮らすから、お前は惣流、綾波と同棲するか? 追い込まれて案
外上手くいくかも分からへんぞ」
「……ちょっと鈴原?」ヒカリがトウジに耳を引っ張った。「ヘンなこと言うと承知しないよ?」
いててて、よせ、イインチョ、とトウジが悲鳴を上げる。
「で、ユニゾンはうまくいってるんですか?」ヒカリはレイとアスカの練習に目をやる。「い
ってないみたいですね……」
ユニゾンのユの字も見当たらない状況なのは誰にでもすぐに分かることだった。
二人はツイスターゲームと呼ばれるパーティゲームで練習をしていた。
こんなゲームで練習になるのかとシンジは疑問に思わないでもないが、逆にこんなゲームです
ら合わないのにエヴァで合うわけがないとも言える。
何しろ二人とも自分中心の性格で、相手に合わせようとしないのだ。上手くいくわけがなかっ
た。
「あんたが私に合わせなさいよ」
「あなたが私に合わせて」
レイとアスカは睨み合った。
「シンジ!?」
「碇君?」
二人は声を揃えて、「正しいのはどっち?」と叫んだ。
「え……ええ、と……」
シンジは何故こういう時だけ歩調が合うのだろうか、と思いながら曖昧な笑みを浮かべて返答
する。
「二人ともお互いに譲り合えば、いいんじゃないかな、と、思ったり……」
シンジはレイとアスカの冷たい目に「降参」のポーズをとった。
「やっぱりそういう訳にはいかないよね、はは……」
「はは、じゃないのよ! この優柔不断!」
アスカが地団太を踏む。
レイは何も言わずにシンジをじとっと湿った目で見つめている。
「いやっ……その……」
シンジは真剣に逃げ出そうかと考え出していた。もっとも部屋を出る前に襟首を掴まれて引き
戻されそうだったが。
哀れな子羊に助け舟を出したのはミサトだった。
「シンジ君。試しにアスカとやってみて」
「私についてこられるの?」
馬鹿にしたような顔でアスカが言う。
「まーまー。取り合えずやってみて。シンジ君?」
「はぁ……」
ずっと見学させられていたシンジはアスカのクセを把握していた。確かにアスカは動きが速い
が、タイミングは取りやすい。
実際にやってみると、完璧とは言えないが、少なくともレイとの組み合わせよりはよほどいい
コンビネーションだった。
アスカがへぇ、という顔をする。「初めてにしてはなかなかやるじゃん」
「じゃ、今度はレイとやってみて」
「あ、はい。……よろしく、綾波」
レイは無言で準備をする。
「じゃ、はじめるわよ!」
――結果は無残なものだった。チグハグもいいところで、全く合わない。シンジはしまいに手
足がこんがらがって倒れこむ始末だ。
「……ごめん、綾波」
シンジが申し訳無さそうに謝った。
「……どうして?」
レイの表情はいつもと変わらないが、シンジにはレイが少しばかりショックを受けているのが
分かった。
「何ていうか……綾波の動きって読めないんだよね。アスカは分かりやすいんだけど」
「……何かソレ、私のことバカにしてる感じがするんだけど?」
アスカがむっとした顔でシンジを問い詰める。
「ち、違うよ!」
「零号機のコアを書き換えて、シンジ君とやるほうがいいかもね」と、煽るような口調でミサ
トが言った。
「ちょっとミサトさん……」
そんな火に油を注ぐようなことを、とシンジは気が気ではない。
レイの表情は一ミリたりとも変わらなかった。「……好きにすれば」
その場の全員を睨みつけ、そう言い捨てると部屋を出て行った。
「あ……綾波! ……すいません、ちょっと見てきます」
「おねがいねー、シンちゃん!」のんびりした口調のミサトの台詞が、シンジの背中を追いか
けた。

「綾波! ちょっと待って!」
シンジが声をかけたとき、レイはすでにマンションの敷地を出て、道路を横断し終わったとこ
ろだった。
先にエレベーターに乗られて遅れてしまったのだ。おまけにレイは、傍目からはそうは見えな
いがかなりの早足で、シンジは追いつくのに走らねばならなかった。
急いで前に回りこんで息をつきながら、「ちょ、ちょっと……待って……」
「何?」
レイは表情こそ変わらないが、シンジが今まで見たことのないほどの不機嫌さだった。さわれ
ば感電しそうなくらいだ。
「碇君、弐号機パイロットと練習しなくていいの? あなた、彼女と気が合うみたいだし」
「そんなこと、言わないでよ」
シンジは気弱そうな笑みを浮かべる。
「綾波は、この間……エヴァに乗ってる理由を訊いたとき、確か大人に言うことを聞かせるた
めって言ったよね?」
「……ええ」
「でも、ここで逃げたら綾波のパイロットとしての価値が減るんじゃないかな」
レイの表情が微妙に変化した。
「これからは惣流がいるって思われたら綾波にはすごく損だと思うけど……」
レイは黙ったままシンジの言うことに耳を傾けている。
「それに、さ……猿の言うことなんかまともに聞く必要はないと思うよ」
シンジは「ごめんよ、惣流」と心の中で謝罪する。
それから数瞬、シンジにとって胃が痛くなるような沈黙が流れ――レイはかすかに頷いた。
レイの頭がかすかに下に動くを見たシンジは、餓死寸前のところで救助隊の姿を見た遭難者と
同じくらい安堵した。
「じゃあ、戻ろうか」
まだレイが本当に戻るのか不安でしょうがないシンジ。踵を返してやっぱりやめたと帰るので
はないかと、レイの一挙手一投足を真剣に見守る。
マンションの敷地に入ろうとする二人の前を、ちょうど痩せたよぼよぼの犬が通りかかった。
どこかの住民が引っ越すさいに置き去りにしたものだろう。
犬は何かをせびるように二人の顔を見上げ、同時に後ろ足の間に垂れた尻尾を半分ほど上げて
クーンと鳴いた。
次の瞬間、シンジが仰天することが起きた。
レイが犬の腹を思い切り蹴っ飛ばしたのだ。犬はキャインと鳴くと、力ない足取りで逃げてい
った。
「あ……綾波!? 何するの?」
シンジは絶句した。中学生の女の子が、何の躊躇もなく犬を蹴ったのだ。それも思い切り。シ
ョッキングな光景だった。
「犬を蹴った」
「いや、それは分かるけど、どうして!?」
「邪魔だったから」と、不気味なほど表情を崩さずにレイは言い放つ。
「邪魔だったって……だからって蹴っ飛ばしちゃダメだよ!」
「何で?」
「何でって……可哀想じゃないか。別に噛み付こうとしてたわけじゃないんだし」
シンジはめまいを感じた。犬を蹴っては駄目だなんて、いちいち説明することではない。
「碇君」レイは冷たい声で言った。
「え?」
「私にいちいち指図しないでくれる?」
呆然と立ちすくむシンジを背に、レイは何事もなかったかのように歩き去っていった。

その日の夜はさすがにレイとアスカもいがみあうことに疲れたのか、居間で大人しくテレビを
見ていた。
食後から数時間経ち、何とはなしに気怠く、物憂げな時間が三人の間に流れている。
ミサトはいったん本部に戻ってまだ帰ってこない。まだ書類の整理が終わってないらしく、遅
くなるとの電話があった。
レイはミサトのパジャマを着て、ぺたんと座り込んでいた。当然レイにはぶかぶかで、たとえ
ば腕は指先まで隠れているありさまだ。
そんなレイの姿に、露出気味のアスカのものとは違う奇妙な色気を感じてしまうシンジだった。
アスカに悟られないように横目でその姿を見ていると、初日の騒動のことを思い出した――。

「うわぁっ!」
シンジが慌てて後ろを向いた。
「ちょっ、ちょっとファースト! あんた何してんのよ! シンジ、見ちゃダメよ!」
アスカは慌てて腰を浮かせ、シンジに指示をする。
「みっ、見ないよ!」
風呂上りのレイがバスタオルを首にかけ、下着姿のまま居間に入ってきたのだった。
「何してるって……何?」
不思議そうな顔でレイが言う。
「いくらこいつが軟弱で根性ナシだからって、そんな扇情的なカッコでうろつかれたらどうな
るか分からないわよ?」と、呆れたようにアスカは言った。
「扇情的?……それって碇君が私に性欲を感じる……ってこと?」
アスカはあやうく飲みかけのアイスティーを吐き出しそうになった。シンジは真っ赤になって
下を向いている。
「あんた、ちょっと、言い方ってもんがあるでしょうがっ」
「碇君は、大丈夫よ」
レイは意味ありげな様子でシンジを見た。
「何でそんなことが言えるのよ」
「だって」と、レイは口を開いた。「碇君が私の部屋に来たとき……」
「うわあああっ!」シンジは手を振ってレイの言葉を遮った。「綾波、ストップ!」
「な、何なのあんたたち……。デキてんの?」アスカはひるんだ。
「デキてなんかないよ! 何言ってるんだよ、惣流。変なこと言うなよ。綾波に迷惑だよ。…
…そうだ、お風呂入ってくる」
シンジは立ち上がるとよろけるようにバスルームへ去っていった。
「なーんか怪しいの」
アスカがレイのほうを見ると、レイはくすくすと笑っていた。
「あんた、あいつのコトからかったんでしょ」アスカは呆れたように言った。「タチ悪いのね」

――あれには参ったな。
一緒に住んでみると、レイには人の目を気にしない側面があるとシンジにも分かってきた。い
や、人の目というより人を人とも思わないと言ったほうがいいのか……。
「ね。ファースト」
アスカの言葉にシンジは現実に戻った。
「……何?」と、レイは前を向いたまま答える。
「あんた、家族とかは?」
シンジはドキリとした。シンジには訊きたくても訊けない話だった。
幼いころ父――つまりゲンドウ――に引き取られ、去年から一人暮らしをしていると聞いては
いたが、それについての詮索はシンジにはできなかった。どんな事情があるか分からないから
だ。ミサトもリツコも詳しいところは知らないようだった。
「いないわ。私は小さいころに司令に引き取られた。それ以前の記憶はないの」
「……悪いこと訊いたわね」
「別に。興味、ないもの」
アスカが眉をひそめた。
「興味ないって、どういう意味?」
「文字通りの意味。私の家族は死んだのかも知れないし、どこかで生きてるのかも知れない。
どっちか知らないけど、私はどうでもいいってこと」
シンジとアスカの目が合った。さすがのアスカも呆気にとられた顔をしていた。
シンジはぞっとしていた。レイは強がりでそう言っているのではない。本気だった。だからこ
そ背筋が寒くなったのだ。
「自分がどういう経緯で預けられたのか、司令に訊いたこともないの?」
「ない」
「気にならないの? 本当に?」
「全然、ならない」
レイの無表情は変わらなかった。何かを隠している顔ではない。本当の意味での無表情だった。
何故かシンジは見ていられなくなって、俯いてしまう。
テレビからどっと笑い声が流れて 微妙に重い空気に白々しさを付け加えた。
レイが歯を磨きに洗面所に行った隙に、アスカがシンジに押し殺した声で話しかけてきた。
「あいつ、ちょっとおかしくない?」
「……いや、別に、おかしくない……と思うけど」
きっぱりと言ったつもりだったが、濁したような口調になった。
「何もしてないときってあるじゃない? 見てると、何てーのかしら、ぼーっとしてるんじゃ
なくて、魂が抜けてるような気がするのよね」
アスカは腕組みして考え込むような表情になる。それはシンジも感じるところだった。レイが
何もせず、真正面を向いて座っている様子を見ると、全身の産毛がそそけ立つ気分になること
がある。
「さっきもさ、本当に家族のこと興味ないっていう感じだったじゃん。そんなのってある?」
「うーん……」
父とのことがあるだけにシンジには答えられない。本音を言えばありえないと言いたいところ
だ。
「何か、あいつ……。ちょっと可哀想、かな」
シンジははっとした。アスカの顔に、今までの彼女のイメージでは想像できないような翳が差
した気がしたからだ。
しかしそれは一瞬のことだった。
「ま、いいけどさ。私には関係ないことだし。……私、もう寝る」アスカは立ち上がるとシン
ジを睨みつけた。「今、あんた私の寝姿想像したでしょ。絶対にのぞかないでよ!」
「想像してないし、のぞかないよ」シンジはため息をついて言った。


そして、一日千秋の思いで待ちわびていた最終日。
この六日間はシンジにとってまさに地獄と言うべきものだった。
アスカはことあるごとにレイにつっかかるし、片やレイはことあるごとにアスカに嫌味、皮肉、
当てこすりを言うのである。
その度にシンジが間に割って入り、その場を丸くおさめるのに最大限の努力を払うのだった。
心労のあまり日に日にシンジは食が細り、頬は痩せこけ、目は落ち窪み、あばら骨は浮き出て
――というのは言い過ぎにしても、これがあと一ヶ月続けば確実にその状態になっていただろ
う。
そんな地獄の日々も、今日で最後だ。
幸いにもユニゾンの練習は二人とも口喧嘩を適度に――つまりシンジがくたくたに疲れる程度
に――はさみつつも真面目にこなしていた。
最後はミサトさんも太鼓判を押していたから大丈夫だろう。いや、大丈夫に違いない、大丈夫
であってくれ――シンジは心からそう願った。
万が一、失敗してもう一度N2爆雷投下で使徒の侵攻を阻止、その間にまた練習を――などとい
う事態になったら、家出を真剣に考慮する羽目になる。
――これ以上は僕には無理だ。
横になり、音楽を聴きながらシンジはそう結論づける。
曲が変わった。
ふと、この前の家族の話を思い出した。
あのときシンジはレイの赤い目の奥に闇を見た気がした。
あるいは、どこまで続いているのか想像もできないし、底があるのかも分からない、暗くて深
い海。
人間嫌いとか、孤独を好む性格とかでは言い表せない、とても異質なものがそこにはあった。
それはまるで人間とは――。
シンジは首を振った。これ以上はレイを侮辱することになる。
――綾波……。
シンジの胸がちくりと痛んだ。
それはないよな、とシンジは思う。
平気で犬を蹴ったり、家族がいなくてもさびしくない――というよりも、さびしいという感情
が備わってないような物言い。
エヴァに乗るのは大人に自分の言うことを聞かせるため。
監獄よりも寒々とした、異様な部屋。
何より彼女はこの環境を嫌がっていない。自ら進んで受け入れている。
本当はイヤなんだけど仕方なくエヴァに乗っている、というほうがまだ救われる。
いや、それは自分のことか――とシンジは苦笑する。
――綾波が現状でいいのなら僕がとやかく言うことじゃないのかも知れない。
実際、レイが何か悩みを抱えているようには、とてもではないが見えない。
しかし、シンジは釈然としない。どこか痛ましいものをレイに感じてしまっている。
――綾波って、何を考えているんだろう。
考えるうちに、よく分からなくなってくる。
と。
突然ふすまが開いた。
シンジは自分でも惚れ惚れするほどのスピードで音楽を止めて、眠っているフリをした。
柔らかい足音がして、次にどさりという身体が倒れこむ湿った音。
慎重に目を開いたシンジはその人物の正体を見た。
――アスカ!?
アスカが寝ぼけてシンジの寝床に入ってきてしまったのだ。
混乱するシンジ。アスカの寝顔がまともに視界に入ってくる。
黙っていれば貶すところのない美貌を見ていると、心臓が突然思いついたように自己主張をは
じめた。
――どっ……どうしよう。起こしたほうがいいのかな。
やっぱり起こそう。
決心した途端にふすまが再び開き、シンジの身体が硬直した。
ミサトは残業でいないから、今度はレイしかいない。
――いったい何をしに? って、ちょっと待てよ、これは誤解されるシチュエーションではな
いだろうか。
弁解するべきか、それともいっそ眠ったフリをしたほうがいいのだろうか?
シンジの心は千々に乱れるが、とりあえず眠ったフリをすることにする。
しかし事態はシンジの思いも寄らない方向に向かっていった。
同じように足音がして、同じように身体が倒れこむ音がする。
――え?
後ろを見ると、すやすやと眠るレイの白い顔が。
――い、いったい何だこの状況は!? 
シンジはふとあることを思いついた。
――まさか、これは……シンクロの成果!?
アスカとレイの身体から漂ってくる甘い香りで頭がくらくらした。
どちらに目を向けても柔らかそうな身体が目に飛び込んでくる。さすがのシンジもこれはたま
ったものではない。
――居間で寝よう。
そう決めたシンジは、ゆっくりと立ち上がって寝場所を移そうとした。
しかし――。
――!?
上半身を起こそうとしたとき、まるで狙ったようにアスカの足がシンジの足に乗っかってきて、
シンジの動きを封じてしまった。
シンジが激しく動揺した次の瞬間、今度はレイの手がシンジの胸の上にどさりと乗ってきた。
――何でこんなことに……!?
シンジはケンスケの言葉を思い出した。前門の虎、後門の狼とはまさにこのことだ。
シンジは諦めて、仰向けになって必死に眠ろうとした。
しかし睡眠というのはこちらが手を伸ばすほど遠ざかってしまうものであり、結局シンジは朝
までほとんど眠ることが出来なかった。


作戦当日。
シンジはミサトやリツコと一緒に、発令所で作戦を見守ることになった。
大人たちがきびきびと己の仕事をこなしている中、子供の自分が所在なげに立ちつくしている
のはどうにも場違いな感じがして仕方が無い。
その居心地の悪さを誤魔化すように、赤くなった頬をさすっていた。
目ざとい加持はすぐに気がついた。
「おや、シンジ君。その頬は誰にぶたれたんだ?」
「……惣流ですよ」
起き抜けにアスカに平手打ちを食らったのだ。シンジは自分は悪くないと抗議したものの、弁
解を許さないアスカに結局は謝罪することになった。
レイのほうは何も言わず、何もなかったかのように振舞っていた。実際特に何も感じていない
のだろうとシンジは考えている。
それはそれで少しさびしいような気がしないでもない。
「君は女の子を怒らせるタイプなのかな? そうは見えないんだがなぁ」
「僕が悪いんじゃないんですよ!」
「……女の子を怒らせるタイプは加持君、あなたでしょ」と、ミサトが冷たく口を挟む。
「俺は君を怒らせるようなことをした覚えはないんだがな。むしろ喜んでもらえるような」
「あーはいはい、黙った黙った! もう、今日は作戦決行の日なんだから! ふざけていると
出てってもらうわよ!」
加持はシンジと目を合わせると、大仰に肩をすくめてみせた。

……零号機と弐号機の蹴りが使徒のコアに同時に突き刺さり、破壊した。
「やった!」ミサトはガッツポーズを取り、振り返った。「シンジ君も大変だったでしょ」
ミサトはシンジを見て、くすりと笑った。リツコと加持も微笑を浮かべている。
緊張の糸が切れたのか、シンジは座り込み、壁に背をもたせかけて穏やかな寝息を立てていた。
「お疲れ様、シンジ君」




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