一人目は笑わないWritten by 双子座
10. 相も変わらずうんざりするような快晴の日だった。居丈高な太陽の周りを、申し訳程度の雲が 臣従のように取り巻いている。 その青空の下、レイは手ぶらで通学路を歩いていた。教科書や勉強道具などは学校に置きっぱ なしなのだ。勉強など大してしなくてもテストの成績はいい。学校に出席しなくてもうるさく 言われない所以である。 同じクラスの男子生徒が数人、レイの少し前を歩いていた。レイには気づいていないようだ。 特に聞き耳を立てているわけではないのだが、自然と話し声が耳に入ってくる。 「碇のやつさぁ、惣流と同棲してるんだってよ」 「本当かよ! まったく羨ましいよなぁ。美人の司令官と一緒に住んでるって話は聞いてたけ ど」 「司令官じゃなくて大佐だって話だぜ。いや、大佐じゃなかったかな?」 「まぁ、そこら辺はどうでもいいけどさ」 「相田くらいだな、気にするのは……。あいつら、もうキスとかしてるんじゃねえの?」 「何だかんだいって仲良さそうだからなぁ。惣流、碇と話してるときが素って感じ、するんだ よな」 「俺もそう思う。いいよなぁ。羨ましいよなぁ」 レイは足を止めた。俯いて、少しの間、そこに立ちつくしていた。 みしり――と、何かが軋む音を、レイは聞いたような気がした。 教室に入ると、シンジとアスカはもう来ていた。もっとも二人が早いのではなく、レイがいつ ものようにぎりぎりで登校するだけの話なのだが。 二人は何か口喧嘩をしているようだった。あれで仲が良いのだろうか、とレイは不思議に思う。 とてもそうは見えない。いつも言い争いばかりしている。 ……もうキスとかしてるんじゃねえの? 別に、したければいくらでもすればいい。 私には関係のないことだ。 レイは頬杖をつき、窓の外の青空と空に浮かぶ雲を見て――眉を顰める。雲の形が気に入らな かったし、抜けるような青空も逆に嘘臭くて気に障る。 「だいたい何で僕がアスカの持ち物まで気にかけなきゃいけないんだよ! 忘れたのはアスカ の自業自得だろ!」 「うっさい、レディに気をつかうのが男ってもんでしょーが!」 うるさいのはあなたよ、とレイは思った。少しは黙っていられないのか。 「誰がレディだよ、まったく……」 シンジの呆れたような反論に、生徒の何人かが含み笑いを洩らした。 昼休みになり、今日の昼食はどうしようかとレイは考える。食欲がなかった。買いにいくのも 面倒だ。 思い返すと、ここ最近は学校に来ている。ここ最近――碇シンジが転校してきてからだ。 以前はよく休んだり、登校しても昼で帰ったりしていたものだが。 しかし――。 ――今日は気分も悪いし、久しぶりに早退してしまおうか。 決断すると即行動に移るのがレイの性分である。 腰を浮かせた、その時――シンジに声をかけられた。 「綾波」 「――何?」 自分でも不機嫌だと分かる声音。なぜ不機嫌なのかは分からない。 「これ」シンジは右手に持っていたものをレイの机の上に置いた。「お弁当。良かったら…… 食べて」 シンジはレイの不審気な表情を見て慌てて付け加えた。 「いや、アスカとミサトさんの分、僕が作ってるんだ。一人分増えても大した手間じゃないか ら」 レイは黙って弁当箱を見る。 「えーっと。いらない?」 「……いえ。もらうわ」 レイの無表情が少し崩れた。何かシンジに言うことがあるような気がして、口を開きかけたの だ。だが、考えているうちに、 シンジは「じゃあ」と言って自分の席に戻ってしまった。ジャージとメガネに囃し立てられて いるようだ。 その様子を横目で見ていると、アスカと視線が合った。面白くなさそうな顔をしていた。ふと アスカの手元に視線をやると、弁当箱の下に敷かれているのは、レイの目の前にあるのと同じ 模様のランチクロスだった。 視線を正面に戻し、レイは弁当箱に手をかける。 その日は結局、早退せずに、最後まで授業を受けた。 □
「ん?」 あれ、という顔でシンジは手に持った受話器を見た。 「それは碇司令、ホントに忙しかったんじゃないの」と、先頭を行くアスカが言った。 シンジが、ゲンドウとの電話中に、急に回線が切れたという話をしているところだった。 「そっかなー、途中で切ったっていうより故障した感じだったけど」 シンジはいまいち納得がいかない様子だった。もっとも、実際に耳にした者でなければこの違 和感は分からないかも知れないとも思う。ぶつり、という音も聞いたような気がする。 「も〜、男のクセにいちいち細かいこと気にするのやめたら?」 アスカが眉をしかめ、呆れたように言った。 レイは二人の様子を、最後尾で黙って見ている。陽炎でゆらめく二人の背中が、やけに遠く感 じられた。 「下で何かあったと考えるのが自然ね」 何度押しても反応のない電子ロックのテンキーから指を離し、レイはまるで関心の無いような 口調で告げた。 カードも通らないし、どの入り口も開かない。非常回線も使えないという異常事態だった。 何はともあれ、本部に行かなければ話にならない。 三人は、第七ルートから本部に入ることにした。 □
「しっかし、ちょろい相手だったわね。あんなのばっかりだったら物足りなくてしょうがない わ。オードブルだけ食べて帰らなきゃいけない感じ?」 アスカは首の後ろで手を組み、壁に背中をもたせかけ、組んだ脚をぶらつかせながら言った。 「え……大変だったじゃないか」と、シンジは少し目を丸くする。 実際、いつものようにレイとアスカの仲裁に奔走したシンジにとっては、大変どころの話では なかった。エヴァに搭乗できてホッとしたくらいなのだ。 レイとアスカの諍いがあまりに頻繁なので、仲裁に入るスピードも手法もだんだん手馴れてき ていることに少し複雑な気持ちを覚えるシンジだった。 「バカね。それは停電という状況がタイヘンだっただけで、敵自体は楽勝だったじゃん。あん た程度のライフルで片付くくらいなんだし」 「別に、誰のライフルでも一緒だと思うよ」 「うっさいわね。私が撃つライフルの方が威力が凄いし、射程距離だって長くなるのよ! 私 みたいに美しい乙女が撃つ方がライフルだって喜ぶでしょ?」 「滅茶苦茶な話だ……」 三人は溶解液で侵入を図った第九使徒を撃退したあと、そのままネルフ本部で待機を命じられ ていた。 何があるか分からないからというのがその理由で、アスカもシンジもそれで納得しているよう だが、使徒の件が片付いた以上、単にパイロットに構っている暇がないだけではないかとレイ は疑っている。ここにいるのが飽きたらすぐに帰るつもりだった。 「それにしても暑いわねぇ……。電源はまだ回復しないの?」 アスカがぱたぱたと手であおぐ。 「予備は回復してるよ。ここの電気も付いてるし。本格的な復帰はもうちょっとかかるらしい よ」 アスカはあっそ、と返答するとレイに視線を向けた。 「あんたはいつも涼しそうでいいわね、ファースト」 レイは無視を決め込んだ。確かに涼しげに見えるレイだが、暑さを全く感じないわけではない。 その証拠に今も暑さのせいで苛々している。アスカを無視しているのも、まともに相手にすれ ばますます暑苦しくなるからだ。 「いかにも冷血人間って感じだし、暑さも感じないんでしょうね」 無視を続けるレイに、普段ならさらにつっかかるアスカだが、この台詞だけ言って素直に引っ 込んだ。 どうやら機嫌がいいらしい。 「それはともかく! シンジ、これであんたに借りは返したからね」 借りを返す? なんのことか分からずにレイは首をひねる。しばらく考えて、やっと分かった。 浅間山で助けられたことか。 レイは借りを作るとか、恩に着るといった思考をしないので、とっさには思いつかなかったの だ。 シンジはアスカの言葉を聞いて、苦笑いのような笑みを浮かべた。 二人に何か通じ合うものがあった――ようにレイには思えた。 それが直接のきっかけになったのか、あるいは単に荷物を限界まで積んだロバに最後に乗せた 藁の一本だったのかは分からない。分からないが、この時レイは無意識に決意したのだった。 アスカはおもむろに立ち上がると、出口に向かってどかどかと突き進みはじめた。 「あーもう我慢できない! シャワー浴びてくる!」 「でも、たぶんお湯は出ないと思うよ」 「水は出るでしょ? それで十分!」 アスカはいったん外に出たものの、すぐに顔をのぞかせて、「のぞかないでよ! のぞいたら 殺すから」と鼻に皺を寄せて宣言した。 「のぞかないよ!」まったく、とシンジは肩をすくめて、「……参っちゃうよね、アスカにも」 所在なさげになったシンジが少し笑いながらレイに話しかける。 「だいたい、自意識過剰なんだよな……。そうそう、この間僕が……」 「知ってる? 碇君。弐号機パイロットの過去」 レイはシンジの言葉を遮った。 「え?」 「教えてあげる」 ……それからレイはアスカの過去を詳細にシンジに語った。くすくすと笑いながら語った。途 中で可笑しさに耐え切れず、たびたび中断した。 「――それで、自分の母親が首を吊ってるところを見たんだって」 あはは、とレイは声を立てて笑った。 おかしいね。 おかしいよね、碇君。 どんな気持ちだったんだろうね。 私は親がいないから分からないけど、母親がそんなことになって、どんな気持ちだったんだろ うね。 夢にも出てくるんだろうね。 碇君、照る照る坊主でも吊らしておいたら? あの猿が見たらびっくりするわよ、きっと。 そんなことを言いつつ、レイは笑った。話す内容さえ脇に置けば、女子中学生らしい、純真そ うな笑いだった。 ひとしきり笑い――レイは真顔に戻る。シンジはまったく笑っていなかった。青ざめた顔で、 レイを見ていた。 「綾波……」喘ぐように、シンジは言った。「そのこと……絶対、アスカには……、いや、僕 以外の人に喋っちゃ、ダメだよ」 レイの唇が少し歪む。指図されるのは大嫌いだった。たとえ誰であろうとも、どんなことであ ろうとも。 「絶対に、ダメだ」 「私の勝手だから」 レイは、吐き捨てるように言った。 そんなの、私が決めることだから。 「ダメだ! 綾波!」 突然の怒鳴り声にレイは驚いた。他人に向かってこういう風に怒鳴る男だとは思わなかった。 シンジに抱きつかれるほうが、まだしも驚かなかったろう。 レイはカッとなる。 よりによって、この自分に向かって。 「ダメ? 碇君、あなたどんな権利があって私にそんな事言うの?」 レイの声がきつくなる。他人に怒鳴られて大人しく引っ込むレイではない。 「綾波、君は……人の気持ちが、分からないの……?」 レイは首を傾げた。私が、人の気持ちが分からないですって? おかしなことを言う。 「人の気持ちなんて分かるわ。弐号機パイロットは嫌がるに決まってる、触れられたくないこ とに決まってるわ。ほら。私には分かる。簡単に分かる」 「……いや、違うんだ、綾波。そういうことじゃない。そういう……ことじゃないんだ」 シンジは違うんだ、と繰り返し言った。違うんだ、綾波。違うんだ……。 「なら、何?」 「人の……嫌がることを言ったりしちゃいけないんだ」 シンジはまるで眩暈がしたようにふらりとよろめいた。親指と人差し指でこめかみを押さえて いる。 「なぜ? どうして人の嫌がることをしちゃいけないの? 私がしたいんだから、いいのよ」 「綾波……」 シンジは絶句した。 「綾波……」 レイは不思議そうに問いかける。いや、本当に不思議だった。 「碇君、あなた……何で泣いてるの?」 シンジは涙を流していた。大粒の涙がぽろぽろとシンジの頬を流れていく。 シンジは口を噤んだまま答えない。 ふいに――。 レイの胸に、苛立ちが湧いた。 「何で泣いているか、訊いてるんだけど?」 「可哀想、だから……」 「誰が?」 顔をしかめてレイは訊ねる。あの猿が可哀想だというの? まぁ、確かに客観的には可哀想と 言える状況だろう。レイには面白くないことであったが、シンジがそう思うのも無理はない。 しかし、シンジの答えはレイの予想だにしないものだった。 「……綾波が」 「……は?」 レイはぽかんと口を開け、シンジが「……なんて、冗談だよ、綾波」と言い出すのを待つかの ように、シンジの口の辺りを凝視した。 しかし、シンジはそれきり黙ったままだ。 ――私? 私が可哀想? ・・ 「私が?」 どうやらシンジは真面目にそう言っているのだと理解すると、レイの頭の中が真っ白になった。 目の前で閃光弾が炸裂したかのようだ。 ・・ ・・・ 「私が、可哀想?」 レイの、ただでさえ白い顔が、新雪のように白くなった。 「何で?」 レイは、シンジに詰め寄っていた。 「何で、私が可哀想なの?」 シンジは黙っている。黙ったまま、レイの赤い目を見つめている。 「答えて」と、レイは言った。声が震えているのが自分でも分かった。それがレイには気に食 わなかった。まるで、動揺しているみたいではないか。 「答えて、碇君!」 レイは叫んだ。 シンジはそれでも何も答えない。 気がつくと―― レイは、右手を振りかざしていた。 肉が肉を叩く、乾いた音。 シンジは避けなかった。避ける素振りも見せなかった。レイの右の掌がシンジの左頬を張った 瞬間をのぞいて、ずっと、レイの目を見ていた。 レイは唇を震わせた。何か言うべきだと思ったが、言葉は何も出てこない。 シンジを睨みつけ――踵を返すと、アスカと同じようにドアに向かった。危うく走りそうにな るが我慢する。 ドアが開き、ちょうどシャワーから帰ってきたアスカと鉢合わせした。 「ん?」 アスカは目をぱちぱち瞬きさせて、 「どうしたの? あんた、何か、凄く怒ってる?」 次の瞬間、アスカはレイに突き飛ばされ、よろめいた。 「な、な、何よ?」遠ざかるレイの背中に呆然と目をやる。 「何なの、いったい?」 アスカはきょとんとした顔で言った。 □
どいつもこいつも―― 死んでしまえ。 猿も、碇シンジもだ。 レイは腹立ち紛れに足元の小石を思い切り蹴飛ばした。小石は夜の闇の中に、溶けるように消 えていった。 闇の色は濃い。疎開が相次いでいるせいで、夜に灯りをつける家が減っているからだ。 道路沿いに配置されている街灯も、使徒との戦闘のためにところどころ破壊され、修理されず に放置されているため、その役目を十分に果たしているとは言い難い。むしろ暗闇をいっそう 暗くしている感がある。 その濃密な闇が支配する夜の道を、レイは唇を噛みしめながら歩いていた。 馴染みのステーキ屋に行って肉を貪るように食べてきたところだった。ほとんどやけ食いに近 いような食べ方で、殺気溢れるレイの食事に周囲の客も唖然としていた。 このまま真っ直ぐ家に帰っても、煮えくり返るような腹立ちはおさまらないだろう。だから、 歩くことにした。 歩いているうちに多少は落ち着いてきたものの、タールのようなどす黒い怒りを燃料に、まだ 炎は燃え続けている。 今まで感じたことのないような感情だった。いつもの瞬間湯沸かし器的な、ほとんどその場限 りのものとは違って、いつまでもしつこく残り続けるような感じの怒り。 レイは無意識に親指を唇に持っていき、爪を噛んだ。 哀れむということは、馬鹿にすることだ。碇シンジは――あの男は私を哀れんだ。私はあの男 に哀れまれた。馬鹿にされたのだ。 今まで生きてきて、あそこまで面と向かって馬鹿にされたことはない。 胸がむかむかする。なにか大きい塊がつまっているようで、気持ちが悪い。吐き気すら感じる。 何様だと思ってるのだろうか、あの男は。 私が―― 私が、可哀想? 許せない。 絶対に許さない。 レイは憤怒に身を焦がしてはいるが、同時に後悔もしていた。馬鹿なことをしたとも心の片隅 で思っている。 なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう――と。 普段の怒りと質が違うのは、自省の念も込められているから――つまりは自分にも怒りの矛先 が向けられているからなのだが、レイは自覚していない。何となく、いつもと違うと思ってい る。 シンジとアスカが話しているところを見たら、アスカの家庭の事情を言いたくなった。言いた くなったら口に出すのがレイの性格で、それだけのことだ。 それの何が悪い? だいたい、なぜ泣く? 意味が分からない。あの涙は何? 第五使徒戦で泣いたのはいい。 あれは、私が無事だったからだ。 ――あれ? レイは足を止めると、近くの電信柱に手をかけた。俯いて、考える。 よく考えるとおかしいことがある。 私が無事で、なぜ碇シンジが泣いた? あの男の性格を考えれば、無事でないよりは、無事のほうが嬉しいだろうというのは想像でき る。 しかし、泣くようなことではない。 逆の立場だったら、私は泣くだろうか? 碇シンジが無事で、私は泣く? 泣かない。当たり前のことだ。 だいいち、私は今まで泣いたことがない。泣くという行為が、分からない。 ない――と思う。 ゲンドウは泣くだろうか。泣かない。ミサトは? リツコは? クラスメイトは? その他ネ ルフの人間は? 誰も泣かない。誰も私のために泣いたりはしないだろう。 あの男だけが私のために涙を流した。 あの男だけが、私のために涙を流すのだ。 ということは。 さっき泣いたのも、私の――。 前方からのハイビームの強烈な光にレイは目を細めた。カーブを曲がってきた車が放つ光だっ た。 同時に、道路の向かい側から小さな生き物が渡ってくるのを視界の隅に捉えた。 犬だ。仔犬がこちらに歩いてくる。 鋭い、耳に突き刺さるような音。 急ブレーキの音。 一秒の何分の一の短い時間でレイの脳裏をよぎったものは、 ……犬を蹴っちゃダメだよ。 というシンジの言葉だった。 レイは、舌打ちとともに車の前に飛び出していた。 □
ネルフに入って一番辛いことは、と訊かれたら、青葉シゲルは「待つこと」だと答える。 いや、青葉ならずとも、ネルフ関係者のほとんどはそう答えるに違いない。 なにしろ使徒はいつ、なんどきやって来るか分からない代物なのだ。 人間という生物は、常時緊張を保てるようには出来ていない。どうしたって気が抜けるときが ある。 ……というわけで、遅番に入っている長髪のオペレーター、青葉シゲルは、椅子にだらしなく 座り、エア・ギターを弾いて時間を潰していた。 ソリッドでヘビーな(つもりの)リフからシャープなカッティングを使用したセンスのある (つもりの)バッキング、ソロはタッピングやスキッピングを多用したテクニカルな(つもり の)もの。最後はパワーコードを一発かき鳴らして……。 「ジャー……」 ン、と言い終わらないうちにけたたましい警戒音が鳴り響いた。 「うわっ、と!」 思わず前のめりになりつつも、モニターを確認する。 「ATフィールド発生!」 使徒か? 青葉の全身に緊張が走る。 「パターンオレンジ、解析不……いや、人間!?」 モニターにはHUMAN BEINGの文字が点滅している。 青葉は舌打ちした。どうなってる? こんなことは想定外だ。 「どうしたの?」 いつものように残業中だったリツコが白衣姿で駆け込んできた。かすかに声が掠れているのは タバコの吸いすぎのためだろう。 「いや、それが……」 青葉はいったんリツコにやった視線を再びモニターに戻す。すると―― 「ATフィールド、消失……しました」 警戒音も止まっている。 「発生場所は……?」 「ここです。いったん発生して瞬時に消えました。時間にして……0コンマ89」 青葉が拡大した場所をモニターに映して指し示した。 リツコは顔色を変えた。「ここは……!?」 「ご存知ですか? ここに、何か?」 「……いえ、何でもないわ」リツコの表情は黒板消しでチョークを消したようにすっと元に戻 った。「どうやら誤作動のようね。機械であれ、人間であれ、100%はないということよ」 「ええ、まぁ……。人間がATフィールドを展開するなんて、有り得ないことですからね」 「一応、部隊を送って調べて頂戴。私はログを解析してみるわ」 「了解」 さっそく手配にかかる青葉を横目に、リツコは気づかれないようにそっとため息をついた。 「まったく……。どういうつもりなのかしら、あの娘」 □
レイは、目の前のフロント部分がひしゃげた乗用車を無表情な顔でしばらく見つめると、横に 回りこんで運転席を覗き込んだ。 中年の女性が呻きながら顔を起こそうとしていた。 スピードを出していなかったのと、エアバッグのお陰で怪我はしていないようだ。せいぜい鞭 打ち病に悩むくらいで済むだろう。 まさか何もないところで壁にぶつかるとは思わなかっただろうから、精神的なショックは大き いかも知れないし、警察や保険屋に説明するのにひと苦労するかも知れない――というより説 明できないかも知れない――が、それはレイの知ったことではない。 レイはその場から離れ、家へと歩きはじめた。あと五分も歩けば着く。 この場にはもうすぐネルフの連中が来るはずだ。それまでには退散したかった。面倒はご免だ。 そこで仔犬の鳴き声に気づき、レイは立ち止まった。 そうだ。犬のことをすっかり忘れていた。 レイが立ち止まると仔犬も立ち止まり、舌を出しながら何かを期待するようにレイを凝視した。 お世辞にも可愛いとは言えない仔犬だった。むくむくとした全身の毛は薄汚れている。レイは 犬の種類など知らないし、興味もないから、何犬なのか分からない。 「……ついてくるな」 犬に人間の言葉通じるわけがない。馬鹿げたことをしてる、とレイは思った。もっともそれを 言うならこうやって犬を助けたこと自体が馬鹿げている。 いったい私は何をしているのだろう? 今日は馬鹿なことしかしない日のようだった。 犬から目を逸らすと、また歩きはじめる。 柔らかい足音から、犬が後をついてくるのが分かった。 今度は廃屋のような、レイだけが住民のマンションの前まで振り返らなかった。 「……蹴るよ?」 レイはサッカーボールを蹴るときのように、右足を後方に跳ね上げた。その姿勢のまま数秒と まる。バランス感覚が発達しているのか、微動だにしない。 仔犬は脅しなどものともせず、同じように微動だにせずレイを見つめている。 「ちっ」 舌打ちすると、跳ね上げた足を思い切り地面に叩きつけた。 アスファルトと靴底から生まれた、やや甲高い、鞭を打つような音に仔犬はびくりと身体を震 わせる。 レイはふんと鼻で笑うと、階段を上りだした。 自分の部屋の前まで来ると、ドアノブに手をかけて考える。 犬が後をついてきているのは見ないでも分かっていた。 このまま素早く部屋に入って放って置けば、犬はどこかに行ってしまうだろう。それで仕舞い だ。 今日は馬鹿なことしかしていないのだから、最後ぐらいはまともな行動を取らないといけない。 私は馬鹿ではないのだから。 碇シンジに馬鹿にされるような人間ではないのだから。 レイはドアを見つめながら言った。 「あなた、ひとり……?」 仔犬が、くーんと鳴いた。 「そう。私と同じね。私も……」 レイはドアに額を押し付けた。ひんやりとした感触が心地良かった。 ――私も、ひとり。 しばらくそのままでいた。 それからレイは、愚行続きの今日のなかでも、とびっきりの馬鹿げたことをした。 ドアを開けると、仔犬に向かってこう言ったのだ。 「おいで」 |