一人目は笑わない

Written by 双子座   


11.

レイはシンジと言葉を交わさなくなった。シンジの方からは話しかけてくるが、レイが徹底的
に無視するのだ。
それもわざとらしく無視するのではなく、本当に言葉が聞こえないような態度であって、同時
に周囲が鼻白むほどの徹底振りだった。
ケンスケなどは、シンジがレイに話しかけた時、レイのあまりの反応の無さに自分の空耳では
ないかと疑い、シンジに「お前、今綾波に何か言ったよな?」と確かめたほどである。
こういう無視の仕方は綾波レイにしか出来ないのではないかと思わせるような、背筋が寒くな
るほど非人間的な振る舞いだった。
「あんたたち、何かあったの?」
アスカも目を丸くしてシンジに訊く始末だった。
「うん、ちょっと……怒らせちゃって」
アスカに限らず、誰かに同じ事を訊かれると、言葉少なにシンジはそう答えた。

レイは無言のまま思い切り弁当箱を払いのけた。弁当箱は隣の席の生徒の机に当たり、床に落
ちた。
昼休みの浮ついた喧騒に包まれていた教室が、レイの周囲だけ静寂に変わった。
「何すんのよ!」
すぐにアスカが血相を変えてレイに詰め寄る。
アスカの怒声に今度は教室中が静まり返り、全員の目が三人に集まった。
「いいんだ、アスカ。僕が余計なことしたから……」
シンジは静かに言うと、腰を屈めて床に落ちた弁当箱を拾い上げた。
「よかないわよ! せっかく作ったのに……。それにね、私は食べ物を粗末にするやつは許せ
ないの!」
アスカは髪の毛を逆立てんばかりにして怒っていた。珍しいことに、他人のために怒っている。
レイはアスカも周囲の目も意に返さず、正面に視線を置いたまま静かに立ち上がった。滑らか
だが、どこか機械を思い起こさせる動きだった。
「どこ行くのよ」と、アスカが手を広げて通せんぼをする。
「どきなさい、猿」
レイはあくまでアスカもシンジも見ない。
「猿って言うな、この」
無論素直にどいたりするアスカではなかった。
「謝んなさいよ、シンジに」
レイはそこではじめてアスカを見た。その目が久しぶりに人間らしい感情に染まる。
「なぜ、私が謝るの?」
レイがどうやら本気で疑問に思っていると分かり、アスカは一瞬言葉を失った。
「……弁当、落としたでしょ!」
「……」
肩をすくめると、レイは無言でアスカを押しのけ、教室の出口に向かって歩き出す。
「あっ、こら……!」
アスカはレイの肩に手をかけようとして、逆に誰かが自分の肩に手を置いたことに気づいて振
り返った。
シンジが黙って首を振っている。アスカは追いかけるタイミングを失ってしまった。
ドアをぴしゃりと閉める音が、静まり返った教室にやけに大きく響いた。
「待ちなさいよ! このバカ!」
アスカの叫び声は虚しく跳ね返った。
石を呑んだように静まり返っていた教室が、それを合図にしたように徐々にざわめきを取り戻
していった。
トウジがサンドイッチを口に運びながら、目を丸くして言った。
「ひゃー。ゴジラ対キングギドラやな。ありゃ間に入ったらエヴァでもやられてまうやろ」
「委員長がいなくてよかったな。ガメラも加わるところだったぜ」と、頬杖をついて見ていた
ケンスケが言った。

「あら、レイ。犬の様子はどう? ちゃんと面倒見てる?」
「……ええ」
リツコはレイと本部の廊下ですれ違った。訓練帰りで、プラグスーツに身を包んでいる。一見
すると相変わらずの無表情だが、リツコには微妙に普段と違うものを感じていた。
もっとも、どこがどうとまでは分からなかったが。
「散歩は……連れてってないでしょうね」
レイが犬を散歩してる姿など想像も出来ない。自分で言ったことながら、おかしくて笑いそう
になる。
「放し飼いだから」
「そう。車に気をつけるのよ。まぁ、最近疎開が多くて通行量も減ってはいるけれど。そうそ
う、名前は?」
レイは不思議そうに首をかしげた。
「名前?」
「犬の名前よ。……まさか、つけてないの?」と、そんなわけがないだろうと思いつつも一応
訊いてみる。
「つけてないわ」
「じゃあ、何て呼んでるの?」
「犬」
「犬!?」
リツコはさすがにレイがそこまで無頓着だとは思わず、驚愕する。
「だって犬だもの」
「それはそうだけど……。普通は名前をつけるものよ、レイ。だいたい呼ぶときに困るでしょ
う」
ふうん、とレイは言った。もちろん、付ける気などなかった。椅子やテレビに名前を付ける人
間はいない。レイにとっては、それと同じことだった。
「考えておくわ」
リツコは気のない返事をして歩み去るレイの後姿を見ながら、この間の電話の件を思い出して
いた。

……電話が鳴ったとき、リツコはちょうど帰り支度をしている最中だった。電話を取るのに少
し躊躇する。
このところ残業続きで、さすがのリツコもいい加減疲れていた。今日は誤作動騒ぎ――本当は
誤作動ではないと考えていたが――もあって、さらに厄介ごとに巻き込まれるのは勘弁して欲
しいところだった。
数秒のためらいの後、諦めのため息をつくと受話器を取った。
「犬って、何食べるの?」
電話が繋がるなり、いきなり質問された。
「レイ……? どうしたの、突然」
レイの性格を知ってはいるものの、さすがに今回の突拍子の無さは過去に例があったかどうか
容易に思い出せないほどだ。
「いいから答えて。仔犬には何を食べさせたらいいの?」
「それは……無難なところだと、ドッグフードじゃないかしら? 仔犬用のものもあるらしい
わよ」
我ながら馬鹿馬鹿しい返答だと思うが、そう答えるしかない。まるで1+1の答えを真面目に質
問されたかのようだ。
「ドッグフード……。どこに売ってるの?」
「スーパーとか。あと、コンビニで売ってるけど」
「そう」
「ちょっと待ちなさい、レイ! あなたさっき――」
リツコはツー、ツーと愛想のない音を発する受話器を忌々しげに置いて、先ほどと同じ台詞を
吐いた。
「まったく……。どういうつもりなのかしら、あの娘」
しかし、いったんは上げた腰を再び下ろして、
「仔犬ですって……? ひょっとして、犬を飼うつもりなのかしら……。あの娘が?」
肘を机につき、手の甲に顎を乗せると、ふふ、と含み笑いを洩らした。
とても楽しそうな笑いだった。


レイは今日も学校に行かない。シンジの顔を見たくないからだ。
どうしてもネルフ本部では顔を会わせてしまうから、その分他の場所でシンジの顔を見る機会
を減らさねばならない。
学校に行かなくなると、自然と時間をもてあますようになった。
本部にいるとき以外、何もすることがない。今もこうやってベッドに寝そべって天井を見てい
る。
前は何をしていたのだろう? 単に以前と同じになっただけなのに。
半年も経っていないことなのに、思い出せなかった。不思議な気分だった。
まるで碇シンジが来る前と後で別人になってしまったかのようだ。
仔犬が寄ってきて、くーんと鳴いた。
レイは起き上がってベッドの端に座り、目の前でうろうろする仔犬を、まるでつい最近発見さ
れたばかりの新種の動物だとでも言うような目で見下ろした。
今まで犬はおろか、生き物など飼ったことがない。かといって人に聞くのも嫌だった。この間
はリツコに電話してしまったが、これ以上リツコに頼るのは避けたい。
そこで本屋にいって「犬の飼い方」の類の本を何冊か買ってきて、ぱらぱらと読んでみた。
結論から言うと、エサと水をやって、あとは放っておくということに落ち着いた。しつけだの
何だの書いてあったが、そんなことをする気はなかった。
むろん散歩になど連れて行かない。隣の部屋を開けっ放しにしておいて、自由に出入りさせて
おくだけだ。行きたいところにいけばいい。
そのうちどこかへ去っていくのかも知れないし、ここに居つくかも知れない。どちらでもよか
った。
仔犬がぶんぶんと尻尾を振って、何かをせがむように軽くジャンプした。
――エサ?
いや、エサはさっきやったばかりだ。エサでなければ何?
本に書いてあったことを思い出した。
……犬は飼い主に撫でてもらうと喜びます。
レイは手を伸ばして、仔犬の頭を撫でてみた。仔犬は舌を出し、目を細めて喉の奥で小さく鳴
いた。
掌が温かい。どこかで似たようなぬくもりを感じたような気がした。
目を閉じて記憶を探るが、思い出せない。
思い出せないから、黙ったまま犬の頭を撫でている。


ミサトはため息をついて、目の前に立つチルドレンの顔を順繰りに見ていった。
これから0コンマのあとに0が何個も続くような成功率しかない作戦に入るのに、肝心の三人の
仲がこれまでにないほど悪化しているのである。
具体的に言えば、レイと、シンジ・アスカの関係だ。いや、険悪なのはレイとアスカで、シン
ジとレイは険悪という訳ではない。
レイとアスカはまだいい。常識的な範囲内での険悪さであって、両者の性格を考えると、むし
ろ仲が悪い方が自然だとも言える。
問題はレイとシンジの方で、ミサトには原因不明の理由で、レイがシンジのことを一方的に無
視しているのである。
まるでシンジが透明人間かなにかで、レイにはシンジの姿を見ることも言葉を聞くこともでき
ないとでもいうような、自然でありながら同時に滴るような悪意を感じさせる態度だった。
シンジに理由を訊いても曖昧なことを言って答えないし、レイにいたってはどうせまともに答
えないのだから、質問する気にもなれない。
この場の空気はどんよりと、そしてひんやりとしていて、並みの神経の持ち主なら居たたまれ
ないものになっている。
「いい? あなたたち」作戦をあらかた伝えると、ミサトは腕を組んだ。「別に友達同士にな
れとは言わないわ。でも、作戦に支障が出るようじゃ困るのよ。
特に今回はあなたたち三人のコンビネーションが問われることになるんだから」
「ふん。こんなもの、私一人だってイケるわよ」
「アスカ」
ミサトは苦笑する。
無論、一人でこの広大な落下予測地域をカバー出来るわけがないのはアスカも分かってるし、
ミサトもアスカが分かってることは分かっている。
ほとんど条件反射的に口をついて出ただけだ。
「分かってるわ。誰かさんと違って、子供じゃないもの」と、レイが言った。
――また余計なことを。
ミサトは頭が痛くなる。
案の定、アスカがこれまた条件反射的に反発する。
「誰よそれは? 私だっての?」
「やめなさい、二人とも」ミサトはため息を無理矢理抑えつけた。「あなたは大丈夫、シンジ
君?」
「……え? ごめんなさい、何がです?」
シンジは顔を上げて、ぼんやりと答えた。
ミサトは頭を抱えそうになった。
本当に大丈夫なのだろうか?
あまり考えたくないことだが、奇跡は滅多に起こらないから奇跡――なのだった。

レイは微妙な違和感を覚え、落ち着かない気分になった。胸の奥がざわめくような、嫌な感じ。
もっともそう感じたのも一瞬のことだった。今は余計な事を考えている場合ではない。
ミサトの合図とともに、零号機をスタートさせた。


マンションの前にシンジが立っているのが、遠目からでも分かった。アスファルトから立ち昇
る熱気にゆらめき、幻のように見えるが、間違いなくシンジの姿だ。
レイは舌打ちとともに立ち止まり、引き返してどこかで時間を潰そうかと考えた。
――まさか。
それではまるで逃げているみたいではないか。
なぜ私がそんな真似をしなくてはならない? どうかしてる。
シンジは結構な距離までレイに気が付かなかったらしい。レイの影に少しの間目を留めて、そ
れから跳ね上げるように顔を上げた。
「綾波……」
どうせぼんやりしていたのだろう。レイはシンジのこういうところにも苛々する。きっと恐竜
並みの神経をしているのだ。
「綾波、最近学校来てないけど……。どうしたの?」
レイはここ最近そうしているように、完全に無視してシンジの脇を通り過ぎる。
「これ、プリント。届けてくれって言われたから……」
シンジはまるでこの間拾った仔犬のように、少し後ろを付いてくる。
「綾波――。その……。この間のこと、悪かったと思ってる。でも、もっと人のことを考えな
いといけないし、君は出来ると思う」
ふいにレイの胸に激しい苛立ちがよぎった。振り返って、シンジが持っているプリントの束を
はじき飛ばそうと手を振りかぶる。
しかし、振り上げた手は行き場を失った。
仔犬がマンションの方から全速力で走り寄ってきて、ゴムボールのように飛び跳ねながらレイ
の足にまとわりつきはじめたからだ。
「何で出てくるの」と、慌てて叱りつけるがもう遅い。仔犬は構ってもらえたと勘違いしたの
か、レイの周りをぐるぐると回る。
「その犬、綾波が飼ってるの?」
シンジはかなり驚いた顔をしていた。
レイは顔が熱くなるのを感じた。どういうわけか、恥ずかしかった。
つい、「そうよ。悪い?」とシンジに答えてしまっていた。二度と口を利くものかと思ってい
たのに。
「いや、もちろん悪くないよ。逆に、嬉しいよ。やっぱり、僕が思っていた通りだ」
「え?」
思っていた通り? シンジの予想外の返答にレイは眉をひそめる。
「綾波は、本当は優しい子なんだってこと」
「は……」
レイは一瞬、殴られたように仰け反って――笑い声を立てていた。
――本当は優しい子?
――本物のバカだ、この男は。
これほど笑える話を聞いたのは初めてかも知れない。自分が優しいという形容詞からほど遠い
性格だということはレイにも分かっている。
いったいどこをどう解釈すれば自分が優しいと誤解できるのか? 嘘をついているようには見
えないから、真面目に言っているのだろう。
頭がおかしいとしか思えなかった。
レイがあまりに笑うせいか、シンジはやや顔を紅潮させ、ムキになって、「動物を好きな人に
悪い人はいないんだ」と力説した。
シンジはレイが笑い止むまで困惑した様子で待っていた。レイが笑い止むと、
「名前、何ていうの?」
――リツコと同じことを質問するのね。
そんなに名前が気になるのだろうか?
「犬」
「え、と……? ひょっとして、名前が犬ってこと?」
「そう」レイは何を当たり前のことを聞くのかと訝しげな顔で、「犬だから、犬」
「か、変わっ……ユニークな名前だね……」
何と言えばいいのかよく分からず、シンジは考えた末にそう言った。
「変わってない名前は?」
シンジは考え込む。
「え……。なんだろ。ポチとか太郎とかジョンとか……って、いまどきそんな名前つけないか。
何だろうね……。生き物飼ったことないから、分かんないや」
その言葉を最後に二人の間に沈黙が立ち込めた。仔犬のせわしなく息をする音だけが耳につく。
特に何がきっかけということは無かった。レイにとっては単に思っていることを口にするだけ
だった。
レイは曖昧に微笑むシンジを冷たい目で見つめて、
「碇君、私は」
いったん言葉を切った。シンジはレイが何か大事なことを話そうとしているのを察知して、真
剣なまなざしでレイの目を視線を合わせる。
「私は、あなたのことが大嫌い。二度と話しかけてこないで」
シンジの表情はほとんど変わらなかった。霞がかかったような、いくぶん女性的な顔つきはふ
だんと同じだった。目だけはやや悲しげだった。
「さよなら」
レイはそう言い捨てると、シンジを背後に残し、マンションのぼろぼろの階段を上っていった。


レイはエサ箱にいっぱいのドッグフードと、一口も飲まれていない水をじっと見つめた。
犬が姿を見せなくなって、これで三日目になる。
自分の部屋に戻ると、ベッドに寝転がって天井を見る。
逃げたのだろう、とレイは推測した。しょせんは動物、人間とは違うのだ。
人に飼われるのが嫌だったのだろう。私が動物になったとしても、誰かに飼われるのは嫌だ。
……事故には気をつけなさいよ。
リツコの言葉が脳裏に蘇った。
だから?
レイは目を閉じる。
もともと私が助けなければあそこで轢かれて死んでいたのだ。仮にどこかで野垂れ死んでいる
としても、死ぬのが少し遅くなっただけの話だった。
シャワーを浴びてすっきりして、犬のことなんか忘れて寝てしまおう。
レイは立ち上がると、バスルームの前まで行ってドアノブに手をかけた。
それから――
手を離し、諦めのため息をつくと、靴を履いて外に出た。

正面から出て行くと保安部に見つかるので、マンションの横手にあるブロック塀をよじ登って
敷地の外に出ることにした。別に見つかっても構わないが、犬を探してるなどと知られたくな
かった。
もう八時を回っている。常夏の国といえども、さすがにあたりはもう暗い。
しかしレイは動物的といってもいいほど、異様に夜目が効いた。さして苦もなく辺りを捜すこ
とが出来る。
もし車に撥ねられたのなら、当然道路だから、道路沿いに歩いて目を配る。
周囲を一回りしたら戻ろうと、この時は思っていた。
――。
レイは顔を上げた。額に水滴が当たった気がしたのだ。
水滴がぽつり、ぽつりと続けて当たる。滴は次第に大きくなり、そして――。
大雨になった。

――どうかしてる。
レイは雨の中を歩きながら、自分に呆れ、驚いていた。こんな事は全く意味がない。早く家に
帰ってシャワーを浴び、犬の事など忘れてぐっすりと寝るのだ。
それでもレイは周囲に目をやりながら歩いている。滝のような雨だから、これも意味がない行
為だった。雨のカーテンに囲まれているようなものだ。
多分、意地になっているのだろう。是が非でも犬を見つけてやる、と。
本当に?
よく分からなかった。
あの男に本当は優しい子だと言われたから?
――まさか。
レイは笑っていた。笑い声は雨が地面を叩く音にかき消された。
あの男は嫌いだ。わけの分からないことを言うから。
レイの思考は犬を離れ、シンジに向かった。
そもそも碇シンジにあんな事を言わなければ良かったのだ。そうすればあの仔犬とも出会わな
かったし、今こうして土砂降りの中を歩く羽目に陥らずに済んだ。
それに――。
と、レイは下を向きながら思う。雨が髪を伝ってぽたぽたと地面に落ちる。
それに、あの男の涙を見なくて済んだ。
最初の涙の理由は分かる。私が無事だったからだ。
悪い気はしなかった。いや――。嬉しかったような気がする。
しかし、今度の涙は。
嬉しくなかった。嫌な気分になった。
なぜ泣いた? 理由が分からない。分からないから嫌な気分になるのだろう。
可哀想。
私が、可哀想だから。
私が可哀想だから泣いた。
私の何が可哀想なのだろう?
知りたかった。
それを知ることは重要な事のような気がする。
レイは、今、生まれて初めて人の心が知りたいと思っていた。

何時間経ったのだろう? どれくらい歩いているのだろう?
道路沿いを捜して、途中の公園や、繁華街も見て回った。
しかし、夜ということもあるが、所詮はひとりの行動だ。限界がある。
――名前を付けておけば良かった。
レイは後悔した。リツコに言われた時に名前を付けておけば、捜索も多少は楽になったかも知
れない。
中学生の女の子が土砂降りの中を、傘もささずに歩いている姿は異様であったが、人通りはほ
とんどなく、声をかけられることもなかった。もっともかけられてもレイは無視しただろう。
――もう、終わりにしよう。
さすがに捜索を断念する。まさか一晩中歩き回るわけにもいかない。
気持ちが切れたのか、どっと疲れが襲ってきた。
家に着いたときには疲労困憊といった態で、おもしでもついているのかと思うほど重い脚を引
きずるように四階まで引き上げた。靴の中まで水が入り、歩くたびにぐしゃぐしゃと濡れた音
をたてる。
再び、馬鹿な事をしたという思いにとらわれる。
それを言うなら、最近、ずっと馬鹿な事をしているような気がする。最近――碇シンジが来て
から、ずっと。
ミサトの家に行ったこともそうだ。
なぜだかあの男の言う事を素直に聞いてしまった。何だかんだ理屈をつけていたが、今考える
と馬鹿げた理由だった。料理を作るとか、何とか。
下らない理由だ。
402号室の前まで来ると、雨の音にかき消されがちだったが、犬の鳴き声が聞こえたような気
がした。
気のせい?
ドアを開けっ放しのままの401号室に入ると、すぐに仔犬がしっぽを振って駆け寄ってきた。
レイは足にまとわりついてくる仔犬を無表情な顔で見下ろした。
尻尾を振るのは嬉しい証拠と書いてあったから、今犬は嬉しいのだろうと思った。
身体からぽたぽたと雨が滴り落ち、床に大きな水溜りをつくった。
――名前を。
レイは目を閉じた。
名前を、つけなければ。
かなりの時間そうしていたような気がするし、あっという間だった気もする。
相応しい名前を思いついて、レイは目を開けた。
「……そうね。あなた、あの男みたいに言うことを聞かないし、何をするか分からないし――」
「それにすぐに逃げるところも似ているから――」
「シンジと呼ぶわ」
我ながら名案だと思った。あの男の名前など犬に相応しいのだ。ささやかな復讐のように思わ
れて、愉快だった。
「分かった、シンジ?」
くすくす笑いながらレイは言った。

「そう。分かったわ。……ご苦労さま。つまらない仕事を押し付けて悪かったわね。じゃあ、
仔犬は戻しておいて頂戴」
リツコは電話を切ると、無意識のうちにタバコに手を伸ばした。指先がタバコに触れると、び
っくりしたように顔を上げる。
タバコを拾い上げて、弄ぶ。今日はもう吸い過ぎだと分かっていた。しかし、リツコの逡巡は
それほど長い時間は続かなかった。
火を点け、深々と吸い込んだ。
ゆらゆらと拡散していく紫煙を見るともなしに見つめながら、リツコは物思いに耽る。
――まさか本当に犬を捜しに出かけるなんて、ね。
仔犬を「誘拐」しておいて、レイの様子を観察するのがリツコの目的だった。おそらくは気に
しないだろうと思っていたが、驚くような行為にレイは出た。
一体どういう心境の変化なのか分からないが、あるいはレイの中の「彼女」――リツコは「あ
れ」と呼んでいる――の占める割合が減ってきているのかも知れない。
どうやらレイは好ましい方向に変わりつつあるようだった。
すなわち、ゲンドウの思い描いた通りの方向に。
そしてそれは、リツコにとっても待ち望んでいた変化だった。




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