一人目は笑わない

Written by 双子座   


12.

夢を見ていた。たまに見る夢だ。いつ以来だか思い出せないほど久しぶりだった。
嫌な――とても嫌な夢。
なにせ、首を絞められているのだから。いくら夢の中とはいっても、気分が悪い。
首を絞めているのは白衣の女だった。若くはないが、年寄りでもない。その中間の年齢の女。
普段は落ち着いていて理知的な表情しか見たことがないが、今はよく研いだ刃物のような鋭利
な殺意と、煮えたぎるような憎悪が両目から迸っている。
整った顔立ちだけに、より凄惨な色合いが濃い。
なぜ自分が首を絞められているのか、とレイは疑問に思う。この夢を見るのも久しぶりなので、
忘れてしまった。
ああ、そうだ。自分がこの女に酷いことを言ったからだ。
ばあさんは用済み。ばあさんはしつこい。そう所長が言っている。
確かそんなことを言った。
失敗した。
これほどまでにこの女が怒るとは思わなかったのだ。
ちょっとした冗談のつもりだったのに。
テレビドラマでやっていた台詞を少し弄っただけの話だった。
だいたいゲンドウが本当にそう思っていたとして、子供の前で口にする訳がない。
そんなことが分からなくなるほど、気に障ったのか。
いや――。自分の言葉だけでこれほどの憎悪が生み出されるというのは、ない。
何かあるのだ。
この女とゲンドウとの間に。
無論、男と女の関係に決まっている。当時はもちろん分からなかったけど、今は分かる。
それはいい。それはいいとして、やはりまだ疑問が残る。
いくら酷いことを言われても、私のような子供を殺そうとするなんて、有り得るだろうか?
大の大人が子供に少しばかり――まぁ、少しではないかも知れないが――嫌なことを言われて、
殺人を試みるなどということが。
有り得ない。
私だ。
私に何かがあるに違いない。この女を刺激するような、何かが。
普段から、この女は私を憎んでいたのだ。
言葉は引き金になっただけ。銃には弾が込められていて、発射される瞬間を待っていたのだ。
「あんたなんかね」と、白衣の女は言った。
あんたなんか、
「    」と白衣の女は続ける。
まただ。
いつもこの台詞が聞こえない。首を絞められているから? よく分からない。
何て言ってるんだろう。
何か、大事なことを言っている気がする。
ぐいぐいと女の手は首を絞めてくる。女の充血した目が視界いっぱいに広がっていく。背中が
反り返る。
苦しい。夢の中なのに、とてもリアルな苦しさだ。思わず女の手に爪を立てる。しかし、女は
いっこうに力を緩める気配がない。
レイの喉からぐっという音が漏れ、キーンという金属音が頭を貫いた。
目の前が暗くなっていく。
暗く、暗く……
そして――。
レイは目を覚ましていた。
上半身を起こして咄嗟に首に手をやる。全身が汗で濡れていた。
嫌な夢を見た――。
思わず安堵のため息をつくと、犬の鳴き声と、カリカリという何かを引っかいているような音
が廊下のほうから聞こえてきた。
シンジがエサを催促しているのだ。どうやらこの音で目が覚めたらしい。
「犬の分際で人間様を急かすなんて、いい度胸ね」
レイはそう呟くと起き上がり――よろめいた。
「……?」
体勢を立て直そうとしたが、うまくいかず、ベッドに尻餅をついてしまった。
身体がだるく、熱っぽい。それに節々が痛い。
レイは額に手を当てて、はじめて自分が熱を出していることに気が付いた。押し当てた掌が熱
い。
一瞬、このまま寝ていようかと思った。
しかし、大きく息を吸って再び立ち上がり、隣の部屋に行ってエサと水をやった。仔犬はちぎ
れんばかりに尻尾を振っていた。
レイの唇には自嘲の笑みが浮かんでいる。雨の中、何時間も出歩いた代償だ。馬鹿げた行為に
はそれなりの結果がついてくるということだった。
よろめきながらベッドに戻ると、倒れこむように身体を横にした。
しばらく寝ていれば治るだろう、とレイは思った。こんなのは、なんでもない。
しかし、レイの思った通りにはいかなかった。

「おっ、何や」
最初にその犬に気が付いたのはトウジだった。
シンジ、ケンスケとトウジの三人は下校の途中で、今日は駅前のゲームセンターにでも行こう
かという話をしていたところだった。
「何?」と、シンジとケンスケはトウジの見ている方向に目をやった。
「犬だ……。こっちに向かって走ってくる」
ケンスケの言うとおり、仔犬が坂の半分くらいのところから猛烈な勢いで駆け下りてくる。
そして三人の足元で止まると、駆け下りてきたのと同じくらいの勢いで、キャンキャンと吠え
はじめた。
「何だ……? シンジ、お前に用があるみたいだぜ」
確かに仔犬はシンジに向かって吠えている。
「ええ……。何だろう?」
シンジはやや後ずさる。いくら仔犬とはいえ、こう猛烈に吠え立てられると、正直少し怖い。
「お前、この犬いじめただろ。きっと復讐しにきたんだ」
「そんなことしてないよ!」
足元で吠えたてる仔犬を困惑気味に見下ろすシンジの記憶に、閃くものがあった。
「あ、この犬」
「なんや、知っとるんか? 首輪はしてへんけど体はキレイにしとるし、野良犬とはちゃうや
ろな」
「ごめん! 今日はここで。ちょっと用が出来たから」
シンジは二人にそう告げると、仔犬が来た方向に向かって走り出した。仔犬もシンジと一緒に
走っていく。
「お、おい! 碇! いったい何なんだ?」
トウジとケンスケは互いに顔を見合わせた。

402号室のドアは少し開いていた。一瞬シンジは不審に思うが、仔犬の出入りのためだとすぐ
に気がついた。
「綾波、いる……?」
シンジはおそるおそる声をかける。チェーンもかけてないのは不用心だと思った。
もう一度声をかけるが返答はない。シンジは迷った。レイに話しかけるなといわれたこともあ
るし、何しろ前回の訪問のことがある。
またシャワーを浴びてたところだった、なんて破目になったら今度こそ取り返しがつかない。
ためらうシンジの背中を押したのは仔犬だった。何をぼやぼやしているのかと責め立てるよう
に、猛烈な勢いで吠えはじめたのだ。
「分かった、分かったよ。何かあったんだね」
シンジは決心してドアを開け、中に入った。以前入ったときに感じた、薄暗い、洞窟のような
空間という印象は変わらなかった。
「綾波、入るよ」
廊下を過ぎ、部屋に足を踏み入れると、ベッドにレイが横たわっているのが目に入った。一目
で具合が悪いと分かる様子だった。
「綾波……!?」
慌てて駆け寄り、額に手を押し当てるが、その熱さに思わず離してしまう。
「すごい熱だ……」
レイが苦しそうに呻いた。「大丈夫?」と言いかけて、シンジは息を呑んだ。口紅など塗って
いないはずなのに異様に赤く見える唇や、乱れて頬にかかっている汗に濡れた髪の毛、熱のせ
いで紅潮した肌――普段のレイからは感じることのない色気に圧倒された。
シンジは思わず生唾を飲み込んで――それから強烈な罪悪感に苛まれた。自分で自分の頭を殴
りたくなる。
――こんなときに、何を考えているんだ。
「ミサトさんに電話しなくちゃ」
携帯を取り出して、ミサトにかける。
「シンちゃん? 珍しいわね、どうしたの?」と能天気に言うミサトに、シンジは事情を説明
した。
その間、主人の苦しみを察したのか、仔犬がうろうろと歩き回りながら悲しげに鳴いている。
話終わると、仔犬の頭をそっと撫でた。
「今、お医者さん呼んだから、大丈夫」と、シンジは犬とレイの両方に語りかけた。

猛烈な寒気がした。熱が出てるはずなのに、なぜ寒いのか。震えが止まらない。
そう言えば最近薬を飲んでなかった。それもまずかったか、と、レイはぼんやり考える。
目を開けると天井がぐるぐる回っているような気がして気持ちが悪くなった。目を閉じると、
何故か昔のことが脳裏に浮かんでくる。
ゲンドウがレイに語りかけている。まだ幼いころだ。おそらく、これが最初の記憶。
ユイ。そろそろ帰ろう。
レイは首をかしげる。ユイ? それが私の名前?
いや、間違えた。いいんだ、気にするな。お前の名前はレイだ。
ゲンドウはどこか気まずそうに答える。
ユイという名前がゲンドウの死んだ妻のものだと知ったのは、だいぶ後になってからだ。
目をつむり、苦痛に喘ぐレイの脳裏に、今までの出来事が、時期も順番もでたらめに浮かんで
くる。
ふーん、可哀想にねえ。ご両親が。それで今所長のところに? 男手一人では大変でしょうに。
あらイヤだ、私は……うふふ。
この薬は毎日飲むこと。そう。これとこれを一錠ずつ。習慣にして頂戴。
失敗作ですわ。廃棄なされたほうがよろしいかと。……ッ! 女を殴るなんて男のやることじ
ゃありませんわよ。母にもこうやって――誰? そこにいるのは!?
私の言うことを聞きなさい。ばらしてもいいの?
しかし……ちょっと不気味ですねぇ、あの子。何か観察されてるような気がしてしょうがない
んですよ。おっと、それより今夜は一杯やりませんか? いい店知ってるんですよ。
ええ。どうも彼女……リリスの影響が大きいのではないかと。ATフィールドが生身で使えるの
もその関係だと思われます。
謝りなさいよ。
レイ。ちょっと、あなた、性格悪すぎるわよ。そんなんじゃいつかしっぺ返しを食らうわよ。
ばあさんは用済み。ばあさんはしつこいって。
人間じゃないみたいだな。薄気味悪いよ。
凄い……。レイ、あなた、やっぱりシンクロ率を自由に操れるのね。でもそれは隠しておいた
ほうがいいわ。何で? 色々調べられたら厄介だからよ。……ゼーレがうるさいから。
お前、気持ち悪いな。何だよ、その赤い目は。化け物かよ。ははっ。……いてっ! 何だこい
つ! おい、やめろ! やめてくれよ! 血だ……。お母さん! 血が出てるよ……!
これは……。彼女か、碇?
綾波が、可哀想だから。
私は、可哀想じゃない。
ずっと一人で寂しくないの?
寂しくなんかない。
どうして? 
私は、一人じゃないもの。シンジがいる。
ほら、そこにいる。
エサはもうあげたっけ? うん。あげた。
おいで、シンジ。
ほら。
おいで……

シンジは自分の名前を呼ばれた気がして、レイに視線を移した。レイの額にあてようと、水に
濡らしたタオルを持ってきたところだった。
ぼうっと霞がかかったような紅い目がシンジをとらえている。
「綾波、気が付いた……?」
「おいで……」
「え……?」
レイの白い腕がシンジに向かって差し出される。どうやら意識が混沌としているらしい。レイ
の目は、ここではないどこかを見ていた。
「綾波……」
綾波は何を求めているんだろう? 水? それとも、どこか痛いのだろうか?
迷っているうちに、仔犬が寄っていって、レイの指を舐めはじめた。
レイと仔犬のコンビのあまりの愛らしさに、シンジの顔に思わず笑みがこぼれる。
しかし、レイはまだ差し出した腕を引っ込めたりはしなかった。相変わらず何かを求めるよう
に宙をさまよっている。
シンジは迷った末に、レイの掌を両手で握り締めた。その瞬間、レイが思わぬほどの力で握り
返してきた。
心なしか、レイの呼吸が穏やかになったような気がするのは、自分の希望的観測に過ぎないの
だろうか……。
医者が来るまで、シンジはレイの手を握り続けていた。

世界は白一色で占められていた。
「……」
レイは上半身を起こそうとして、身体からごっそりと力が抜けていることに気づき、愕然とし
た。まるで自分が綾波レイの抜け殻になり、本体はどこかに去ってしまったかのようだった。
身体を起こすことを諦めて、横になる。
改めて周りを見るまでもなく、ここは病室だった。ゴテゴテした機械類がないところを見ると、
大した症状ではないらしい。
いったいどういう経緯でここに運ばれてきたのか、全く記憶になかった。
まぁ、おおかた連絡が取れないことに業を煮やした――心配した、とは思わないところがレイ
らしい――ミサトかリツコが保安部の連中に様子を見るよう命令したのだろう。
レイの頬が屈辱に熱くなった。こちらから求めていないのに助けられるのが嫌なのだ。
天井を睨んで唇を噛みしめる。
醜態を晒してしまった。しかし、誰にもこの怒りをぶつけようがない。完全に自業自得だった。
その思いがより一層の憤りを生む。
思わず手を振りかざしてベッドを叩こうとして――違和感を覚えた。右手が何か温かい気がす
る。
目の前に手を持ってきて、穴の開くほど凝視する。怪我をした様子はない。
何だろう? 妙な感触だった。同じ温かさを前にも感じたことがあるような気がする。あれは
いつだったか。
手を額に当てて、目を閉じる。そんなに前のことではないと思う。あれは確か……。
……いつの間にか眠っていたらしい。目が覚めると、看護婦がいた。
「あら、眠れる美女がお目覚めね」
中年で太り気味の、貫禄のある女性だった。
「先生を呼んでくるから、ちょっと待っててね、綾波さん」
レイは外へ出ようとする看護婦を呼び止めた。
「どのくらい寝ていたの、私」
「昨日の夕方運ばれてきたから、丸一日ってところですよ」
「そう」とレイはうなずくと、起き上がった。
「どうしたの、トイレ?」
「家に帰る」
「だめよ、寝てないと。まだ熱はあるんだし」
制止する看護婦を押しのけようとしたが、簡単にベッドに戻されてしまった。やはり自分でも
驚くほど体力が無くなっているのだ。
結局、太り気味の看護婦の言うとおり、大人しく医師の診断を受けることになった。
「ま、峠は越えたから大丈夫でしょう」メガネをかけた神経質そうな医師はそう告げた。「普
通の人なら家に帰って寝ていなさいと言うところですけど、あなたには特別の事情があります
からね。ここでもう二、三日安静にしていましょう」
レイはうなずいた。もちろん、安静にしているつもりなど全くなかった。体力が回復次第抜け
出すつもりだ。
医師が去ると、すぐにリツコが顔を見せた。多分外で待っていたのだろう。
「こういうのを、何て言うか知ってる? 鬼の霍乱と言うのよ」
レイは言い返さなかった。何も言うことはなかったからだ。
「レイ、あなた、薬はちゃんと飲んでた?」
「ええ」レイはぴくりとも表情を変えずに言った。
「嘘ね」リツコも同じく表情を変えなかった。
「レイ、あなたはね」リツコはやや言い澱むような素振りを見せながらも、「他の人とは違う
のよ。そのことを少し自覚してもらわなければ困るわ」
「……」
リツコの予想に反して、レイは反発したりはしなかった。掌をじっとみつめ、戸惑いがちに口
を開く。
「私、最近、少し変かも知れない」
「……身体の調子が?」
むろんリツコは身体のことではないと分かっている。
「違う」
「そう。良かったわ」そう言うと、わざとらしく安堵のため息をついた。「じゃあ、何が変な
のかしら?」
「……よく、分からない。言えるのは……前の私と違う」
「成長したってことじゃないの? あなたぐらいの年齢の子供は、日々大人になっていくのよ。
当然のことだわ」
そうじゃない、と言いかけてレイは口をつぐんだ。自分でも分からないのだから、反論の仕様
がない。
「どうせあなたのことだから抜け出すんでしょうけど、せめてもう一日ぐらいはここでゆっく
りしていきなさい。まだ熱があるんだから。
ああ、それと犬のことは心配しなくていいわよ。保安部がエサをやってるから。あんないかつ
い連中がね。想像すると笑ってしまうわ」
リツコが口にするまで、レイは犬のことをすっかり忘れていた。
「あなたのこと寂しがるかも知れないけど、さすがにここに連れてくるわけにはいかないから」
リツコが病室から出て行くと、レイは右手をぎゅっと握りしめた。
まるで、そこにある大切な何かを逃がさないとでも言うように。


窓を全開にしているにもかかわらず、百合の香りが車内に充満している。
リツコは無意識のうちに顔をしかめていた。この甘ったるい匂いが苦手なのだ。
しかし、我慢しなければならない。今日は、母ナオコの命日なのだから。
百合は、母の好きな花だった。

リツコは墓前に立ち、掃除を終えて綺麗になった母の墓を満足げに眺めた。
あのそっけなく、死の匂いがしない集団墓地ではなく、本当の墓だ。もっとも本当の墓とは何
なのかについては、議論の余地があるだろうが。
マギの開発に多大な貢献をした母が、あの無個性な集団墓地に埋葬されるというのは、どうい
うわけか我慢ならなかった。自分らしくない感情だとは思うが、どうしてもそう感じてしまう。
母のことは特に好きというわけではなかった。むしろ反りの合わない親子だったと思う。それ
でも母は母であり、それなりの年齢になったうえに立場も似てる今となっては、共感できると
ころが多々ある。
線香の代わりに、タバコに火を点けて供える。この方が母も喜ぶだろう。リツコと同じく、辛
気臭いのは苦手なはずだった。
幼いころ、リツコは母がタバコを吸うのを快く思っていなかった。それが今では母以上のヘビ
ースモーカーになっているのだから笑えない。
やはり母娘で似るものなのだろうか?
「母さん、あの子ね、最近とても人間らしくなってきたのよ」
リツコは母の墓に語りかける。
「安心して、あの子は絶対に死なせないわ。……多分、もうすぐだから」
リツコは空を仰ぎ見る。奥行きのない平坦な青空を背景に、雲がすごい速さで動いていた。
「やっぱり父子だけあって、女の趣味も似ているのかしら」
そう言ってリツコは笑おうとしたが、何かが喉に引っかかっているみたいで、くぐもった咳し
か出ない。
唇を噛みしめ、立ちつくすリツコの髪を、強く吹いた風がかき乱していった。


レイは新しい「遊び」を思いついた。アスカの度を越した負けず嫌い、異常とも言えるエヴァ
への執着を利用したレイらしい遊び。
その遊びを、レイは今日も実行している。
ミサトがチルドレン三人のシンクロ率を順番に読み上げた。シンジが1番、続いてレイ、アス
カ。
アスカの息を呑む音がレイの耳にも届く。
「本当に私がビリなの? もう一回チェックしてよ、ミサト!」
「んー。残念だけど、間違いないわよ。でもレイとはちょっとしか差が無いから」
「それでもビリはビリなのよ! くそっ、何でよ! 何で私が……!」
レイはほくそ笑む。テストの度にレイがアスカの数ポイント上なのだ。アスカの怒りは尋常で
はない。
――これは、レイが意図的にやっていることだった。レイはシンクロ率を自由に操ることが出
来るのだ。使徒に対する絶対的な自信の根源がそれだった。
アスカの上限よりも数ポイント上のシンクロ率を出すのは容易なことだった。
しかし、レイの悪意の卓越した点は、アスカに勝つことよりも、むしろ、負けることにあった。
十回に一回ないし二回、わざと下回った率を出すのだ。
それによって、敗北をより鮮明に味あわせることができるというのがレイの狙いだった。
また、仮に何回やってもレイを上回れないとなると、アスカの思考は「多少のシンクロ率上下
など戦闘には関係ない」などといったいわゆる酸っぱいブドウの論理に至る可能性がある。性
格的にはそうは考えないだろうが、可能性がある限りは避けたかった。
今回は上回ったが、次はわざと負けてやるつもりだった。
「シンジのやつにも負けるなんて……」
アスカは呟いた。テストが終わり、更衣室で着替えの最中だった。レイが自分を見ているのに
気がつくと、はっとした表情になり、
「参っちゃったわよねぇ。あっさり抜かれちゃったじゃない? ここまで簡単にやられると、
正直ちょっと悔しいわよねぇ」と言って、平気な顔を作る。
悔しいと自分から言うことで、気にしてないことをアピールしようとしているのがレイには手
に取るように分かる。
そう。敢えてシンジの上にはいかないというのもポイントだった。その方がアスカには堪える
だろうと思ってのことだが、当たっていたようだ。
「すごい! すばらしい! 強い! 強すぎる! あ〜無敵のシンジ様ぁ! これであたし達
も楽できるってもんじゃないの」
レイは思わず笑いそうになった。何とまぁ単純な女だ。
アスカはレイのことを睨みつけた。
「何よ。私のことをバカにしてるの?」
「いえ、してないわよ」と、レイは言った。だってこんなに私のことを楽しませてくれるんだ
もの。
「シンクロ率なら気にすることないわ」
もちろん、大いに気にして欲しいのは言うまでもない。
「あんたなんかに言われたくないわよ!」
アスカの顔は激怒のために赤く染まっていた。
「そう。じゃ、さよなら」
レイは歯軋りせんばかりのアスカを残して更衣室を出た。出た途端にくすくすと笑い出す。
黒い球体の使徒らしき物体が第3新東京市の直上に出現したのは、次の日のことだった。


詳しい説明は乗り込んでからということで、着替えもそこそこに三人のチルドレンは格納庫に
向かった。
「綾波、一つ訊きたいんだけど――」と、シンジがおそるおそると言った態でレイに話しかけ
る。
レイは相変わらず無視の一手。
「いいわよ、シンジ。ほっときなさいよ」
シンジは何かが気になっているような顔つきだったが、アスカに促されて出撃の準備にかかる。
まったくしつこい男だ。プラグにLCLが満ちているのを見ながら、レイは半ば呆れる。話しか
けるなと何度言えば分かるのだろうか?
そのとき、レイはまたしても違和感を覚えた。この前よりも、強く感じた。
何かを――何か大事なことを忘れているような感覚。
「……してちょうだい。レイ、聞いてる?」
「……ええ、聞いてるわ」
うわの空でミサトに返答しながらも、レイは嫌な予感を抑えられなかった。

「ミサトさん、僕に行かせて下さい!」と、シンジが言った。
早速アスカが噛み付く。「ちょっとシンジ! 勝手なこと言ってんじゃないわよ!」
「いや、綾波はまだ病み上がりだし……」
「あーはいはい、"それに僕がシンクロ率ナンバーワンだし"って? 分かった分かった! カ
ッコイイわねぇ。まるで王子様みたーい!」
「何だよそんな言い方……。わかったよ、お手本見せてやるよ、アスカ」
「なっ……なんですって!?」
「ちょっと、あなたたち……」
三人は役割を決めて、勝手に進軍してしまう。
ミサトはため息をついた。
「まったく……帰ったら叱っておかなきゃ」
「あなた、いい保護者になれるわよ」と、リツコが言った。

「やれやれだわ。独断専行、作戦無視。まったく、自業自得もいいとこね」
声高に喋っているのはアスカだ。強力なライトに照らされて、地面に長い影ができている。
「昨日のテストでちょっといい結果が出たからって、お手本を見せてやる? ははぁ〜、とん
だお調子もんだわ」
そう言うと、レイの反応を窺うように横目でレイを見た。
レイは内心驚いていた。全くの同意見だったからだ。珍しいこともあるものだった。
「な、何よ! シンジの悪口を言われるのがそんなに不愉快?」
何を言ってるのだろう、この猿は? なぜ私が不愉快になる? あなたと同じ意見というのは
確かに不愉快と言えなくもないけど。
だいたい私があの男と口をきいてないことは知ってるはずなのに。
「別に、不愉快じゃない」
「じゃあ何よ、その顔は」
「顔?」
「あんたの顔よ。怒ってる顔してるじゃない。自分がどういう表情してるかも分かんないの?」
レイは答えずにアスカと視線を合わせた。他人が見れば、睨みつけた――と言うだろう。
「やめなさい、あなたたち」
ミサトは二人を制すると、腕を組んで巨大な球の形をした使徒に目を向けた。
「そうよ、確かに独断専行だわ。だから、帰ってきたら叱ってあげなくちゃ」

「私……こんなのに乗ってるの?」というアスカの独り言が聞こえてきた。
モニターには球体を内側から引きちぎるようにして出てくる初号機の姿が映っていた。血のよ
うな液体が奔流となって球体から迸っている。
真っ赤に染まった初号機を見てレイの脳裏に浮かんだのは、あの雨の日の仔犬の姿だった。

帰ろうとするレイを呼び止めたのはリツコだった。
「何?」
「シンジ君のお見舞いには行かないの? レイ」
「……何で私が?」
「実はね……」
リツコはレイの顔を見て、言葉を溜めた。言おうか言うまいか、迷う素振りを見せる。
レイは「何なの?」と、思わず釣り込まれる。
「レイ、これはシンジ君には黙っていて欲しいといわれてたことだけど、風邪で熱を出したあ
なたに医者を呼んだのはシンジ君なのよ。
何でもあなたの犬があんまり吠えるんで、シンジ君がおかしいと思ったらしいの」
少し黙りこんだあと、レイは嫌そうに口を開いた。
「人の部屋に黙って上がりこむなんて、犯罪行為ね」
上がりこんだのが二度目だとは言わなかった。
「それくらい、緊急事態よ。……それにしてもあなたの飼い犬、名犬じゃない。ちゃんと名前
つけてあげたほうがいいわ」
「もうつけた」
「あら、そう」
やはりこの娘は変わってきている、と、リツコは確信した。
レイが倒れていると連絡してきたのはシンジだという話を聞いたのは、昨日のことだった。リ
ツコもレイと同じく、保安部の監視要員が発見したものと考えていたのだが、ミサトに最近の
シンジとレイの様子をそれとなく聞いた折に、ミサトが洩らしたのだ。シンジ君には黙ってい
て欲しいと言われてるだけど……とミサトは言っていたが、リツコは気にしなかった。
「で、何て名前なの?」
「……教えない」
リツコの目には、レイがかすかに動揺しているように見えた。さすがに犬の名前がシンジだと
は想像の範囲外だから、レイが動揺した理由は分からない。
「名前はいいけれど。とにかく、シンジ君に一言お礼を言っておいたら?」
「言わない。勝手にやったことだし。私は頼んでない」
リツコは肩をすくめて、「まぁ、好きにしなさい」と言い、立ち去った。
レイはしばらく立ち尽くしていたが、やがて心を決めたようにある方角へ足を向けた。

病室の前に立ち、しみ一つない真っ白なドアを見つめる。どういうわけか、開けるのに少し勇
気が必要だった。
中に入ると、すでにシンジの意識は戻っていたようで、こちらに目を向けて驚いた顔をした。
「碇君。医者呼んだの、あなただってね」と、何の前置きもなくレイは言う。
「え……。うん、まぁ、その……」
「どうしてそういう勝手なことするの。だから私はあなたのことが大嫌いなの」
「ご、ごめん……。でも、犬が僕のところに来てあんまり鳴くもんだから、おかしいと思って、
その……」
レイはシンジの言い訳を最後まで聞かなかった。
「じゃあ、碇君。学校で」
シンジは、はっとした顔をして――そして微笑んだ。
「うん。……学校で」




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