一人目は笑わない

Written by 双子座   


14.

「そんな辛気臭い顔すんなや、碇」
トウジがシンジの肩をばしんと叩いた。シンジは痛みにちょっと顔をしかめたが、すぐに寂し
そうな表情に取って代わられた。
転校――とは第2新東京市のことだ。シンジのクラスメートたちの大部分は首都である第2新東
京市の中学校へ転校していく。トウジやケンスケ、ヒカリも例外ではなかった。
人影もまばらな、駅のホーム。
シンジとアスカ、レイはトウジたちの見送りに来ていた。レイは来るつもりはなかったのだが、
せっかくだからと言うシンジに引っ張られるように連れて来られた。後ろで劇でも見ているよ
うに様子を見ている。
同じ日に第2新東京市へ向かうのは、たまたまなのか親同士で話し合いでもしたのか。シンジ
はわざわざ訊いたりはしなかった。
「使徒をぶっ倒したらお前らも転校してくるんやろ?」
でも、いつになるか分からないし――シンジは思わず言いかけて、思いとどまった。ただでさ
え湿っぽい空気が余計に重くなる。かたわらでは、アスカが涙ぐむヒカリを慰めていた。
「何か、お前たちばっかり戦わせて悪いな」と、ケンスケが真面目な顔で言った。
「んなこといいよって、お前エヴァに乗ってみたいだけちゃうんか?」
トウジが陽気にけらけらと笑った。
「何だよ、人がせっかくカッコイイこと言ったのにさ」
ケンスケの苦笑にシンジもつられて笑う。
「ま、俺ならいつでも参号機のテストパイロットにしてくれて構わないことは確かだけど」
「参号機?」シンジは不思議そうな顔をした。
「そう。アメリカで建造中だったヤツさ。今度松代の第2実験場で起動実験やるって噂、知ら
ないのか?」
「知らないなぁ」
「ったく、あんたそんなことも知らないの?」アスカが呆れたように口を出してくる。「アメ
リカに押し付けられたのよ。第2支部ごと四号機が吹っ飛んだからビビったの」
「え……そうだったんだ」
「そうだったんだ、じゃないわよ。ちなみにファーストが乗ることに決まったから、ミサトに
頼み込んだって無駄よ。四人目がなかなか見つからないんだってさ」
「綾波が? ……危険じゃないの?」シンジが後ろを振り返った。心配そうな表情だった。
突然自分が話題に出てきたのでレイは少し驚き、反応するのが遅れた。「……別に、大丈夫だ
から」
「もしかして、父さんに命令されたの? それだったら……」
「違う。私から頼んだの。零号機の修復にはまだ時間がかかるし、使徒が襲ってきたときに私
だけ見てるなんて嫌だから」
そう言われるとこれ以上は何も言えなかった。
「そろそろ時間だな」ケンスケが腕時計を見た。
ヒカリがアスカの手を握る。「気をつけてね、アスカ」
「大丈夫よ、心配しなくたって。私は無敵なんだから」アスカは親指を立てた。
「ほな! 別れの言葉はいわんで。どうせすぐにそのツラ見る羽目になるんやからな」
「じゃあな、碇。また会おうぜ。そっちの美人コンビも」
「またね、アスカ、碇君、綾波さん。身体に気をつけて」
ドアが閉まり、電車が動き出した。窓の向こうで手を振る三人に、シンジとアスカは手を振り
返す。
視界から電車の姿が消えるまで見送っていた。

帰り道、しばらくの間誰も口をきかなかった。
「行っちゃったね……」シンジがぽつりと呟く。誰かに向けた言葉ではなかった。「こんなに
いい天気の日にお別れなんて、何か虚しいな」
「雪でも降ってれば気分がでたってわけ?」
「別に、そういうわけじゃないけどさ……」
「じゃあゴチャゴチャ言うんじゃないの。ジャージの言うとおり、使徒を残らず倒せばそれで
解決なんだからさ」
「そう……だね」
シンジのその言葉を最後に、またしばらくの間、沈黙がその場を支配した。
「アイスでも食べよっか」アスカが空を見ながら言った。目のさめるような空の青と巨大な入
道雲の白が鮮やかなコントラストを描いていた。

「あれ? 綾波、当たってるよ」シンジがレイのアイスの棒を見て言った。
「当たり?」レイは首を傾げた。当たりつきのアイスがあるということを、レイは知らなかっ
た。
「当たりが出ると、もう一本もらえるんだ」
「そうなの」レイは曖昧に頷いた。
「何かおかしいわよねー。こういうのって普段の行いと関係ないのかしら。っていうか、むし
ろ逆相関?」
アスカは頭の後ろで手を組み、空中にある見えない何かを蹴るようにして歩いている。
「何かいいこと、あるかも知れないね」シンジが微笑んだ。
レイは別段嬉しくも何ともなかったが、シンジが喜んでいるならいいことなのだろうと思った。
「そういやさ、あんたいつまで本部に住むつもりなの?」アスカがくるりと振り返って訊いて
くる。
「引越しは面倒だから、多分ずっといると思う」
「あんなところに住んでてイヤになんない? 殺風景だし、だいたい地下なんて不便じゃない」
「別に。学校もなくなったから」
「あっそ。あーイヤぁねー日本人て。職場と住居が同じなんて信じらんないんだけど」
レイはふとビデオのことを思い出した。部屋にシンジを呼び込んでケンスケに撮影させたビデ
オのことだ。思い出したのは久しぶりにケンスケの顔を見たせいだろう。
マンションがなくなっていいことが一つあるとすれば、ビデオカメラが跡形もなくなったこと
だった。
よくもあんなことができたものだと思う。あのころの自分はどうかしてたのだ。
ひょっとして、あの時のことをシンジも思い出したりするのだろうか? 
レイは首まで赤くなった。まともにシンジの顔を見られない。
「どうしたの、綾波? 何か赤くなってない?」
「……なんでもない」
レイは蚊の鳴くような小さな声で言った。


作業員用のエレベーターの中で、レイはプラグスーツへの着替えを済ませた。備え付けの無線
からはリツコの声が流れている。
「レイ。今からでも遅くはないのよ。別に無理にテストする必要はないんだから」
レイは眉を顰めた。レイの搭乗に強硬に反対したのはリツコだとは漏れ聞いていたが、実際に
こうして聞いてみても、やはりリツコらしくない行動だった。
「なぜ、そんなことを言うの?」
数瞬、沈黙が流れる。
「心配しているからよ」
「心配? あなたが、私を?」
レイの声に含まれる皮肉を感じとったのか、リツコは彼女にしては珍しくムキになったような
口調で、「もちろん。あなたのような優秀なパイロットに何かあったら大変な損失ですもの。
エヴァはパイロットなしでは動かないのよ」
「パイロットなしでの実験も進んでいるようだけど?」
またしても沈黙。
「あれは……私はあんまり賛成してないのよ、レイ。司令の意向だから強くは反対できないの
は確かだけど……」
「とにかく、私は別に無理なんてしてない。零号機も修復までにまだ時間がかかるし、今参号
機に乗っておくのは悪いことではないわ。
使徒が襲ってきてるのに私だけ見てるなんて冗談じゃないし。それより四人目が見つからなか
ったら、この機体、私がもらうから」
「それはいいけど、ひょっとして、この間迷惑をかけたから、なんて思ってるとしたら……」
レイは黙って無線を切った。

目を閉じ、足元からせり上がってくるLCLの生温い感触を味わう。久しぶりの実機だった。や
はりテスト用とは違うような気がする。
「チェック完了。異常なし」
オペレーターの声を聞いてゆっくり目を開けると、目の前に思いがけない人物が立っていた。
目の覚めるような青い髪に赤い目をした中学生くらいの女の子。つまり、綾波レイが冷たい笑
みを浮かべてレイの目の前に立っていた。
もちろん人ひとりが立つスペースなどないし、何より馬鹿げている。答えは一つしかなかった。
レイは呟いた。「……幻覚?」
これは――おそらく使徒だ。今度は物理的な攻撃ではなく精神が目標か。
レイは慌てず、瞬時にATフィールドを展開した。臍を中心に、自分を包む円を思いえがく。
今ごろ下では大騒ぎだろうが、そんなことに構ってる場合ではない。
ふん、とレイは鼻を鳴らした。普通の人間ならともかく、私には通用しない。
――どう? 勝手が違って残念だったわね。
笑みを浮かべたレイの頬が、ふいに引き攣った。加減しているつもりはないのに、ATフィール
ドが弱い。
前回の使徒戦の敗北が脳裏に蘇った。あの時の戦いぶりに、納得できるものがある。
――そうか。相手が強かっただけではない。私も弱くなっていたのだ。
なぜ弱くなったかを考える時間はなかった。
――大丈夫。
目の前に立つ幻覚バージョンの綾波レイの唇がパクパクと魚のように動いている。意志の疎通
をはかろうとして、それができないように見えた。
言葉を知らないか、あるいはATフィールドを突破できないかだ。後者だろうとレイは考える。
希望的観測かも知れないが、そもそも言葉を知らなかったら口をああいう風に動かす必要はな
い。
しかしレイのほうもここからどうすればいいのか分からない。外部へ連絡を取って――いや、
取れるのだろうか? 何もせず、じっとリツコたちの救出を待てばいいのだろうか?
迷うレイが顔を上げると、まるで最初からそこにずっといたかのような自然な風で、綾波レイ
の隣に見知った人物が出現していた。
――碇君!?
幻覚と分かっていてもレイは動揺した。
「ようやく開けてくれたわね」綾波レイは唇の両端を吊り上げた。
しまった――。臍を噛むレイの脳裏をかすめたのは、恐怖や後悔よりも、この女はなんて嫌な
笑い方するのだろう――ということだった。
「ひどいな、綾波は。僕を締め出そうなんて」
レイは強張った表情を崩さない。これはシンジの言葉ではない、使徒が見せる幻覚なのだ、と
自分に言い聞かせる。
「やっぱり僕のことが嫌いなんだね」シンジは悲しげな顔で言う。「前に、はっきりそう言っ
たよね、綾波は。僕のことが大嫌いだって。あれは悲しかったな……」
――違う。あれは……。
思わずそう言いかけて、唇をぎゅっと噤む。答えてはいけない。
「でもね、いいんだ」シンジは悲しげな表情を嬉しそうなそれに変えた。「僕も綾波のことが
嫌いだって分かったんだ」
――え!?
息を呑んでシンジの顔を見つめた。シンジの言葉ではないと思っていても、衝撃は大きかった。
「綾波……。何でそんな顔するのかな」シンジは苦笑した。「これ、本当の僕じゃないと思っ
てるでしょう?」
シンジが息がかかるほどの距離まで接近してきて、レイの顔を両手で挟み込んだ。レイは目を
つむるが、シンジの姿は消えない。目で見ているのではないのだった。
「綾波が今まで僕にしたことや言ったことを考えてごらんよ。いちいち挙げなくてもいいよね、
君がしたことなんだから。僕が綾波のことを嫌いにならないはずがないよ」
レイの顔から血の気が引いていく。
――碇君に、嫌われる?
正直なところ、今までその可能性を考えたことがなかった。自分が誰かに嫌われるなどどうで
もいいことだったからだ。
――碇君がそんなことを言うはずがない。
何度も自分に言い聞かせる。惑わされるな、本物ではない。幻覚だ。
「本当にそうかな?」
ハッと顔を上げた。言葉にはしていないはずだ。
――思考を読まれてる?
「まぁ、君がどう思っても僕には関係ないけどね。だって僕にはアスカがいるから。じゃ、綾
波。さよなら」
シンジは手を振ってすうっと消えていった。代わりにゆらゆらと陽炎のようにゆれながら、綾
波レイが胸が悪くなるような笑みを浮かべて現れた。
レイは待って――と言いかけて唇を噛みしめた。
「嫌われてしまったわね」同情するような口ぶり。「仮にあなたを嫌いになってないとしても、
あなたよりセカンドパイロットを選んだのは事実よ」
――事実? 何を言ってるの?
「馬鹿ね。若い男と女がひとつ屋根の下に暮らして、何もないと思ってるの?」
すぐに反論した。
――あの二人はいつも喧嘩ばかりしてる。
綾波は哀れみのまなざしでレイを見つめた。たっぷり沈黙を溜めて、
「……あなたは本当に人間の機微が分からないのね。喧嘩するほど仲がいいっていう言葉、知
らない? 本当に仲が悪いなら、お互いに無視するはず。そういえば鈴原君も二人のことを夫
婦喧嘩とか言って、からかってたわね」
今度は反論できなかった。自分にある種の感情が読み取れないことは、薄々とではあるが分か
りつつあった。
「それにね」綾波がことさら嫌な笑い方をする。人を傷つけることが楽しくて仕方がないとい
う笑い。
レイは認めざるを得ない。これは、自分の笑いなのだと。
「それにね」綾波はくすくす笑いながらもう一度繰り返した。「あの二人、キスしたことがあ
るのよ」
それが何? レイはそう言おうとした。私には関係のないことだ、と。
しかし、実際口に出てきた言葉は、「嘘!」というものだった。
――そんなこと、するはずがない。
「嘘じゃないわよ。見せてあげましょうか?」
綾波が消えて、見覚えのある場所がぽっかりと浮かび上がってきた。ミサトの家だ。
そこで、シンジとアスカがお互いに向き合い、見つめあっている。アスカが近づいてシンジの
鼻をつまみ、唇を重ねた。二人の姿は登場したときと同じように溶けるように消えていった。
――これは、幻覚。
呆然とレイは呟く。これは嘘だから。こんなことしてるわけないんだから。
「残念だけど、違うわ」再び綾波が現れ、レイに向かって冷酷に告げた。
レイは耳を手で塞いだ。無駄だと分かっていてもそうせざるを得なかった。何も聞きたくない
し、見たくなかった。ふるふると、唇が震えている。
「これは幻覚なんかじゃないの。碇君があなたなんかよりセカンドを選ぶのは当然のことなの
よ。ああ見えて意外と他人を気遣える子だから、セカンドは。それに対してあなたときたら…
…。他人の気持ちがまるで分からないお人形さんだもの」
――消えろ。
「いえ、人形は他人を傷つけたりしないから違うか。あなたは化け物よ。あなたみたいな化け
物よりセカンドみたいな立派な人間のほうが碇君にふさわしいわ」
――消えろ!
「消えないわよ。だって私はあなただもの」
――違う! あなたは私じゃない。私はあなたみたいな……。
レイは続きを口にしようとして、絶句した。
「何? まさか、あなたみたいな平気で人の気持ちを踏みにじるような人間じゃない……と言
おうとしたんじゃないでしょうね?」
綾波はまるで最高のジョークを聞いたようにくすくすと笑い出した。
「そう。分かったでしょう? 私はあなた。あなたは私」
――……。
否定したかったが、できなかった。そうだ、と思った。この嫌な嫌な女は私だ。私の言ってい
ることは正しい。碇君はセカンドとキスをしたし、私のことも嫌いなのだ。
そのことを考えると、頭が割れるように痛くなった。苦しくなった。
「安心して。助けてあげるわ。なんたって、私はあなたなんですもの」
――……どうすればいいの?
どうすればいいんだろう、とレイは思った。本当に、どうすればいいんだろう。
「苦しいでしょう?」
レイは黙って頷いた。
「楽になりたいでしょう?」
また頷く。
「簡単な話よ。昔のあなたに戻ればいいの」
――昔の……私?
「そうよ。碇君に会う前のあなたはそんな苦しい思いをしたことがない。だったらその時のあ
なたに戻ればいいのよ」
――で、でも……。
思考が鈍り、だんだんはっきりしなくなる。本当にそれでいいのだろうか。
「放って置いたらもっと苦しくなるわよ」
――もっと?
「それでいいの? 昔のあなたみたいに、何も感じなくなれば楽になるのに」
――なりたい。なりたいわ。昔の私に戻りたい。どうすれば昔の私に戻れるの?
「憎めばいいの」
――憎む? 誰を?
「碇君を」
――どうして? 別に碇君は憎くなんてないわ。
「嘘。あなたを裏切ったのに?」
――裏切った?
「そう。裏切ったのよ。あんな風に笑っておいて、今は惣流さんと一緒に登校したり、キスを
したり。あなたのことを馬鹿にしてるのよ」
――馬鹿にしてる……。
「そのうちキスなんかより、もっと気持ちのいいことをするのよ。そうなったらもうお仕舞い。
そうなるのももう時間の問題」
――……。
レイは喘いだ。頭の中が灼熱している。苦しいなんてものではなかった。胸が潰れそうだ。
「憎いわよね」
――……。
「憎いわよね?」
――……ええ、憎いわ。
いったん口に出すと、その感情は風船のように膨らんでいった。
そう。私は憎悪する。あの二人を。碇シンジを。

 「許さないわよね?」と、綾波レイは問うた。
 「ええ、許さないわ」と、綾波レイは答えた。

「それでは行きましょう」
綾波レイは、獲物を目の前にした肉食動物のような笑みを浮かべた。
――ええ。いきましょう。
レイは頷いて、笑った。こんな簡単なことに悩んでいた自分が馬鹿みたいだった。
――いかりくんを、ころしに。
二人の笑みは鏡で映したようにそっくりだった。

途中までは何の問題もなかった。フェイズ1からフェイズ2への移行もスムーズで、ハーモニク
スも正常位置にあった。
絶対境界線にさしかかったときにそれは起こった。
オペレーターが自分が目にしていることを信じられないように、「エントリープラグ内にATフ
ィールド発生……!?」
「何ですって? ……使徒?」ミサトが顔色を変えて身を乗り出した。
「いえ、違うわ……何をやってるの、レイ?」
「レイが? どういうこと、リツコ?」
詰め寄るミサトの声をオペレーターの切迫した声がかき消した。「体内に高エネルギー反応!」
「レイ!?」リツコが叫ぶと同時に、爆風が襲い掛かってきた。ガラスが割れ、中のネルフ職
員たちを薙ぎ倒す。
 

アスカは歯噛みして「それ」を見た。
使徒と戦うのは望むところだったが、今回ばかりは勝手が違う。
「まったくもう、何やってんのよ」
血に染まったような夕日を背景に、黒い機体がまるで不幸そのもののようにゆっくりと近づい
てくる。
「あのバカ!」
急にスピードを上げた「それ」――参号機を本気で迎え撃つのか、目の前まで接近してきても
アスカには決心がつかなかった。

なんだ。よわい。
レイはがっかりしていた。あっという間の出来事だった。戦闘に入ってから呼吸をいくらもし
ていないうちに倒してしまったのだ。
はごたえがなさすぎる。
もっとていこうしてくれないと、おもしろくない。
まぁいい。おまえはあとでころしてやるからそこでねていろ。
いかりくんはどこ?
わたしはいかりくんをころしたい。
このてで、ひきさきたい。

「アスカ!?」
悲鳴とともに、モニターからアスカの姿が消えた。シンジは呆然とする。まるで悪夢を見てい
るようだった。三人で仲良くアイスを食べたのはこの間のことではないか。
激しく後悔する。あの時レイを止めておけばよかったのだ。いつもそうだ。何かをやって後悔
するよりも、やらなくて後悔する。綾波に何かあったら……。
落ち込むシンジを現実に引き戻したのは、いつものように揺らぎがない、鋼のようなゲンドウ
の声だった。
「よく聞け、シンジ。レイが参号機の中に取り込まれている。まずエントリープラグを本体か
ら切り離せ」
「わかった」
シンジは唾を飲み込んで、僕にできるだろうか――と思った。
今まで感じたことのない恐怖がシンジの心臓を鷲掴みにしていた。今までのような、戦うこと
への、あるいは自分が傷つくことへの恐怖ではなかった。
しかし、やらなければレイがどうなるか分からないのだ。選択の余地はなかった。

――駄目だ。
シンジの瞳は目の前の参号機の機体の色に――絶望の色に染まりつつあった。
もともとパイロットとしての技量はレイの方が優れている上に、今のレイにはシンジを攻撃す
ることに何のためらいもない。本気で殺すつもりで攻撃してくる。
一方のシンジにはレイに攻撃を加えることはできない。参号機を無傷で押さえ込むことしか考
えていないのだ。
それでは勝負にならず、結果、シンジの防戦一方になった。それでも何とかしのげているのは、
曲がりなりにも今まで積んだ経験のおかげだった。
――このままでは……。
シンジはレイの攻撃を受け止めながら、唇を噛む。ジリ貧だ。
戦闘はすでに十分以上続いていた。シンジにとっては三十分にも一時間にも感じられる時間だ
った。
参号機の内部電源が切れることに一縷の望みを託していたのだが、S2機関を取り込んだ初号機
と同じように、参号機のほうも活動限界はないようだった。
やるしかない。シンジは覚悟を決めた。
参号機は四つん這いになり、今にも飛びかかりそうに上体を揺らしている。まるで獣のようだ
った。
シンジは怖気づいたようにじりじりと後ずさった。それを見た参号機は好機と考えたか、突然
跳躍して襲い掛かった――と同時にシンジは前に踏み込んだ。
下がったのはシンジの誘いだった。
両手を組み合わせ、参号機の肩に――とてもではないが、頭は狙えなかった――思い切り打ち
付ける。これまで全く攻撃してこなかったシンジに油断していたのか、参号機はモロに食らっ
て地面に叩きつけられた。
――綾波、ごめん!
心の中で謝ると、シンジは参号機の背中に馬乗りになった。左手で頭を地面に押さえつけ、右
手はプログナイフを取ろうと肩口に伸び――途中で止まった。
――え?
シンジは驚きと苦痛に目を見開いていた。
ゴムのように伸びた参号機の両手が初号機の喉を掴んで、後ろ向きのまま締め上げはじめたの
だ。普通では考えられない動きだった。
シンジは自分が罠にかけられたことを知った。やろうと思えば、最初から出来たのだろう。多
分、遊んでいたのだ。
参号機は足を蹴り上げると同時に、喉を掴んだままの両手を前に回転させた。
脳天から地面に叩きつけられ、シンジは衝撃に呻く。衝撃から立ち直ったときには攻守は所を
変えていた。今度は参号機が初号機に馬乗りになり、再び喉を締め上げはじめた。
苦痛にうなり声を上げるシンジの耳に、ゲンドウの声が聞こえてきた。
「もういい、シンジ。よくやった。もはやそれはレイ……参号機ではない。使徒だ」
「ち……違うよ、父さん……」
「違わない。それを倒せ、シンジ」
「で……できないよ、そんなこと……!」

「いかん、シンクロ率を60%にカットだ!」
ゲンドウは指示を飛ばす冬月を手で制した。
「しかし碇。このままではパイロットが死ぬぞ」
冬月を無視してゲンドウはシンジに話しかける。
「シンジ、なぜ戦わない?」
「だって、綾波が乗ってるんだよ、父さん!」
「それはもうレイではないと言っただろう。使徒だ。お前が死ぬぞ」
「綾波を殺すくらいなら……僕が死んだほうがいい」
ゲンドウはシンジとの会話を打ち切り、マヤに告げた。
「回路をダミープラグに切り替えろ」

ばかなやつだ。レイは笑った。やっぱりひっかかった。わなにかけたのはわたしのほうだ。
両手に力を込める。
このまま、にぎりつぶしてやる。
もうすぐだ。
レイは歯を剥き出して笑う。目の前のレイも同じ笑みを洩らす。
「早く殺すのよ」
うるさい。いわれなくてもわかってる。
もうすぐ、わたしはもとのわたしにもどれる。
もとのわたしに――。
いやなわらいをわらうだけで、なにもない、からっぽなわたしに。
――え?
レイは首を傾げた。
あれ? なにかが、おかしい。なんだろう?
改めて初号機を見る。もう少し力を込めれば首を折ることができそうだった。
「何をしているの? 早く!」綾波レイが苛々したように催促する。
それを無視して、初号機をじっと見つめるレイの頭の中に、シンジとの思い出が奔流のように
流れ込んできた。
最初の出会い。搭乗を拒否するシンジがエヴァに乗ったのは、傷ついたフリをしたレイを見た
からだ。
無事だったレイを見て涙を流すシンジの姿。
レイの家に料理を作りにきたシンジ。シンジがそんなことをした理由も、レイに料理を勧めた
理由も、その時は意図が分からなかったが、
今思えば簡単なことだ。レイの健康を心配したのだ。弁当を持ってきたのもそのためだった。
仔犬を助けてくれたシンジ。
シンジは言った。分かってた。綾波は、本当は優しい子なんだってこと。
ちがう。やさしいのは――
やさしいのは、わたしではなく、いかりくんではないか。
いかりくんは、いつもわたしにやさしかった。
いかりくんだけが、いつもわたしにやさしかった。
そのいかりくんを、ころす? 
そんなことが、やれるわけがなかった。
やってはいけないことだった。
レイは舌の一部を奥歯で挟み、思い切り噛み合わせた。ぶつりという肉厚のものを断ち切る鈍
い音とともに、鋭く強烈な痛みがレイを襲った。
「がはっ」
口のあたりのLCLが血の色と混じって毒々しい赤に染まっていく。鉄の味がした。
痛みにより、ほんの少しだがレイの意識は覚醒した。その少しを足がかりにする。
レイの全身が震えた。肌がみるみるうちに紅潮していく。
今のレイの姿を見れば、レイの中で、何か激烈な戦いが行われているのが分かっただろう。
「何をしてるの?」綾波が眉を顰めてレイを見る。「馬鹿ね、あなたは。もう止まらないわよ」
「憎くないの?」
「殺したくないの?」
レイは何も考えず、ただ、手を喉から引き剥がすことだけに集中した。

「し、しかし……」ダミーシステムを起動しろというゲンドウの命令に、マヤは青ざめた顔で
答えた。「ダミーシステムはまだ問題も多く、赤木博士の許可もなく……」
「今のパイロットよりは役に立つ。やれ」
マヤに拒否することはできない。はい、と力なく頷いて操作に取り掛かる。
「いいのか、碇?」
「初号機が優先だ」
冬月はゲンドウの声に抑えようもない苦さを感じ取り、それ以上言うのを止めた。
あと数分――いや、数十秒もあれば、あるいは二人には違った運命が待っていたかも知れない。
しかし、必要な時に、必要な何かがほんの少しだけ足りないのが悲劇というものであり、それ
はこの場合も例外ではなかった。
 
シンジは手の力が緩むのを感じ、目を開けた。
「あ……綾波……?」
目の前の参号機には凶暴な雰囲気がなくなりつつあるように思えた。やっぱり正気に戻ってく
れたんだね――そう言おうとした時だった。
プラグ内の明かりが消えて、同時に喉への圧迫感も消失する。エヴァとの神経接続が解除され
たのだ。
明かりがついたが、普段よりも暗い。普段どおり、外も見えた。見えないほうがシンジにはよ
かっただろう。
初号機の両手がじりじりと上がっていき、参号機の喉を掴んだ。
シンジの全身に鳥肌が立った。呼吸もままならないほどの不吉な予感に圧倒された。
「な……何?」自分は何もやっていない。勝手に動いている。「……何だよこれ! 止めてよ、
父さん! 止めろ!」
初号機が吼え、蹂躙がはじまった。

レイは全身を切り裂かれるような痛みに耐えていた。普通ならとっくの昔に気絶しているとこ
ろだ。それができないのは多分使徒に侵食されてるからだろう。
しかし、不幸だとも不運だとも思わなかった。むしろ意識が戻ってよかったと思っている。
操られたような状態のまま死ぬほうが嫌だった。
苦痛に呻き、反り返りながら、参号機の体液に染まった初号機から夕焼け空に目を移した。
参号機に乗り込む時にはまだ優勢だった青は、今は茜色に追い立てられ、雲の上の方にほんの
少し残るだけになっていた。
レイは空を見ながら考える。

おいしいりょうりをたべて、しあわせなきぶんになること。
おいしくないりょうりをたべて、はらがたつこと。
まんてんのほしをみて、おもわずてをのばしてみること。
あめあがりのじめんのにおいをかぐこと。
あそこにさいているはなのなまえは、なんだろうとおもうこと。
こいぬのあたまをなでること。
いかりくんのほかのおんなのこにむけたえがおをみて、むねがいたくなること。
いかりくんのわたしにむけたえがおをみて、むねがあたたかくなること。
だれかにこころをうごかされること。
だれかのこころをうごかすこと。
それが――。
それが、いきるということ。
いきているということ。
わたしは、いままでいきていなかった。
しんでいた。
しにんのようなわらいをうかべて、しんでいるようにいきていた。
わたしは、いま、それがわかる。
いかりくんにあえたから、それがわかる。
いかりくんにあっていなかったら、わたしはいまもしんだようにいきていただろう。
ほんとうは、もっとまえにわかっていればよかった。
けれど、それはしょうがない。
わからないまましぬより、ずっといい。
よかった。
いかりくんにあえて、よかった。
いかりくんはわたしがしんだらきっとかなしむだろう。
いかりくんはやさしいからきっとかなしんでくれる。
いかりくんはやさしいからそのかなしみはながく、ながくつづくだろう。
でも、いかりくんのまわりには、にごうきパイロットもいるし、カツラギさんもいるしともだ
ちもいる。
だからときがたてばわたしのことをわすれて、もとのいかりくんにもどるだろう。かんぜんに
はもどらないかもしれないけれど、それでも、いつかはいえるだろう。
でもわたしはひとり、わたしにはだれもいないからいかりくんがしんだら、いかりくんをころ
してしまったらきっとわたしはいまいじょうにおかしなわたしになる。
もとのわたしにもどってしまうから、もとのからっぽでなにもないわたしにはもどりたくない。
わたしはこれいじょうおかしくなりたくないからわたしはここでしんでいい。
これでよかった、なぜならわたしはいかりくんにありがとうがいえたのだから。ごめんなさい
もいえたのだから。
ありがとうがいえたということはわたしはにんげんだということ。
ありがとうはかんしゃのことば。
はじめてのことば。
ありがとういかりくん。
いかりくんが、ずっとえがおでいられますように。
いかりくんのえがおは、わたしのとちがって、ほんとうのえがおなのだから。
さようなら。
さようならいかりくん。
さようなら。
さようなら……

レイは意識を閉じようとした。これからの短い時間に意味はなかった。
そのときだった。
胸の奥の何かが灯った。
かすかではあるが、あたたかい、ともしびのような何か。
その部分がまだだと告げていた。
まだ言うことがあると叫んでいた。
そうだ。
レイは目を開けた。
まだ。
まだ、わたしには。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしには、まだ、いかりくんに、いうことがある。
なんだろう。
レイは考えた。
必死に考えた。
こんなに考えたことはないというほど考えた。
しかし、胸のあたりに何かつかえているようで、どうしても思いつかなかった。手の届くとこ
ろにあるはずなのに、何かが邪魔している。
レイは唸った。もどかしさで頭がどうにかなってしまいそうだ。
大事な言葉のはずだった。
言葉では完全には伝わらないが、しかし、同時に、言葉でなければ伝わらないもの。
これを言えさえすれば、何も思い残すことなく死んでいけるのに。
レイは、顔をくしゃくしゃに歪めた。おそらく、レイ以外の人間だったら泣いていただろう。
だが、今まで泣いたことが一度もないレイは、今度も泣かなかった。あるいは、泣けなかった。
歯を食い縛って集中しているレイの耳に、みしり、という音が届いた。
エントリープラグが音を立てて軋んだのだ。ほんの僅かではあるが、亀裂が走り、それは徐々
に大きくなっていく。LCLがその隙間から迸り出た。白い何かが見えた。
「待って! まだ……」
レイは身を起こし、叫ぼうとした。
その叫び声は、初号機がプラグを噛み破った音でかき消された。
レイは、自らの両足がすりつぶされていくさなかでも、まだ、シンジに言うべき言葉を考えて
いた。




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