一人目は笑わない

Written by 双子座   


15.

夢を見ていた。
それはシンジとアスカが楽しげに喋っている横で、黙って俯いて座っているものだったり、逆
に自分とシンジが公園のベンチに座ってぽつりぽつりとお互いに呟くように語り合っているも
のだったりした。
昔のことや最近のこと、楽しかったことや悲しかったこと――さまざまな夢を見た。
例の、赤木ナオコに首を絞められている夢も見た。
シンジとアスカが手をつないで、どこかに去っていく夢が一番悲しいものだった。レイも追い
かけようとするのだが、全く前に進まず、下を見ると脚がなくなっていて、焦ってもがいてい
るうちに二人はどんどん遠ざかっていく……。
あまりにおかしな状況のため、今は夢を見ているに違いないと思うときもあれば、次の夢を見
て、ああ、前のは夢だったんだなと分かるときもあった。
だから、目をあけたとき、そこが現実なのかまだ夢の中なのか、レイには判断がつかなかった。
天井を見つめながら静かに呼吸を繰り返しているうちに、これは夢ではなく現実だろうという
推測がゆっくりと確信に変わっていった。
注射針が腕にささっていたり、管が体中についている夢など見ないだろう。
横を見ると、いかにも大げさな機械がいくつも配置されていた。
うっすらとではあるが、明かりがついてる。
いや――やはりこれも夢なのだろうか? 確信は手のひらに落ちた雪のように急速に溶けてい
く。
レイは反射的に起き上がろうとして、自分にそれもままならない程度の力しかないことを思い
知らされ、愕然とした。
起き上がるのはひとまず諦め、こうなった原因を探る。
――いったい、どうなって……。
現実での最後の記憶をたぐろうとするが、その瞬間、針で貫かれるような激しい頭痛に見舞わ
れた。
「つっ……」
目をつむり、呻く。
身動きもできず、ものを考えることもできないとならば、できることは一つしかなかった。
レイはまどろみの沼の中に引きずり込まれていった。


リツコは不機嫌そうな顔で一向に鳴らない電話を睨みつけていた。右手にはタバコ、机の上に
はコーヒーカップ。カップからは湯気が立たなくなっている。
やはりあのとき、徹底的に反対するべきだったのだ……。
何度目かの激しい後悔がリツコを苛んだ。レイが死んでも代わりはいる――いくらでもつくれ
る。その意味では別に死んでもよかった。
だが、彼女にとってはあのレイでなくては意味が無い。新しいレイではなく、今のレイでなく
てはならないのだ。
さんざんレイを庇ってきたのが無駄になってしまう。
リツコは自分を落ち着かせるようにコーヒーカップに手を伸ばし、口をつけた。
口に含んでも、すっかりぬるくなっていることにしばらく気がつかなかった。

レイが即死状態でなかったのは奇跡に近いと医師は告げた。肌の浅黒い五十代の男で、これか
ら行われるレイの手術の責任者だった。
医師の目にはプロに特有の、知識と経験に裏打ちされた諦めが色濃く表れている。
両脚が大腿のあたりまで完全に潰れ、腹部に破片が突き刺さって腎臓の片方が駄目になってい
た。
右腕の上腕骨と右の鎖骨、および五番から七番までの肋骨が骨折していて、他にも無数の切り
傷や打撲があり、大量の出血によるショック死まであと一歩というところまできていた。
実際、ショック死しなかったのが不思議なくらいだった、と医師は不思議そうな顔で言った。
それから咳払いすると、最善は尽くすがあまり希望は持てないだろうということを、婉曲に述
べた。
「それでは困るわ」と、リツコは無表情を崩さずに言った。
ミサトと違い軽症で済んだリツコは、手当てもそこそこに駆けつけたのだった。痛みはあるは
ずだがそれはおくびにも出さない。
いつも通りの平静な態度――と彼女を深くは知らない人は思うだろうが、ミサトだったら実は
苛立っていることに気がついただろう。
「彼女は、たぶん大丈夫。普通の人間より……そう、頑丈だから。まだ」
まだ? 医師はリツコの言葉に戸惑うが、取りあえずはうなずいて見せた。
「ドナーももうじき来ます」
ずいぶん手際がいいんですね、と医師は言おうとしてやめた。パイロットの重要性を考えれば、
普段からドナーを「準備」しているのは当然かも知れない。それがなにを意味するのかは深く
考えたくなかったが。
「脚も元通りにしてもらいます」
リツコの言葉に医師は数瞬、沈黙した。ドナーとは腎臓のことだと思っていたのだが、脚も含
まれているらしい。素人にどうやって説明しようかと考え考え、
「……それは難しいですね。移植に関しては免疫拒絶の問題があります。確かに近年、免疫抑
制剤の進歩により、臓器に関してはHLA――これは白血球の血液型みたいなものです――の厳
格なマッチングは必ずしも必要ではありません。しかし手足は特に拒絶反応が大きいのです」
「他人の脚を移植するのではありません。彼女自身の脚です」
「彼女自身の脚……? 何を言ってるのですか?」医師は不可解な台詞に眉をしかめる。頭で
も打ったのだろうか?
「スペアのパーツがいくらでもあると言ってるの」
医師の口がぽかんと開いた。スペア? 不可解どころか理解不能の言葉だった。
「し、しかし、たとえ拒絶がおきないと仮定しても、神経や血管を縫合しなければなりません。
接着剤でくっつけるわけじゃないんですから。とてもじゃありませんが、医師の数が足りませ
んし、残念ながらその技量もありません」
「神経の縫合なんてしなくて結構。くっつけるだけでいいわ」
今度は医師は絶句した。
「そ、そんなことができるわけがない。患者をわざわざ殺すようなものです」
「あら、希望は持てないといったのはそちらじゃないかしら? どうせ死ぬのならちゃんと四
肢がついた状態で死なせてあげたいのよ。念のために言っておきますが、あなたには拒否権は
ありません。
これは命令です。ご存知のように我々は通常の組織ではないのですから、あなたが罪に問われ
ることはありません。ご安心を」
「何を言われても、できないものは……」
医師の言葉はリツコの手に魔法のように出現したものに遮られた。病院に一番似つかわしくな
いもの――黒光りする拳銃の銃口が医師を睨んでいる。
「あまり手間をかけさせないで下さいな」
医師には「……分かりました」と答えるほかは無かった。

手術は成功したとの連絡は入っていた。そのときの医師の呆然とした声を思い出してリツコは
含み笑いを洩らした。
「信じられない……。縫合したらみるみるうちに接合したんですよ。まるで強力なボンドでプ
ラモデルを作ったみたいに。看護婦は失神しかけましたよ。いったい彼女は何なんですか……?」
「あなたは知らなくていいことです」
「それより……彼女はまだ生きてました。いや、彼女というのは、移植のために用意された、
患者と瓜二つの"彼女"のことです。あれは患者の双子の姉妹では……?」
「いえ、違います。あれは人間ではありません。まだ、ね。そう……クローンと言えば分かり
やすいでしょう。ですから先生は殺人の罪に問われることはありませんわ」
「クローン……」
「お話したように、意識はなかったはずです。言わば人形と同じ。それと、このことは内密に。
外部に洩らしたら漏洩罪に問われますから」
「……話しても誰も信じませんよ。私からも一言……。あなたたちは一体何をしようとしてる
んです?」
「もう一度言います。あなたは知らなくていいことです」
喋る心配はないだろう。レイの素体を切り刻むのはさすがに抵抗があったようだが……。
回想は電話の呼び出し音によって中断された。リツコには、取る前から待ち望んでいたものだ
と分かっていた。
やはり、レイが目覚めたという連絡だった。


レイは驚異的な回復力を示した。集中治療室から一週間ほどで一般病棟に移り、そのときには
もう立って歩けるようになっていた。
骨折も身体についた無数の傷も、ほとんど治癒している。
担当の看護婦は風邪で入院したときと同じ女性だったが、あのときとは違い、滅多に話しかけ
てこないし、話しかけるときも表情は硬く強張り、目にはある種の薄気味悪い生き物を見るよ
うな感じがあった。もっとも、当のレイは全く気にかけなかったが。
レイが再び意識を回復して、はじめて会った病院関係者以外の人間はリツコだった。
「心配したわよ、レイ」
「いったい何があったの? 私、記憶が途中で途絶えてる」
「そうなの」リツコは軽くうなずくと、経緯を語った。
「それで……碇君は無事なの?」
リツコはレイの瞳に隠しようも無い恐怖の色が浮かんでいるのを認め、満足そうに微笑んだ。
すぐにその笑みを引っ込めると、
「怪我は一切無いわ。そういう意味では無事ね」
レイの全身から力が抜けるのが手に取るように分かる。
「……そういう意味では?」
「ええ。シンジ君は、……精神的なショックが大きくて……。今レイに会うのは彼のメンタル
に良くないの。寂しいかも知れないけど、分かってちょうだい」
普段のレイならば、あるいはリツコの口調に隠された嘘を感じ取れたかも知れない。しかし、
今の弱り果てたレイには無理な相談だった。
レイはそっとため息をついた。怪我がないというだけで十分だった。
「赤木博士、そろそろお時間です」
看護婦が顔を覗かせた。面会謝絶のところを無理を押しているのだ。長居はできない。
「では、またね、レイ。今は身体を治すことだけ考えるのよ」
リツコが去っていったあと、レイは天井をじっと見つめていた。


一週間ほど経ち、新たな面会者が訪れた。そこに予想しなかった顔を見て、レイは少し驚いた。
「あなたは……」
レイは記憶を探る。不精髭を生やした一見軽薄そうな男。
「加持リョウジ、だ。忘れられちゃったか。女の子には覚えていてもらう自信はあるんだけど
ね」加持は口とは裏腹に、傷ついた様子もなく名乗った。
「何しに来たの」レイはそっけなく言う。その目には加持に対する興味のかけらもない。
「何しに来たのって、こりゃひどいな」加持は苦笑した。「もちろんお見舞いさ。病人に会い
に来るのに他の理由があるかい?」
レイは黙ったまま返答しない。
「葛城もアスカも心配してたぞ。ずっと面会謝絶だったからな。葛城も今日あたり来るんじゃ
ないか?」
「そう」またしてもそっけなく答える。
「つれないね。それとも葛城や俺だから、かな? シンジ君と会いたくないかい?」
レイの頬がかすかに動いた。おかしな言い方だった。わざわざ会いたくないかと訊くというこ
とは、普通では会えない状況にあることを意味するのではないか?
そう言えばリツコの口ぶりも奇妙だった。
「碇君に何かあったの?」
加持は病室の隅にあった椅子をもってくると、椅子の背を前にして座った。
「別に怪我をしたわけじゃないから、安心してくれ。シンジ君は今特殊な場所にいる。昔風に
言うと、営倉だな。……と言っても分からないか。軟禁ってやつだ」
「……どうして?」
「君との戦闘のあと、ちょっと暴れたからさ。まぁ、生身の身体で暴れたんなら良かったんだ
がね。初号機で暴れちまった」
「……」
「司令もだいぶお怒りでね。シンジ君も謝らないから、ぶち込まれたって訳だ。いや、ぶち込
まれたというか、半分自分から入ったようなものだな。まぁ、ある種の親子喧嘩だな、あれは」
リツコが言葉を濁していた理由が分かった。レイは掛け布団を跳ね上げた。
「行く」
「おいおい、無理するなよ。まずは身体を治してから……」
「身体はもう大丈夫」
レイは身体を起こすと、ベッドから降りた。ふらつく身体を必死にまっすぐにする。
「今すぐ連れていって」
「いやいや、今日は無理だ。軟禁されてる人間に突然会いにいってはいそうですか、というわ
けにはいかない。今回ばかりは司令もお怒りだしな」
「……」
「なに、別に生命の危険がさらされてるわけじゃないし、シンジ君も逃げやしないさ。そうだ
な……じゃあ、明日でどうだ? そう言うと思って、実は先生のほうには外出許可を取ってあ
る。長時間でなければ外出しても大丈夫だとさ」
レイは口を開きかけたが、結局黙ってうなずいた。妙に手際がいいが、シンジに会わせてくれ
るなら意図はどうでもよかった。
加持は明日来る時間を告げると、それじゃ、といって出て行った。
ミサトが心配そうな顔を見せたのは、それから一時間後だった。


予想に反して、シンジが軟禁されている部屋はそれほど下の階ではなかった。
もっとも、特別な許可がないと使用できないエレベーターに乗る必要はあったが。
看守は、何かの間違いで自分はここにいるのだという顔をしている、白髪が目立つ初老の男だ
った。
加持は看守と一言二言話し合い、身分証明書を見せ、次に書類を取り出して渡した。看守はテ
ストを採点する教師のような熱心さで書類をチェックすると、深々とうなずいて鍵を取り出し
た。
久しぶりに人間と話すことができてほっとしているような感じもなくはなかった。
看守を先頭に、独房から連想される陰惨な雰囲気というものがまったくない、チリ一つ落ちて
いない明るい廊下をしばらく歩き、奥から三番目の部屋で立ち止まった。
看守は扉を拳でトントンと叩いた。
「碇君。君に会いにきた人がいるよ」
「え……」ベッドに寝そべっていたシンジは、億劫そうに立ち上がると、ベッドの縁に腰をか
けた。「誰ですか……? 僕は今誰にも会う気はありません」
「やあ、俺だよ、シンジ君。綾波も来てる」
「綾波!?」シンジはまるで電流を流されたように立ち上がった。
レイは看守に顔を向けて、「開けて」と冷たい口調で言い放つ。
「残念だけど、規則でね」看守は首を振った。
「まぁまぁ」何か言い募ろうとするレイを手で押さえるフリをして、口を挟んだのは加持だっ
た。看守の肩に手を回して、少し離れたところまで誘導する。
「別に殺人を犯した凶悪犯ってわけじゃないんだし、大目に見てもいいんじゃないですかねぇ?」
「いや、しかし……」看守は渋い顔をする。
「そもそも使徒と体を張って戦ってるのはあの子たちですぜ。簡単な話、もしあの子たちが戦
うのはもう嫌だって言えば俺たちは死ぬってわけだ」
年のわりに皺が目立つ看守の顔が不安げなものに変わっていく。
「おたく、子供は?」
「ああ、いるが」
「いくつ?」
「高校生の息子がいるよ。来年受験だ。このご時世じゃどうなるか分からんがね」
「なら碇司令の息子とそれほど歳は変わらないな」独房にいる中学生が司令の子息であること
をさりげなく思い出させる。「自分の子供がこんな部屋に閉じ込められている様を想像して欲
しい」
看守の顔はため息をついた。妙に似合う仕草だった。
「何かあれば俺の名前を出していいから、頼みますよ」
少しの間考えている風だったが、腕時計を見て、唐突に、「そうだ。この時間は独房の中の検
査をする時間だった」と言い出した。
それから扉の前まで行くとカードキーで電気ロックを解除し、「いかん。トイレに行きたくな
った。歳を取るとどうも近くなっていけない。少し時間がかかるかも知れないな」とぶつぶつ
呟きながら扉を開けたままにして立ち去ってしまった。
「……ということだ」加持は肩をすくめると、レイにうなずいてみせた。
レイは「ありがとう」と言うと、中に入っていった。
「ありがとう、ね。こりゃ驚いたな。そんなことを真面目な顔で言う子には見えなかったがね」
加持は中を覗き込み、レイとシンジが話しているのを見届けると、その場から離れ、廊下のは
じまで行って携帯を取り出した。
「ああ。俺だ。首尾よくいったよ。……なぁに、キューピッド役もたまにはいいものさ。じゃ
あまた今度、飲みにでもいこう。できれば二人きりで」
連絡を終えると、加持は壁に背をもたせかけて呟いた。
「さてさて、彼女もどういうつもりなのかな。まさか本気でキューピッドになるつもりでもな
いだろう」

「あ……綾波」シンジはレイが部屋に入ってくると、はじかれたように後ろに下がった。目は
大きく見開かれ、過呼吸になったように激しく肩を上下させて息を吸っていた。
それから糸の切れた人形のように床に膝と手をついて、泣き出した。
「綾波……ごめん……僕は……」
レイはショックを受けていた。窓越しでもそのやつれぶりは分かったが、こうやって改めて対
面してみると、その消耗ぶりは痛々しいほどだった。
頬はげっそりとこけ、ただでさえ繊細な顔立ちを一層弱々しいものに変えていた。黒目がちな
目に差す翳は、精神のバランスが崩れる一歩手前を示しているように思われた。
レイの胸がきりきりと刺すように痛む。泣きじゃくるシンジの前に膝を着いて、茫然とシンジ
の白いうなじを見つめた。
何を言えばいいのか分からなかった。ただシンジが泣くのは見たくなかった。
「もう泣かないで。私は大丈夫だから」
シンジは顔を上げた。
「怪我……したって聞いたけど……」
「ちょっと。もう大丈夫」
シンジは涙を拭うとレイの姿を上から下まで何回も見つめた。まるでレイが幻で、目を離すと
消えてしまうとでもいうように。
「よかった……」そこでシンジは笑おうとしたが、表情は強張ったままだった。「綾波に……
会わせる顔がないよ」
「どうして?」
「だって、綾波に怪我をさせたのは僕なんだよ」
「それなら、おあいこ」
「え?」シンジはきょとんとした。
「だって私も碇君を殺そうとしたんだから」
「それは……違うよ。綾波は使徒に操られていたんだ。だから綾波のせいじゃない」
「それなら碇君も同じことじゃない。ダミーシステムが動いていたのだから」
シンジは納得のいかない様子だった。「で、でも……」
「あまり、自分を責めないで。碇君は悪くない」
レイの言葉を聞くと、シンジは俯いて、そうだ、と言った。
「父さんが……。悪いのは父さんだ。僕には綾波が正気に戻るのが分かってたんだ。もう少し
待ってくれれば良かったのに。なのに……」
レイはかぶりを振った。「司令の判断は正しかった。もしかしたら私はぎりぎりのところで元
に戻れたのかも知れない。だけど、もしそうじゃなかったら……私が碇君を殺していた」
「いいよ、その方が! 綾波を殺すより僕が死んだ方がいい」シンジは悲鳴に近い声を上げた。
「それは違う。碇君が死んだら私を止める手段はなくなっていた。人類が滅んでいたわ」
「それは……」シンジは何を言えば伝わるのか必死に言葉を探している。「それは理屈だよ。
いくら正しくても感情は違う。僕は……僕はどうしても父さんが許せないんだ」
俯いたシンジの目から、また涙がぽたぽたと垂れてくる。
レイはシンジの手を取って強く握りしめた。シンジははっとして顔を上げた。
「碇君」レイはシンジの目を覗き込む。「碇君は、誰かを憎んだり恨んだりしては、だめ。私
は……」
そう言うと、まるで落ちている言葉を拾うようにいったん下を向いた。それからまたシンジの
目を見て、断固とした口調で言った。
「私は碇君にいつも笑っていて欲しい。私には碇君みたいに笑えないから。それっておかしい?」
シンジは目を瞬かせてまじまじとレイを見つめた。
「綾波……。僕が言ったこと、覚えてる? 本当は綾波は優しい性格なんだってこと。やっぱ
り僕は間違っていなかった」
「いえ、違う。人は他人の中に自分の姿を見るの。まるで鏡を見るように。碇君が私のことを
優しいと思うのは、碇君が優しいから」
司令のことを許せないというのは、本当は自分が許せないということなのよ――とは言わなか
った。
「そう……かな。難しいこと言うね、綾波は」
ちょっと困った顔をするシンジの顔を見ているうちに、ふと何かを思い出しそうになった。
「どうしたの?」
「いえ……。何か、碇君に言うことがあったような気がする」
「何かな?」
「それが……分からないの。でも、大事な……とても大事なことということだけは分かってる」
「色々あったから、しょうがないよ。ゆっくりでいいと思う」
「そうね」と、レイは言った。
沈黙の天使が二人の間をゆっくりと通り過ぎた。
シンジが咳払いをして、言い辛そうに、
「……綾波」
「え?」
「その……手が……」
「あ」
レイは慌てて手を放す。顔が少し赤くなっていた。
「どうだ。積もる話は済んだかい?」
ちょうどいいタイミングでひょっこりと加持が顔を出した。
「ええ」レイが立ち上がった。「行きましょう、碇君。こんなところにこれ以上いる必要はな
いわ」
「いや、さすがにそういうわけにはいかないな」加持は苦笑した。
「うん。加持さんの言うとおりだよ。強引に出たら看守のおじさんにも迷惑かけちゃうし。結
構僕によくしてくれたんだ」
レイは少しの間黙って考えていたが、「じゃあ、司令にかけあってくる」と言った。「司令の
許可があればいいんでしょう?」
「まぁ、そうだな。あとはシンジ君の意志だ。どうだい、シンジ君」
「ええ、僕は……僕も、大丈夫です」
「少し待ってて、碇君」レイは静かに言った。

ゲンドウは書類から顔を上げ、驚きを示す、眉毛を数ミリ程度動かす仕草をしてみせた。
扉の前には、いかつい警備員の横にいるせいで普段よりも小柄に見えるレイの姿があった。い
つものように背筋をぴんと伸ばし、滑るような足取りでデスクの前まで来る。
「レイ。もういいのか」
「はい。私は大丈夫です」
「そうか。無理はするな」
レイはそれには答えず、単刀直入に切り出した。「司令。碇君を出してください」
「シンジ……初号機パイロットは罪を償っている最中だ。あれのやったことは……」
「碇君も反省しています。お願いします」
レイは頭を下げた。
ゲンドウはレイを黙って見つめていた。ゲンドウが驚愕していることが分かるのは、冬月くら
いのものだろう。次の言葉が発せられるまでいくばくかの時間がかかった。
「分かった。手続きはとっておく」
ありがとうございます、とレイは答えた。
レイが出て行くと、ゲンドウは椅子の背もたれに背中を預け、臍のあたりで手を組んで目を閉
じた。

本部から出て病院に帰る途中、アスカとばったり会った。加持に仔犬のようにまとわりついて
いる。
レイを見ると、加持は露骨に助かったという顔で、「お、用事は済んだか? その様子だと司
令の許可は下りたらしいな。じゃ、病院に戻るか」
アスカは加持の腕から手を放し、目を丸くする。「ファースト! あんた……もういいの? 
酷い怪我だったって聞いたけど……」
頭から爪先までレイを眺め回し、「その様子だとそんなに大した怪我じゃなかったみたいね」
ほっとした雰囲気だった――と他人が指摘したらアスカは烈火のごとく怒りだしただろう。加
持はもちろん何も言わず、無言でニヤニヤするだけだった。
「ええ」
レイはそう言ったものの、実際自分の怪我がどんな程度だったのか知らなかったし、興味もな
かった。今こうして歩ければそれでいいのだ。
「そ。……あー」アスカは言いづらそうに口ごもる。「まぁ、何ていうか……色々あって落ち
込んでると思うけど――あ、いや、落ち込んでるってのはあんたじゃなくてシンジのほうよ。
あんたは落ち込むってタマじゃないし――」
アスカはそこで一旦言葉を切ると、咳払いをして、「あーもう! 私が言いたいのは、要する
にあいつを元気付けてやりなさいってこと! あんたしか出来ないことなんだからさ!」
レイは小首をかしげた。「私だけしか出来ない?」
「そうよ! 分かる?」
目をぱちぱちと瞬かせてレイは「……分かったわ、惣流さん」
「そっ……惣流さん……?」
目が点になって立ち尽くすアスカを後に残し、レイは少々ふらつく足取りで加持と一緒に病院
に戻っていった。


こうしてシンジは復帰した。学校はなくなり、子供たちは家庭教師をつけられて勉強すること
になったり――アスカとレイは拒否したため、シンジだけだったが――、シンジの心には傷跡
が残り、悪夢を見て夜中に跳ね起きたりすることはあるもの、おおむねいつもの日常に戻った
ように思われた。
起こったことを考えれば、誰にとってもまずまず文句のない展開と言えた。
特に、赤木リツコにとっては理想的とさえ表現してもいいくらいだった。

リツコはタバコを口に銜えたままモニターをチェックしていた。タバコの煙越しのため、目を
細めて見ている。
レイのシンクロ率を見る。案の定、以前よりかなり低く、何回テストしても低いままだった。
部屋に誰もいないときを見計らって、もっと上げるように指示すると、レイは戸惑った様子で、
自分でも分からないがもう自由にシンクロ率を操作できなくなった、と告げた。
嘘をついてるようには見えなかったし、その理由もない。
つまり――。
「さて、と。いよいよね」タバコを灰皿に押し付けた。手に力が入っていることに気がついて、
苦笑した。やっとこの日が来たのだ。力が入って当然かも知れなかった。
「お姫様は王子様と末永く仲良く暮らしました――。そんなことが通ると思ってるの、レイ?
 そうはいかないわよ。あなたにはハッピーエンドは似合わないし、私が許さないわ」
リツコは受話器を取り上げた。
さあ、いよいよ――
復讐の時間が、はじまるのだ。




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