一人目は笑わないWritten by 双子座
16. ――何だろう? シンジは不安げな面持ちで、カチカチと音を立てて数字が増えていく風変わりな階数表示盤を 見つめていた。エレベーターの中は、どこか息が詰まるような感じがする。 つい先ほどリツコから電話があり、何でも用件はレイのことだという。何故僕なんですか、と いうシンジの問いかけに、リツコは、デリケートなことだから――と口を濁すだけだった。 それから――と、リツコはとっておきの秘密を告げるような口調で、誰にも言わないように、 と付け加えた。 シンジには用件の内容は全く推測できなかったが、レイのことと聞いては行かないわけにはい かなかった。 「ようこそ、シンジ君」 ネルフ本部にあるリツコの私室は、持ち主の性格を表してか、整然としていた。おびただしい 本が――ほとんどはシンジにはその内容すら類推できないような専門書だった――きちんとラ ベリングされ、書架にずらりと並んでいる。 ミサトさんも少しは見習えばいいのに……と、シンジは頭の片隅で考える。もっとも整理整頓 できるミサトは、もはやミサトではない気もしたが。 シンジは挨拶もそこそこに、本題に入った。 「いったいどうしたんですか、リツコさん。綾波のことだって言ってましたけど……」 「ここに来ることは誰にも言ってないわね?」リツコはシンジの質問に答えず、シンジに確認 する。 「ええ……」シンジの顔に不安が徐々に浮かび上がってくる。 「そう」リツコは満足そうにうなずくと、机の引き出しから一枚の写真を取り出して立ち上が った。 「これを見て欲しいの」 「はい……」 シンジはリツコの顔から写真へと視線を移し――悲鳴を上げた。 「な……何ですか、これ!?」 写真にはエントリープラグ内のレイの姿が鮮明に映し出されていた。両脚は潰れていて、全身 が血まみれの無残な姿がある。 「何って……この間の戦闘のあとのレイの写真よ」 シンジは写真から目を逸らそうとしたが、磁石のように吸い付いて離れない。 「う、嘘だ……」 「なぜ?」 「だって……綾波は元気にしてる。参号機と戦ってから三週間も経ってないのに、こんなに酷 い怪我が治るわけがない!」 「私が嘘をつく必要はあるかしら?」リツコは黒い眉を上品にしかめてみせた。言葉に詰まる シンジに、「これは本当のことなのよ、シンジ君。現実なの」 嘘だ、と再び呆然と呟くシンジ。突然吐き気を催したように腰を折り、口に手を当てた。 「シンジ君」 リツコはシンジに合わせて腰をかがめ、シンジの耳に囁いた。 「レイの秘密を知りたくない? いえ、違うわね。レイがこんな目に遭ったのはあなたの責任 でもあるから、知る義務と責任があるわ」 シンジは限界まで目を見開いて、リツコの妖しく光る瞳を見つめた。 □
呼び止められて振り向いたとき、レイは相も変わらぬ無表情だったが、リツコは以前とは違う ものを見出していた。それはある種の穏やかさだった。 群雲のように湧き上がってきた嫌悪感をリツコは必死に抑える。 もう少し。もう少しで、この顔が絶望に歪むのを見られるのだ。 レイは、発音するために必要な最小限度分だけ口を動かした。「なに?」 リツコは腕時計に目を走らせた。「あなたさえ良ければ、今から一緒に来て欲しい場所がある のだけど」 「……何の用で?」 なぜ私が、という顔をするレイ。 「シンジ君のことで」 「碇君?」 レイの声にリツコでなくても分かるほどの感情がこもった。 「碇君の、どんなこと?」 「シンジ君が黒い球体から出てきたときのことを覚えてる?」 「ええ」 「それから本部まで侵入してきた使徒を迎撃するさいに、シンクロ率400%を超えたことも覚 えてるわね」 「当たり前よ」 そんなに前のことではないのだから、忘れるわけがない。 「分析の結果、シンジ君があなたと同じということが判明したの」 「私と同じ!?」レイが目を大きく見開いて叫んだ。「どういうこと?」 リツコは周囲を見渡すと、声をひそめた。「複雑な話なの。ここで立ち話をするわけにはいか ないわ。何より、機密事項なのよ。……一緒に来てくれるわよね」 レイは少し躊躇ったが、結局はうなずいた。 リツコは内心ほくそえむ。こんなに簡単にいっていいのかと思うほど見事に引っかかってくれ た。これもシンジのお陰だ。 「じゃあ、行きましょうか」リツコは、囁くように言った。 「どうしたの、レイ?」 エレベーターホールを出たところで突然立ち止まったレイを、リツコは、だだをこねる子供を 見守る母親のような、少し困った笑顔を浮かべて振り返った。 レイは端正な白い顔を引き攣らせると、一歩後ずさった。 長い廊下の先にあるドアの向こうで、何かが待っていると本能的に分かったのだ。 何か、良くないものが。 「どうしたの? いったい」と、リツコは繰り返す。今度は笑いは浮かんでいない。目を細め、 無表情になっていた。 レイはゆっくりと首を振った。「加持リョウジを病院に来させたのは、あなたね?」 「あら」リツコは目を丸くした。わざとらしい仕草だった。「よく分かったわね。正解よ」 「いったい、何が目的?」 「勿論、あなたのためよ。碇君に会いたいだろうと思って。私だと、立場上差し障りがあるか ら」 「嘘」 「嘘? なぜ私が嘘を?」心外な、という表情。これもわざとらしく、芝居がかっていた。 「あなたが私のために何かするわけがないもの」 リツコはレイの顔を穴の開くほど見つめると、急に笑い声を上げた。 「酷いわね。少しは他人を信じるものよ。……さ、もう行きましょう」 リツコはレイのほうに一歩進んだ。レイはかぶりを振った。「行きたくない」 ため息をつくと、「我儘は困るわ、レイ」 素早く手を伸ばすと、レイの左手首を掴んだ。 「放……せ」 レイは腕を引っ張り、びくともしないことが分かると、右手でリツコの身体を叩きはじめた。 片手であり、また大人と子供ということもあって、何の効果もなかった。 「あらあら。そんなまどろっこしいことをしないでも、ATフィールドを展開したら済むんじゃ ないかしら?」 「そんなことをしたら、あなたが死ぬわ」 「別にいいわよ。やってご覧なさい」 「脅しと思ってるの?」 「だからやってみなさい」 レイの頬が引き攣った。沈黙が分厚い壁のように二人の間に立ちはだかった。 「やっぱり、思った通りね。もうできないのね、レイ」リツコは唇の端を吊り上げる。「おめ でとう、レイ。あなたは……人間になれたのよ。喜びなさい」 「何……言ってるの」 「まぁ、それは置いといて。どうしても行きたくないというなら、一つ教えて貰おうかしら」 「何を?」 「首を絞められる前に、あなたが母に言ったこと」 「……何も言ってないわ」 「言いたくないのならいいわ。シンジ君に話してしまうわよ? あなたが怪我したフリをして、 シンジ君をエヴァに乗せたこと」 レイはねめつけるようにリツコを見る。 「好きにすれば?」平然と言い放つ。少なくとも、本人はそのつもりだった。 「本当にいいの?」と、リツコは、叱られてご飯なんかいらないとダダをこねる子供を諭すよ うに優しく言う。 レイは黙りこんだ。シンジに謝ればいいだけの話だった。確かにバツが悪いが、取り返しのつ かないようなことではないだろうと思う。何なら、リツコがばらす前にこちらから告白してし まえばいい。 「じゃあ、あなたがシンジ君に押し倒された場面を相田君に撮らせていたことは?」 予想外の言葉にレイは硬直した。「な、何で……」 「ふふ。実はね、あなたの部屋に盗聴器を仕掛けておいたのよ」恐るべき内容とは裏腹に、笑 顔を浮かべて、「あなたは部屋に鍵もかけないし、こっそりコピーをとるのは楽なものだった わ」 レイはリツコの異常とも言える執念に絶句する。 「で、どうなの、レイ? 考え直してくれた? シンジ君、どう思うかしら。どうせあなたの ことだから、あれをネタに言うことを聞かせようとするつもりだったんでしょう」 レイは一言もない。その通りだったからだ。 「さすがにこれは、ねぇ? シンジ君、あなたのこと――嫌いになっちゃうんじゃないかしら」 「……」 「さ、シンジ君に黙っていて欲しければ話しなさい」 レイは俯いて唇を噛みしめた。 リツコはレイの表情の変化を見逃さなかった。携帯を取り出して、「嫌ならいいのよ。今シン ジ君に電話して教えるから」 「待って!」レイは白い顔をさらに白くして叫んだ。 「なぁに?」 「……やめて。言うから」 「やめてください、じゃないのかしら? 人に物事を頼むときは」 レイは顔をゆがめる。「……やめて、下さい」 「よく出来ました」リツコはにっこり笑って、「それじゃあ言いなさい。あのとき、母に何と 言ったの? 本当のことを言うのよ、レイ」 「……ばあさんは用済み」 「何ですって?」 「"所長がそう言ってるのよ、あなたの事。ばあさんはしつこいとか、ばあさんは用済みだと か"」 レイは目を閉じて、あのとき言った台詞を忠実に繰り返した。 「それ、本当に司令が言ったの?」リツコの顔はいつの間にか能面のように無表情になってい た。 「……」 「レイ!?」 リツコはレイの手首を握った手に力を込めた。くっ、とレイがうめき声を上げる。 「言いなさい。言わないとシンジ君に全てを話すわよ」 レイとリツコの視線が絡み合う。しかし、この勝負の決着はすでに着いていた。 「……でたらめよ。たまたま見ていたテレビドラマか何かの台詞を適当に変えて言っただけ。 あのときはあなたの母と司令が付き合ってることも知らなかったし」 「そのでたらめで母さんを殺したのね」 「殺してないわ。あなたの母親は事故で死んだのよ」 「殺したも同然よ」 「だいたい、あの女が余計なコンプレックスを持っていたのが悪いのよ。そうじゃなければ… …」 途中でレイは沈黙した。リツコがレイの頬を平手打ちしたからだった。 「それ以上何も言わないで。言うと殺すわよ。あなたじゃない、シンジ君を、ね。……さぁ、 それじゃあ行きましょうか、レイ。楽しいパーティのはじまりよ」 「なっ。本当のことを言ったら行かないって……」 「あら。私はシンジ君にビデオのことを言わないって言っただけで、あの部屋に行くことは何 も言ってないけど?」 「だ……騙したわね」 「あっはっは! あなたからそんな台詞を聞くなんてね。さ、もういいでしょう。パーティに 相応しい特別ゲストも用意してるのよ。楽しみにしててね、レイ」 リツコはレイを引きずるようにして歩き出した。 レイはリツコの手に血が出るほど強く爪を立てて抵抗したが、リツコは全く意に介さなかった。 ・・・・・ 特別ゲスト。 レイの肌が粟立った。何が待ち構えているのか分からないが、レイの全身の細胞が、魂がこの 先を拒否していた。 「あ……あ……」 レイは生まれて初めての恐怖に遭遇していた。あまりの恐怖に言葉が出ず、ただ首を振って哀 願するだけだ。 リツコはその表情をご馳走を目の前にした美食家のように見つめると、一見すると全く邪気の ないような笑顔を浮かべた。 手を伸ばしてレイの顔を優しく撫でる。 「私はね、あなたのその顔が見たかったのよ。その顔さえ見られればよかったの。これで許し てあげるから、もうおいたは無しよ」 レイの全身から力が抜けた。助かった、と思った。安堵のあまり膝を地面に着きそうだった。 「なんて、ね」 リツコはレイを引き寄せると、力いっぱい抱きしめて、愛しい我が子に子守唄を唄うような調 子でそっと囁いた。 「冗・談・よ。あなたは、絶対に、許さない」 レイは、悲鳴をあげた。 「私はね、レイ」 「あなたが人間になるのをずっと待ってたのよ。この日が来ることをどんなに待ち焦がれたか、 あなたには分からないでしょうね」 「多分、シンジ君に会う前のあなたなら、何の衝撃も受けなかったでしょう。だけど今は違う。 あなたはシンジ君を知って人間になった」 「人間になったあなたが、あれを見てどんな風に思うか」 「いえ、違うわね。あれを見たシンジ君を見て、あなたがどう思うか、ね」 「楽しみだわ」 「私はこの日を何年も待ち続けてきたのよ」 「本当に、楽しみだわ、レイ」 「そう、何年も何年もね」 「これは報いよ」 「これは報いなのよ、レイ」 リツコはレイに向かってというよりも、独り言のように呟きながら廊下を歩いていく。 レイも、リツコに引きずられるように――いや、実際に引きずられていく。その顔から一切の 表情が失われ、生気のなさはまるで人形のようだった。 すぐに扉の前まで来た。 「まずはあなたに見てもらわなければね」 レイはリツコの足元にぺたんと座り込んで「それ」を待っていた。 それ――すなわち、破滅を。 巨大な獣がぱっくりと口を開けて、レイをその黒々とした洞の中に飲み込もうとしているのだ。 逃れる術はないことは、レイには分かっていた。 部屋の明かりは最低限度まで落とされている。傍から見ると、床に座り込んだレイの姿は暗闇 に溶け、同化しているように見えるだろう。 リツコはずっと楽しげで、上機嫌だった。鼻歌すら歌っていた。 どれくらいの時間が経ったのか。レイには永遠にも思われたし、一瞬のようにも感じられた。 扉が開く、シュッという小さく擦れるような音は、レイにとって、世界の終わりを告げるラッ パの音に等しかった。 そこにあらわれたのは―― 当然、シンジだった。困惑した様子でおずおずと部屋に入ってくる。「リツコさん――?」 「あら。意外と早かったわね」時間通りと知りながらも、腕時計に目を走らせてリツコが言っ た。「もう少し気をもたせてよかったのに」 レイを見下ろしながら、ふふ、とリツコは含み笑いを洩らす。その笑みがシンジの後に続いて 入ってきた人物を見て固まった。 「ここは一体……何なの?」 「ミサト……!?」リツコの驚きは、しかし、一瞬だった。「あなた、昨日夜勤だったでしょ う? 寝不足はお肌に悪いわよ。お互い若くないんだから気をつけないと」 リツコのふざけた調子の台詞にも、ミサトは険しい顔つきを崩さなかった。 「俺もそう言ったんだがね」ひょっこり顔を出したのは加持だった。 「加持君!? そう……。シンジ君の様子に気がついたのはミサトじゃなくてあなただったの ね」 加持は返答の代わりに肩をすくめた。 「私が夜勤のときを狙うなんてね。あなたらしいわ、リツコ。……で、あなたは何をしようと しているの?」 リツコは肩をすくめた。「まぁ、いいわ。せっかくの舞台だもの、観客が多いほうがやる気が 出るわ。……私が何をするのか、ですって? これよ」 華やかな開会式の開幕を告げるように言うと、手に持ったリモコンのスイッチを入れた。 部屋の明かりがついた。 「うっ!?」 「これは……!?」 三人は眩しさのあまり手をかざし――次の瞬間、それぞれの顔に驚愕を貼り付けていた。 水槽が部屋の周囲を半円状に取り囲んでいた。 そして、その中には―― 「……綾……波……?」シンジが呆然と呟いた。 何人もの綾波レイが、おそらくはLCLと思われる液体の中に裸のままで浮かんでいた。 「人形?」と、本能的に違うと分かったものの、ミサトは掠れた声で訊いた。人形にしては生 々し過ぎた。 「違うわ、ミサト。これは……レイのクローン。いえ、クローンという言い方はおかしいわね。 別にレイのオリジナルがある訳じゃないのだから。 これは、レイのパーツ。そうとしか言いようがないわ。このレイが死んだらこの中のレイのど れかに意識が宿り、それがレイになるのよ」 このレイ――というリツコの言葉で、三人はリツコの足元に呆然と座り込むレイの姿にやっと 気がついた。 「分かった? シンジ君。この子は人工的に作られた生き物なのよ」 「止めなさい、リツコ!」ミサトの鋭い声が飛ぶ。 「どうして? 私はシンジ君に約束したのよ。レイの秘密を教えるって」 「レイの秘密を教える……? 何でそんなことを……?」 リツコはため息をついた。 「親切心で……と言っても信じてもらえないでしょうね。……分かったわ。本当の目的は―― 復讐よ」 「復讐!?」 「そう。私の母は、レイに殺されたのよ。その復讐」 「何を言ってるの? あなたの母は八年前、交通事故で――」 「直接的な死因はね。間接的には、アルコールに溺れたからよ。そしてアルコールに溺れたの は、レイのせい」 「レイのせいですって?」 「そうよ。この子が母に酷いことをしたから」 「そんな……」ミサトは言葉を失った。「八年以上も前って……レイはまだ子供もいいところ じゃない」 「子供かどうかは関係ないわ」リツコの顔が急に憎々しげなものに変わった。「それに、子供 とか大人とか、そういう尺度では量れないのよ、この子は。なにせ人間ではないのだから」 リツコは何か言おうとするミサトを手で制して、「レイはリリスと、とある人物から造られた の」 「リリス?」 「第二の使徒」 「使徒!?」 「そう。だけど、私たちの思惑とは違って、リリスの性質が強すぎた。コントロールがきかな い存在になってしまったの。それはあなたもよく知ってることよね」 リツコはシンジの方を向く。「シンジ君?」 突然名前を呼ばれ、シンジはびくりと身を震わせる。 「あなたがネルフに招かれたのは、レイを抑えるためもあったのよ。結果、見事に――いえ、 期待以上にレイは人間らしくなったわ。あなたには本当に感謝している」 どう答えていいか分からず、シンジは固まっている。 「あなたに会う前のレイだったら、出生の秘密を暴露しても鼻で笑うだけだったでしょうね。 人並みになれたからこうやってショックを受けることができる。皮肉なものね」 「シンジ君を……利用したのね」 「その通りよ」 「何てことを――!」 「あら、あなたに私を責める道理があって? あなただって自分の復讐のためにシンジ君たち を利用してるんじゃないの? 復讐の道具じゃないと胸を張って言えるのかしら?」 ミサトは鋭い痛みに襲われたように顔をゆがませた。「それは……」 「いいや、そいつは違うな、りっちゃん」それまで黙っていた加持が口を挟んだ。「使徒と戦 うことは止むを得ないことだ。それに少なくとも葛城はシンジ君たちの境遇に胸を痛めている よ。君はどうだい?」 リツコは降参するように両手を上げた。「そうね。私はあなたたちと違って、冷酷な人間だも の」 「それも違うな」加持は首を振った。「自分でそう思ってるだけさ」 「……分かったようなフリをするのは止めてくれる? あなたの悪い癖よ、加持君」リツコは 内面の激情を無理に押さえつけているような、不自然なほど平坦な口調で言った。それから波 立った自分の心を落ち着かせるように目を閉じ、深呼吸をひとつする。目を開いたときにはリ ツコの心を波立たせたものは拭い去ったように消えていた。 「なぜシンジ君を呼んだのか、分かる、ミサト? それはシンジ君とレイには特別な関係があ るからなの」 「特別な関係?」 「特別な関係と言えばね、母も私も、司令の愛人だったの」 軽い調子とは裏腹の内容に、その場の空気が凍りついた。 ミサトはシンジに素早く目を走らせた。「止めなさい、リツコ。事実かどうか知らないけど、 そんなことを言う必要はないわ」 「馬鹿な話よね。あの人の心には彼女がいつだっていたのに」リツコの唇が吊り上がった。 「彼女って分かる、シンジ君?」 シンジは名指しされて、怯えるように一歩後ずさる。 「彼女というのは、さっき言った、レイの肉体のもとになったある人物のこと。つまり……」 「リツコ!」青ざめたミサトの叫び声も、リツコの囁くような声を止めることは出来なかった。 「碇ユイ。シンジ君の母親よ」 加持が素早く動いて、ふらりと倒れかかるシンジを支えた。 「本当は母の死が理由じゃないのかも知れない。あの人が私のほうを振り向いてくれないから なのかもね。いえ、もうどうだっていいわ。私はレイが憎い。理屈じゃないわ。憎くて憎くて 仕方ないのよ」 リツコの目は炎を映しているように爛々と光り輝いていた。その目が下を向く。 「どう、レイ、分かった?」喉を仰け反らせて、狂ったようにリツコは笑った。「あなたなん かいくらでも代わりがいるのよ。でもね、レイ。あなたは絶対死なせないわよ。この光景を刻 み付けなさい。心に焼き付けて一生、生きていくのよ」 「リツコ……」 ミサトは理解し、そして慄然とした。リツコの精神の暗さ、その深さに。 なぜリツコがことあるごとにレイ危険な任務を避けるような言動をとっていたのか。 最初の出撃のときからそうだった。リツコはなかなか出撃しようとしないレイを擁護した。 第五使徒戦のときもそうだ。より危険な防御役をシンジに、レイを砲撃手役に推薦したのはリ ツコだ。 参号機の実験でもレイを搭乗させるのにリツコは最後まで抵抗していた。 すべて、レイを死なせないようにとの意図だったのだ。 復讐のために。 「このバカ!」 ミサトはなおも笑い続けるリツコの元に歩み寄ると、頬を張り飛ばした。ぴしゃりという高い 音が静まり返る部屋に響く。 「そう、私は馬鹿よ」打たれた方の頬に手をあて、リツコは俯いた。「どうしようもない馬鹿 だわ」 それから、静かに涙を流しはじめた。 何か言おうと口を開いたミサトがよろめいた。突然跳ね上がるように立ち上がったレイとぶつ かったのだ。レイはミサトに構わず、出口に向かって走り出した。 「レイ!」 その叫び声も、レイに追いつくことはなかった。そのまま長い廊下を駆け抜け、エレベーター ホールに辿り着くとすぐに上ボタンを押した。 幸いにも、ミサトたちが使ったままだったので、すぐに乗り込むことができた。 背中を壁に預けると、ずるずると床にへたり込む。 ――見られた。 真っ白になった頭の中を、その想いだけが嵐のように渦巻いていた。 碇君にあれを。あの姿を。 私を。たくさんの私を。 恥ずかしいとか、みっともないとか、そういう感情を超え、ただ衝撃があった。 ――知られてしまった。 ナオコが首を絞めるときに言った台詞が、唐突に蘇った。 ……あんたなんか、いくらでも代わりはいるのよ。 いざ思い出してみると、なぜ忘れたのか不思議なほどはっきりと耳に残る言葉だった。 長年の疑問が解けた。なぜ、子供の言うことに本気で怒って殺そうとしたのか。 いくらでも代わりがいるからだ。あんなにいるんだから、一人二人殺したってどうってことは ない。 レイは笑い出した。 自分でも止めることができない、ヒステリックな笑いがエレベータの中で反響する。 エレベーターを出て、自分の部屋にどうやって帰ったのか、記憶になかった。 気がつくと、バスルームで鏡を見つめていた。 赤い目をした綾波レイが鏡の向こうで冷笑を浮かべている。 そこで我慢ができなくなった。思い切り胃の中身をぶちまけていた。すべて吐いても吐き足ら ず、胃液まで吐き出した。苦痛のために目尻に涙がたまる。 饐えた匂いが立ちこめる中、喉から笛が鳴くような音を立てながら、蛇口をひねって汚物を始 末する。 ――とうとう見られたわね。碇君に。 鏡の中のレイがレイに向かって語りかける。 ……あなた、知ってたわね。 ――もちろん。あなたも知ってたでしょ? ……そう。私も知っていた。けど、忘れていた。いや、忘れさせられていた。 ――あなたは、人間じゃない。 ……私は、人間。 ――人間にスペアはないわ。碇君にも葛城さんにも、セカンドパイロットにも代わりはいない。 代わりはいるのはあなただけ。 ……。 レイは、こつん、と額を鏡に打ちつけた。 また、打ちつける。 こつん。 代わりがいるのは私だけ。 さらに、打ちつける。 人間じゃない。人間じゃない。私は人間じゃない。 こつん。 碇君に知られてしまった。私が人間ではないことを。 化け物だということを。 化け物だということを。 化け物。 化け物。 「ひっ」 レイは、叫び声を上げ、今度は思い切り打ちつけた。鈍い音とともに鏡が割れた。 額から血が流れ出て、レイの顔をまだらに染める。 赤い血。血? 人間じゃない化物の血。何故赤いの? 頭が割れるように痛かった。 胸がつぶれるように苦しかった。 「痛い……」 レイは呟いた。 「痛い……」 痛いのは傷ついた額ではなかった。痛いのは肉体ではなかった。 「痛い痛い痛い痛い」 痛くてたまらなかった。 苦しくてたまらなかった。 この痛みから、苦しみから逃れるにはどうしたらいいのか。 どうしたらいいのか。 下を見ると、鏡の破片に映る大量の顔がレイを見返していた。 心が決まった。 どうしたら―― レイは自然と破片を手にとっていた。その瞬間からレイの心を占めるものは、右手に握った鏡 の破片と、自分の手首だけになった。 「は……」 大きく息を吸った。 大きく息を吐いた。 破片を思い切り握り締めたせいで、手のひらが切れ、血が流れ出してきたが、痛みは感じなか った。これから自分がすることに比べたら、どうでもいいことだからだ。 大きく息を吸った。 大きく息を吐いた。 繰り返すうちに、呼吸は徐々に浅く、速くなっていく。 そしてその呼吸が止まると同時に、手首に押し当てた破片を思い切り――。 チャイムが鳴った。 綾波は肩を大きく波立たせながらドアのほうを見た。 破片を持った手が激しく震えている。 もう一度チャイムが鳴った。 「ひっ」 震えが激しいために、破片を落としてしまった。あわてて拾おうとするがうまく掴めない。 「誰……」 いや、分かっていた。訊くまでもないことだった。 がくがくと笑う膝を叱咤しつつ、幽鬼のように立ち上がる。 どうしよう。これからどうすればいいのだろう。 「綾波」シンジの声が聞こえてくる。「綾波。話をしよう」 いったん切れた気力は容易に取り戻せそうになかった。 特に、シンジの声を聞いてしまったあとでは。 話をする? いったいどんな顔をして会えばいいのだろう。 このままやり過ごそうか……と考えたそのとき、ドアに鍵をかけてないことに気がついた。 「駄目!」 鍵をかけようとふらつく脚でバスルームから出ると、すでにドアが開きつつあるのが目に入っ た。 レイは悲鳴を上げて後ずさる。もう間に合わない。 「どうしたの、綾波!?」 悲鳴を耳にして飛び込むように入ってきたシンジだが、血に染まったレイの顔を見て立ちすく み、息を呑んだ。「綾波! 怪我して……」 「どうして来たの?」レイの悲鳴にも似た問いかけの言葉がシンジのそれを遮る。 「どうしてって……綾波が心配だからだよ。それよりも、手当てしないと……」 「嘘!」 レイはキッチンに放り出すようにして置いてあった包丁を手に取ると、シンジに刃先を向けた。 「こっ……来ないで!」 喉からひっ、ひっとしゃっくりのような音を立て、レイは包丁をシンジに向けたまま後ずさっ ていく。 「綾波……。その包丁……どうしたの?」 「……?」レイが何を言うのかと不審気な顔をする。少しだけ気持ちが落ち着いたが、そのこ とには気がついていない。「自分で……買ったのよ」 「そう。じゃあ、料理、作ってるんだね」 「……」 「食べたいな。綾波の手料理」シンジは言いながらじりじりと亀の歩みでレイに近づいていく。 「包丁は……そういうことに使うものじゃないよ」 「来るな!」 シンジはぴたりと止まった。 「あなたも心の中で私を笑ってるんでしょう?」 「綾波……」 「人間じゃないって。私が人間じゃないから私の言うことを大人しく聞いてたんでしょう?」 「……」 「偉そうに言ってるけどあいつは人間じゃないって。何人でも代わりがいる化け物だって」 「……」 「化け物だって化け物だって化け物だって」 シンジは首を横に振って、レイを真正面から見つめた。長い時間をかけて結晶化した鉱物のよ うな、澄んだ目線だった。 「そんな目で見ないで!」 レイはなおも後退しようとして、壁に突き当たったことを知った。 「綾波は人間だよ。そんなこと……言うまでもないよ」 「口だけの台詞を吐かないで。あなたの代わりがいる? いないわ。でも私の代わりはいる。 これで人間と言えるの?」 「人間だよ」 「人間じゃないわ」 「じゃあ、いいよ。綾波はそう思っていればいい」 「!?」 「僕は勝手に綾波を人間だと思うから」 レイはまるで殴られたように仰け反り、喘いだ。「何それ……」 「本当だよ。僕は本当にそう思ってる。嘘だと思うなら――僕を殺してもいい」 「出来ないと思ってるの?」 シンジは無言でレイを見る。 挑発――レイはそう、受け取った。 「馬鹿にして……!」 頭と、包丁を握り締めた手が真っ白になった。 そしてシンジに向かって突進する――とシンジは思うだろう。 矛先を自分に向けるつもりなのだ。 ――その手には乗らない。 レイは高々と両手を振り上げ、切っ先を自分の胸に向けた。 「綾波っ!」 シンジの言葉とともに衝撃がレイを襲い、視界が天井から床に、左右にぶれた。 気がつくとレイは床に座り込んでいた。かすかな呻き声に目をやると、シンジが左手で右手を 押さえている。右手からは血が流れていた。 「あ」レイは口を開けて言葉を発しようとしたが、それは形にならない。「ああ」 「うん。大丈夫。大した怪我じゃないから。ちょっと切っただけ。ほら」シンジが右手を見せ ると、手のひらをやや斜めに横断する形で傷がついていたが、深くはなく、流れている血の量 はそれほどでもなかった。「綾波の額のほうが心配だよ」 レイの全身から緊張が抜け出していった。 「い……碇君……」 レイは必死に口を動かす。 シンジに言う、大事な言葉。 今がそれを言う最後の機会だった。 しかし、やはりまだ何か大きな塊が胸につかえているようで、どうしても出てこない。 今、この一言を言わなければ、自分は多分壊れてしまうだろう。 壊れたくなかった。 レイの、血がまだらに絡みついた顔が大きく歪む。 「わ、わ、わた……わたし……」 極度の緊張から解放されたせいで、まるで雪山で遭難したみたいにガチガチと歯が鳴って言葉 が出てこない。 「大丈夫だよ、綾波。さぁ、医務室へ行こう」シンジは立ち上がると、座り込むレイに促すよ うに左手を差し出した。 「なぜ……」レイは、シンジを見上げる。 「え?」 「なぜ、あなたは、私を……私のことを、そんなに……気にかけてくれるの?」 「それは……同じエヴァのパイロット同士だし……」シンジはそこまで言うと急に黙り込み、 俯いた。すぐに顔を上げると、大きく息を吸い込んだ。両手をぎゅっと握り締めている。 「いや、それは違う。そんなことが理由じゃない。本当の理由は……僕は、綾波のことが、好 きだから」 シンジは膝を床に着き、レイの手を取った。 それから、レイの目をまっすぐ見つめてもう一度言った。 「僕は綾波を、好きだから」 その瞬間、レイの胸につかえていた大きな塊は溶けて、消え去った。 「碇君……私も……」 私も、 私も、 私も―― 大粒の涙がぽろぽろとレイの目から零れ落ちていった。 「私も、碇君のことが、好き」 たどたどしく言い終えると、シンジの胸に飛び込んで、子供のように声を上げて泣きじゃくり はじめた。 「大好き」 |