< ever : 3話 − 3rd パート >


− e v e r −

「 暗がり 」


ぼんやりした暗がりの中、少女が一人で泣いている。
年齢は4、5才くらいだろうか。顔は手で覆われて見えないが、淡い青色の髪が印象的だ。
(なぜ、泣いているの・・・・?)
レイはその少女に話しかけようとするが、なぜか声が出てこない。
「おとうさん・・・・おかあさん・・・・。どこ?」
少女は泣きじゃくりながら両親の姿を探す。
「みんなが苛めるの・・・・・。」
レイには、それが幼い頃の自分だということがわかっていた。そして、この後の光景も・・・。
遠くに女性の後ろ姿を見つけた少女は、一目散に走っていった。
(駄目!近寄ったら・・・・・。)
叫ぼうとするが、やはり声にならない。
幼い自分はやっと女性のそばまで近づくと、甘えるようにその手をとった。
「ひっく・・・おかあさん・・・・。」
パシィッ!その手が振り払われる。
「うっとうしい子ねっ!ビイビイ泣いてんじゃないわよ!」
ショックで見開いたままの少女の目から、再び涙が溢れる。
「泣くなっていったでしょっ!恥ずかしい!!」
「ご・・・・・ごめんなさい。」
その剣幕に怯えて後ずさる少女に背を向け、母親は足早に立ち去る。
「ま、まってえ〜っ!置いていかないでぇ!!」
叫びながら走る少女。しかし走っても走っても、追いつく事は出来ない。
「やだぁっ!おかあさんっ!」
夢中で走る少女が、誰かの脚にドンとぶつかった。
「お、おとうさん・・・・・・。」
少女は無理矢理に笑顔を作る。今度こそ嫌われないように・・・・。
「なにニタニタ笑ってんだ。気持ち悪い!」
しかし返ってきたのは、苛立った父親の罵声。
「離せ!」
ピシャリと頬を叩かれ、少女はよろける。
「お、おとうさん・・・・・どうして・・・・。」
父親はただ冷たい目で見下ろしている。震える少女にどこからか石が飛んできた。
「痛いっ!助けて、おとうさんっ!!おかあさんっ!!」
だが、父親も少女を置き去りにして立ち去っていく。レイはそんな自分を痛ましい目で見つめる。
「痛い、痛いよ・・・・助けて・・・・誰か・・・・。」
哀願する少女に、レイは思わず駆け寄る。誰も助けないのなら、せめて自分の手で抱きしめてあげたかった。
しかし、差し伸べた手は少女自身の手によって弾かれる。
「嫌いなんでしょ?私が・・・・。」
いつの間にか少女が立ち上がり、レイを睨んでいる。憎しみが篭った視線に身がすくむ。
「同情されたくないんでしょ・・・・なのになぜ、同情するの?」
(違う・・・・・。)
「独りなんだから・・・・・私もあなたもずっと独りぼっちなんだから・・・・・。」
(嫌・・・・・。)
レイは耳を塞いだまま、その場にうずくまる。
(嫌・・・・・嫌・・・・・。)
周りの景色が暗くなり、すべてが闇に消えた。

(また・・・・・あの夢・・・・・。)
ようやくレイは目を覚ました。泣いていたのか瞼が腫れている。不意に現れる昔の夢。今も自分を苛む悪夢。
のろのろと体を起こす。だるい。喉が渇く。昨日・・・いや、一昨日の夜から何も食べていない。
(気持ち悪い・・・・。)
風呂も入っていない。汗まみれで体がむず痒い。空腹は気にならないが、この不快感は耐えがたかった。
シャワーを浴びる。少し熱めのお湯は肌に心地よい筈なのに、気分は晴れない。
身体を洗う手を止め、自分の肩を抱く。降り注ぐシャワーがどんなに身体を暖めても、冷えたままの心。
外に出た途端、汗が噴き出す。湯あたりしたのか外気に触れると、吐き気が込み上げて来た。
飲料水をボトルごと口につけ、空っぽの胃に水を流し込む。何かを食べようという気にはならなかった。
裸のままベッドに横たわり、天井を見上げる。気分は少し落ち着いたが、そこまで生を主張する自分の体が疎ましかった。
(こんなに辛いのに・・・・まだ生きたいの・・・・?)
まるで心と身体がバラバラになったようだ。妙に頭だけが醒めている。
(死ねばいいのに・・・・私なんか・・・・。)


朝、教室に入ったシンジは暗い気持ちになった。今日も彼女は休んでいた。
「綾波さん・・・・もう来ないのかな・・・・?」
「ケンスケッ!」
目の端にヒカリの姿を捕らえたシンジの言葉が、つい荒くなる。
「悪い・・・・・。」
ケンスケがボソッと謝る。ヒカリは机にうつ伏せたまま顔を上げない。
シンジは教室を飛び出し、職員室へと急いだ。

「そう・・・・今日もこないのね、彼女・・・・。」
ミサトは暗い顔で頷いたが、すっと立ち上がり、シンジの肩を掴んだ。
「今から私が行ってくる!幸い、三時限目まで何も入っていないしね。」
「ミサト先生!」
「だから、早く教室へ戻りなさい。急がないと遅れるわよ。」
安心させるようにミサトは笑顔を向けた。シンジが去った後、授業に行こうとしたリツコが厳しい顔をミサトに向ける。
「ミサト、わかってると思うけど、説得できなくても授業に遅れることは許されないわよ。」
「・・・・・大丈夫よ。ちゃんと戻ってくるから。」
どんなに大切な生徒でも、一人だけを優先出来ない。他の生徒を疎かにすることは出来ない――教師として。
ミサトもリツコも、それを嫌というほど認識している。


愛車を飛ばしたミサトは、十数分後にはレイの部屋の前にいた。
チャイムを鳴らすが、やはり誰も出てこない。
「綾波さん・・・・綾波さん・・・・居るの?」
何の返事もない。それでもノックを繰り返し、何度も何度も呼びかける。
「綾波さん・・・・お願い、返事をして。せめて・・・・話だけでも聞いて欲しいの。」
沈黙したままの扉に、ミサトは深く深く溜め息をついた。
「綾波さん・・・・先生、あなたの事が心配なの・・・・・。声だけでも・・・声だけでも聞きたいの。」
「・・・・・・・・・・・。」
「洞木さんから話は聞いたわ・・・・確かに、私があの子たちに綾波さんと仲良くするようお願いしたのは事実よ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「でもね、私が云うまでもなかった・・・・。最初から二人ともあなたと仲良くしたい、そう云ってたのよ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「私の言葉が、私のしてしまった事があなたを傷つけてしまったのなら、謝るわ。許して欲しい、なんて言わない・・・・・。
・・・・・でもね、あの子たちの事は信じてあげて。あの子たちの想いを、疑わないで・・・・・。」
ミサトは冷たい扉に自分の額を当てた。零れ落ちる涙が、足元を濡らす。
「今、あの二人の気持ちを信じてあげられなかったら・・・・・・一生、何も信じられなくなるわよ・・・・・・。」
涙を拭った時、腕に巻いた時計の針がチラッと見えた。もうあまり時間がない。
(私・・・・こんな時にまで、時間を気にしている・・・・。)
無意識の行動だったが、ミサトは自己嫌悪に陥った。
「・・・・・・帰って・・・・・・下さい。」
「綾波さん!?」
「・・・・・・帰って。」
か細い声だが、ハッキリと拒絶の意思が含まれている。ミサトは云おうとした言葉を飲み込み、フゥッと息を吐いた。
「わかったわ・・・・今日はこれで帰る。・・・・綾波さん、体には気をつけてね、ちゃんと食事を摂るのよ。」
沈黙――。ミサトはしばらく返事を待ったが、諦めてゆっくりと車に戻る。
シートに座ってハンドルを握ったとき、腕に巻きついた時計が視界に入った。
乱暴に腕時計を外し、ダッシュボードに放り投げる。お気に入りの時計だが、今は見たくなかった。


リツコが職員室に戻ったとき、ミサトは自分の席で脚を組んだまま、沈痛な表情で座っていた。
その顔をみれば、結果は聞くまでもない。リツコはミサトの傍に来ると、手に持ったコーヒーを差し出した。
「はい・・・。そろそろ戻ってくる頃だと思っていたから。」
ミサトは返事をしない。リツコも無理に飲んで欲しい訳でもない。
リツコは静かに、コーヒーをミサトの机の上に置いた。
「・・・・・無力なものね、教師って・・・・・。」
ポツリ、とミサトは呟く。リツコが労わるように言葉を掛ける。
「まだ・・・どうしようもない訳じゃないわ。出来ることは精一杯やらなきゃ。」
「・・・・・ん。」
差し出されたコーヒーカップに手を伸ばす。まだ熱い容器を、両手で包み込む。
また泣きそうになる。あの少女はこの温もりをしらない。

昼休みのチャイムが鳴ると同時に、シンジとヒカリはミサトの元へ急いだが、結果は芳しくなかった。
職員室を出た二人を、トウジ、ケンスケ、マナが心配そうな顔で迎える。
「その様子やと・・・あかなんだようやな?」
「ううっ・・・・。」
突然、ヒカリが涙を零しながら走り去っていく。
「イインチョッ!」
「ヒカリさん!」
反射的にマナが後を追う。シンジは少し躊躇していたが、顔を上げると二人に声をかけた。
「・・・・トウジ、ケンスケ。洞木さんを頼む。」
「シンジ・・・?」
「僕はもう一度綾波さんの所へ行く。悪いけど、先生には帰ったって伝えといて。」


学校を出たシンジは直接レイのアパートに行こうとしたが、思い直して一旦自宅へ戻った。
鞄を置くと着替えもせず、チェロを引っ掴んで出て行く。
自転車を漕いで、レイの家へと急ぐ。シンジの家からだと彼女のアパートまで十分程度しか掛からなかった。
(こんなに近くにいたなんて、いままで知らなかった・・・・。)
―――何も知らないくせに―――
昨日投げつけられた言葉が甦り、胸が痛んだ。
レイの部屋の前まで来ると、浅く深呼吸をしてから扉を叩く。
「綾波さん・・・・碇です。今日も学校を休んでいるから、心配で・・・・。」
相変わらず何の反応もない。自分の声がすべてこの扉に吸収されているかのようだ。
「あ、あのさ。今日はチェロを持ってきたんだ。・・・ほら、前に僕のチェロをまた聴いてくれるっていってたよね?」
でも、この向こうに彼女はいる。きっと自分の声は届いている。そう信じて話し続ける。
「あれから、結構練習したんだ。綾波さんに聴いて欲しくて・・・・。」
「・・・・・・・聴きたくない。」
か細い、拒絶の声。だが返事をしてもらえた。それに勇気づけられ、シンジは話す。
「じゃ、じゃあさ、少し話をしようよ?ドアを開けたくないなら、このままでいいからさ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「今日、自分の家から来たんだけど、思ったより近くてビックリした・・・・。昨日綾波さん言ってたよね、僕の事・・・・。
『何も知らないくせに』 って。」
「・・・・・・・・・・・。」
「・・・・確かに僕は、君の事を知らない。君がどんな生活をしているのか、どんな気持ちでいるのか・・・・。」
シンジは一旦言葉を切り、声を強めた。
「だから、知りたいんだ。綾波さんの事を聞きたいし、僕の事も知って欲しい。だって、お互い何も知らないままなんて・・・・。
そんなの、寂しいじゃないか・・・・。」
「・・・・・・・・あなたには何もわからない。」
「・・・・だったら、話そうよ。わからないから無駄だって言うの?無駄だからって何もしないの?」
「・・・・・・・・・・・。」
「確かに・・・・誰かを本当の意味で理解するなんて無いのかもしれない。・・・・でも僕は、みんなを、綾波さんを理解したい。」
沈黙・・・・・・だがシンジは辛抱強く待った。
カチャッ。鍵を外す音がして、ドアがゆっくりと開く。
「綾波さん・・・・・。」
一瞬、笑顔になったシンジだが、ドアの隙間から覗いたレイの憔悴した顔を見て表情が強張った。
艶を失った肌。くしゃくしゃの髪。目だけが異様に紅く光り、生彩を失った瞳でシンジを見つめる。
「・・・・・帰って。」
「・・・・・嫌だ。」
シンジはドアを引っぱったが、チェーンロックに阻まれる。
「お願い・・・・・帰って。」
レイの頬を涙が伝う。その涙に一瞬ひるんだシンジの手がドアノブから離れる。
バタンッとドアがしまり、再び鍵のかかる音がした。
「綾波っ!頼む、開けてよっ!!」
扉を叩くと、思いのほか大きな音が響く。
(どうしよう・・・・ここに居ると迷惑かけてしまうかも・・・・。)
廊下の向こう側でアパートの住民が訝しげにこちらを見ている。
(・・・だめだ!あんな姿の綾波を放っておけない!)
そう思い直すと、扉の向こうで一人で泣いているであろう少女に、優しく声をかけた。
「綾波・・・・・僕、ここにいるから。」
ずっといるから。一人にしないから。
君は独りじゃないから・・・・・。

扉に鍵を掛けるとシンジの声から逃げるようにベッドに潜り込み、耳を塞ぐ。
(もう構わないで!)
目をきつく閉じ、布団の中で身体を丸める。まるで何かに怯える幼な子のように・・・・。
(私に優しい声を掛けないで!優しい振りをしないで!)
何かが壊れそうだった。今まで大切に守ってきた何かが無意味に思えてきた。
(これ以上私に近づかないでっ!!)
ドアを開けたときの彼の嬉しそうな表情が、辛そうに歪んでゆく・・・・。
(傷つけてしまうから・・・・・。)
自分は他人を傷つけることしか出来ないから。そうしないと自分が傷ついてしまうから。
(嫌なの・・・・・傷つくのも・・・・・傷つけるのも・・・・・。)
あの表情は憐憫ではなかった。彼はただ自分自身を責めていた。
それが解ってしまった。だからこそ嫌だった。彼にあんな顔をさせた自分が許せなかった。
(私は一人でいい・・・・。だからお願い、私なんかの為に心を痛めないで・・・・。)


どれくらいの時が過ぎたのだろう。レイはまどろみから目を覚ました。
(私・・・・・眠ってた?)
布団から顔を出し、ぼんやりと辺りを見廻す。締め切ったカーテンが僅かに、夕暮れ時の光を漏らしていた。
暗がり―――薄暗い部屋には、何も無い。ただ自分という忘れ去られた存在があるだけ・・・・。
レイは体を起こし、闇の気配の濃い部屋に独り佇む。徐々に不安が拡がっていく。
(これから・・・・どうしよう?)
もう学校には行けない。でも簡単に転校出来る筈がない。また叔母を説得し、宥めすかすしかないのか。
それならばいっそ、仕事を探そう。無理にでも頼み込めば、どこかで働かせてもらえるかもしれない。
(・・・・これで、お別れ・・・・。碇君とも・・・・・。)
その方がいい、心を決めようとしたそのとき、扉の向こうで何かがぶつかった音が聞こえた。
突然の物音に、レイの心臓は跳ね上がる。
(・・・・・・・まさか!?)
そんな筈はない。あれからどれほどの時間が経ったというのか。いくらなんでも・・・・。
(まさか、いるはずない・・・・。)
しかし、そんな考えと裏腹に、レイは玄関へと歩み寄っていく。
恐る恐る、覗き穴から外を見る。誰もいない。
(そうよね・・・・・・・いくらなんでも。)
とたんに寂しさがつのる。だがかすかに扉の向こう側、足元の方で物音が聞こえる。
心のざわめきに押されるようにレイは鍵を開け、ドアを開ける。
ゴンッ!
「・・・・イタタ・・・・。」
重い手ごたえと鈍い音。ドアにもたれて座っていたシンジが、後ろ頭を押さえうずくまっていた。
レイは信じられないものを見たように、目をまるくする。謝るのも忘れて呆然としていた。
「碇・・・くん・・・・どうして・・・・・?」
「・・・アハハッ、ゴメンよ。ちょっと疲れたんで、ついウトウトしちゃってさ。」
頭をさすりながらシンジが照れ笑いする。
「・・・・・どうして・・・・・?」
「え?・・・だって、云ったでしょ?僕、ここに居るよって。」
確かに聞いた憶えはある。でも自分は、何も信じてなかった。
それなのになぜ、さも当然のように答えるのだろう?
「どうして・・・・・そこまでして・・・・・?」
「何故って・・・・僕がここに居たかったから、僕がそうしたいと思ったから・・・・それじゃ、駄目かな?」
その言葉に思わず胸が熱くなる。無意識のうちに、空いた方の手が胸元を押さえていた。

レイは静かにチェーンを外した。
「・・・・・・入って。」
素っ気なく呟き、クルリと背を向ける。それ以上何か喋ると、涙が溢れそうだった。


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