< 10万Hit&二周年記念: K02−A Part >
「 夏祭り(後篇) 」
突然の問いかけに不意をつかれたシンジは、うわずった声を上げた。
「え!?・・・・な、何故って?」
レイは背を向けたまま立ち止まっていた。彼女との間には、まだ少し距離がある。
「あの人たちと一緒に、帰れば良かったのに・・・・。」
聴きようによっては拒絶とも取れる言葉に、つい責めるような口調で返してしまった。
「・・・・・・綾波こそ、どうして一人で帰ろうとするんだよ?」
またもレイは沈黙を纏う。彼女は依然として振り向いてくれないので、表情すら伺えない。
自分から歩み寄ればいい、そう思うのに、ギリギリのところで度胸が湧かない。
(―――情けない。僕はこれ以上、彼女に近づくことすら出来ないのか・・・・。)
下唇を噛み締めたとき、レイが細い声で答えた。
「・・・・私は、あの人たちとは違うから。」
「違うって・・・・・何が?」
「・・・・・私は、あそこに居ていい存在じゃないから・・・・・。」
その言葉が、すぐにはのみ込めなかった。
「何で・・・・・?何で綾波が居ちゃいけないのさ?」
解らない、なぜ彼女が存在してはいけないのか。
「誰がそんなこと決めたんだよ?・・・・そんなこと、誰も言ってないじゃないか。」
彼女はあの輪の中にいたではないか。なのに何故、自分で自分を切り捨てるようなことを言うのか?
呆然とするシンジを取り残したまま、レイは再びゆっくりと歩き始めた。
また差が開いてゆく。その後ろ姿はどんどん闇に紛れてしまう。
「まってよ!あやなみっっ!!」
弾かれたようにシンジは駆け寄った。橋の中央でレイに追いついた。
「待てってばっ!」
彼女の腕を掴むと無意識にその手を引っ張った。レイが少しよろめく。バランスを崩しかけた手が、橋の欄干を掴む。
「ご、ごめん!」
自分のせいでレイが倒れそうになったと思い、手を離した。が、彼女は少し右脚を引き摺りながら、欄干にもたれ掛かった。
体重を預けたまま右の草履を脱ぎ、庇うようにその脚を持ち上げる。その動作に不審を抱いたシンジは膝を屈めて目を凝らす。
指の付け根に巻いたテーピングがずれたまま慣れない草履で歩いてた為か、皮膚が擦り剥けている。鼻緒にも血が滲んでいた。
「脚が・・・・・。なんで黙ってたんだよ?」
「別に・・・・・問題ないと、思ったから。」
「そんな訳ないだろ!!」
つい声を荒げてしまう。事実、彼は苛立っていた。何よりも自分に対して。
持っていたハンカチを口に挟み、力任せに引き裂く。細く千切った布を擦り剥けた傷口に巻き、応急処置を施した。
「ごめん・・・・。」
怒鳴ってしまった。いや、それよりも放ったらかしのまま、ずっと彼女に我慢させてしまった。
「どうして、謝るの?・・・・碇くんは何も悪くないのに。」
「・・・・・こんなになるまで、気付いてあげられなくて。」
何故かは分からないが、こんな状態にも関わらず歩いて帰ると言い出したのは自分が関係しているように思えた。
「そうじゃない。私が勝手に決めたこと・・・・・話さないほうが、良いと思った。」
普段は振幅のないその声に、僅かな震えがまぎれ込む。
「これ以上、迷惑かけたくなかったから・・・・・。」
「そんな!迷惑なんかじゃない。どうしてそう・・・・。」
レイの顔を見上げたシンジは息を呑んだ。彼女の表情に、今までにない翳りが伺える。
俯いた瞳は自分を捕らえていない。その双眸からも、あの強い光が消えている。
「・・・どうしたんだよ綾波?何か今日、ヘンだよ。」
立ち上がって彼女の顔を覗き込む。レイは自らの脚で立ったが、瞳の中は暗い。
「・・・・・おかしい・・・・・のかも、しれない・・・・・。」
「・・・え?」
「・・・・さっきから、ずっと・・・・辛いの・・・・・。」
普段とまるで違う、戸惑いと不安に揺れる言葉に耳を疑う。この少女が発したとはにわかに信じられなかった。
「ひょっとして、具合が悪いの?」
彼女の体調を気遣ったが、レイは無言のまま、首を横に振る。
「・・・それとも今日、楽しくなかった?」
ずっとアスカにつきっきりだった為、レイとは殆ど会話していない。彼女が楽しんでたのかどうかも聞いていない。
「葛城三佐からも訊かれた。・・・・けどその時は、よく分からなかった。」
ポツリポツリと、自らの心を推し量る。
「・・・・・でも、いま考えると・・・・・たぶん、苦しかった。」
そういって切なそうに胸を押さえる仕草も、普段彼女が滅多に見せないものだった。
「碇くんがあの人と一緒に居るのを見てて、胸が痛かった・・・・・。」
その痛みは、なおも響いている。耐えるように、少女は眉根を寄せた。
「弐号機パ―――アスカや葛城三佐と一緒にいる碇くんは、とても楽しそうだったから・・・・・。」
「それって・・・・。」
「あの人たちは、碇くんとの絆・・・・・。私とは、何もないもの・・・・・。」
自分が家族のように感じていた絆を、レイは感じていなかった―――そのことに絶句した。
「そんなことないよ!ミサトさんだって綾波のこと、心配して・・・・・。」
シンジは言葉を切った。真実すらも俯いたままの少女には、伝わりそうもなかったから。
「それはでも、もういい・・・・・。たぶん、みんなの邪魔をしたのは、私の方だから・・・・。」
「そんな・・・・・。」
その言葉にシンジは愕然とした。知らず知らずのうちに、彼女に疎外感を与えていたのだろうか?
かつて自分が味わっていた虚しさを、彼女も噛み締めていたのだろうか?
(・・・・・やっぱり、僕が悪かったんだ。こんなに負担をかけてしまって・・・・・。)
自分が一番よく知っている筈の孤独を抱え込んだ彼女を、気遣ってあげることすら出来なかった。
「本当に、ご免・・・・・。僕が浮かれすぎたから。」
一歩、レイに近づいた。彼女は片脚を後ろに引いた。距離をとろうとしている・・・・自分と。
さっきまでならそれを見ただけで脚を止めてたかもしれない。でも今は彼女と遠ざかりたくない、それしか頭に無かった。
「お願い!・・・話を聴いて欲しいんだ。」
普段のシンジからすればやや強引に、両手で彼女の腕を掴んだ。
「本当いうと、今日は来るつもりなかったんだ。お祭りって僕、好きじゃないから。」
伝えなければ、と思った。伝えなければ、彼女とは永遠に並行線のままだ。
「・・・でも、綾波が来るって言ったから、それを聞いて僕も行きたいと思った。」
視線は外さない。正面から彼女と向き合いたい。
「綾波と一緒にお祭りにいければ、きっと楽しいだろうな、って。」
「わたしは・・・・楽しい女じゃない。アスカと較べたら・・・・・。」
真剣な面持ちで返したレイの不器用な返事に、少し緊張が緩んだ。
「そうじゃなくて・・・・楽しいっていうより、嬉しいんだ。君が一緒に居てくれるだけで・・・・。」
シンジは彼女の心をほぐすかのように柔らかく微笑む。
「綾波と一緒にいられるのが嬉しくて、今日が来るのをとても楽しみにしてた。」
云ってしまってからまるで告白のようだと思い、急に照れてしまった。
「その・・・・綾波の方こそ迷惑かもしれないけど・・・・・。」
シンジの顔が赤くなったが、それでも目を逸らさなかった。
レイもまた、ずっとシンジを見ていた。紅く澱んだようだった彼女の瞳に徐々に光が集まる。
「私は―――。」
お祭りそれ自体には、特に興味はなかった。なのに、どうして行きたいなどと言ったのだろう?
「わたしも・・・・・そうだったのかも、しれない・・・・・。」
同じだったのではないのか。シンジがお祭りに行きたいと思った理由と。
「碇くんが居たから、わたしも来たかった・・・・・。」
「あやなみ・・・・・。」
嬉しかった。彼女と自分が同じ気持ちだったことが、云いようも無く嬉しかった。
「さっき綾波は何もないって言ってたけど、もし僕と同じ気持ちだったとしたら・・・・それが僕らの絆にならないかな?」
その言葉に愁眉を開いたレイの表情が、輝きを取り戻す。彼女はもう、表情のない人形ではない。
(絆―――わたしと碇くんの、絆。)
レイの顔に笑顔が宿る。かつてシンジを魅了した微笑み。
あのとき見た満月のように、静かに自分を照らしてくれる闇の中の光。
すっとシンジは腕を引いた。意図的、だったかもしれない。
今度はレイはバランスを崩した。倒れこむ彼女を、シンジの胸が受け止める。
レイはシンジに支えられたまま、彼の胸に頬を押し当てる。二人の距離は無かった。
手を離すと、彼女の華奢な指は離れるのを厭うかのように、シンジの浴衣の裾を掴む。
その仕草に勇気付けられたかのように、レイの背中に手を回した。彼女を包み込むように。
シンジの胸に、更に押し付けられる。その胸から伝わる、生命の脈動。
(まるで、あの音のよう・・・・・。)
トコトコトコ・・・・・・。浴衣一枚透して伝わるその音は、遠くから聴こえていた太鼓の響きにも似ている。
(でも、ずっと近くて・・・・・あたたかい・・・・・。)
トクトクトク・・・・・・。シンジのリズムに合わせるように自らの鼓動も踊る。
徐々にテンポが速さを増す。でも不思議と二人の鼓動は重なり合うように響く。
(・・・・ずっと、ずっとこのまま・・・・。)
喜びに打ち震える胸の高鳴りを慈しむように、目を閉じた。
(このまま、いられたら・・・・・。)
だが意識の片隅に、あのとき見た花火の残影が焼きついている。闇にぶつかり砕け散る、一瞬の煌き。
闇の中に咲いた光はやがて闇へと還る。それは自分も同じなのではないか―――。
離れない不吉な思いに曳き摺りこまれないよう、シンジに強く縋りついた。
やがて身体を離した二人は帰路へとつく。シンジはレイが歩けるようにと、肩を添える。
彼女の右手を首に回し、左肩を腋の下に入れる。少し持ち上げたとき、その軽さに驚いた。
訓練で筋力がついたせいもあるだろうが、それでも以前こうして支えたときより、更に軽い。
あまりの手ごたえのなさに不安を覚える。存在を確かめるように、腰に回した左手に力を込めた。
「痛かったら、無理しないで。・・・疲れたら休めばいいから。」
レイは返事をしなかったが、そっとしなだれかかる彼女の体温を肌で感じた。
言葉にしなくても、こうして多くを語ってくれる。その瞳や仕草で。
(そうだったんだ・・・・。今までも何も云わなくても、こうして伝えようとしてくれてたんだ。)
暗闇でよく見えないが、たぶん彼女は微笑んでいるだろう。
伝わる温もりを意識しながら、ゆっくり歩いてゆく。
二人は同じ歩調で歩いている。時々シンジは足を止め、少し浮かしたレイの右脚を下ろして、休ませる。
そしてまた、少し歩いては休ませる。その繰り返し。
(・・・・こうやって一緒に歩いていけば、もっと解り合えるかもしれない。)
夜の道は、まだ遠い。だが確実に近づいている筈だ。たとえ一歩ずつでも。
(ミサトさんやアスカや―――もっと沢山の人とだって、絆が掴めるはず。)
そうすればもう、彼女は孤独を感じずに済む。不安に怯えずにすむ。
不意に、足元がふらついた。よろめく足が何かにつまづいてしまったのか、倒れる前に手をついた。
その拍子に、彼女を支えていた手を離してしまった。
「ご、ごめんよ綾波。」
シンジが声をかけるが、返事が返ってこない。
「綾波・・・・・・?」
立ち止まって辺りを見廻す。さっきまでより更に深い闇に囲まれていた。
(どこだ・・・・・ここ?)
そういえばずっと自分の足元しか見ていなかった。どんな風景だったか、記憶にない。
「あやなみっっ!?」
その叫び声は闇に虚しく木霊する。慌てて暗闇の中を手探りで探す。
だが、その手は闇を泳ぐばかり。照らしてくれる光は、そこに無い。
(どこ行ったんだよ・・・・・。どうして返事してくれないんだよ?)
彼女の気配さえ掴めない。さっきまで確かにいた筈なのに。
「冗談だろ・・・・・・。」
自分の手にはまだ彼女の温もりが残っている。さっきまで肩で支えてた、彼女の重みも微かに残っている。
それなのに。
(僕が・・・・・手を離したから・・・・・。ずっと支えてあげられなかったから。)
だから彼女は消えてしまったのだろうか。
「いやだよっっっ!!!」
闇雲に走ろうとした脚を滑らせ、川に落ちる。いや、川では無い。たちまちシンジの身体が頭まで沈み込む。
血よりも苦い鉄錆のような味が口内を満たす。
(・・・・LCL!?)
ねっとりと絡みつく液体が手足を縛り、もがくことも出来ないまま深く沈んでゆく。
(・・・・・・イヤダ・・・・・・。)
落ちるにつれ、自分という存在が希薄になってゆく。皮膚が溶け、代わりに何かが浸入してくる。
(・・・・・・やだよ・・・・・・・こんなの・・・・・・・・。)
薄れゆく意識の中、最後までその想いだけが溶けずに残った。
――――――――――――― ◇ ―――――――――――――
海底から徐々に水面に浮かび上がるように、意識が浮上した。
目を醒ますとそこはいつもの、自分の部屋だった。
(・・・・・・ゆ・・・・め・・・・・・?)
流れ落ちる汗を拭おうと顔に手をやる。初めて自分が、泣いていたことに気が付いた。
(いや・・・・・夢じゃなかったんだ・・・・・みんな・・・・・。)
四人でお祭りに行った事も。
レイを追いかけたことも。
二人で肩を並べて、歩いた事も。あの時はちゃんと、家へと帰りついた。
そして突然、彼女がいなくなったことも―――。
半身を起こし、明け方特有のほの暗い部屋をぼんやりと見廻す。壁に貼ったカレンダーの上で、視線を止めた。
今日という日に、印をつけてある。 あの夏祭りの日から既に半年以上も過ぎ去っていた。
(・・・・・・この半年間が夢なら、どんなに良かったことか・・・・・・。)
何度願っても、刻は戻らない。カレンダーは冷酷にも、時間の経過の事実だけを突きつけている。
あの夏の日から、シンジたちに残された時間は長くはなかった。
刻が自分の手から総てを奪うかのように過ぎ去り、 運命に翻弄されながら流れ着いたのは、狂ったように赤い空。
そして、すべての人類が溶け込んだ赤い海。そこにただ独り、取り残された自分。
レイが使徒との戦いで自爆してから後のことは、まるで悪夢のようだった。
その悪夢の中で自分は、ただ流されただけだった。悩む時間も、逃げ込む場所も与えられなかった。
彼の心の拠りどころであったはずの少女は肉体を失い、そして新たに生まれ変わった。
―――思い出を持たないまま、シンジとの触れ合いを忘れたままの姿で。
だが、二度と戻らないはずの機会を与えてくれたのも、彼女だった。
自らを三人目と呼んだ少女は最後はシンジを選んだ。彼の望みを叶えることを。
そしてシンジが望んだのは、いまの世界だった。一度は失ってしまった人々が暮らす、この世界。
(・・・・・ダメだ、泣いてちゃ。)
かつて何も出来なかった自分、やるべき事から逃げていた自分。もう一度、やり直したかった。
その為には、いつまでも泣いてばかりはいられない。強くならなければいけない。
まもなく夜が明ける。同居人から今の自分の顔を見られないうちに洗面所へ向かった。
「あら、早いわねシンちゃん。」
背中から声を掛けられ、内心ドキリとした。蛇口から流れ出す冷たい水で、慌てて顔を洗う。
「・・・お、おはようございます。ミサトさんこそ早いですね。」
少々ワザとらしいくらいの明るい声で返事をする。顔をタオルで拭きながら振り向くと制服姿のミサトが立っていた。
「急な仕事でさぁ、これから出張・・・・ほ〜んと、ヤんなっちゃうわ。」
使徒の驚異も去り一応は平和になったが、戦後の処理などでミサトは以前より忙しいくらいだった。
「そんなわけで二日ばかし居なくなるけど・・・・シンジ君、悪いけど今日、お願いね。」
「・・・・え、今日って・・・・?」
「・・・どうしたの?あなたが言い出したんでしょ、レイの引越し。」
「あっ!」
何故カレンダーに印を付けていたのか、今更のように思い出した。
「ハハ・・・・そ、そうでした。なんかまだ、寝惚けてるみたいで・・・・・。」
笑って誤魔化そうとするシンジの顔を、ミサトは黙って眺める。
「・・・シンジ君、本当によく眠れた?あんまりそうは見えないけど。」
「いやその・・・・夜更かししてたというか・・・・・ち、ちょっと、寝るのが遅かったんで。」
下手な言い訳だが、徹すしかない。
「そ、じゃあわたし、そろそろ出るから。・・・・お姉さんがいないからって、夜遊びしちゃだめよん。」
「わ、わかってますって!・・・それじゃあ、いってらっしゃい。気をつけて。」
「はーい、いってくるわ。シンちゃんも元気で。」
(無理・・・・しないでね。)
その言葉をミサトは云えなかった。今の彼には逆効果になってしまうから。
シンジが朝食の仕度をしていると、アスカが起きてきた。
「・・・ミサトはまだ寝てるの?」
「あ、なんか突然出張が決まったって。今朝早くに出ていったよ。」
「ふーーん。」
どことなく心ここにあらずといったアスカの返事。もっとも彼女は寝起きの機嫌はあまり良くない。
「それからお昼ご飯だけど、作ったのを冷蔵庫に入れておくから。食べるときは温めてね。」
「あら?どっか行くの。」
「綾波の引越しを手伝いにさ。・・・・アスカも来る?」
「ハァ?なんでアタシが行かなきゃいけないの!?」
「・・・・言うと思ったよ。」
いまだアスカとレイの仲はあまり良くない。シンジからすれば、アスカが一方的に嫌っているだけに見えるのだが。
「それじゃあ綾波の部屋の鍵を渡しとくから、もし荷物が先に届いたら鍵だけ開けといて。」
「・・・・まったく、人遣いが荒いわねえ・・・・。」
アスカに言われたくないよ、と思ったが、いちおうお願いする立場なので文句は云えない。
レイの新しい引越し先はシンジ達と同じマンションの、同じ階にある部屋を用意した。
「・・・ま、引っ越し祝いには出てやるわよ。だからアンタ、手ぇ抜かずに気合い入れてご馳走作るのよ!」
「はいはい。」
相変わらずの高飛車な物言いだが、しっかり祝ってやれと言ってるようにも取れる。良い方に解釈する事にした。
何よりアスカが、以前と変わらぬ元気な姿で此処にいてくれることが嬉しい。
壊れた人形のようだった彼女を思い出して涙ぐみそうになる自分を、また心の中で叱咤した。
朝食の後片付けを終えてから、シンジはレイの住むマンションへ出かけた。
引越しの手伝いといってもほとんど業者任せだし、もともと彼女の部屋は驚くほど物が少ない。
だからあまりすることも無いのだが、何より自分が手伝いたかった。
レイの部屋へ入ると彼女は数少ない荷物をダンボール箱にまとめている最中だった。シンジも生活用具などを詰めるのを手伝った。
台所の戸棚を開けると、封を切った紅茶の容れ物があった。中を開けてみると、意外にも殆ど残っていない。
「綾波・・・・・紅茶好きなんだね。」
以前彼女の部屋に入ったとき、二人でこの紅茶を飲んだことを思い出した。
「紅茶・・・・?何のこと?」
「え・・・・?これ飲んでたんじゃないの?」
シンジは蓋を開けて見せたが、レイは怪訝そうにその空き缶を見つめただけだった。
「その容器はあったかもしれない。・・・・・でも、飲んだ覚えは無い。」
「・・・・そ、そう。」
失望を悟られないよう背中を向けた。彼女は記憶喪失という訳ではないが、記憶がところどころ虫食いのように抜けているらしい。
『記憶のバックアップといってもね、完全にはいかないのよ・・・・。礎になる情報が残ってても部分的に欠けてたり、うまく再生出来なかったり・・・・・
今のレイはそういった症状が見えるわ。逆に記憶があっても、感情がついてこない場合もあるようだし・・・・・』
以前レイの記憶の件で、リツコに相談したときに教えてもらった。
『もしかしたら記憶喪失と同じように何か刺激を与えればいいのかもしれないけど・・・・・。御免なさい、力になれなくて・・・・・』
そう云って曇らせたリツコの表情が忘れられない。彼女も心底、後悔してるのだろう。
掌の中の小箱を見つめた。いまのレイが知らないとすれば、以前の彼女が自分で淹れて飲んでたのだろうか・・・・。
(大丈夫だよ・・・・きっとそのうち、思い出してくれるさ・・・・。)
心の中で念じながら、空っぽの缶をそっとダンボール箱にしまった。
荷物を業者に引き渡し、運び去るのを見守った。自分達はあとから行く事にした。
シンジは何も無くなった室内を見廻した。もともとガランとしたこの部屋の印象は、一切の荷物が無くなってもさほど変わらない。
だがこの空虚な部屋でも、シンジにとって忘れ難い思い出を幾つか持っている。まるで自分が引越すような感傷に浸った。
(綾波も・・・・そう感じてくれればいいけど・・・・・。)
チラリとレイを盗み見た。彼女は空っぽの部屋を見つめてはいたが、その瞳が何を映しているのかは伺い知れない。
「綾波・・・・・先にお昼ご飯食べていかない?」
「・・・ええ。」
彼女は振り向くと先に部屋を出た。その動作に、あまり感傷的なものは見受けられなかった。
外に出てしばらくは無言のまま歩いた。会話は無いが、以前もこうだったかもしれない。
「あ、ところでお昼、なに食べたい?」
「・・・碇くんの好きなものでいい。」
「う〜ん。」
そういわれても彼女は結構偏食である。結局、シンジがレイに合わせる事になるのだ。
こういった返事も少し物足りなかった。以前の彼女はもっと、自分の意見を持ってなかっただろうか。
(・・・・なに較べてんだよ。綾波は綾波じゃないか・・・・。)
慌てて視線を宙に向ける。会話が途切れたのでそのまま、春の日差しへと移りゆく青空を眺めた。
いまこうして眺めている空も、すれ違う人々も、すべて彼女が取り戻してくれたものだ。
道ゆく人々は、以前と変わらないように見える。誰しも自分達が一度は溶けたなど信じられないだろう。
サードインパクトが起こる前の戦いは人々に忘れ難い傷跡を残したが、その瞬間を記憶する者は誰もいない。
それを知っているのは世界にただ二人―――シンジとレイだけ。
でもそれこそが、シンジが願った事だった。みんなが昔のような、平和な暮らしを取り戻すことを・・・・。
以前と違うのは、退屈だと感じられるほどの日常、そしてなにより、この国が失っていた季節。
サードインパクトの後、季節を取り戻したこの国で初めて冬を過ごした。そしてもうすぐ、春を迎えようとしている―――。
街路に立ち並ぶ桜の木に目をやる。この木が桜だと教えてくれたのは彼女だった。
今まで見たことが無いほど木の芽が膨らんでいる。春の訪れを待ちわびた桜は、もうまもなく、花を咲かせるだろう。
「ねえ綾波・・・・・。やっと桜が咲きそうだね。」
以前彼女と交わした言葉が懐かしい。我知らず、口に出した。
「そうね・・・・。碇くんの云った通りだわ。」
「・・・・・え!?」
不意を打たれたように彼女の顔を見た。桜が咲くと自分はいつ云った?あれは確か一年も前、彼女が以前のままの―――。
「綾波!思い出したの!?」
食入るようにレイの表情を覗き込んだが、彼女はむしろ自分の発した言葉が分かっていないようだった。
だが、何かを思い出そうとしている。そう見て取ったシンジはレイの手を引いた。
「いきなりで悪いけど、ちょっと今から一緒に来てくれないか?」
「え?・・・・・ええ。」
慌ててタクシーを探すシンジの後を、少女は少し戸惑いがちについていった。
二人が来たのは、去年来たあの祭りの場所だった。当然いまはその跡すら残っていない。
だがその風景を頼りに少しでも何かを思い出してもらおうと、シンジは懸命だった。
かつて四人で歩いたはずの道を辿る。夜店や櫓があった場所や、あの社にも行ってみた。
「・・・・・・どう?何か気になるものはある?」
レイもまた、必死に記憶の糸を手繰りよせようとした。確かに社では、心の奥底に何か引っ掛かるものを感じた。
だがしばらくして彼女は、諦めたように首を左右に振った。
「全然知らないわけじゃない・・・・・でも、これが何なのか・・・・・・私にとって何なのかが、分からない。」
断片的な過去の映像が切れ切れに甦っても、記憶のピースの破片同士が噛み合わず、うまく繋がらない。
(ダメか・・・・・・。)
一瞬その思いがよぎったが、まだ行ってないところがある。
「あと一ヶ所!もう少しだけ付き合って。」
最後にシンジが連れてきたのは、あの小川に架かる橋の上だった。
(あのとき、綾波は僕を同じことを考えていた。同じことを感じてくれた。そのことを憶えてるのなら・・・・・。)
橋の中央でいつかのように欄干を掴ませる。レイは手摺越しに川を覗き、それから周りの風景を見渡した。
あの時は風景も碌に見えない夜だった。その光景をレイが憶えてるとは思わないが、シンジは彼女の好きなようにさせた。
レイはどこか心細そうに辺りを見廻している。その姿を見る限り、何かを取り戻したようには見えない。
激しい失望がシンジを襲う。が、レイは視線を下げ、その手摺の感触を確かめるように何度か握りなおす。
ふと、彼女の手が止まった。俯いたまま自分が握り締めた欄干を凝視する。
徐々に彼女の頭が下がってゆく。記憶の底にあるものを振り絞ろうと、懸命になる。
声をかけることも許されず、シンジはただその背中を見守るしか出来ない。
やがて彼女は、ゆっくりと顔をあげた。
「碇くん・・・・・・。」
彼女が呼びかけるよりも早く、シンジは駆け寄った。
「思い出した!?」
破顔しながら伸ばしかけたシンジの手が、レイの表情を見て止まった。
「・・・・・思い出せないの・・・・・。」
沈痛に答えた声も、表情も、暗い。
「思い出せない・・・・・その時のこと・・・・・。」
だが明らかに、何かを感じ取っている。不安と焦りに彩られたその表情が物語っている。
レイもまた、悔しさともどかしさで焦燥していた。噛み締めた唇が震え、辛い想いを漏らす。
「忘れてしまっては、いけなかったはずなのに―――。」
「大切なことだったはずなのに―――。」
「どうして、思い出せないの・・・・・・・?」
湧き上がる感情の波に揺さぶられ、一すじの涙が、瞳から零れた。
「・・・・・・なみだ?・・・・・涙が出るのに・・・・・どうして・・・・・・。」
記憶よりも先に甦る未整理の感情。それに呑まれそうになる自分を支えるかのように、欄干にしがみ付く指が白さを増す。
「あやな・・・・。」
シンジの手が伸ばしかけたまま、誰かに遠慮するように中空で立ち止まる。
いま泣いているのは間違いなく彼女の筈なのに、どうしてあの時のように抱きしめることが出来ないのだろう?
(まだ拘っているのか、僕は・・・・・・。)
二人目だったレイを助けられなかったことに対する罪悪感が、いまだ澱のように心の底に沈殿している。
震える彼女の頬まであと僅か、ほんの僅かの距離なのに、まだ詰めることが出来ない。
「・・・・・いかり・・・・くん・・・・・・。」
自らの感情の奔流に押し流されそうな自分に怖れを抱いたのか、助けを求めるように彼の名を呼ぶ。
一すじ、また一すじ、レイの中で想いがうねるたび涙が溢れ出す。
一度は躊躇った手を伸ばし、吹っ切るようにシンジの腕が彼女の頭を掻き抱いた。
「・・・・・ご免・・・・・。」
その呟きは腕の中の少女に対してなのか。それともあの時の少女へなのか。
「ご免よ、僕が悪かった・・・・・急かす必要なんてなかったのに・・・・・・。」
今の彼女を苦しめてるのは自分なのだ。湧き上がる後悔が自分を責め立てる。
(・・・・・もう一度、最初からやり直そう・・・・・。その機会を与えてくれたのは彼女じゃないか・・・・・。)
失ってしまったものが取り返せないのなら、もう一度、作リ直せばいい。
あのとき感じた絆が本物だとすれば、きっとまた、作れるはず―――。
シンジの暖かい胸が、レイの涙を乾かす。押し当てられた耳が、彼の鼓動を捉える。
(知ってる・・・・この音・・・・・この温もり・・・・・。)
トコトコトコ・・・・・・。記憶の隙間から、遠い太鼓の音が響いてきた。
(あたたかい・・・・・それに・・・・・懐かしい・・・・・。)
その温もりに浸るように、目を閉じる。安らぎを求めるかのように、彼の胸に強くしがみつく。
トクトクトク・・・・・・。心の奥底から、懐かしい響きを感じた。
< 了 >