「 AngelRing (3) 」
何かがおかしい―――私がそう思い始めたのはやはり、あの夜からだろう。
ぼんやりだけど、自分の日常が僅かずつ狂っていくような感覚を受ける。
外は相変わらず暑い。今日も太陽は惜しみない光を、燦然と振りまいていることだろう。
きっと空は、変わらぬ青の翼で世界を包み込んでいるのだろう。
きっと、というのは、朝からずっとカーテンを閉め切ったまま、外にも出ていないせいだった。
確かに遮光性は抜群で、完全に閉ざせば夜とさほど変わりない暗がりがおとずれる。
昼間から閉め切って電灯を点けているのは、なにも太陽の光が嫌いになったわけではない。
ここ数日、誰かに見られているような気がしてならないのだ。
四六時中ではないけど、外出した際、ふとした折に視線を感じる時がある。気付いて振り返っても、誰もいない。
背後だけでなく、時に正面、時に上空からと、視線の方位もまちまちだった。むろん、人影も無いのに。
悪意のようなものは感じられない。心当たりはまるでないけど、監視されてるのだろうか?
でも、それにしては妙な感覚だった。まるで自分が檻かごの中の虫になって、興味半分に観察されているような・・・・。
被害妄想、という言葉が浮かぶ。でも、仮にそうだったとしても、公園でのあの出来事はなんだったのだろう?
あの日を境に、夕暮れを見るのが怖くなったのも、カーテンを閉めきっている理由のひとつだった。
最近は、食べ物など必要なものは昼間のうちに購入し、極力外出を控えるようになった。
でも、不安はそれだけではない。自分自身に対してのものもある。
自分が何ものかなんて、わかってるつもりだった。
かすむほど遠くの記憶が、孤独だった頃を古い映写機のように脳裡に映す。
夢も、希望も持たず、滅びの瞬間を待つだけの空ろな存在・・・・。
でも、いまは違う。違うはずだった。
夏が好き。夏の青空が好き。詩が好き。穏やかに流れる時間が好き。何よりも、彼のことが、いちばん―――
こんなにも満たされているはずの、いまのわたし。
なのにどうして、こんな気分になるのだろう?
ベッドに投げ出した身体をうつ伏せに横たえたまま、まっ白な腕をぼんやり眺めては、幾度となく溜め息を吐く。
腕を辿った先にある、碇くんへのプレゼント。
せっかく買ったのに、まだ渡してない。それどころかあの日以来、彼と話すらしていない。
逢いたくないわけではない。むしろ、逢いたい。息苦しいほど胸が焦がれる。
でも・・・・・・
電話一つ、掛かってこない。彼はいまどこで、何をしてるのだろう?
伏せった顔を持ち上げ、枕元に置きっぱなしの携帯を見つめる。
あてもなく待つくらいなら、自分から掛ければいい。そう思いつつ携帯を手に取っては、何度諦めたことか。
電話を掛けない理由なんて少しも無いのに、話をする口実もちゃんとあるのに、なぜ躊躇うのだろう?
これほど落ち込んだのは、自分の記憶では初めてだった。
しばらく感じたことのなかった孤独が甦る。いまの私は昔よりも、もっとずっと弱い。
碇くんの声が聞きたい。彼の姿が見たい。傍にいて、彼の体温を感じていたい。
彼がここに居てくれれば、私はそれで充分なのに。ずっと傍に、居てさえくれたなら・・・・・。
指先で玩んでいたプレゼントの箱から手を離し、携帯を掴んで仰向けになった。
ボタンを操作して住所録を呼び出す。見るまでもなく、暗記してしまった彼の携帯の番号。
ディスプレイに浮かびあがるその数字の羅列を穴が開くほど見つめたあと、意を決して通話ボタンを押した。
Ru…Ru…Ru…
「もしもし。」
心の準備を待つ余裕もなく、携帯を耳に当てた途端にあっさり繋がった。
「碇くん・・・・・・あの・・・・・・わたし。」
「ああ、げんき?いま何してるの?」
「部屋にいるわ。・・・あのね・・・。」
話すべきだろうか?先日の得体の知れない体験、ここ最近感じている視線のことを。
でもあの日のことは、自分でも夢を見てたのではないかと思うほど、現実味がまるでない。
視線のことも、気にしすぎだと笑われるかもしれない。いえ、むしろ笑い飛ばしてくれればいいのだけど・・・。
「もしもし・・・もしもし・・・?聞こえてる、綾波?」
打ち沈んでいた思考が彼の声で引き上げられた。
やめよう、こんなことで悩むのは。なにより、余計な心配をかけたくない。
「・・・ええ、ごめんなさい。ちょっと、ぼうっとしちゃって・・・。」
「もしかして、風邪でもひいた?」
「ううん、ぜんぜん平気。・・・・碇くん・・・あの・・・もし、良ければ・・・・・・うちに、来ない?。」
「えっ、いまから?」
彼の言葉じりが跳ね上がった。時計を見ると三時を過ぎている。時間的に中途半端かもしれない。
そもそも、彼をこの部屋へ呼ぶこと自体初めてだし、唐突過ぎたのかも・・・。
「その・・・・・都合が悪いとか、嫌とかじゃ無ければだけど・・・・・。」
本当の気持ちを抑えて、やや遠慮がちに付け加えた。
「いや、全然そんなことない。ただちょっとびっくりしただけ。」
「・・・ダメじゃない?」
「大丈夫。僕も綾波の顔を見たいし。」
「え・・・・。」
何気なく呟いた彼の言葉に、心臓がトクンと喜びの声を上げる。
「ぁ・・・・ほ、ほら!このところ会ってなかったし、どうしてるのかなってちょっと気になってたからさ。」
「・・・ちょっとだけ?」
「いやっ、今のは言葉のあやで、決してちょっとじゃないけど凄いたくさん心配するのも子供扱いしてるみたいで失礼な気が・・・。」
・・・素直に云ってくれるだけでいいのに。嬉しかったんだから。
そんな不満も無くはないけど、言い訳するところがなんだか碇くんらしくて、つい笑いがこぼれた。
「綾波・・・・そんな笑わなくても・・・・。」
「だって・・・。」
抑えようとすると余計に笑いがこみ上げてきて、堪えるのに苦労した。
「ごめんなさい。もう収まったから。」
「ひどいなあ・・・じゃ、いまから出るから、小一時間ほど待ってもらえる?」
「ええ、また後で。」
温かい余韻を残したまま、携帯の通話を切った。
本当に、何を悩んでたのだろう、私は。こうして話し終えてみれば、あっけないほど簡単なことだったのに。
いまの会話だけで、胸の明かりがぽわりと灯ったようだった。幾日かぶりに、心が弾む。
改めて部屋を見廻した。清潔なクリーム色の壁紙に真新しいカーテン。木目調の家具はやや古めかしいけど、汚れてはいない。
散らかしてもないけど、念のため、軽く掃除しようかしら。
彼が来るまで一時間近くある。包帯を腕に巻きつけたあと、さっそく掃除に取り掛かった。
▼△▼
碇くんが部屋に来たのは、四時を少し過ぎたころだった。
小脇に白い箱を抱えていた。なにか手土産をと思って、途中でケーキ屋に立ち寄ったそうだ。
気を回さなくていいのにと思いつつも、やはり嬉しい。おじゃましますと言って入った彼に、木製の椅子を勧めた。
彼は右手に抱えたケーキの箱をちいさな円形の机に置いてから、きょろきょろ部屋を見回した。
「へ〜、きれいな部屋だなあ。」
「・・・あんまり見ないで。」
「あ・・・ごめん。」
見られていいよう掃除したはずなのに、逆に慌てて片付けたように思われないかと気になった。
「なんで電気点けてるの?カーテンも閉めっぱなしだし。」
「それは・・・・・・・・・その、また日やけするといけないから。」
「あ、そうだね。・・・腕、まだ痛む?」
とっさに口をついた言い訳に疑念を持たなかったらしく、左腕に巻いてある包帯を見て、心配そうに眉根を寄せた。
「いいえ、もう痛みは全くないの。」
「よかった。買ってきた薬が効いたのかな?」
「ええ・・・碇くん、あのときはありがとう。」
「どういたしまして。ちゃんと治ってなによりだよ。」
嘘をついてしまったことが心苦しく、ほころんだ彼の笑顔から視線を逸らした。
「・・・・・・あの、ケーキありがとう。わざわざ買ってもらって。」
わずかに空いてしまった微妙な間を埋めようと、救いを求めるように白い箱へ話題を向けた。
「ああ、気にしないで。手ぶらっていうのもどうかと思ったし、ちょっと寄り道しただけだから。」
「開けてもいい?」
「もちろん。」
大きめの箱の中には、飴色にしっとり焼けたパイがまるく収まっていた。
薄くスライスした蜜づけの洋なしを何枚も重ねてかたどった桜の花が、パイ生地の上に大きく咲いていた。
花びらの周囲にはクランベリーやブルーベリーをちりばめ、赤と紫の豊潤な色あいで淡黄の花を引き立たせている。
「美味しそう。それに、とってもきれい。」
「このアップルパイがショーケースで一番目を惹いたからさ、一個まるごと買ってきちゃった。」
「食べるのが楽しみ。・・・でも・・・。」
「ん?」
「少し、大き過ぎない?」
直径にして25cmはあるだろうか。もともと私はたくさん食べないが、大人が二人で食べたとしても十分大きいだろう。
「う、確かに。そこまで考えなかった。」
「わたし・・・夕食、これだけでいいかも。」
「・・・ごめん。見た目がすごくきれいだったから、カットするのもったいなくて。」
きっと私も、彼と同じような表情をしてたのだろう。ふたり顔を見合わせてくすくす笑った。
「食べ切れない分は、冷蔵庫に入れておく。本当にありがとう。」
「そういえばお店の人が、レンジで軽く温めた方が美味しいって言ってた。」
「ええ、そうしましょう。・・・でも、その前に、ちょっとだけいいかしら?」
パイを箱ごと台所へ持っていってから、箪笥の上の小物入れに移しておいたプレゼントを取り出した。
「これ、碇くんに・・・。」
「僕に!?あれ、でも、今日ってなんかあったっけ?」
「ううん、記念とかそういうのじゃなくて、以前買ってもらった服の御返しというか・・・その、渡したかったから。」
「えっ、いいの?」
「ええ、開けてみて。」
私の手からプレゼントを受け取ると、慎重な手つきでリボンを外し、真珠色の包みを丁寧に開いた。
ビロードを貼ったケースを開けると、彼は目をまるくして私を見た。
「綾波・・・ほんとに貰っちゃっていいの?すごく高そうだけど・・・。」
「そんなの気にしないで。・・・見た目ほどは高価じゃないから。」
実のところ、アクセサリーなんて買ったことのない私には、そのペンダントが高いのか安いのか見当もつかない。
「気に入ってくれればいいけど・・・・。」
「うん、勿論!」
もしかしたらあまり嬉しくないのかも・・・と不安だったところを満面の笑みで頷いてくれたので、ほっと胸をなで下ろした。
「いま着けてみて。」
「いいよ。」
彼はワイシャツの襟をひろげてペンダントの革紐を通そうとしたけど、金具がうまく合わないみたいだった。
「そのままでいてくれる?」
席をたった私は座っている彼の背に廻り、紐の両端をつまんだままの手の上に、そっと掌を重ねた。
「左の金具の先を、こうひっかけるの。」
「あ、そうか。逆にやってたんだな、僕は。」
「意外と簡単でしょ。」
「ほんとだ・・・鏡、あるかな?」
「こっち。」
姿見のほうに手招きして、ふたり並んで立った。
控えめな大きさの十字架はゆったりと革紐にぶら下がって、白いワイシャツの胸元を鮮やかな空色で飾っていた。
「・・・なんか照れくさいな。こういうの、着けたことないから。」
「でも、とても似合うわ。」
そう云うと彼は、はにかんだ笑顔をみせた。
「ありがとう綾波。ずっと大切にする。」
「良かった、気に入ってくれて。」
鏡に向けた視線を傍らに移したとき、お互い惹きあうように見つめ合った瞳の近さにどきりとした。
「・・・・・・せっかくだから、ケーキ、戴きましょう。」
「あ・・・・・うん、そうだね。」
せわしなく鳴る鼓動を抑えるのに苦労しながら、心持ち早足にキッチンへ行った。
半ラウンドに切ったパイを電子レンジで温め、半分は箱に戻した。
「紅茶を淹れようと思うけど、冷たい飲み物のほうがいい?」
「いや、あったかいのをお願いするよ。部屋は涼しいしね。」
「ミルクは?」
「使わない。ストレートでいい。」
「わかったわ。少し時間が掛かるから座って待ってて。」
縦長のケトルに入れた水をコンロで沸かしながら、食器棚から二人分のティーカップを取り出した。
しゅんしゅんと熱をあげるケトルからふと目を上げると、彼の視線とぶつかった。
「どうかした?」
「いや、その・・・・・・そうやってるとお母さんぽいっていうか・・・なんか、いいよね・・・・・・。」
「なにを言うのよ・・・。」
タイミングよく音をたてたレンジの方を振り返った。そうしなければ、まっ赤になった顔を見られたかもしれない。
レンジから皿ごと取りだして、食べやすく切り分けた。生地のこうばしさと微かなシナモンの香りが食欲をそそる。
沸かしたお湯をティーポットに注ぎ、切ったパイと一緒にテーブルへ持っていった。
「いただきます。」
さくりと割ったパイをひときれ、口に運ぶ。ぎっしり詰まったりんごがしゃくしゃくと歯切れよくはじけた。
「美味しい。」
「うん、ほんと。」
薄くぬられたカスタードクリームとキャラメルで固めたかりかりのくるみが、フルーツとは違った甘味を与える。
砂糖は用意したけど、彼も私も紅茶には入れなかった。それでもすっきり甘い。
「なんだか、いくらでも食べられそう。」
「そうだね、そんなに重くないし。」
そう言いながら彼は、パイの表面にのった洋なしをフォークで刺してひと口に食べた。
私も食べてみた。しんなりと温まった果肉は、噛まなくても舌にのせるだけでほどよく溶ける。
「私、洋なしってあまり好きじゃなかったけど、これはとても美味しい。」
「あれっ?梨、嫌いだった?」
「ううん、梨じゃなくて、洋なしのほう。食べられないわけじゃないけど、そのままだとあまりおいしく感じないの。」
「そうなんだ。知ってたら最初から別なのにしてたな。」
「でも、買ってもらってよかった。おかげで好きになれそう。」
感謝する私に笑顔を見せてから、何か思いついたように彼は 「そういえば」 と言葉をついだ。
「洋なしはあるけど、洋りんごって見たことないなあ。」
「あら、どこにでもあるわ。」
「そうだっけ?」
パイに包まれたくし形のりんごをひと切れだけフォークですくい、目線まで持ち上げた。
「これ。」
「え?普通の林檎だよね、それ。」
「厳密には違うの。」
フォークに乗せたりんごをぽいと口に放り込み、説明のため紙とペンを持ってきた。
「昔は、『苹果』 って書くほうが西洋りんご、『林檎』 は和りんごと区別してたの。いつの間にか林檎で統一されたのね。」
「ぜんぜん別の種類ってこと?」
「そう。いまはむしろ和りんごの方が少ないわ。」
「へえ、知らなかった。『苹果』 って字、初めて見たよ。」
「例の、私が好きな詩人は、りんごをその書きかたで表してたわ。銀河鉄道の話とか、読んだことない?」
「うーん、そうとう子供のころに読んだような・・・。」
彼は首をひねったけど、結局思い出せないようだった。
「その物語の中で、剥いたりんごの皮が灰色に光ってすうっと蒸発するくだりがあるの。そこがすごく印象に残ってる。」
「きれいな表現だね。けど、なんだか儚い感じがする。」
「そうね。好きな描写だけど、読んでてもの哀しい気持ちになったわ。」
その物語において、苹果はいくつかの場面で象徴的に使われていた。
苹果の肉のような青じろい環の雲、苹果の匂いをまとった黒服の青年・・・苹果は、この世ならぬ天上の世界に属するものの暗喩だった。
仮に銀河鉄道が天上への旅そのものだとしたら、灰色に輝いて消える細長い苹果の皮は、命の儚さの象徴かもしれない。
それからしばらくは、とりとめのない話題に花が咲いた。
他愛の無い会話に満ちた、でもかけがえの無い時間が、ゆるやかに流れてゆく。彼が居るだけで、こんなにも空気が輝く。
ふたりとも話しながら、つい手を伸ばしてたのだろう。気がつくと、皿の上のパイは無くなっていた。
「あっという間に食べちゃったね。」
「ええ、あっさりしてて、とても美味しかった。」
「もうひときれ、貰ってもいいかな?」
「勿論。私はこれで充分だから、碇くんの分だけ取ってくるわ。」
「あ、自分でやるよ。」
立ち上がろうとした私を手で止めて台所へ行った彼は、残りのパイを箱から取り出し、包丁で切ろうとした。
「いっ・・!」
「どうしたのっ?」
慌てて台所を覗いたとき、左手の人さし指をくわえながら彼は苦笑いした。
「あはは、なんでもない。ちょっと手が滑っちゃって。」
唇から離した指を伝う鮮血を見たとたん、全身から血の気がひいた。
「だめ、動かさないで!すぐ手当てするから!」
リビングへ駆け戻ると、箪笥の引き出しから包帯と薬をつかみ取った。
「あ、大丈夫だよ。かすった程度だし、なめときゃ・・・。」
「―――駄目っ!」
私の剣幕に押されたのか、彼は途中で言葉を呑んだまま、されるがままになっていた。
私のほうはただ夢中で、けがをした指に薬を塗って、包帯を巻きつけた。
「・・・あやなみ・・・?」
私を呼ぶ声も耳に入らず、ひたすら包帯を巻き続ける。
「綾波っ、もういい!大丈夫だって。」
その言葉にはっとなって、手を止める。
間近に迫った黒い瞳が、心配そうに覗き込んでいた。
「どうした?顔が真っ青になっている。」
「・・・・怖かったの・・・・。」
「え?」
「・・・心臓が、止まるかと思った・・・・・碇くんが傷つくなんて・・・そんなの嫌だから・・・。」
「大げさだなあ。僕がちょっとどじっただけなのに・・・。」
冗談めかして笑ったその顔に、自分でも思いがけず、涙がこぼれた。
ぽろぽろと転がる雫に、彼は真顔になって口を噤むと、
「―――ご免。心配かけて。」
震え続ける私の背中を、そっと抱き寄せた。
声を押し殺したまま、白いワイシャツに顔をうずめる。
あたたかな胸のぬくもりに、得体の知れぬ不安も恐怖も、すべてが溶かされるようだった。
▼△▼
泣き止むまで、碇くんはずっとそうしていてくれた。
ようやく私が落ち着いて、身体を離したとき、心の一部を剥がされたような寂しさを感じた。
「大丈夫?」
まだ心配そうな彼の顔をまともに見れなくて、俯いたまま深く頷いた。
なぜあれほど取り乱したのだろう?思い返しても恥ずかしい。
「・・・・・・ごめんなさい・・・・・わたし、どうかして・・・・・・。」
「綾波が謝ることはないよ。僕の不注意だったからさ。」
なおも小さくなる私の目の先に、包帯を巻いた指をひょいとつき出した。
「でも、確かにちょっと大げさかな。まるでニワトリの卵だよ、これじゃ。」
何重にも巻きすぎて繭のお化けのようになった人さし指を、左右にひょこひょこ動かす。
「そこまで大きくないわ。せいぜいうずらの卵くらい。」
「これがうずらだとしたら、ダチョウより大きいよ、きっと。」
大真面目な顔つきで言うから、思わず吹き出した。
「本当、とっても大きなうずらね。」
「でしょ?」
表情を崩した彼の指の包帯を解いて、今度は二、三回巻く程度にとどめた。
「よかった、笑ってくれて。・・・じゃあ僕、そろそろ帰らなきゃ。」
「ええ・・・。」
確かに、もう随分遅い時間になっている。残念に思いつつも、玄関を降りた扉口まで見送った。
「どうもおじゃまさまでした。今日は楽しかったよ。」
「私も。・・・でも、ごめんなさい。最後に迷惑をかけてしまって。」
「迷惑だなんて、とんでもない。僕こそ、ありがとう。肌身はなさず着けておくよ、これ。」
包帯を巻いたばかりの指で首にかかったペンダントを軽く持ち上げ、ワイシャツの中に入れた。
「そう言ってくれると嬉しい。プレゼント出来てよかった。」
かすかな微笑みをかえしながら名残惜しく佇んでいると、不意に、彼の顔が近づいた。
全く予期しない事態に思考が白く塗りつぶされたまま、黒い瞳の奥底の光に魅入られたように動けなくなった。
触れるよりも先に体温を感じた瞬間、反射的に瞼だけ閉じる。
唐突に訪れた闇の中で、軽く・・・・・・唇が重ねられた。
目を開けて最初に見えたのは、スローモーションのように離れてゆく彼の瞳だった。
黒い瞳の奥へ吸い込まれた意識が戻ったとたん、
彼は虚空を、私は足元へと、申し合わせたように目線を逸らした。
ふたりの間を流れる微妙な雰囲気に縛られたように、しばらくは何も言えず、動くことさえできなかった。
「・・・・・・ご、ごめん、いきなり・・・・・・。」
その言葉にどう答えていいか分からず、けれど誤解されたくなくて、ゆっくりと首だけを左右に振った。
「・・・・ぁ・・・・綾波・・・・あの・・・・また、あした。」
「・・・・・・・・・はい。」
照れくさそうに手を振った彼に、小さく声を出すだけで精いっぱいだった。
碇くんがいなくなっても、しばらくは放心したようにその場に立っていた。
時間にすれば数秒、いえ、ほんの二、三秒に満たないだろう。
それでも私にとっては、永遠にも等しい瞬間。
ふわふわした足取りでリビングへ戻ると、立てかけている姿見に自分の姿が映った。
りんごのような頬という形容詞を絵で表すなら、いまの自分を描けばいいのではと思うくらい、まっ赤になっていた。
俯いて頬に手をあててみたけど、手のひらで冷ますにはとうてい不可能なほど熱い。
顔をあげると、鏡の中の自分も顔をあげ、熱に浮かされたような視線で私をぼうっと見かえす。
両手に挟まれた唇は自然と、笑みをかたちどっていた。
・・・・・・わたしは彼が好き―――どうしようもないくらい好き―――きっと、碇くんも・・・・・・
滲み出る幸福に浸るように目を閉じて、とくとく響く心音に、じっと聴き入っていた。
ようやく静まりはじめた鼓動をふぅっと息を抜いて落ち着かせ、ゆっくり瞼をあげる。
鏡に映し出された緋色の瞳と目があった瞬間、ざわりと全身が総毛立った。
―――私?・・・じゃ・・・ない!?
冷たく見かえす青白い顔の口許がつりあがり、私をあざ笑うかのように歪んだ。
< 続 >