夕焼けの中、朝焼けを夢見る少年との約束。

 交わしされたのは、ささやかで、大それた約束。

 かなわない約束。






NEON GENESIS EVANGELION

―Growing Comedian―

EPISODE 22.5

トワイライト







 卵焼きは甘くない方が好みだけど、濃口醤油はしょっぱいと云う。人それぞれに好みが
あって、そのどれもが正しいことなので嗜好を非難することはできない。けれどもその好
みを叶える立場の人間にとって、自分とちがう好みの味付けを施すことは抵抗がなくとも
不慣れなために苦労は多い。
 それでもつづけていられるのは、叶えてあげた相手の満足そうな表情や、それを見ると
暖かくてくすぐったい感情に満たされる自分の心があるためだ。そういったものがまった
く生まれないなら、とてもつづけられない。妻でも恋人でもない――だからこそ、という
考え方はできるかもしれないが――ので、これは完全にヒカリの気持ちだけでつづいてい
ることだった。左脚を失った少年は右肩と胸骨にも亀裂が入っており、ひと月半が経過し
た今もまだ入院中だった。そろそろ退院も近いが、それゆえに彼との別れが近いことに気
づかないほど浮かれてはいなかった。退院後にはリハビリが待っている。また、想いを寄
せる少年への心配事だけでなく、この街はすでに黄昏時を迎えていることにも気づいてい
た。
 スーパーの食料品売り場を歩き回るのも、最近楽になってきていた。夕方でも客はまば
らで、レジもそれぞれの売り子がほとんど人を溜めずにいる。それを見ると、頭の中を夕
闇よりも濃く、朝焼けよりも鮮やかな光が頭を駆け巡っていくような気がした。それはと
ても眩しいが、見つめていると自分がとても深いところに潜っているような、とてつもな
く高いところに立つときに足元から競りあがってくる時の恐怖感にも似た感覚に全身を覆
われそうになる。その前に彼女は首を横に振って考えを振りほどく。
 彼女の知る中では、これまで指折り数えて十もの『使徒』が第三新東京市を襲撃してい
る。さらに彼女の友人が日本へ来る途中に襲われたというものも含めれば十一になる。
 被害は拡大する一方だ。街の修理が追いついていないのは一目瞭然で、彼女が住む町外
れこそ無事でいるが、中心部に近づくほどにヒビの入ったビルや煤けた建物、半壊になっ
た家屋が目立つ。ちょっとした震災被害にでも遭っているかのようなこの状況下、スーパ
ーに足を運ぶ住民が減ってくるのは当然のことだった。最初の頃に大流行した疎開がいま
また盛んに行われている。学校の生徒数は半年前の三分の二まで減っていた。学級委員長
として名簿の管理をしている彼女には、名前だけでも見慣れた生徒が忽然と消えてしまう
こととスーパーの人口密度の低さが、この街の現状を知らせる合図となっている。ミリタ
リー好きの友人が独特の考え方で途方に暮れていたのもつい最近のことだ。『どんな部隊
も、戦力を三分の一失ったら作戦遂行は不可能になるって言うぜ。学校だって様変わりし
ちゃうよな、こんなに減っちゃったらさ』
 たぶん、このままでは自分も姉妹揃って疎開することになる。離婚した母の元へ行くこ
とになるなら、それはすこし楽しみなことだ。けれど、離婚の理由を知っている以上、避
難したところで、別の混乱に陥るのではないかという気はしている。母より自分たちのほ
うが年齢の近い父親というのはぞっとしない。それでも死んでしまうのは御免だから、避
難が決まったら仕方がない。
 格安アパートの宣伝チラシを捨てずにおく姉と、顔の覚えていない母に会うことを素直
に喜べていない妹。その間にいる自分は、一体どんな顔をしていればいいのだろうと思う。
きっと、姉や妹から見れば自分は形容しにくい顔をしているにちがいない。現状を見て見
ぬフリをして怪我をしている男子のためにお弁当作りにいそしんでいる姿として映ってい
るのなら、相当見るに耐えない姿だということはわかっていた。
『そやな……最初に持ってきてくれたハンバーグ、アレはうまかったなあ』
 明日はハンバーグの予定だ。いつもアレが食べたいとは言わず、彼は下手くそな遠まわ
しにそんな風に言う。だから明日はハンバーグにする。
 明日のお弁当のことを考えながら夕食の支度をする。このときだけは、自分の時間。野
菜を刻む音にリズムが生まれて、口からはメロディがこぼれる。このとき浮かべる笑顔だ
けは目減りしていない自信がある。もしも彼より早くこの街を出て行くことになるなら、
お弁当作りを断られてからにしてほしい。仲が悪くなったら諦められるかもしれないけれ
ど、今のまま離れるのは考えたくなかった。
 玄関のベルが鳴った。妹が「はぁい」と返事をして、背後を通っていったので、彼女も
慌てて追いかけた。「はい、どちら様ですか?」
 覗き穴を覗きながら訊ねても返事はなかった。ドアから離れて立っているらしい人物は
覗き穴から身体が半分ずれていて、赤茶色のボストンバッグだけが眼に入った。鞄のファ
スナーにかかっている、目にスワロフスキーのラインストーンを使っているくまの人形が
ぶら下げられている。その人形はよく知っていた。よく知っている友人と、以前買い物に
行ったときに彼女が買ったものだった。加えて彼女がすこし前に話していた昔話を急速に
思い出し、ドアの向こうの人間が誰かを理解した。チェーンを外してドアを急いで開けて、
正解発表。
「アスカ」
 昔の日本を思わせるこの長雨で赤茶色の髪を湿らせた惣流=アスカ=ラングレーが立って
いた。手に提げているボストンバッグと同系色の赤茶色の髪は、本来であれば男子だろう
と女子だろうと目を奪われる輝く糸だった。それを自覚している彼女は無造作に髪を結ぶ
のを嫌っていた。その髪は、白い肌と青い眼の切れの良さを際立たせるのに一役買ってい
た。それが惣流=アスカ=ラングレーに対する基本的なイメージであり、親しくなってから
はその評価は高まる一方だった。
 目の前にいる彼女は、その見地から定点観測を行うならば、まったく彼女ではなかった。
髪はただ湿気を含んで重たそうで、唇は乾き、肌の白さが眼窩の隈を余計目立たせている。
眼はまっすぐに正面を見つめているが、それは「結果的に」目が合っただけではないかと
いうほど、ガラス細工のように動かなかった。
「ヒカリ」
 彼女はドアが開いたことを驚いているらしかった。まるで名札のかかっていないドアの
ベルを押した結果、偶然(幸か不幸か)ヒカリが現れた。そういう表情だった。作り物め
いた瞳が微かに揺れた。
「どうしたの、アスカ?」
 アスカの手を引きながら迎え入れた。妹のノゾミが素早く引き下がったと思ったら、台
所へ消えていった。お茶の用意をしにいったらしい。最近家事を手伝いはじめたノゾミの
好きな作業のひとつがお茶汲みで、家族にもわざわざ茶たくを用意するのがかわいらしい。
それを笑うとノゾミはあまり面白くないらしく、この見知らぬ客人相手に茶たくつきの緑
茶を差し出したときの自慢げな顔は、状況が状況なら今までで一番笑っていたかもしれな
かった。
 濡れた服を着替え、部屋の明かりの下にいるアスカは、よっぽど普段と変わらないよう
に見えた。多少体調が優れない時ならこんなものだろう、という程度のものだ。
 振舞いに迷う。単純に体調が悪いなら、合理的な考えを好むアスカは家で休んでいるは
ずで、この消耗が単純なものではないことは、理屈から言っても間違いないように思える。
そもそも、消耗したアスカを見た事がなかった。
 最近の学校の状況はどう? というアスカの質問からはじまった世間話は、卒業した小
学校の話をしているように盛り上がった。そういえば、転校初日からヒカリとは話が合っ
たことだとか、どうしてあんなに男子ってバカなんだろうとか、美術の西先生はそのうち
痴漢でもやらかしそうな顔だとか、給食ってものを食べてみたかったとか。ひとしきり盛
り上がっているうちに姉のコダマが帰ってきた。
「友達?」
「うん、アスカが」
「あぁ……」
 姉のノゾミは、アスカにデートの相手をしてもらった恩と、それを途中で勝手に帰って
しまったことへの恨みが見事に両立しているので、複雑そうな顔で頷いた。しかし、彼女
のくたびれた様子をみた後に普段着に着替えると、ちゃんとこの間のお礼言ってなかった
わね、ありがとう、と簡単に礼を言った後で、あっさりと訊ねた。
「今日は泊まっていくの?」
「え?」
「鞄が大荷物だから」
 コダマの指摘は、ヒカリとアスカの中でそんな話が出ていないという意味では的外れだ
ったが、アスカの心情を言い当てたという意味ではまったく正しかったらしく、彼女は目
に見えて狼狽した。荷物の大きさや状況からヒカリもそれを読み取ってはいたものの、き
ちんと話をしていなかったことを一瞬悔やんだ。けれど、すぐに後悔を置き去りにした。
「うん、そのつもり」
「ほいじゃ、ごはんできたら呼んでね。姉は部活で疲れております」
「お姉ちゃん、ずるい」
 ノゾミが頬を膨らませる。わが妹ながら、自分にはない爛漫さがかわいい。
「あんたは手伝うのが好きだからいいじゃない」
「ずるいよお」
「いいからいいから、さあさあノゾミちゃん、その調子で料理上手になって、名前以外で
もお姉ちゃんをぶち抜いてくださいな」
 洞木の家では夕食は七時半前後なので、まだ小一時間ある。アスカが来るまでに一通り
下ごしらえは終わっているので、慌てることはなかった。
「なかなかすごい姉さんねえ」
「男の子の紹介を妹に押しつけるだけのことはあるでしょ?」
 柄ではないが、おおげさに肩を竦めると、なぜかアスカも似たり寄ったりの仕草をみせ
た。
「まあねえ……。まあ、家の中じゃあたしもミサトも、似たり寄ったりの感じだけど」
「じゃあ人のこと言えないじゃない」
「いーのよ、だってこっちの場合は相手がシンジだもん」
 こういう言い方は普段となにも変わっていないので、最初の様子から想像するほど深刻
なことはないのかもしれない。アスカがリビングの窓をちらりと見やった。
「雨、やまないね」
 声が部屋からすっかり消えてもその呟きは耳に残った。アスカに何かがあったとすれば、
おそらく昨日の戦闘の時だと想像できる。それ以外では、不機嫌になることはあっても落
ち込むところは見たことがない。
 アスカはとても、とても優秀だ。ドイツにずっといたのに、話すだけなら日本語は完璧。
漢字だってみるみるうちに吸収していったし、小難しい言い回しもすぐ使えるようになっ
ていった。自分がいくら努力してもアスカの様には綺麗になれない、頭が飛び抜けて良い
わけでもない。あんなに色んなことができて羨ましい。時々、もっと普通でいいのにと思
うときだってある。そんな風に思う自分はもちろん好きではなかった。でも羨ましさ以上
には憎くならない。
 目の前にいるアスカが普段より小さく見える。驚くほど覇気がない。そんなアスカを
「ざまあみろ」と思わない自分が、今は誇らしい。
「明日には晴れて、嫌でも良いことあるわ、きっと」
「嫌でも?ヒカリ、変なこと言うね」
 顔を上げたアスカは、ヒカリの語彙にはない形容詞が必要な表情を湛えていた。泣きそ
うな、不思議そうな、すこし可笑しそうな。雨が降りそうな空のよう、というのはすこし
近いかもしれない。詩的すぎるのさえ構わなければ。
「アスカ、お腹すいた?」
「え?……あんまり。食欲ない」
「熱があるとかじゃないのよね。だったら、私のご飯だから、きっとおいしいって。この
言い方も、変かな。なんだか空回りしてるわね、私」
 喋っているうちに自分で気まずくしてしまったことに焦って、思わず立ち上がってしま
った。立ち上がった以上、食事の準備をしないと不自然なので台所に向かった。背中から
声がかかった。いつになく弱々しくて、見栄のない声。
「ヒカリのご飯なら、食べる」
 ――サイズ予定変更、ごめんね、鈴原。
 こっそり呟いた。
 ――明日はミートボールでガマンしてね。






 底辺が八〇メートル四方の四角錘の形をしたネルフ本部の建物は、ジオフロント内で迎
え撃った使徒(殲滅終了後に『ゼルエル』と命名された)から光弾の直撃を受け、間の抜
けた穴をぽっかりと空けてしまっていた。威厳とある種の謎を含ませていた黒く鈍く光る
建物では、今や修復の目処も立たず、見掛け倒しで間に合わせの補修工事だけが急ピッチ
で行われているが、内部施設はほとんどが手つかずというのが実情であった。
 幸い、本部施設の主要区域は地下に存在しているため、地上のD9-C1級勤務区域を
放棄するだけで済んでいる。そこで行われていた処理は松代の実験場を代わりに使用して
いた。B9級以上の勤務者とのやりとりは互いのマギを使用して連絡を取り合っている。
不便極まりないと職員からの評判は最悪だったが、それを表立って言う者はいなかった。
ひとたび使徒の侵入を許したジオフロントには、それまで職員の心の片隅にあった『人類
最後の要塞』としての威厳がなくなっていたのである。戦闘時にはシェルターへ逃げ込ま
なくてはならないC級勤務者の職員の中で、自分の職場が死の危険に晒されてなお、そこ
で働きたいと思う者は一人としていなかった。本部施設の被害により飛び散った特殊装甲
板の破片は片づけが終わった後も、目をこらせば簡単に見つかった。今のネルフにはそん
なゴミを徹底するような、気の利いたことをしている余裕などない。
 上の街を破壊されて心を痛めることはなかったが、いざ自分の居る場所に破壊の爪が届
くと、胸中穏やかとは言いがたい。建物の補修作業を遊歩道のベンチから眺める作戦部第
一作戦課の日向マコト二尉と葛城ミサト二佐ですら、それは例外ではなかった。
 ミサトは甘ったるい缶コーヒーをまずは半分飲み、下唇を舐めた。エヴァ初号機パイロ
ットの碇シンジを初号機からサルベージするまでの間こそ使徒は来なかったが、未だに初
号機は第二級封印凍結措置が施されたままで、たとえ使徒襲来時でさえミサトには凍結を
解く権限はなく、司令の碇ゲンドウの許可が必要だった。実際、一昨日の戦闘では終始出
撃許可が下りることなく作戦は終了している。
 先刻『アラエル』と資料に明記されることとなった使徒の戦法は、ATフィールドの中
和距離外――成層圏から詳細不明の光を放ち、パイロットの精神を侵食、破壊するものだ
った。その刺激は薔薇の棘より鋭く、暗闇よりも深い、卑劣な痛みに違いない。パイロッ
トのアスカがその光を浴びた影響は甚大で、精神の奥の奥まで辱めを受けてしまった。今
は自宅待機の命令を破って、昨夜から友人の洞木ヒカリの家にいるとの報告だった。ミサ
トは報告を受け、逃げ込む先があった事に安心していた。あの家にいるよりずっとマシに
ちがいない――悲しい確信だった。
「とはいえ、初号機が出ていても同じことだったでしょうね」
 文脈を読み取った日向が軽く頷いた。彼が同じことを考えていることはわかっていたの
で、ミサトの言葉は意図的な短さだった。
「シンジ君はアスカほど幼少期に強烈な過去があるわけじゃない。でも、過去に蓋をして
いたアスカとはちがって、シンジ君は十年間同じテーマで下を向いている。それをすべて
他人に覗かれたら、もしかしたらアスカより酷い状態に陥っていたかもしれない」
「そうですね……3号機事件の後に見せた危なっかしさがあるぶん、街の被害も大きくな
っていた可能性はあります。ですけど葛城さん、あの使徒はもう現れませんよ」
 言外に、これからの話をするべきだと主張する日向の実直さは見通しの暗い現在はあり
がたい。しかしミサトは、その恩恵をあえて無視した。
「確かに、ロンギヌスの槍のお陰でね。でも、似た攻撃を仕掛ける敵が現れたら?今度は
零号機単機で戦うことになるのよ」
「フィフスチルドレン……いつになったら実戦投入できますかね?」
 四日前に弐号機操縦者予備として正式に適格者に任命された少年の出番は、想定よりよ
っぽど早くなりそうだった。具体的な日時こそ未定だが、コアの書き換えが可能になり次
第、渚カヲルはエヴァ弐号機専属操縦者へと昇格することが決定している。
「どうでしょうね……エヴァ6号機が、結局彼のためには間に合わなかったってのは痛手
だわ」
「アスカちゃんが、降りるってことですからね……」
 エヴァの操縦者であることを己の存在意義としていたアスカの未来を思うとやりきれな
いのは日向だけではなく、彼女を知るほとんどの職員が同じ思いであった。しかし、ミサ
トは胃からこみ上げる塊を吐き出すように言った。
「単純に、戦力ダウンってこと。今や事実上零号機のみとなっちゃ、即戦力が欲しい」
「そのための、フィフスでしょう?」
 ――いいえ。ミサトは静かに首を振って、視線をマコトに叩きつけた。一瞬訝しげな表
情を見せた青年も、すぐにミサトの言わんとしていることを察し、ミサトが言うより早く
口を開いた。「例の『調律量産型』と5号機の件ですか。」
「そう、ダミーによる起動を前提として設計された調律量産型エヴァの建造が優先された
ために完成が遅れている5号機は、4号機の反省を活かした上で、S2機関の搭載を予定
していたワンオフの機体でしょう。ダミーによる調律量産型エヴァの統率された戦力は魅
力的だけど、今となっちゃ、5号機の建造を最優先すべきだったわね……」
「そりゃ、確かに……」
「まあ、ないものねだりは言っても仕方がないか……で、フィフスの情報は?」
 こんなベンチで話をしているのは、マコトに調査を命令していたからだ。
「いえ、やはりファーストチルドレンと同じで完全に抹消されています。過去の経歴はま
ったくの白紙ですね」
「ちっ、委員会が直に送ってきた子供が、白紙もなにもないでしょうに、しゃらくさい…
…」
 綾波レイと同様である、というのは委員会、あるいは委員会を組織するゼーレからの暗
黙のメッセージであるように思えてならないミサトの考えが日向にも伝わり、二人の隙間
を緊張が走った。
 ロンギヌスの槍を使徒殲滅に用いた際、レイは一切の疑問もなくターミナルドグマへ降
下、回収している。槍はミサトが本部勤務になる一年前、エヴァの起動実験の一環として
零号機を本部内で移動させたという記録が残っているため、地下のリリスを封印したのは
その時期だという見当はつく。エヴァが零号機しか使えなかった時代、本部にいたパイロ
ットはレイだけだったのだから、碇ゲンドウが機密レベルの高い任務をレイに課していた
のは当然のことでもある。
 その綾波レイと同じく過去を白紙としている渚カヲルが委員会の推薦でネルフへ出向に
なったこと自体、委員会の懐刀であるという彼らのメッセージだとしか思えない。適当に
過去の経歴を作ることなど造作もないことなのに、もはやそれすらない。ミサトは思わず
天を仰いだ。拝みたかった空は偽りの空と落ちてきそうなビルに遮られていたので、苦笑
いで誤魔化した。
 缶コーヒーを煽るミサトを、日向の緊張した声が注意を喚起させた。「噂をすれば、の
ようです」
 ミサトは背中を反らし、日向の背中越しに近づいてくる渚カヲルを確認した。
「ったく、怪談話やヒーローじゃあるまいし……呼ばれて出てくるなんて大した役者ぶり
ね」
 渚カヲルは白く細長い手足を車輪のようになめらかに動かしていた。老人のように釘を
打つような足の運びや衰えた大人の前かがみになった姿勢、安定しない子供の歩幅のそれ
と比べ、彼の歩き方はCGの人物が街を歩く模範映像のような安定感がある。灰色とも銀
色ともつかない髪は昼間の明るい照明の中では透き通るように艶やかであるのが、距離が
あっても一目でわかった。お互い顔を見合わせていたが、ミサトが声をかけるタイミング
を計っている間に、少年が目顔で挨拶してきた。
 あの少女と同じく特徴的な紅い眼の輝きは、出会ったときよりも人間味があるように思
える。眼は口ほどに物を言う、というたとえがあるが、以前の少年はそういった要素が薄
く、それこそCG映像の人間を彷彿とさせる時があった。しかし、今や常に浮かべている
薄い笑み同様、こちらが読み取りきれないだけで、紅い眼には明確な意志が宿っていた。
「こんにちは」
 やや距離があったが、彼の声はよく聞こえた。日向の背中越しに見る姿勢はそのままに
右手を上げる。シンジやアスカにしていたような大人然とした振舞いをするつもりはなか
った。委員会の懐刀に擦り寄る必要はない。使徒殲滅までの付き合いでしかないことは互
いに承知のはずだった。
「今日の訓練はお休みだったと思うけど?」
 日向との間を開けたミサトに一言礼を言った彼は二人の間に行儀良く座り、肩を竦めて
みせた。「残念ながら、住居が破壊されてしまったものですから、しばらくこっちへ」
「いつ?」
「一昨日ですよ。弐号機パイロットが撃ちまくってくれたおかげで。壊れたビルの破片が
マンションに直撃してしまって」
「そりゃ不運だったわね」
「まあ、ほとんど物のない部屋だったので、本と服だけ引っ張り出して、今は本部のB7
ブロック居住区に。銭湯があるのが素晴らしいですね」
「閉塞感あるからせめて、ってことらしいわね。私も泊り込みのときに時々使うわ」
 少年の笑みは素直そうで、無表情が代名詞の綾波レイとは大違いだ。本当にゼーレから
送り込まれてきたある種の刺客なのか、ミサトは己の確信を批判的に考えてみた。彼女の
根拠は場の状況と己の心境、状況証拠にもならない少年と少女の符号に因るものにすぎな
い。罪のない笑顔を向けられるだけで、彼女の疑惑は容易に揺らぐ。
「なるほど、しかしこういった非公開組織が職員に気が利く施設を作るというのは、僕の
イメージとは大分ちがったな。アメリカ支部にはもちろん公衆浴場なんてありませんし。
作ったところで犯罪の温床を作るようなものだ」
「そりゃ、どういう意味だい?」
 青年が自身の純粋素朴さから発した問いに、ミサトは思わず笑みを浮かべた。失笑であ
った。
「僕が銭湯なんて入るのは、向こうじゃ飢えた獅子に生肉を放り込むようなものでしょう?」
 まるで天気の話をするように気軽な調子だった。それはさすがに予想外だったが、きっ
と彼は、当たり前にそんな視線を浴び続けていたのだろう、だからそんな調子なのだろう。
「なにしろ本部にあるような共同のシャワーを使ったら、とても口にできないような類の
視線に晒されましたから。迂闊に眼も閉じられないような」
「ええっ?」
「その上食事も不味かったんですよ、あれは参ったな」
「ま、首の上に乗っかってるモンがリンゴやナスで済んでりゃ別だったでしょうけどねぇ?」
「ちょっと、葛城さん」
 この物言いは青年には同意しかねるものらしい。さっきまでの警戒心はもう失せたとい
うのだから、この少年の害意のなさ自体は本物だ。
「まあそのケがなくとも、渚君に見とれる野郎はいるでしょ。普通いないからね、こんな
子は」
「そうでしょうね」
 少年本人が頷いた。愛想笑いもなく平然と言うさまは、それこそ十五歳にしては格別の
落ち着きだ。これには日向も面食らったらしく「大したヤツだなあ」などと素直に感心し
てしまっている。――骨抜きにされてんじゃあねーわよ。
「ああ、そういえばチルドレンに任命されてすぐ、碇シンジくんと綾波レイさんに会いま
したよ」
「それがどうかしたの?」
 同じ施設で訓練していれば会うこと自体は珍しくないが、操縦者候補生という微妙な立
場だったことからか、仲良くいっていないことはミサトの耳に入っている。強気な態度を
取っていたが、アスカにとっては自分の背後に立つ不気味な存在として映っていただろう
し、シンジは元々自分から交友関係を広げられるタイプではない。容姿の似ているレイは
いつも通りの無関心。せいぜいクラスメート止まりだったことは想像に難くない。ただ、
3号機の起動試験以前は、シンジ、トウジ、ケンスケの輪に加わっていたということなの
で、シンジとは仲が悪いわけではなかったのだろう。ただ、彼がこの度正式にチルドレン
へと任命されたことで、三人目の少年との仲がどうなっていくのかは、まったく想像しか
ねることだった。この少年がアスカの座を今まさに奪わんとしているのは紛れもない事実
だ。
「向こうにあるスイカ畑を一緒に見ていましたよ。あの二人があんなに良さような雰囲気
だとは知らなかったな」
 へえ、と異口同音に日向と二人で感心したが、ミサトの心中は波が立った。
「このへんにスイカ畑なんてあったっけ?」
 マコトが言うのも無理はない。あの畑はどの建物にもつながっていない遊歩道の脇にあ
ってわかりにくい場所なのだ。彼が少なからず愛情を注いでいて、それを託された人間は、
自分以外にいないと思っていた。どうしてシンジが畑に足を運ぶのだろう、しかも碇ゲン
ドウの懐刀のなんぞと連れ立って!
 背筋を冷や汗が伝い、内側からの熱気に寒気を感じた。薄ら暗い塊が下腹部から背骨を
伝ってくる。それは熱した鉄の熱さを帯びながら、北海の奥底を思わせる冷たさを内包し
ており、急速に背骨に絡まりながら首筋に到達した。
 ――この塊は、鬼だ。
 ミサトは少年の些細な一言を契機に生じた塊が、己の本性の一部であると確信した。塊
が、後頭部から喰らいつこうとしている。一度これに喰われてしまったら、あらゆる人間
性が失われるような気がした。
「でも、こんな事はあまり口外すべきではないかもしれませんね」
 渚カヲルが最初のときとおなじく肩を竦めた。今度はよりわざとらしい身振りだった。
日向が苦笑いしながら彼の肩を優しく叩く姿は、ミサトの視界の外のこと。ミサトは己の
後ろの鬼を相手にするのが精一杯だった。
「そりゃ、ぱっと見で判断した事を言いふらすのは良いことじゃない」
「そうですね、気をつけます。彼の様な優しい人間が、優しい故に傷つくようなことがあ
っちゃいけない」
 言葉を一度区切った少年が、恣意的視線でミサトを見据えて、改めて口を開いた。よく
通る声は少年の大きな口からくるものらしいと、はじめてミサトは気がついた。
「そうじゃありませんか?」
 カヲルの紅い眼がまっすぐ向けられた。即答する材料は鬼に喰われてしまっている。昼
間の照明、頸を伝う汗と舌なめずりする鬼の呼吸、そこにまっすぐ見据える紅い眼が加わ
り、回答を待ちわびている。
 その通り、碇シンジの優しさは掛け値なしに貴重なものだ。彼は無知で愚かで臆病で、
故に万物に対して密かに鋭敏に反応する。傷つくのを極端に恐れ、傷つけることを何より
も恐れている。この期に及んで、まだそんな態度のままだ。
 今やそんな時間帯は遥か後方に置き去りにされていることを、誰も彼も自覚しなければ
ならない。ついに再起不能のパイロットが出てしまい、予備人員まで動員しているという
状況だ。そのうえその人員とは、真意をひた隠すゼーレの飼い犬の、今まさにミサトに視
線で問い掛けるこの少年だ。これほどの事態になっているのに、傷つくことや、傷つける
ことをいちいち怖がって、恐怖に負けてしまうのなら、戦いに身を投じる人間としては失
格だ。身を投じさせている人間は言うまでもない。
「そうね、彼は優しい」
 しかし、今や子供が子供でいることを、この街は許容していない。
「それが戦いの時になってもそのままだから、鈴原君を助けられなかったことにもなった
わ」
 アレさえなければ、もう少しすべてはうまくいっていたのではないか。現状を振り返っ
て考えたとき、いつも3号機事件が脳裏に蘇る。自分が実験事故に巻き込まれことで戦闘
指揮を取れなかったことも、もっとうまくできたのではないかという後悔を助長させてい
るのだろう。
 3号機との戦いをしのぎ、あの忌々しい『ゼルエル』にも三機がかりで戦えれば、零号
機の自爆も弐号機の無茶な戦いもなく倒すこともできたかもしれない。
「今はもう戦いの時代だから、彼みたいに子供が子供のままじゃ、場合によっては犠牲も
出る」
「それでは、彼の人間性はどうなります?」
 渚カヲルの紅い眼は、夕焼けの焦燥感を思い出させる色だ。ミサトは今や彼の眼を見据
え、それを理解できた。何故彼がこんな眼をしていられるか、ミサトには見当もつかない。
綾波レイにはないものを彼が持っていることだけが確信として残る。おそらく、ろくでも
ないものを持っているのだという予感もある――獰猛さだ。この少年には攻撃の意志とで
も言うべき、対象を滅ぼすことを迷わないだけの意志がある。
 だが、彼の問い自体は単純で、当たり前だった。かすかに眉をひそめる渚カヲルに、ミ
サトははじめて人間味を感じ、故に肩の力をかすかに抜くことができた。
「そんなの、私達がフォローしてやるっきゃないでしょうが。無理して大人になれる子供
もいることはいる。戦場に身を置いて、物事を割り切れる類の強さを持つ人間も沢山いる。
でももし彼ができないというなら、その彼のまま戦ってもらうしかないし、私たちはそれ
を全力でフォローする。それしか出来ないから」
 先ほどの渚カヲルが取ったやり方で、一度言葉を切って、改めて彼を見据えて口を開い
た。
「彼らへの指揮権を持つ以上、彼らをみすみす死なせない。あの子たちの持つ人格や感性
にケチをつけたり負けた言い訳にするほどヒマでもない。これが、私の答え。あなたの質
問への答えになっているかどうかは、自信ないけどね」
 彼の返答を待つ気はなかった。これ以上の会話が彼を刺激することになっても面倒だっ
た。ミサトは立ち上がり、日向に眼で合図して立たせると、またあとで、と少年に言い、
その反応すら見ることなく本部に向けて歩き出した。
 ――シンジ君も、あいつから託されたってことか。
 それならそれは悔しい。自分だけの特権ではなかったのだ、自分はこんなにも愛してい
るのに。
 そして、素晴らしいことだ。自分には物理的に託される物があった。それ以外にも加持
からは多くを受け取っていた。だからこそ、自分が貰ったように、シンジもまた同じく、
彼の人間性に触れてなにかを感じてくれたらいいと思う。きっとなにかを感じたから、彼
はあそこへ行ったのだろう。おそらくネルフの核心を知る綾波レイと一緒に、というのは
なにやら不思議な感じもする。もしレイが掛け値なしにシンジを気づかって一緒にいたな
ら、それは素晴らしいことだ。
 ――殺伐とした部分は、できる限りこっちが負う。それが一番賢い。
 疲れる結論だった。全てに納得はできない。しかし、仕方がない。不承不承ではあるが、
その引き換えに子供たちが少しでも楽になるなら、頷くしかない。
 ――この道を選んだ以上、それが妥協点かな。
「日向君、これからはもっと忙しくなるわよ」
「願ってもないことです」
 青年の勇ましい返事を背中に受けるのは、悪い気分ではなかった。






「……やあ、おはよう」
 ベンチに座る渚カヲルに話かけ、帰ってきた答えは時間帯を無視した仕事上の挨拶だっ
た。シンジはすこし驚いていた。この少年にそういった挨拶はあまり似合わないような気
がするし、なんとなく、この一つ年上の少年自身もそれを自覚しているものだと思ってい
た。
「もう午後だよ」
 言った憶えのある台詞だった。シンジは暑さの所為でそんなことを思うのだろうかと考
えながら彼の隣に座った。ぴたりと寄せず、間を空けて。姿勢は正面のまま、カヲルが小
さく頷いた。
「なるほど、君の距離感ってやつは、どうも不思議だな。葛城二佐にもそう思ったけど」
「ミサトさん?」
「うん、さっき少し話したんだけど、不思議な人だね」
 ミサトに対して“不思議”という評価は初耳だったので、首を捻った。それをカヲルが
じっと見ていたので、シンジは芝居がかった仕草だったと反省し、正面を向いた。細かい
部分での補修が手つかずのネルフ本部には戦いの匂いが残っていた。
「悪い人じゃないとは思うけど」
「そりゃあそうさ。僕はトウェインじゃない、人間が根っから悪だなんて思わないよ。概
ね人間は臆病だからね。悪いことすらできやしない。だからと言って、もちろん善い行い
を進んでする者も同じくらい稀だ。人間は群体としての名残か、そういう自発的行動だと
か自分ひとりで行動を起こすことを基本的には避ける生き物っていう可能性がある」
 渚カヲルは大きな口を淀みなく動かす。それはいつものことで、そして彼はおしゃべり
だった。おそらく、自分の関心事であったら五分くらい平気で喋りっぱなしでいられるの
ではないか。シンジにとってはそれだけで理解の外にいる存在だった。アスカも似たよう
な部分があるが、カヲルほどではないし、アスカは基本的に自分の話をする。しかし、カ
ヲルの話は主語が実に様々で、飽きることがない。
「しかし不思議だね。いや――宿命かな?こうして君と二人で話すことになるのは」
「そうかな」
「そうさ。第一、ホラ、僕たちは特別仲良しじゃなかっただろう?」
 シンジは首をまた正面に戻した。カヲルと仲が良くないのは確かだった。仲が悪いわけ
ではない。複数人で話す場合にシンジとカヲルが一緒の輪にいることはむしろ数多くあっ
たが、なんとなく二人きりでは話をしなかった。所詮はただのクラスメート、所詮はパイ
ロット“候補”にすぎないと、もしかしたら、思っていたのかもしれない。避けてはいな
いが、近寄れない。ネルフに所属するカヲルの個人的な心境や気構えを聞く機会がなかっ
た――また、その機会を進んで作ろうという気分にはならなかった。自分が戦場に赴くこ
とを同情されたくもないし、励まされるのも癪。絶妙と言えるほど距離感が取りにくい仲
間。
「でも僕がフィフス・チルドレンに任命された途端にこうしてばったり出くわしもするし、
話もできる。もしかしたら、前までだったら立ち話で済んでいたかもしれないのにね」
 それは図星だった。視線は地面へと落ちる。そのことが渚カヲルにとってはまったく予
想外のことだったらしい。足音を聞きつけた真夜中の野良猫のように首をめぐらせた彼が、
「べつに今のは君を責めているわけじゃあないんだ、ただ、なんというのかな」
 カヲルの困り笑いは曇天模様の下で咲く朝顔を思わせた。彼が困る姿の、なんと不釣合
いなことか。今度はシンジが困ってしまった。ただ、シンジの方がよっぽど状況を誤魔化
す演技や表情が稚拙で、露骨に眼を泳がせてから笑みを浮かべた。隠せない本音。
「やはり、僕と君を繋ぐ糸は、どんなに複雑に絡まっても途切れてないということを思い
知ったというのかな」
 困り笑いの末の言葉にしては突拍子がなく、シンジのわざとらしい笑顔は薄いガラスの
ように粉々に砕けた。正直に言って、渚カヲルのこうした言い回しがこれまでは苦手だっ
た。今は理解するのに時間がかかるだけで、うんざりすることも不快にもならない。だが、
言葉の意味はわかっても、意図を理解できない。作った表情が壊された、と感じた。
「あるいはそうだな、僕は今まで自分という存在が、傍観者という宿命を負わされている
ものだとばかり思っていたんだ。なにしろずいぶん早く、そして久しぶりにこの舞台に立
てそうだったのに、できることなんて眺めることだけだったんだから。でもどうやら違う
らしい。杞憂に終わったと言うべきかな、実際、すこし淋しい気分だったんだよ、本来で
あれば僕はもっと自由な意志を持てていた気がするし、その意志に基づいた行動を取れて
いたんだ。それがどうだろう? この数ヶ月、ただひたすら舞台袖から君たちを見ている
ばかりだった。まさに傍観者か記録者の気分さ。それが今回の僕の役割なのかと思ってし
まうくらいにね」
 でも、違った――僕はそれが、とても嬉しい。
 彼はそうしめくくり、自分がひとりでずいぶん喋っていることにようやく気づいたとい
う風に一瞬呆けると、ごめんごめん、と一転して軽い口ぶりで付け加えた。
「これじゃあもっと困らせるだけか。どうにも、よくないな……らしくなく、高揚してい
るんだ」
「エヴァのパイロットに……『5番目の座』についたから?」
「ずいぶん古い言い回しをするんだね」
「え?そうかな……」
 シンジは素直に首をかしげて、景色を斜めにした。確かにカヲルの言うように、誰も今
の言い方は一度もしていない。だったら、どこの誰から聞いたのだろうか。
「今は僕らみたいな子供は適格者だとか、チルドレンと、そう呼ばれているじゃないか」
「そうだ、そうだよね。なんだか、おかしいな、誰かが言っていたんだけど」
 ネルフのどこで聞いたのだったか、いまひとつはっきりとは思い出せなかった。その言
い回しを聞いた部屋はずいぶん天井も大人も高かった、という景色だけが脳裏から目の奥
にちらついた。
「ごめん、思い出せないや」
 謝った途端、カヲルが首を振った。その動作は、あまりに淀みなかった。
「どうやら君は、やっぱり君だ。僕が知っているいくつかのことを憶えているという点で
は、多少なりとも通ってきた道程はちがうのかもしれないけど、それは些末な事だ。相変
わらず『3番目の座』に、おっかなびっくり座っている。君は気分を悪くするかもしれな
いけれど、僕は君がパイロットでいることを、心から嬉しく思うよ、ごくごく僕の都合か
ら勝手を言えばね」
「僕がパイロットで? どうして?」
 カヲルが日々訓練に勤しんでいることは知っている。だったら、素人臭さの抜けない自
分がパイロットでは不安でいっぱいのはずだろうと思っていた。それが普通だ、ましてや
彼自身の実戦自体はこれからようやくなのだ。それなのに嬉しい、と言う。
「それなら僕も、納得できることが増えるからね」
「あんまり、答えになってないよ、それ」
 思うままの感想だった。
「そうかなあ。うん、そうかもしれない。でも今は、こう答えるしかないんだ、わかりづ
らくて申し訳ないけど」
 肩の力を抜く仕草を見せたカヲルが足を投げ出した。だらしない座り方でも、彼のそれ
は長く細い手足を引き立てることにしかならないことをシンジは知った。
「シンジ君、僕らはね、あくまできちんと自覚しないといけないんだ。自分の意志を前提
として生きることが当たり前じゃないんだ。誰かの都合次第で僕らはいくらでも死の選択
を迫られる。そんな中、命を投げ出すのが怖くないって人が隣にいてごらんよ。もしかし
たらそれで勇気か、蛮勇というものを分けてもらえると思う人間もいるのかもしれない。
ただ僕はそういう人間ではなくてね。命懸けの役割を背負う仲間は、死ぬことも死なせる
ことも怖がる人間でいてくれた方がいいんだ。その方がずっと戦うことにも、死ぬことに
も納得できる。なんとなく、わかってもらえたかな?」
「うん」
 実際にカヲルが意図していることの、おそらく半分も理解できていないのだということ
を自覚した上での即答だった。すると紅い眼がぱっと輝き、彼はそのつもりはなかったけ
れど思わず、という風に吹き出して声に出さずに笑った。昼間の照明に良く似合うように
思えた。あの黄昏時の照明の中で佇む姿は強烈極まりないものであったために、小刻みに
笑う姿は、あの時よりもずっと子供っぽく映った。
「あの、渚君」
「ん?」
「アスカはさ……弐号機をすごく大事にしているんだ。だから」
 弐号機のパイロットになるかどうか、まだわからないうちは、大人しくしていて欲しい。
それは本音の一部。しかし、自分と一緒に戦いたい、と言ってくれた人への失礼になる。
いずれにしても天邪鬼だ、こんな時にそんなことを言うなんてばかげているのはわかって
いた。少年が笑ってくれなかったら、どんな気分になっていたかわからなかった。
「そうだねえ。どうなるかはわからないよ、僕にも。建造中の伍号機が間に合えば全員揃
う。僕としても、それが一番望ましい。すこし、軽率な言い分だったかな」
「そ、そんなことないよ! すごく、嬉しかったんだ、その……そんな風に思ってくれて
たなんて、知らなかったから」
「そうかい? まあ、そうかな。でもパイロット同士なんだから当然だよ。あの綾波レイ
だってさ、いざという時には君を守ろうとしているじゃないか」
 呆けてしまった。意外なところでレイの名前が出たと思ったためだと気づいたらしく、
逆にため息をつかれてしまった。
「おやおや! 鈍いな君は」
「な、なにがだよ」
「彼女は色んなところで君に気を遣ってるじゃないか。3号機事件だってそうだ。零号機
が背後から撃てなかったのは君の友人だったからだ」
「そんな……綾波は、そんなこと」
 一言も言わなかった、戦闘後、同じ謹慎室に入れられた時も。
「言わないだろう、君なら言えるかい? あなたの友人だったので撃つのを迷いました。
使徒殲滅より一人の人間の命を惜しんで、そのために檻に一緒に入ることになりました、
なんて」
 それはそうだ――あの時のレイは黙っていたからわかなかった。
 だから黙っていたのだとは、気づかなかった。
「まあ、人の優しさにいちいち注釈をつけるなんて、僕の趣味からはずいぶん遠いから…
…ただ、失礼ながら、君はもう少し自分の周囲の状況を理解したほうがいいと思うよ、碇
シンジくん」
 首をかしげると、少年は肩を竦めながら軽いため息をつくという、芝居がかった仕草を
見せた。
「他人が自分とちがうからって、ほとんど皆、それを気にしてないってことさ。眼を合わ
せる気のない連中のことを、気に病んでも仕方がないよ」
 ますます意味不明な言葉だった。他の皆とちがう環境、それが生んだ心境を背負うシン
ジを、これまでずっと、誰もがどこか避けていた。ここに転校した当初だって、みんな遠
巻きにひそひそ話、誰も彼もが目を合わせない。目を合わせたのは、自分の下手糞のせい
で妹が怪我をしたトウジだけだった。そして、ああ、畜生、そして――あのとき目を逸ら
したのは、間違いなく自分からだった。
 カヲルが立ち上がり、それじゃあまた、とだけ言い、颯爽と住居ブロックの方角へと歩
きだした。今はもう上の街に住んでいたはずだったので不思議だったが、なにか別の事情
ができたのだろうかという疑問がかすかに浮かんだ。
「どこへ行くの?」
 シンジも立ち上がった。立ち止まり、振り返ったカヲルとは手を伸ばしても遥か遠く、
歩けばすぐの距離だった。その絶妙としか言いようのない距離感に鳥肌が立った。これを
象徴という以外の名でが呼ぶことが出来るだろうか。
「弐号機のライフルの余波でめちゃくちゃさ。またしばらく、こっちに厄介になるんだ。
基本的に訓練以外は暇だから、いつもで来てくれていいよ。というか、ぜひ来て欲しいね」
「何号室?」
 ネルフの住居施設は勤務レベルC9級以上が使えるが、そのレベルによって居住区が異
なる。総数で四〇〇を超える戸数があるため、ふらりと行くにはあまりに広大であった。
また、今のカヲルの勤務レベルは見当もつかなかった。なにぶん彼は未だ中途半端な立場
である。
「この度A6級に進級したのでね。四号棟の二号室にいるよ、四〇二号室」
 ――なんて偶然!
 確信を持てないまま頷いた。「いつか会おう」「また今度」そういう口約束が苦手だっ
た。日時が決まっていない約束は先伸ばしになればその分自分を苦しめることになる上、
その苦しみが短期間で済んだ記憶はない。

「待っているよ」

 照明に溶ける笑顔で少年が歩き出す。携帯電話を取り、時間を確認したシンジは訓練の
時間が迫っていることを知って、足早に施設に入った。シンクロテスト開始まであと四〇
分。
 昨日から家に戻ってこなかったアスカも、シンクロテストとあればきっと戻っているに
ちがいない。それを確かめるためにも早めに来たつもりだったのに、どうやら居たとして
も会えるのは着替えた後になりそうだった。
 実験場の管制室に入る前にプラグスーツに着替える。戦術を聞いてからユニフォームに
着替える野球選手はいないのでこの順番は当たり前のことだが、今日に限って言えば集合
が後回しになることがもどかしかった。洗浄室で身体を清潔にした後、プラグスーツを着
込んで収縮ボタンを押した。なんとなく、昔の家電製品にあったような電源コードを巻き
取るボタンを押すような気分になる。
 アスカの事を考える一方、半分はあの紅い眼が焼き付いて離れない。思わずため息が漏
れた。シンジは長椅子に腰かけ、両肘を足にかけ、頭を垂れた。首筋に妙な緊張感が居座
っている。その割に神経は散漫だった。包帯を巻かれて片方しか見えなかった綾波レイの
眼を見た時と同じだった。他の皆が同じ気分になるかどうかはわからないが、意識して切
り替えないと、気分がぼんやりしてしまう。頭の中が彼で満たされてしまいそうになる。
(綾波で慣れているはずなのに?)
 渚カヲルは同じような現象を起こさせた。首を振った。あの印象的な眼の光にあてられ
て、それ以外のことが考えられなくなってしまう。
(綾波と同じ……? でも、ちがう。渚君は綾波じゃないわけだし。)
 味わっているこの感覚に名前がつけられないことがもどかしい。
 左手のデジタル時計のアラームが集合五分前を知らせた。アスカのことを考えていたは
ずが、渚カヲルと綾波レイのことにスライドしている自分を呪いながら慌ててロッカール
ームを出ると、紅い眼の少女が同じタイミングで隣から出てきた。
「……おはよう」
 レイの挨拶はいつも同じだ。シンジもネルフでは最初に会うときは「おはよう」と皆が
言うのにようやく慣れてきたので、先日レイの部屋で聞いた「おはよう」より自然に耳に
通った。レイに会うのは先の戦闘以来だった。あの戦い以来レイの部屋へは行っていない。
気まずくなったから行かないで知らんぷりとはあまりに都合が良すぎると思ったことが、
思わず彼女から目を逸らさせた。
「おはよう。なんか、久々な感じするね」
「一昨日に会ったわ」
 ――でも、それまでは毎日会ってたじゃないか、僕たち。
 さらりと返答してみせるレイへの反発心が生まれる。それとも、もしかしたら迷惑だっ
たのだろうか、部屋へ行っていたことは。反発が疑惑に変わり、感情が瞬時に膨張してい
く。内臓が体温を押し上げていく感覚。誤魔化すために慌てて歩き出しながら訊ねた。
「アスカは?」
「いないわ」
「そう……どこへ行っちゃったんだろう」
 もちろんレイがそれを知っているはずがないし、彼女に訊いたわけでもない。思わずつ
いて出ただけの言葉だった。しかしレイはそれにも律儀に、それも驚くほど素早く返事を
した。
「知らない、関係ないもの、わたし」
「関係ないって、アスカのことだよ」
「だから知らない、わたしのことじゃない」
 そりゃそうだけど、と食い下がろうとしてやめた。どだい、レイが他人に無関心なのは
承知しているつもりだった。自分を部屋に入れてくれていたのも、結局は彼女のその無関
心さが為せる技ということなのかもしれない。本当は、別の期待をしている自分がいる。
呼吸に似せたため息を漏らし、早足でレイを置き去りにした。
 気分は逆だった。
 レイの部屋にいて、自分が音楽を聞いている最中にレイが眠り込んでしまうことが二回
あった。一度は顔をこちらに倒して、一度は背を向けて。寝顔を見ることになるとは思わ
なかったが、なんとも思われていないにしても酷い仕打ちだった。もう一度は寝顔を見ず
に済んだが、白い脚が露になっていて、最初よりよっぽど慌てたのは記憶に新しい。その
時はさすがにその脚に夏掛けをかけた。今まで感じたことのないほど強い衝動と格闘しな
がら、やっとのことで。
(そうやって一人で騒いで、帰ってみたらアスカはいない。ミサトさんもほとんど帰らな
くなっている)
 ――なんて有様だろう。
 かと言って、ミサトとアスカとの三人暮らしを改善させる術などまったく思いつかなか
った。砂場で作った城のようなあの家のことを忘れさせてくれたのがレイだった。嫌でも
膨らむ正体不明の期待はしかし、勇み足も甚だしいということらしい。疑惑は苛立ちへと
堕落し、シンジはレイを引き離すように早足で管制室へ入った。内心の予想通り、赤いプ
ラグスーツの姿はなかった。
「おはよう、シンジ君。今日は珍しくぎりぎりじゃない」
 メンバーが足りないのはとうに知っているはずのリツコが変わらない笑顔で迎える。状
況に応じて機嫌をころころ変えられても困るが、大したものだと感心してしまった。自分
が大人になったとき、それこそあの男やこの人のように鉄面皮でいられるとはとても思え
ない。嘘にも本当にも弱い自分にそんな安定感など、とても無理な相談だと。
「あの、アスカは――」
「学級員の洞木ヒカリさん。彼女のところにいるらしいわ。あなたたちは心配しないで」
 それに、今のアスカに無理強いはさせたくないの、と付け加えられ、納得がいった。エ
ヴァの訓練をアスカが放棄するのはもちろん普通ではないことだ。体調不良でも、実施を
熱望する――訓練中とその後の愚痴が倍になるが――それがこれまでのアスカだった。そ
ういう気遣いに基づいての欠席なら当然かもしれない。レイが部屋に入ってきた。少し時
間がかかりすぎていた気はしたが、なにも訊かずにリツコが切り出すのを待った。
「では、よろしいかしら」
 ミサトのときは必ず当番制でパイロットからの「揃いました」の号令ではじまる。リツ
コはそうした儀式を重んじないらしいが、切り出し方はいつも同じ、今の言葉からはじま
る。
 シンクロテストの内容はいつもと同じだった。最初はフラットな状態でエヴァとシンク
ロする。その後に管制室から接続回路を順次制御され、その中でシンクロ率をキープする
訓練。シンジはいつも回路を減らされはじめてからの数分間、極端と言っていいほどシン
クロ率が低下してしまう。明るい部屋を急に暗くされてから目が慣れるまでに時間がかか
る様に、一度邪魔が入ると立て直す時間を必要とする。訓練の量が他の二人に比べて絶対
的に少ない証拠だ。
 綾波レイにはそういったブレがほとんどない。元々のシンクロ率は63%前後で、お世
辞にも高いとは言えない。カヲルが来た当初アスカが良く「これでただの優等生になれる
わね」とからかっていたが、実際シンジも、渚カヲルの見た目も手伝い、彼をレイの後釜
だと考えていた。
 しかしレイはいかなる状況においても最高値と最低値の落差が最悪でもプラスマイナス
2%をキープする。シンジは最高値と最低値のバランスが悪く、10%以上の落差も珍し
くない。アスカは長年の訓練の賜物で、シンジよりはずっと安定しているがレイと比べる
とやはり相当分が悪い。
『ラミエル』との砲撃戦では射撃だけに集中できる環境で撃てたことと、零号機が未調整
だったことからシンジが砲撃手を務めたが、結局二射目はエヴァが負った両手足の負傷を
軽減するために神経接続をカットしたせいでシンクロ率が下がり、誤差修正に時間がかか
ってしまった。零号機の機体が万全なら、シンクロ率を落とすことのないレイならばもう
一秒近く早く撃てたという話を以前どこかで耳にした。それほどレイの安定感は図抜けて
いる。エヴァを「みんなとの絆」と言っていたほど信頼しているのは偽らざる本音なのだ
と、その時改めて思ったものだった。
 そしてやはり今もそうなのだろう、彼女の先刻の態度からして、エヴァこそが彼女にと
って唯一にして最大の関心事。他人のことなどどこ吹く風だ。
 あるいは、あの男も関心事か。碇ゲンドウ。
(畜生)
『シンジ君、ノイズが混じってるわ、集中して頂戴』
 リツコの容赦ない指示が届く。考えていることが文字で表示されるようになる日も近い
のかもしれないと、こういう時には思う。エヴァに乗って世界を救う。そのためには人間
性すら容易く否定される。
 なにしろ、エヴァを乗っ取った使徒を、エントリープラグに乗っていたパイロットには
構わず殲滅せよ、という命令が出るくらいだ。目的のためなら目の前にある命はひと山い
くらで勘定され、しなびたら即座に叩き売りにされる。
 こんなところで、こんな街で、誰が幸せに暮らせるのだろう?
『シンジ君、さっきからどうかしたの?』
「……いえ、すみません」
 これまで通りにやるために眼を閉じた。何も見えなければ、聞こえなければ何も感じず
に済む。あれやこれやと考えていたら、大事なものまで余計に壊れてしまうのだろう。知
らなくていいことまで知ることだってあるだろう。それこそ、レイの関心事はエヴァとあ
の男だけだと思い知らされるように。
 風雨に晒される思いだった。目を閉じたくらいで、耳をふさいだ程度で誤魔化せるだろ
うか、綾波レイを思う心は。
 すでに芽生えているのに。
 しかし、目を閉じていないと、もっとたくさん服を着てしゃがまないと、凍えてしまい
そうだった。あるいはもっと日陰へ。陰へ!
 建物を出てすぐに陽射しを浴びた時に似た焦燥感を背中に味わった。この光に内側まで
満たされてしまったら、きっとぼろぼろに乾いて死んでしまうにちがいない。
 呼吸を深くし、満たされていたLCLが少しずつ交換される。それに伴って少しずつ意識
をエヴァへと向けていった。最近感じるようになった、意識を深くもぐらせたときの柔ら
かい感触と匂い。その感覚に己を近づけていく作業は苦ではなかった。
 それから二〇分間シンクロをつづけ、三〇分の限定接続訓練。それが一通りのメニュー
だった。
 訓練前にリツコから説明を聞くまですっかり忘れていたが、その後には機体交換試験も
あった。レイが『ゼルエル』との殲滅戦の際に初号機に拒絶されたことを受け、シンジと
零号機の相性を再確認するということらしい。また、レイも再び初号機とのシンクロテス
トを行う。ただし、安全のため最初から接続を限定した状態でシンクロを開始するという
条件付だった。限定された状態でも安定したシンクロ率を確保できるレイにしかできない
方法である。
 エントリープラグを出て、レイと乗り換える際にブリッジですれちがったが、彼女はい
つもの顔で通り抜けていった。そよ風だけが残った。
 耳をやられた。
 ただでさえレイが乗った直後の零号機は、シンクロした瞬間からレイがいた空間である
ことを肌で感じさせた。先ほどまで刻まれていたリズム、規則正しい呼吸の残り香の所為
で、いくら呼吸を整えようにも、自分のリズムを刻むのは困難を極めた。
 レイのシンクロテストが順調に進んでいることがサブ・モニターに文字情報で表示され
ていた。ただしシンクロ率13%という、起動指数のほぼライン上での起動である。そこ
まで接続を制限しての起動は安定感のないシンジからすれば神技に等しい。接続口を少な
くされると、たとえばシンジはシンクロするのにも通常の何倍もの時間を必要とする上に、
精神的負荷も大きくなる。レイとエヴァとの相性の良さは、信頼関係や長年の訓練で成立
している――そんな程度では説明不足に思えるほどだ。
 オープンにしてある音声から、マヤが手放しで賞賛している声が入ってくる。そのノイ
ズが逆にシンジのシンクロを助けた。レイを忘れて零号機自体を感じることができたから
である。
 零号機ではこれまで三度の起動試験を行ってきたが、エントリープラグ内に漂うレイの
匂いを除けば、あまり違和感を感じずにシンクロすることができた。ただ、ある地点以上
には踏み込める気がしなかった。その感覚はそのままシンクロ率に反映され、数値は初号
機よりも20以上低い。それでもレイと同等とはいかなくとも、大差ない数値を出せるこ
とが、エヴァの操縦に関して密かに胸を張れることのひとつだった。少し前までは。
(エヴァにうまく乗れたからって、それが幸せにはならない)
 なれそうもない。それは確信に近い領域で感じている。
 また余計なことを考えはじめたことを悟られ、リツコから再度注意を受けた。肺のLC
Lを重苦しく感じる。再度集中し、零号機の気配を探した。
 一度は探り当てているので、二度目は比較的容易かった。時間にすればほんの数秒だろ
う。そしてこれも毎度のことだが、気配を探し当ててからの先が見えなかった。まるで目
の前に黒く高く冷たい壁が聳え立っているかのようだ。この感覚に怯えてはならないとわ
かってきたのは前回あたりから。最初の暴走事故のことは憶えていないが、怯えては同じ
ことを繰り返してしまうという確信はある。それに、零号機に乗って感じるものに怯える
のは、いつも乗っているレイを馬鹿にした行為ではないかという気もする。だからせめて
その壁の側に立つことを心がける。それでようやく、ある程度のシンクロが可能になる。
 今日もそうやって壁を感じながら距離感を維持していたが、ふと壁の向こうに気配を感
じた。はじめてことだった。
(誰かいるの? この先に)
 扉に、記憶の限りでははじめて触れてみた。金属が持つ独特の冷たさを感じたが、感覚
を失う冷たさではない。右も左も限りなく長い壁の脇を、ゆっくり歩いてみる。壁の向こ
うの気配は一定で、広大な領域は決して荒廃していないのだと窺い知ることができる。前
回からの約二ヶ月の間に、零号機に何があったというのだろう。シンジは自覚的に、息継
ぎをする素潜りの漁師のようにゆっくり肺のLCLを交換し、もう一度壁を歩き出した。
 ある地点で、壁の向こうの気配が変わった。壁をそっと押してみる。黒く高く冷たい壁
は、実は扉だった。継ぎ目も見えないその小さな扉は、シンジに向こうの景色を見せた。
 正面に、どこかで見覚えのある後ろ姿がいきなり現れた。その後ろ姿以外のすべて、景
色も地面もまどろむように歪んでいた。時には学校の床であったり、ネルフであったり、
土であったりアスファルトにもなった。それはどうやら綾波レイの見ている景色を、時系
列を無視したものらしい。また、見覚えのある背格好の後ろ姿も制服姿がほとんどで誰だ
かわかりづらかったが、時折青いプラグスーツに変化することで、碇シンジが歩いている
姿であることを知ることができた。確かにアスカと三人で歩く時など、レイは一番後ろに
いることが多い。それでも最初に出てきた人間が自分であること、しかし所詮後ろ姿であ
る所為で、捉えどころのない景色に思えた。
 扉の先にそれ以上踏み込むには勇気以外のなにかが必要だった。それが何かは見当もつ
かない。
 明白なのは、すぐ近くにいる自分が、綾波レイの見る自分だという、それだけのことだ。
(よりによって、こんなときに、こんなものを)
 今日は人生の中でもとりわけ最悪に近い日にちがいない。他人の、それもレイの見る自
分など、見ても絶望するだけに決まっている。扉を閉めたい衝動に駆られたが、それより
もかすかに卑近な興味が勝った。
 後ろ姿のシンジは歩いていた。距離が遠くならないのはレイも歩いているからだろう。
レイの中のシンジが足を止めると、右側に急に映像化された扉を開き、入っていった。
 レイの中のシンジが扉の奥へ消えると、急速に景色が固定化された。ネルフの中の見覚
えのある景色だった。シンジの入った扉の手前に出来た扉も開き、部屋に入った。部屋の
景色で、ようやくそこが更衣室だとわかった。
 再び景色は虚ろになり、今度はすぐに固定された。病室だ。景色を見ているシンジの目
の前にベッドが現れた。ベッドにはおとなしく眠っているシンジ自身がいる。何度かあっ
た気がする景色。ただ、普通の病室に、服を着てレイに会ったのは一度だけ。『レリエル』
の虚数空間に閉じ込められた後、救出された時だけだ。
 自分自身を客観的に見るのはおかしな感覚だった。普通の人間が絶対に叶わないことを、
零号機を通してレイの視点を得て実現している。しかし風景はレイの影響を受けているの
で、見てはいけない景色のような気がしてならなかった。小説の中で超能力者が己の能力
を嫌悪する気持ちがよくわかる。不可侵であるはずの領域に易々と踏み込むのは、恐ろし
いことなのだ。
 背筋が薄ら寒くなり、扉を手前に引き戻した。引き戻した瞬間景色は再び変化し、草木
が見えた。青いシャツを着た背の高い男が見えたと同時に扉が閉じて、継ぎ目がなくなっ
た。
(今のは――加持さん?)
 一体どうして。その呟きは声になって出ていた。
『シンジ君、どうかした?』
 再三にわたるリツコの神経質な声。それだけリツコも機体交換試験には神経を使ってい
る、ということか。シンジはようやくリツコの注意が安否を気遣うものだと思うことがで
き、そのため、それ以降は意識を沈ませすぎず、順調にテストを行うことができた。限定
接続での試験は行わないため、この試験はすぐに終わりを告げた。
 エントリープラグを出てデッキに下りる。肺から出したLCLの匂いがまだ残っている
ため、呼吸する時は血の匂いがする。初めての体験に疲れているせいだろう、慣れている
はずの血の臭いが不快で仕方がない。
 奥の実験棟から出てきたレイと顔を合わせる。そういえば二機同時に試験を行うのは初
めてだったということに、今はじめて気がついた。説明を受けたかもしれないが、それを
憶えていない。自分に関心のないらしいレイに絶望していたためだ。
 レイと一緒に戻るのは厚顔無恥も甚だしい気がしたが、シンジは待った――動けなかっ
た。エントリープラグを下りて近づいてくるレイの濡れた髪に白い肌、なぜか伏目がちの
赤い眼に「動く」という選択を奪い取られていた。奪われることを望んだ。
 レイとの距離が、手の届かないすぐ側まで近づき、止まる。またもこの距離感。
 目を合わせた。
 レイが逸らし、目の前をすれ違った。背中の奥へと再び遠のく。
 ――視線を奪った罰か。
 そうだとしたらあんな扉を開けたことが、見つけたことが過ちだったのだろうか。今ま
でになかったものを見つけて、罰せられるなんてことがあるとは。
「畜生」
 聞かれないように呟いて、レイとの距離感を一定に保ったまま管制室に戻った。タオル
でスーツと髪を拭いただけで戻るのはいつになっても気が引けたが、今日はさすがにそれ
どころではなかった。リツコの総論は概ね良しということだったが、実験をスムーズに行
えなかった原因になったシンジの集中力不足は指摘された。赤木リツコという人が結果論
を嫌っていることは、このおよそ半年の付き合いで理解している。
(いつだったか、意味のある失敗なら歓迎したいって言っていたっけ)
 解散後、足早に管制室を後にし、プラグスーツを荒く脱ぎ捨てたままシャワー室に駆け
込んだ。いつもはぬるま湯のシャワーだが、今日は熱い、とても熱い湯を被った。全身を
ちくちくと細かくしつこく刺す痛みを、熱さですべて消し去るために。
 結果を得られないシャワーを早々に諦めて、着替え終える。プラスチックの長椅子に腰
を落とし、零号機の中で見た風景を思い出した。あれは確かにこの更衣室に入るシンジ自
身の姿だったが、どうしてあれが最初の景色だったのかが不思議だった。
(綾波はどうしてあんな僕を――いつの僕のことだろう?)
 少なくとも、彼女にとって印象に残らない風景ではなかったはず。それならあれは、い
つのことだろう。
 思い出しても、見えていた風景は(自分を客観視している以外)すべてネルフのいつも
の様子で、いつのことか見当をつける材料がない。
「もしくは僕といったらネルフで一緒になる人、っていう程度ってことだ」
 もしそうだとしたら、とてもじゃないが冗談で済まされない話だ。
 ただもやもやと考えていても仕方がない。もしかしたら、アスカが今ごろ帰ってきてい
るかもしれない。もしそうなら早く帰ったほうがいい。必死で嫌な考えを振り払って更衣
室を出た。
「……ってことさ」
 扉を開いた瞬間に声が聞こえた。防音設備に呆れながら急いでドアを大きく開けると、
自販機に寄りかかって清涼飲料を飲む渚カヲルと、ベンチに座るレイがいた。
 よく似た二人の姿は、疑惑を爆発へと導いた。
 今日何度目かもわからない下品な言葉を吐き出そうと口が開きかけた。
「碇くん」
 レイの反応が一瞬勝った。その声に口の形は融解し、その様子を見たからとしか思えな
いタイミングで、渚カヲルがやはり声に出さずに笑う。その笑いに顔が熱くなった。
「君たちは本当に楽しませてくれるね」
「……どういう意味?」
 赤くなった顔をごまかすためにドアを閉めながら訊くと、そのままの意味だよ、と即答
されてしまった。なんとなく攻撃の糸口を見失い、肩を落とした。緊張感がほどけたから
か、落胆からかは自分でも判別がつかなかった。
「なにを飲んでいるの?」
「リアルゴールド」
「マニアックなんだね、意外と……」
「そうなのかい? 確かにあんまり見ないな。でも考えてみなよ、『リアルゴールド』だ
よ?どんな味か興味をそそられるじゃないか」
「おいしいの? 僕、飲んだことないんだ」
「んー、どうだろう……美味い、不味い、で評価すること自体が間違っているような飲み
物の気がする」
 言い得て妙な回答だという気がする。
「それでもどっちかって言うと?」
「瀬戸際だねえ、どちらに立っても」
 ――でも、好きな人もいそうだなあ。カヲルが缶を捨てると同時に結論付けた。概ね世
間的な見方と同じであることが、彼の人間味の証明のように感じられた。
「ま、それはどうでもいいことだ、今は。それより僕は眠い、さっさと退散させてもらう
かな」
「えっ」
 一緒に帰らないの? と言いかけ、やめた。態度をころころ変えるやつだと思われそう
だし、そもそもこの少年は居住ブロックに住んでいると言っていたばかりではないか。そ
れなら地上ルートを取る自分たちとは最初から方向がちがう。
「じゃあね、シンジ君、綾波レイ。また明日」
 少年が自分たちと反対の帰り道を戻っていき、足音も聞こえなくなると、自販機の音し
か自己主張するものはなくなってしまい、取り残された気分だった。
 レイになんと声をかければいいのだろう。目をそらされてもまだ声をかけたいなんて、
いくら呆れ返っても足りないが、顔を上げたレイにまっすぐ見つめられ、迷いを振りほど
いた。
「……帰ろう」
 帰ったところで居心地が悪いのはわかっている。それでもこんなことが言える大嫌いで
愚かな自分から、レイが眼を逸らす。
 そして、ただ小さく頷き、立ち上がった。
 並んで静かな廊下を静かに歩く。今日この時ほど自分の口下手さを呪ったことはなかっ
た。自販機の音すら恋しく思う。この階層にはチルドレン以外あまり出入りする必要がな
いので、誰かに会うことはほとんどない。雑音は欲しいが、視線は邪魔だ。
 エレベーターはシンジたちが上がってきた時のままだったのか、ボタンを押した途端に
開いた。押したのはレイだった。シンジは開くドアに手を添え先に促した。
 エレベーターの階数表示はダイヤル式で、切り替わるごとにスチールの音色が箱に響く。
眠れない夜の秒針と同じ役割を果たす音だった。ドアの目の前に立つレイに、後ろ姿を眺
めていることに気づかれたくなかった。仕方なく脇の壁に寄りかかる。十数回目の乾いた
スチール音が鳴り終わった時だった。
「エヴァに、心を開いているのね」
「えっ?」
 レイが喋ったことと、その内容に声を上げた。
「初号機の中に碇くんの感覚が残っていたわ」
「でも、前もそういう感じがするって、そう言ってたじゃないか」
 その都度恥ずかしくなっていたのだから、忘れようがない。
「その前までは、匂いがしただけだった」
「それとはちがうの?」
 返答はなかった。レイが俯き、かすかに後ろを向いた。視線の端にシンジが映るかどう
かも疑わしいほどその仕草はごく僅かで、髪の毛を揺らすことにしか役に立っていないよ
うに感じられた。
「エヴァの中なのに、碇くんが、すぐ近くにいるような感じがした」
 エレベーターが目的の階で止まり、ドアが開いた。エレベーターを下りたレイが、淀み
なくゆっくり身体を横に開いた。シンジの方を向くためにゆっくり後ろに引かれた左脚は
白く、細い。
「あの中に、わたしがいた気がした。碇くんが見るわたしが」
 レイの言葉に嘘がないことは誰よりもシンジ自身が保証できる。しかし、同じ体験をし
たからと言って、それをどう捉えるかは様々だ。自分のように理解できずに困っているか、
それとも気味悪がっているかもしれない。呼吸も忘れた。
 こんな時に、どんな顔をしていればいいのだろうか。どんな仕草を……どんな言葉を?
「――ありがとう」
 レイの声を合言葉にしたかのようなタイミングでエレベーターが閉まりかけた。慌てて
ボタンを押して外に出たが、驚いたことに、合わせ鏡のようにレイが同じ反応を見せたこ
と。ドアから手を離したレイの顔が、いつもより白くないような気がした。それが何故か
はわからなかった。
「どうして、ありがとうなの?」
 昔の自分がはめごろしにしてしまった心臓にある窓。この街に来て開閉式になっていっ
た窓の隙間を潜り抜けてきた言葉。
 レイの目が泳いだ。はじめて見る姿だった。これまでにも、笑顔や、手の暖かさや、苦
しそうな顔だって見てきた。他の人間より多くの表情を見ているだろうという気はしてい
る。ただ、知らない。迷う姿を見るのも、そんな彼女へかける言葉も。
「わたしには、エヴァだけが、みんなとの絆だから」
 月夜に聞いた言葉。人間味を感じたことのなかった彼女からはじめて聞いた、彼女の言
葉。
「碇くんのエヴァにわたしがいる。わたしがエヴァのパイロットだったから、他の人の中
にわたしが存在できている。それがわかったから……?」
 語尾が上ずり、首を振った。
「この気持ちを、どんな言葉にすればいいのか、わからないの」
 これも月夜に聞いた言葉に似ていた。あの時は表情、今度は言葉。
『人間のコミュニケーション能力は歪よ。発達しすぎてとても複雑だし、ロジックじゃな
いわ……だから興味が尽きないのよ、みんな。シンジ君だって、他人に無関心ではないで
しょう?』
 リツコからはじめて諭された時の言葉を思い出した。エヴァを降りる決心をした日のこ
とだ。あの時の言葉を借りるなら、ロジックでない部分に、レイが困っていると、そう判
断していいのだろうか。
「碇くんがわたしを憶えている、意識の中にわたしがある。だから……だから、ありがと
う」
 外で話をするとき、こんなに距離が近かったことがあるだろうか。あまり変わらない身
長差のレイがかすかに顎を上げて自分を見ている。足の裏までざわつく身体を叱りつけ、
呼吸が乱れないように神経を注いで天井を見上げた。
 なにが無関心だ、なにが罰だ。
(僕が見てきた綾波を信じないで、僕が作り上げた綾波レイばかり気にして!)
 僕はずるくて、臆病で弱虫だ。
(そのくせ、自分の考えだけは疑ってなかったんだ、僕は)
「僕も、綾波が見ているぼくを見たよ」
 卑怯だと思い知らされても、綾波レイを諦められない。
「だから……僕も、ありがとう、なんだよ」
 気のせいでないのなら、少女が笑っているような気がした。
「帰ろう」
 さっきよりもいくらかの確信を持って言った。
「うん」
 やられたはずの耳にも彼女の小さな声は届き、細胞中に響き渡った。
 並んで歩くと、彼女に合わせる歩幅のぶんだけ歩く時間が増える。それはとても幸せな
ことだった。
 ゲートを抜けて電車のホームに出る。これまでにもレイと二人で帰ることはあったが、
今までは一方的に自分が彼女に合わせて歩いていた。現に、いつも空いている電車に乗っ
ても二人並んで座ることは少なかった。レイが先に座るにせよシンジが先にせよ、後から
座る方が少し離れて座るからだ。
 今日はどうだろう、と不安と興味を混ぜ合わせながら座席の真ん中に座ると、レイがそ
の隣に腰を下ろした。期待通りすぎると、かえって疑ってしまうのは悪い癖だと思いつつ、
思わずレイを見つめてしまった。
(夢なら間違っても醒めるな)
「なに?」
 正面を向いたまま訊かれるとは思わず、言い訳がましくごめんと謝って姿勢を正した。
視線でレイの反応を確かめると、彼女の視線もまた定まっていないことに気がついた。目
が合って、わずかに固定され、また離れる。せっかくこれだけ近いのに。
 距離は少し縮んだのかもしれない。ただ、これ以上近づく保証はどこにもなく、いつ遠
くなるかもわからない。遠くなるのだけは絶対に嫌だ。
 ひとまず、明日また会える。その時また今日の距離なら、今はそれでいい。
 レイの身体が少し揺れて戻った。赤い眼をこする仕草は年齢よりも少し幼いように思え
る。
 よくよく考えれば、今日のレイが行った限定接続試験はパイロットの能力任せのシンク
ロ方法で、それこそ全神経を使う作業らしく、限定接続試験を行った後のレイがくたびれ
た様子を見せるのはこれがはじめてのことではなかった。できるからと言って、負担がか
からないわけではないのだ。
 声をかけようかと思ったが、夕陽の照明のジオフロントから隔壁内部へ入って電車が暗
くなると、レイは完全に眠ってしまった。身体がシンジの方へと傾いてしまうようなこと
はなかった。安心と落胆。ただ、鞄を抱えるために結ばれていた細い腕がほどけ、右腕が
膝の上から落下しかけた。それを図らずも支えたのは、シンジの左腕。
 手の甲と、ブラウスの上から感じるありがちな体温に困った。今なら見つかることなく
見つめることができるはずだが、もし眼を覚ました時にじろじろ見ていたのを知られたら
もっと困る。シンジはあきらめて自分も眼を閉じた。あまり眠くはなかったが、触れ合う
部分がより顕著に感じられたので、悪くはない。
 揺れる電車は確実に最寄の駅に近づくことになっている。当たり前だ、悔しいことに。
隔壁を抜けたらしいので眼を開けてみると、夕暮れ時だった。昨日雨を降らせた雲とよく
似た、輪郭のはっきりした雲が陽の光を浴びている。隣の少女はまだ眠っていた。
 燃えているようだ、燃やされているようだと思った。明日を迎えるために、西の空は、
空に浮かぶ雲を燃料にしている。
 電車が速度を落としはじめた。地上に出て最初の駅から市営中央線の始発駅となる。線
路の境目に車輪が掛り、すこし大きく揺れた。触れていた肌が揺れに反応を示す。
 ゆっくり顔を上げたレイの眼は半分閉じかかっていたが、窓の向こうの夕陽に晒され、
彼女は一度顔をシンジの方に向けた。シンジは身長差と彼女の前髪に邪魔されてその時の
表情はわからなかった。
「空……あかい、赤い空」
 眠気に引きずられた声だった。真っ赤だね、と相槌を打ちながら、前に赤い色は嫌い、
とどこかで言っていたことを思い出した。肉が嫌いな理由を、ひょんなところで訊いてみ
た時のことだった。
「真っ赤ではないわ。わたしの眼や、血の色とはちがう」
「そうだね、夕焼けの色は……」
 何に似ているだろう、と考えていると、レイが呟いた。とても小さく、はっきりした声
だった。
「あの人の髪の色」
「えっ?」
「弐号機パイロットの、色に、似ている」
 言われてみれば、そんな気がしなくもない。ただ、そんなに強く言うほど似ているかど
うかはよくわからなかった。レイがゆっくりシンジを見る。眩しそうなのか、それとも苦
しいのか、眼を細め、眉間に皺を寄せている。
「どうかしたの?」
「……碇くん、夕陽に染まってる」
 唄うような、それでいて辛そうな声だった。
「こんな時間帯だからね」
 地上における始発駅に着いたが、周囲には住宅も少なく、車を移動手段としている人ば
かりで、この車両にはまだ他に乗客はいなかった。ドアが閉まると同時に姿勢を正すレイ
の姿は舌を引っ込める貝を思わせた。
「アスカは確かに、夕焼けに似ているかもしれない」
 夕焼けの色がアスカを思わせるというのは、たとえ話としてはふさわしいかもしれない
と思った。アスカの瞬間的に見せる明晰さや勢いは、空も雲も燃えるこの景色と共通点が
あるかもしれない。
 それなら、レイはどうだろう、夕焼けとは似ても似つかないこのひとは。答えは一瞬で
浮かんだ。
「綾波、あのさ」
 ――見た目も、たとえ話としても、これよりふさわしいものがあるものか。
 レイがゆっくり視線だけをシンジへ。なぜか不安そうだ、ということはわかった。
「それなら、昼間の空は、綾波に似ているね」
「……わたし…………?」
 うん、と頷いて、シンジは座席に深く寄りかかった。だらしなく座ってしまうと、誰か
とちがって格好がつかないので、背筋を伸ばした。
 脳裏に昔交わした会話が突然蘇る。
『先生』が教えてくれた、冬に見られる美しい朝焼けの話。大人になれば見られるよと言
ってくれたが、今やそれが、サンタクロースと同じような扱いであることは間違いない。
いつか見られるだろうか、常夏の日本で。
「ほんとうに?」
「うん……それに、夕焼けは淋しいんだ、すこし。終わりを告げる明かりの気がする」
 電車が高架を走り出し、傾きかけた陽が射し込んだ。
 夕焼けを見て泣いたことがある。そのことは憶えてないけれど『先生』が朝焼けの話を
してくれたのは、夕焼け空の公園で一人ぼっちになって以来、夕焼け空を見ると悲しむシ
ンジを見たからだと、後で教えてくれた。そんなことがあっただろうか――あったのだろ
うが、だとしたら、今やそれを感謝すべきだった。開閉式の窓を押し上げて、ささやかで、
大それた望みが生まれつつある。
「昔、先生が教えてくれたんだ。夕焼けとちがって、セカンドインパクト前によく見た冬
の朝焼けは、すごく静かなんだって。少し高いところとか広いところに出ると、朝と夜が
真っ二つに割れて、夜の終わりと朝の始まりを見ると、わくわくするって言ってたんだ。
東から太陽が始まりの合図を送って――月がそれを無視して浮かんでいる姿は、すごく美
しいんだって。特に、深く澄んだ青い空が」
 いつか、そんな空を見てみたい。忘れていた夢を思い出した。思い出すきっかけをくれ
た綾波レイが、見たことのない景色を想像している表情を見せていた。
「いつか……そんな景色を見てみたいんだ、みんなで。僕はみんなと一緒がいいんだ、一
人ぼっちじゃなくて」
 家に帰っても、きっとアスカは帰っていない。あの家に帰る場所としての価値を見てい
るなら、三人共に足取りを重くするものか。
 一緒に戦うみんなと同じ景色を見ることくらい、望んでいいはずだ。気がつけば、拳を
握っていた。
「そこに、わたしもいるの?」
「当たり前じゃないか、そんなの――綾波と……」
 綾波とだけでも、かまわない。
 そう言いかけた自分に驚いた。みんなと一緒でと言ったその次に出てくる言葉として、
自分でも予想していなかった。
(ああ、畜生、ちくしょう……)
 この想いは、こんなところで容易く言うべきではない。
 自分はこんなにも想っているのかと、呆れるような、膨らむような、湧き上がるような
想いに翻弄される余り、景色が一瞬歪んだ。
「心臓が」
 レイの短かい呟き。そして右手を胸に当てる仕草と消えかかる夕陽が相まった。
「今だって、わたしは、碇くんの所為で……」
「……僕?」
 暫しの沈黙の後、彼女は首を振った。
「仕方がないから、いいの」
「そうなの?」
 文脈の繋がらない言葉に釈然としないながらも、シンジは横目で最寄り駅に着いている
ことを知った。レイも気づいたらしく、いつものように速やかに立ち上がった。「行きま
しょう」
 改札を出ると、帰る方向はちがってしまう。レイが改札を抜けるのを見届け、シンジは
自分の定期券をかざした。レイがこれまで同様、帰り際に振り返った。また明日。その言
葉が出るのを待った。自分から言う気はしなかった。レイに頼る自分にうんざりするのは、
今日何度目のことか見当もつかないが。
 彼女は身体ごと振り返り、立ち止まった。シンジはレイの立つ柱の前まで辿り着いてし
まった。
 もしかしたら、もしや、彼女も、似たような想いなのではないか。経験したことのない
感覚に脈拍のリズムが狂いはじめる。足を止めたままなのは、もしや。
「また……」
 言いかけたレイもまた、今日何度目になるかわからない、顔を下げる動作で言葉を止め
てしまった。しかし、言いかけた言葉を取り消すようなことをするとは思えなかった。案
の定、すぐに顔を上げてレイが口を開く。
「また――」
「また一緒に帰ろう」
 もちろん、出来ることならもっとちがう方法で遮りたかった。映画のような真似ができ
ればどんなに素晴らしいだろうと思う。しかしそれは理想の域すら逸脱している。
「本当は、綾波と一緒に朝焼けを見たいんだ、僕は。でもそれは、明日や明後日実現でき
る約束事じゃないから、だから……」
 今の自分が持っている、あるかどうかも不明の勇気で言える事は、ほんのささいな約束
事。
「――明日また、一緒に帰ろう」
「……約束?」
「うん」
「……」
 聞き取れないほど小さな声でやくそく、と復唱するレイはまるで、その言葉の意味を確
認しているように見えた。
 ありがとう、と彼女は再び言った。
 やめてくれ、と思った。
 何故ならこれは、自分自身の願望だ。綾波レイのために、ではない。勝手な自分に感謝
するレイを見ると、かすかに罪悪感が窓に吹き込んだ。
 ゆっくりと、レイの右手が動いた。
「約束は、本当?」
「――もちろん」
 彼女の手がシンジの右手の甲に触れた。シンジは視線を落とし、細い指を見つめた。自
分の小指と相手の小指を絡めて持ち上げた。
「……約束」
 幼いころにして以来のサイン。少しは格好がついただろうか、と考えたが、レイの表情
は一転して、呆けた顔になっていた。
「なに?これ」
「なにってその、指きり、だけど」
「…………指きり?」
 皆の常識彼女の非常識、ということは実はよくある。指きりすらそうだとすれば、この
気恥ずかしさは全部自分が一人で抱えているものかと気づき、慌てて手を離した。
「い、いや、あの……そういうサインなんだよ、小さい子供がやるようなやつなんだけど、
つい……ごめん」
「謝ることじゃないわ」
「そうかもしれないけど……」
「明日、訓練が終わったら、ベンチの前にいればいい?」
 レイの身支度はシンジと同じくらい早いので、レイがそう言うのは不自然ではなかった。
「……うん、そうしよう」
「それじゃ、また明日」
 レイが脇を通り抜けていく際、鞄を持っていたシンジの左手の甲に一瞬だけ手に触れて
いった。
 その温もりは今までで一番短かった。暖かさに全身が粟立った。
 空を見上げると、西の空だけを残し、ほとんど暗くなっていた。短い夜のはじまり。自
分を取り巻く状況は、この空に近いのだろう、と一人ごちた。戦力の低下、新人パイロッ
トの参加、損壊したままの本部施設、強力になっていく使徒の攻撃。どれひとつ取っても
容易にはいかないことばかりだ。しかもその中で、たちの悪いことに、自分は重要な位置
にいる。事実上二人のパイロットの一人として身を置いている。許されるなら逃げ出した
い。翼があればいいな、と思ってみた。
 指きりを思い出す。
 なにも特別ではない、ありきたりな色の糸でいいから、繋がっていたかった。運命なん
ていう言葉は無駄だ、保証はないのだから。ただ、繋がっていられれば、まだまだ苦しく
ても大丈夫のような気がする。
 家に帰っても案の定部屋が真っ暗だったことに、お定まりの絶望を背負った。それでも
明日の約束があるなら、それを助けに頑張れる気がする。
 一人の夜でも平気だった。一時でも独りになるのが嫌でレイの部屋に通っていたが、約
束ひとつで、平気でいられる自分が可笑しい。
 翌朝になってもミサトは帰っていなかった。半ば予想していたことなので驚きはしなか
ったが、静かに薄暗い悲しみに襲われる。一体、自分たちはこの先どんな関係になってい
くのだろうか。
 シャワーから出たタイミングで電話が鳴った。ネルフからだった。
「はい、もしもし?」
『シンジ君、緊急招集です。使徒を確認、急いで来て下さい』
「は、はい――どんな敵なんですか?」
『まだ詳細は不明なの』
「なんだか、よくわかりませんね……」
『迎えの車が二分で家の前に来るから、下りて待っていてね』
「はい、わかりました」
 電話を切った。どうやらレイとの約束は早くも先延ばしになりそうだった。
 なんとしても生きて帰って、そして約束を果たさなくてはならないと思う。勇む足でエ
レベーターに乗り込んだ。
 しかし、それから僅か二時間余りで約束が叶わなくなることを、彼はまったく想像して
いなかった。それは無理のないことだった。彼の名前は碇シンジ。神様ではなかった。彼
はあくまで一人の人間だった。

























 ただの少年にすぎなかった。

























To be continued by “Not With You”



































あとがき

どうも、こんにちは。
長く間を空けてしまいましたが『トワイライト』をお届けします。
次回『Not With You』は、梅雨明け前には届けたいと思っております。
ああ、これだけ更新しなきゃ信憑性薄いなあ(爆)

今回、僕が大好きなSymei氏のFF『ささやかで、大それた望み』を、現在も活動してい
る唯一の『ETERNEL MOMENT』の同盟員として、タイトルのみですが尊敬の意味で使わせて
いただきました。

感想お待ちしております。

では、また。



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