あなたのことを知っています。

あなたの話は聞いています。

笑い方については、忘れてしまいました。






NEONGENESIS EVANGELION

―Growing Comedian―

EPISODE 23.5

Not With You







 夢を見ないわたしの頭の中を、定着しきっていない記憶の断片が跳ね回っていた。記憶という
ほど鮮明ではなく、けれども何処かでわたしが見聞きしたなにか。時系列順に並べられるほど明
確ではなく、だからと言って無視することもできない欠片たち。それらはそれぞれの場面が朝だ
ったり夜だったり夕方だったり、誰に命令されたのか、誰と一緒にいたのか、そして何処で起き
たことだったか、明確にできるものがない、だからこうしてわたしの頭の中で飛び回っている。
その中には誰といつごろの話かは思い出せないけれど町を見下ろす丘に座っていた景色だけが鮮
明だったりするものもあった。
 そういったいくつもの景色が、情報がノミのように跳ねている。眠っているわたしの頭の中で
跳んでいる。そう、わたしは眠っている。けれども眠っている自分を理解できていた。理解して
いる自分を認識し、瞼を閉じている身体を知覚した瞬間、急速に意識が浮上していく。散らかっ
た些末な記憶をすべて置き去りにしながら、わたしは瞼を開いた。
『あんた、夢、見たことないの?』
 誰かの言葉が起き上がった頭の後ろに貼り付いていた。そう、確かに以前、そんなことを訊か
れた憶えがある。わたしの記憶が確かならば。魂に付着させた、綾波レイがかつて経験したこと
を認識するわたしのこの情報を、もしも記憶と呼ぶのなら。
 エアコンの音が耳についた。寝る前につけたエアコンは、わたしが昔からの習慣で設定してい
る温度のままで動かしていたので、寒くも暑くもない環境を提供してくれている。鈍く振動しつ
づけ、鈍い音も同時に提供しているエアコンを不快に思い、わたしは床に放り投げてあったリモ
コンを拾い上げ、停止ボタンを押した。頭の中で、今のようなことがしばしばあったことを思い
出す。そう、わたしはこの古いエアコンが嫌いだった。けれども取り替えるにはどうすれば良い
のかわからなかったし、誰かに訊こうとも思わなかった気がする。いや、訊こうとしたかもしれ
ない。でも憶えていない。もしそんなことがあっても、不要な記憶として自然と削除されたかも
しれない。リモコンを床に置いて、窓を開けた。夜明け前から風はぬるかった。
シャツのボタンを半分開けて、無傷の腕や胸を撫でてみた。どこにも間違いはない。わたしの肉
体は傷ひとつついていない。なぜなら、使われてまだ五日しか経っていない肉体だから。
 わたしはまた死んだ。綾波レイの肉体としては、三つめの身体を動かしている。わたしは胸に
手を当て、自分の心臓の鼓動を探した。ことり、ことり、と心臓は静かに確かな拍子でわたしの
中で動いている。わたしの肉体を動かし、生命体たらしめている。
 生命体。わたしは未来の生命体であると同時に、過去の産物でもある。碇司令がいなければわ
たしはわたしとして存在していなかった。わたしは使徒との戦いの果てに碇司令が望む世界を形
成するための鍵であり、箱船だと教えられてきた。生まれたときからそれを理解し、明確な目的
のために存在している。それを遂行するまで、わたしはわたしであり続けなければならない。ヒ
トの形を捨てることも許されないわたしはそれなのに、自分で自分をヒトと呼べるのかどうかの
判断はつかなかった。
『あんたなんか、碇司令の言いなりになってる、ただの人形よ!』
 また、誰かの声が頭の中でこだまする。強く張り詰めた声。誰かの声に似ていた。そう、これ
は弐号機パイロットの声。エレベーターの中で交わした言葉。二人できちんと話をしたのは、あ
れが初めてだった気がする。思い出した言葉を言われて不愉快だったことを思い出し、また不愉
快な思いが胸の中にじわりと染み込んだ。そんなことを思った自分に驚いた。
 ――わたしは、人形なんかじゃない。
 ――でも、人間、では。
 頭を何度か振った。自分自身の意義は、わたしには無関係のはずだった。それなのにわたしは
わたし自身のことばかり考えている。任務遂行のためだけに生きているはずのわたしが。前のわ
たしは、一体どうしたのだろう。こんな風に不必要なことを考えるようになってしまったのは、
前のわたしがそういう思考の持ち主だったからに違いない。記憶を探ると、任務と関係のない事
を沢山憶えている気がする。どうしてわたしは、火傷したことなんかをすぐに思い出せるのだろ
う?
 瞼を重く感じた。記憶の定着は魂に極端なほど負担をかける、と赤木博士が言っていた。今の
わたしはかつてのわたしと違い、肉体が入れ替わる隙間以外の記憶は全て所有できている。知ら
ないことは、使徒襲来の前日と当日の、たった二日間。だから任務に支障は何一つなく、計画は
問題なく遂行可能だった。人が呼吸をし、繁殖の営みを続けるようにわたしはわたしの魂の役割
を全うする。それだけで良いはず。
 夜明け前の空が暗闇から少しずつ変わり、部屋が少し明るくなっていた。わたしは、自分でも
重いと感じる足取りでお風呂場に入り、服を脱いだ。勢いよく出て来るお湯で身体を打つ。倦怠
感と疲労感が和らいだ気がする。水浴びは気持ちが良い。プールでも、シャワーでも、雨でも勿
論、LCLも同様に。水の中に嘘の肉体を沈めてしまえば、わたしの魂は重力を感じずに済む。
 シャワー室を出て、制服に着替えたけれど、鬱陶しかった。でも、いつまた呼び出されるかわ
からないので、準備しておかなくてはならない。ただ、指示が赤木博士から来ることはもうない。
檻の中から指示を出せる職員はいない。だから指示があるとすれば碇司令か作戦部からかしかな
い。
 それが解っているから着替えたけれど、まだ世界の自転に慣れない身体は眠たげで、スカート
の留め金をそのままに、仰向けにベッドに倒れ込んだ。ベッド以外の唯一の家具は、小さな衣装
箪笥。その上に乗っている眼鏡を見て、わたしは重力を感じながら目を閉じて、また少しまどろ
んだ。ふわふわした、妙に落ち着かない気分だった。課題をクリアできないまま訓練を終えた時
にも似た気分。会えるはずの彼に会えなかった時と同じ。

 彼、というのが誰の事なのか、自分で考えたのに顔を思い浮かべるのに時間を必要とした。ゆ
っくり、水面に生じた波紋のような記憶が消えてしまう寸前『3番目の座』の少年がわたしの頭
に思い浮かんだ。碇シンジ。碇君。そう、碇君。どうして彼に会えないと、わたしは落ち着かな
くなったのだろう。彼はただのパイロット――碇司令のことを信じたがっていた、碇司令の息子
というだけなのに。
 目を開いて、乾いていない髪を掻き上げた。ふた月くらい前、髪が伸びていたことを弐号機パ
イロットや葛城二佐に指摘されたことを思い出す。
『伸ばしてみてもいいんじゃない?たまのイメチェンも大事よー、女の子は』
 葛城二佐はそう言っていた。わたしはその時どんなことを思ったのか、思い出せなかった。そ
れは大した事ではないはずなのに、何故かきちんと憶えている。見上げた天井は記憶と変わらず、
いつものままだった。
 零号機の自爆によって第3新東京市は事実上の封印措置――都市開発の停止等に加えて、一部
職員の退去させ、マギの記録を松代に移す作業――が取られると碇司令が言っていた通り、普段
だったら再開発のために周辺の団地を取り壊す業者が準備する音が聞こえてくる時間なのに、鳥
の声しか聞こえなかった。起き上がって、ベランダの前に立った。歩いた拍子にきちんと留めて
おかなかったスカートが床に落ちた。
振り返って部屋を見渡すと、夜明け前の淡い光が闇を隅に追いやっていた。部屋にわたしのもの、
と言えるものはほとんど無かったけれど、ゴミもきちんと片付けられていた。何もないけれど、
整頓されてもいる。そう、最近のわたしは毎日掃除をしていた。どうしてだろう。どうしてだか、
そうしておかなきゃと思っていた。恥ずかしい思いをしたくないから、という理由が頭に浮かぶ。
ふわふわ浮かんだそれを捕まえられない。
――恥ずかしい?
 部屋の隅の陰を見つめ、記憶を辿る。
 意識的に思い出そうとした途端、眩暈がし始めた。回転する視界、その揺れの奥、瞼の先から
映像が蘇る。何日間か、欠かさずこの部屋を訪れていた碇君の姿。ベッドに座り、二人で好き勝
手にしていた午後の時間のこと。思い出せた碇君の顔を見る。いつも困ったり、苛立つ彼を見て
いた。彼はどうしてわたしの部屋に来ていたのだろう。明確な理由やきっかけは何もなかった。
思い出そうとしても、どこにも根拠が見当たらない。わたしは眼を開け、眩暈を起こしてぐらぐ
ら揺れる視界の中、ベッドに倒れ込んだ。視線の先、部屋の隅の冷蔵庫から水を出そうかと思っ
て眼を向けると、小さくうなる冷蔵庫と、その隣に見覚えのある人を見つけた。
 わたしが彼に気づくと、彼は真っ赤な眼を少しだけ細めて、大きな口の片端を吊り上げた。夜
明け前の静寂に紛れ込んできた、とでもいうように。
「ようやくお気づきかな、綾波レイ」

 音も気配もなくそこにいた渚カヲルの姿を認め、わたしは起き上がった。わたしと同じ眼の少
年。彼と出会った時の景色を思い出すのには時間がかからなかった。転校生としてやってきた少
年。初めて会ったときから、いずれはこうした異常事態を当たり前にしながら対峙することにな
ることを、薄々感じていた自分を思い出す。それでもわたしは驚いた。どうやって入ってきたの
だろう?
 彼は髪を掻き上げた、というより頭を掻いて、少し困ったような笑顔になった。
「そんな呆けた顔をするなよ、勘が狂うじゃないか」
「……なぜ」
「今の僕には簡単なんだよ、こんなことくらい。今の君には、簡単にわかると思うんだけどな」
 彼は言葉を切った。それから部屋を見渡しながら言った。「君にもできるんじゃないかい、綾
波レイが、もしも僕と同じなら」
 彼は肩を竦めた。そんな無駄な動きをするような人間だっただろうか。彼がわたしと同じなら
ば、そんなことをするはずがない。わたしたちは、そういう風には出来ていない。
彼の足下に目を落とした。彼の足下に、落ち葉が半円状に落ちている。彼が、自分の周囲に感知
不能なほど極限に短時間だけ虚数空間を開いてここまで移動してきた、ということを知った。出
口を正確に設置できているから、おそらく目に見えるところ――向かいのビルから、わたしがカ
ーテンを開けたために来る事が出来たにちがいない。
「ディラックの海は、わたしには開けることができない」
「そうかな? まあいいや、とにかく障害物なしならこのくらい出来る……というのはまあ、今
はじめて僕も知ったわけだけど、なかなかのものだろう?少なくとも、今の君に近づくにはこれ
くらいしなくっちゃ」
「なぜ?」
「ずいぶん警備も強化されているみたいだしね。今は存在感を薄くしているから目に入らないだ
ろうけど、余計な手間は省くに越したことはない」
 そんなことまで出来るなら、彼をもうヒトと呼ぶのは、難しい。わたしと、同じで。
「……なに?」
「なにって、わかりきったことを訊くなあ……シンジ君のことを想う者として、ヒトの姿でいる
うちに話がしたいんだ」
 彼は交差させていた足を解いた瞬間、下ろした左足を蹴ってわたしに向かって飛びかかった。
赤い眼がさっきよりも輝いている。輝かせた瞳のまま彼は腕を私の心臓に突き立てようとしてき
た。
 わたしは細胞が膨張する感覚を一瞬味わい、いつもエヴァで行っているように己の感覚を信じ
て『壁』を――不可視なほど微弱なA・Tフィールドを発生させた。渚カヲルが伸ばした腕はわ
たしの壁に激突し、止まった。刃物と刃物が噛み合う音によく似た甲高い衝突音が一瞬、部屋の
空気を切り裂いていった。
 わたしたちはそのままの姿勢で睨み合った。渚カヲルの口からは笑みが消えていた。わたしは
記憶と照合しながら、現状の最優先を考えた。
 ネルフへの連絡はすべきでないと思った。彼の掌から伝わる、ただひたすら、何か激しい感情
がわたしに向けられている。敵意ではない。もしも彼がその気なら、今のやりとりでわたしを殺
すことが出来たことはわかっていた。
「あなたはわたしと同じ……でも、こんな感情、知らない」
 わたしは壁を消した。それより、彼の敵意のなさから、消えてしまったと言った方がいいかも
しれない。
 渚カヲルはきつく結んだ唇をゆるめ、壁と衝突して不自然な方向に曲がってしまった指を戻し、
それからひと握りすると、砕けた手は元通りになっていた。不自然すぎる自然な行為。わたしも、
ターミナル・ドグマ以外で力を使ったのは初めてだった。
 それなのに今、躊躇なく使ってしまう。命令……命令というものの存在があることはわかって
いた。碇司令。そう、あの人の目的のための、未来の短い生命体。
 風の音が聞こえた。
 渚カヲルは緩めた唇の片端を吊り上げた。それはいつもの彼とは違う笑みだとすぐにわかった。
「そんなことを簡単に口にするなんて、君は、僕の知ってい君の中でも一番醜い有様だ」
 言葉が耳に入ってくる。罵られていることはわかる。しかし、彼にどう判断されてもわたしに
はわたしの存在意義があるので、彼の個人的見解を聞いても無意味。そもそも、どんな顔をすれ
ばいいのか、わからない。
 彼は引き下がり、最初に立っていた場所まで戻って冷蔵庫を勝手に開けて、未開封の水を出し
た。
「飲んでもいいかい?」
 ボトルを指さす彼への返答を控えると、私の返事を待たずに彼は口を開いた。返事がないこと
は予想していたかのようになめらかに。
「予想されていたこととは言え、やっぱり焦るものなんだな……もしも君がついこの間までの綾
波レイなら、僕の焦りもわかってくれると思うね。とかくは存在自体曖昧になりがちな君でも、
はっきりとさ。さて――今の君は一体どうなってしまってるのかな」
 彼の言葉を理解するのは難しかった。この身体になる前のわたしと今のわたしとに、特別な差
があるとは考えにくかった。彼の言うことが本当だとしたら、わたしは彼の焦りを理解できるわ
たしでなければならない。そんなことは理解しようがない。
 首をひねったわたしを見て、彼は眉毛をハの字に曲げた。張り詰めていた表情ではなくなった。
それは困ったような、戸惑うような顔。初めて見せた表情だったので、驚いて、肩に力が入った。
でも、その表情はどこかで見たことがあった。誰かが、そう、碇君がしょっちゅうそんな顔をし
ていた。
 わたしの記憶の中では対照的な二人なのに、重なって見える。わたしと同じはずの彼にそんな
顔ができるものだなんて思わなかった。
「どうしてそんな顔をするの?」
 彼は困った顔のまま、わたしの右後ろの鏡に視線を向けた。しばらく彼はそのままだった。自
分の顔を見て、さらに眼に力が抜けたように見える。輝きに満ちた赤色が、いまでは燻る炭火の
ように深く、静かな色に見えた。
「君が生きていたこと、それは嬉しいさ。予想通りとは言え、ここまでのところ、予想外のこと
はいくらでも起きている。現に僕自身が観客としてこれほど舞台を間近で眺めていること自体、
あまり憶えがない。もともと憶えていること自体そう多くはないけど……これ、飲んでいいか
な?」
 彼は途中からいつもの微笑を浮かべた表情に戻って、手の中で弄んでいた水を指した。わたし
は頷く気にはならなかったけれど、彼は返事を待たずに栓を開け、水をひと口、ふた口とゆっく
り飲んで、眼を閉じた。身体に染み渡っていくのを感じ取ろうとしているように見えたし、寝顔
に思えるほど静かな表情だった。再び眼を開けた時には、眼は爛々とした輝きを取り戻していた。
「あなた、誰に作られたの?」
 わたしは、わたしたちにしか通じない質問をした。
「器の話?それとも魂の欠片についての話かな」
 彼の問い掛けも簡潔だった。彼の強い意志が再び部屋中に広がり始めている。わたしは何もし
なくてもそれらを感じ取ることが出来た。彼に隠すつもりがないから、わたしの心の壁が触れて、
感じ取ってしまう。
 少し前に、碇君と二人でジオフロントに居た時に出くわした時も、彼の強力な意志を感じたこ
とを思い出した。そう……あの頃から、彼は今の彼になった。あの頃から、わたしは……?何か
を感じていた。そう、守らなくてはと思っていた。何かを。何を?
「僕は、僕を必要としている人達のために作られた。その点では、君と同じだ」
「そう……わたしと同じなのね」
 彼は、水を飲もうとして、止めた。
「その点に於いては、ってだけだよ。一緒にするな、君なんかと」
「……何故?」
 わたしの問い掛けに、彼は顔を落とした。落とした肩のラインが浮かび上がっていた。夜が終
わりはじめたから、銀色の髪が透き通って見える。顔を上げた時には、今までに見たことがない
ほど爛々と輝いた深紅の瞳になっていた。
「君のような曖昧な魂となんか、一緒にされちゃ困る。僕は、君と違って、僕を作った人間のた
めになんか生きてやらないって決めている」
「……なぜ?」
「そんなこと聞くなよ。君は一体どうしてしまったんだい?本当に」
 敵意のないまま詰問口調で彼は詰め寄ってきた。互いの息がかかるような距離で問いかけてく
る渚カヲルの瞳は輝いているのに、とても深い色だった。わたしは彼から眼を逸らした。息が詰
まるし、散らばる記憶が好き勝手に暴れはじめた。
 わたしには目的がある。そこに進むことが宿命づけられいる。無へと帰る道。
 わたしは彼をもう一度見上げた。この部屋での慣れない行動。誰かを見上げるなんて、なかっ
た。碇君は、ほとんど身長が変わらないので見上げる程ではない。制服は同じだから、そこは見
慣れている。でも、着ている人間のせいか、サイズの違いなのか、印象が違う。渚カヲルの制服
は、足の長さのせいか、白いシャツの面積が少なく見えた。わたしの見慣れたものじゃないーー
そう、碇君とはちがう。
 制服の白さを、ズボンの黒さを思い出す。
白いシャツは、忘れようがない。初めて碇君に会ったときのことは、シャツの色しか記憶になか
った。アンビリカルブリッジの上で、激痛と振動の中、その白さは際立っていた。
 思い出せる。でも、どうしてそんなことを思い出しているのだろう。
 どうして、思い出せただけで胸が高鳴るのだろう。
「少し、外に出ようか?」
 提案する彼の声は穏やかだった。
 わたしはかぶりを振って、頭を押さえた。散らばる記憶に振り回されそうになるのを押さえる
のに精一杯で、目をつぶった。

 他にも、たくさん、憶えている。出会ったばかりの、怯えきった顔やひび割れたガラスのよう
な声。月明かりの下で泣きべそをかいていた彼。ユニゾン訓練で息が合ったこと。
 ようやく薄目をあけると、朝陽が目に入った。渚カヲルは窓の脇に立って、わたしをじっと見
つめていた。その赤い眼に、彼がヒトでありながらヒトではない、アダムより生まれた存在とし
ての力強さを感じた。彼はわたしよりずっと人間からは遠い存在。それなのに、さっきはまるっ
きり人間のように怒っていた。今はそれとは正反対の穏やかさで、じっとこっちを見つめている。
 いつの間にか窓が全開で、カーテンがひらひらとベランダではためている。乳白色のカーテン
は朝陽に照らされて橙色を含んでいた。
 ベッドに座って、目を閉じる。

「なぜ、ここに来たの?」

「君に未来が必要かどうかが知りたい」

 あまりにも素早い返事に、目を開けた。
 暴れる記憶が定まり出していた。参号機を撃てなかった事も、その理由も思い出した。夢を見
たことがないことを、悔しく思った事がいつのことかも。
 それでもわたしの運命は定められている。わたしは過去の遺物で作られた未来の生命体。この
肉体も、強すぎる魂を抑えるには十分とは言えない。わたしの魂は碇司令のためにある。それが
わたしの宿命。
「……どういう意味?」
「そんなことないだろ、君。どうしてだい?君の魂は誰かの意志によって生まれた。このままだ
と君は無へとたどり着いく。誰も彼もを犠牲にした上で無へとたどり着いて、それでおしまいだ」
「そう……それしかないもの」
「君の魂の所有権がどこにあるかまでは決められてない、と思っても良いと思うけどな、僕は」
「なぜ?」
「君が死ぬことを許されなくても、君は死を選べる。誰かが君の使い道ってやつを定めたとして
も、こっちがそれを拒否してしまえばそれまでだ。にも関わらず相手の都合を最優先させる、そ
んな必要ないのさ……もしも、他に道を見い出しているなら。現に君は、命懸けで彼を、シンジ
君を助けた。自分の命よりも大事なものだと思ったからじゃないのかい?」
 渚カヲルはペットボトルの水を弄び続けながら、ゆっくりと腰を下ろした。立てた両膝はとて
も高い。白んだ空がが彼を、ヒトでない彼の存在を際立たせているようにも見えた。彼は輝きの
中で、とても小さな声で呟いた。
「僕には彼と歩く道がない」
 微笑を浮かべる彼を見た。目を合わせると、彼は少しだけ首を傾けた。困ったような、照れた
ような笑顔。碇君に似た笑顔。
 わたしは彼の言葉を理解した。だから頷くことも出来なかった。
 渚カヲルは使徒で、殲滅されなければならない。その事もわかった上で生きる事が、彼の役割
だと理解して、天井を見上げた。何度見上げても染みの形は変わらない。
『シンジ君のことを想う者同士として、ヒトの姿でいるうちに話がしたいんだ』
 尾てい骨から広がる震えがつま先まで伝わり、震えが走った後には鳥肌が立っていた。朝陽の
せいで温かくなった風が吹き込んで、首筋を撫でていく。風が出てきていた。
「わたしは……」
 ちらつく顔は、碇君の笑顔。泣いた顔。病室で再会した碇君の困惑した顔。昨日会った時の、
わたしの避ける顔。真実を知って、わたしを見て怯える顔。
 歯を食いしばって銃を握りつづけた弐号機パイロット。震えながら3号機に乗った鈴原君、張
り詰めた声で指示を出す葛城二佐、檻の中で焦点の合わない目をした赤木博士、すべてを悟って、
それでも笑っていた加持一尉、わたしを懐かしそうに見つめる冬月副司令、不透明のサングラス
の中で……目を合わせてくれない碇司令。スイカ畑で泣く……碇君。
「命令以外のことを、どうしてこんなに憶えているの?」
 わたしの声は、わたし自身にも不安定に聞こえた。彼はやっぱり微笑のまま。それが気に入ら
なかった。わたしの困惑を喜ぶように、なんの外蓮見もなく笑うから。
「君を形作るものだから、忘れたり捨て去ったりなんて出来ないんだよ。君が忘れられない、君
の魂の一部だ」
 透明感の強い声が、肉体を駆け抜けていく。
 風が強く吹いていた。開け放たれた窓を立ち上がって振り返り、空を見上げると、思っていた
よりずっと多くの雲が、すごい早さで流れていた。朝と夜の間で、東から朝焼けの空が広がる一
方、西の空はまだ暗い。

 この空は、なんだっただろう。

 わたしは右に左にと首をめぐらせた――渚カヲルを見つけるために。上下左右に首を振りなが
ら、全身から汗が噴き出る身体に再び震えが起きた。わたしはなにかを忘れている。忘れてしま
っているに違いない。
 彼はずっと微笑んでいる。時間が止まったかのように、何を考えているのかわからない。動揺
しているわたしを楽しんでいるようにも、安心しているようにも見えた。
「あなたは、どうするの?」
「僕にとって、生も死も同じ価値だ。ただ、僕の死は僕のものだ。死ぬのはあくまでも僕の決断
なんだ。君の生が君のものであるのと同じさ」
 でも、私も碇君と一緒に生きていくことができない。この肉体が宿命を全うするためにあるか
ら。

「碇君」

 この名前は特別だった。今ならそれがわかる……恐ろしいほど頭が澄んできた。
 でも、一緒にはいられない。わたしはそれを理解した。目の前の彼がすべてを悟りきったかの
ような微笑みを浮かべる理由も、同時に。わたしはわたしのために碇君を死なせたくないと思っ
た。だからこそ、一緒にいることは叶わない。
 そういう意味では、初号機に倒される決意を固めている渚カヲル。あなたが少し羨ましい。最
後の最後、碇くんと一緒にいられるなら。
「その名前、忘れなければ大丈夫だよ」
 彼の声に顔を上げた。
 彼はもう、部屋のどこにもいなかった。怪談話の化け物のように、夢か幻かと思うほど跡形も
なくいなくなっていた。彼はもう、決意してしまっている。加持一尉と同じだった。あの人も、
自分が死ぬことを、そのことで誰が悲しむかをわかっていた上で真実を追い求め、そして自分の
宿命を自分で決めて、死んでしまった。
 あんな風に悲しむ碇君を、また見ることになると知って、思わず立ち上がってベランダに出た。
ただ、風が吹いて、夜を消し飛ばしていることだけがわかった。彼はもうどこにもいなかった。

「碇くん」

 思い出さなければ良かった。そうすれば、思い残すことなんて何もないままだったのに。
 ベランダから戻って、窓を閉めた。かたかた揺れる窓を背にすると、陽を浴びる背中だけがじ
わりと温かくなる。手が冷えていた、いつの間にか。何度目になるかわからないくらい落ち着か
ないままベッドに座って、もう一度呟いた。
「碇くん」
 思い出したいだけ思い出せる記憶が無造作に頭の中で散らばった。あれもこれも思い出せる。
わたしだけの思い出。何もできずに悔しかったことも、握った手の温かさも。
 そして、どうしてか、この空はわたしを震えさせる。忘れているはずなのに、なぜか。

 なぜか、唐突に視界が揺れた。眩暈とは違う歪み方だった。

 頬を水滴が伝う。

 未来の短い生命体の眼から、水滴が伝った。

 わたしはきっと、思い出せないにちがいない。こぼしてしまったにちがいない。

 なぜだかわたしは、祈っていた。

 せめて、いま、この空のことは忘れませんように。

 せめて、人間らしくいられますように。

 そして、わたしがいなくなった時には、碇くんが悲しんでくれますように。

 最後に、そんなことを祈ってしまった。

























 十二時間後、姿を消していた彼が、宿命に向けて動き始めた。


























 そして、わたしは。


























 To Be Continued By "FLY"

























あとがき
こんにちは、ののです。
連載3本目。
1年に1度しか更新していないから、このままだと終わるのは2019年です(汗)
次回更新がいつか、ちょっとさすがにお約束できませんが、年内にもう1話くらいは書きたいも
のですね。
なお、次回はEpisode17&18と19を更新します。参号機事件からゼルエルまで。
『FLY』はだから……まあ、早くて二年後くらいに(爆)

タイトルは偉大なる、愛するエンターテイナーMichael Jackson『Not With You』のもじり。
このタイトルでこの話を思いついた時、まさかこんなことになるとは夢にも思いませんでした。

ではまた、そのうちに。

……あ、感想いただけたら超嬉しいですねッ☆

この催促だけは欠かしたことがない。




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