まだ6月だというのに盛大に鳴いている蝉はうっとうしいけれど、ひとつ教えてくれることがある。昔の気候とは変わってしまったということだ。わかっていることを、いちいち。それでも、今この瞬間ばかりは祝福の音として聞こう――葛城ミサトはそう決めて、駅の階段へと歩みを進めながら、暑すぎるジャケットを脱いだ。まだ脱いでなかったというだけで、さっきまでの自分がどれだけ焦っていたのかよくわかる。脇がびっしょりだ。待ち人が来るまでにケアしておくべきかと悩んだが、視界の端に留まる、おそらくは自分にとっても恩人であろう二人のことが気にかかって、それはやめた。今から階段を下りてくる少年を出迎える準備をする姿をみられて、都合のいいことはあまりないだろう。
リュックを肩にかけ、両手でスポーツバッグを抱えた少年のスニーカーが階段から見えると、思わず胸が高鳴った。ほんとうに、よくもわざわざ、一度はくぐりぬけた門を引き返してきてくれたのだという申し訳なさとありがたさが、胸に、ぐっ、と迫る。制服の黒いズボンと白い開襟シャツがだんだんと見え、いよいよ現れた少年の顔はなんとなく想像していた通りにうつむいていた。ミサトはジャケットを肩にかけた手が汗ばんでゆくのを感じながらゆっくり階段に近づいて、いよいよ少年との距離は手が届く距離まで近づいた。自分の半分も年を積み重ねていない子供相手に、ほとんど恋人のように近づく自分がいることに、彼女自身も驚きながら。
「あの、すいません」
顔を下に向けたままの少年に先を越されて口を詰まらせながら、ミサトは精一杯反応して聞き返した。
「何のこと?」
少年はさらに声を小さくして、戻ってきて、と答えた。二分前にホームからただいまと言ってくれたときとは別人のようだ。暗い顔をして――いや、ちがう。表情を読み取って、ミサトは空いた手で頭を掻いた。いよいよ照れくさい気持ちが隠せない。
「いや、気にしないでいいわよ。嬉しいわ、戻ってきてくれて。でもあれね、ちょっち、恥ずかしいわね。飲み会の帰り道に、別々の電車に乗ったと思ったら一緒でした、みたいな?うーん、例えになってないか、そのまんまねこれじゃ」
空転に次ぐ空転だコリャ、と自分の拙さにあきれながら頭をかき続けて、助っ人を呼ぼうと閃いて、自分たちの様子を伺っている少年二人を呼んだ。
「鈴原君、相田君!」
駆けつけてきてくれた二人のうち、鈴原トウジ唇が腫れていた。こんな暑い日でも上下にジャージを着ているのだからあきれたものだ。腫れはあきらかに殴られた痕で、少年もそれをいかにも気にしていた。どうやらずいぶん古典的なやりとりがあったらしい事を察したミサトは、呼んで正解に違いないと踏んだ。
「おうシンジ、ずいぶん早いお帰りやないか」
腫れた唇のせいで、若干の滑舌の悪さはあったものの、意地悪さは感じられない。それより彼が少年を名前で呼んでいることにミサトは驚いた。つい二日前に家に来て、少年の具合を訊いてくれたときは確か「碇」と姓を呼んでいたはずだ。自分を気にしてそう呼んでいたのだろうか。
「ごめん」
「なにがや」
「え、その、いろいろ」
「全部チャラて、言うたやろ」
「ていうか、命の恩人にあれだけでチャラっつうのは、よく考えたらどうなの?」
トウジの隣ではしっこそうな口調で茶々を入れた相田ケンスケをトウジが小突く。
「そこは言うな。釣り合うもん払うんなら、ワイ、切腹せなあかんやろが」
「まあそうだよなあ、んじゃまあ、やっぱチャラだってさ、碇」
「うん……でも……うん、ありがとう」
心中で胸を撫で下ろしたミサトは、気詰まりしそうな雰囲気を期待通り変えてくれた助っ人達に感謝し、その意を表すため、目についた喫茶店での一服を提案しようと心に決めた。ケーキや食事でもなんでもいい、何にしたって、これからまた仕切り直すのだから、まずは腹ごしらえをするのが常套手段というものだ。
NEONGENESIS EVANGELION
-Growing Comedian-
Episode:5
ここから
夕飯は出前でラーメンを取って、ひとりで済ませた。ミサトさんは夜勤だって言って4時すぎに出て行ったので、部屋はとても静かだった。部屋を見渡して、まだ馴染めないこの家をもう一度見回ることにした。丼を洗って入口の扉に置いて、振り返ったところがスタート地点。玄関には、僕のスニーカーとミサトさんのブーツとサンダルが出しっぱなし。そこから一歩前に出て、廊下が正面に伸びている。突き当たり右の戸を開ければダイニングキッチンに出る。何日か留守にしていただけで、結構ちらかっていた。カップラーメンやビールの空き缶が流しにつっこんである。さすがにスープの飲み残しもそのままとかにはなっていなかったので助かったけど、今日中に片づけてしまった方がいいよな、これ。洗面台の下にあるゴミ袋の在庫はまだあると思う。
そうだ、僕はすくなくとも、どこにゴミ袋があるのか知っている。それはとてもささやかだけど、たしかな事実だ。
大型冷蔵庫には、もうひとりの同居人のペンペンがいる。ペンギンを飼っている家なんて、きっと日本中探してもここだけだろう。なんでも「品種改良」されたペンギンだとミサトさんは言っていたけど、それも納得の知能で、けっこう毎日おどろかされてしまう。冷蔵庫の開閉ボタンを普通に押してたことはもちろんだし、ビールは飲むし、魚は火が通ってないと食べないし、普段は冷蔵庫にいるくせに風呂が好きっていう、相当無茶苦茶な改良をされている。一体どこの誰がどういう目的だったのか、方向性がよくわからない。
居間にはテレビが静かにしているけど、HDDは動いている。ミサトさんが録画予約したんだろう。この時間帯だったら、好きな芸人が出てるバラエティとか、そんな感じだろう。そういえば夜勤明けのミサトさんは、朝ごはんを食べながらテレビを見るのが好きみたいだ。そういえば、こんなことも知っているんだ、僕は。
和室はミサトさんの部屋で、寝るとき以外に襖が閉じているのを見たことがないので、脱いだ服がそのまんまになっていたりしている。
反対側には、僕の部屋と、奥に使ってない小部屋がある。ほとんど入ったことのない小部屋の方を開けてみると、窓は小さな明かりとりがあるだけで、昼でも暗い部屋が、夜はいよいよ真っ暗だった。裏山に面しているせいで、窓の向こうでも灯りがない。ここをあてがわれないでよかった、と思う。でもきっと、ここに何人かで住んでいれば誰かがハズレくじとしてここを自室にするんだろう。例えば、三人兄弟の末っ子とか。
戸を閉めて、引き返して自分の部屋へ。一度片づけてしまった荷物がもう一度ダンボールの中で息苦しそうにしている。今日中に開放してあげなきゃいけない。ここをもう一度僕の部屋にするために。ここに越してきた初日、ミサトさんがここから声をかけてくれた。
『あなたは、人に褒められる立派なことをしたのよ。胸を張っていいわ』
いま思えば、僕はもっと、その言葉を信じればよかった。そうすれば、もうすこしなんとかなったかもしれない。逃げ出したりしなかったかもしれない。いや、僕はどうしてここを出ていこうと思ったのかよくわかないから、それとこれとが関係あるのかはわからない。ここにいるためには、言われた通りにしなきゃいけない。でも、そんなことばかりしていて、ここにいていい理由になるのかわからなかった。わからなくなるうちに、どうすればいいのかわからなくなって、飛び出してしまった。
街に全然詳しくなかったので、ネットカフェとかがどこにあるのかもわからなくってふらふら歩いていたら、今どき珍しい、オールナイト上映の映画館があって入ってみたりした。あれはあれで貴重な経験だった気がするけど、映画っていう気分でもなかったのでちゃんと観なかった。だから、せっかくの貴重な経験も半分くらいしか味わってないかもしれない。
とにかく僕は、戻ってきた。だからここはまた僕の部屋だ。
でもそこに手をつける前に、まずは台所を片づけて、明日の朝ごはんの準備をしておこう。ご飯のタイマーをセットすれば、あとはなんとかなる。味噌汁なんて、インスタントでいいんだし。セカンドインパクト直後に比べれば、物資は充実してるし手間暇を省く手段はいくらでもある。ご飯だって、レンジでチンすればいいものでもいい。とりあえず、食べられさえすれば。ミサトさんもそれで文句を言うことはないし。
僕は洗面台の下の物入れに押し込んであるゴミ袋を何枚か抜いて、掃除をはじめた。夜だから掃除機をかけるのはまずいんだろうか。でも、隣に誰も住んでいないし、この家はビルの端だから、そんなに問題ないだろう。明日はもう学校に行くから、帰ってから何かする気にはどうせならない、なら今のうちがいい。
そして結局はじめた掃除と荷解きは3時間にも及んで、風呂に入るとすぐに眠れた。今日はたぶん、ふわふわした、すごくヘンな一日だったから寝つけなくても不思議じゃなかったけど、僕の身体は正直に今日を終わらせたがった。そう、今日が終われば明日になる。明日になれば学校に行って、トウジやケンスケに会う。もし綾波レイが登校してきたら、一度逃げた手前、どんな顔をしていいのかは全然わからなかったけど、どうせ話をすることはないだろうということに気づいたら、それほど気にならなくなった。
◆
翌朝、ミサトさんが帰ってくる音で目がさめた。夜勤帰りのミサトさんはすぐ着替えを取って風呂場に行ってしまうので、目がさめたあともアラームが鳴るまで、もう一度うつらうつらした。
6時半に鳴った携帯電話のアラームをすぐに止めて部屋を出ると、ちょうどミサトさんが風呂場から出てきたところだった。寝起きなので挨拶はそこそこに顔を洗って、寝癖をなおすために頭から水をかぶるとようやくきちんと目がさめた。考えてみたら、夜勤から帰ってくるのはいつも7時半ごろだったのでいつもより早い。いつも、といっても僕が知ってるのはこのひと月ちょっとのことだから、たぶん、数えようと思えば数えられるくらいしか知らないんだけど。
「早いですね、ミサトさん」
制服に着替えてから、居間でくつろぐ(僕は、この言葉はミサトさんにとって「ビールを飲む」ことを意味していると教わっているので、今の使いかたは間違っていない)ミサトさんに声をかけると、ちょっと変則でねー、という簡単な返事がきた。いつもはくどいほど理由を教えてくれるのに。
「じゃあ、朝ごはんの用意しますね」
「うん、よろしく」
「でも、ビール飲んでてご飯よそって、大丈夫ですか?」
「オッケーよん。だってホラ、ビールだし」
うん、意味はわからないけど、いいならいい。ご飯のおかずになりそうな納豆や卵を冷蔵庫から出して、揃って食事を済ませた。いただきますと、ごちそうさま。ちゃんと声が揃ったのは初めてだったりして。きっと勘違いなんだろうけど。
皿洗いをお願いして、軽い返事に苦笑して、歯を磨いて、ゴミをまとめて。いつだったっけ、ゴミ出しを布団からお願いされたのは。あれはミサトさんの当番を代わってあげたときだ。もう冷蔵庫に当番表は書かれていない。早速消えてしまっていた。だからもう誰が当番かわからないので、今日のところはひとまず僕が。
いってきます、と言って、見送りに玄関に出てくれたミサトさんに、たぶん僕は笑っていた。ミサトさんの笑顔は眠気のせいかゆるんでいて、いつもより子供っぽく見えたから、僕は恥ずかしくなってそそくさと燃えるゴミ片手に外へ出た。今日の日差しも強烈だから、きっと体育でのプールが気持ちいいだろう。今週まで、体育でプールを使うのは男子になっている。
家を出てゴミを捨てて振り返ると、窓の向こうのミサトさんがこっちを見ているのがわかった。なんだか本当に照れくさいので、まさか手を振れるはずがなかった。でも、わざわざ見届けてくれるなんて、正直に言って、すごく嬉しかったので、思わず早足になって、いつもは立ち往生する信号も駆け足で渡りきれたりした。
学校への道すがら、交差点の対角線からやってくるケンスケが見えた。もちろん手なんて振るはずないけど。
「おーす、ほんとに学校きたなあ」
意地悪そうで、意地悪そうではちっともない声で、ケンスケが少しだらしない歩調で合流してきた。
「すげえな、ネルフって。そういう手続きあっちゅー間って」
「そう言われてみると、そうだよね」
よくわからないけど、たぶん凄いはずだ。なにしろ、エヴァンゲリオンなんてものを作れて、街だって自分たちの都合よく作ってしまっているくらいなんだから、色々思い通りになるんだろう。
「感動がないなあ碇は。まあしょうがないんだろうけど、俺みたいなのは、こういうところからして感動しちゃうし、こういうところで感動するっきゃないんだぜ?」
ネルフにいると、学校がどうのこうのなんて、とてもちっぽけに思えてくる。確かにいまいちピンとこなかった。ケンスケだって、一度はエヴァの操縦席に入ったんだから、その凄さはみんなよりわかってるはずなのに。
「僕、大丈夫かな。出て行ったりまた来たり」
「いや、大丈夫だろ、ただ欠席ってなってただけだから。それに皆、碇がパイロットだって知ってるんだし、忙しかった、くらいにしか思わないんじゃないの?」
「そっか、なら、いいけど」
「そうそう、安心しろって」
しばらく道なりに歩いていくと、ふたつ先の角から、同じ学校の制服を着ている皆の中で一際目立つ黒いジャージ姿が見えた。こっちには気づかずに前を歩いている。正直、見た目にすごく暑苦しい。別にいいけど、実際に暑いだろうからよく平気だなと思う。時々制服のときもあるけど、数えるくらいしか見たことがない。
「そうそう、碇は『妙高』って知ってる?」
「いや、知らないけど」
「こないだの夜話さなかったっけ?」
僕があの家から逃げ出してほっつき歩いていたら、ひとりでサバゲーをしていたケンスケに出くわしたときのことだ。趣味の話はひととおりしたけど、その名前は聞いた憶えがなかった。
「そっかー、いやな、まだ大分先なんだけど、今年中に新潟に入港予定があってさ、ちょっと行こうと思ってるわけ」
「ずいぶん遠くない?」
「まあなー、だから小遣い貯めててさ。あ、でも思ったより安かった。バス出てるし、往復1万くらいだから」
「それでも高いよ。でも、お年玉とかは?」
「そんなもん、貰ったらソッコー使ってるよ。俺の装備、いくらするか知ってる?」
知るわけないだろ、という言葉は飲みこんだ。
「まあそんなわけでさ、今日からオレの昼飯はビンボーな握り飯だから、突っ込むなよ、笑うなよ?」
「笑わないよ、僕だって似たようなもんだし」
げらげらと笑いながら歩いていると、前方の黒いジャージが立ち止まった。手を振り合って合流。昨日の朝にも会ってるけど、登校中だとはじめてだ。
「おう」
「トウジ、けがは?」
「へーきや、へーき。昨日のアレさえなきゃ、もっと良うなっとったけどな」
またげらげらと笑って、学校へ向かう。昨日、ミサトさんが連れて行ってくれた喫茶店でピザを食べたトウジがトイレに行ってる隙に、一枚だけタバスコをかけた悪戯を思い出してしまったせいだ。もちろん、犯人は僕でもミサトさんでもない。
「リアクション芸人で食っていけるぜ、トウジは」
「アホ、あんな連中と一緒にすなや」
三人で登校するなんて、前の学校でもなかったことだ。まあ、僕が誰とも話さなかったからだし、別にそれでよかったんだけど、こうして話をしていると、本当のことだか疑いたくなるくらいのギャップがある。思っていた以上に、ひとりでいるのと大違い。
学校に着くと、何人かのクラスメートから声をかけられた。復活?とか、おう、とか、そんな感じ。歓迎ムードなのは気のせいか、気のせいじゃないのか。僕がエヴァのパイロットだってことは、クラスメートは知ってるんだから。
教室に着くと、委員長の洞木さんがさっと気づいて(僕が席に着くのを見計らってから)机の中の紙の束を抱えてやってきた。
「おはよう、碇君。もう元気になったの?」
どうとでも取れる言いかたが気になったけど、気にしない。トウジたちが何か言ったなんて思えないし。
「うん、大丈夫だけど」
「よかった。でね、復活早々悪んだけど、これ、休んでる間のプリント」
「ああ、トウジたちから受け取ったよ」
「ああ、それは宿題のね。こっちはね、昨日配られた、進路相談とかのだから。帰ったらでいいから読んでね。保護者に渡すのは上の二枚だから」
てきぱきした説明に、普段のきりきりした感じとの違いにちょっと戸惑いながら聞いていると、窓の陽気につられたんだろう、洞木さんがほんの一瞬、綾波が座る窓の方へ視線が泳いで、それからトウジを経由して僕に戻ってきた。
「あいつ、こんな暑い日でもジャージってすごいよね」
「ああ、トウジ……すごいよね」
ちゃんと話したことがない洞木さんに普通の話をされるのは、正直言って困る。僕はそんなに用意のいい人間じゃないから、心構えがないと女の子と話すのは難しい。
「でもよかった、碇君が来てくれたし、綾波さんも珍しくいるし、今日は全員揃いそう」
「勢揃いって、珍しいの?」
「だって、綾波さんは半分くらいしか学校来ないし」
「ああ、そうなんだ」
「でも、綾波さんも元気っぽいし、よかった」
洞木さんが、包帯の取れた綾波を「元気っぽい」と評したことにちょっとした違和感を憶えたけど、口にはしなかった。いつも暑い日本に住んでて、あんなに肌が真っ白い綾波を「元気」と言っていいのかどうかは知らないけど、確かに、包帯を巻いている姿に比べれば言っていいんだろう。何日か見ないうちに元気になったみたいだから、確かに、よかった。
「ね……ここだけの話さ、綾波さんも、碇君と同じなんじゃない?」
プリントをついたてにひそひそ話、なんて初めてのような。今日は初めての多い日だ。洞木さん、意外と大胆な喋り方するな。それよりも、内容の方がもっと刺激的で、思わず声が漏れた。その反応だけで伝わってしまった確信があって、少しのけぞって目を合わせた。洞木さんが、ごめんね、とまっすぐに言うものだから、ひとまず笑った。
「べつに誰にも言わないから。なんとなくみんな、わかってるし」
それなら訊いて反応を見てくる洞木さんは、わりと意地悪なひとだっていう評価になってしまいそうだったけど、去り際にひとこと、がんばってね、と言われただけで、いい人に早変わりした。
「それにしても鈴原、ケンカはしないと思ってたけど、やっぱりガサツな男子ってケンカっ早いのかな。ちょっとがっかり」
嗚呼、ごめんなさい。
でも、事情は説明しなかった。「男子って」という言い方をするひとに、あのやりとりは説明したってわからない気がしたからだ。だって女子って、そういうのわかんないだろう?
◆◆◆
葛城ミサトはたっぷり睡眠を取って、再び夜勤に出かけた。本来ならば夕方に出かければ十分間に合うのだが、今日は早めに出て、ここ数日シンジの家出騒動で先延ばしにしていた、第4使徒の残骸見物に出かける予定だ。シンジにも見物してもらうため、学校帰りにしては少し遅い集合時間を連絡したところ、寄り道してるから大丈夫との返事を受けた。きっとあの二人も一緒だろう。その知らせを受けたせいか、運転もいつも以上に気分よく、近くのコンビニでアイスコーヒーを三つ買ってから現場に向かう余裕すらあった。
車を停めて大型テントに覆われた現場に入るやいなや、通りがかった作業員が敬礼で出迎えてくれた。橙色の作業服はネルフの職員だ。さすがに使徒の身体の残骸を取り扱う現場は外注できる要素が少ないのか、ネルフ職員ばかり目についた。
「ご苦労様です、葛城一尉」
テント内のプレハブにはリツコがいるだろうと踏んで入ってみると、彼女は見当たらなかった。その代わりに居たということではないのだろうが、一人しかいない職員が素早く立ち上がって挨拶をしてくれたことは、意外だった。技術部というのは皆専門職で、こうして対応してくれる人間は珍しい。
「作戦部の葛城です。もうじき初号機パイロットも伺う予定ですが、本日は使徒のサンプル調査の見学に伺いました。よろしくお願いします」
「ええ、赤木博士より伺っております。いま呼びますので、そちらでお待ちください」
彼はキビキビと、これまた技術部に似つかわしくない、まくった作業服の腕が逞しい大男だ。それだけで、大方、技術部3課の人間だろうと察しがつく。
「さすがに、外部の人間は入れないのね。ま、当然でしょうけど」
使い捨ての紙コップに冷たい緑茶をもらう。プレハブの奥に、名前の書かかれた紙コップが小物かけに吊るしてあるのが見えた。なるほど、節約はどこも同じらしい。
「関連業者に頼んでもいいんですが、サンプルがこれだけ大量だと、どうしても。人口密度が上がると暑いですし、人件費もばかにならないもんで」
「節約精神、いいんじゃないですか」
視線を干された紙コップへ向ける。男の年齢がわからないので、くだけた調子になりにくい居心地の悪さがあった。おそらく、二つ三つ年下といったとことか。年齢や階級でコロコロ変える趣味もないが、技術畑にしては豪快な気概のありそうな男だったので、軽口をひとつ返してみたが、彼が苦笑と照れ笑いの、やや後者寄りの笑みを浮かべたので、なおさら悪い男ではなさそうだった。
「あれね、上司が――ウチの課長がこの間みたドキュメンタリーで見たらしいんですよ、ドラマの撮影現場かなにかでああいう風にやってるって。いろんな部署の人がお見えになるんで、やるにしても僕ら的には別のトコでと思うんですが、なにぶんこういうところじゃ、ここしか吊るす場所もないもんで」
あ、すいません、申し遅れました――ずっと手に持っていた名刺を差し出してきた。
「技術部3課の、座間と申します」
前々から思っていたことだが、大男が背中をすぼめて名刺を渡す姿は、動物を飼い慣らす飼育員のようで、あまり気分のいいものではなかった、年下にそういう振る舞いをされると特に。
「座間さんね。ネルフは何年目?」
「僕は3年目です。中途なんで、今年28です」
「あらそうなの、まあ、技術部じゃ珍しくないか」
「そうですね、生え抜きの葛城一尉の方が、たぶんレアなんだと思いますよ」
大した歴史もない大組織なのだから、当然だ。それにしても――
「よくご存知ね、私のこと。技術部の中で、私ってそんなに有名?」
「ええ、まあ」
今度は混じりっけなしの苦笑だ。嘘のつけない男なのだな、と思う。誰かさんとは大違いだ。そんな評判でも誠実に応対してくれる座間に、ミサトははっきりと気分を良くした。
「まあいいんだけどね、馴れ合ってもしゃあないし」
「いやでも、凄いと思いますよ、あんなのと戦う指揮をとるなんて覚悟、僕にはありませんから」
すいません、赤木博士でしたよね、と言い座間は席を立って胸ポケットの携帯電話を取り出し、少し離れた場所に退いた。彼の電話がいわゆる電話機型だったのに驚いていると、連絡を取り終えた座間が自分のその様子に気づいたのか「現場じゃいろいろベンリなんすよ、片手で出られるし、手袋のままでいいし」と教えてくれた。リツコは2、3分で来るという。
「でもアレです、僕はいい話ばっかり聞きましたよ、その、葛城一尉のこと」
手つかずのお茶を再度勧められ、ミサトは少し口を湿らせた。少し口ごもりながらの様子に、なにやら含むものを感じる。
「あら、そう?誰からかしら」
「自分の部署じゃないんですが、病棟の一之瀬さんから」
大学の同期の名前が出るとは思っていなかった。目を丸くしていると、座間が小さく何度か頷き、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「今度の飲み会、実は僕も出ることになってまして」
「ああ、そうなの!食堂で、一之瀬に声かけられた?」
「いえ、ちょっと通院してたんですが、そこで一之瀬さんと話すようになって、ですね」
「そうなの。あいつ、仕事の時間以外では、自分の職場の人間とは喋らないで、色んな人に話しかけて顔見知りが多いのよ」
その人脈をフル活用した飲み会は、毎回2、3名のメンバーが入れ替わる。その飲み会は、この街に来てから日が浅いミサトを気遣ってのものなので、自分は固定メンバーの一人だが、同期で年上の一ノ瀬にとっては飲み会と合コンの中間のような位置づけでもある。なるほど、この青年はひとまずお眼鏡にかなった、といったところか。
「なるほどですねえ。ま、でも、僕は違うんですよ、だから」
そう言う彼の自意識を感じつつ、言葉を選びながら、それと悟られないように口を開いた。
「そうなのねえ、確かに、食堂でってんじゃないなら、珍しいわね」
その次くらいに珍しくないことは、言っても詮無いことだろう。
「んじゃ、本当は来週の木曜日にはじめまして、だったわけね」
「ええ、でもよかった、なんか飲み会で初対面とかだと、そんな普通に話すのって難しいんで、ここでご挨拶できて。来週、よろしくお願いしますね」
そうこうしているうちに、プレハブのドアが開いた。
「お待たせ」
リツコがシンジを伴って、大した音も立てずに入ってきた。
ちょうど鉢合わせたの、という補足説明とともに、いかにもオドオドした様子で入ってくる少年は、工事現場に入り込んだネズミかリスを彷彿とさせた。お邪魔します、という声は外の解体作業に混じって不明瞭だった。
「お疲れさん、どう?サンプルは」
「不思議なほど、劣化速度が遅いから助かってるわ。コアも割れてるだけで綺麗だし。サンプルの採取は今日で一段落ね。永久動力機関と思われる部分を除けば」
ミサトの差し入れに口をつけたリツコはブラックのままで、シンジはミルクとガムシロップをすべて入れて飲みはじめ、席に着くと、入れ違いで座間が二人の背中越しに会釈して出て行った。
「ああ、疲れた」
リツコが肩甲骨を意識したストレッチをはじめる。
「べつに、こっちまで来なくてもいいんじゃないの?」
責任者なんだから、という言葉は飲み込んだ。
「皆には悪いけど、この方が手っ取り早いと思うとね」
「そんなこと言ってると、部下が成長しないっしょ」
責任者なんだから、という言葉を投げかけるのをもう一度飲み込んだ。ピッチャー返し必須の投球だ。
「あまり悠長な性格じゃないの、これも悪いとは思うけど」
すぐに所在なさげな顔をするシンジが目に留まった。まったく、この子ももう少し普通にしていられないものか、と思わないでもないが、人がすぐに性分を変えられるものではないという当たり前のことくらい重々承知しているので顔には出さない。
「つったって、零号機の再起動試験も控えてるんでしょ?」
「そうね、でもあっちは前々から予定通り進んでいるからいいのよ」
「あの、零号機って、綾波が乗るんですよね」
割って入ったシンジのきょろきょろと動く目を見る――目元は父親に似ていないことに今更気づいたミサトは、母親似であろう少年の全体的に優しい顔立ちを眺めた。
「ええ、そうよ。あの子の怪我も良くなったし、二機動かせればそれだけミサトが助かるしね」
少年の一瞬の表情の曇りを見逃すほど鈍くないリツコが、らしくなくずずっとストローを吸った。
「もちろんシンジ君が戻ってきてくれたことで、計算の立つ戦力が確保できたからこそ、慎重に進められるっていうことが大きいけどね。正直、実験中に暴走した例なんて今までなかったし、零号機に関してはもっと慎重でもいいかも、なんだけど。私たちも、余裕がないのよ」
「そうですか……あの、このあと、零号機も見に行けたりするんですか?」
「まだ立ち入り禁止よ。現場が荒れててね、まだ。そのあたりは後回しにしていたから。3課に少しずつ片付けさせてはいるんだけど」
さて、少し見て回りましょう、とリツコが休憩の終わりを宣言し立ち上がった。つられて二人も立ち上がり、使徒の残骸を見て回る。ミサトのやや前を歩くシンジの表情はよく見えなかったが、横を向いた時の彼は、ぼうっとしているような呆気に取られているような、目の前のものと向き合う自分の適正距離を見つけあぐねているようだった。
見学を終え、三人でネルフへ向かう。ミサトが二人を車に乗せて出発し、かけ忘れていたサングラスで西陽を遮ろうとしたところで、彼女の手を遮る声が上がった。
「あの、零号機って、どうして暴走してしまったんですか?」
ミサトはサングラスをかける手前で、バックミラー越しにリツコに目顔で合図を送り、自分はハンドルに集中することにした。リツコとも積極的に関わろうとしてくれているのだから、そのままでいいだろう。
「原因は不明よ。ただ、パイロットへの過度なストレスの可能性が一番高い、と考えているわ」
「綾波が?」
「意外かもしれないけど、そんなものよ。プレッシャーなしにエヴァに乗れる人間なんていないわ。そうでしょう?」
シンジが反射的に頷いたように見えたが、少し間を置いて、彼はかぶりを振った。
「よく、わかりません。なんとなく乗れてしまっただけだし……」
「ストレスなんて、誰も感じたくて感じるものじゃないんだから、それならそれでいいのよ。あら、ちょっと待ってね」
断りを入れたリツコが白衣から携帯電話を取り出し、画面を見て、小さなため息のようなものを吐くと、彼女は人形遣いのような指さばきで返信を済ませた。
「それであの、どうして綾波はあんなに大怪我をしたんですか」
携帯を戻しながらリツコが答える。
「シンジ君がいつも起動試験に使っている、地下の第二実験場、あるでしょ?連絡通路を挟んで、あの反対側に第一実験場があるのよ。あの時は擬似エントリープラグではなくて、機体に搭乗しての実験だった。そこでの暴走によって、エントリープラグが強制排出されてしまったの、誤作動でね。あんな限られた空間で飛び出してきてしまえば、四方八方に激突するしかなくて、そして落下していった」
「そんな」
リツコに任せたのは失敗だったかもしれない。ミサトは山を下りる緩いカーブの繰り返しで感じる重力をゆっくり味わえないもどかしさとサングラスを掛けたことの後悔を同時に感じながら、急速に苛立つ自分を抑えるべくアクセルを緩めて二人に気づかれないような静かな深呼吸をはじめた。
「それでもいい方だったのよ。暴走を続ける零号機の動きを止めるため、特殊硬化ベークライトを実験場に投入した。エントリープラグからまだレイを救出できないままにね。幸い、電源を落としたらすぐに止まってくれたけど、状況次第ではベークライトの注入が長くなって、エントリープラグごと固めることになってたかもしれないけれど、その前に無事救助されたの。救助隊の駆けつける前に、碇司令が高熱のハッチをこじ開けてね」
「父さんがそんなことを?」
「ええ、それが事実」
言い聞かせるように、最後の一言はゆっくりだった。
シンジが神妙な顔で大人しくなったのを良しとしなかったのか、リツコがやや性急に付け加えた。
「まあ、救助隊でも間に合ったみたいだから、碇司令も骨折り損ってことね。あの人もそういうヘマするっていう意味では、貴重な瞬間だったわ」
「そう、ですか。父さんが」
車中に沈黙が残った。
「ねえリツコ、そういえば、今度ウチで飲むってヤツ、何曜日にする?」
わざとらしかったかもしれないが、今の話はもうこれ以上続けてもいいことがないと踏んで、ミサトは顎を傾けた。
「ああ、そうね。再起動試験が木曜日だから、木曜日だといい感じに打ち上げになるんだけど、あなた、夜勤だった?」
「いや、休みなんだけど、ゴメン、そこは先約の飲み会だわ」
ミサトはさっき知り合ったばかりの技術部の青年と、幹事の看護師を思い浮かべた。
「あらそうなの、もうこの街で新しい男見つけたわけね」
俯いていたシンジががばっと顔を上げたことに、吹き出しそうになる自分を必死に堪えながらリツコに目で礼を言ったつもりだったが、サングラスだったことを思い出した。夕焼けが恨めしい。
「そうじゃないわよ、アメリカの頃の知り合いがこっちの病院に移ってきてんの。そんで、定期的に飲みに誘ってくれてんのよ」
「そうよね、それくらいの憐れみを受けても罪はないと思うわ」
「ったく、あんたねえ――」
「だから冗談よ、冗談。じゃあ、候補日決めて連絡頂戴。起動試験終わったらどうとでもなるから」
「じゃあ金曜は?まあ、起動試験がうまくいけばだけど」
「いいわよ、それで。じゃあ、時間はまた連絡頂戴……飲み会なんて、久しぶりだわ」
無理もないな、とミサトは思う。零号機の暴走以来、使徒襲来も重なった彼女の忙しさはミサトを上回るほどで、きっと落ち着くタイミングなどどこにもなかっただろう。
「んじゃ、来週の金曜日ね。ヨロシク」
◆◆◆
暑い――。
また学校に通い始めて一週間たつと、はじめは誰も彼も興味深そうな目で見られていた僕は、案外あっさりただのクラスメートとして扱われるようになっていた。現にいま、体育の授業のバスケでチームの負けに貢献して、その責任を問うみんなの視線に耐えられずに得点係を買って出て、炎天下の校庭で座りもせず試合を、校庭を、反対側のプールを眺めている。
「ナイッシュー!」
クラスメートの声が響く。たかが学校の体育にも声を張り上げる福田君は、バスケ部の副主将だったはず、と記憶をたぐり寄せながら得点をめくる手を動かした。今のはギリギリでスリーポイントじゃなかった。6−4で緑チームがリード。緑チームはジャンケンでの適当な振り分けのせいでバスケ部が3人もいる。いくら6分のゲームでも、もっと点が入っていていいのに、半分すぎても妙に競った試合になってしまっていて、そこから抜け出そうという気合がさっきの声に表れてることは、スポーツが不得意で好きでもない僕にもわかる。そして、この展開の原因がバスケ部員の不調ではなく、相手の青チームが好調である、ということも、見ればわかる。
特にトウジの気合いがすごい。ゴール下で相手ににらみをきかせながら、中に入ってくるプレーヤーを確実にブロックしている。暑苦しい性格のように思えるし、実際そういう人間だろうと思ってたけど、スポーツができるひとは集中力を高めても視野が広いということが、トウジの動きを見ているとよくわかる。
「やっぱネルフの訓練って、こんな体育とかじゃなくてさ、すごいんだろ?軍隊格闘術みたいなのとか」
「そんなことないよ」
得点板の反対側に立つケンスケの期待を裏切るようで悪いけど、僕がやっている訓練はもっともっと、聞いたらがっかりするくらい地味なものだった。それこそ、ストレッチと体操とか、そういう感じのもの。それでも僕にとってはすごくつらいし、全然うまくなってる気がしない。たった一ヶ月で劇的によくなるはずがないと先生からは言われるけど、現実が本当にそんなものだなんて、直面するまでよくわからなかった。
「やっぱ、基礎が大事ってやつかあ。そういうのができるヤツとかの方がパイロットに選ばれやすいとかあるのかもな」
「いや、僕が選ばれてる時点で、たぶんちがうんじゃないかな」
「ああそっか。うーん、じゃあどうすりゃ有利になるんだ?」
「知らないよ、そんなの。ああ、ケンスケ、この暑いのによくずっと喋っていられるね」
「暑いって言うなよ、気にしないように話してんだから」
それは失礼しました。
ただ、ただでさえ35度もある中、体育館が補修中で使えないせいで校庭でバスケをしなきゃいけない時点で拷問なのに、暇つぶしにしては熱のこもったケンスケの話をまともに受け止めていたらこっちはどうにかなってしまいそうだ。不公平だ、女子はプールだっていうのに。
「碇はパイロットになったばっかだからしょうがないけど、その点ホラ、綾波とかはどうなの?」
「なにが?」
トウジがスリーポイントを決めた。会話に夢中だと思ってたケンスケが間髪いれずにぺらっと得点をめくる。6−7。うおー、とさすがに見学のみんなも唸る。戻りながらみんなとハイタッチを交わすトウジは、傍から見ていてもかっこいいと思った。
「そういう、身体能力的なの。すげえ病弱そうだけど」
「見たことない……けど、確か体操の先生がすごくいい成績だって言ってた気がする」
厳密には「頑張って続けていけば、そのうち綾波さんのようになれる」とか、そういう言いかただったっけ。だめだ、ちゃんとやってないから、話もちゃんと憶えてない。とにかく僕は、支給された体操用のスパッツとかタンクトップが自分に似合わなくていやなんだ。スポーツマンっぽい格好も好きじゃない。
「ああ、それはなんかイメージ湧くわ。超身体やわらかそう。あとレオタード的なやつ」
ケンスケが顎をクイッと動かして、校庭の向こうにあるプールの授業を受けている女子を指すのでそっちを見る。といっても、僕らは試合を見ているだけで、その向こうの女子たちが見えるので、いかにものぞき見しているとは思われないで済む、役得のポジションだ。
「よくわかんないけど、それ、イメージなの?」
ひとりだけ、キャップを被らずに体育座りしている女子がいる。背中をこちらに向けて顔はわからないけれど、白くて細い腕はもちろん、それよりなにより目立つ青い髪を視界に留めた。いや、本当を言うと、ずっと前から気づいていた。
「いやいや、シンジがさっきからずっと頭ん中に描いてる綾波のイメージを受信したんだよ!」
「な、なんだよそれ!」
緑チームが得点を入れていたことに気づかず、おい!と審判と福田君の二人から怒鳴られて、慌てて得点をめくった。8−7。たかが授業で大接戦だ。
「だって、ずっと見てたろ?」
「いや、そんなことないって」
真偽はわからないはずだ、こう言っておけば。でも、たぶん、納得はしてもらっていない。試合終了間際のトウジのシュートが放たれて、見学中の男子たちからおおーっ、と声が上がった。シュートは惜しくも外れて、相手の速攻が決まった。10−7。それと同時に試合終了の笛が鳴る。次は僕達の番だった。戻ってきたトウジにおつかれ、と声をかけると、さすがにジャージではなく体育着姿のトウジは汗びっしょりで、シャツが汗に張りついていた。そこから浮かび上がる体つきからは目をそらしていると、
「おう、あっづいわ、適当にやっとき」
「最初からそのつもりだよ、オレたちは」
脱いでいたゼッケンを着ながら、きっと誰が見ても明らかにかったるそうな様子にちがいない僕らはコートに入った。6分間の苦行の結果は6−6の引き分け。運動が得意なひとが3回ずつシュートを決める、という出来レースのようなつまらない試合だったと思うけど、バスケ部でもないのにこの授業のスターになっているトウジが引かない汗をぬぐいながらけだるい顔で出迎えてくれた。
「さあ、本番やで」
そう、真の苦行は、実はここから。体力強化月間と銘打たれた今月は、毎回、体育の授業の最後に10分間走をすることになっていた。起き上がったトウジが大の字になっていたところだけ、ゴムのような素材でできた校庭の床が変色してしまっている。先生の笛が鳴って、ゼッケンを回収したら整列して行軍開始。もちろん全員、なにも言わずにちんたら走ると心に決めている。いまの僕たちは、結構高いシンクロ率にちがいない。
「ま、でもさ、冗談はさておき、パイロット同士なら色々話するんじゃないの?」
どの文脈の話をしているのかよくわからないでいると、トウジが、何の話や、と訊いてくれたので、ケンスケの質問の意味が大体わかった。
「綾波って、オレなんか一回も喋ったことないぜ」
「なんや、綾波の話かいな」
「そ、シンジがずっと見てたって話」
そこに戻されてしまうと、話がちがう。そのまま言うとトウジが深々と頷いて、なるほど、と言った。大体を察してくれたトウジは、どうやらただの熱血漢じゃない。
「となると、シンジは胸派、尻派どっちやねんな」
ただの熱血漢だった。
「な、なんだよそれ!」
「ワイは太もも派やから、綾波みたいにほっそいのはアカンな……」
「トウジはムッチリ系好きだもんなー。この間の動画、オレはいまいちだった」
「はァ?あんなボディなかなか拝めんやん」
「なんか作り物っぽいんだよなあ、あれ。胸とかアレたぶん入れてるよ」
まあ、おれたち、実物見たことないけどな、と誰ともなく漂ってきた言葉ひとつで沈黙が立ち込め、更なる熱気に包まれた。もうこれを振り払うことは誰にもできないだろう。苦行、苦行。でも実は、暑いのは割と得意だ。僕はどちらかというと寒い方が苦手なので、使徒の攻撃に冷凍光線があったら結構困る。
「……ま、とりあえず男子で綾波と喋ったことあるやつ、いないやろな。ちゃんとは誰とも。女子でもないんちゃうか?」
「その点シンジは、オレたちの歴史を塗り替えてるぜ」
きっと色々、話せないことあるんだろ?という顔のケンスケを裏切るようで申し訳なかったけど、
「僕もほとんど、口、きかないから」
それより、明日は上司が同僚を呼んで飲み会が開かれるのでどんな顔していればいいのかわからない、という話をしたら、列が乱れるほど食いつかれ、30歳の女性って実際アリなのかナシなのかっていう議論になった。そのおかげでつらい10分間が意外と楽しくなった。綾波のことを聞かれても、正直、なにも答えられるものがないので、助かった。
◆
翌日、金曜日の訓練は午後5時から7時までで、ジオフロントの中では上層部にある訓練場でやることになっていたから、行きも帰りもわりとラクだった。綾波はいない。身体を使った例の訓練メニューは、僕と綾波では出来がちがいすぎるのでほとんど一緒になることはない。昨日の再起動試験はうまくいったと今朝、例の飲み会で二日酔い気味のミサトさんから聞いていたので、仮にメニューが一緒だったとしても、たぶん、今日は休みだろう。先週、僕が学校に通いはじめた日だけは来たけど、結局綾波が学校にきたのはあれっきりだった。そういえば、そのことを洞木さんは悔しがっていたりするんだろうか。まさかね。たかがクラスメートが休むのを、そんなに気にする中学生なんて気持ちが悪いし。
帰ると、日勤だったミサトさんが僕より先に家に帰っていて、ドアを開けるなりカレーの匂いが漂っていた。飲み会なのにカレーっていうのが正しいことなのか僕にはよくわからないけど、たぶん、僕も食べられるものっていうのを考えてくれたんだろう。
ただいまとおかえりの往復にも、少しずつ慣れてきた。最初の二週間か三週間は、まともに顔を見て挨拶することもできなかったのに。着替えて手伝おうとすると、皿を出す以外はやらなくてよい、と言われて持ち無沙汰なので、ネルフから支給されたタブレットでダウンロードした漫画を眺めていると、8時すぎにはリツコさんがやってきた。普段、ネルフで見る服ではなく、黒いソデ無しのシャツの上に水色のブラウスみたいなのを着ていて、なんだか、女性っぽい。こういう言いかたは、たぶん失礼なんだろうけど、なんとなく「保健室の先生」っぽかった白衣姿と違って、今は美人の理系女子って感じだった。
「あらシンジ君、制服姿じゃないのって、はじめてね」
お互い様だったみたいで、笑ったリツコさんの顔をまっすぐ見てしまった。思わず目をそらして、目に入ったリツコさんの左手の手提げ袋を受け取ろうとした。顔が赤くなってるかもしれないことは、知られたくなかった。
「ああ、大丈夫よこれくらい」
ヒールを脱いだリツコさんが一度、二度と袋を上げ下げするので、仕方なくどうぞとリビングへ通した。通り過ぎたリツコさんからは、香水の匂いがした。
「うーす、いらっしゃい」
「相変わらず、だらしのない格好ね、子供の前で」
タンクトップ姿のミサトさんを窘める口調のリツコさんの声色がなんだかいつもとちがって軽いような強いような口調で少しびっくりすると同時に、子供という言葉に側頭部がチリっとなった。
「気ィ使ったって、それはそれで、でしょーが。まあとりあえず、適当に向こうに座っててよ」
お皿を出したり、冷蔵庫にあるおつまみや、リツコさんが持ってきた手土産(酒とデパ地下の惣菜)をお皿に盛ったりして、なんだか落ち着かない状態のままお酒を飲み始める二人に置いていかれそうになった僕は、なんとなく普段あんまり飲まないジュースをコップに入れてその場に座った。正直、漫画も読みかけだし、2人の学生時代の話もあんまり面白くないし(カトウさんという人が共通の悪口の矛先で、カジさんというひとがミサトさんにとってのアキレス腱だということだけは、なんとなくわかった)、小一時間つきあったあたりで、空腹も限界の僕に気づいたのか、リツコさんが「ちょっとお腹にたまるもの欲しいわね」と助け舟を出してくれた。ミサトさんはもうちょっとお酒を飲んでからにしたかったらしいけど、僕はわりと問答無用で三人分用意しようと席を立って、カレーを火にかけ、ぐつぐつと煮立ったころに蓋をあけて、はじめて異変に気がついた。
ミカンが見える。あと、流しには缶ビールも見える。飲んだのか、入れたのか。
「マジかよ」
声に出ていた、思わず、さすがに。
僕は記憶を手繰り寄せた。あれ?ミサトさんのご飯って食べたことあったっけ?ないことないような?あれ、でも、ご飯を炊いてもらった以外は買ってきた惣菜とかインスタントだった、かもしれない?
「シンジ君どーかしたー?」
ミサトさんの声だ。どうかした、どうかしてるのか、僕は。これは、どうということはないことなんだろうか。どこかの地方色が出ているだけとか、そういう、僕の知らない世界がこの鍋に凝縮されているとか、そういう話なんだろうか。
僕はとにかくご飯とカレーを皿によそった。ミカンとちくわと、あとなぜか酸っぱい匂いがしたりしたけど、これはこれでアリな世界にちがいないから何も考えずに持っていった。
そしたらもちろん、大人同士でも喧嘩になった。
このときの写真をネットでつぶやいたりしたら、きっとたくさんのお気に入り登録を得られたに違いない。特に、ミサトさんはおかわりと称してカップラーメンにそのカレーを入れたものを食べだした時の衝撃映像ぶりは、リツコさんが思わず僕に「やっぱり引っ越したら?」と口にするほどだった。確かにその考えも一瞬よぎったけれど、荷解きした荷物やベッドが頭に浮かんで、ここを離れる気にはならなかった。
結局カレーはひと口しか食べなかったけど、その代わりに楽しかった。きっと大人数だったら、もっと楽しかったと思う。できれば今度はトウジとかも呼んで、作るところから始められたらもっと楽しい、ドラマみたいで。きっとないけど、そんなの。
「そういえばミサト、合コンはどうだったの?」
食事も一段落して、やっぱりカレーにほとんど口をつけずじまいのリツコさんが、チューハイをゆらゆらさせながらの質問のような、からかう口調に、先週の車中でのやりとりを思い出した。
「いや、合コンじゃなくて飲み会だから、ただの。まあ普通よ、普通。べつに初対面の人がいるからどうってんでもないし」
「どっちかっていうと、お酒のペースとか変えなきゃいけないのが面倒くさいわよね」
「そうそう、そうなの。ほんとは芋のお湯割りとかにしたかったんだけどさあ、冷房キツくて。でもほかのみんなはそんな飲む人じゃなくて、ひとりでそれはさすがにやべえかなと」
「そのへん制御しないと、お声もかかんないわよね、30になると」
「ああ、パイセン、やっちゃった系すか?あと私はまだ29なんで」
「やらかしてないわよ、ただ、学生ノリはもう無理って話」
この二人にも、学生時代があったんだ。そもそも、学生時代から知り合いだったってことを、今日はじめて知った。
「まあねえ。あ、でもなんか、学生ノリじゃないけど、ひとり結構アツいやついたわよ、あんたんとこの部署の、座間っていう子。酒はあんまり強くなかったし、歌もヘタだったけど」
「3課系は私、あんまり絡みないのよ」
「あ、そういうもん?」
「私、1課の出身だから」
リツコさんの解説によると、1課はエヴァ本体、2課はエヴァに関連する兵器や装備、3課はジオフロントやネルフ本部の設備を担当しているらしくて「畑違い」らしい。
「だからガテン系多いのよ、建設会社ノリっていうのかしらね。確かその座間君も、ガタイのいいコでしょう?」
「185くらいあったかも」
「あなた、ああいうの好みだったかしら?
「さすがに年下は申し訳ないわ、段々ねえ」
大人の話だ。こういう話は貴重だ。でも、僕は結局自分の背丈はあとどのくらい伸びるんだろう、なんて事を考えてしまう。父さんが190センチ近くあるから、僕もある程度大きくなるんだろうけど、今の僕は平均より低いくらいだから、ミサトさんより低い。
「初対面って言っても、座間君は確か、先週のサンプルの現場にいなかった?」
「ああ、うん、そうかも。でもなんかね、実はパティシエだかコックだかが夢っつってたわ。今度もってきます!なんて幹事のやつに言ってたもん。見かけによらないわね、人は」
「あなたを見ていていつも思うけどね、私は。っていうかさっき歌がヘタとか言ってたけど、随分盛り上がったんじゃない、カラオケ行ったの?」
「いやいや、パティシエだとかの話になって、なんか、かわいいコックさんの絵描き歌の話になったのよ。んでちょっと描いてみ、って言ったら、絵はさておき、絵描き歌なのに下手だってわかるくらい、驚くべき下手さだったワケ」
「パティシエって言ってるのにコックの絵を描かせるアナタの神経にこそ驚くべきだと思うけど」
「いや、なんか流れがあったんだってば、そういう」
「酔ってるとワケわかんない流れになるのは確かね。でもそのお菓子、果たして、ミサトまで届くかしらね」
「どーかねー……まあ、そういう夢が語れるようになっただけマシと思ったわけよ」
「夢を持つことがいいことかどうかは、微妙なところね」
「持ちようがないよりはマシよ。なりたい自分を捨てないなんて、結構なことじゃない」
「このご時勢で、現実的じゃない夢をみるのを賢いとは言わないわよ」
「前向きになるためには、そういう材料も必要ってハナシよ。賢いかどうかなんて、誰も判断しなくていいってば」
セカンドインパクト世代の会話は、僕らの世代にはあんまりなじみがない。あったものがなくなる焦りや絶望を、僕らは味わっていない。はじめから、ないものはないところから始まってるから。だからか、周りのみんなは結構向上心が強い。こういう風に社会に貢献したい、家族を大切にしたい、あれやこれやになりたい――みんな、具体的な目標を語る。僕にはない。出てこない。だから、そんな話を聞くといつも信じられない気持ちになる。
「お菓子と言えば、あなた、マヤたちが企画してるスイーツ持ち寄りの話、なんであなたまで参加することになってるわけ?」
「えー?日向君から聞いたの」
6本目のビールを飲み干したミサトさんが、チューハイに切り替えながら、ちょっと甘えた声で言う。
そうじゃなくて、とリツコさんは大げさな手振りと顔つきで否定してみせた。酔っ払うと、リツコさんでも様子が変わるらしい。
「あれは同期での、内輪のイベントのはずよ」
話の聞くうちになんとなく理解したところによると、青葉さんと伊吹さん、日向さんたちの同期が、大きなイベントを終えたら甘いものを買ってきて食べる集いをやろう、という話をしていたらしい。大人でもそういう、こじんまりしたことやるんだっていうのが、意外だった。
「いやだから、私は日向君に普通にそんな話されて、行きたいっつったら是非って言われただけだってば」
リツコさんが露骨に表情を歪める。苦虫を噛み潰したような、ってこういう時に使うんだろう。
「まあいいけど、基本的には断りなさいな。私たちがいたら、堅苦しくなるでしょう。バランス取るために私までお呼ばれされたんだから」
「なあによう、結局来るんじゃないの」
「あなたが行くって言うからでしょ。責任取って、マヤたちの希望するやつ、あなたが買ってきなさいよ、せめて」
「わあった、わーったわよう」
言い合う二人は、楽しそうに見える。よくわからないけど、大人でもこういう関係があるらしい。よくわからない、僕にはまだ。
リツコさんが帰っていったのは11時半をすぎていた。明日は土曜日で、リツコさんは久々の休暇らしい。そして、ミサトさんは仕事だ。その事を忘れていたミサトさんは、もう曜日の感覚わからんわー、と嘆いていた。
僕も、せっかくの休日だけど、明日はネルフの訓練がある。それはわかってたからいいとして、それとは別に、憂鬱な決定が二つ下った。
ひとつは、今後の食事は一切僕がやること。
そしてもうひとつは、休暇のリツコさんに代わって、綾波レイのIDカードを明日届けなければいけないこと。私が届けてもいいんだけど、とリツコさんは言っていたけれど、働き詰めだった話も聞いていたから、さすがに断りづらかった。でも、憂鬱だ。昨日の零号機の再起動試験の直前に、エントリープラグの調整を行う綾波に父さんが話しかけに来た姿を見ていたから。
ベッドにもぐりこんで、いつもならすぐに眠れる時間なのに、渡されたカードを弄びながら、なかなか回らない時計の針を気にしながら、憂鬱な夜がすぎていった。
◆
寝不足気味の頭でも、目が冴えるということはあることを、この街に来てから学んでいたので、今日もきっとそうなるだろうと思っていた。予想通り、夜更ししても6時半のアラームで、目の周りは腫れぼったい感じがするのに、閉じていたことが嘘のように眼が開いた。
パンとジャムの朝ごはんを済ませて、7時すぎには家を出た。なにを着ていけばいいのかわからないので、休日の訓練日には制服で行くようにしている。だから、僕は制服のズボンも2着持っているし、シャツも買い足して7枚も持っていた。洗濯ってものがあんなにめんどくさいなんて思わなかったから、5枚じゃ足りないときがある。
地図アプリを開いて、リツコさんから聞いていた綾波の住所は昨晩すで入力済みだ。所要時間は約40分。僕は街に詳しくないので、歩いているだけですこしは気晴らしになるかもしれない。綾波に会うのがそれくらい憂鬱だった。なんなら、エヴァに乗るほうが気楽かもしれない。知らない女の子の家に行くなんて、誰だってそれくらい憂鬱になるものだと思う。それに加えて一昨日の綾波と父さんの姿を見たら、なおさらだ。
大通りに出て交差点を渡るべきルートだけどその交差点が意外と遠いので、歩道橋を渡った。こんなに家の近くでも、そういうことを知らないままでいられることも、ここに来てはじめて知った。普段行き慣れたところ以外行ってないとこんなもんなのか。いかにも大人が入りそうなバーらしきお店が朝なのに開いていて、よくわからないことだらけを実感しながら小道を突き抜けて、開けた通りを左へ。ここから結構まっすぐ歩く。
それにしても暑かった。早くも汗が染み出してくるのを感じる。この街は盆地だから格別暑いという話を誰かから聞いたけど、今日の暑さは想像以上だった。先生のところは、山からの風がもうすこし気持ちよく吹いていて、涼しいところだった。暑いのが得意と言っても限度がある。
20分近くまっすぐ歩いて、右、左、左、右と歩いて、地図アプリが遠回りだったことに気がついた。なんだこれ、まるで僕の行きたくないって気持ちを察してるみたいじゃないか。でもごめん、いい迷惑だ。
綾波レイに会うのは、ほんとうに憂鬱だ。歩こうが走ろうが、僕の気持ちは変わらない。舌打ちして振り払った。こんなことを思い出すのも地図アプリのせいだ、こんな暑いのに遠回りなんてさせるから。
一昨日、初号機の中からカメラで綾波に近づく父さんを見つけて、カメラを寄せてみると、綾波も僕が知るような無表情じゃなかったし、そんな綾波と話をする父さんだって。ああもう、あの時カメラをズームにしなければ、あんな綾波と、目を細めて笑いかける父さんなんて見ないで済んだのに。二人の雰囲気は、気持ち悪かった。見てはいけないものを見てしまった、という確認のような気持ちが残る。不愉快だ、ほんとうに。
結局、着くのに1時間近くかかってしまった。暑さでペースダウンする可能性を考えてなかった。いつの間にか体力がついたなんて勘違いをしてしまっていたんだろうか。
綾波が住んでいるという団地は、倉庫街脇の団地群のうちのひとつだった。ぎょっとするほど過疎というか、古い、人気のないエリアで、どういう歴史でこうなったのか想像もできない。こんな風に見捨てられる場所があるなんて、戦争でもあったっけ、この国?戦争より酷い災害だったセカンドインパクトって、15年たってもこんな場所を作るのかとゲンナリしながら足を踏み入れた。横倒しになったビルがそのままになっていたりもしている。その中で、一番ましな状態を保っていると思われるアパートが、綾波レイの住処と一致した。マジかよ、という言葉を今度も漏らして階段を上った。エレベーターが動くかどうかを確認する気にはならなかった。
蜘蛛の巣の博物館みたいな階段を三階分上って、手前から二つめを確認する。綾波という表札が確かに出ている。もう一度さっきの言葉を飲み込んで、もう一度リツコさんのメッセージを確認する。
まちがいない、402号室。
本当に、こんなところに住んでるんだろうか?父さんはそれでいいのか?
いや、父さんは関係ないはずだ。くそ、綾波を考えるたびに父さんがついて回る、この鬱陶しさは格別だ、くそ。
自分でもびっくりするくらい、おそるおそる呼び鈴を押した。鳴らない。押しが甘いか?もう一度。鳴らない。これはミュートとかサイレントモードとか、そういうことができるものじゃないんだから、壊れてるとしか思えない。いないなら帰るしかないけど、一応、扉を引いてみる――開いた!マジかよ、という言葉をようやく飲みこむことができた。
ゆっくり開いたドアの隙間を覗き込む。玄関には使い込まれた革靴とサンダルが一足ずつ。家にいる気配がする。こういうの、どうしてなんとなくわかるんだろう?
「ご、ごめんください、あの……碇だけど」
最後くらいは、ちゃんとした声で言えたと思う。けれど、反応はない。なんだか妙だ。けど、届け物をしにきたのに、妙な雰囲気だったから帰りました、じゃ済まされない。開いたドアの内側を見れば、溜まった郵便物が煮こごりのように固まっている。これじゃ、むき出しのカードを入れるなんておっかないことできるわけがない。リツコさんはどうしてもっと確実な方法で渡そうとしないんだ、と怒りがこみあげてきた。なんで僕がこんな困らなきゃいけないんだろう。そもそも、僕には休日に綾波に会わなきゃいけない理由なんてなかったんだ。
「綾波、入るよ」
もしかしたら、寝込んでいたりするのかもしれない、という可能性を見いだして、埃っぽい床をそろそろと歩いていく。短い廊下に、あまり使われていなさそうな小さな台所を通りすぎると、もう部屋になった。ひとり暮らしの部屋って、こんなに小さいのか。
ひと部屋しかないそこにも、綾波はいない。それどころか、廃校の保健室をそのまま持ってきたみたいな雰囲気だった。ベッドや鉄のパイプがむき出しで、冷蔵庫は古くて、ベッドと冷蔵庫の間にはついたてが置いてあるっぽいけど、僕からは垂直の位置になっていてよくわからない。そしてなにより、壁までコンクリートむき出しで、全体的に朽ちかけって雰囲気しか感じない。総合的に言って、どう考えても子供がひとりで住むところじゃなかった。
――いないのかな。
たぶんこれは、声に出ていた。
コンビニか、それとももう出てしまったか。であれば問題だ、このままじゃ、綾波はネルフに行っても立ち往生、渡すことができなかった僕は説教されて、もう二度と頼まれ事なんてされなくなるだろう。困った。けれど、いないならどうしようもない。でも、ちょっと近所に買い物しているだけかもしれないので、家の外で待っていてもいいかもしれない。綾波がどのあたりまで出たのか、わかるものはないだろうかと部屋を見回した。いつも持ってるものが置いてあるとか、鞄があるとか。
鞄は壁にたてかけてあった。綾波もネルフに来るときはいつも制服なので、これは待っていたほうがいいかもしれない。視線を戻そうとする僕の視界に、違和感が宿った。いつも持っているものがあるだけじゃなくて、いつも持っていないものまで見えた。黒いメガネケースがベッド脇の引き出しの上に置いてあった。近寄りながらもう一度記憶を整理する。綾波レイの視力が悪いという話を聞いた記憶はあるだろうか。いや、ない。確かに、あんな目の色だったら、視力が低くても全然違和感はないけど。
吸い寄せられるように近づいて、ケースを開ける。
そこには、四角い縁なしの眼鏡が入っていた。それも、割れていて、フレームが歪んでしまっている。ずいぶんひどい落とし方をしたっぽいので、それで見たことがなかったのかもしれない。それで、怪我もしていたし、修理に出せなかったとか。うん、ありそうな話だ。
ただ、なんとなく、綾波がかけるにしては大人っぽいというか渋いというか、ちがう感じがする。綾波レイの眼鏡姿というのも想像できないけど、この眼鏡はイメージじゃない。男物っぽい。でもまあ、持っているなら本人のものなんだろう。どれくらい度がキツいのかな、と思ったら、自然とその眼鏡を掛けていた。
結論から言うと、とてもキツい。こないだ、ふざけてケンスケのを掛けさせてもらったときとは違うクラクラ感だった。僕は幸い目がいいので(これを人に知られると、よく「意外だ」と言われる)、どんな眼鏡もくらくらするけど、コレは今までの中でも最上級だった。
そんな状態で後ろから物音がしたので、反射的に振り返ると、ぼやぼやとした視界で、コンクリート打ちっぱなしの壁がよりいっそうみすぼらしく見えて、冷蔵庫がやけに白っぽく見えて、そして、その冷蔵庫くらい白い物体が新たにひとつ――青い髪の人間の身体が、その白さと格好からして、風呂上りの裸のままで立っていた。
「え」「あ」「いや」「その」「ええと」「これは」、どの戸惑いのフレーズを使ったかもわからない、もしかしたら全部使ったかもしれない。声になっていなかったかもしれない。ぼやけた視界でも確信できる姿に気づかない自分の不注意さと、いるならいるって言ってよ、という気持ちが混ざって、その結果、僕は僕によくあることとして、固まるだけになってしまった。
急に、ぼやけた綾波が大きくなった。近づいてきていることに気づいたのは、彼女の輪郭と眼がきちんと見えた距離になってからだ。口元も眉もよく見えなかったけど、歩調とか眼で、怒っていることはわかった。
いやあの、ごめん、と言って(たぶん)帰ろうと思ったら、綾波の腕が肩にぶつかって、慌てて振り返ろうとしたら鞄が引き出しにひっかかって落ちて僕の足にぶつかったので、僕は大きく体勢を崩した。引き出しにはもちろん中身が入っていて、白いものが沢山舞った。そして、その中でとっさに綾波の肩に手をかけてしまった。結果、ふたりして転んで、せめて押しつぶさないようにと無理やり手をついて綾波にぶつからないように着地した。両手に衝撃が走った。
僕の視界にはぼやけた綾波が広がっていた。床を向いてる僕が、床に倒れた綾波と向き合っている。裸の綾波レイに、膝立ちになって。嘘じゃなくて、本当のこととして。
ごく短い時間、完全に思考停止に陥っていた僕は、その体勢のまま固まってしまった。外では蝉が鳴いているな……と思った。左手は固い床でしびれているのに右手は綾波を掴んでしまっていた。肩を痛めたりしていないか、申し訳ない気持ちが急速に広がる。
綾波の手が伸びて、外れそうで外れなかった眼鏡を取ってくれた。歪んでいたせいで、取りにくそうだった。
「どいてくれる」
綾波の手が僕の視界を歪めていた眼鏡を外す。視力のいい僕の眼は急速に青い髪を、赤い目の輪郭がはっきりして、どこうと思って床に手をつこうとした右手が白い肌の白い胸を掴んでる僕の右手を映した。さっき舞った白いものが、下着であることも認めた。
うわ、ごめん。これは確かに言った。でもそのあとはロクに話せず、どうしてここに来たのかもうまく伝えられないでしどろもどろしていると、綾波は着替えてさっさと家を出てしまった。
当たり前のように鳴り響く蝉の声にくらくらしながら綾波の後を追いかけて、でも話しかけられないまま少し後ろを追いつづけた。口の中がカラカラに乾いているのは、暑さのせいだけじゃなかった。
ネルフのゲートまで着いて、通したカードがエラー表示されてるのを見て、僕はようやく勇気を振り絞ってカードを渡した。
「リツコさんが、渡してくれって」
綾波が、ひったくるようにカードを持って行った。お世辞にもていねいな受け取り方とは言えないけれど、そんなことをあれこれ言う資格はない。ひとまず受け取ってもらえた。一瞬触れた手が、掴んでしまった胸の感触を思い出させる――だめだろ、思い出したら、こんなところで。でも、あんな風に迫ってくる綾波も綾波じゃないだろうか。裸を見られて怒るならそれを隠すはずだし、眼鏡を掛けたことに怒ったのだとしたら、そりゃ失礼だろうけど、裸で迫るほど怒ることだろうか。一声かけてくれれば、それで済むのに。そもそも、なんで裸でいられるんだろう、僕の前で。
ゲートをくぐって、長いエスカレーターを渡る。二段下にいる綾波はこっちを振り向かない。振り向かれても困るけど、このままなにも話さないと僕は死んでしまいたくなりそうだったので、唯一話してくれそうな内容を思いつくと、さっき振り絞ったばかりの勇気をもう一度絞った。出がらしになっていないことを祈るばかりだ。
「あの、昨日、再起動試験、うまくいったんだってね。おめでとう」
沈黙の返答。当たり前、と言わんばかりの沈黙に思えた。
大怪我したはずなのに、成功させて当たり前。僕とは違いすぎる。
僕が臆病なだけかもしれないけれど、どうして、という疑問が溢れ出た。
「ねえ、綾波は怖くなかったの、また零号機に乗るの」
「どうして」
質問はすぐに返ってきた。予知能力でもあるんだろうか。それとも、本当にわからなかったんだろうか。
「前に、起動試験で失敗して、暴走して大怪我したんでしょ?大丈夫だったのかな、って」
「あなた、碇司令の子供でしょ」
それはそうだ。
「そうだけど……」
それがどうしたっていうんだ。
「信じられないの?お父さんの仕事が」
「当たり前だよ、あんな父親なんて!」
父さんが僕になにをしたか知らない人間のくせに。こみ上げた言葉をそのまま吐き出すと、さっきの返答と同じくらい素早い反応があった。綾波レイが振り返って、僕を見返してきた。その目が何を意味してるのかは、誰にでもわかる。僕にでもわかった。
怒りだ。
「え、あの」
こんなむき出しになるのか――そう思うかどうかの境界線で、綾波の平手が視界の端からやってきて、バチッ、という音が耳の奥で響いて、左耳がきん、となった。
呆気に取られ、傾いた首を元に戻す頃には、綾波はエスカレーターを下りはじめていて、少しずつ小さくなっていた。
なんだそれ、なんだよ――どうして僕が、父さんのことを思ってるとおりに言って、綾波を怒らせなきゃいけないんだ。左頬を触ると、熱を持っていて、手がひんやりと気持ちがよかった。その冷たさとともに、また一昨日のことを思い出していた。綾波が父さんに色々と喋りかけているらしい様子も、父さんの眼鏡の隙間から、目が細まった瞬間のこと。
眼鏡、というキーワード検索が行われた脳内が、ある疑問にひとつの答えを出した。女の子が掛けるものにしては、渋すぎる理由。
どうして、父さんと綾波が仲良くしているんだろう。
目の前に、さっきまで居た睨みたい相手はもういないから、気持ちに決着をつけられない。ただぼうっとエスカレーターに乗ったままでいると、下りる手前で警報が鳴った。
その警報をネルフ本部で聞くのははじめてだった。
「使徒だ」
反射的に、早足でエスカレーターを下りた。
僕の三度目の戦いだ。
このサイレンは、パイロットとしての僕が必要とされている証拠の音だ。胸が高鳴る。綾波の眼鏡が誰のものであろうと、そこは変わらない。エヴァに乗って使徒と戦える僕は、間違いなく必要とされている――父さんにだって。
今度はちゃんと戦って、褒めてもらえるような戦いをしてみせたい。戦闘マニュアルを思い出す。
そうだ、僕の戦いは、ここからまた始まるんだ。
自分の勇ましさに照れる気持ちを抑えきれず、思わず走り出した。
「目標をセンターに入れて、スイッチ……よしっ」
<つづく>
あとがき
こんにちは、ののです。
まさかの5年ぶり『Growing Comedian』公開です。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
原作準拠では第伍話のお話をお送りしました。
で、第六話にそのまま続きます。
近日中に公開予定です。
そちらもご一読いただけたら嬉しいです。
まとまったあとがきは、第六話にまとめて書きますね。
では、またその時に。