4.空が赤く染まり始めたころ





 思えばそれは単純な話だった。恋愛の話なんてほとんどしなかったアスカが、その
手のことで私に質問してくるようになった。きっとアスカは「途中経過」を探ってい
たのだろう。そして、私に碇君を意識させようとしていたのだろう。私は、アスカが
碇君のことを気にしているのだとばかり思っていたが、彼女はそんな「へま」はしな
い。そんな気持ちもあっただろうが、それが全てではなかった。少し考えればわかる
ことだったが、私はそれに足をすくわれた。
 アスカはポイントを見計らって碇君の話題を振ってきたし乗ってきた。私はうまく
乗せられていたし振らされていた。しかし一方で、彼女は碇君について多くは語らな
かった。きっと二人の仲を詮索されるのはまずいと思ったのだろう。碇君はあんなに
隙だらけだったのに。二人は、アスカが見せている以上に仲が良い。
 人間関係にあれほど臆病な碇君が積極的だったのも、アスカが後押ししたからだろ
う。アスカは私の「攻略法」を知っている。
 じゃあ、アスカが私に近づいてきたこと自体作戦だったのだろうか。
 それは眩暈がするほど絶望的な考えだった。この半年は決して短くはなかった。ア
スカは私のことを知り尽くしたかもしれないが、私だってアスカのことをよくわかっ
てきたつもりだ。だから、それは多分違う。楽観的な考えではなく、それは違う。
 ではやはりあの「偶然」がきっかけで、全てが始まったのだろうか。いや「偶然」
をきっかけに全てを始めたのだ。サプライズパーティーを。
 どんなに怒りがこみ上げてこようと、自分も似たようなことを考えていた以上、私
に罵る権利がないのも事実だった。私とアスカのどちらが先手を打ったのかは今とな
ってはわからなかったが、それもたいした問題じゃない。結局は悪者なんて存在しな
いのだ。怒りとか不安とか嫉妬とかが変な形で入り混じって、それが一番ぶつけやす
い碇君のほうに向かってしまったが、考えてみればある意味で一番の被害者は彼だっ
た。同時に最も多くの罪を犯したのも彼だった。私とアスカの手のひらの上で。
 だから今は、これからどうするか考える。
 同情はしないが、碇君に謝るべきだと思う。私も彼を「利用」しようとしたのだか
ら、あの言い草はあまりに一方的すぎる。少なくとも、あまりにナイーブな彼に対し
て、あの仕打ちは酷だっただろう。
 私が鈍感すぎたことも、関係を拗らせるきっかけだったかもしれない。ただの相談
にしては、彼は図書館に来すぎていたし、関係ないことも話しすぎた。でも結局、彼
が私の何に好意を抱いたかは不明だった。いや、今日のことで幻想も消えたかもしれ
ない。そうであればいいと思う。
 しかし、考えて見ればどうして私がこれほどまでにアスカに拘るのかもよくわから
なかった。アスカの何に。彼女の明るさに憧れているから?半年の時間をともにすご
してきたから?
 そんなものないのかもしれない。友だちであるかないかの区別が曖昧なものである
ように、他人に好意を抱くきっかけとか、好意を抱き続ける理由なんて、はっきりと
は答えられないのかもしれない。きっとそうだろう。だって、それは重要なことじゃ
ない。
 碇君は背中で語るタイプだと、アスカは言っていた。確かにそうだ。彼はあの少し
猫背気味の背中で、必死に主張し続けていたのだろう。私はそれを無視し続けた。
 そして、私は語るどころか、必死に隠し続けた。隠すことは辛いことじゃなかった
から。
 図書館に行かずに家に帰るなんていつ以来だろう。アスカと出会ってからは、そん
なことなかった気がする。
 窓を開けたまま毛布に包まっていると、頬が風に撫でられて、ひんやりと心地よか
った。


「はい、惣流です」
「アスカ?」
「レイ……良かった……私も電話しようか、迷っていたとこ」
「そう」
「………」
「………」
「シンジの、ことでしょ?」
「えぇ」
「シンジから聞いたわ。騙しててごめんなさい。……でも」
「いえ、いいの。私も似たようなこと考えていたから。私こそごめんなさい」
「それなら、いいけど。でも、シンジが」
「碇君にも、今度学校で謝るわ」
「……それ、だけ?」
「どうして?」
「……確かに、あいつはドジでバカでネクラだけど、悪いやつじゃないわ。だから」
「そうね。それは知っているわ」
「それなら!」
「それほど彼をわかっているなら、どうしてアスカが」
「べつに、あたしはあいつのこと」
「私もよ」
「………」
「私も彼のことは、好きじゃない。たぶんアスカ以上に」
「そんなに、結論を急がなくても」
「それはアスカも同じはずよ」
「いえ、同じじゃないわ。あいつ、どうしようもないくらいレイのことが好きよ」
「……アスカは本当に碇君のことが好きじゃないの?」
「……そうよ」
「それなら、どうしてそんなに碇君と私をくっつけようとするの?」
「………」
「碇君のこと大切に思っているからではないの?」
「………」
「でも、私は碇君のこと、そんなに大切にできない」
「………」
「………」
「……あの、少し長くなるけど、聞いて」
「どうぞ」
「あたしもシンジも、二年になる前からレイのこと知っていたのよ」
「たしか、碇君とは一年でも同じクラスだった」
「そう、なんだけどさ。レイ、一年のときの読書感想文のコンクールのこと覚えてる?」
「……あまり、いい思い出ではないけれど。みんなの前で作文を読んだのは覚えてい
るわ」
「そう。バカなことだとは思うけど、私それがすごく印象に残って。綾波レイってど
んな子なんだろうって思った。でも、シンジから聞いた話でも、たまにレイのいる教
室覗いても、とても仲良くなれそうな雰囲気じゃなくて、でも、二年生で同じクラス
になれた。だから、あたしはこの一年に賭けてみようと思ったの。そしたら、やっぱ
りなかなか話聞いてくれなかったわね」
「そうね。懐かしい」
「でも、ケンカになった日、反省してみて、電話して、やっぱりこの子は綾波レイな
んだと思ったわ。正直、レイの考え方全部に賛成できたわけじゃなかったけど、でも、
ああいうこと臆面もなく言えるって、なんだか面白い人って思ったし、もっともっと
知りたいと思った。だから、次の日もう一度だけ話しかけてみようって思った。それ
でダメだったら諦めようって思った」
「………」
「でも、レイは答えてくれた。それから仲良くなって。すごくうれしかった。多分、
恋人ができるとか、そんなことよりうれしいことなんじゃないかって思った。だから、
すごくうれしかったから、ずっとシンジに自慢していたのよ」
「碇君?」
「そう。あいつもレイのこと気にしてた。『教科書を朗読する声が、うまいだけじゃ
なくてとても柔らかい』とか言って。バカみたいでしょ?」
「そうね」
「とにかくあいつにはレイのことばかり話したわ」
「知らなかった」
「ごめんなさい。それを言ったらレイが嫌がると思ったから」
「そう、それで?」
「それで、それから、あたしの話聞くたびにシンジはレイのこと好きになっていった
んだと思う。だって、あたしレイのいいところばかり話していたから。レイのこと話
すのとても楽しかった」
「……私も、碇君とアスカの話をするの、楽しかった」
「だから、偶然レイと図書館で会ったとき、シンジは喜んでいたわ。どうしたら仲良
くなれるかあたしに相談してきた。まぁ、大したアドバイスなんて、できなかったけ
ど。それで、あいつに、レイのこと女の子として好きになってしまったみたいって、
ある日言われたの」
「………」
「でも、いくらなけなしの勇気振り絞って頑張ってみても、レイが全然そんなこと気
づかないから、あいつも悩んでたわけよ。その顛末がこれなんだけど、あたしを好き
ってことにするなんて、あいつもバカよね」
「………」
「おかげで自分には脈なしってこともよくわかったみたいだったけど。まぁそんなこ
んなで、シンジを手助けしていたあたしとしては、ふたりが仲良くなってくれれば良
いと思ってるわけ。あたしにとってはどっちも大切な人だから」
「そう」
「なんか、ずいぶん恥ずかしいこと話したわね」
「いえ、ありがとう。よくわかったわ」
「べつに、感謝されるほどのことじゃないけど」
「でもね、私は碇君よりアスカのほうが大事。ずっと、ずっと。だから、碇君を傷つ
けてでも、アスカを傷つけたくない。もしアスカが碇君のこと好きなのだとしたら、
きっとアスカは後悔する、そう思ったの」
「……それは、単純にレイはシンジよりあたしといた時間の方が長かったからで、ち
ゃんと付き合えば」
「それでもいいわ。長く一緒にいた、という事実もとても大切。それは私とアスカに
とっても、アスカと碇君にとっても。でも、とにかく私はこれからもアスカと一緒に
いたい」
「あたしだってもちろんレイと一緒にいたい。でも、そのこととシンジのこととは関
係ないでしょ?」
「本当に?」
「えぇ、本当」
「もう、本当のこと隠したりしない?」
「しないわ」
「……そう。それなら、明日は三人で映画に行きましょう。アスカ明日は空いている
と言っていた」
「えっ?」
「男の人と遊びに行ったことないから、よくわからない。アスカなら碇君のことよく
わかるでしょ?」
「え、でも、あたし、邪魔じゃない?」
「邪魔じゃない。碇君と建設的な関係を築くためにはアスカが必要」
「でも、あたしだってデートとかよくわからないし」
「少なくとも、碇君と私だけというよりはマシ。それに碇君とアスカのことよく知り
たい」
「……レイがそういうなら、まぁ、別に、いいけど」
「じゃあ決まりね。時間と場所はわかるでしょ?」
「十時に駅前?」
「そう。十時に駅前」
「わかったわ。じゃあ楽しみにしてるわ。シンジには?」
「私から言うわ」
「ありがと」
「えぇ。じゃあまた明日」
「また明日」
 結局のところ、アスカが碇君のことをどう思っているかは確信が得られなかった。
でも、私はちゃんとアスカに真意を伝えた。だから、今はアスカを信じるしかなかっ
た。もし明日、アスカが辛そうなら手を引けばいい。
 でも、アスカがああ言ってしまった以上、碇君の存在を無碍にはできないのも確か
だった。それこそ、私とアスカの関係がギクシャクしてしまうだろう。重要なのは、
三人が納得できる形に収まることだ。
 やっぱり碇君は私とアスカの疫病神だと思う。
 碇君に電話をすると、私の謝罪を受け入れ明日のことをあっさりと了承した。それ
だけでなく私に嘘をついていたことを何度も謝った。どうやら彼は、私が「ウソ」に
対してショックを受け、怒っているのだと思っているようだった。少し傲慢だなとは
思いつつも、それは普通の人の反応であるだろうこともなんとなく理解できた。アス
カだってそうだった。
 アスカとのことを少し探ってみたが、全く無駄だった。私も人のことは言えないが、
彼も相当鈍感なほうなのだろう。あるいは、本当に二人には何もないのかもしれない。
それにしては二人の信頼関係は強固なものだと私は思ったが、もしかしたらそれが普
通なのかもしれない。私にはよくわからない。


 「ちょっと〜レイはこっち座りなさいって」「ね、ね!プリクラ撮ろ。ほら、シン
ジとレイは並んで」「あんたたち結構お似合いじゃない〜」「あの人形かわいい!レ
イ、シンジにとってもらえば?」「あたし、ちょっとトイレ行ってくるから。いや、
レイはいいから。ね?」
 今日一日アスカは、私と碇君との仲を取り持つことに専念したようで、始終私たち
をくっつけようとした。たぶんわざと集合時間に遅れ、私と碇君を並んで歩かせ、映
画館では私たちを座らせたままお菓子とパンフレットを用意し、ゲームセンターまで
誘い込み、碇君に私へのプレゼントをそそのかし、一歩引いてから私たちに笑顔を投
げかける。その頑張りぶりはまるで鬱を脱し躁になったばかりの病気の人のようで、
見ていて痛々しいほどだった。
 碇君はそんな彼女に後押しされ、恥ずかしがりながらも私のほうにちらちら視線を
送ってきた。私は何度かため息が出そうになるのを寸前のところで堪えたが、限界が
遠くないことを感じた。碇君のことを嫌いと言うわけではなかったし、不快なものを
感じたわけでもなかったが、これだけ意識させられてしまうと逆に距離を置きたい、
ほうっておいてほしいと思うようになってしまった。私のそんな様子にアスカが気づ
いてくれることはなかった。
 そして、そのアスカ自身は碇君とあまり話そうとしなかった。妙な行動ばかりとっ
ていると言うことを差し引いて考えても、彼女は碇君を避けているようだった。たま
に思い出したように彼に声をかけても、いつもの調子ではないらしく碇君も調子を狂
わされていた。
 きっと、アスカだってわかっているのだろう。どうにもできないのだろう。その上
でこういう行動を取ることは彼女の決意なのだろう。私は彼女のそんな心の奥底を突
きつけられてしまったようで、当初の目的とは別の意味で後悔し始めていた。彼女に
とって今の時間は残酷すぎる。なんでそんなことも予測できなかったのだろう。
 彼女に対して申し訳ない気持ちが膨れ上がっていく一方で、碇君に対しての不満も
大きくなっていった。どうしてこんなに鈍感なのだろう。どうして彼女の気持ちに答
えてあげないのだろう。彼女のあの貼り付けられた笑顔に隠された、本当の気持ちが
想像出来ないのだろうか。
 空が赤く染まり始めたころ、帰りに寄ったファミレスで、席をたったアスカがテー
ブルに帰ってきたとき、だから私はこう宣言した。アスカの努力を無駄にしないため
にも。これ以上彼女に悲しい想いをさせないためにも。
「私、碇君と付き合う……もちろん碇君が嫌でなければ、だけど」
 コーヒーを少しだけ口にしてから、マグカップから手を離さずに、テーブルの端に
視線を向けたまま、私は言った。なんて滑稽なセリフだろう。でも、私の願望ではな
いのだから、これ以外に言いようがない。
「えっ?」
 真っ先に声にならない声を上げたのは碇君本人だった。当たり前だ。今日一日私が
楽しそうに笑っていたことなんて、一度もなかったのだから。
 アスカの飲んでいたアイスティーの氷が解けて、カチン、と音がした。
「ホントに?レイ?」
「えぇ。碇君は、どうなの?」
「も、もちろん付き合いたい」
「やったじゃない!」
「う、うん」
「あ〜、これで私の苦労も報われるってもんよ。二人とも奥手で大変だったんだから」
 お絞りで指先を軽く拭きながら、そう言ってアスカは笑っていたが、私にはそれが
泣き笑いにしか見えなかった。
 窓から差し込む夕方の日差しが、彼女の前にあるグラスを照らして、その色をより
いっそう際立たせていた。