5.トロイメライ





「あ、綾波。いらっしゃい」
「お邪魔、します」
 初めて入った音楽準備室は、かすかにコーヒーの香りが漂っていて、少し緊張して
いた私の心を落ち着かせてくれた。隣の音楽室では合唱部が発声練習をしているよう
で、耳を澄ますと彼らの透き通った声が聞こえてきた。音楽の先生はいないらしい。
「あ、先生は職員会議だからしばらく来ないよ」
「そう。練習ないのに、わざわざチェロ持ってきてもらって、ごめんなさい」
「いや、こんなの全然平気だよ。慣れてるし」
 そういうと彼は、大きなケースの中から、彼の胸の高さほどある大きな楽器と、そ
の楽器を奏でるのであろう棒状のもの(弓と言うらしい)を取り出し、椅子に座った。
「綾波が練習聞きたいって言うだなんて、少し意外だったな」
「管弦楽部では一番の実力者だと、アスカが言っていたわ」
「そんなことないよ。ただ、昔からやっていた人が僕くらいだから」
 彼は自分が楽器をできると言うことを、長所だとか特技だとは思っていないようだ
った。自信がないと言うよりは、音楽と人間関係をほとんど切り離して考えているよ
うな、そんな感じだった。今日も、あまり乗り気ではない彼に、チェロを私の前で弾
いてもらうよう頼み込んだのも私だった。
 きっとアスカが碇君を好きになった原因の何かがここに含まれているはずだ。それ
を見つけられない限り、私は彼にアスカを任せられない。
「ごめんね。今日大事なお客さんが来るから家はダメだって」
「気にしていないわ」
「う、うん」
 話しながらも彼は弓の手もとのほうにあるねじ(?)を回していたり、弦のあたる
繊維の部分に固形物を擦り付けたりしていた。それにほんの少しだけ音を出したりも
している。いったいなんの儀式だろう。
 碇君は、いつも楽器を持ってきているにもかかわらず、クラスの人に「聞かせて」
と言われても「下手だから聞かないほうがいいよ」と断っていることが多かった。そ
のくせ私と「付き合う」ことになっても、相変わらず図書館に頻繁に来ていて、CD
だけでなく音楽関連の本も借りていくようになり、音楽のことばかり考えているよう
だった。きっと彼にとって音楽とは自分だけの空間なのだろう。だからこそある意味
ではきっと、管弦楽部の合奏は自分の空間の一部なのだろう。そんな風に考えるよう
になったのは、つい最近のことだった。
 「付き合う」といっても、私と碇君の関係はほとんど以前と変わりなかった。キス
とか手をつなぐとかそういった恋人めいたことはなかったし、休日にどこかへ行くこ
とさえそう頻繁にあるわけではなかった。強いて変わったことを挙げるとすれば、な
んとなく遠慮がなくなった。ただそれだけだった。ただ、私はもともと遠慮なんかし
ていなかったので、それは碇君にしか当てはまらなかったが。
「あの、あんまりじっと見られると恥ずかしいから、ちょっと準備室ぶらぶらしてて
よ」
「碇君がそうしてほしいなら」
 そういうと私はイスから立って、楽譜の詰め込んである棚のほうへ向かった。
 戸棚に鍵がかかってないな、とその扉を開きかけた瞬間、後ろから滑らかな音が紡
ぎだされた。彼は恥ずかしいといっていたが、私はつい振り返ってしまった。
「シューマンの『トロイメライ』」
 きっと有名な曲なのだろう。私はなんとなく聞いたことがあるような気がした。指
が覚えているのか、碇君は弾き続けながら苦もなく話し続けた。
「いつも、まずこの曲を弾くんだ」
 そういう碇君は、ほとんど目をつぶったまま弾いていた。彼がそれきり黙ってしま
ったので、私も近くのイスに座って、目をつぶって聞き入った。
 「私の朗読の声は柔らかい」以前アスカからも碇君がそう言っていたと聞いていた
し、碇君本人からもその「褒め言葉」を聞いた。私はそんなこと気にしたこともなか
ったけど、きっとこういう感性は音楽をやっている彼だからこそ持っているものなの
だろう。彼の演奏を聴いているとそんな気持ちになる。でも、知らなかった。私の声
なんかより、彼のチェロの音色のほうがずっと柔らかい。それに、やさしい。チェロ
の発する音域は人の声帯に一番近いのだと碇君が以前話していたが、彼の音色はそれ
を実感させてくれた。ほんとうに、語りかけているみたい。プロじゃなくても、こん
なに深みのある演奏ができるんだと、私はまどろみの中でぼんやりと考えていた。
 その曲が終わると、彼は練習を始めたようで、いくつかの断片的なフレーズを繰り
返し弾いていた。音を伸ばしたり縮めたり、強くしたり弱くしたり、ニュアンスを少
しずつ変えながら彼は進んでいった。
 次に気づいたときには、彼はカチカチと音のなる器械を部屋の隅から取り出し、そ
れに合わせて規則的に弾き始めた。ドレミファソラシド、ドシラソファミレド。その
器械はメトロノームというらしい。次第に速くなっていったかと思うと、瞬間、急に
遅くなる。もっと複雑な音の組み合わせも弾いているようだった。どれも規則的だ。
最初の演奏と比べると退屈だなとは思ったが、彼の音色が心地よいのに変わりはなか
った。
 カチカチという音が止んだ。合奏の曲だろうか?次は楽譜を見ながら低くて長い音
ばかり弾いている。その唸るような低音は、辺り一面を振動させていた。太く強い。
華奢な彼からは想像も付かないような音だった。
 今度は?たくさんの音を同時に弾いている。今までとは比べ物にならないくらい激
しい音の塊だ。一人で?あんなにたくさんの音を弾けるんだ。それに、速い。今ここ
には自分以外のものはない、存在を許さない、そんなことを言われている気分になっ
た。もっとも碇君らしくない発言だと思うが、今この瞬間をもっとも説得力のあるか
たちで説明できるのはそういう類の言葉だった。
 でも、ここ数日のいくばくかの時間を彼とともに過ごした私は、矛盾なく彼のそん
な側面を理解することができると思う。彼はたまに遠くのほうを見ている。ちょうど
「綾波がうらやましい」と言ったあのときのような。彼はここではない地平に立って
いる。光もなくて、温もりもなくて、でも、どこまでも広がっていくような、そんな
地平に。私はそこに行ったことがあるような気がした。それも一度ではなく何度も、
何度も。自分の足で?よくわからない。でも、碇君はたしかに、自分の足で、迷わず、
一歩一歩その地平を踏みしめている。そこに、本当の自分がいるんだ、とでもいうよ
うに。そこに私はいるのだろうか。いたとしても、彼を見つけることはできないくら
い、もっと遠いところにいると思う。でも、管弦楽部の部員やとくにアスカなんかは、
いつもそんな彼の姿を間近で眺めている。いや、眺めているだけではなく一緒に歩い
ているのかもしれない。だから、アスカも話せばこのことをわかってくれるだろう。
多分、私以上に。でも、認めるかどうかはわからない。そして私は、迷っている。あ
ちらでも、ここでも。
 いつまで目をつぶって聞いていたのだろう。気づいたら眠ってしまっていたようで、
練習が終わると碇君は私の肩を揺すって、不安げに声をかけてきた。
「綾波?」
「………」
「ごめん。やっぱり退屈だった?」
「……いえ、ごめんなさい」
 私が感想を述べようと思ったそのとき、音楽準備室のドアがスライドする音がした。
もう、先生が帰ってきたのだろうか?しかし、入ってきたのは音楽の先生ではなかっ
た。
「あら、こんなところで何してるの?」
「ん?綾波が練習見たいって」
「こいつの練習なんか見て面白い?」
 そう言って彼女は私の方に視線を向けた。
「……少し、碇君のことがわかった気がする」
「へいへい、ごちそうさま。おアツイことで」
 彼女はまた碇君のほうに視線を戻した。
「それより先生は?」
「職員会議だから、しばらく来ないって」
「げっ!聞いてないわよ、そんなこと」
「ここで待ってれば?」そう言ったのは、私ではなく碇君だった。
 横を向きながら、その長い後ろ髪を撫でつけて、全身で困ったという仕草をする彼
女。
「あんたら前にして、見せつけられたんじゃたまったもんじゃないわよ。まぁ仲良い
のはいいけどさ」
「そんな、別に気にすることないよ」
「あんたはよくてもあたしが良くないの!それにレイだって嫌でしょ?」
 私は首を横に振って、そんなことないという意味を彼女に伝えたが、顔は下に向い
たままで彼女に目が合わせられない。
「遠慮しなくてもいいって。じゃあ教室にいるから、先生来たら教えに来てくれな
い?」
「うん、わかった」
 そう答えたのも、碇君だった。



 十二月になるとクリスマスコンサートだけでなく、期末試験も手伝ってアスカはま
すます忙しくなったようだった。だから、お昼を一緒に食べる機会も減り、私にとっ
てその一回一回がとても重要な意味を帯びるようになった。それはほとんど私と彼女
との生命線だったのだから。
「レイも絶対見にきてね」
「えぇ、いくわ」
「シンジの晴れ舞台だもんねぇ〜」
 アスカはミートボールを口に挟みながら、なんでもない、というふうな感じでそう
いっているように見えた。私にはもうほとんど彼女の気持ちを想像することができな
い。その言葉に含まれるのはただ単にからかいなのか、それとも嫌味なのか嫉妬なの
か、詮索なのか不安なのか。少なくとも、私のために言っているわけではないことだ
けは確かだったし、私がそんな彼女の態度にどうしても慣れることができないのも確
かだった。そして、彼女は表面的にはいつもと変わりない口調なのだ。
「碇君は関係ない。アスカが頑張っているみたいだから」
「またまた〜。だってあいつソロもやるのよ?聞いているでしょ?」
「聞いては、いる」
「あいつったら愛しいレイのめに、必死に練習してるんだから」
「そう」
 こういうとき、私はどうしてもアスカの言葉に反応できなくなってしまう。アスカ
が碇君と私のことを揶揄するのはよくあることだった。そして、アスカはいつも自分
からそういう話をなんでもない表情で始めておきながら、必ず、少し無理したような、
悲しい笑顔で、話しを締めくくるのだ。でも、今日はさらに続きがあった。
「この前だって、音楽準備室で二人っきりでさ」
「他に場所、なかったから」
「あんな狭いところで彼氏とふたりきりでしょ?何してたのよ〜」
「ただ、碇君が練習する姿を眺めていただけ」
「そんなこといって、ホントは先生のいないのをいいことにいろいろしてたんでしょ
〜」
 その言葉で初めて私は、アスカの目を見た。じっと。覗き込むように。離さないよ
うに。でも、アスカのほうが視線をそらしてしまった。
「何もしてない」
「へ、へぇ〜。あいつ臆病なんだから、レイがリードしてあげなきゃダメよ」
「そんなことしない」
 もう言葉を続けたくなかったから、私は無理やり食べ物を口につめた。味はほとん
ど感じられない。それでもまだアスカは続けてきた。
「クリスマス・イブは、シンジとどこかいかないの?」
「コンサートがある。アスカはそのために頑張っているのではないの」
「そのあとよ、そのあと。なんていったって二人にとって記念すべき初めてのクリス
マス・イブでしょ。夜は一緒に過ごさないの?」
「過ごさない。次の日約束したから」
「あぁ、そういうこと。ごめんね〜レイ、邪魔しちゃって」
「べつに。それに私はクリスマスなんてどうでもいい」
「だ・か・ら、そういうこと言ってるからダメなのよ」
「どうして」
「ムードってもんがあるでしょうが。そういう雰囲気になれば、レイだってわかるわ
よ」
「よく、わからない」
「そのうちわかるって。まぁイブじゃなくて二十五日に期待ね」
 私には、もうアスカの行動の理解ができなくなってしまった。初めて電話がかかっ
てきたあの夜のように。彼女はとても感情的で、不器用で、矛盾だらけで、そして、
とても儚くて。でも、今までのアスカとどう違うのか、はっきり説明できるわけでは
なかったし、確証がもてるわけでもなかったので、本人に直接尋ねるのは躊躇われた。
今ではもう、彼女が本当に碇君を好きだったのか、それともただのお節介な幼馴染だ
ったのかさえもわからなくなっている。あるいは、この奇妙な状況に慣れてしまった
のだろうか。だったら私はどうするべきなのか。何もしないほうのがいいのだろうか。
「そういえばさ、最近は何て本を読んでいるの?恋愛ものとか読まないの?」
「『仮面の告白』」
「げ、あのホモの話?」
「すこし、違うと思うけど」
「レイの趣味って、なかなかわかりずらいわよね。この前もさ――」
 会話がいつも通りの軌道に戻ったことに安堵しつつも、アスカがお弁当をつつく姿
を見て私は、どこで間違えてしまったのだろう、などと下らない小説の主人公のよう
なことを考えずにはいられなかった。それとも、まだ幼い私たちには仕方ないことな
 
のだろうか。
いびつ
 ただきっと、間違っていないと言うには、私たちの関係はあまりに も歪す ぎた。