6.待ち望むのではなく





「本日は私たち管弦楽部のクリスマスコンサートにお越しいただき、誠にありがとう
ございます」
 アスカがそう言ってお辞儀をすると、一斉に拍手が鳴った。
 先生や部員の友だちや親類だけが集められた、というわけではなさそうだった。一
昨日終業式があったばかりのこの体育館にはゆうに百(もしかしたら二百)は越える
人々が、整然とならべられたパイプ椅子に腰掛けていた。それぞれ思い思いにばらば
らと座っていたので、正確な人数はわからなかったが、私が思っていたよりよほど大
きな催し物のようで、中にはここの学校の制服でない人もいた。せいぜい校内でこじ
んまりとやるのだろうと思っていた私は圧倒されてしまった。どうやらこの部活はよ
ほど知名度が高く、このコンサートも伝統のあるものらしい。アスカも碇君もそんな
こと教えてくれなかった。この大勢のなかで、本当に碇君は一人で弾くことなどでき
るのだろうか。
「毎年恒例のクリスマスコンサートは、今回でちょうど二十回目となります。今年も
無事このコンサートを開催することができましたのも、先生や先輩方、友だちや家族
の皆様のおかげだと思います。本日は足をお運びいただき本当にありがとうございま
した」
 アスカの挨拶が終わると、下手から楽器を持った部員がぞろぞろと入ってきた。み
な制服姿に三角帽子をかぶっていた。一番大きな楽器(コントラバスというらしい)
を持っていた人にいたっては、制服ではなくトナカイの格好をしていた。みな凛とし
て胸を張って入場してはいたが、表情はどことなく微笑んでいる様子で、これから始
まることがとても楽しいものであることを期待させた。
 全員が席に座ると、ヴァイオリンを持っている人のなかで一番前、観客から近いほ
うに座っていたアスカが立ち上がり、一つの音を発して伸ばし続けた。他の人もその
音に合わせて音を出している。その厚みが次第に広がって、ハーモニーとなり、大き
な空間を形作っていった。碇君が言うには、これがチューニングと言うものらしかっ
た。アスカのちょうど正面に座っている碇君も、確かめるように自分の楽器の音を出
している。
 最初の曲は「きよしこの夜」だった。さんざん聞きなれたこの曲も、これほど豪華
な楽器群のためにアレンジされてしまうと、全く違った曲のようになり、それでも、
本当に今日はクリスマス・イブなんだということを実感させてくれた。
 続けてクリスマスに関連した映画音楽と邦楽、洋楽の三曲が演奏されると、いった
んオーケストラは去っていき、舞台は空になった。
「続きましては、管弦楽部チェロパート主席奏者、碇シンジによる独奏です。一曲目
はヨハン・セバスチャン・バッハ作曲、『無伴奏チェロ組曲第一番』より『プレリュ
ード』です」
 舞台の奥から司会をしていたのだろう、姿は見えなかったがアスカのアナウンスが
終わるとともに、碇君が下手から入場してきた。
 何度も考えたことがあった。碇君のようなはっきりしない、気の弱そうな人が人前
で演奏などできるのだろうか。確かに、音楽準備室で聞かせてくれた彼のチェロの音
色や技術は素人目にもわかるくらい素晴らしいものだったが、それをこんなに大勢の
前で発揮できるのだろうか。
 入場してくる碇君は、緊張しているのだろうか、少し動きが固い。そして、私が音
楽準備室で見たあのときより少しぎこちない動作でチューニングを始めた。やはり、
多くの人と一緒に弾いているときより、一人のほうが緊張するのだろう、先ほどより
険しい表情で淡々と準備を続ける。そして、全ての準備が終わったのだろう。左手を、
指を当てる黒くて細い木の部分(指板というらしい)の上に置き、弓を持つ右手を弦
の上で構えた。
 そして、目をつぶってほんの少し呼吸をし、弾き始める、と感じた瞬間、碇君はこ
こからいなくなった。ここではなく、あの、寒くて、暗くて、広大な地平に碇君は立
っていた。それも、彼たった一人で。
 その曲は、まるでメトロノームで練習していたあのときのように、ほとんど規則的
に、音が次々に紡がれていくが、そのどれもがつながっていて、波打っていた。その
ひとつひとつが、彼が語りかける言葉のよう。何を語りかけているのだろうと思った
私は、碇君と同じように目をつぶり、耳を澄ませて、音に集中した。そして、わかっ
た。
 やっぱり、彼はあの地平を目指している。演奏することで、あの見えない地平に入
り込もうとしているのだ。今なら、確信を持って言える。そして、私もそこにいた。
でも私は目指してなんかいなかった。気づいたらそこにいたのだ。だからきっと、彼
は私の方に来ようとしたのだ。そして唐突に思い当たった。彼は私に対して「好きだ」
と言ったことは今まで一回もなかったのではないか。ただ「綾波のそばにいたい」そ
う言われたことがあるだけだ。なんで気づかなかったのだろう。きっと「付き合う」
というのも、そのための「口実」でしかなかったのだ。そして私は、彼女をそこに引
き込もうとしていた。
 でも、同じ地平にいるはずなのに、私は遠くの方で立ち止まっているだけで、一方
の彼は確かに歩いていた。ゆっくりと。確実に。彼の奏でる音が近づいてくる。いや、
侵食してくるといったほうが正しいのかもしれない。空間が、ひずむ。彼の望んだと
おりに。それが頂点に達したかと思うとき、長い音を弾ききって、曲は終わった。
「続きまして、セルゲイ・ラフマニノフ作曲、『ヴォカリーズ』です」
 アスカのアナウンスが終わると一人部員が入場し、ピアノの前に座った。そして、
ほとんど準備もなしに、一瞬だけ碇君のほうを見てから、唐突に弾き始めた。その伴
奏に乗せて、碇君も自分のチェロを弾き始めた。
 二曲目は、もともと歌である曲をチェロ用にアレンジした曲。碇君はそう教えてく
れた。この曲はなんだか、もの悲しい。どういうわけか、なんとなく、最近のアスカ
を連想させる曲だった。そして彼は、あいかわらず、あの地平を歩いている。
 さっきの曲は確かに語りかけていたが、この曲でチェロは悲痛な叫び声をあげてい
るように、私には感じられた。胸に刻み込まれるような、濃くて暗い赤を連想させる。
今度は目を閉じていられなくて、私は彼がチェロを奏でている姿をじっと見てしまっ
た。この曲では目を閉じていない彼も、もう演奏に集中しているらしく、観客の視線
なんて気にしていない様子だった。教室にいるときとも、図書館の帰り道をともにす
るときとも違う碇君が、確かにそこにいた。私みたいなちっぽけな存在なんて、きっ
と今の彼には空気のようなものなのだろう。でも、彼に近寄れば近寄るほどそこは真
空で、まっさらで、純粋で、そしてとても混沌としている気がする。
 彼の悲痛な叫びは、確かに私の胸の中いっぱいに響いた。その声はきっと、鋭いナ
イフのように私の真ん中を突き刺した。
「最後にお送りいたしますのは、エドワード・エルガー作曲、『愛のあいさつ』です」
 ピアノの伴奏が少し先行し、続いて碇君が奏で始めたその曲は、どこかで耳にした
ことのあるような曲だった。どこかのレストランだったか、デパートだったか、よく
覚えてないけどそういう類のところだろうと思う。幸せに満たされた感じのメロディ
ーで、思わず胸が高鳴った。
 ――三曲目は作曲者が、自分の奥さんに捧げた曲なんだ。有名な曲だからきっとす
ぐにわかるよ。
 碇君が少し恥ずかしそうにそう言っていたのを、私はぼんやりと思い出した。
 先ほどまでは終始真剣な表情をしていた碇君も、この曲ではかすかな笑みを浮かべ
ていて、リラックスしていて、もしかしたら本来アスカといるときの碇君はこんな表
情をしているのではないかと思った。それは今まで私の見たことのない彼の表情だっ
たが、気をもむとか、はっきりしないとかそういうのとはかけ離れたところに、その
表情はあった。
 そう思っていると突然、曲は焦燥感を掻き立てるような、不安を煽るような空気に
満たされた。それでも彼は、いや、さっきのフレーズよりさらに楽しげに、いたずら
を企てる子どものような、無邪気な仕草でチェロを歌わせていた。そう、まさに歌わ
せていた。それも、とても激しく、力強く。そのときになってはじめて、私は彼がや
はり男の子なのだと思った。
 すると、曲はまたもとの幸せに満たされたメロディーに戻った。そして、今度のそ
のフレーズは最初よりもいっそう色鮮やかで、暖かかった。確かに今、このチェロの
音色が届く範囲は碇君の支配する幸福な空間だった。彼だけの空間だった。私たちは
そこに紛れた迷子の子ども。
 私はあの地平にぽつんと突っ立っているだけだったが、彼は歩き続け、そしてどこ
までも広げようとしている。だから、少なくとも今、この体育館は彼のものだ。そし
て彼はいつもそんな瞬間を求め続けていたのだ。待ち望むのではなく。
 碇君は演奏を終えて、拍手をもらい、ピアノを弾いていた人とともに退場して行っ
たが、私は考え事を続けた。
 確かに彼はチェロに秀でていて、演奏は素晴らしかったが、私はそれ以上に、彼が
チェロに拘り続ける意味が気になった。いや、わかってはいるのだ。今日この演奏を
聴いたことで、私にはわかってしまったのだ。
 オーケストラが、遠くのほうで、鳴っている。
 彼にとっては、チェロも、音楽も、自分の空間を築きあげるためのきっかけでしか
ない。それも、他人を巻き込むほどに強大な。他の手段を持っていたならば、彼はそ
の手段を使ってきっと同じようなことをしていただろう。人という隔てられた殻を溶
け込ませ、飲み込み、包括するような空間を築くその作業を。
 拍手。
 気になっているというのは、私が、彼がもつその能力に軽い恐怖を感じるとともに、
憧れを抱き始めてしまっているということだ。私は、アスカに出会うその日まで、い
や出会ってからも、頑なに一人であるということに拘り続けてきた。そのことが、急
にばかばかしく思えてきた。何をそんなに必死になって、ちっぽけな空間を守り続け
ていたのだろう。何にそんなに脅えてきたのだろう。彼はあんなにも大きな空間を、
たった一人で支えているというのに。
 壮大なオーケストラ。
 もちろん、人とコミュニケーションをとるのが面倒だということに、変わりはなか
った。ただ、それを貫く手段として、自分だけの空間を作り、たった一人であの地平
に立ち続けることが、どんなに不器用で、つまらなくて、下手くそなやり方なのか、
わかってしまったのだ。
 アンコール。
 ある意味では、あの小さな空間は完璧だった。そこだけで完結していた。だからき
っと、碇君は私のことが気になったのだろう。そしてアスカも。しかし、その完璧だ
と思われた、私が必死になって守ってきた空間は、ほんの少し触れられただけで壊れ
てしまうほどもろいものだった。いつだってあっけなく崩れ去って行く。私はここ何
週間かでそのことをひしひしと感じてきたはずだ。
 すでにコンサートは終わっているようで、会場は観客のうねるような拍手の波に包
まれていたが、考えを止めることができなかった。
 私はアスカを含めたこの小さな空間を守ることこそが、幸せにつながるのだと思っ
ていた。いや幸せなんていらなかった。そうじゃなくて私が欲していたのは、たぶん
安らぎだ。
 でも、そこに碇君は簡単に入り込んだ。アスカを使って。チェロも使って。
 だから、もう今は、そこに幸せも安らぎ感じない。あるのは叶わなかった夢と誤魔
化すための虚構だけだ。そのことに気づいてしまった今の私は、もうここへはいられ
ない。地平に立ち続けることもできない。
 アスカを取り戻そう。辛いかもしれないが、いくらだって方法はある。そして、も
しこれからも碇君が私のそばにいてくれたら、もっとたくさんの発見があるかもしれ
ない。
 だから私は、コンサートの終わったその足で、「音楽」を見つけに図書館に行くこ
とにした。


 私がいつも行く図書館は、確かにクラシックばかりで、何を借りていいかほとんど
わからなかった。閉館時間までは一時間以上はあったので、とりあえず碇君が聞かせ
てくれた曲、そしてシューマンと言う作曲家の曲が入ったCDを探し、次々と試聴し
た。
 碇君が気に入っているというあの「トロイメライ」と言う曲は、もともとピアノの
曲で「子どもの情景」という曲の中の一部だと言うことがわかった。ピアノのほうは、
碇君のチェロのように、息を長くして語りかけるような感じではなく、ハーモニーが
どことなく寂しげで、それでいて優しさに溢れていた。確かにいい曲だ。
 そしてCDのライナーノートに載っていたシューマンの略歴を見ると、彼がもとも
とは文学青年で、大きくなってから音楽家を志すようになったこと、奥さんのクララ
と言う人と大恋愛し親に反対されながらもなんとか結婚できたこと、晩年は精神を病
んでしまったことなどが書かれ、とても印象的な作曲家だと思った。
 私でも知っているようなバッハやモーツァルトやベートーヴェンなどは、小さいこ
ろから音楽家として育てられたと言うことは知っていたので、有名な作曲家は、きっ
と政治家と同じように世襲的なものなのだろうと思っていたが、その印象が変わり面
白いなと思った。
 本を調べてみれば、この図書館には音楽に関する本もたくさんあり、信用できそう
なものから当たっていけば、どんな曲を聴けばいいかもわかるかもしれないと思った。
それに、今日はいないが、普段は碇君もいるので、きっと彼が何か勧めてくれるだろ
う。
 そうしているうちに閉館時間になってしまった。
 文芸書も借りず、閲覧スペースにも行かずに図書館を利用するのは、ずいぶん久し
ぶりなことだ。小さいころは図書館に来るというだけで楽しかったが、今日はその感
覚が蘇ってきたような気がした。
 いつも通る車の少ない帰り道は、クリスマスでも変わらずにひっそりとしていて、
ぽつぽつとだけある街燈に照らされた路面は、相変わらず寂しさを演出するのに役立
っている。冬のこの肌寒さと暗闇は、私にとって親しいものだった。私だけの空間。
でも、この皮膚を刺す感触も光のない抱擁も、あくまで私の空間の一部でしかない。
それが確かであっても、すべてではないと言うことを、今日私は気づくことができた。
 すると遠くのほうに、ちょうど碇君と私がいつも別れる十字路のあたりに、人影が
あるのが見えた。一人じゃない。二人だ。
 それがアスカと碇君だと気づくのにそれほど時間はかからなかったので、私は走っ
て彼らのほうへ向かった。なんだか今は、無性に彼らと話がしたかった。
 しかし、彼らの影がはっきりとしてきたところまで走ったところで、私はそれ以上
進めなくなってしまった。なぜなら、さっきまで確かにあった二つの影は、急に一つ
に重なった。彼らは、キスをしていた。遠目でもわかるくらいはっきりと。まるで本
物の恋人のように。
 だから私は彼らに見つからないように、走って逃げた。


「はい、碇です。ただいま留守にしております。ご用件の方は着信音のあとにメッセ
ージをどうぞ」
「もしもし、綾波です。今日のコンサート素晴らしかったです。碇君ごめんなさい。
今日ちょっと無理したせいで風邪になってしまったようなので、明日の約束は守れそ
うにありません。ごめんなさい」

「はい、綾波です。ご用件の方は、三十秒以内でメッセージをお願いします」
「あ、あの、碇です。無理させてゴメンね。舞台から綾波が見えたんだけど、帰り見
つからなくて、ちょっと心配だったので。風邪治ったらまた連絡くれるとうれしいで
す」