3.紡がれる物語――綾波が、死んだ。僕を守って。運命の足枷を引き摺ったまま。僕は、ただ見て いることしかできなかった。綾波が自爆するのを。綾波がひとり暗闇の底へ投げ出さ れていくのを。綾波は、こころを宿した唯一の「綾波レイ」だった。代わりなんてな い、かけがえのない命だった。取り返しのつかない行為だった。彼女を「綾波」と呼 ぶことはできない。彼女は確かに「綾波レイ」であるかもしれないし、この世に生を 受けたひとりの人間かもしれないけど、綾波とは別の人だ。綾波として彼女と接する ことなんて、できない。綾波の記憶や魂をもてない彼女を綾波にするなんて、二人に とって残酷のことでしかないと思うから。もう綾波とは話すことも、触れることも、 近づくこともできない。綾波は、死んだんだ。そのことは僕にとって耐えられないほ どつらい。涙もでないくらいに―― 「な、何だよこれーーー!」 怒り、シンジは雄叫びを上げた。現在深夜2時。 「うっさいわね! 今何時だと思ってるのよ!」 その声は向かいの惣流アスカラングレーの部屋にまで届いたようだ。襖越しに彼女 の声が聞こえる。 「お化けでも出たわけ?」 そう言いながら、シンジの部屋の襖を開け、ドシドシと侵入する同居人。現在深夜 2時。 「ち、ちがうよ! あ、綾波が、綾波が」 「は? レイ?」 そして、シンジがパソコンを見ていることに気づく同居人。 「レイがどうしたの?」 「ちょっとこれ見てよ!」 「何? レイのエロ画像でもアップされてたわけ?」 「ち、ちがうよ! とにかく見てよ!」 シンジの前にあるパソコンを覗き込むアスカ。着ているのはパジャマ。現在深夜2 時。薄暗い部屋で二人きり。 「なによこれ? 字ばっかじゃん」 「最後見てよ! 最後!」 「最後?……あやなみがしんだ? なにこれ?」 「きっとひどい悪戯だよ!」 「ははっ。あの娘にはちょうどいい薬なんじゃない?」 「でもおかしいよ。なんで僕らの名前が――」 アスカはシンジの「僕ら」という言葉に反応してパソコンを見入り、探るような目 つきになる。マウスをシンジの手の上からかぶせて操作する。それに気づき赤くなる 純朴少年怒りシンジ。 読み終わると疲れたようにため息をつきながら姿勢を戻した。そのままシンジのベ ッドのほうへ行ってばふんと座る。 「大体わかったわ。『僕』って言うのはシンジのことみたいね。ネクラ〜」 アスカはなんとか空気を軽くしようとしたが、これを見ていい気分ではいられない のは隠せなかった。 「昨日の話にはアスカもあったよ」 「じゃあクラスの誰かが書いたんじゃない? なんでこんなの読んでたわけ?」 「先週たまたま見つけて、毎日更新されるからなんとなく読んでたんだ。でも、なん で僕が主人公なんだよ。それに綾波を殺すことないだろ。ひどすぎるよ」 「あんた今までこんなこと話さなかったじゃない」 「きっとクラスで話したら、書いてる人がやめちゃうかなって思って……」 「なんだ。楽しみにしてたんじゃない」 「いや、楽しみって言うか、僕が主人公だったから」 「はぁ〜。あんたホントにバカね。これ書いてるやつあんたのことが好きなんじゃな いの? あんたとレイって図書委員つながりでわりと仲良いみたいだし、嫉妬してた のよ。きっと」 「べ、別に仲良くなんかないよ。それに、僕を好きな娘なんているわけないよ」 「はい、はい。で、どうするわけ? 犯人突き止めるの?」 「いや、別にそういうわけじゃ」 「じゃあ良いじゃない。まぁもっと悲惨な続きが待ち受けてるかもしれないけど」 「悲惨な続き?」 「ほかにも誰か死んじゃうとか。あぁ、あたしも殺されるかもね。一応同居してるわ けだし。下手したら拷問かな」 「うっ――」 (確かに、今「アスカ」は精神崩壊してたな) 「そもそも読むほど面白いわけ?」 「まぁ、面白いといえば面白いんだけど。なんか僕らがロボットのパイロットになっ て敵を倒すんだ。綾波とアスカが仲間で」 「うわ、マジ? 正義の味方? ますますあやしいわね。本当にシンジのファンだっ たりして」 「で、でもこの話の中では、僕は綾波のことが好きなんだよ?」 「じゃあ現実と大差ないじゃん」 「ち、ちがうよ!」 「あぁ〜、でも何であたしらまでパイロットなわけ? 自分とシンジの話でも書けば いいじゃない」 「じゃあ、きっとアスカのファンなんだよ。僕と綾波を苦しませて、最後にはアスカ が地球を救うんだ」 「それじゃあんたを主人公にした意味がないでしょ」 「そ、それは、きっと書いている人が男なんだと思う」 「あっ、それならありうるかもっ。あたしの大ファンでぇ〜、シンジを主人公にした と思いきやぁ〜、最後はどん底に陥れるってことね! 同居してるからやきもち焼い ちゃって。まっそれならしかたないわね!」 「………(精神崩壊していることは黙っておこう)」 「ならともかく、私にもそのページ教えてよ。ひどいようならあたしが犯人突き止め るわ。ちょっと面白そうだし」 「うん。カタカナで『エヴァンゲリオン』で検索すると出てくるよ」 「『エヴァンゲリオン』ね。気持ち悪いネーミングセンスね。どうやって見つけたの」 「え、いや、それは」 「答えられないの?」 「そういうわけじゃないけど。その」 「エロサイト探してたら見つけたとか?」 「違うよ!」 「じゃあ何よ」 うつむくシンジ。睨みつけて待つアスカ。 「ちょ、たまたま……。本当にたまたまなんだけど、あ、綾波レイって打って検索し てて」 「ぷっ、くっくっくっ。あぁそれなら納得できるわ。くっくっくっ」 「わ、笑うことないだろ! 本当にたまたまなんだから」 「ぷっ。わかった。わかった。愛しのレイには秘密にしといてあげるわよ」 「だから、そんなんじゃないって。あ、もうこんな時間だ。部屋に帰って寝たほうが いいよ」 「ち、話そらして。まぁ確かに遅いし、もう寝るわ。」 言いながらアスカは襖のほうに向かう。 「うん。おやすみ、アスカ」 「はい、はい。おやすみ。また明日ね」 アスカは手をひらひらさせて去っていく。 襖がちゃんと閉まったのを確認して、シンジもパソコンの電源を落としてベッドに 入った。 (あぁ〜、もうアスカに綾波好きだってことばれちゃったよ。もともとからかわれて たけど、これでいよいよ弱みを握られたな。はぁ) それぞれの思いを胸に夜がふけていく。 翌朝。 「バカシンジ! 起きろぉぉぉぉぉーーー!」 全体重をかけアスカはシンジの腹の上に、まるで柔らかいソファーにでも座るかの ように飛び乗った。 「おぉ! う〜、くぅぅぅぅ」 シンジは一瞬で目が覚め、同時に死の淵を彷徨った。 「……起きるどころか、永眠しちゃうよ」 (そもそも高校生の女の子がやることじゃない――) いつものように不満を抱えながら何とか復活し、シンジはアスカをどけて起き上が った。 「私に殺されるならありがたいと思いなさい」 「……重い、なさい(ぼそっ)」 「なんか、いったかしらぁぁぁーー?(ぎらっ)」 アスカの目からポジトロンライフル並みに鋭い閃光を浴び、萎縮するシンジ。 「……いえ、なんでもありません」 「なら良いわ。早く着替えなさい」 アスカはそういって部屋を出て行った。ちゃんとアスカが出て行ったのを確認して シンジはアッカンベーをした。 いつものようにアスカに起こされ、顔を洗い、食事をとり、登校する準備も万全。 鞄をもって部屋から玄関に向かった。 「じゃあ、行ってくるから!」 台所で洗い物をする母に声をかける。 「はいはい、いってらっしゃい」 (そういえば、あの話では母さんがいないことになっていたな) 「シンジ、帰りに山崎十年だ」 新聞で顔を隠しながらまだ高校生の息子に不届きなことをいうヒゲオヤジ。それは 日ごろの晩酌にオヤジが用いるウイスキーだった。これもいつものこと。 (父さんは組織のトップで手段を選ばない極悪人だったな。見た目だけで言えばぴっ たりだけど、この体たらくじゃなぁ) 「いやだよ。未成年なんだから無理に決まってるよ。自分で買いに行けば?」 「ふん。度胸のないやつめ。お前には失望した」 「………(ムカ)」 そりあえずオヤジは無視してアスカとともに玄関へ向かった。 「おばさま、おじさま、いってきま〜す!」 おばさまは「は〜い」と元気よく返事し、おじさまはニヤリと気持ち悪い笑顔を向 ける。サングラス越しに。 シンジは靴を履き終えアスカのほうを向いた。 「行こうアスカ」 「ええ。ん? ちょっとあんた。ほっぺたにご飯粒ついてるわよ」 「え、どこ?」 「もう。ここよ。ほらっ、ほら」 言いながらシンジの左頬を撫でてご飯粒を落とすアスカ。 「ありがとう」 歩き始める二人。 エレベーターを使わずに階段で下まで行き(アスカのダイエットのため)、マンシ ョンのエントランスを抜けると、外は快晴だった。 「もう高校生なんだからしっかりしなさいよ。レイに嫌われるわよ」 「あ、綾波は関係ないじゃないか」 「もういいじゃん。あんたがレイのこと好きなんてあたしにはバレバレなんだから」 「うっ。あの、綾波には言わないでよ」 「バカ、言うわけないでしょ。そういうことはあんたが本人に言いなさいよ。本当に バカシンジなんだから」 「洞木にもだよ」 あわてるシンジを見ていたずら心が芽生えるアスカ。 「えぇ〜、ヒカリも〜? いいじゃん別にヒカリは」 心なしかニヤニヤしているが余裕のないシンジは気づかない。 「だ、だめだよ! 絶対にダメだからね」 「あっそ。あ〜、そういえば、今私がはまってる3部作の映画の2本目が駅前の映画 館で封切になったばかりだったわね〜。あぁ〜、でも今お金ないしな〜」 「………」 「誰か連れてってくれないかな〜」 「………」 「まぁ、どおーーーしてもってわけでもないんだけど、」 「わかった、わかったよ! おごるから」 「でもやっぱり2本目だけ見れても、完結編が見れないと意味ないし〜」 「……あ、あの?」 「私、中途半端って大嫌いなのよねぇ〜。あ〜中途半端に誰かに口止めとかされたら、 絶対に「うっかり」しゃべっちゃうわね〜、ヒカリとかに〜」 「……是非、映画2回分おごらせて下さい(おにアスカ!)」 ほとんどシンジは涙目だった。 「え? まじ? さんきゅ! 別に無理強いした訳じゃないからね。あんたが誘った んだからね。仕方なく行ってあげるんだからね!」 「はい、はい。アスカ様にお供させていただいて、身に余る光栄でございます」 「わかればいいのよ」 「そのかわり、絶対内緒だよ」 「わかってるって」 鞄を後ろ手でぶらぶらさせて、満面の笑みを浮かべるアスカ。 お小遣いを気にして青くなるシンジ。 学校。靴箱前。上履きに履き替えるシンジとアスカ。 「そういえば、『エヴァンゲリオン』のこと、話さないほうがいいわよね?」 「アスカ、もう見たの?」 「今朝ちょっとだけね」 「一応、やめておこうよ。あんな場面があるようじゃ、綾波にも知られたくないし」 「そういえばそうね。わかったわ」 教室に着くといつものようにケンスケが話しかけてきた。アスカは洞木嬢のほうへ。 「あいかわらず仲がいいな。碇と惣流は」 いつものからかいを受け流してシンジは席に着いた。ケンスケのほうを見るふりを してちらっと後ろ見ると、レイはいつものようにひとりで本を読んでいる。 「そんなわけないだろ。どうすればそう見えるんだよ」 「おまえなぁ〜、同い年の女子高生と一つ屋根の下で暮らしてるだけありがたく思え よ!」 「実際に暮らせばそれがどれほど悲惨なことかよ〜くわかるよ」 「シンジこそ毎日潤いのない生活をしてみろ! すぐに干からびるぞ」 「僕はそっちのほうがいいよ。それに潤いなんてあるわけないだろ? うちの親も親 友の娘だからってうちでひきとることなかったのに」 「惣流の両親は今ドイツだっけか?」 「そうだよ。本人は日本語ぺらぺらなのにね」 「まぁ、中学のころからいたんだろ?」 「最初から流暢な日本語だったよ。なんかやけに頭もいいし」 「向こうでの勉強が相当進んでたんだろ?」 (そういえば、むこうの『エヴァンゲリオン』でもアスカは超エリートで大学出てた な。いくらなんでもデフォルメし過ぎだって――あれ? もしかして、あの作者、ケ ンスケって可能性も。ケンスケなら僕や綾波やアスカを話の中で酷い目に合わせても 罪悪感抱かなそうだし、軍事関係詳しいし。でもそうだとしても目的がわからないな ――) いったん考え出すと、その可能性から抜け出せなくなる。どうしても気になるシン ジ。 「シンジ」 「………」 「おい、シンジ。考え込んでどうした? そんなに惣流と暮らすのが辛いのか?」 「え、あ、いや」 (そういえば、知らない名前もちらほらあったな。確か「鈴原トウジ」。もし、ケン スケが知っていたら) 「ねぇ、ケンスケ。鈴原って知ってる? 鈴原トウジ」 その名を口にした瞬間、ケンスケは見るからに暗い表情になった。それに質問の意 図を訝しむように、シンジのほうへ視線をよこす。 「……その名前、どこで、知ったんだ?」 「えっ、いや、あの、なんかアスカが聞いたみたいで」 (うわ〜、これは無理があるだろうな〜) 「……ってことは、洞木か」 (え?) 「あぁ知ってるよ、そいつは俺と洞木の中学のときの同級生だ」 「えっ?」 シンジは予想だにしない答えに戸惑った。こんなにすぐにはっきりするとは。 (じゃあ、まさか、本当にケンスケが) 「高校は、別々なんだね」 「あぁ。というより、中二のころ、そいつ、ちょっと遠くに行ってな」 「そう、なんだ(ちょっと?)引っ越したってこと?」 「まあ、な。俺とよくつるんでたやつでね。もしかして、それ以上のことも聞いたの か?」 (洞木の、ことか……そこまで一致してるの?) 「あの、洞木が、好きだったとか」 「そこまで聞いたのか。いくら碇と惣流の仲とは言え、そこまで話しちゃっていいの かねぇ」 言葉とは裏腹にケンスケはどこか安心した様子だった。しかしシンジはケンスケの 「遠くに行って」という言葉がやけに気になった。あの話の中では、たしか鈴原トウ ジは親友の碇シンジに―― 「遠距離恋愛とか、してないの?」 「……ああ、ないだろうな」 そういうケンスケの表情は、先ほどにも増して冷たかった。ただなんとなく、感情 を押し殺しているような今のケンスケを見て、あれはケンスケが書いているものでは ない、そんな気がした。それにこれ以上この話を続けられる雰囲気でもない。でも、 それなら誰が? (聞いちゃいけないこと、聞いたかな――) 思考を中断するかのように教師が入ってきて、洞木の号令とともにホームルームが 始まる。見慣れた朝の景色は、シンジの不安を忘れさせてくれた。 放課後。 後ろの席でケンスケはそそくさとカメラやその他の器具を揃えていて、すぐにでも 写真部に向かいたがっているようだった。 (相変わらずだな) そして、アスカが近づいてきた。その表情はどこか険しい。 「今日は、図書委員だったけ?」 「う、うん」 そして、顔を近づけて耳元でシンジに囁やいた。 「今日こそコクっちゃいなさいよ。今はいいかもしれないけど、意外とチャンスなん て少ないものなのよ?」 その言葉だけでシンジは顔中は真っ赤になった。こちらも小声で返す。 「あ、アスカには関係ないだろ」 「あんたがうじうじしてるの見るとイライラすんのよ」 「なんだよ、それ」 シンジは聞いちゃいられないとばかりに席を立った。 「夕飯、今日はアスカの番だからね」 両親が忙しく夜遅いことが多いため、二人は交代で夕飯を作っていた。 「わかってるわよ。あんたこそちゃんとやることやりなさいよ」 今度は正面から真剣な表情で言われ、シンジは一瞬うろたえた。しかし、なにも言 葉を返すことができなかったので、振り返ってレイの席のほうへ向かった。 (へんなこと意識させるなよな) 「綾波、行こう」 彼女はとうに帰り支度も終わっていたらしく、右手で頬杖をついて、窓の外を眺め ていた。 これまで何度も見てきた横顔はシンジの心をかき乱す。顔がほてり、心臓の鼓動が 早くなる。どうして、抑えられないのだろう。それに今日はいつもより緊張する。 「ええ」 まともに顔を見ていられなくて、シンジはとにかく歩き始めた。レイは鞄を持って 席を立ち、その後に続いた。 「……何か今日は、やけに人が少ないね」 図書館(といっても図書室と言って差し支えないほどの規模だったが)はいつもそ れほど人が多いわけではなかったが、いつにもまして今日は生徒が少なかった。閑散 とした空間に取り残される二人。 「夕方から、雨が降るから」 「えっ? うそ? そうだったの?」 (傘持ってきてない……なんで誰も教えてくれなかったんだ、もう!) 天気予報が見られなかったのはいつも朝寝坊であわてて支度をするシンジ本人のせ いに違いなかったが、彼の脳裏に浮かんだのは舌を出して意地悪な表情をしているア スカの顔だった。 (仕方ない。帰りまでに降らないことを祈ろう) もし雨が降ってしまったときレイの傘に入れてもらうことなど、この純朴少年には 想像すらすることができなかった。 それきり、二人に会話はない。それはいつもどおりの光景だった。 レイはひとり本を読み耽り、シンジはその隣で本を読むフリをして一人ドキドキす る。ほとんど内容など頭に入らなかった。だから貸し出しや返却の手続き、本の整理 はシンジが率先してやっていた。レイがシンジのその行動に感謝の意を表すことはな かったが、シンジはそれでも満足だった。 しかし、今日はとにかく人が少なく、やることがなくて落ち着かなかった。 (アスカが変なこと言うから!) シンジはいつも以上にレイを意識してしまう自分を恥じた。 すべて読み終わったのか、レイは本をぱたっと閉じて目を瞑り、軽く吐息を漏らし た。読後の余韻に浸っているのだろうか。ついシンジはその横顔に見惚れてしまう。 そのとき、この図書館に残っていた最後の生徒が本を借りにカウンターに来て、 「すいません」と言いながらその上に一冊本を置いた。『失われた時を求めて』 現実世界にもどったシンジが「はい」と言ってなにげなくその本に手を伸ばすと、 それよりほんの少し早く誰かがその本に触れ、その手にシンジの手が重なった。 「あっ」 (やばい!) すぐにシンジは手を引っ込めた。一瞬で体温が上昇し、心拍数が上がった。顔が熱 い。頭の中で様々な思考が駆け巡って、動くことができなくなった。 しかしレイは全く気にかけていないようで、本を手に取るとひっくり返してバーコ ードをスキャナに読み取らせた。シンジはその作業を落ち着かない様子で眺めていた。 生徒はあやしげな雰囲気の二人を探るような目つきで見比べていたが、手続きが終 わると「どうも」と言ってさっさと出て行った。もうここには図書委員の二人しかい ない。 「雨」 「へっ?」 シンジがどう収拾をつけようか思い悩んでいると、唐突にレイが声をかけてきた。 「雨、降ってきたみたい」 「あ、ほんとだ」 窓の外を見るとぽつぽつと雨が降り始めていた。と思っているとそれが瞬く間に強 くなっていった。傘なしでは帰れそうにない。 「今日はもう誰も来ないわ。帰りましょう」 「う、うん」 レイはカウンターから出て本を棚に戻し、カーテンを閉め、そそくさと帰り支度を 始めた。シンジははただ右手を閉じたり開いたりしていた。 レイは鞄をもって電灯のスイッチのほうへ向かった。 「帰らないの?」 「あ、ちょ、ちょっと、待って」 シンジはあわてて図書館の一つしかない出入り口の方へ向かった。 ――今日こそコクっちゃいなさいよ アスカの言葉が頭から離れなかった。 図書委員の後は職員室に鍵を返しに行って、なんとなくそのまま二人で帰る。 取り立てて決めていたわけでもなく、だからと言ってなぜか別々になることもない。 そんな曖昧な時間がシンジにとっては至福のときだった。きっと彼女と帰りをともに したことがあるのは男子でも女子でも自分だけだろう、それが無性に嬉しかった。週 に一度しかないそのチャンスをシンジはいつも心待ちにしていた。 しかし、今、昇降口で降り止み見そうもない雨をながめて、シンジはこの状況を呪 った。 (ど、どうすればいいの? これはチャンス、だけど、耐えられない……) 靴を履き替え、顔を赤くしたり白くしたりしながら呆然と立ち尽くすシンジを見て、 レイはさっき彼が雨を降ることを知らなかったのを思い出して声をかけた。 「傘、ないの?」 「え、う、うん」 「入れば?」 そういいながら大きめの折り畳み傘を広げるレイ。 (もう、腹をくくるしかない! 良いじゃないかこれくらい! 本当に傘ないんだか ら) 「あの、その、綾波が、嫌じゃなかったら」 「平気」 歩き始めたレイを見て、シンジも傘の中に入ってそれに続いた。遠慮がちに少し距 離を取り、右肩を濡らしながら。 (情けない。女の子に傘に入れてもらって、女の子に持ってもらうなんて) そうは思ってもシンジは何も言い出せなかった。 「肩はみ出してる。もっと寄って」 「う、うん」 シンジはほとんどやけくそになり、レイと肩がくっつくくらいに近づいた。心なし か歩調がいつもより緩やかだ。 (ああ〜、くるしい。くるしいけど、このまま死んでも後悔はないよ! 父さん母さ ん僕を生んでくれてありがとう!) 校門を出て少ししたところで、顔の向きは変えずにレイがシンジの方へ目を向けて きた。 「碇君」 「な、なに?」 レイから話題をふられることは珍しかったので、いくらか緊張しながらシンジは答 えた。レイは少し躊躇してから告げた。 「エヴァンゲリオンって知っている?」 「……エヴァン、ゲリオン」 さっきまでの夢見心地から一点、急速に熱が冷めていくのをシンジは感じた。 (もう、綾波、知ってたの?) 「碇君は見たこと、ある?」 シンジは一瞬本当のことを言おうかどうか迷ったが、レイが知っている以上嘘をつ いても彼女のためにはならないと思った。 「もしかして、インターネットで公開されてる小説――」 「……碇君は、もうあれを読んだのね」 あの惨たらしい物語は彼女だけには知られたくないと思っていたが、どうやら遅か ったようだ。どちらにしろ、時間の問題だったのだ。 「でもあれは、酷すぎるよ。あの、その、綾波が――」 「……作り話だから」 口ではそういっていたが、レイは浮かない様子だった。シンジはそんな彼女を見て いられなくて、余計に「あれ」に対する憤りを募らせていった。 「それでも、おかしいよ! 何で僕が、主人公で、守ることもできなくて、綾波が死 ななくちゃいけなくて――そんなのおかしいよ!」 言えば言うほど感情が昂ぶっていった。 「でも話の中で私は、碇君を守ることができた」 「……そんなの、嫌だよ」 シンジが震える声でそうつぶやくのを聞くと、レイは立ち止まってシンジの顔をじ っと見つめた。 シンジはそれにあわせて立ち止まったが、前を向いたままうつむいて、レイと目を 合わせられなかった。あれのなかに出てくる「僕」が情けないのが、自分と重なって 感じられて。そんな自分が、許せなくて。 「碇君は私が死んだら悲しいの?」 「そんなの当たり前だよ!」 声を荒げて、地面にたたきつけるようにしてシンジは怒鳴った。 「どうして?」 「どうしてって、そんな。そんなの当たり前じゃないか」 今度こそシンジはレイのほうに顔を向けた。 「綾波は、自分のそばにいる人が死んだら悲しくないの?」 「……私のそばにいる人」 レイは真剣な表情をして考え込んで、それから思い当たったように答えを返した。 「例えばあの話の中で、碇君を守ることができなかったら、きっと私は深く後悔する。 どれだけ悔やんでも、悔やみきれないほど」 シンジは思いつめた様子のレイの科白に息を呑むばかりだった。 「もっと始めのほうの話で、私が盾になって碇君を守る話があった。そして、碇君は そのあと私を助けに来てくれた。友人が乗るエヴァンゲリオンが乗っ取られたときも、 その次の強力な敵が現れたときも」 「………」 「あれは物語の中の碇君だけど、いつの間にかあなたと重ね合わせていた。そして、 碇君を守りたいと言う気持ちもよくわかった」 「……な、なんで」 「私が死んでも代わりはいる、その言葉は私の胸に響いた。でも碇君には代わりはい ない。私はそれをわかっていたのよ」 「そんな、綾波にだって代わりはいないよ!」 シンジはつい語気を荒げてしまったが、レイは悲しい表情をするばかりだった。 「碇君には、近しい人がたくさんいるわ。惣流さんも、相田君も。でも私には――」 「そんなの関係ないだろ! みんな綾波とは違うんだ!」 シンジはいても立ってもいられなくなった。どうすれば彼女にちゃんと想いが伝わ るのだろう。もどかしさに、胸が掻き立てられる思いだった。 「私が死んでまた別の私が出てきたとき、このお話の作者はよくわかっていると思っ た。きっと私は、一つの目的のためだけに生み出された幽霊のような存在なのよ。あ の中でも、ここでも」 「そんなの、うそだよ」 「例えば、あなたと惣流さんとの間に流れるようなまぶしい時間を、私はあげること ができない。どこまでも無機質で、無味乾燥な時間。それが私のできることの全て」 レイ自身から発せられるあまりにも残酷な言葉の数々を、シンジは拳を握り締めて、 目に力を込めて、負けないように、流されないように、しっかりと受け取った。そし て自分の本当の気持ちを伝えようと思った。彼女のためにも、それだけじゃなく自分 自身のためにも。あの話は、自分たちの分身だったんだ。もう二度と、後悔しないた めの。 ――いま、はっきり言わなくちゃだめだ。 「じゃあ、僕が綾波を好きだって気持ちはどうなるの」 「え?」 「僕には、どこにも綾波の代わりなんていない。あの中に出てくる「僕」が言ってい るみたいに。いつも本を読んでいて、一緒に図書委員をやっていて、傘に入れてくれ て、今ここにいて、僕をドキドキさせるきみ以外に、綾波なんていないんだ。もちろ んアスカだって変わりになるわけない」 想いがすり抜けないように、瞳をそらさないように―― 「他の人といる時間と、綾波といる時間、感じ方は確かに違うけど、でも、僕は綾波 といる今が、どうしようもないくらい好きだよ。愛おしい。離れたくない。終わって ほしくなんかない」 言葉が言葉を刺激し、連鎖反応を起こしてぶつかってくる―― 「……だから、そんな悲しいこと言わないでよ。今を、否定しないでよ」 体中が強張り、目頭が熱くなり、心臓の鼓動は止まらなくて、息が荒くて、でも、 もう頭は真っ白で、ここだけ切り離されたみたいに、何も聞こえなくて、彼女しか見 えなくて―― 伝わっただろうか。ずっと胸の中で培ってきた歯痒い気持ち。わかってくれるだろ うか。踏み出せなかった小さな一歩。もう後のことなんてどうだっていい。拒絶され たって構わない。今はただ、彼女のことを大切に思っている人がいるということを、 知ってほしかった。 「……いかり、くん」 レイはそれ以上シンジのほうを向いていられなくなって、俯いた。そして同時に、 自分の放ったいくつも言葉がシンジを傷つけたことを呪った。 「……ごめんなさい」 レイの悲しげな雰囲気に、シンジは自分が感情的になりすぎたことを悟った。これ ではあまりにも一方的すぎる。態度も、言葉も。 「こ、こっちこそごめん。勝手なこと言って。綾波の気持ちも考えないで」 「いえ、私も――」 「………」 「私も、碇君といる時間はとても嬉しい。かけがえのない時間。碇君の言うとおり、 今の気持ちに、代わるものなんてない」 「……あや、なみ」 レイの柔らかい声に、心が通じ合い、気持ちがふわっと軽くなるのをシンジは感じ た。 レイは顔を見せないように前を向いて少し急いで再び歩き始めた。シンジもそれに 遅れないようについていった。少し後ろから目だけでほんの少し視線を横に向けると、 レイの首筋がいくらか赤く染まっているのに気づいた。気のせいじゃ、ない。 それを隠すようにレイはシンジと反対のほうに首を曲げ、囁くようにつぶやいた。 「……少し寄り道、しない?」 かすかな音量のレイの言葉は、まだ降り止まない雨にかき消されそうだったが、今 の彼女のどんな仕草も言葉も、表情もとらえ逃したくないシンジの耳には、はっきり と伝わった。その、まごころとともに。 「……うん。行くよ。行こう! ちょうど、父さんに買い物を頼まれてて」 「何を買うの?」 「山崎十年っていうんだけど――」 「ヤマザキ? ニンゲンを買うの?」 「もう、何言ってるんだよ。行けばわかるから」 「そう、楽しみ」 そう答えたときの彼女の微笑を、少年は生涯忘れることはないだろう。 相変わらず傘はレイが持っていて、シンジはドギマギしていたが、二人の間に流れ る至福のときに、どんなものも入り込む余地はなかった。この一瞬が永遠になってく れればいい。やっと見つけた、ふたりの時間。 弱まることのない雨の中でも、こころの灯火は彼らを照らし続ける。 |