４．こころ、つながる今日も葛城ミサトは鳴らない電話を待っている。縋るように。憑かれたように。 きっと、もう加持リョウジとは会うことができない。シンジは何度も再生される留 守番電話のメッセージからそんなことを感じ取っていた。 しかし、まだ幼い彼に彼女を慰める方法など知る由もない。 ベッドの中で何度も同じ音楽を再生しては、ひたすら睡魔が訪れるのを待った。 使徒に乗っ取られたエヴァとともに友人を傷つけたことを忘れたくて。前回の使徒 によって昏睡状態にさせられた彼女のことを考えたくなくて。恋人の死を受け入れら れない彼女の声を聞きたくなくて。 立て続けに起こる悲劇に彼の神経は磨り減っていた。きっと以前の彼であったら耐 えられなかったであろう程に。 （ネルフってなんだよ！ エヴァってなんだよ！ 父さんは、何がしたいんだ――） それでも毎晩ベッドの中で思考を巡らせてしまうのは、今の理不尽な状況に対する 組織や父親への不審だった。 何をやっているのかわからない。何をしていいかわからない。 自分の大切な人が傷ついていくのをただ見ていることしかできない自分に苛立ち、 環境を呪った。 いつもなら自分の励ましてくれる姉のような存在の彼女は、部屋に籠もりっぱなし で話しかけることができない。 本当なら、今は自分が彼女を励ますべきなのだろう。もし彼女の存在がなかったら シンジは立ち直れなかったであろう場面もいくつもあった。彼女がいたから頑張るこ ともできた。それなら、今は自分が彼女を助けたい。 悩んだ末シンジは、音楽を止めてイヤホンを外し、ゆっくりとベッドから起き上が って部屋を出た。 ミサトの部屋に面したリビングはまだ電気がついていた。そして、彼女の部屋の襖 には『仕事中、悪いけど声、かけないで』の文字。 いつもこの警告に悩まされた。ミサトの迷惑にならないかと。嫌がられないだろう かと。 しかし今、例え彼女に煙たがられようと、怒らせようと、声をかけないことには何 も進まない。そんな気がした。だから彼はそっと二回ほど、張り紙の上から彼女の部 屋をノックした。 「あの、ミサトさん」 しかし、思った通り彼女の返答はなかった。 「仕事の邪魔になったらごめんなさい。でも、あの、どうしても、ミサトさんのこと 心配で」 部屋は沈黙を保ったままで、彼女に声が届いている保証はなかったがそれでもシン ジは続けた。 「加持さんのこと、心配だと思います。僕も、そうですから。でもそれでミサトさん がおかしくなっちゃうのはもっと嫌です」 「………」 「僕にできることなら何でもします。エヴァの訓練ももっと頑張ります。だから、お 願いだから、元気出してください」 「………」 「……それだけです。おやすみなさい」 自分の気持ちが伝わった手応えはなかったが、それでもこれ以上彼女に言うべきこ ともなかったので、シンジは深くため息をついて自分の部屋にもどろうと振り返った。 そのとき後ろから、微かに足音が聞こえた。 それを聞き逃さなかったシンジは、振り返ってもう一度ミサトの部屋に対峙した。 「……シンジ君」 襖を開けて出てきたのは、焦燥しきった顔をしたミサトだった。 「ミサト、さん」 泣きはらして目を赤くしているかもしれない、涙で頬を濡らしているかもしれない。 シンジはそんなことを考えていたが、彼女の顔はどちらかと言うと疲労をためて、体 力の衰えたもののそれだった。 彼女はその暗い表情のままで、シンジをしばし見つめ、軽く息を漏らしてから、す っと目を細めた。 「気を使ってくれて、ありがとう」 それは、真剣なときのミサトの表情だった。怖いくらいに。悲しみに満ちた表情か らは程遠い。 狂気すら感じさせるミサトの雰囲気にシンジは戦慄した。 「でも、大丈夫よ。落ち込んでいる場合じゃないものね」 「あの――」 「本当に、急ぎで調べなくてはいけないことがあるの。だからシンジ君が心配するよ うなことは何もないわ。安心して。ただ、余裕がないのは事実だから、ひとりにして もらえるかしら」 「……わかり、ました」 腑に落ちないところはあったが、反論できる雰囲気ではなかったので、シンジはた だ彼女の言うことに頷いた。 「それじゃ、おやすみなさい」 「おやすみなさい、ミサトさん」 確かに、ただ悲しんでいるだけじゃなかった。でも、あれはもっと酷い状況なので はないか。それとも、加持の死因について調べているのだろうか。あるいはもっと大 きな―― 彼女が閉めた襖を、シンジはいつまでも眺めていた。 翌朝、いつものようにアスカを見舞いにネルフ本部附属の病院へ向かった。 ミサトは自分より早く起きて出かけたようだった。以前ならどこへ出かけるにも必 ずシンジに一声かけていったが、それはなかった。 昨日の雰囲気から察すると、恐らく本当に余裕がないのだろう。その余裕が加持の 死によってなくなったものなのか、他に原因があるのかはわからなかったが。 環状線の駅でシンジはレイと出くわした。 「綾波、おはよう」 後ろから声をかけると、レイは首だけこちらに向けてあいさつを返した。 「……おはよう」 シンジは彼女の隣に立った。 「綾波はテストか何か？」 「ええ、調整テスト。再起動実験は先週済んだから。碇君は、今日もお見舞い？」 「うん。行っても意味ないけど」 「あの人の？」 今ネルフのパイロットは二人入院している。足を失った彼と、精神汚染をうけた彼 女。恐らくレイはアスカの見舞いなのかと聞いているのだろう。 「う、うん。アスカの」 シンジは、間接的には自分が傷つけることになった少年の見舞いに、まだ訪れる勇 気がなかった。 「……そう」 レイはそれ以上なにも言わなかったが、シンジは思い出したくなかったことを突き つけられ、まるで責められているような気分になった。 「トウジに合わせる顔なんて、ないよ」 シンジは俯いた。 「彼を傷つけたのは碇君ではなくダミープラグよ」 「でも、僕は初号機に乗ってたのに何もできなかった」 「それは、碇君のせいではないわ」 「でも！」 シンジはレイが自分のことを庇ってくれているのだと感じたが、それは慰めにもな らなかった。 「よけいな罪悪感は意味ないわ」 しかし、レイの次の言葉にシンジは彼女が同情だけで言っているのではないと悟っ た。 「確かに彼は碇君の乗る初号機に傷つけられたけど、それは仕方のなかったことでも あるのよ」 「……綾波は、トウジが犠牲になっても良かった言うの」 「ええ。彼自身もそう考えているはずよ」 「そんな――」 「問題は、碇君がこの事実をどう捉えているかよ。それに、大事なのは彼と向き合う こと。逃げていては何も始まらないわ」 「……それは、そうかも知れないけど」 普段はっきり意見を主張することの少ないレイが、シンジに強い口調で言い聞かせ るのに面食らったが、それ以上にトウジから逃げていることを指摘され、何も言い返 せなくなるのだった。 ミサトも、レイも、ネルフの職員だって、みんな強く生きている。どんな苦境に立 たされても諦めない。しっかりと現状に立ち向かう。 これまでの数々の惨劇に惑わされ、過去に足を引っ張られていたシンジにとって、 レイの言葉は痛烈ではあったが、励ましでもあった。それは、彼女のもつ優しさをシ ンジがよくわかっていたからでもある。 「そう、だよね。ちゃんと向き合わないと」 考えるのはこれからのこと。大切なのは今どうするか。彼女の揺るぎない信念をシ ンジは確かに感じた。 「ありがとう、綾波」 「いえ」 ちょうど環状線がホームに着いた。車内に入ると、いつものように彼女の斜向かい の席にシンジは座った。 彼女はいつものように鞄から本を取り出して読んでいた。 （みんな傷ついていくけど、せめて綾波だけは――） 決意を宿した目で、シンジは彼女が本を読む姿を眺めていた。 いつもはそのまま第一脳神経科のアスカの病室によっていたが、今日はまず外科の トウジの病室によることにした。トウジを見舞う決心がついたと言っても、やはりさ っきレイに後押しされた勢いが失われてしまえば躊躇してしまうだろうことは目に見 えていたので、先に彼のところへ行くことにしたのだ。 外科に来るのはこれが初めてだったので、少し道に迷ったが、案内の人に「鈴原ト ウジの友人です」というとあっさりといる場所を教えてくれた。 これからも友人でいてくれるかどうかは彼にかかっていたが、便宜上そう答えてい ても問題はないだろうと割り切った。 長い廊下を歩くと、一番奥の突き当たりの部屋に「鈴原トウジ」というネームプレ ートのある大部屋があった。しかし大部屋といってもその病室に入院しているのは彼 だけだった。 深呼吸をし、いざ病室に入ろうとしたが、かすかに話し声が聞こえたのでつい歩み を止めてしまった。 「いつもすまんな、イインチョ」 「べ、べつにいいわよ。あくまで公務で来てるんだからね！」 どうやら先客が来ているらしかった。盗み聞きをするつもりはなかったが、シンジ は固まってしまいそのまま先に進めなくなってしまった。 「妹は元気にしとるか？」 「ええ……でも最近鈴原が来ないって、寂しがっていたわ」 「情けないやっちゃなぁ」 「今は、まだ何とか誤魔化してるけど、でも」 「ああ、わかっとる。この足見せてしもうたら誤魔化しようがあらへんからな」 「鈴原……」 「ただでさえ、出来損ないの兄貴が、よけいにダメになってもうた」 「……そんなこと、言わないでよ。そんなことないわよ」 ヒカリの声が震え始めた。さらに彼女は顔を俯けた。 ヒカリの急な態度の変化にとまどうトウジ。 ついには部屋にある音がヒカリが漏らす悲しげな嗚咽だけになった。 時折はさまれる、彼女のしゃくりあげる声が二人の少年の胸を強く打つ。 「……イ、イインチョ！ 泣くなて」 しかし、ヒカリの鳴き声はますます高まっていった。この部屋を彼女の悲しい響き が満たしていく。 シンジはただ立ち尽くしていることしかできなかった。 いつまでそうしていただろう。しばらくしてやっと彼女は泣き止んだ。 そして、震える声のまま、彼に問いかけた。 「鈴原は、どうしてあれに乗ったの？ 妹さんが悲しむって思わなかったの？」 「……これを言い訳にしとうないんやけどな、ワシがパイロットになれば妹をネルフ 附属の病院に転院してもいいと言われたんや」 「そんな！」 「こっちのが設備も段違いにええやろ？」 「交換条件って、こと？」 「ああ、せやけど後悔はしてへん」 「………」 「このご時勢、生きてるだけでも儲けもんっちゅうわけや」 「でも――」 「シンジにはすまんことしよったが――」 「ど、どうして？」 「ようわからんけど、どうしてもや」 「そ、そう……」 シンジも彼女のように思い切り泣きたかった。でも自分にそんな資格はないと思っ た。彼の優しさが自分の罪悪感を抉るように浮き彫りにする。トウジはよくても彼女 は許してくれないだろう。きっとそうだ。 そう思ったシンジは、せめて二人の邪魔はしないように、そっと病室を後にした。 来た時よりもはるかに重い足取りで。 「やっぱり、僕はただの意気地なしだったよ」 自嘲的に笑ってみたが、アスカは答えてくれない。それはいつものことだ。彼女が この状態になってからシンジの言葉に反応したことなど、一度たりともないのだ。 「綾波に、ちゃんと向き合えって言われたのに、イインチョウの悲しそうな声聞いた ら、なにも考えられなくなっちゃって」 それでもシンジは続ける。 「トウジじゃなくて、僕が傷つけばよかったのに」 ひたすら眠り続ける彼女を前に、シンジは普段なら誰にも言えない弱音を吐いた。 アスカのためを思って見舞っているというよりは、自分の精神を落ち着けるために シンジは彼女の病室に頻繁に訪れていた。 確かに生きている。生きているが自分の言うことに傷つかず、自分を決して傷つけ ることのない彼女の存在は、むしろ甘えの対象だった。 いつかは起きるだろう。そのうち良くなるだろう。そんな楽観的な憶測が自分の中 で勝手に成り立ち、むしろ悲惨な状態から逃げていられるアスカを、うらやましく思 うときもあった。 ――な〜に辛気臭い顔してんのよ、バカシンジ！ 「前なら、こんな泣き言言ってたら真っ先にアスカに怒られたのにね」 食事も取らずに必要な栄養は点滴でとり、排泄すら自力で行えずにひたすら眠り続 けるアスカ。頬はやつれ、髪は痛んで輝きを失い、唇はかさかさに乾いている。きっ と、今は閉ざされているあの瞳も、濁ったものになってしまったのだろう。 それでもいい。もとの通りの元気な彼女でなくてもいい、それでも、意識を取り戻 して、話しかけてほしい。それが悪意のこもった言葉でも、辛辣な罵倒でも構わない。 とにかく、彼女に起きてほしい。 「アスカ……」 しかし、彼女の周りに漂っているのは、人間の無力さを象徴するような絶望感の空 気だけだった。 あれほど活発で、勝気で、輝いていた彼女ですら、精神を病んでしまえば終わりな のだ。どんな人間もこの狂気に晒されてしまえば変わってしまうのだ。 それでも足掻こうとする自分たちが酷く滑稽で、無意味に思えて、絶望感に打ちひ しがれるしかなかった。 友だちは足を失い、兄のような存在だった彼は消え、姉は変わり果て、そして、ベ ッドに横たわる彼女は、目を覚まさない。 自分が守りたかったのは、人類でも世界でもなかった。ただ、自分のそばにいてく れるほんの一握りの人が無事でいてくれればよかった。退屈で刺激のない平和な毎日 が続いてくれればそれだけで満足だった。 それなのに、戦えば戦うほど大切な人は傷つき、日常は奪われ、自分は無力になっ ていく。 「……アスカ、夢見てるのかな」 せめて、目の前の彼女が起きたときには、そこに平和な日々が待っているといい。 「いい夢だと、いいね」 もう、エヴァに乗る必要のないような―― この部屋にはお見舞いの品も、花もなかったから、シンジにやることはなかった。 だから彼はそのまましばらく、眠り続ける彼女の顔を眺めていた。 すると突然、ポケットの中の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。 「シンジ君？」 「ミサトさん……」 「待機命令よ」 「使徒、ですか？」 「ええ。確定ではないけど、恐らく」 「わかりました。すぐに行きます」 それでもやはり、シンジにできることは向かってくる使徒とひたすらに戦うことで しかなかった。 アスカにもう一度だけ視線を向け、すぐにケージに向かって走り始めた。 「待機のまま、ですか？」 「ええ。悪いけど私に凍結解除の権限はないの」 「でも、綾波ひとりじゃ！」 「わかっているわ。だからいつでも出れるようにしておいて」 「……わかり、ました」 回線越しに伝わるミサトの声色も、無理に感情を押し殺したものだったので、恐ら く彼女も反対意見は出してくれたのだろう、そう思ってシンジはそれ以上追求するの をやめた。 ただ、納得がいかないことは事実だった。以前の使徒戦でＳ２機関を持った初号機 が暴走したとき、第三新東京市の対使徒迎撃システムを使ってやっと初号機を押さえ つけた話は聞いていた。その事態が懸念されていることもわかっている。 それでも、大切な仲間がバックアップもなしにひとりで戦場に向かうのをただ黙っ て見ることは、シンジには耐えられないほど苦痛を伴った。 （これで、綾波まで傷ついたら、もう本当に――） 守るべきものがなくなったとき、それでも自分はエヴァに乗り続けていることがで きるだろうか。あんな父親の命令一つで、自分は動かされてしまうのだろうか。 モニターを通して、零号機の背中越しに使徒が見える。輪のようなものが浮かんで いて、一向に動く気配がない。 「パターン、青からオレンジに周期的に変化しています」 「マギは？」 「回答不能を示しています」 「ただ」 リツコの声が確信を含んだ強い声で聞こえてくる。 「あの形が固定形でないことは確かだわ」
ミサトがデータを基に方針を下す。 「レイ、しばらく様子を見るわよ」 「……いえ、来るわ」 レイの言葉と同時に、先ほどまで円形だった使徒が、一本の線上になって零号機に 襲い掛かってきた。 「綾波！」 零号機はライフルを構え、使徒に向かって３発放った。 使徒は銃弾を受けて一瞬動きを止めたものの、鎌首をもたげ再び零号機に接近して くる。 零号機はもう一度ライフルを放つが使徒にダメージは見られず、一本の線がいくつ かに分かれたと思うと、その全てがそのまま零号機に突き刺さった。 「くっ」 「綾波ィィ！」 使徒を引き抜こうともがく、何もできない零号機。 「目標、零号機と物理的接触！」 「零号機のＡ．Ｔ．フィールドは？」 「展開中！ しかし、使徒に侵食されていきます！」 見る見るうちに零号機を侵食していく使徒。 「危険です！ 零号機の生体部品が犯されています！ すでに５％以上が侵食してい ます！」 「父さん！ 僕を出してよ！ 早く！」 動じないゲンドウ。じっと考えている。 「エントリープラグを強制射出して！」 「ダメです！ 反応しません！」 その言葉で、立ちあがるゲンドウ。発令所は彼に注目した。 「初号機の凍結を現時刻をもって解除。ただちに出撃させろ」 「え？」 「凍結を解除。出撃だ」 ――アスカのときは、出さなかったくせに―― 「――はい。シンジ君聞こえたわね」 「はい。すぐに出してください」 待ちきれないといった様子で、シンジは答えた。 「Ａ．Ｔ．フィールド全開。目標と接触しないように、エントリープラグごとレイを 救出するのよ」 「はい」 （綾波！ 今行くから！） ひたすら侵食に耐えているレイだったが、初号機がこちらに向かってきていること に気づいた。 （碇君！） そして、それに呼応するように、初号機に向かう使徒。 （……だめ！） 初号機はパレットガンで応戦するが、やはり使徒にダメージはない。使徒が初号機 に向かって伸びていく。 「くそっ！」 （あれは私の心？ 碇君と一緒になりたい――） ついに使徒に捕まる初号機。プログレッシブナイフで応戦するが、ダメージは見ら れない。 （ちくしょう！ でも、これ以上、僕の大切な人がいなくなるのは嫌なんだ！ それ なら、エヴァなんてないほうがいい！） 「……碇君、私が――」 レイが次の行動を起こそうと思った直前、急に使徒が体内から抜けていく。 （！……なぜ？） 初号機を見ると、先ほどとは比べ物にならないほどの勢いで使徒に侵食されていく。 （どういう、こと？） そして、使徒は零号機から離れていき、初号機を取り込むのみとなった。 「初号機、Ａ．Ｔ．フィールド反転！ 一気に侵食されていきます！」 「使徒を、押さえ込むつもり――」 リツコは唖然としていたが、ミサトは焦っていた。 「シンジ君！ 機体は捨てて逃げて！ 早く！」 （そんなことしたら、Ａ．Ｔ．フィールドがなくなっちゃうよ――） シンジはレイがあれ以上侵食されないようにとにかく使徒を自分のほうに引き寄せ たが、そのあとのことはあまり考えてなかった。 （なんだ、この感覚――寒いような、震えるような） シンジはふと、乗っ取られた参号機の末路を思い出した。初号機によって蹂躙され、 破壊の限りを尽くされた。そのせいで、自分は苦しんできた。 そんなことを、彼女にやらせるわけにはいかない。 ――滅多にないと思うけど、万が一これを使うことがあったら、必ず脱出の準備を整 えてからにするのよ。 ずっと以前、まだエヴァに乗ったばかりだったころ、そんなことをミサトに言われ たのを思い出した。そのときシンジは危ない装置を乗せていることへの恐怖と怒りを 感じた。使うこともないだろうと思っていた。だから今の今まで忘れていた。 しかし、今「それ」があることを頼もしく思う。 （仕方ない、よね） 侵食されきらないうちに始動しようとシンジは何とかシートから身を起こし、「そ れ」に手をかけた。 「……碇君！」 「シンジ君！ 死ぬつもり？ そんな――」 レイとミサトの声を聞くのもこれで最後になるのだろうか？ ぼんやり、そんなこ とを考えた。 （……ごめん） 瞬間、あのときのレイの微笑みが浮かんだ。これはモニター？ それとも―― そこは白い世界。ただ一面、何もない白。 どうして、親しみを感じるのだろう。 ぬくもりがない世界に、投げ出された。 生暖かい感触が、肌に残る。 気持ち悪い。 ここに来たことがある？ こんなに不快なところに。 どうして、ここにいるの？ 光を感じた。 柔らかい、光。 暖かい眼差し。 ここに、いてもいいの？ 「うっ」 体が重い。でも神経は行き届いていて、動かないわけじゃない。 すぐそばで、何かが動いた。 「碇君！」 目を慣らすようにそっとまぶたを開けると、そこに人がいるのをぼんやりと感じた。 「あや、なみ？」 「ええ。じっとしていて」 その声を聞いた瞬間、えも言われぬ安堵感に包まれた。 次第に目が慣れてくる。もう何度も世話になった真っ白な病室だ。どうやら助かっ たらしい。 状況がつかめてくると、一つの疑問が浮かび上がった。 「あれ？ 使徒は？ たしか、自爆したのに」 「あの後、初号機が暴走したのよ」 「また、か」 自爆をも無効する初号機に、シンジは畏怖すら覚えた。 「取り込まれた使徒が初号機の中で暴れて、それを初号機が殲滅したのよ。取り込ん だまま」 「そう」 「どうして、あんなことしたの？」 「……僕がああしなければ、綾波がやると思ったんだ」 「……わからない。でも、初号機のほうが大切。それに、碇君のほうが戦績もシンク ロ率も高い――」 「そんなのどうでもいいよ。とにかくもう、誰かが傷つくのが嫌だったんだ」 頭を元の位置に戻すと、目の前にあるのは見慣れた天井だった。今までは寒々しさ ばかり与えてきたこの天井も、今は妙に落ち着く。 「みんなもうもとの通りにはならないかもしれないけど、せめて綾波だけは守りたか ったんだ」 「……司令室に呼び出されているわ。体調が整ったら――」 「また、父さんか」 「………」 「とにかく綾波が無事でよかったよ」 もう一度レイのほうに顔を向けたが、どんな表情も読み取ることができなかった。 この真っ白な病室の中に彼女は溶け込んでいた。 （綾波って、どうしてこういうところが似合うんだろう） 自分が助かったという感覚はなかった。死の恐怖もなかった。そういった思考回路 が麻痺しているのかもしれない。 ただ、彼女がそこにいてくれる喜びを感じることはできた。それだけで十分だった。 |