4.偶然の出会い





 写真部は金がかる。機材にかかる費用はもちろんだが、遠出して自然のある風景な
んかを撮りに行くときの交通費がバカにならない。一応バイトをしているとはいえ、
やっぱり時間の方もカメラ優先でやっているから、どうしても生活費を切り詰めてい
くような使い方になってしまう。やりたいことをやっているんだからそれはしかたな
いことだと思っている。だから、たとえ目の前にいるタメの友人がファミレスのまず
いハンバーグステーキに1000円以上も出してオマケにドリンクバーなんかもつけ
ちゃっているのを前に、この店でもっとも安いドリアに水だけが俺の晩飯だったとし
ても、俺は文句を言わない。300円の晩飯だって普段からしてみればかなり豪勢な
ほうだ。
「ケンスケ? じっとこっち見ているけど、そんなにハンバーグ食べたかったの?」
「……何も言うな」
 優雅にナイフとフォークなんか使いやがって! 日本男児なら箸で食え、箸で! 
と完全に当て付けでしかないセリフが思い浮かんだ。もちろん口には出さない。この
ハンバーグ野郎は俺よりもバイトしてコツコツ溜めているし、サークルもやっていな
いし、オマケに普段はちゃんと自炊して節約しているから、こういうときには遠慮な
く使うのだ。俺なんかが文句を言えるわけはなかった。
 大学のキャンパスからもっとも近いこのファミレスは、昼以降客が絶えない。その
8割近くはうちの大学の学生だ。外はもう暗くなっているのに、客はどんどんやって
くるし、大抵の学生は長居しているしで、店員がいかに大変か想像もつかない。それ
なりに時給はよかったが、ここだけは絶対にバイトしたくないと思った。噂によると
この系列では全国で2位の売り上げをたたき出したこともあるらしい。
 そしてさらに、メニューによっては学食よりもこっちで食うほうがよほど安く済ま
せることができる。だから俺はあまり学食は使わない。まぁ。大抵のやつはドリンク
バー目的で来るのだろうけど、俺はそんな高級なものは頼まない。水で充分だ。
 タイミング良く入ってこれたおかげで、4人掛けのテーブルをふたりで使うことが
できた。おかげでカメラを置くスペースには困らない。ちゃんとソファの上に鎮座し
ている。
「試験の方はどうだ? まぁ、どうせシンジのことだから抜かりはないんだろうが」
「そんなことないよ。レポートが多いから楽といえば楽だけどね。美学なんて教授の
話聞いてないからあたりさわりのないことばっかり書いている」
「あぁ、あの代返し放題で有名な講義か」
「あ、あれってやっぱ有名だったんだ」
「今時出席簿回す講義なんてまずないからな。教授もわかってやっているんだろ」
 俺がそういったところで目の前のハンバーグ野郎、碇シンジが立ち上がった。
「ドリンク注いでくるけど、水はお代わりいる?」
 その言葉を聞いて、少しだ残っていた水を一気に飲み乾した。グラスをシンジに手
渡す。
「さんきゅう。頼んだ」
 4人がけのテーブルには座れたものの、ドリンクの設置スペースからは少々離れて
しまったので、いちいち注ぎに行くのはめんどくさい。しかしシンジはそんなこと気
にせずきっちりドリンクを注ぎにいく。なんだかんだ言ってもあいつも貧乏性なのだ。
 周りにいる学生連中はほとんど料理なんか頼まずにしゃべってばかりだ。中にはそ
れで2時間も3時間も占拠しているやつもいるんだろう。それを考えると俺たちはま
だ良心的な客だ。男だけで寂しく盛り上がっているやつは心情的にまだ許せたが、男
女で交流なんかしているやつは全員この店から出て行けと言いたくなる。女だけのグ
ループは目の保養になるからじゃんじゃん来てほしい。そうじゃないやつもいるが。
 俺たちの食べ終わった食器を店員がさげに来た。入れ違いにシンジがもどってくる。
やつが注いできた茶色の液体を見て、毎度のことだが一言言わずにはいられない。
「なぁ、シンジ」
「うん?」
 俺の前に水の注がれたグラスを置き、着席しながらシンジは答える。
「せっかくドリバー注文してるのに、ウーロン茶しか飲んでないのはどうなんだ?」
「ん? どうして? ウーロン茶おいしいよ?」
「なんかこう、もうちょっと遊び心が働いたりはしないのか?」
「あんまり甘いもの好きじゃないから。コーヒーも好きじゃないし」
「……まぁ、お前がいいならいいけど」
 とりあえず俺なら全種類飲むけどな。その辺は個人の自由か。
「ケンスケは試験のほう大丈夫なの?」
「語学がサボりすぎでちょっとやばい気もするが、あとはまぁ大丈夫だ。俺もレポー
トが多いし」
「講義選ぶとき慎重だったもんね」
「あぁ、『講義余録』のことか?」
「そうそう。わざわざ500円で買うなんて」
 『講義余録』とは、大学から正式に渡されるものではなく、学生が勝手にそれぞれ
の講義を評価をしたアンケートの集計を一覧にした分厚い冊子のことだ。春先になる
と大学近辺の本屋で平積みになっている。それを作っているサークルがあるのだ。
 その中で重要なのは講義内容などではなく、いかに単位がとりやすいか、代返がで
きるか、それに尽きる。ほとんどの学生がこれを参考にカリキュラムを組んでいる。
シンジにも貸してやろうかといったのだが、もうすでにカリキュラムを組んだ後だっ
たのでいらないと言われた。
「いや、でもあれは5000円くらいの価値はあるぞ。おかげでたくさんサボれたし、
試験も簡単なやつばかりだ」
「そう、来年は僕も使おうかな」
「まぁ、でも必ずしも当たるわけでもないんだけどな。一年前の情報が元になってる
から、教授が方向転換することがたまにある」
 噂によると、甘々だった教授が急に鬼に豹変したこともあったらしく、その年のそ
の講義は大勢が単位を落としたという「伝説」もある。『講義余録』の存在は教授の
間でも知れ渡っていて、中にはそれを意識する不届きな輩も存在するのだ。
「そっか」
「情報処理がそんな感じでさ。去年まではウェブサイト作って終わりだったのに、今
年は他のやつのサイト見て1200字のレポートだぜ」
「あぁ、パソコンの講義か」
「すでに知ってることばっかだったから講義自体は楽だったし、まぁレポートも大し
た負担にはならないからいいけどな」
「僕なんか10000字のレポートあるよ。精神医学。書いているうちにこっちの気
が狂ってくるよ」
「あぁ、それは『とってはいけない講義ワーストファイブ』に入っていたやつだ」
「そうだったの? やっぱ僕も『講義余録』使おうかな」
「それがいい」
 などと他の学生たちに混ざり合うように、他愛のない会話で駄弁って、時間を潰し
た。シンジも俺もそれぞれにやることがあってそんなに会えるわけでもないから、た
まにこうやって時間を贅沢に使うのも悪くないと、俺は思っている。


 家に帰ってシャワーを浴びてパソコンをつけた。俺の部屋はそう整頓されている方
ではなかったが、衛生的には男のひとり暮らしにしてはマシなほうだと思う。なんと
なく外に出たときのままで部屋にいるのが好きじゃなくて、帰ったらまずはシャワー
を浴びるのが習慣となっていた。
 昨日遠出して撮りに行った写真のいくつかが頭に浮かんだ。まだ整理していないま
まだったが、結構調子が良くて満足のいくものもいくつか撮れた気がする。次の発表
では先輩にデカイ口を叩かせないようにしたい。同年代のサークル仲間とそう誓い合
った。
 ガキのころは風景なんてとることはほとんどなくて、自分で作ったガレージキット
を迫力の出るように撮ることに拘っていた。静止画だけじゃなくて動画を撮っていた
こともある。なんで俺あんなに金持ちだったんだろ?
 今では資金的なこともあるが、人工物を撮ることに段々興味がなくなっていた。だ
から今俺が入っている写真部では、風景写真のグループに所属している。模型とか人
物をやっているやつもいるが、たぶん俺がそこに異動することはないだろう。
 もうだいぶ古くなってしまったパソコンが起動した。デスクトップは今一番よく撮
れていると思っている写真にしていて、わりと頻繁に切り替わる。今は、小高い丘に
なっている住宅街から見渡した街並みを見渡した風景で、後ろには山も見える。運よ
く天気が良くて夕焼けの色合いが綺麗に撮れて、しかも茜空と夕焼け雲の割合も絶妙
で、自分でもよくできた方だと思っている。その小高い丘から見渡す風景は、俺のお
気に入りであったりもする。
 とりあえず、少しばかり撮りすぎてしまった昨日の写真をカメラからパソコンに移
した。今はこれだけで作業ができるからいいけど、カメラがデジタルじゃなかったと
きの人間は、いったいどれだけの時間と金を写真に注いだいたのだろう。もちろんサ
ークルでもあいかわらずアナログに拘っているやつはいるけど、それはやっぱり少数
派だ。
「ちょっと撮りすぎたなあ」
 いちいち現像しなくても画像が確認できるのはありがたいが、調子にのって撮りす
ぎると後が大変だ。この中から3枚ほど選んで、加工の対象にする写真を選ばなくて
はいけない。
 ん? メールが来ている。
 見慣れないアドレスだったが、見ずにはいられない件名だったので、開いて確認し
た。
「あぁ。これか」
 情報処理の教授からのメールだった。俺は学生全員に持たされる大学用のメールア
カウントをすべて自分のパソコンの本アカに転送されるように設定していたが、そう
いうことをしていると不意打ちで面倒なことを目の当たりにすることになる。仕方の
ないことだが気分が害されるのはいただけない。
「はいはい、わかってますよー」
 そのメールにはあるウェブサイトのURLが貼り付けられていた。講義課題で学生
たちが作ったサイトのリンク集だ。つまり、これを使ってそれぞれの学生のウェブサ
イトを見ろってことだ。なんて面倒見のいい教授だろう。ありがためいわくにもほど
がある。
 少し迷った。まだレポートの提出期限までは日数がある。これを無視して写真のほ
うの作業を進めることもできる。しかし、今のままの心境だとなんとなくはかどらな
いような気もする。
「まっ、今のうちに終わらせておくか」
 写真は明日も撮る予定だ。それも含めて来週の発表で使うやつを決めるつもりだか
ら、無理に最後までやってもあまり意味がなかった。気は進まないが、たまには学生
の本分とやらを全うすることにした。
 教授のメールからリンク集に飛ぶと、白バックに黒字という何の色気もない画面が
表示された。そこにきっちり50人分の名前とサイト名が表示されている。中にはリ
ンクが切れているやつもあって、そういうやつはきっと課題を提出しなかったのだろ
う。見るべきものが少なくなってありがたいことだ。
 だいだい40ちょっと見ればいいような感じだった。どうせ誰も手の込んだページ
なんて作ってないだろう。俺は俺で、サーバの許容量ギリギリまで写真を貼り付けた
サイトを作った。俺の趣味とする「写真」のギャラリーページだ。中には大したのこ
とない写真もあったが、教授へのささやかな嫌がらせなので問題ない。アップに時間
はかかったが、カメラのメンテナンスをしながらだったので気にはならなかった。こ
れを見て俺に興味をもってくれる女の子とかは……いるわけないよな。
 上から順に見ていこうかとぼんやり考えていると、ちょっと、いや、かなり変わっ
たひとつの欄に目がいった。
「惣流・アスカ・ラングレー? なんだこれ」
 しかもサイト名が「福音の物語」だった。あやしい。あやしすぎる。こいつはハー
フか? というかなんだこのサイト名は? 宗教の勧誘か。若干クリックするのすら
躊躇われたが、さすがに大学の課題で無茶なことをするわけないし、教授だって目は
通しているはずなんだから思い切って見てみることにした。
「なんだ、わりとふつうだな」
 どんなキモい装飾が施されたページが表示されるかと思ったら、意外と普通という
かシンプルというか、たぶん講義で教わったことを忠実に守ったのではないかという
ような感じだった。講義をまともに受けちゃいないがたぶんそうだろう。htmlの
基本的な使い方がそこはかとなく用いられていて、レイアウトも見やすい感じになっ
ている。
 ただ、下のほうに「この物語に興味を持たれた方、ご感想などありましたら下記の
メールアドレスまでご連絡ください」と書いてあって、やっぱり踏み込んではいけな
い何かが見え隠れしていた。@から下を見る限り明らかに捨てアカだ。これは噂に聞
くアングラ系のサークルへの勧誘の一環なのだろうか? しかし、たぶん、惣流・ア
スカ・ラングレーというのは本名のはずだ。
 トップページには「ストーリー」という項目と「おすすめ書籍18選」という2つ
の項目があった。
「とりあえず、物語とやらを読んでみるか」
 なんとなく身構えながら、それでも好奇心を抑えきれないのを自覚しつつ、俺は「ス
トーリー」をクリックした。
 そして読み終わってから俺はひとしきり爆笑し、シンジに電話をかけずにはいられ
なかった。


 俺が町中でもわりと興味を持ってカメラを構えられるところ、それは神社だった。
つまらない人工物と化した神社もあるが、中には自然と同化してしまったような、な
んで倒壊しないのか不思議なくらいの神社もある。放置されているような位置にある
神社ほどそういうところは多かった。潰してしまってもいいようなものだが、それで
もかすかに残る畏敬の念、というか壊してしまうことの恐れから、完全になくすこと
もできない、そういう感じの機能しているのか機能していないのかわからないような
神社が面白かった。
 撮影に必要な最小限の荷物を抱え、自転車を走らせる。遠出したり大掛かりに機材
を使うときにはサークルの仲間と行くことが多かったが、この神社めぐりだけは個人
的にやっている。まだちゃんとした写真を発表したことはない。もしかしたら発表す
ることはないかもしれない。それでも構わないと思っている。
 今日回っている町は大学からそんなに離れてはいないが、とにかく坂が多い。7月
も中旬になった太陽の日差しがじわじわと俺の体力を奪っていく。こんなときスポー
ツドリンクでも飲めたら爽快かもしれないが、俺は家から持ってきたペットボトルに
入った水しか飲めない。それでも喉はいくらか潤って、また自転車をこぎ始める気力
が回復する。
 今日回る予定の神社はあとひとつ。そこでも大した写真が撮れなければ今日のお散
歩はたぶん成果なしだ。まぁ、こういう日もある。
 車道から細い路地に入り、少し行ったところで急な下り坂の石段が見えた。たぶん
100段くらいはあるだろう。真ん中が手すりで仕切られてて、左側からこちらにの
ぼってくるじいさんが見える。石段の両端は細いスロープになっていて、自転車でも
上り下りができるようになっている。設備そのものはなかなか配慮されているような
感じだが、石段そのものはところどころ欠けたりしていたかなり古いものだとわかる。
坂の左側には塀で仕切られた旧跡(庭園?)があるから、昔から使われていた石段な
のだろう。真ん中の手すりだけが別の時代からとってつけたようなものになっていて
違和感がなくもなかったが、下から上がってくるじいさんがそれを頼りにゆっくり歩
いているのだから、そう悪いものでもない。
 俺は右側の石段のほうに足を踏み出し、自転車を弱くブレーキをかけながらスロー
プの方から移動させた。自転車に跨ったまま降りられなくもなさそうだが、なんとな
くやめておいた。
 石段の右側は土地がむき出しになっていて、上の方は木が、下は雑草が荒れ放題だ。
その坂の中腹に、目的の神社はあった。スロープから自転車を下ろし、神社の端に置
いた。そこには祠だけがひっそりと立っていた。黒塗りの瓦屋根も、申し訳程度に置
かれた賽銭箱もそんなにボロボロというわけではなかったから、意外と誰かが手入れ
しているのかもしれない。俺は信心深いわけでもないので参拝はしない。
 もう一歩踏み込んでみると、俺が入ってきたルートからだと丁度祠の影になる位置、
奥まったところに先客がいた。参拝しているというよりは、俺と同じようにここの雰
囲気に興味があって色々調べているような感じだった。俺の足音に気づいてこちらに
顔を向けると、それが偶然にも俺の知っている顔だった。
「あれ? 相田君かい?」
「渚か。こんなところで何やってんだ?」
 同じ統計処理の講義を受けている渚カヲルだった。もともとは第2外国語でドイツ
語を取ったシンジと同じクラスになり、そのつてで知り合いになったのだが、シンジ
と渚はわりに気が合うようで3人で飯を食いにいくこともよくあった。理屈っぽいこ
いつがパソコンを弄っているのは不似合いなようでもあり相応なようでもあり、まぁ
とにかくよくわからないやつだった。だからここでたまたま鉢合わせたこと自体は驚
きだが、渚がここにいること自体はそれほど不思議なことでもなかった。大学からも
近いところだし。
「旧跡めぐりだよ。知らないのかい? ここの神社も、そこの坂もその下の散歩道も
結構有名なんだ。もちろん、そこの屋敷もね」
 そういって、石垣の階段を隔てて向こう側の屋敷を指差した。おれは神社めぐりを
よくやっているわりに歴史にはそんなに興味がなかった。しかしそういえば、下の散
歩道の横を流れる川は、大昔に歌謡曲のタイトルになって有名になった川だった。貧
乏学生の恋愛を綴ったせつなさの漂う歌詞だったが、同じ貧乏学生でもそんな甘い時
間すらない俺には贅沢なもんだと思っていた。
「あいかわらずよくわからないことやってるな」
「このあたりは面白いものがたくさんある。文化的な土地、なんて言ったら偉そうに
聞こえてしまうけどね。相田君こそ何をやっているんだい?」
「俺は見ての通り」
 そういって首から提げていたカメラを持ち上げて見せた。
「写真撮りにな。ここが有名な神社だってのは知らなかった。そのわりには結構寂れ
てるような気がするが」
「よほど大きな神社でない限りそんなものだよ。いい写真は撮れそうかい?」
「まだなんとも言えないな。光の入れ方次第かな。悪いが少し散策させてもらう」
「構わないよ。僕もそのつもりで来たからね」
 そういうと渚は元の方に向き直り、それきりしゃべらなくなった。何を調べている
かはよくわからん。
 祠そのものはあまり絵になりそうにはなかったが、神社の方からも石段、さっきの
急な石段の4分の1くらいの長さの石段ができていて、しかもその石段が始まる両脇
にはでっかい木が2本立っていた。たぶんイチョウかなにかだろう。俺が両手で抱え
ても回りきらないくらい胴体が太く、見上げれば首が痛くなりそうなほど背が高い。
そしてこの神社を鬱蒼と隠しこんでしまうほど生い茂っている
 雰囲気は悪くなかったが、光りを取り込むのが難しそうだ。このまま撮ればただの
記録写真にしかならないだろう。一度下に降りて神社全体を撮るような絵にしたほう
がいいのか?
 そんなことを考えていると、気の抜けた着信音で携帯が鳴った。シンジだな。
「――お客様がおかけになった電話番号は、」
「ちょ、何言ってるの?」
「――おりません。もう一度おかけなおしになるか、」
「僕だよ! シンジだよ! 碇シンジ!!」
「うわっ! うるさい! 耳元で怒鳴るな!」
「そっちが変なこと言うからだろ。もう! 講義終わったよ。まだキャンパスにいる
けどケンスケは?」
「あぁ、わりと近くにいる。今から俺ん家に向かえば多分同時くらいだ」
「そう? じゃあそれでいいか」
「あぁ。晩飯も俺ん家で食うか?」
「そうするよ。スーパーで適当になんか買っていく」
「悪いな。後で払うよ」
「それじゃあまた後で」
「おう」
 まったく。あいかわらず冗談の通じないやつだな。
 携帯から顔を上げると、渚がこっちに視線をよこしているのに気づいた。
「シンジ君かい?」
「あぁ。これからうちで晩飯だ。渚もくるか?」
「ありがとう。でも今日はこれからちょっと用事があってね」
「ま、ならまた今度にするか」
「すまないね」
 声だけは殊勝に、表情はいつも通りにやにやと、つまりあまり申し訳なさそうでな
く答えた。こいつのライフスタイルは本当によくわからん。
 思いのほか時間も経っていたようで、そういえばなんだか腹もへった。まぁ。今日
の撮影の問題は解決しそうにない。日差しもあまりない。しかし悪いところではなさ
そうなので、今度はここに狙いを定めて撮りに来ても良いかもしれない。
 先客より後に来て、先客より先に帰るのは負けず嫌いの俺にしてみればなんだか悔
しかったので、せめて写真だけでも撮っておくことにした。ここをどう撮るかはまた
後で考えよう。
 木が多いからか、この季節にはめずらしく後ろのほうで風が吹いた気がした。

「い、いまから作るのか?」
「っていってもチャーハンと出来合いの冷凍餃子だけだからすぐだよ」
「米はどうするんだ? 俺は炊いちゃいないし、なによりこの家に米はない」
「うちから残ったやつ持ってきたから大丈夫だよ。今日はケンスケの家でたべるつも
りだったから大目に炊いていたんだ」
 こいつはマメというかなんというか。というか料理が趣味なのだろうか?
「まぁ、シンジがいいならいいけど」
「ちょっと台所借りるね」
 そういってシンジはほとんど使われていない台所に立った。衛生面では問題ないか
ら料理をすることはできるだろう。
「じゃあ俺はちょっと写真いじってるから」
「うん」
 シンジが声だけで応えた。まぁどちらにしろパソコンはつけるのだから手間が省け
ていいか。
 今日撮った神社の写真をいくつか見てみたが、どれも使えそうになかった。やっぱ
り一昨日撮ったものの中から選ぶしかないか。写真そのものは悪くないのだが、題材
が前回と若干似通っていることは気がかりだった。というか、そんなことをいちいち
考えながら絵を決めるのも良い気持ちではなかったので気にしないことにはしていた
のだが、いざ選ぶ段階になるとどうしても意識してしまう。
 写真の候補を10枚くらいに絞ったところで、良い匂いを漂わせながらシンジがチ
ャーハンを持ってきた。
「はい。できたよ」
「おぉ、さんきゅう。相変わらず旨そうだな」
 俺の家でシンジの飯を食うのは初めてだったが、シンジの家では何度も馳走になっ
た。コンビニはもちろん、学食やファミレスのものより数段旨かった。
 ギョーザは皿の端っこに醤油を垂らし、ふたりでつついて食った。
「ところで、見せたいものってなんなの?」
「それは後のお楽しみだ。まぁ、俺の家で見る必要もないんだけどな。お前が驚いて
る顔は見ておきたかった」
「僕が驚くもの?」
「あぁ。それは間違いない。保証する」
 そう言って不敵に笑って見せた。と見せかけて実際は噴き出しそうになるのを堪え
ていた。こんなに面白いことはたぶん年に一回もない。
 シンジは不思議そうな顔をしていた。俺がこういう言い方でもったいぶることがそ
うそうないからだろう。
 そしてもう一つ、例のものを見せる前に確認しておかなければならないことがあっ
た。おそらく、見せた後では正直に答えてくれそうにない。まぁ。いまだって正直に
答える可能性がそう高いわけではなかったが。
「ところでお前、大学に入ってから見ず知らずの女子に声かけたことはあったか?」
「見ず知らずの女子?」
「あぁ、なんでもいい。ノート見せてくださいでも、シャーペン貸してくださいでも」
「いや、多分なかったと思うけど」
「向こうから声をかけられたこともないか?」
「うん。ないよ。なるべく目立たないようにしてるから」
「そうか」
 シンジはさらに不思議そうな顔をした。誤魔化しているような感じでもなかった。
恐らく本当なのだろう。シンジはウソをつくのがあまりうまくない。
「それならよかった。もしそうだったら俺はお前を許さなかったよ」
 と、メガネを直しながらちょっと俯き加減で脅しをかけてみる。
「え? 何言っているの! そんなことあるわけないよ」
「写真部のたまたま一緒にいた女子にすらびびってたもんな。疑った俺が悪かった」
「そうだよ。そういうことはまだケンスケの方が可能性あるよ」
 少しシンジは不貞腐れてしまったようだ。まぁでも今日はとっておきがあるから何
を言っても大丈夫だろう。
 しばらく他愛のない話を続けていたが、俺は今日一日自転車を漕ぎ回って腹が減っ
ていたのですぐに平らげてしまった。お代わりまでもらった。
「ごちそうさま。旨かったよ」
「あ、うん。じゃあ片付けるね」
「いや、流しに置いといていい。シンジが作ったんだから洗い物は俺がやる」
「そう?」
「あぁ。それより、ちょっとここに座ってくれ」
 と言ってシンジをパソコンの前に座らせた。準備完了だ。
「何? インターネット?」
 シンジは落ち着かないようだったが、俺は構わずマウスを動かして、ブラウザを起
動してお気に入りから例のサイトに飛んだ。
「今から見るウェブサイトは、例の情報処理の講義の課題でどっかの学生が作ったも
のだ。一応学生の名前は惣流・アスカ・ラングレーってやつになっている。もしやと
は思うが知らないやつだよな?」
「うん、知らないよ」
 モニタには大きく「福音の物語」と記されている。きっとシンジも最初にこれを見
たときの俺のような心境になっているだろう。もしかしたら俺がこれにはまったと思
っているのかもしれない。
「それで、この『ストーリー』というのを見てほしい。信じがたいことが書かれてい
るから」
「だ、大丈夫なの?」
「あぁ、見ればわかる。というか最初の一行目でわかる」
「う、うん」
 そうしてシンジは恐る恐る「それ」をクリックした。シンジがどんな反応をするの
か見逃さないように、俺は構えた。