「な〜んだ、そういうことだったのね」 「だから僕が何度もそう言ったじゃないですか」 「く……。マヤの奴、このアタシに一杯食わせるとはね」 「……」 葛城家のリビングに三者三様のぼやきが響き、残りの一人は心なしかホッとした表情を 浮かべている。 キミちゃんが泣き止んだのを機に、ようやく再開されたシンジとレイへの尋問。だが二 人の主張はどうにも食い違うばかりだった。 多少しどろもどろになりながらも、事があったのを必死に否定するシンジと、黙って俯 くばかりのレイ。ミサトにはシンジが嘘をついているようには見えなかったし、レイもま た同様である。そんな中、真相解明のきっかけとなったのは、ミサトの何気ない一言から であった。 『ちなみにレイ、あんたたちAはいつだったの?』 『それは、まだ……』 そう言ってキョトキョト視線を泳がすレイに、ミサトは軽く頬を引きつらせた。 『……てことは、キスより先にやることやってたわけ?』 『……? 話の意味が分かりません』 『だから、シンちゃんとはキスもしないまま、行くとこまで行っちゃったわけ?』 『……?』 言葉の意味が分からないのか、軽く首をかしげるレイ。その様子にピンとくるものがあ ったミサトは、身を乗り出すようにしてレイに問いかけた。 『ちょっち待ってレイ。あんた本当にCの意味分かってるわよね?』 『……はい』 『念のため、教えてくれるかしら?』 『……誰かと手を繋ぐこと』 『……マジ?』 もしシンジかミサトが超能力者で、時間を巻き戻し、アスカがレイに囁いたセリフを聞 けたなら、それは次のようなものだった。 『セカンドインパクト前には、日本では男女関係のことをアルファベットで表したらしい わ。例えばAって言ったら、性行為を経験済みってこと。それでBがペッティング。で、 Cが相手と手をつなぐこと』 マヤがそう言ったのだから間違いない。そう思いこんでいるアスカに、レイはそんなも のかと納得してしまう。本当は間違い大有りであり、Aはキス、Cが性行為というのが正 しい意味である。だがアスカに悪意はなかったし、マヤが嘘を教えたわけでもない。諸悪 の根源は、マヤにその知識を吹き込んだリツコの、ちょっとしたいたずら心だった。 だがそんな事情は露ほども知らないレイは、自分の中の真実をそのまま口にした。付け 加えるなら、レイが少し考え込んだのは、シンジに押し倒された事件をBとして考えるべ きか迷ったからだった。 つまり、二人の主張はどちらも間違いではなかったのである。 自分にその手の経験がないことは、シンジ自身が一番よく知っていることだった。一方 レイにとっては、ヤシマ作戦の後、シンジが差し出した手の温もりは、その心の中に決し て小さくない印象を残していたのだ。 「まあね、あたしもね〜、シンちゃんに限ってそんなわけないとは思ってたけどね〜」 緊張した雰囲気がリビングから消えた後、エビチュ片手にケラケラとミサトが笑った。 それにしては自分に向ける視線が本気だった。シンジはそう思うのだが、今更それを蒸 し返しても仕方がない。相変わらずビールを呷っているミサトのことはさておき、シンジ は先程からレイの方を伺っていた。 「あの、綾波……」 「……何?」 「ごめん……。綾波のこと嘘つきだなんて言ったりして」 「いい。碇くんは悪くないもの……」 そんなことをポソポソと呟くと、シンジから視線を逸らし俯くレイ。だがその表情は、 先程のような悲しげなものではなく、どこか和らいだ雰囲気を漂わせていた。 荒涼としたレイの心の中で、淡い輝きを放つ数少ない想い出であり、大切な絆。それを 与えてくれた人の中から、その記憶が消えてしまったわけではない。それを確認したレイ の表情が柔かになったのも、不思議ではないのかもしれない。 「それに、あの、君もゴメンね。つい大きな声出したりして」 申し訳なさそうにシンジが声をかけると、キミちゃんの小さな体がピクリと震えた。ま だレイにしがみついたままのキミちゃんは、おそるおそる首を動かすと、レイの胸の中か らほんの少しだけ黒い瞳をのぞかせた。 「パパ、もうおこってない?」 「ううん、全然怒ってなんかないよ」 「……ほんと?」 「うん、ほんとだよ」 「……パパは、あたしのパパだよね?」 「え? ……う、うん」 一瞬迷ったが、これ以上この子に悲しい思いをさせてはいけないと、シンジは軽く頷い た。すると、キミちゃんは鼻を啜りながら微笑み、モジモジと照れくさそうにしながらシ ンジの方へ手を伸ばした。 「……パパ、だっこ」 (う、ちょ、ちょっと可愛いかも……) キミちゃんのあまりに純粋で、そしてあどけない仲直りのジェスチャーに、シンジの中 で軽い精神汚染が始まる。レイの手からキミちゃんを受け取ると、途端にギュッとしがみ つかれたのだが、今のシンジにはそれも嬉しく感じられた。 「ねえパパ、パパあたしのこと好き?」 「う、うん、好きだよ」 「えへへ」 聞きたかった言葉を聞いて、キミちゃんは満面の笑みを浮べた。まだ軽く鼻を啜りなが らも、嬉しそうにシンジにしがみつく少女。その表情の可愛らしさにつられてか、少し奇 妙で、それでいてどこか微笑ましい光景に、ミサトやアスカの頬も思わず緩んでいくのだ った。 Kimiの名は −第二話− 「結論から言えば、成果はゼロだ」 「ちょっとぉ、本当にちゃんと調べたんでしょうね」 「おいおい信用しろって」 夕食後の葛城家のリビングに、ミサトがあげた疑惑の声が響くと、肩をすくめた加持リ ョウジが苦笑交じりに抗議の声をあげる。二人のそんなやりとりは、シンジたちの微かな 希望の光が、儚く消えてしまったことを意味していた。 「あの、加持さん、全然ダメだったんですか?」 「ああ、残念ながらな。マギのデータベースにアクセスしてみたんだが、第三新東京で碇 キミという名前の人間は一人もいなかった。それに、ちょっとしたつてを使って調べてみ たんだが、今のところこの辺り一帯で、その子の捜索届けが出ている様子もない」 「それって、要するに……」 「そう、もしその子が本当にここの住人なら、彼女はこの世に存在しないことになってい る。少なくとも書類上はな」 「そんな……」 意識してのことなのか、淡々と告げられる加持の言葉に、思わずシンジは膝の上の少女 を見つめた。きっと会話の内容など全く理解できていないのだろう。自分に向けられる視 線に気がつくと、キミちゃんは無邪気に手を伸ばしシンジの頬をつまもうとする。その笑 顔を見ていると、シンジは複雑な思いにかられるのだった。 「なあ葛城、この子は本当に第三新東京市の子なのか? 例えば、戸籍はどこか別の所に あるとか、そういうことはないのか?」 「正直、そこまでは分からないわよ。あたしたちはこの子の言うことしか手がかりにでき ないわけだし」 「ふむ。なあキミちゃん、君はずっとこの辺りに住んでいるのかい? ここには最近引越 してきたとか、そういうことはないかい?」 「ううん、あたしはここで生まれたんだよ。ね、パパ?」 「あ、え、え〜と……」 どう答えたらいいのか言葉に詰まるシンジと、パパだと信じる少年にじゃれつくキミち ゃん。そんな二人を見つめながら、アスカが嘆息混じりの言葉を漏らした。 「じゃあさ、結局この子は何なわけ?」 「結局行きつくところはその疑問よね……」 とにかくこの子の身元が分からないことには、対策の立てようもない。そこで加持の助 けを借りることになったのだが、どうやら空振りに終わったようだった。 「なあシンジ君、俺は葛城から大体の話しか聞いていないんだが、君は本当にこの子に心 当たりはないのかい?」 「はい、それは間違いないです」 「レイちゃんはどうだい?」 「ありません」 「なるほどなあ……」 「だから結局、鍵を握るのはこの子ってことなんだけど……」 その日何度目になるかわからない溜息をつき、ミサトがキミちゃんを見つめた。 「ねえキミちゃん。キミちゃんはさ、パパとママのお家の住所は分からないかなぁ?」 「じゅうしょ?」 「そう。第三新東京市の、どこの何丁目の何番地とか」 「う〜、わかんない」 「ん〜、じゃあお家の電話番号は?」 藁にも縋る思いで尋ねてみても、キミちゃんはフルフルと首を振るばかりだった。 「そういえば、キミちゃんはもうすぐ四歳になるのよね?」 「うん、そうだよ」 「じゃあさ、キミちゃんのお誕生日はいつなのかな?」 「えっとね、もうすぐってママが言ってた」 「何年の何月何日か分かる?」 「う?」 「ほら、例えば2015年の十月とか、そういうこと」 「う〜、よく分かんないの……」 「う〜ん、そっか〜」 何か手がかりはつかめないかと、思いつく限りの質問をぶつけてみても、これといった 収穫はありそうにない。状況に行き詰まりを感じ、ミサトが軽い呻き声をあげると、その 脇に座る加持が質問者の役割を受け継いだ。 「なあキミちゃん、それじゃ昨日の夜のことは覚えてるかい?」 「きのう?」 「ああ。例えば、昨日の夜はどうしてパパと一緒に寝たんだい?」 「ん〜とね、よくわかんない……。でもね、バ〜バがね、あたらしいクルマをつくってね。 パパとママといっしょにそれにのったんだよ。そしたらそれがピカっとして、外がパ〜っ となって、そいであたし眠くなっちゃったの」 「……何言ってんだか、ぜんっぜん分かんないわ」 軽く顔を引きつらせながらアスカが呟くと、ミサトが苦笑を浮かべながら尋ねた。 「ねえ、バ〜バっていうのは誰のこと? 新しい車って何かしら?」 「バ〜バはバ〜バだよ。ミサトおばちゃん忘れちゃったの?」 「お、おば……」 あまりと言えばあまりなキミちゃんの一言に、ミサトは思わず絶句した。腐っても自分 はまだ二十代、おばちゃんと呼ばれるにはまだまだ早いと自負している。それなのに、こ の子ときたら……。 「なんか、今の一言でどっと疲れが出てきたわ……」 「まあそう言うな葛城、子供から見たら仕方がないさ」 「そうよ。それにミサトもそんな年なんだから、あきらめも肝心よ」 「あ〜もう、うっさいわね〜」 少々いじけ気味のミサトがエビチュに手を伸ばし、加持とアスカが無責任な声をあげる 中、シンジは一人何かを考え込んでいた。 「あのさ、アスカ」 「ん、何よ?」 「今この子、ミサトおばちゃんって言ったよね」 「ぷ、別にあんたが繰り返さなくてもみんなよく分かってるわよ」 「ちょ〜っとアスカ、それどういう意味よ」 「違うんですミサトさん。てことは、この子は僕や綾波だけじゃなく、ミサトさんのこと も知ってるってことですよね」 「……そういえば、そうよね」 「ねえ、君はミサトさんのこと知ってるの?」 「う? しってるよ」 シンジのことをパパと呼んだ時のように、それが当たり前のような口調でキミちゃんが 答える。 「ね、それじゃあさ、アンタもしかして、アタシのことも知ってるの?」 「うん知ってるよ、アスカおねえちゃん」 「ふふん、ミサトはおばちゃんでアタシはお姉ちゃんかぁ」 若さの勝利とばかり、軽い笑みを浮かべるアスカ。テーブルの向かいに流し目を送ると、 当のミサトおばちゃんが少し悔しそうな声を漏らす。 「ねえキミちゃん、どうしてあたしはおばちゃんなのに、アスカのことはお姉ちゃんって 呼ぶのかなあ?」 「えっとねぇ、アスカおばちゃんって言うと、あたしおこられちゃうの。だからアスカお ばちゃんじゃなくて、おねえちゃんって言わなきゃダメなの」 「ぷ。な〜んだ、じゃあアスカも本当はおばちゃんなんじゃない」 「う、うっさいわねえミサト。細かいことをいちいち気にするんじゃないわよ」 「まあまあ二人ともそのぐらいにしておけよ。それはともかくだ。この子は俺たちのこと をよく知っているのに、俺たちはこの子のことをまるで知らない。妙だと思わないか?」 「そうよね。あたし、今までこの子に会ったことなんてないのに……」 「アタシだってそうだわ」 ミサトとアスカが声を揃えると、顎の不精髭を撫でていた加持が、独り言のように呟い た。 「結局、分からないことが多すぎるな」 「そうね。取りあえずこの子のことをもう少し調べてみないと、身動きを取ろうにもどう しようもないわ」 「そういうことだな」 「じゃ、加持君」 「何だ?」 「この子の身元調査はあんたにまかせるわ」 「俺にって……。おいおい、葛城」 「それとも他に何かいい手段でもある? 下手に警察を動かすよりも、ネルフの特権とマ ギを使った方がよっぽど効率的じゃない」 「いや、それはそうかもしれないが……。だが俺にも俺の仕事ってやつがだな……」 「あら、こないだみたいに松代をプラプラできるなら、当然この位の仕事だってできるわ よね」 「いや、あれは……」 完璧な営業スマイルとちょっぴり棘のあるミサトの指摘に、加持が言葉に詰まる。する と、それまでじっと何かを考え込んでいたシンジが、おもむろに口を開いた。 「加持さん、あの、僕からもお願いします。僕たちが今頼りに出来るのは、加持さんしか いないから……」 いつになく真剣に訴えるシンジの表情に、加持は具合が悪そうに頭を掻いていたが、や がて、参ったよと言いたげな笑みを浮かべた。 「やれやれ、仕方ないな。シンジ君にこうも真剣に頼まれたんじゃな。だが、あまり大き な成果を期待されても困るぞ」 「は、はい。ありがとうございます!」 「でもさ、加持さんが動くのはいいとして、その間この子はどうするつもり?」 「そりゃあもちろん、シンジ君とレイちゃんが面倒見るしかないだろう」 「え……。ぼ、僕と綾波がですか?」 「そりゃあそうさ。この子はシンジ君とレイちゃんのことを両親だと思っているわけだし、 君たちが世話をするのが筋ってもんだろ」 「す、筋って、でも、そんな……」 横目でチラチラとレイの方を伺いながら、軽く頬を染めうろたえるシンジ。そんな初々 しい反応に加持は微かな笑みを浮かべると、外堀を埋めようとするかのようにキミちゃん に話しかけた。 「君も、パパとママが一緒の方がいいだろう?」 「うん、あたしパパとママと一緒がいい」 「じゃ、決まりだな。どこかの施設に預けてしまうより、その方がずっと良いだろう」 しっかりやるんだぞ、シンジ君。そう言いたげに微笑むと、加持は立ち上がり、場に集 まった面々を一通り見渡した。 「それじゃ、俺はそろそろ失礼するか。きっとこの子の親も心配してるだろうし、明日か らさっそく仕事にとりかかるよ」 「悪いわね、よろしく頼むわ」 「ま、今度酒の一杯でもおごってくれよな」 「じゃ、一つ借りってことね」 「へへ、それじゃその節はよろしくな。じゃ、俺はもう行くよ」 「私も帰ります」 「あ、レイ、悪かったわね、朝早くから呼び出して」 「いえ」 加持とレイが立ちあがると、それを見送るためにアスカ、ミサト、シンジ、そしてシン ジに手を引かれたキミちゃんが玄関先へ向かった。 「加持君、それじゃよろしく頼むわ。レイも今日はご苦労様。気をつけて帰るのよ」 「はい」 「あの、綾波、また明日学校でね」 「……ええ」 シンジの言葉にレイは軽く頷くと、加持に続き外へ出ようとする。すると、二人の会話 を不思議そうに見つめていたキミちゃんが、突然声をあげた。 「ママ、どこ行くの?」 「家に帰るの」 「お家に帰るの?」 「ええ」 「それじゃパパも早く帰ろうよ」 「え……。あ、いや、僕はここに住んでるから……」 「う? パパ、ミサトおばちゃんのお家にお引越ししたの?」 「あ〜、えっと、うん、まあ……」 「じゃあママもここにお引越ししたんでしょ?」 「いいえ」 「ちがうの?」 状況がよく飲みこめないキミちゃんが首をかしげていると、ミサトが横から助け舟を出 した。 「えっとねキミちゃん、今あなたのパパとママは別々のところに住んでるの。だからママ は自分の部屋に帰らなきゃいけないのよ」 「なんで? パパとママ、けんかしたの?」 「え〜っと、そうじゃないんだけど……」 上手な説明の仕方を思いつかず、ミサトが黙り込んでしまうと、少々具合の悪い沈黙が その場に漂った。キミちゃんは不安そうにシンジとレイを見比べていたが、二人の間の微 妙な空気を敏感に感じ取ったのか、やがてレイの足にしっかりとしがみついた。 「やだ、ママ行っちゃダメ!」 「……」 「あたしパパとママといっしょがいいもん。だから、ママもここにいなきゃダメ」 今にも泣き出しそうな表情で、キミちゃんがレイに必死に訴えかける。レイはといえば、 どうしていいか分からないのか、無言のままただキミちゃんを見返すばかりだった。 「いやはや葛城、こいつは決まりだな」 「そうね……。レイ」 「はい」 「あんた、しばらく家に泊まっていきなさい」 「……ここにですか?」 「そ。この子のこんな顔見てたらさ、あんたを黙って行かせるわけにはいかないじゃない。 だからキミちゃん、心配しなくてもいいわよ。あなたのママも、今日からミサトお姉ちゃ んの家にお引越しするからね」 そう言ってミサトが微笑むと、レイのスカートを掴んでいたキミちゃんが、恐る恐る顔 を上げた。 「ミサトおばちゃん、ほんと?」 「ええ、本当よ」 「ママ、ママもここにお引越しするの? パパと一緒にここにいる?」 「……命令なら、そうするわ」 縋るような口調で尋ねるキミちゃんに、レイは少し躊躇った後、呟くようにして答えた。 だがその声色は普段の無感情なものではなく、少女の内にある戸惑いを表すかのように、 微かに揺れていた。 「おし、決まりね。そんじゃ、今日はパ〜っと二人の歓迎パーティといきますか」 そんな経緯を経て、葛城家の構成員は一気に二人増えることとなったのである。 (ダメだ、やっぱり眠れないよ……) 真夜中のシンジの部屋。その夜何度目になるか分からない寝返りを打つと、ベッドの中 でシンジはもぞもぞ体を動かした。背後から聞こえてくるのは微かな寝息と、それに混じ って時折聞こえてくる寝言。どうしてこんなことになったのかと考えてみても、魔法のよ うにその疑問を解いてくれる答えは浮かんでこなかった。 「う〜、パパ〜、ママ〜」 キミちゃんの口から漏れる無邪気な寝言に、シンジの頬が思わず緩む。 シンジが眠りにつけない理由というのも、元を正せばキミちゃんが原因なのだが、不思 議とそれを責めたり愚痴をこぼす気にはなれなかった。 ミサトの提案もあり、レイが葛城家に居候することが決まったが、そこで問題が全て解 決されたわけではなかった。歓迎会と銘打ってリビングでくつろいだ後、それぞれの部屋 で休息を取ろうという時のこと。いつもそうしているのだからという理由の元、キミちゃ んはシンジとレイと同じ布団で眠ることを強く要求したのである。 顔を真っ赤にして固まるシンジを尻目に、珍しく大人の良識を発揮したのはミサトだっ た。あの手この手を尽くしてキミちゃんを説得し、レイがシンジと同じ部屋で眠ること、 ただしベッドは別々で、ということでようやく交渉相手の合意を得たのである。 そんなわけでシンジのベッドのすぐ脇には、キミちゃんとレイが一緒の布団に包まって いるのだった。 (全く、呑気なもんだよね) そんなことをシンジは思ったが、言葉が与える印象ほどに迷惑していたわけではない。 自分たちの生活に、何の前触れもなく転がり込んできたその少女。無邪気で純粋なキミ ちゃんはどこか憎めず、少女が巻き起こす騒動は、後から思えば微笑ましく感じられるも のだった。 (でも、どうしてあの子は僕のことを父親だって思うんだろう……) どんなに思いを巡らせてみても、答えは見つかりそうにもない。更に厄介なことには、 答えの出ない疑問は一つだけではないということだ。一体あの子はどこからやってきたの だろう。何故あの子は自分たちのことを知っているのだろう。何から何まで分からないこ とばかりである。 「はあ……」 自分一人では解けそうもない難題に、シンジはつい声に出して軽い溜息をついた。 「碇くん……」 「……あ、な、何?」 「……眠れないの?」 「あ、うん、何かさ、今日はいろいろなことがあったから、それで寝つけなくて」 「そう……」 「綾波も眠れないの?」 「……ええ。考え事、してたから」 一体何について、と問いかける必要などなかった。レイが思いを巡らせる対象は、自分 のそれと同じだろうというのが、シンジには何となく分かった。 「この子……」 「え?」 「……この子は、何故私を母親だというのかしら」 「うん、不思議だよね。僕もさ、何で自分が父親だと思われてるのか、全然分からないし。 あ、でもさ、綾波って、何かお母さんみたいなところがあるから、だからこの子のお母さ んに間違われたのかもね」 「お母さん……」 「うん。今日もさ、綾波がその子を抱いてるのを見たら、なんか、本当のお母さんが自分 の子供をあやしてるように見えたんだ。ちょっと変なんだけどさ」 「……何を……言うのよ」 少し掠れた声の中に、僅かな動揺が見え隠れする。普段は感情のゆらぎを見せないレイ だけに、シンジはその変化が嬉しくなり、意識的にからかうような言葉を続けた。 「あ、でもさ、案外綾波って、主婦とかそういうのが似合ってたりして。台所に立って割 烹着なんか着て、背中に赤ちゃんをおんぶしながら、だしの具合を確かめたりとかさ」 脳裏に浮かび上がる光景と普段のレイのイメージのギャップに、シンジは忍び笑いを漏 らした。だがそんな冗談に対するレイの反応は、シンジが思っていたよりもずっと真剣な ものだった。 「そんなこと、ない……」 「え?」 「私は、きっと母親になんてなれないから……」 その声色に先程のような心の揺れはなく、照れや謙遜とは違った、何か重いものが含ま れているのをシンジは感じた。 自分は母親にはなれないだなんて、どうしてそんなことを言うのだろう。軽い気持ちで 言ったことだったが、返ってきた返事に、シンジは何も言うことが出来なかった。 結局そのまま会話は途切れ、布団の中、シンジはもう一度寝返りを打った。 部屋には再び静寂が訪れ、しばらくするとレイの口から微かな寝息が漏れ出す。 だがシンジの頭の中からは、レイの言葉と口調がこびりついてしまったかのように離れ ず、つい先程とは違った理由から、眠りに落ちることができなくなっていた。
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