「じゃミサトさん、その子のことお願いします」
「オッケ〜、そんじゃ三人ともいってらっさ〜い」

 葛城家にキミちゃんがやってきた翌日。
 玄関先では、学校に出かけるシンジ、レイ、アスカに、ミサトがひらひらと手を振って
いた。そしてその脇では、一緒に見送りに出てきたキミちゃんが、ミサトに手を引かれて
いる。
 チルドレン三人には学校があり、ミサトにはネルフでの仕事がある。ではその間キミち
ゃんの世話はどうするか。様々な提案が出た末に、ミサトがキミちゃんをネルフの保育施
設に預け、そこで午後までの時間を過ごした後、学校帰りのシンジたちが迎えに行くこと
になったのである。

「じゃあね、午後になったら迎えに行くからね」
「うん、パパ行ってらっしゃい」

 そう言って笑顔で手を振るキミちゃんに、シンジは少し幸せな気分になった。
もし将来自分が結婚して子供を授かったとしたら、毎朝こんな光景が繰り返されるのだろ
うか。だとしたら、何だかそういうのもいいかもしれない。そんなことを思いながらシン
ジが身を翻すと、レイとアスカもそれに続いた。

「あ、ねえママ」
「……何?」

 クイクイと後ろから引っ張られる感覚に、レイが反射的に振り返ると、制服のスカート
の裾をキミちゃんが握っていた。

「ママ、今日はパパにいってらっしゃいのチュ〜はしないの?」

 あっけらかんとした少女の一言に、まるで高電圧のスタンガンを押し付けられたかのよ
うに、シンジの体がビクリと震えた。そして言葉の意味が頭に染み込むにつれ、心臓は狂
ったように鼓動を刻みだし、頬の辺りは見る見るうちに真っ赤に染まっていく。

「い、いってらっしゃいの……」
「チュ〜……」

 そう漏らしたきり、アスカとミサトは絶句した。このご時勢に、いってらっしゃいのチ
ュ〜というのも微妙だが、何よりもシンジとレイがそんなことを、という衝撃の方が大き
い。だが当のレイはといえば、言葉の意味がよく分からなかったのか、無表情のままキミ
ちゃんを見つめるばかりだった。

「……何、それ?」
「う? ママがいつもパパにしてるチュ〜だよ」
「よく分からない」
「分かんないの? どして?」

 などとキミちゃんは不思議そうに言うが、分からないのはミサトたちの方である。

「シンちゃん、レイ、あんたたちって……」
「ち、ち、ち、違います、誤解です……」
「誤解も六階もないわよ、このボケナス!! どういうことなのか説明しなさいよ!!」

 と、アスカが鼻息荒くシンジに詰め寄る。その一方で、レイの頭の中では思考能力とい
う名のエンジンが、フルスロットルで回転していた。

(チュ〜、それはおそらくキスのこと。キス、恋人同士がするもの。恋人、恋人は……私
と碇くん? 私たち、恋人?)

 こんな状況でも論理的に考えるのは持って生まれた性か。だが、思考が次の段階へ進む
につれ、その頬がほんのりと赤らんでいくのは理屈ではない。

「……何故、そんなことを聞くの?」
「だってパパがおうちから出るとき、ママいっつもパパのほっぺにチュってしてるでしょ?
 だから、今日はなんでしないのかなぁって思ったの」

 それが当然の事のように、小首を傾げながらキミちゃんが尋ねると、レイは少し困った
ようにシンジを見つめた。

「あ、いや、あの、そこで僕を見られても……」

 助けを求めてミサトに視線を送っても、返ってくるのは状況を楽しんでいると思しきニ
ヤニヤ笑い。もう一人その場にいる人物の方は、きっと不機嫌という言葉を形にしたよう
な表情をしているのだろう。見なくてもそのくらいは分かる。
 結局この場を何とかできるのは自分だけだ。周りからの視線を一身に受けたシンジは、
逃げちゃダメだと頭の中で繰り返しつつ、ようやく言葉を搾り出した。

「あ、綾波、僕たちはさ、その、まだそういうのは早いと思うんだ」

 追い詰められてのこととはいえ、あまりに言葉の選択が悪すぎた。シンジの意図はとも
かく、言葉の裏の意味を読み取ったレイは益々頬を染め、外野は外野で無責任に盛り上が
る。

「まだってのはどういう意味よ、この色魔!!」
「おおっとぉ? じゃあシンちゃん、将来的にはそういうこと考えてるんだ〜?」
「あ、い、いや、そうじゃなくって、だから……」
「は! な〜にデレデレしちゃってんのよ。バッカみたい、付き合ってらんないわ。アタ
シ先に行くからね!」

 ドスドスと足音を響かせ、捨て台詞と共にその場を去るアスカ。シンジとしては、その
後に付いてこの場を逃れたくて仕方がない。だが、自分をジッと見つめるキミちゃんとレ
イを前に、足が地面に縫い付けられたかのように動かない。いや動けない。

「えへへ〜、レ〜イ〜、ほら〜、シンちゃんが待ってるわよん。早くしてあげたら〜? 
いってらっしゃいのチュ〜」
「あ、綾波、あの、違うんだ。ミ、ミサトさんの言うこと真に受けちゃダメだよ。僕が言
いたいのはそういうことじゃなくて……」
「いいのよレイ、遠慮なんかしなくてもさ〜。シンちゃんはちょ〜っち照れちゃってるだ
けなんだから。それともレイ、シンちゃんにチュ〜するのは嫌?」
……別に……嫌ではない

 ポショポショとそんなことを呟いたかと思うと、やや上目遣いでジッとシンジを見つめ
るレイ。
 しんと静まりかえったリビングが、シンジの次の言葉を期待する空気で満ち満ちる。そ
んな中で、正常な思考能力を失いかけた少年は、ほっぺにチュ〜くらいならいいかも、と
いう考えに傾いた。いや、正確には傾きかけたのだが、ミサトの浮かべる邪悪な笑みに、
慌ててその考えを放棄した。ミサトの目の前でそんな事をしたが最後、その話はイロウル
を撃破した以上の速さで、ネルフ全体に知れ渡るに違いない。

「あ、あ、あ、あの、綾波、学校に遅れちゃうから、だからもう行こう!」

 そう言うやいなや、シンジはレイの手を取り脱兎のごとく玄関を飛び出した。その脳裏
ではゲンドウが、おまえには失望した、と言ったとか言わなかったとか。
 一方レイは、シンジの突然の行動に成すがままになっていたが、やがて自分の手を包み
込む温かな感触に、ほんの少し表情を和ませた。そして少女は数分後、自分のしているこ
とに気づいたシンジが慌てて手を離すまで、その状態を存分に楽しんだのであった。



Kimiの名は −第三話−



「あ〜、パパぁ、ママぁ」

 ネルフ本部の一フロアに設置された、職員専用の保育施設。その入り口に置かれていた
ベンチにミサトと一緒に腰かけていたキミちゃんは、シンジとレイの姿を見つけると、こ
ぼれんばかりの笑みを浮かべ、とてとてと二人に駆け寄った。

「パパ、もうお仕事は終わったの?」
「お仕事? そうだね、一応終わったよ」
「ホント? じゃあさ、今日はパパといっしょに帰れる?」
「うん、大丈夫だよ」
「やったぁ、じゃあ今日はみんないっしょだね」

 そう言って嬉しそうに笑うと、キミちゃんはシンジに抱っこをせがんだ。それに答えて
シンジが少女を抱き上げると、三人のことを見つめていたミサトが、優しい微笑みと共に
歩み寄ってきた。

「シンちゃん、レイ、お疲れ様。今日はアスカは一緒じゃないの?」
「あ、はい。洞木さんと一緒に街に出かけたみたいです」
「そっか、じゃあ今日は親子三人水入らずで帰宅ってわけね」
「か、からかわないで下さいよ、ミサトさん」
「へっへ〜、でもね、二人であんたたちのこと待ってる間、この子ったらママはまだかな
まだかなって、そればっかりだったのよ。ね、キミちゃん?」
「うん、あたしずっとママのことまってたの。でも、今日はパパもいっしょだから嬉しい
の」
「そうなんだ。そういえば、今日はどうだった? ミサトさんと一緒に幼稚園に行ったん
だよね? 友達とかできた?」
「うん、よーちえんは楽しかったけど……」
「楽しかったけど、どうかしたの? 何かあったの?」
「うん、あのね……」

 明るく快活ないつもの様子とは違い、キミちゃんは言葉につまり、何やら決まり悪そう
にモジモジとしていた。

「あのねパパ、あたしね、あしたからパパかママと一緒によーちえんに行きたいの……」
「どうして?」
「うんとね……あたし、ミサトおばちゃんのクルマがこわいの……」
「怖いって……何で?」
「あのね、ミサトおばちゃんのクルマね、ギュ〜ンってなってキキキ〜っていって、あた
しやなの」
「それって……。ミサトさん、まさか……」
「や、だ、だって、今日はしょうがなかったのよ。あたし、朝から大事な会議があったの
忘れてて、それにちょっち遅刻しちゃいそうで。それで、つい、その……」
「だからって、子供が一緒に乗ってるのに!」

 尻切れトンボになったミサトの返答に、シンジの口調が非難の色を帯びたものになる。
いつになく真剣なその表情に怯みまくりのミサトは、しどろもどろになりながらも必死に
言い訳の言葉を繰り出した。

「で、でもさ、あたしが時間に遅れると、リツコがこっちのこと睨むのよ。シンちゃんも
分かるでしょ? あの凶悪な視線で睨まれると、胸の辺りがキュ〜って締め付けられて、
寿命が二、三年は縮まっちゃうのよね」
「本当ね、あの視線には困ったものね」
「でっしょ〜? リツコもさあ、そういうとこ昔から全然変わんないのよねえ。だから嫁
の貰い手もつかないんだけど……って、ん?」
「あなたが時間にルーズなのも、昔から変わらないわね。それに嫁の貰い手がつかないの
は、あなたも同じでしょう?」
「あ、あら、リツコ……」

 と、声に出して確認するまでもない。何時の間にか背後へと忍び寄っていたのは、いつ
もの白衣に身を包んだ赤木リツコだった。そしてリツコは、誤魔化すような笑みを浮かべ
るミサトに対し、冷たく言い放った。

「騒々しいわね葛城一尉。本部の廊下は、子供と一緒になって馬鹿騒ぎをするところでは
ないわよ」
「あ、あはは……」
「それに話の前後関係がよく見えないけれど、物事の一側面のみを誇張して、他人の悪評
を広めるのはどうかと思うわね。今日の件に関しては、あなたが時間通りに本部に来てい
れば、何の問題もなかったはずなんですからね」
「えへへ、ま、まあそうなんだけどさ〜」

 前門の虎、後門の狼というべきか。自分を非難する視線二人分に挟まれ、最早笑うこと
しかできないミサト。すると、それまで大人たちの会話を不思議そうに聞いていたキミち
ゃんが、突然大きな声をあげた。

「あ〜、リツコバーバだぁ!」

 それが自分のことだとは、夢にも思っていなかったのだろう。突然会話に割りこんでき
たキミちゃんを、呆気に取られたように見つめるリツコ。だが金髪の技術部長は、やがて
その言葉の意味と、それが向けられた対象が誰なのかというのをハッキリと理解した。

「……な、なんですってぇ!?」

 それまで被っていた沈着冷静という名の仮面がはがれ、リツコのこめかみの辺りがピク
ピクと震える。こういう時のリツコは色々な意味で恐ろしい。長年の付き合いであるミサ
トには、それが分かりすぎるくらいに分かる。だがそんなことを知るはずもないキミちゃ
んは、恐れ多くも更に続けた。

「ねえねえリツコバ〜バ、どうしてリツコバ〜バの髪が黄色いの? あたしね、最初バ〜
バだって分かんなかったよ」
「バ、バ〜バ……。この年でバ〜バですって……?」
「ぷ〜、良かったわねえ、リ・ツ・コ・バ〜バ。やっぱり三十路の大台に乗ってる人は、
呼ばれ方も違うわねえ」

 ここが形勢逆転のチャンスと見たのか、自分はおばちゃんであることを棚に上げ、ミサ
トがすかさず精神攻撃を開始する。腐ってもネルフ作戦部長、機を見るに敏である。普段
のリツコならば、ミサトの皮肉を受け流すなど何でもないことだが、さすがにこればかり
は身に詰まされるものがあった。

「く……。ど、どこの子よ、この子は? 親にしっかり叱ってもらわなきゃ。……まさか
加持君とミサトの隠し子じゃないでしょうね?」
「んなわけないじゃん。この子はシンちゃんと……」

 と、そこまで言いかけて、ミサトは言葉に詰まった。

「シンジ君の何よ?」
「……シ、シンちゃんの親戚の子なの」
「そう。シンジ君悪いことは言わないわ。子供はしっかり躾るようにその子の親に言って
おきなさい。将来しっぺ返しがくるのはその子なんですからね」
「は、はい。でも、あの……」
「あら、何か言いたいことがあって?」

 氷のように冷たい口調と、キラリと鋭い光を発するリツコの瞳。そこから来るプレッシ
ャーにシンジは一瞬怯んだが、どうにか気を取りなおし、会話の矛先をミサトに向けた。

「あ、い、いえ、別にリツコさんにじゃなくって……。あの、ミサトさん、今この子バ〜
バって言ってましたけど、それって昨日言ってたのと同じ人じゃないかって思うんです」
「あ、そういえば……。ねえキミちゃん、キミちゃんが昨日言ってたバ〜バってさ、この
とっても怖〜いば〜さんのこと?」
「う? リツコバ〜バは全然こわくないよ?」

 今一つ質問と答えが噛み合っていないが、とにもかくにも、リツコがキミちゃんの言う
バ〜バであるらしい。ということは、全ての鍵を握るのはリツコバ〜バなのだろうか。シ
ンジ、レイ、ミサトの視線がリツコへと集中する。

「な、何よ、一体……」
「ねえリツコ、あんた最近車を買ったりした?」
「車? 何で私がそんなこと。私が車を運転しないのはあなたもよく知っているでしょう」
「じゃあさ、最近技術部で何か新しい車を開発したとか、そういうことは?」
「馬鹿なこと言わないでちょうだい。ウチでそんなことをするわけがないし、大体そうい
う話は前もって作戦部に通すのが通例じゃない」
「それじゃ、あんたこの子とは面識ある?」
「この子と? まさか。生憎と、こんな小さな子に知り合いはいないわ」
「ふ〜む、隠し事してるって感じじゃないわね」
「何なのよ、変なことばかり聞いて。この子が一体どうしたっていうの?」
「ん〜、そんなしらばっくれたこと言って、実はさ、あんたこそ密かに隠し子がいるとか
そういうことない?」
「いい加減にしてちょうだい! さっきから訳の分からないことばかり聞いて。悪いけれ
ど、これ以上あなたと無駄話をしている暇はないの。私は失礼させてもらうわ」
「あ〜ちょっと待ちなさいよリツコ。冗談よ冗談。あんたにはもっといろいろ聞きたいこ
とがあるんだからさ〜」

 もう付き合ってられないわ、とばかりに足早にその場を立ち去ろうとするリツコ。それ
をミサトが引き止めようとしていた、その時のことだった。

「騒がしいな」

 たった一言その言葉に、そこにいた全員が、場の空気が一瞬にして凍りついたような感
覚を覚えた。

「あ……。い、碇司令……」

 それはまがうことなきネルフ総司令、碇ゲンドウであった。 
 ネルフという組織内で、ただ一人着ることを許された特別な士官服。表情を隠すためな
のか、肌身放さず身につけているサングラス。そしてその奥から覗くのは、古の名刀もか
くやと思わせる、切れ味鋭い視線である。
 その存在が醸し出すピンと張り詰めた緊張感や、人の上に立つ者としての威圧感は、重
厚この上ない。威厳と風格を兼ね備えたゲンドウの登場に、まるで科学反応を起こしたか
のように、その場の空気が引き締まったものへと変化する。先程までおちゃらけていたミ
サトやリツコの表情も、急激にネルフ幹部としてのそれへと変わっていく。
 ……はずだった。
 キミちゃんが口を開き、緊張感の欠片もない声をあげるまでは。

「あ〜、ジ〜ジ〜」
「ぷ」

 思わず吹き出しそうになるのをミサトは必死に堪えたが、その努力は賞賛されるべきも
のだった。ネルフ総司令という厳格なイメージとは、あまりにかけ離れたその呼称。ゲン
ドウに対しそんな言葉を使えるのは、宇宙広しといえどもキミちゃんだけだったろう。

「ジ〜ジ、ジ〜ジ〜」
「あ、ちょ、ちょっと……」
「パパ、あっちあっち。あたしジ〜ジのとこにいく!」

 そう宣言すると、キミちゃんは小さな体を精一杯乗りだし、体を揺すってもっとゲンド
ウの方へ近づくようシンジに要求した。
 碇ゲンドウという男に対して、人々が持つイメージは千差万別である。だがその最大公
約数は、仕事以外ではあまり近づきたくない存在、いわんやプライベートでは顔を見るの
すら遠慮したい、というものだった。だがシンジの腕に抱かれた少女は、ゲンドウの姿に
気がつくと、大好きな友達を見つけたかのように途端にはしゃぎだしたのである。

「ジ〜ジ、だっこして、だっこ〜」

 そう言うやいなや、キミちゃんはシンジの腕の中からぴょいとはずみをつけ、ゲンドウ
の首にしがみついた。良い子は真似をしてはいけない危険な行為だが、ゲンドウが受け止
めてくれるという確信があったのか、キミちゃんには微塵も躊躇う様子がなかった。さす
がのゲンドウも意表を突かれたのか、つい少女の体を支えるように手を出してしまう。

「ジ〜ジ、おひげ、おひげ〜」

 するとキミちゃんは、ゲンドウの顎髭を手でさすってみたり、頬ずりをしてみたり、挙
句の果てには両手で軽く引っ張ってみたり。相手は畏れ多くもネルフ総司令である。傍若
無人というべきか、怖いもの知らずというべきか、それともただのア〜パ〜娘か。神をも
怖れぬキミちゃんの言動に、その場にいた人間は全員、ゲンドウの冷たい言葉の刃を予測
したのだが……。

「む……」

 ゲンドウは一声唸ると、この男にしては珍しく、少し戸惑ったような様子を見せたので
ある。  

「ね、ジ〜ジ、いつもみたく、おひげであたしのほっぺたジョリジョリってして」
「む、む……」
「ねえジ〜ジ、はやく〜」

 キミちゃんに両手で頬をペシペシと叩かれるゲンドウは、まるで一人だけ時が止まった
かのように、ピクリとも動かない。

「う〜、じゃあいいもん。あたし、じぶんでジョリジョリするもん」

 相変わらず何の反応も示さないゲンドウに、キミちゃんは拗ねたように頬を膨らませる
と、自らその髭に顔を擦りつけ始めた。

「えへへ〜、ジ〜ジのおひげジョリジョリ〜」
「……」
「あ、そうだ。ねえジ〜ジ、こんど、またジ〜ジのところに遊びに行ってもい〜い?」
「……」
「そいでね、あたしね、またジ〜ジと二人で遊びたいの。ジ〜ジは何して遊びたい?」
「……」
「あたしはね、かくれんぼと、動物しりとりがしたいの。ね、だからこんどジ〜ジのとこ
ろに行っていいでしょ?」

 ジ〜ジに向けられる、期待に満ち満ちたキミちゃんのつぶらな瞳。真っ直ぐ自分を見つ
めるピュアな少女に戸惑ったのか、ゲンドウはそれを避けるかのように視線を外した。

「葛城一尉、この子は……何だ?」
「は、はい。そ、それが、その、何と申しますか、その子はシンジ君とレイの、あの、む、
娘だと名乗っておりまして……」
「……」

(う、うわ、やば……。絶対、何言ってんだコイツって思われてる……)

 ゲンドウの鋭い眼光に気圧され、不覚にも本当のことを口にしてしまったミサト。他に
うまい言い方はなかったかと、今更ながらに冷や汗をかくが、時既に遅しである。ゲンド
ウの眉が微かに顰められ、サングラス越しながらも、その目からギラリと凶悪な光が発せ
られた。

「葛城一尉……」

 ジロリとこちらを睨むゲンドウの口が開き、ミサトがきつい叱責の言葉を覚悟した時、
それは起こった。

「ジ〜ジ、ちゃんとこっち見なさい!」
「むぉ……」

 自分のことなどそっちのけで、ミサトの方ばかり向いているゲンドウ。一生懸命話しか
けているのにずっと無視されていたキミちゃんは、ついに堪忍袋の尾が切れたらしい。少
女は両手でゲンドウの顎を掴むと、手加減などまるで抜きで無理矢理自分の方へと向けさ
せたのである。ゴキッという鈍い音が聞こえたのは、おそらく気のせいではないだろう。

「ダメだよジ〜ジ! ジ〜ジはあたしとお話してるんだから、ちゃんとあたしの方向きな
さい!」
「む……ぐ……ぉ……」

 あまりの激痛のためだろうか、まともな声も出せずただ呻くばかりのゲンドウ。つい先
程までの威厳はどこへやら、こうなってはただの中年ヒゲオヤジと変わらない。ましてや
説教を食らっている相手は三才の幼児である。これではゲンドウが積み上げてきた司令官
としてのイメージも、ドンガラガッシャンとコミカルな音を立てて崩れていくのだった。

「ジ〜ジ、わかった?」
「む、む、む……」

 首筋に走る激痛のためか、最早唸ることしかできないゲンドウ。だがそれを肯定の印と
受け取ったのか、キミちゃんはニッコリと微笑んだ。

「うん、分かればいいんだよ、ジ〜ジ」

 そのあまりの暴挙に、約一名を除き周りの大人たちは唖然、茫然、あんぐり口を開ける。
だが相変わらずマイペースなキミちゃんは、そんな周りの様子には毛ほども気づいておら
ず、すぐに先程のようにゲンドウに甘え始めた。

「ねえジ〜ジ、あたし、いつジ〜ジのところに行っていい?」
「む、わ、私は忙しいのだ」
「う? ジ〜ジいそがしいの?」
「そうだ」
「う〜、そうなんだ……」
「……」
「ジ〜ジそんなに忙しいの? あたしと遊べないくらい?」
「……私にはやるべきことがある」
「ジ〜ジ、どうしてもダメ?」

 ひどくガッカリした様子でキミちゃんが呟く。すると、最早過去の遺物と成りかけた威
厳を取り戻そうと、よく響く低音のバスでゲンドウがキッパリと言い放った。

「ダメだ」
「そいじゃ、いつなら行ってもいい?」
「む?」
「それなら、あたしジ〜ジがいそがしくないときに行くよ」
「……」
「ねえジ〜ジ、いつならジ〜ジはいそがしくないの? あたしジ〜ジと一緒に遊びたいの」
「む……」

 過去の経験から、ゲンドウは他人に疎まれるのには慣れていた。周囲が自分に向ける感
情は常に負の意識に満ちていたため、否応なくそれに対応する術も身につけていたのだ。
だが、こうも純粋な好意を向けられた経験など、数えるほどしかない。ゲンドウは内心で
感じる戸惑いを隠しつつ、キミちゃんに尋ねた。

「……何故、私のところに来たがるのだ?」
「う? だってあたしジ〜ジのこと好きだから、ジ〜ジといっしょに遊びたいの」
「……好き、だと?」
「うん、ジ〜ジも、あたしのこと好きでしょ?」
「……」
「だってジ〜ジ、いっつもあたしのこと、かわいいかわいいって言ってくれたもん……」

 このオヤヂめ、そんな趣味があったのか。非難と軽蔑と驚愕の入り混じった、周囲から
の視線が痛い。それを肌で感じるゲンドウが沈黙する一方、キミちゃんは、昨日のシンジ
との一件を思い出したのか、シュンと俯きながら尋ねた。

「ねえジ〜ジ、ジ〜ジもうあたしのこと好きじゃないの? だからあたしといっしょに遊
びたくないの?」
「む……」
「ジ〜ジ、あたしのこと嫌いになったの?」

 不安そうに上目遣いに尋ねるキミちゃんと、ゲンドウの脳裏のあるイメージが不思議と
だぶる。それは世紀が装いを新たにする前、ゲンドウがまだ独身時代のことである。後に
男の妻となるその女性は、ゲンドウの浮いた噂が流れるたびによく言ったものだった。あ
なたは私のことが嫌いになってしまったのね、と。
 すると男はいつも言うのだった。

「……そ、そうではない」
「ホント? よかったぁ、じゃああたし、ジ〜ジのとこに遊びにいってもいいよね?」
「む……。そ、その件に関しては追って連絡をする……」
「う? そのけん? おって、なに? よくわかんないよジ〜ジ」

 幼児相手だというのにゲンドウが難しい言葉を使ったため、ちんぷんかんぷんなキミち
ゃんがすぐに尋ね返す。だがゲンドウの中に、幼児対応のボキャブラリーなどあるはずが
ない。咄嗟に言葉の出てこないネルフ総司令は、その代わり、ギラリと凶悪な視線をミサ
トに向けた。

(あ、チャ、チャ〜ンスってやつ?)

 以心伝心。ゲンドウの視線の意味を理解したミサトは、先程の失態を取り返す好機とば
かり、すかさずフォローを入れた。

「あ、あのねキミちゃん、ジ〜ジ……じゃなくって、碇司令はね、今度忙しくない時があ
ったらキミちゃんに教えるから、その時は一緒に遊ぼうねって言ってるのよ」
「ほんと? じゃあジ〜ジ、あたし待ってるからね。いそがしくない時には、ぜったいあ
たしに電話してね。やくそくだよ?」
「む……むぅぅ……」

 苦虫を噛み潰すような表情のゲンドウが、ミサトに殺意の篭った視線を投げかける。
 うまいこといって自分と遊ぶ計画を諦めさせろ、というのがゲンドウの真意だったが、
こうなってしまってはもう遅い。
 この瞬間、哀れ葛城一尉の数ヶ月間の減法処分が決定したのである。だがそんなことと
は露ほども知らないキミちゃんは、既に頭の中で、ジ〜ジの家に行ったら何をして遊ぼう
かと、そればかりを思い描いていたのだった。



<Back「Kimiの名は」目次Next>

ぜひあなたの感想をSeven Sistersさんまでお送りください >[lineker_no_10@hotmail.com]


【投稿作品の目次】   【HOME】