まだ幼児であるためか、それとも親の躾のせいか、碇キミ嬢はいつも早寝早起きである。
 平日なら七時には目が覚めるし、少しだけ夜更かしできる週末でも、翌朝八時には布団
から這い出てくる。
 何か用があるならともかく、仕事や学校のない週末くらい、布団の中でゆっくりしたい
というのが人情だろう。キミちゃんにも何となくそれは理解できる。だがあまりに早く起
きた日は、暇をもてあました少女が、他の面々を起こしに回ることも度々であった。

「う〜」

 キミちゃんが現れて一月ほどが経った、ある土曜日の朝。
 蒼銀の髪とぷくぷくのほっぺを持つ少女は、もそもそと布団から這い出ると、まだ寝ぼ
け気味の目をごしごしと擦った。一度大きく伸びをした後、壁の掛け時計を見やると、短
針は8を少し過ぎたところにある。キミちゃんと一緒の布団に入っているレイは、まだ静
かな寝息を立てていた。

「ママぁ、もう8時だよ、起きて」
「ん……」

 軽く揺すってみても、レイに目覚める気配はない。母親と慕う少女の寝起きが決してよ
くないことは、キミちゃんも過去の経験から学んでいた。

「う〜……」

 しばしぼんやりとした後で、さてどうしようと考えてみる。
 とりあえずお気に入りのぬいぐるみで遊ぼうかと、傍らに手を延ばしかけた少女は、こ
の部屋で眠る人物がもう一人いたことを思い出した。

「あ、パパもう起きてるんだ」

 既に空っぽになっている布団を見やると、キミちゃんは少し考えた後で、部屋を出るこ
とに決めた。レイを起こさないようにそおっと襖を開け、閉める時も音を立てないように
気を付ける。
 廊下を抜けリビングに出ると、キッチンの方から味噌汁の匂いが漂ってきた。そこに見
慣れたエプロン姿を見つけたキミちゃんは、パジャマ姿のままシンジに駆け寄った。

「パパぁ、おはよう」
「あ、おはよう。今日も早起きだね」
「うん。でも、いっつもパパの方が早起きだね」
「僕は、みんなの朝ご飯を作らなきゃいけないからね」
「きょうの朝ご飯なに?」
「ご飯と味噌汁、焼き魚、それからお新香ってとこかな」

 土曜の朝ということもあり、朝食を軽い物ですませても、あまり文句を言う人間はいな
かっただろう。だがきちんとおかずを何品も作るのが、シンジの真面目なところだった。

「じゃあ顔を洗いに行こうか。ちょっと待っててね」
「うん」

 キミちゃんの朝の支度を手伝うため、シンジは一旦味噌汁の火を消した。
 葛城家では、キミちゃんの朝の世話をするのは、そのとき手が空いている者と決まって
いる。シンジは朝食の準備中であるが、他に人がいないのでキミちゃんの面倒を見なけれ
ばならないのだ。

「ねえパパ、今日はおでかけするの?」
「うん、今日は一日テストが入ってるから、幼稚園で遊んでてね」
「う〜、ずっとよーちえん?」
「ごめん、でも仕事だから仕方ないんだ。なるべく早く迎えに行くからさ」
「うん、あたしいい子で待ってるね」

 そんな会話を交わしつつ、シンジとキミちゃんが洗面所に向かおうとしていると、ちょ
うど起きてきたらしいアスカがダイニングに入ってきた。

「あ、アスカおねえちゃん、おはよう」
「おっはよ、アンタも今起きたの?」
「うん、これから顔洗って、歯磨きするの。アスカおねえちゃんも?」
「そうよ」
「ねえねえパパ、あたしアスカおねえちゃんと一緒に行っていい?」
「うん、僕はいいけど。じゃあアスカ、その子のこと頼んでもいい?」
「別に構わないわよ」
「ねえねえアスカおねえちゃん、今日はあたしの髪おだんごにして?」
「いいわよ。アンタあの髪型気に入ったの?」
「うん、おだんごおだんご〜」

 キミちゃんが元気よく返事をすると、機嫌良さそうにアスカが笑い、二人は手を繋いで
洗面所へと向かった。
 いつも自分のことを慕ってくる少女が気に入ったのか、アスカはキミちゃんのことを、
年の離れた妹のように感じているらしかった。ちょっとしたことで世話を焼いたかと思え
ば、時には少しお姉さん風を吹かせたりもする。
 髪をお団子に結うのも、以前アスカがやってあげたことである。どうやらキミちゃんは
それが気に入ったらしく、今日はアスカに髪のセットを頼むようだった。

「シンちゃんおはよ〜、あ〜頭痛い〜」

 アスカとキミちゃんが洗面所に入っていくと、二人と入れ替わるようにして、ミサトが
ダイニングに現れた。

「おはようございますミサトさん。二日酔いですか?」
「ん〜、昨日はリツコと一緒だったんだけど、ちょっち飲み過ぎたかな〜」
「あんまり飲み過ぎると、また体重が増えちゃいますよ」
「ぐ、朝からきっついわね〜。待ちに待った給料日の日くらい、パ〜っと飲んでもいいじ
ゃない」
「でも先月の減給があってから、食費も厳しくて。だからほどほどにして下さいね」
「へいへい。それにしてもシンちゃんって、ほんと苦労性よねえ」
「誰のせいだと思ってるんですか?」
「あはは〜、誰のせいかしらねえ。ひょっとして、レイ?」
「な、なんでそこで綾波の名前が出てくるんですか!」
「さ〜、何でかしらねえ」

 などと、しばし二人がやり合っていると、身だしなみを整えたキミちゃんとアスカが、
さっぱりした様子で洗面所から出てきた。

「ミサトおばちゃん、おはよう」
「おはようキミちゃん、今日も元気ね」
「うん、あたし元気だよ。でもミサトおばちゃん、あんまし元気じゃないね」
「ん、ちょっちね〜。ま、後でビールの二、三杯でも飲めば直るわよ」
「でも、あんまりびーるを飲むと、びーる腹になっちゃうって、アスカおねえちゃんが言
ってたよ」
「だいじょ〜ぶ。あたしにとってビールはね、お茶と同じようなもんだから」
「お茶? アスカおねえちゃん、ビールとお茶って同じなの?」
「同じなわけないじゃん。アンタは将来、このおばちゃんみたいになっちゃダメよ?」
「うん、わかった」
「何よ〜、二人して言ってくれんじゃないの」

 とは言うものの、ミサトが特に腹を立てている様子はない。
 どんな時でも天真爛漫で、良い意味で悪びれたところのないキミちゃんを、ミサトは微
笑ましく思っているようだった。
 “おばちゃん”という不本意な呼ばれ方も、もうある程度慣れてしまっている。
 バ〜バと呼ばれるよりはマシだと、自分に言い聞かせた部分も大きいが、無邪気に自分
を慕ってくるキミちゃんを見ると、呼ばれ方など些細なことのように思えるのだった。

「そういえばキミちゃん、今日は髪をお団子にしてもらったのね。可愛いじゃない」
「ほんと?」
「ええ、どこかの国のお姫様みたいよ」
「えへへ」

 髪型を褒められて喜ぶのは、三歳といえど女の子である証拠だろうか。髪に手を当て嬉
しそうに微笑むと、キミちゃんはキッチンに向かい、シンジのエプロンをクイクイと引っ
張った。

「パパみてみて、おだんご〜」
「本当だ。アスカにやってもらったんだね」
「そうだよ。ねえパパ、おだんご可愛い?」
「うん、すごく可愛いよ」
「えへへ〜」
「あ、ところでさ、もう朝ご飯にするから、部屋に戻って着替えてきてくれる? それと、
ついでに綾波を起こしてきてくれないかな」
「うん、わかった!」

 元気よく返事をすると、キミちゃんはトトトっと走っていく。キッチンを抜けリビング
に入ると、制服姿のレイが、ちょうど部屋から出てきたところだった。

「あ、ママおはよう」
「おはよう」
「ママやっと起きたの? ママが一番ねぼうだね」
「そう」
「ねえねえママ、みてみて。アスカお姉ちゃんがね、あたしの髪おだんごにしてくれたの」
「そうね」
「ねえママ、おだんごの髪どう?」
「……上手に出来ていると思うわ」
「えへへ、あたしおだんご大好きなの」
「そう、良かったわね」
「ねえママ、パパがね、もう朝ご飯にするって。だからあたしが着替えるの手伝って?」
「ええ」

 そんな風にして、キミちゃんを中心に朝の会話が花開く様子を、シンジは温かな思いで
見守っていた。まるで少女自身が何かの円滑材であるかのように、皆の口から言葉が溢れ
出し、会話が緩やかに流れていく。本人が気づいているか定かではないが、キミちゃんに
は、周囲を明るくする天性の素質があるようだった。

(こういうのも、悪くないかもしれないな……)

 シンジの中で、ふとそんな思いが心をよぎる。
 かつてのシンジにとって、他人との接触は苦痛でしかなかった。
 沈黙を恐れ、他人からの拒絶を恐れ、自分の殻に閉じこもる弱い自分。そんなシンジに
できたのは、他人との触れ合いを出来る限り避け、それを必要最小限に留めることだった。
 だがあの少女が現れて以来、他人との時間を心地よいと感じている自分がいる。他の人
間と言葉を交わし、また他人の会話を聞いているだけで、心が瑞々しい活力で溢れていく。

(今日も、楽しい一日だといいな)

 朝食をテーブルに並べた後、窓の外の青空を眺めると、自然とそんな気持ちになる。
 そんなことを考えている自分が、シンジ自身不思議だった。
 この部屋に来て以来、そんな風に感じたことなどあっただろうか。
 今の生活が楽しいと、そう感じている自分。きっとそれは、他の面々も同じはずだ。シ
ンジにはその確信があった。
 そしてそれぞれの生活に、新しい息吹をもたらしたのは……。
 シンジの視線の先には、着替えを済ませ、ダイニングに入る少女の姿が映っていた。



Kimiの名は −第四話−



 キミちゃんは、先程から些か退屈気味だった。幼稚園の前でずっと待っているにも関わ
らず、誰も迎えの人間が来ないのだ。
 既に時刻は十九時を回っている。いつもなら、とっくにシンジとレイがやってくる時間
である。仮に仕事が長引いていたとしても、誰かがその旨を伝えに来るはずだった。それ
なのに、今日に限っては誰もやってくる気配がない。

「キミちゃんばいばい、またね」
「うん、ばいばい」

 親に手を引かれ家に帰る友達の背中を、キミちゃんは羨ましそうに見つめた。
 仲良しの友達が、一人また一人と家路につくのを見る度、キミちゃんは複雑な気持ちに
なる。みんなにさよならを言うたびに、段々一人ぼっちが寂しくなるのである。

「パパとママ、早く来ないかな……」

 幼稚園で軽食を摂ったので、お腹はすいていない。お昼寝もたっぷりしたので、まだそ
れほど眠くもない。問題なのは、何もすることがなくて退屈で仕方がないことだった。友
達はみんな家に帰ってしまい、いつもは遊び相手になってくれる先生たちも、教室の後片
付けや残務整理に忙しそうである。そのため手持ち無沙汰になったキミちゃんは、両親の
姿を求め表に出てきたのだった。

「つまんないの……」

 施設前のベンチに座り、キミちゃんが足をブラブラさせていると、どこかから小さな音
が聞こえてきた。
 コツコツコツと一定のリズムを刻むその音。それがしんと静まりかえった廊下の向こう
から、微かに聞こえてくる。
 この音にはどこかで聞き覚えがある。そう思ったキミちゃんは顔を上げた。すると少女
の目に入ったのは、書類に目を通しながら、廊下をこちらへ歩いてくるリツコの姿だった。

「あ、リツコバ〜バぁ!」

 キミちゃんは一声叫ぶと、椅子から飛び下り駆け出した。
 書類に集中していたせいか、一瞬虚をつかれたようにポカンとするリツコ。だがすぐに
キミちゃんに気づいたらしく、その眉間に軽く皺が寄った。やはりまだバ〜バと呼ばれる
のに抵抗があるらしい。そのご機嫌は曇り模様といったところである。
 だがキミちゃんはそんなことはおかまいなしで、いつもの明るい調子でリツコに話しか
けた。

「ねえねえリツコバ〜バ、なにしてるの?」
「……仕事よ」
「じゃあリツコバ〜バ、今いそがしいの?」
「ええ、猫の手も借りたいくらいにね」
「ネコ? あたしネコちゃん大好き」
「あらそう。それじゃ、私は急ぐから」

 素っ気なく言い放ち、その場を去ろうとするリツコ。だが後ろから何かに引っ張られる
感覚に、すぐに足を止める。はぁ、とアンニュイな溜息をついて振り向くと、案の定、キ
ミちゃんが白衣の裾をしっかり握りしめていた。

「ねえリツコバ〜バ、ちょっとだけいっしょにあそぼ?」
「ダメよ」
「でもちょっとだけなの」

 そう言うとキミちゃんは、くりくりとした目でリツコを見上げた。

「そんな風に私を見たって駄目よ」
「う〜、リツコバ〜バお願い。パパもママも来ないから、あたし一人ぼっちなの」
「そんなこと言われたって……」

 上目遣いでお願いを続けるキミちゃんに、リツコの拒絶の言葉も勢いを失う。
 この子と話していると、どうも調子が狂ってしまう。リツコはそれを自覚せざるを得な
かった。まるで家を出る間際に、寂しがりの子猫に行かないでくれとせがまれているよう
で、少なからず心が揺れるのだ。
 だがリツコは迷いを振り切り、毅然とした態度を取ることにした。やはりこんなところ
で、子供と遊んでいるわけにはいかないのだ。

「悪いけど、私は今本当に忙しいの。誰かに遊んでほしいなら、あなたのジ〜ジに遊んで
もらったら?」
「ジ〜ジ? ジ〜ジ今どこにいるの?」
「そうね、今の時間なら、きっと自分の部屋にいるんじゃないかしら」
「じゃあリツコバ〜バ、ジ〜ジのとこに連れてって」
「私が?」
「だってあたし、ジ〜ジのお部屋知らないの」

 ほんの戯れで言ったことだったが、どうやらキミちゃんは、本気でゲンドウのところに
行く気らしい。期待に満ち満ちた瞳を前に、リツコは多少の罪悪感を覚えた。

「あのね、碇司令だって忙しいの。残念だけど、あなたに会うのは無理だと思うわ」
「ううん、大丈夫だよ。だってジ〜ジ、あたしにこれくれたもん」

 そう言ってキミちゃんは、幼稚園のカバンの中をゴソゴソとやり始める。やがて差し出
された物を見て、リツコは自分の目を疑った。それはネルフ施設全てにアクセスできる、
特別なIDカードだったのである。ネルフ内でも、ごく限られた人間しか持っていないはず
の物。それをこんな少女が持っているなど、絶対にあり得ない話だった。

「司令があなたにこれを? 嘘でしょう?」
「うそじゃないよ。これでこんど遊びにおいでって、ジ〜ジがくれたの」
「そんな、まさか……。それにこれ、発行が2025年ですって?」

 下らないいたずらだと一蹴したいところだが、少女が持っているカードは限りなく本物
に近かった。ご丁寧なことに、写真と名前もきちんと入っており、ラミネーションも完璧
だ。ただのいたずらにしては、尋常でない手間と労力が注がれている。
 一体誰がこんなことを。
 少なからず好奇心を刺激されたリツコは、瞬時に予定変更を決意した。

「いいわ、行きましょう」
「やったあ、ありがとうリツコバ〜バ」

 そう言って本当に嬉しそうに笑うキミちゃんに、リツコは少し毒気を抜かれていた。先
日の一件以来、この少女へのリツコの態度は、決して友好的なものではなかった。それな
のにキミちゃんは、そんなことなどまるで気にせず接してくる。
 少々強引なところはあるが、きっとこの子は悪い子ではないのだろう。子供と接した経
験は多くないが、リツコにもそれくらいのことは分かった。

「じゃあ代わりに、私と一つ約束をして」
「やくそく?」
「これからは、リツコバ〜バという言い方はやめなさい」
「う? どして?」
「その言い方は、良い言い方じゃないわ」
「じゃあ何ていえばいいの?」
「そうね……」

 と、しばし金髪の技術部長は考え込んだ。リツコとさほど歳の離れていない――と、少
なくともリツコは考えている――伊吹マヤは、マヤおねえちゃんと呼ばれているらしい。
だがこの歳でお姉ちゃんと呼ばせるのも、何となく気恥ずかしいところがある。結局リツ
コが選んだのは、さして当たり障りのない呼び方だった。

「これからは、赤木博士と呼びなさい」
「あか、何?」
「あ・か・ぎ・は・か・せ」
「あかにはなせ?」
「違うわ、赤木博士よ」
「う〜、むずかしいの」
「じゃあ、もう一度言うからよく聞きなさい」

 などと、キミちゃんとリツコが不毛なやりとりを続ける中、二人に近付いてくる人影が
あった。

「あ、ミサトおばちゃんだ」
「ごめんねキミちゃん、遅くなっちゃって。あら、今日はリツコに遊んでもらってたの?」
「うん。あのね、今リツコバ〜バに、新しい言い方を教えてもらってたの」
「何、新しい言い方って?」
「うんとね……」

 とキミちゃんが口を開きかけたところで、リツコが素早く二人の会話を遮った。

「とりあえず、そのことはいいわ。また今度話しましょう」
「じゃあリツコバ〜バでいいの?」
「え、ええ、いいわよ」
「……あんたたち、何の話してたの?」
「別に大したことじゃないわ。そういうあなたこそ、ここに何しに来たの?」
「ちょっちキミちゃんに伝言よ。えっとねキミちゃん、今日はあなたのパパとママはお仕
事が長くなっちゃったの。だから二人が迎えに来るまで、もう少しだけ待っててくれる?」
「うん、だいじょーぶだよ。あたしね、これからジ〜ジのとこに遊びに行くの」
「ジ〜ジの所? あなた一人で?」
「ううん、リツコバ〜バといっしょにいくの」
「は? ちょっとリツコ、あんた本気?」
「ええ、それがどうかしたの?」
「どうかしたのって、あんた……」

 マジなのとミサトが目で尋ねると、もちろんとリツコが頷いてみせる。
 だが先日の首捻りの一件が記憶に新しい中、また二人を会わせるのは如何なものか。ミ
サトならずとも躊躇っただろうが、リツコには微塵も迷う様子がなかった。

「ねえリツコ、あんた何企んでるの?」
「別に何も。そんなに気になるなら、あなたも一緒に来たらどう?」
「へ? あたし?」
「ええ。いい機会だから、司令に処分撤回でもお願いしてみたら?」
「いや、それはちょっと……」
「ねえねえリツコバ〜バ、ミサトおばちゃんもジ〜ジのとこに行くの?」
「ええ、ミサトおばちゃんも、あなたと一緒に遊びたいみたいよ」
「そいじゃミサトおばちゃん、はやく行こう!」
「え、ちょ、ちょっと……」

 遊び相手が増えて嬉しいのか、キミちゃんはリツコとミサトの手を取ると、二人を引っ
張るようにして歩き出した。こうなってしまっては、最早ミサトに選択の余地はない。何
とな〜く嫌な予感がしつつも、ネルフ作戦部長はキミちゃんの後ろ姿を追うのだった。





 碇ゲンドウという男がいる。
 男は特務機関ネルフの総司令である。
 自慢ではないが、彼は偉い。
 ネルフは日本に本拠を置いているが、日本だけでなく各国首脳がゲンドウに一目おいて
おり、その権力は小国の元首を軽くしのいでいる。男が掌握する武力を持ってすれば、世
界征服も遠い彼方の夢ではなく、ネルフとエヴァの存在がなければ、対使徒戦に臨むのも
不可能である。だがその強大な力故に敵も多く、ヤシマ作戦の時のような強引なやり方に、
反感を覚える人間も少なくない。
 言うなれば、人々の憎しみ、畏怖、そして希望の対象となるのが、特務機関ネルフとい
う組織である。その総司令ともなれば、泣く子も黙り、政治家も冷や汗を流す存在であっ
た。
 だがしかし、今のゲンドウには悩みがあった。
 昨今、彼の地位を理解しようとしない、けしからん輩がいるのである。
 今日もその輩はゲンドウの執務室にまで乗り込み、男の膝の上をちゃっかり占領してい
る。そしてあろうことか、そのつぶらな瞳で、ひどく理不尽な要求をつきつけてくるのだ
った。

「ねえジ〜ジ〜、今日は何してあそぶ?」
「……」
「ねえジ〜ジってば〜」
「……私は忙しい」
「ダメだよ、いそがしくてもジ〜ジはあたしと遊ぶの。だってこないだ、一緒に遊ぶって
やくそくしたもん」
「む、む……」

 正確に言えば、忙しくない時には連絡する、という約束をしたに過ぎない。だがそんな
ことは忘れているのか、先程からキミちゃんは、ゲンドウに自分と遊ぶことを要求してい
るのだった。

「赤木博士……」
「はい司令」
「ジ〜ジ、早くあそぼうよ〜」
「何故、この子を連れてきた……」
「その子について、司令に伺いたいことがありましたので」
「ねえジ〜ジってば〜」
「聞きたいこと?」
「はい。その子が持っているIDカードなのですが……」
「う〜」
「IDカードがどうしたというのだ」
「その子が持っているカードを、ここに来るまで使ってみたのですが……」
「ジ〜ジ、ちゃんとこっち向いて〜」
「むぐぉ……」

 ゲンドウが呻き、リツコは言葉を止め、ミサトはゲッと表情を歪めた。
 キミちゃんは手を伸ばすと、よそ見しているゲンドウの顎を、くいっと引っ張ったので
ある。この間ほど強烈でないが、捻り方が悪かったのか、治りかけていたゲンドウの首は
哀れ致命的なダメージを受けたのだった。
 首が全く動かせないため、キミちゃんの方を向いたままで、脂汗を流すばかりのゲンド
ウ。だがキミちゃんは、やっと自分の方を向いてくれたと思ったのか、嬉しそうに笑って
言った。

「ねえジ〜ジ、じゃあ今日は、動物しりとりしよう?」
「む……ぐぅ……」
「じゃあ、あたしから始めるね。えっとね、ネコ!」
「む……」
「ジ〜ジ、こだよ、こ。はやく〜」

 どうやらこの娘はしりとりがしたいようである。だが何が悲しくて、ネルフ総司令がし
りとりなどしなくてはならないのか。ましてや部下達の目の前である。ズキズキ痛む首を
かばいながら、ゲンドウは短く吐き捨てた。

「……下らん」
「う?」
「しりとりなど、している暇はない」
「……」
「早く下りろ、おまえと遊ぶ時間などない」
「……ジ〜ジ、しりとりしたくないの?」

 そんなことをしている時間などない。
 そう言い放ち、この無礼な侵入者をさっさと膝の上から下ろしたい。それがゲンドウの
本音であり、普段の彼ならば迷わずそうしただろう。だがこの時ばかりは、男を見つめる
キミちゃんの表情がそれを許さなかった。

「……ジ〜ジ、あたしと遊ぶのつまんない?」
「む?」
「……ジ〜ジ、あたしのこと好きくないの?」
「む……」
「う、ひっく、うえ……」

 可愛そうなくらいしょんぼりしたキミちゃんが、服の袖で顔をごしごし擦る。項垂れる
少女の目はウルウルと潤み、目尻からは今にも涙がこぼれ落ちそうだ。やがてひっくひっ
くとしゃくり上げる音が喉から漏れ、涙腺の決壊はもう間近のようだった。

(む、むぅ……)

 自分で招いた事態ではあるが、思いがけないキミちゃんの反応に、ゲンドウは不覚にも
うろたえた。
 どこか亡き妻の面影を持つ少女が、今にも泣き出しそうにしている。それを目の当たり
にするだけで、胸がひどく締め付けられ、例えようもない罪悪感がゲンドウの中で芽生え
始めるのだ。
 ミサトやリツコの前でしりとりをするなど、以ての外である。かといって、この少女を
このまま泣かせてしまうのも忍びない。
 行くも地獄、戻るも地獄。
 心の中で長く深い葛藤があった末、ついに男は陥落した。

「コ、コバルト……」
「う?」
「……コバルト、と言ったのだ」

 だから次はおまえの番だ。サングラス越しの目はそう言っていた。キミちゃんは涙を拭
くと、鼻をすすりながらゲンドウを見上げた。

「こばると? 何それ?」
「化学元素の一つだ」
「かがく……? それ動物じゃないの?」
「違う」
「ダメだよジ〜ジ、動物しりとりなんだから、動物を言わなきゃダメなんだよ」
「むぅ……」

 つうっと、ゲンドウのこめかみを汗が伝い落ちた。
 少女の涙に負け、返事を返してしまったのは自分自身である。期待に満ち満ちたキミち
ゃんの瞳を前に、今更やめると言うことは不可能であった。そんなことをしたが最後、こ
の娘は今度こそ泣き出すだろうし、そんな状況でどういう対応をすればいいのか、ゲンド
ウには皆目見当がつかない。引っ込みがつかなくなったゲンドウにとって、残された選択
肢はしりとりを続けることしかなかった。

「コ、コアラ……」
「ラッコ!」
「むぅ……」

 プライドやら何やらをぐいっと飲み込んで、やっとこさ一つ返したゲンドウ。だがすっ
かり元気を取り戻したキミちゃんは、一秒と掛からず次の動物を言う。再びゲンドウの番
である。

「ジ〜ジ、またこだよ」
「う、うむ……」

 必死で笑いを堪えているつもりなのか、ミサトの頬がヒクヒク震えている。その隣のリ
ツコは無表情を装っているが、先程から不自然なほどに瞬きを繰り返している。思いがけ
ないシチュエーションを前に、二人が内心で何を思っているかなど、ゲンドウにはお見通
しであった。
 全くもって怪しからん奴らめ、と内心で悪態をつくと、ゲンドウは意識の焦点をキミち
ゃんに戻した。こうなれば早くこの少女を負かして、強制的にしりとりを終わらせるしか
ない。

「コウノトリ……」
「リス!」
「スズメ……」
「メ、メ、メ〜、メダカ!」
「カラス……」
「う〜、スズメバチ!」
「む、チワワ……」
「ワニ!」
「ニワトリ……」
  ・
  ・
  ・
「ハムスター……」
「アライグマ!」
「マンボウ……」
「ウシ!」
「シカ……」
「カッパ!」
「パンダ……」
「う〜、だ、だ、だ〜……ダチョウ!」
「ウマ……」
「マウンテンゴリラ!」
「む……」

 手加減無しでやっているにも関わらず、次々に返してくる少女に、ついにゲンドウの言
葉が止まった。
 単純な知識量ならば、キミちゃんは相手の足下にも及ばないであろう。だがこの日のた
めに、動物図鑑を読んで勉強してきた少女は、ゲンドウと互角の勝負を展開するのだった。
厳密に言えば、キミちゃんが挙げた中には昆虫や妖怪も混じっていたが、さすがにそこを
突っ込むほどにゲンドウは子供ではない。

「ジ〜ジ、らだよ、ら」
「うむ……」
「ジ〜ジ、さっきあたしがラッコって言ったから、ラッコはもう駄目だよ」
「分かっている……」
「ら、ら、ら〜。あ、そうだ。ねえジ〜ジ、あたし今日よーちえんで、新しいお歌を覚え
たの。だから後でジ〜ジに歌ってあげるね」
「む……」
「ジ〜ジまだ? じゃあ、あと3つ数えたら、ジ〜ジの負けだよ」
「むぅ……」
「い〜ち、に〜い、さ〜」
「む、ライオ……」
「う? ジ〜ジいまライオンって言った?」
「……違う、そんなことは言っておらん」

 おっとなげな〜。
 そんなツッコミと笑いの発作が喉まで出かかるが、ミサトとリツコはそれを必死に押し
留めた。
 ゲンドウと動物しりとりという組み合わせ自体ありえないが、所々に紛れる可愛い系の
動物たちが、それに追い打ちをかける。後生だから、あの顔でコアラやチワワなどという
のは勘弁してほしい。
 今やミサトは体中がぷるぷる震え、リツコも手で口を押さえていた。

「ラクダ……」
「ラクダ? じゃあ、“だ”だよね」
「うむ……」
「うんとね、うんとね……。ジ〜ジ、“だ”ってむずかしいよ」
「ふ……」
「……う〜、ジ〜ジ、あたしわかんない」
「む、降参するのか……」
「う〜……。わかんない、こうさん」
「ふ、問題ない……」
「ジ〜ジ、しりとり強いね。あたし負けちゃった」
「うむ……」
「じゃあジ〜ジ、こんどは何してあそぶ?」
「ぐむ……」

 どうやらこの少女は、まだまだゲンドウを解放する気はないらしい。これで終わりでは
ないのかと、ゲンドウがどっと疲労感に襲われていると、どこかから携帯電話の鳴る微か
な音がした。

「あ、あたしのだ!」

 一声叫ぶとキミちゃんは、はいていたズボンのポケットから携帯電話を取り出した。

「もしもし、あ、パパ? うん、あのね、今ジ〜ジのとこにいるの。そいでね、ジ〜ジと
いっしょに遊んでたんだよ。……う? もう帰るの? でもあたし、さっきジ〜ジのとこ
にきたばっかりなの。……う〜、分かった。じゃあこれからパパのとこにいくね」

 会話の流れを追いかけるうち、ゲンドウの目に生気が戻り始める。どうやら少女は家に
帰る時間が近いらしい。しめしめである。

「ねえジ〜ジ……」
「む?」
「あのね、パパとママがあたしのこと待ってるんだって。だからあたし、もうお家に帰ら
なきゃいけないの」
「うむ……」
「だから今日は、もうジ〜ジと遊べなくなっちゃったの」
「そうか」
「ジ〜ジごめんね。でもあたし、また明日も来るからね」
「む、それは……」
「あ、そうだ。あたしね、ジ〜ジにあげるのがあるの」

 キミちゃんはそう言うや否や、ゲンドウの返事も待たず、自分のカバンの中をゴソゴソ
やり始める。やがて少女が取り出したのは、二つに折り曲げられたハガキ大の画用紙だっ
た。

「はいジ〜ジ、これあげる」
「……何だ、これは」
「あのね、あたしこんど四歳になるんだよ。そいでジ〜ジにも、あたしのおたんじょーか
いに来てほしいの。だから、しょーたいじょーっていうのを、ジ〜ジにあげる」
「……私にか?」
「うん。ジ〜ジ、ぜ〜ったいあたしのおたんじょーかいに来てね。やくそくだよ?」
「む……」
「じゃあねジ〜ジ、また明日ね」

 そう言ったかと思うと、キミちゃんは背伸びをし、ゲンドウの頬にチュッとキスをした。

「ジ〜ジ、ばいばい!」
「む、う、うむ……」
「ねえリツコバ〜バ、パパがね、よーちえんの前であたしのこと待ってるんだって。だか
ら、さっきのとこまでつれてって」
「ええ、いいわよ。でも残念ね、ジ〜ジとあまり遊べなくて」
「うん、でもね、あしたもあそぶ約束したからいいの」
「そう、良かったわね。じゃあ明日は一杯遊んでもらうといいわ」
「うん!」

 リツコの最後の一言は、半分以上皮肉であった。あの堅物司令につけこむチャンスなど
そうそうあるものではないが、今後もこの子絡みのネタでは楽しめそうである。それを思
うとリツコの顔には、抑えきれない笑みが浮かぶのだった。

「赤木博士」
「はい、司令」
「用がないのなら、早く退出したまえ」
「ええ、もうお暇いたしますが、でも……」
「まだ何かあるのか」
「いえ、大したことではないのですが……」
「何だ、はっきり言いたまえ」

 少々みっともないところを見られ、些かご機嫌斜めのゲンドウ。軽く凄んでみせるのは、
照れの裏返しでもある。それを見抜いたリツコは、勿体をつけるように人差し指を自分の
唇に当てると、十分に間をとった後、必殺の一撃を繰り出した。

「司令、顔が真っ赤ですわよ」
「ほんとだ〜。ジ〜ジのほっぺ、まっかっか〜」
「むぐ……」

 たまらずゲンドウが唸ると、こらえきれずにミサトが吹き出し、その音が部屋中に響き
渡った。突然笑い出したミサトをキミちゃんは不思議そうに見つめ、リツコは呆れたよう
に首を振る。その場にいたもう一人の人間は、顔の前で手を組み無言のままである。
 目尻から涙まで流し、文字通り腹を抱えて笑うミサトは、ある事実に気づいていなかっ
た。無言のままのゲンドウの顔が、今度は違う意味で真っ赤になっていたのだ。
 ネルフ作戦部長更迭。
 そんな告知に至らなかったのは、奇跡以外の何物でもなかった。





 ミサトとリツコを従えキミちゃんが幼稚園に戻ると、チルドレン三人が施設前のベンチ
に腰を下ろしていた。何か談笑でもしているのか、シンジとアスカは笑顔を浮かべ、レイ
はそんな二人を無言のまま見つめている。遠目からその様子に気づいたキミちゃんは、パ
ッと顔を輝かせたかと思うと、シンジたちに向かってトテトテと駆け出した。

「パパぁ、ママぁ」
「あ、ごめん、迎えに来るのが遅くなっちゃって」
「だいじょーぶだよ。あたし、ジ〜ジのとこで遊んでたから」
「う、うん、そうみたいだね……」

 屈託なく言うキミちゃんに、シンジは軽く引き気味だった。父親がこの子と一緒に遊ぶ
光景など、想像の遙か彼方の世界にある。一体二人はどんなことをして遊んだのだろう。
怪しい想像の世界にシンジがはまりかけていると、キミちゃんを送ってきたリツコが声を
かけてきた。

「あらみんな、お疲れ様」
「あ、リツコさん、お疲れ様です」
「ごめんなさいね。この子がどうしても司令の所に行きたがったから」
「あ、別にいいんです。リツコさんこそ、この子の面倒みてくれてありがとうございます」
「あら、別にいいのよ。それより今日は遅いから、早く家に帰って休みなさい」

 そう言って微笑むリツコに、シンジは多少の違和感を覚えた。
 どこか弾むような口調と、表情から受ける柔らかな印象。更に言うならば、この手の台
詞をリツコが発するのは珍しいことと言って良かった。過去の経験から言えば、チルドレ
ン達を労るような言葉はミサトから出ることが多い。ところが当のミサトはずっと無言の
ままで、その周りにはリツコと対照的に、どんよりと重苦しい空気が立ちこめていた。

「あの、ミサトさん、お疲れ様です」
「あ、しんちゃん、おつかれ……」
「えと、ミサトさん何かあったんですか?」
「うん、まあ、ちょっちねえ……。べつにたいしたことじゃないから……」
「でも……」

 言葉とは裏腹に、明らかにミサトはヘコんでいる。一体何があったのかと、シンジが不
思議に思っていると、いたずらっぽい笑みを浮かべたリツコがその場を取り繕った。

「別にシンジ君が気にすることじゃないわ。大人ってね、いろいろあるのよ」
「はあ……」
「それより夕食もまだなんでしょう? そろそろその子も、お腹をすかせる頃じゃないか
しら?」
「あ、そうですね。じゃあ僕たちもう帰ります」
「ええ、気を付けてね」
「あの、ミサトさん、僕たち先に帰ってますね」
「ええ……。あ、シンちゃん、あたし今日夕飯いらないから……」
「え、どうしてですか?」
「今日はさ、とことん酒に飲まれたい気分なのよ……」
「はあ……。でも、あんまり飲み過ぎないで下さいね」

 最後に一言釘を刺すと、シンジたちはその場を離れた。

「ねえアスカ、ミサトさんどうしたのかな?」
「さあね、仕事で何かヘマでもしたんじゃないの?」
「あのね、ミサトおばちゃんね、ジ〜ジにすっごい怒られたんだよ」
「ミサトさんが? どうして?」
「うんとね、ミサトおばちゃんがね、あはははって笑ってたら、ジ〜ジが怒ったの」
「相変わらずアンタの話って、訳分かんないわよね〜」

 そんな他愛のない会話を交わしながら、シンジ達は本部を出るリニアに乗り込んだ。
 地上までの所要時間は約二十分程。
 ジオフロントを出ると、既に日は暮れ夜空に星が瞬いていた。

「大分遅くなっちゃったね」
「そうね、これで明日が日曜じゃなかったら、正直きついわね」
「そっか、今日は土曜日なんだよね。バス、まだ残ってるかな」
「あ……」

 悪い予感は的中し、自宅前で停まるバスの最終便は、既に出てしまった後だった。
 バスが週末運行だったこと、ミサトの家が郊外にあるため本数自体少ないこと。そして
何より、テストが予定より長引いたのが致命的だった。

「どうする? 電車で行く? それとも他のバスで帰ろうか?」
「こっからまた駅まで戻るの面倒くさい。今日はバスで帰りましょ」

 アスカの鶴の一声で、帰宅手段が決定した。
 電車を使っても別のバスで帰っても、駅や停留所から歩く距離はさほど変わらない。だ
が長時間のテストを終えたアスカは、もうここを動く気はなさそうである。シンジとして
も、それに反対する気はない。
 やがてやってきたバスは、週末ということもあってか、乗客の姿はほとんどなかった。

「あ〜疲れた〜。何だってこんな遅くまで、テストなんかしなきゃなんないのかしら」

 車両の最後部に陣取るや否や、アスカがぼやき声をあげた。

「仕方ないよ、仕事なんだから」
「仕方なくないわよ。もし仕事だっていうなら、帰りのタクシー代くらい支給するのが筋
じゃない」
「そんなこと僕に言われても……」

 もごもごとシンジが呟く横では、キミちゃんがレイにしなだれかかっていた。

「ねえママぁ、だっこ〜」

 一日中たっぷり遊んだキミちゃんは、どうやら少し疲れ気味らしい。手で目を擦ってい
るところを見ると、そろそろ眠くなってきているのだろう。キミちゃんはレイの腕に縋り
付くようにして、抱っこをせがみ続けた。

「綾波、鞄持つよ」

 そう言ってシンジがカバンを受け取ると、入れ替わるようにして、キミちゃんがレイの
膝の上に乗った。一番眠りやすいポジションを探しているのか、少女はしばらくの間もぞ
もぞやっていたが、バスが停留所を幾つか通り過ぎる頃には、その動きもいつしか止まっ
ていた。

「あ、もう眠っちゃったんだ」
「ええ」
「今日は一杯遊んだから、この子も疲れちゃったのかな」
「そうね」
「でも本当によく眠ってるね。綾波に抱っこされてるからかな」
「よく分からないわ」

 言葉だけ取ってみれば、それは素っ気ない反応のように思えるが、シンジはレイが醸し
出す柔らかな空気に気づいていた。
 安心しきったようにレイに身を任せるキミちゃん。そんな少女の体を、レイは優しく包
み込むようにして抱いている。バスに揺られながら、キミちゃんを見つめるレイの横顔は、
シンジがそれまで目にしたことのない温かなものだった。いつも無表情で、感情の欠片す
ら見せなかったレイだが、こんなにも柔らかで優しい顔を持っていたのだ。レイの新たな
一面を目の当たりにしたシンジは、隣にアスカがいることも忘れ、無意識に呟いていた。

「かわいい……」
「はぁ? 可愛いって、誰が可愛いのよ」
「え!? や、べ、別に誰がとかじゃなくて、その、この子の寝顔が可愛いなって思って」
「ウソ言うんじゃないわよ。どうせあんたのことだから、優等生に見惚れてたんでしょ」
「へ、変なこと言わないでよ! そんなんじゃないってば!」
「や〜ね〜、あんたって見かけによらずムッツリ系なのね」
「だ、だから違うって!」

 などとやり合う二人の横では、俯くレイの頬がほんのり赤く染まっていた。
 どうやらレイの耳にも、シンジが発した言葉が届いていたらしい。
 徐々に早くなる胸の鼓動と、熱くなっていく頬に戸惑いながら、レイは横目でちらりと
シンジを見た。
 ミサトの部屋に来て以来、シンジと接触する機会は飛躍的に増えている。以前に比べれ
ば会話量が増え、コミュニケーションもずっとスムースになっていた。
 少し前までは、二人で話をする時は、シンジの側にどこか構えるような気配があった。
だが今はそれも消え、二人は以前よりもリラックスした雰囲気で話ができるようになって
いたのだ。
 もしシンジとの間に絆が存在するのなら、それは以前よりも太い物になっている。
 それを感じる一方で、レイの中では別の疑問が生まれてくるのだった。
 一体自分という存在は、シンジの中でどのように受け止められているのか。
 その不安とも好奇心ともつかない思いが、心の中で小さな芽を出し始めているのを、レ
イははっきり意識していた。

(かわいい……)

 気にかかるのは、その言葉自体ではなく、それを言ったシンジの心中だった。
 彼は一体何を思ってそんなことを言ったのか。彼の心の中では、自分という存在はどの
ように映し出されているのか。一旦その疑問に心が捕らわれると、容易に思考の迷路から
抜け出すことができないのだ。
 他人の中にいる自分。
 今まで生きてきた中で、そんなことを気に留めることなどなかった。それなのに、いつ
から自分はこうなってしまったのだろう。
 シンジとアスカの言葉の応酬が続く中、レイはそっと溜息を漏らすのだった。



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