トントントンという規則正しい包丁の響きや、コトコトと何かを煮こむ鍋の音が、夕食 時が近いことを告げる。それは葛城家の厨房を切り盛りするシンジにとって、一日で最も 忙しく、そして充実した時間でもあった。 前もってその日の献立を考え、財布の中身と相談しつつ食材を揃える。家に帰った後は、 もうすっかり慣れ親しんだ台所に立ち、愛用の道具を使って調理に取りかかるのだ。 この日も、普段と変わらぬ一日となるはずだった。 ネルフ帰りに買い物をした後は、料理のプランを頭の中で組み立て、エプロンを颯爽と 着こなしキッチンへ入る。 今日のメニューはカレー。肉を下ごしらえした後は、たまねぎ、人参、ニンニクを炒め てしまおう。そういえば、綾波の皿には肉を入れないようにしなきゃ。 調理工程を最終確認した後は、実際に作業に取りかかるばかりである。 だがこの日のシンジは、ある理由から当初のプランの変更を余儀なくされたのだった。 「うん、そうそう。それで、左手をここにこう当てて」 「……こう?」 「うん、そしたら後は右手を押し出すようにするんだ」 「……分かったわ」 二人羽織のように、後ろから自分の手をレイのそれに添え、ぎこちない包丁捌きを助け るシンジ。薄青色のエプロンを身に着けたレイは、真剣な表情でシンジのアドバイスに頷 いている。 計らずもシンジが予定変更した理由。それは、突然手伝いを申し出てきたレイの、料理 の実技指導だった。 葛城家での居候が始まってからというもの、キッチンで料理をするシンジを見つめるの が、レイの日課となっていた。だがついにこの日、少女は燻りつづけていた思いを言葉に し、近くて遠かったその世界へ飛びこむ決心をしたのである。 突然の申し出に、シンジは少し驚いた様子だった。だがやがて返ってきたのは、胸がキ ュッと絞め付けられる微笑みと、「手伝ってくれるの? ありがとう、嬉しいな」という 感謝の言葉だった。 (ありがとう。感謝の言葉、初めての言葉……) レイの頬がポワ〜ンとしているのは、コンロの火の熱気だけが理由ではない。そのせい かどうか、手伝いを始めた当初は、包丁を扱うその手付きもどこか危なっかしかった。 よく見れば、その指には既に絆創膏が一つ巻かれていたが、レイにとってはそれも些細 なことに過ぎない。流れる鮮血を見つめ、切り傷の処置の仕方を思い出していると、少々 あたふたしながらも、シンジが甲斐甲斐しく手当てをしてくれたのだ。 (絆創膏……。そう、これも絆なのね……) もう一度指を傷つければ、或いは絆がもう一つ……。そんないけない考えが心をよぎら なかったといえば嘘になる。だが自らの肉体には無頓着なレイも、さすがにその考えは捨 て去った。もっとも、シンジに実技指導をしてもらうほうがより嬉しかった、というのが 正確であるが。 「たまねぎはさ、料理の前に冷蔵庫で冷やしておくと、切るときに涙が出ないんだ」 「そう、分かった……」 「……それじゃ、もうコツはつかめたよね。タマネギを切ったら、まとめて鍋に入れてく れる?」 「………………そう、分かった」 返事が返ってくるまでに少しの時間を要したのは、離れていくシンジの手の感触を惜し んだからだろうか。だが、にぶちんのシンジがレイの思いに気づくはずもなく、話は雑談 の方向へと進んでいく。 「綾波はさ、家でご飯を作ったりするの?」 「いいえ、必要ないから」 「でもその割には、包丁の使い方とか、すごく筋がいいと思うよ。最初は失敗しても、一 度教えれば大抵の事はできちゃうしさ」 「そんなことない……」 「ううん、お世辞じゃないよ。だから今日は、綾波が手伝ってくれてホントに助かったな って思って」 「……別に、いいの」 「でもさ、あんまり大きな声じゃ言えないけど、アスカもミサトさんも料理はサッパリだ から、こんな風に手伝ってくれることなんかないんだ。だから今日はありがとう」 軽く首を傾け、笑顔と共にもう一度お礼の言葉を言うシンジ。何故だかその顔を正視す ることができず、レイは頬を薔薇色に染めながら俯いた。 本来なら、ここで一気にいい雰囲気になる展開である。だが刻んだ人参を鍋に入れるの に忙しかったシンジは、残念ながらレイの変化を見逃してしまったのだった。 「少し前まではさ、冷蔵庫に家事の当番表が張ってあったんだ。でも今は、ご飯を作るの は僕だけの仕事になっちゃって」 二人ともしょうがないよねという思いを込め、苦笑気味に微笑むシンジ。 するとレイは俯かせていた顔を上げ、シンジの横顔をじっと見つめた。 「碇くん……」 「え、どうかした?」 「大丈夫……」 「へ?」 「私、これからも手伝うから……」 「これからも?」 「そうすれば、碇くんの負担も少しは減るわ」 「あ……」 そこまで言われて初めて、シンジはレイの考えていたことが分かった気がした。 そんなつもりは毛頭なかったのだが、シンジの先程のセリフは、これからも自分の手伝 いをしてほしい、という遠まわしの依頼に聞こえたのかもしれない。 (で、でも、あの、僕は……) そういうことが言いたかったんじゃなくて、などと言える度胸がシンジにあるはずもな い。それによく考えてみれば、レイと一緒に夕食の準備ができるのは、シンジにとっても ちょっと嬉しいことなのである。なのであるが……。 (綾波と二人で、夕ご飯の準備……) そうした方面の経験がまるでないシンジは、何だか少し照れてしまうのである。おかげ で決して広いとはいえない葛城家のキッチンは、お互いに相手を意識する初々しい雰囲気 で満ち溢れていった。 「ねえママぁ」 すると、ひょっこりその場に顔をのぞかせる少女が一人。 アスカと一緒に、巷で人気のテレビ番組「プータン」を見ていたキミちゃんは、先程か らしきりに笑い声を上げていた。だが、くぅ〜という音で自己主張を始めたお腹の虫に急 かされ、トコトコとキッチンにやってきたのだった。 「ね、今日のご飯な〜に?」 「今日はカレー」 「カレー? 何カレー?」 「ビーフカレー」 「ビーフ? それニンジン入ってる?」 「ええ」 レイが頷くと、何か気になることがあるのか、キミちゃんはコンロの上を見やった。そ の視線の先には、コトコト音を立てながら、いい匂いを周囲へ振りまくカレー鍋がある。 やがてキミちゃんは軽く俯いたかと思うと、モジモジしながらレイの足に縋り付き、下か ら見上げるようにして訴えた。 「ねえママ……」 「何?」 「あのね、あたしね、ママにおねがいがあるの……」 「お願い?」 「うん。あのね、あたしのお皿にね、ニンジン入れないでほしいの……」 「どうして?」 「あたし、ニンジンはあんまし好きくないの……。だからあたしのお皿にニンジン入れな いで……」 上目遣いで恐る恐るお願いするキミちゃんに、レイは即答した。 「駄目」 「う〜、ダメ?」 「駄目。好き嫌いは良くないわ」 でも綾波だって肉が……。そんなツッコミが喉まで出掛かったが、レイの真剣な表情に、 シンジは取りあえず傍観者を決め込むことにした。 「でもママ、あたしジャガイモは好きだから、ニンジンのかわりにジャガイモをいっぱい 食べるの……。それでもダメ?」 「駄目。そういう食べ方は体に良くない」 自分のことはさておいて、大真面目にそんなことを言うレイ。それが段々可笑しくなっ てきたシンジが笑いをかみ殺していると、キミちゃんはお願いの対象をシンジに変更して きた。 「ねえパパぁ」 「う、う〜ん、そうだね……」 曖昧な言葉でシンジがお茶を濁していると、すぐ脇のレイがジッとシンジのことを見つ める。無言ながらもその視線は、甘やかしてはダメ、と言っているように思えて仕方がな い。 「ごめん、やっぱり人参はちゃんと食べなきゃダメだよ。人参は体にいいから、きちんと 食べられるようにしないとね」 「でもあたし、ニンジンいやなの……」 「でもね、今日は綾波も、嫌いな肉を我慢して食べるんだよ。だから君も頑張ってニンジ ンを食べなくちゃ」 唐突なシンジのセリフに、レイが軽く体を強張らせる。料理を始める前に二人は密約を 結び、その皿には肉を入れないということで合意していたのだが、これでは話が違う。 じっと自分を見つめるレイの視線に、シンジは軽い罪悪感を覚えたが、ここは心を鬼に して敢えて黙殺することにした。 「そうだよね、綾波?」 「私、ダメ……。肉は食べられない……」 「う? ママお肉食べないの?」 「ぅ……」 「ママずるい。ママがお肉食べないなら、あたしだってニンジン食べないもん」 「でも今日は違うよ。君に人参を食べてほしいから、綾波も頑張って肉を食べるんだよ」 「……ママ、ほんと? ママもがまんしてお肉たべるの?」 「うん、そうだよね、綾波?」 「………………食べるわ」 少し困ったような拗ねたようなレイの表情が可笑しくて、シンジは堪えきれずに吹き出 してしまった。そして突然笑い出した自分を不思議そうに見つめる視線の中、シンジは、 今日はキミちゃんのお皿には人参を一切れ、レイのお皿にも肉を一切れだけ入れようと心 に決めるのだった。 Kimiの名は −第五話− 仕事や学校、またはその両方に追われる葛城家の面々にとって、夕食後の一時は貴重な 自由時間となっている。家長のミサトの方針で、可能な限り食事は全員一緒に摂る。だが 一度食事が終われば、後は各自の自由な時間であり、それぞれがそれぞれのやり方でリラ ックスするのだ。 シンジの場合、キミちゃんと一緒にテレビを見ることが多く、レイは自分の読書をした り、キミちゃんと絵本を読んだりすることが多い。ミサトはビールさえあれば幸せだ。 アスカにとって一番お気に入りのやり方は、ゆっくり風呂に浸かった後、雑誌を片手に クッションに寄りかかり、テレビの音をBGMにリビングでのんびりするというものだっ た。更に言えば、そこに美味しいお茶の一杯もあれば言うことはない。 この日もアスカは、学校帰りに買った雑誌に目を通しながら、ふと喉の渇きを覚えたの だった。 「ねえシンジ〜」 「何?」 「アイスティー飲みたい」 「……冷蔵庫に入ってるけど」 「そっちまで行くのめんどくさい」 「もう、そのくらい自分でやってよね」 ぶつぶつ不満を言いながらも、やがてシンジがグラスに入ったアイスティーを持ってく る。ガムシロップもミルクもなし。やはりアイスティーはアールグレイのストレートに限 る。 喉に冷たい紅茶が流れ込み、その清涼な感覚に満足するアスカ。 お茶を持ってきたシンジは、ダイニングのテーブルに腰を下ろし、ノートに何かを書き 込んでいる。今やすっかり主夫となったシンジのこと、家計簿でもつけているのかもしれ ない。レイとキミちゃんは、つい先程からお風呂に入っている。ミサトは残業でもこなし ているのか、まだ仕事から帰ってきていなかった。 それはアスカにとって、普段と何も変わらない一日だった。 朝起きて、学校に行って、エヴァの訓練をし、また家に帰る。 これを日常と感じるようになったのは、一体いつごろからだったろう。 戦闘訓練、使徒との戦い、日本という土地での初めての生活。 ストレスとなるべき要因は多いはずだが、不思議と今のアスカには、それを苦にすると ころがない。むしろ今の生活には、楽しさを感じているといってよかった。 (それなりに、現状には満足してるってことかしら) エヴァパイロットとしての実績はナンバーワンだし、私生活にも不満はない。学校でも 洞木ヒカリという親友ができたし、日本語の勉強も順調だ。今のアスカにとって、恒常的 に不満や苛立ちを感じる要素はないといっていい。 (でも、そう言えるようになったのも、割と最近の話かもね) 例えばこれが少し前までならば、綾波レイという存在があった。出会ったときから全く 反りが合わず、お互いに完全無視状態が続いた相手である。一度こじれた人間関係は修復 するのは容易ではなく、周囲もこの二人に関しては気を使っていたようだった。特にアス カのように、竹を割ったような性格なら尚更だ。 だが今では、そのレイという存在も、アスカにとって容認できる存在へと変化していた。 (考えてみれば、変な話だけどね……) おざなりに雑誌のページをめくりながら、アスカがそんなことを考えていると、唐突に 風呂場のドアが開く音がし、バスタオルを体に巻いたキミちゃんが出てきた。 「ねえパパぁ」 「あれ、どうしたの?」 「あのね、シャンプーがなくなっちゃったの。もう一個シャンプーない?」 「えっと、たしか洗面所の棚に替えがなかったっけ」 「ママが探したけどなかったよ」 「ほんとに? ごめん、それじゃ切らしちゃってるかも。予備がまだあると思って、買っ てなかったから」 「そいじゃ、頭ごしごしできないの?」 「そうだね、どうしよう……」 困ったように頭をかくシンジを、アスカは横目で視界に捉えた。 (さて、どうしようかな……) 雑誌から目を離さないまま、アスカは考えた。今の自分に、あの子やレイを助ける義理 はない。それは確かだ。だが一方で、ちょっとした好意を提供するのも悪くない、そんな 気分であるのも事実。 しばし考えた末、アスカは雑誌から顔を上げると、相変わらずシンジを見上げているキ ミちゃんに声をかけた。 「ちょっとアンタ」 「な〜に、アスカおねえちゃん」 「アンタのママに、アタシのシャンプー使っていいって言いなさい」 「ほんと? アスカおねえちゃんの使っていいの?」 「そうよ、今日だけ特別だからね」 「わかった。アスカおねえちゃん、ありがとう」 お礼を言って風呂場に戻るキミちゃんの姿を、アスカは満足げに見送った。 ドイツからやってきて以来、葛城家にはアスカ専用のシャンプーが存在した。来日前か ら使っているお気に入りで、日本では入手が難しい舶来品だ。そのためアスカは、自分以 外の人間がそれを使うのを許可していないのだ。 「ありがとうアスカ、助かったよ」 「言っとくけど、アンタは使っちゃダメだからね」 「分かってるよ。でも珍しいね、アスカが自分のシャンプー使わせるなんて」 「だって他にないんでしょ? 仕方ないじゃない」 と自分で言っておきながら、アスカはその言葉が真実でないことを自覚していた。きっ と以前のアスカなら、先ほどの場面では何もせず雑誌を読み続けていただろう。そして窮 地に陥ったシンジが、慌ててコンビニに走る姿を黙って見送っていたに違いない。 どうやらそう考えたのは一人ではなかったらしく、シンジは怪訝な表情を浮かべながら アスカに話しかけた。 「ねえアスカ」 「何?」 「最近思ってたんだけど、この頃アスカと綾波仲が良いよね」 「ぶっ」 口の中の紅茶を吐き出しかけたが、どうにか寸前でこらえるアスカ。 急に何を言い出すかと思えばこの男は。ティッシュで口元を拭うと、アスカは忌々しげ にシンジを睨み付けた。 「アタシとあの子が何ですって?」 「や、だから、最近仲がいいなって……」 「アンタバカ〜? 別に仲良くなんてないわよ」 「でもさ、前のアスカだったら、自分のシャンプーを綾波に使わせるなんて、絶対なかっ たと思うし」 「……うっさいわね、それじゃアタシがケチみたいじゃん。大体さあ、何で急にそんな話 すんのよ」 「最近思ってたんだ。アスカと綾波が話をすることも増えたし、二人の雰囲気も前より全 然いいしさ。それにさっきみたいなこともあるから、二人とも何かあったのかなって」 少々悔しい話だが、シンジの指摘のほとんどは的を射ており、アスカとしても反論する 材料はさほど多くない。 ただ、アスカには一つだけ気にかかる点があった。それは、アスカの方がレイと仲良く しようと努力している、そんな印象をシンジが持たないかということだ。 どうでもいいと言えばどうでもいいことだし、自分が気にしなければそれまでなのだが、 シンジに誤解されるのも何となく気に食わない。更に言うならば、間違った情報が例えば ミサトに伝わり、そこから他の人間に伝播していくのは避けたいところだった。 『ミサトさん、最近アスカ、綾波と仲良くしようって頑張ってるんです』 『へ〜そうなんだ、アスカも少しは大人になったのかしらねえ』 そんな会話を想像するだけで、アスカの背筋には悪寒が走る。あまり気は進まないが、 状況はきっちり説明しておいたほうがよさそうだった。少なくとも、シンジに変な誤解を されるよりはよっぽどいい。 「こないだの話なんだけどさ」 「うん」 「優等生が、あの子と一緒に絵本を読んでたのよね。確か赤ずきんの話」 「ふうん」 「そしたら、話の途中であの子が言ったわけ。ねえママ、どうして狼に食べられたのに、 おばあちゃんは平気なのって」 「そう言われてみれば、変だよね」 「でもそんなのは、お話の“あや”ってやつじゃない。深く考える意味なんかないわ」 「うん、それもそうかも」 「でしょ。だから適当に何か言っておけばいいのに、優等生ったらじっと考え込んじゃっ たわけよ」 「ああ、綾波ならそうなるかも……」 「それで、変な感じにシンとしちゃってさ。あの子は優等生が何か言うの待ってるし、優 等生は何て言ったらいいのか分かってないみたいだし」 「そういうのって、気まずいよね」 「で、見てらんなかったからさ、アタシが言ってやったわけ。おばあちゃんは狼に食べら れたけど、まだ消化されてなかったのよって。そしたらあの子も納得したみたいで、その 場は収まったのよね」 「……本当に、それで納得したの?」 「うっさいわね。それで納得しろって言っといたからいいのよ」 「まあいいや。それで?」 「そしたら、あの子が寝た後に優等生がアタシのところに来てさ……」 「来て、どうしたの?」 アスカは少々具合が悪そうに髪を掻き上げると、シンジから顔を逸らして言った。 「さっきはありがとう、だって」 「綾波が、アスカにそう言ったの?」 「何よアンタ、アタシが嘘ついてるっていうの?」 「そうじゃないよ。ただ、ちょっと意外だったから……」 「アタシだって、あの子にそんなこと言われるなんて、思ってもみなかったわよ」 「あ、分かった。アスカはそれが嬉しかったら、綾波と仲良くしようって思ったとか?」 「ち〜が〜うって。アタシは別に、嬉しいとかそんなんじゃなくて……。何ていうか、バ カバカしくなったのよね」 「バカバカしいって、どういうこと?」 「何て言ったらいいかしら……」 さて、この気持ちの変化をどう説明すればいいのか。咄嗟に説明できない自分自身に軽 い苛立ちを覚えながら、アスカは少しの間考え込んだ。 決してボキャブラリーが不足しているわけではない。むしろその逆であるがゆえに、ア スカは慎重に言葉を選ぶ必要があった。もし間違った表現を使ってしまったら、シンジに 誤った印象を与えかねないが、それは最も避けたい事態だった。 「アタシ、あの子のこと嫌いだったのよね」 アスカが単刀直入に言うと、シンジは視線を落とし複雑な表情をした。 自分がレイを嫌っていたことは、公然の秘密とも言えないほどの、周知の事実だったろ う。アスカの中にはそんな確信があった。アスカのレイに対する態度は友好的とは程遠か ったし、親しくしようと努力したこともなければ、相手への不快感を隠したこともない。 「なんかさ、お人形みたいに無表情で、一人だけすました感じで、自分は関係ないって感 じでさ。そういうとこ虫が好かなかったのよ。アンタもそう思わなかった?」 「僕は、そこまでは……」 「でも、こないだのことで、優等生にもああいうとこがあるんだって分かって……。それ に、アタシはあの子が嫌いだったけど、あの子はそんなこと気にしてなくて、素直にあり がとうなんて言われて……」 これが自分だったなら、自分を嫌っている相手に素直に礼を言うなど、絶対にできない。 まして、アスカのレイに対する嫌悪感は露骨なものだったのだ。それなのにレイは、そん な自分の態度を根に持つこともなく、感謝の言葉を述べたのだ。 シンジの前では口にしなかったが、そんなレイを一方的に嫌い続けるのは、自分の人間 としての器の小ささを突きつけられているようで、アスカは気にいらなかったのだ。 「だからアタシもあの子には、最低限普通の対応をしようって、そう思っただけよ。別に 仲良くしようとしてるわけじゃないわ」 「そうなんだ。でも僕も、アスカの話分かる気がするな。うまく言えないけど、最近の綾 波って、少し変わったよね」 「昔が変人過ぎただけじゃない?」 「そ、そうかな……。でも綾波が変わったっていうのは、アスカも賛成でしょ?」 「ま、多少はね」 「やっぱりそうだよね。何か雰囲気が前より柔らかくなったし、話もしやすくなったって いうか」 「それも誰のせいかしらね〜」 「そうだよね、やっぱりあの子が家に来たせいかな」 などと呑気に言ってのけるシンジを、アスカは呆れたように見つめた。 「アンタねえ……」 「え?」 「……いいわ、やっぱ何でもない」 「何か、そういう言い方されると気になるんだけど」 「別に大したことじゃないわよ。あ〜、何かよく考えたらバカバカしくなってきたわ。な んだってこのアタシが、アンタにこんな話しなきゃならないのよ」 そう言って、アスカは半ば強引に会話を打ち切った。 レイの雰囲気が最近変化している。その意見に反対する気はない。だがその理由に関し ては、シンジに同意することはできなかった。 (この鈍感バカは、気づいてないのかしら?) 時折見せるレイの微妙な雰囲気の変化。 実はそれが、レイに対するアスカのイメージを変えた決定的な要因だった。 周囲の事柄に無関心なレイが、ぼんやりとキッチンのシンジの背中を見つめていたり、 シンジと会話をする中で頬をほんのり染めていたり。 それに気づいたアスカが、意識してレイの様子を観察すると、一件無表情に見える彼女 が、実は様々な変化を見せることに気づいたのだ。 そしてレイの様子を観察するうち、アスカが辿り着いたのは一つの結論だった。 (この子、きっとシンジのことが……) それを確信した時、アスカは一抹の切なさのようなものを感じた。そして同時に、軽い 動揺と怒りのようなものを覚えた。もっともそれはレイに対してではなく、自分自身への ものだった。 どうして自分がそんな気持ちにならなければいけないのか。レイが誰のことを好きにな ろうと知ったことではないし、その相手がシンジだろうが誰だろうが、自分にとってはど うでもいいことだ。それなのに……。 軽い苛立ちと焦燥の中、アスカが理論武装を終えるには、しばしの時間が必要だった。 自分が今感じている感情は、今まで独占していた家来を他人に譲る時のような、そんな 感傷に過ぎない。極端な言い方をすれば、それは飼い犬への情のようなものであって、そ れ以上でもそれ以下でもない。その結論が正しいにせよそうでないにせよ、アスカはそう 考えることに決めたのだ。 (そうよ、何でアタシがバカシンジなんかに) そんな思考のプロセスを知るはずもないシンジは、呑気にお茶など啜っている。その緊 張感のなさに少々ムッときたアスカは、にやりと不敵な笑みを浮かべると、反撃の狼煙を 上げるのだった。 「アンタこそさあ、最近優等生とはどうなのよ」 「どうって、別にどうもしないけど……」 「そうかしら。一緒に買い物に行ったり、夕ご飯の支度したり、アンタたち最近いい雰囲 気なんじゃないの?」 「そ、そんなことないよ!」 「じゃあアンタは、優等生のことは何とも思ってないわけ?」 「そ、そんなこと、考えたことないよ」 そう言ってそっぽを向くシンジに、アスカは内心で笑いを噛み殺した。 このひどく単純で、ある意味純情な男は、これで自分の心を隠しているつもりなのだろ うか。本人がそれを隠そうとすればするほど、本当の思いが外に漏れ出してくるというの に。 (あの子も苦労しそうだわ。バカシンジがこんなんじゃね) 赤くなった頬を隠そうとでもいうのか、シンジは急に思い立ったように洗い物など始め る。その後姿を横目で見ながら、アスカは心の中で肩をすくめるのだった。 眠れない。 キミちゃんと共にくるまったベッドの中、レイはモゾモゾと体を動かした。部屋の電気 が消され、布団に入ってからしばらく経つが、眠りの精がレイの元へ舞い降りてくる気配 は一向にない。壁に掛けられた時計を見ると、日付がそろそろ変わろうかという頃合であ る。明日は学校こそないものの、エヴァのテストがあることを考えれば、休息はしっかり 取っておかねばならない。それなのに、目を閉じ心を落ち着け、身じろぎ一つせずにいて も、なかなか眠りの世界へ入っていくことができないのだ。 レイが葛城家にやってきてしばらく経つ。だがシンジの部屋で眠ることや、キミちゃん と一緒の布団に入ることに関しては、まだ完全に慣れたとは言い難かった。 以前に比べると眠りが浅く、寝つきも良いとは言えない。完全に眠りに落ちれば問題な いが、そうなる前は周囲の些細な音にも敏感に反応し、簡単に目が覚めてしまうのだ。 一緒に眠るキミちゃんがもぞもぞ動いたり、或いは寝言を漏らしただけで、眠りかけの 目が覚めたことも一度や二度ではない。この夜も、先程布団から這い出し部屋を出て行っ たシンジの気配で、レイの目はすっかり冴え渡ってしまったのだ。 (前は、こんなことはなかったのに……) それが環境の変化によるものか、それ以外の理由からかは定かではない。 ただ、眠りにつけない理由で思い当たる節があるとすれば、以前とは違い、レイは眠り に着く前、様々なことに思いを巡らすようになった、ということがある。 今日あった出来事を振り返ってみたり、明日あるであろう光景を想像してみたり。 一人だったころは、そんなことに時間を費やしたことは一度もなかった。だが葛城家に やってきて、周囲の人間と時を過ごすうち、いつしかそれはレイの日課のようになってい た。 (明日は、日曜日……) 週末なのでもちろん学校はないが、エヴァのテストが午前中に予定されている。という ことは、おそらく本部からの帰り道に買い物に行くことになるだろう。明日の夕食の献立 は、一体何なのだろう。シンジはいつものスーパーに買出しに行くつもりだろうか。そう いえば午後の日差しは強いだろうから、あの子には帽子を被せたほうがいいかもしれない。 レイが明日のことに思いを巡らせていると、部屋の襖が開く微かな音がした。トイレに でも行っていたのか、布団を空にしていたシンジが戻ってきたらしい。 襖が閉まる音がした後、シンジが絨毯を踏みしめる僅かな音が、レイの耳に入ってくる。 きっとこの後は、布団を捲り上げる音と、そこにシンジが潜り込む音が聞こえてくるはず だ。それが済めば、これ以上眠りを乱されることもないだろう。目を閉じながら、そんな ことを思うレイ。だが予測とは異なり、シンジの足音はレイが眠るベッドへと近づき、そ して唐突に止まった。 (っ!) 突然布団が捲り上げられ、涼しい空気が流れ込んだ。そしてゴソゴソという音と共に、 何か温かなものがレイのすぐ脇に横たわってくる。驚いたレイが目を開くと、そこにあっ たのは、微かな寝息を立てるシンジの顔だった。 (碇、くん……?) 何故彼が自分の布団に入り込んでくるのだろう。 突然目の前に現れたシンジに軽い動揺を覚えるレイだったが、時計の秒針が一回りする ころには、どうにか冷静さを取り戻していた。 シンジとレイの間では、キミちゃんと一緒に眠る方がベッドを使い、そうでない方は床 に引いた布団で寝ることになっている。だが、おそらく寝ぼけたシンジは、今までの癖で ついベッドの中に潜り込んでしまったのだろう。 シンジを起こして自分の布団に戻ってもらうこともできるが、よく眠っているところを 起こすのも忍びない。シングルサイズのベッドに三人は定員オーバーだが、自分が我慢す れば眠れないことはないだろう。レイはそう考えた。 キミちゃんが壁側に、シンジはその逆に寝ているため、レイは二人に挟み込まれていた が、耐えられない窮屈さではない。むしろ二人分の温かさに挟まれる感覚は、決して不快 なものではなかった。 (……) レイの目前では、シンジが軽い寝息をたてながら横たわっている。初めて出会って以来 数ヶ月が経ち、もうすっかり見慣れてしまったシンジの顔。だが互いの息遣いが聞こえる 距離で、それを目の当たりにするのは初めてのことだった。 整った中性的な顔立ち。無造作に垂らされた黒髪。閉じられた瞼の奥には、あの優しげ な黒い瞳が隠れているのだろう。こうして至近距離から見つめると、やはり親子というべ きか、その顔立ちはゲンドウと通じるものがある。今は綺麗なシンジの頬だが、そこに髭 を生やせば二人は瓜二つになるだろうか。そんなことを考えたレイは、訳もなく手を伸ば し、シンジの頬に触れてみた。 (温かい……) シンジの顎のラインに沿って、人差し指をそっと這わせてみたり。無駄な肉のついてい ない頬をツンツンとつついてみたり。そんな他愛のないことの繰り返しに、いつしかレイ は時を忘れるほどに没頭していた。 「ん……うん……」 眉を軽く顰めたシンジが時折声を漏らす。だが奇妙な心の昂ぶりを覚えていたレイは、 しばらくの間同じ動作を続けた。すりすりと頬を擦るたび、もぞもぞと身じろぎしてみた り、軽く声を漏らしたりと、何かしらの反応を見せるシンジ。 (面白い……) 普段はあまり目にすることのないシンジの表情に、軽く口元を綻ばせ、子供のようない たずらを続けるレイ。だが少女のささやかな楽しみも、そう長くは続かなかった。 「う……ん……やめてよお……」 「……!」 いやいやをするように身悶えしたシンジは、突然レイの背中に手を回し、その華奢な体 をグっと引き寄せたのである。あまりに突然で、そして予想外の行動に、レイは咄嗟に反 応することができず、シンジの胸の中に包み込まれる格好になった。背中に回される腕の 力はさほど強いものではないが、身動きが取れなくなったレイは、シンジとぴったり体を 密着させた状態になった。 (碇くんの、匂いがする……) 初号機搭乗時にも感じたシンジの匂い。それを意識した途端、トクトクトクと心臓の鼓 動が早まり、頬の周りが急に熱くなるのをレイは感じた。他人に抱きしめられたこと、ま して同い年の男の子にそうされた経験など、レイにあるはずがない。どうしていいか分か らぬまま、ポ〜っと頬を高潮させたレイは、しばしシンジに抱きしめられるままになって いた。 カチッカチッカチッと、時計の針が動く音が聞こえる。 時折背後でキミちゃんが寝返りを打つ気配がする。 そんな中でレイは、シンジの胸の中の温かさに、不思議な安心感のようなものを覚えな がら目を閉じていた。 (心地よい……) そのままどのくらい時が経ったのか。軽いまどろみから目を覚ましたレイは、いつの間 にか自分を拘束する腕の力が、以前より弱まっているのに気づいた。 試行錯誤の後、どうにか体を動かせる状態になると、レイはシンジから少しだけ体を離 し、その様子を窺った。 (やっぱり眠っている……) シンジは相変わらず規則的な寝息を立てている。やはり先程の行動は、寝ぼけてしまっ た上での無意識の産物らしい。シンジの突然の行動には驚かされたが、そこから得られた 知識は、レイの中でそれ以上のインパクトを残していた。 (体と体を合わせること。それは気持ちのいいこと……) どこかぼんやりとした瞳のレイは、しばしの間シンジの寝顔を見つめ続けた。 二人の位置取りのせいで、レイのちょうど目の前にはシンジの唇がある。時折僅かに開 閉される淡い桃色の唇。始めはそれをなんとなく視界に捉えているだけだったが、いつし かレイの真紅の瞳は、そこに釘付けになっていた。 (何か、変……) シンジの唇を見つめるうち、レイは自分の中で奇妙な化学反応が起こるのを感じた。 彼の頬を撫でた時のように、唇に触れるのは心地よいかもしれない。そんなところから 始まった思いが、やがて、そこに触れてみたいという欲求へと変化していったのだ。 (柔らかそう……) レイはそっと指を伸ばし、シンジの下唇に当ててみた。すると唇の間からふっと息が漏 れ、指先が軽くくすぐられる。ただそれだけのことなのに、レイの背筋には軽い震えが走 り、体全体がカッと熱くなるのだった。 『ママ、パパに、いってらっしゃいのチュ〜はしないの?』 唇に意識を集中させていたせいか、キミちゃんの言葉が脳裏で蘇る。 キス。唇と唇を重ねあう行為。互いに好意を持つ者同士が行うらしい。当然ながらとい うべきか、レイにキスをした経験などない。 『レ〜イ〜、早くしてあげたら〜? いってらっしゃいのチュ〜』 そんなミサトの囁きが、レイの欲求の火に油を注ぎ、正常な思考力を奪っていく。 キスとは一体どんなものなのだろう。自分はあの時、彼にキスをすべきだったのだろう か。彼もそれを望んでいたのだろうか。 混乱する思いと、少しだけ荒くなった息を持て余しながら、レイは自らの唇を、シンジ のそれへと徐々に近付けていった。 口から吐息が漏れる音が、ひどく間近で聞こえるような気がする。それが自分のものか 相手のものかも分からないまま、互いの鼻が触れそうなところまで二人の距離が縮まって いく。あと少し、もう少し。そして、ついに二人の唇が一つに重なろうかという時のこと だった。 「ママぁ、おしっこ〜」 背後から突然かけられた声に、弾かれたようにレイの体が震えた。 動揺する心を懸命に宥め、背後を振り返ってみると、眠そうな目を擦りながらキミちゃ んがパジャマの裾を掴んでいた。 自分は一体何をしようとしていたのだろう。 熱に浮かされた一時の真っ只中、頭から冷水を浴びせられたようだった。 荒い息がまだ完全に収まりきらない中、キミちゃんの手を取りトイレへと向かうレイ。 やがて用を済ませ部屋に戻った後、レイとキミちゃんは、元々シンジが眠っていた布団 で休息を取ることにした。特別そうしなければならない理由は、少なくともレイの側には ない。だがこの夜ばかりは、シンジと同じ布団に入ることが躊躇われたのだった。 翌朝、レイはシンジが起きるよりも先に布団を出て、浴室へと向かった。 冷たい水のシャワーを浴びながら、落ち着いて昨夜のことを振り返ってみると、レイな りに心の整理が付いたような気がした。きっとあれは、一時的な心の迷いなのだろう。シ ンジと同じように半分寝ぼけていた自分は、経験したことのない状況に置かれ軽い混乱状 態にあったのだ。 少なくともその時は、そう割り切ることが出来た。 だが洗面所を出て、ダイニングでシンジと顔を合わせた瞬間、そんな割り切りはどこか へと消えてしまっていた。 「あ、あの、お、おはよう……」 レイの顔を見るなり真っ赤になり、口ごもるシンジ。 おそらく朝起きてみて、自分とレイの寝場所が入れ替わっているのに気づいたのだろう。 そんな相手の反応につられてか、レイの中でも昨夜の記憶が鮮明な映像と共に蘇り、そ の白皙の頬は見る間に赤く染まっていった。 「き、昨日はゴメン……。僕、その……」 「別に、いい……。碇くんは、何もしていないもの……」 それだけ言うと、レイは踵を返し、逃げるように部屋へと戻った。それ以上、シンジの 顔を正視することができなかったのだ。 寝ぼけていたなどというのは、後付の言い訳に過ぎない。あれは、自分の中の何かが望 んだ行為だった。レイはその結論と向き合わざるを得なかった。自分の中に存在する、自 分ではコントロールできなかった何か。その得体の知れない力と、それに流されるままだ った自分自身に、レイは戸惑いを覚えていた。 もしかすると自分は、シンジという存在に何かを求めだしているのだろうか。今得てい る以上の心地よさを、欲し始めているのだろうか。 戸惑い揺れ動く心を胸に抱えながら、レイはもう一度布団に入り思い悩むのだった。 キミちゃんがやってきて数ヶ月が経つと、その周りの人々は、キミちゃんがそこにいる 光景が当たり前のような、そんな感覚を持つようになっていた。 朝が来ると、安全運転を誓ったミサトがキミちゃんを幼稚園まで送り、学校が終わると シンジとレイが迎えに出向く。そして夕飯の買い物を一緒にし、一緒にテレビを見た後は お風呂に入り、一日の最後には添い寝をしながら絵本を読む。そんな生活が続く内、シン ジは、キミちゃんがいる生活がずっと昔から続いているような、そしてこれからもずっと 続いていくような気になるのだった。 唯一気に掛かるのは、少女の身元調査に全く進展がないことだった。だがそのせいでこ の生活が続くのなら、それも悪くはないのかもしれない。そんな不謹慎な考えが浮かんで くるくらい、新しい生活は笑顔に満ちていた。 「パパ〜、ママ〜」 キミちゃんの声がネルフ本部内の休憩用ロビーに響く。 エヴァのテスト中ずっと幼稚園で待っていたキミちゃんが、こぼれんばかりの笑顔と共 に、シンジとレイに駆け寄っていく。無邪気で可愛らしい少女の様子に、その場にいたス タッフの心も束の間ほぐされていくのだった。 未だにどこから来たのかすら分からない少女は、ネルフという組織と、それに関わる人 々の中で、何かを変えつつあった。 そしてそれは、決して溶けることのない凍りついた心を持つ、ある男の中でも同じだっ た。 「あ、司令……」 その場に現れた男の姿に気がつくと、スタッフ全員が慌てて立ちあがり敬礼を施す。 それに対し目線だけ返すと、脇に冬月を伴ったゲンドウは、その場にいたリツコに声を かけた。 「どうかね、調子は」 「はい、三人とも調子はすこぶる良好です。これで三日続けてシンクロ率の最高値を更新 しました」 「そうか」 「ねえジ〜ジ、だっこして、だっこ〜」 「む……」 「ジ〜ジ、早くだっこ〜」 甘えた声でおねだりをする天真爛漫な少女に、冷血という言葉を形にしたかのような男 の対峙。水と油以上に混じり合わない二つの個性の激突に、周囲のスタッフは思わず息を 潜め、その様子を伺っていた。 ザワリ。 だが、しばしその様子を見つめた末、ゆっくりとキミちゃんを抱き上げたゲンドウに、 職員たちの間に言葉にならない驚愕が走った。 畏怖の対象ではあっても、親しみを感じることなど決してなかった自分たちの上司。だ がゲンドウが見せた思わぬ形での人間味は、良い意味での衝撃を周囲に与えるものだった。 「あれ? ジ〜ジ、けがしちゃったの?」 「む……」 ゲンドウの首全体を覆うギプスを、キミちゃんが不思議そうに見つめる。それは、先日 誰かさんに首を捻られた時の負傷であった。だがキミちゃんがそれに気づいた様子はなく、 ひどく心配そうな表情を浮かべゲンドウの顔色を伺う。 「ジ〜ジ、ここいたいの?」 「もう大したことはない」 「でも、けがしちゃったんだ……」 「おまえが気にすることはない」 「ジ〜ジ、ホントにだいじょうぶ? あたしが、いっつもママがしてくれるおまじないを してあげようか?」 「む?」 「ママのおまじないはね、とってもよく効くんだよ。だからあたしがそれをしてあげるね」 そう言うや否や、ゲンドウの返事を待つことなく、少女は首のギプスに両手をかざした。 やがてその口からは、魔法使いが呪文を唱えるような口調と共に、言葉が紡ぎ出されてい く。 「ジ〜ジのいたいのいたいのとんでいけ〜」 「む……」 「ね、ジ〜ジ、もう痛くないでしょ?」 「ふ……。問題ない」 「う? もんだい?」 「……痛くはないということだ」 「そうでしょ? えへへ〜、ジ〜ジよかったね〜」 満面の笑みを浮かべ、ゲンドウの頭をクシャクシャと撫でるキミちゃん。それに対する 男の反応に、同伴していた冬月は軽く目を見張った。碇ユイが消えて以来、ずっと失われ ていた微かな笑顔。十年以上の歳月を経て、ゲンドウにかつての温かな日々の面影が宿っ ていたのである。 「ね、ジ〜ジ、そういえばジ〜ジのいそがしくない日はもうきまった?」 「む……。まだだ」 「それじゃあ、それはいつきまるの?」 「うむ……」 「ジ〜ジ、はやくいそがしくない日をきめて。あたしね、はやくジ〜ジのお家に遊びに行 きたいの」 「問題ない……」 「もんだい? なにそれ? ジ〜ジ、あたしわかんないよ」 「む、それは……」 次から次へと相手を質問攻めにするキミちゃんと、しどろもどろになりながらも、一々 律儀に対応しようとするゲンドウ。 (まさか、この男のこんな顔をもう一度見ることになるとは……) 冬月の脳裏では、ユイが遠い昔に残した言葉が蘇っていた。なるほど、確かにこの男は 可愛いやつなのかもしれん。かつての思い出と共に二人の様子を眺めていると、不覚にも 笑みが零れそうになり、冬月は咳払いと共に慌ててそれを隠すのだった。
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