夕食後の葛城家のリビングに、シンジが奏でるチェロの音色が響き渡っていた。
 伸びやかに、時に緩やかに、美しい音の流れが優しく耳をくすぐる。そして紡ぎ出され
る旋律は、束の間ながら、聴く者を安息の世界へといざなうのだった。
 演奏者を囲むように椅子を並べ、小さな独演会を楽しんでいた聴衆は四人。
 ミサトは軽く目を閉じ、心地よい音の流れに身を任せるかのように、僅かにその体をユ
ラユラと揺らしている。
 その隣のアスカは、普段の勝気な様子も今は影を潜め、十四才の少女らしい素直な表情
と共に、演奏に耳を傾けている。
 レイの表情にはそれほど変化がないように見えるが、例えばシンジなどが見れば、彼女
が微かに目を細めているのが分かっただろう。
 そしてレイの膝の上に抱かれたキミちゃんは、シンジの演奏を少しでも聞き逃すまいと、
身を乗り出すようにしていた。
 やがてシンジが最後の小節を演奏し終え、奏でられた音の残滓が空気に溶け込んでいく。
すると自然と沸き起こる拍手と共に、それぞれがそれぞれの言葉で賞賛の言葉を送り始め
た。

「やるじゃないシンちゃん。家にこんな名演奏家がいたなんて知らなかったわ」
「ま、あんまり練習してないにしては上出来じゃない」
「すごいね〜、パパじょうず〜」
「あ、あの、ありがとう。でも何か、こういうのって照れちゃうな」

 そんな中、沈黙を続ける少女がただ一人。言わずと知れたレイである。決してシンジの
演奏に感銘を受けていないわけではない。奏でられた音楽は心地よいものだったし、感謝
の気持ちをシンジへ伝えたいとも思っている。だがこの少女の場合、自らの思いを言葉に
する術を知らないのだった。
 一方シンジはシンジで、周りからの賛辞に礼を言いつつも、視界の片隅では一番気にな
るレイの反応を伺っていた。
 本人たちがそれに気づいているかは定かではないが、そんな微妙な雰囲気は自然と周囲
に伝わってしまうものである。キミちゃんはともかくとして、ミサトにはシンジとレイの
心境が手に取るように分かったし、アスカに至っては、どうにも煮え切らない二人がもど
かしくすらあった。

「ほら、ファースト」
「……何?」
「アンタもさあ、黙ってないで何か言ったらどうなのよ。アンタの愛しのシンジ様が、さ
っきから感想を待ってるわよ」

 アスカにつられ視線を向けると、そこには、少し不安そうにこちらを見つめるシンジの
姿があった。見られていることに気づいたシンジはすぐに表情を消したが、レイの瞳は一
瞬早くそれを捉えていた。

「ア、アスカ、何言ってるんだよ、僕は別に……。こんな風に演奏するのは久しぶりだし、
細かいミスも一杯あったから、ホント、そんなに誉めてもらうような出来じゃないんだ。
だから、綾波も無理に感想なんか言わなくていいから」
「そんなこと言っちゃってさ、本当はファーストのお褒めの言葉が欲しくてたまらないく
せに」

 ウリウリ、とアスカが肘でつつくと、途端に赤面してしまうのがシンジのウブなところ
である。

「そ、そんなことないよ。だから、綾波も気にしないでね」
「あら、シンちゃんったらそんなこと言っちゃって、痩せ我慢は良くないわよん」
「な、何言ってるんですかミサトさん! 綾波、あの、ホントに気にしなくていいからね。
あ、そ、そうだ、僕、お風呂に入らなくちゃ。君もまだでしょ? 一緒にお風呂入らない?

「おふろ? うん、はいる〜」

 その場を逃れるため強引に話題を切り替えると、シンジはあたふたとチェロを片付け始
めた。そして一旦部屋に戻った後、キミちゃんの手を取り、逃げるようにして風呂場へと
向かう。そんなシンジをレイは不思議そうに見つめ、ミサトはやれやれと苦笑を漏らし、
アンタたちってホントにバカね、とアスカは軽く肩をすくめるのだった。



Kimiの名は −第六話−



「はい、じゃあ流すからちゃんと目をつぶってね」
「うん、パパ、早くね」
「それじゃいくよ」

 バスルームにシンジの声がこだまし、子供用のシャンプーハットを被ったキミちゃんが
ギュッと目を閉じた。シャワーの蛇口を捻ると、勢い良く流れ出したお湯が、キミちゃん
の髪についた泡を徐々に洗い流していく。

「はい、おしまい。じゃ、あとはもう一度お湯に入って上がろうか」
「は〜い」

 元気良く返事をするキミちゃんをひょいと抱き上げると、シンジは湯船に浸かり、少女
を自分の膝の上に座らせた。

「ふ〜、いいお湯だね〜、パパぁ」
「あはは。どこでそんな言葉覚えたの?」
「ミサトおばちゃんが前にそういってたの。そいでね、おふろのあとはビールがさいこう
なんだって」
「あはは、そうなんだ。ミサトさんとお風呂に入るときは、いつもそんな話をしてるの?」
「うんとね、ミサトおばちゃんはね、あたしのおうちの話とか、よーちえんのこととか話
すの。あとこないだはね、パパとママのいってらっしゃいのチュ〜のことを教えてあげた
んだよ」
「そ、そうなんだ……」
「うん。そいでね、アスカおねえちゃんはね、いいおんなっていうのは、どうしたらなれ
るか、おしえてくれるんだよ」
「ぷ、何だよそれ」

 キミちゃんにミサトとアスカの話が本当に分かっているのか、かなり疑問である。だが
二人のことを嬉しそうに話すその表情は、ひどく可愛らしいものだった。

「そいでね〜、ママとはいっつもパパの話をするんだよ」
「僕の、話?」
「うん、ママはね、あんまりおしゃべりしないけど、でもパパのことは話をするの」
「そうなんだ……」
「そいで昨日はね、ママはどうしてパパのことが好きになったのって聞いたんだよ」

 さらりと言ってのけるキミちゃんに、シンジは急に湯あたりしたかのように、頭がくら
くらするのを感じた。
 それで、綾波は何て言ってたの?
 その言葉が舌の先まで出かかったが、シンジにはどうしてもそれを尋ねることができな
かった。

「でもねパパ。あたしね、ちょっとふしぎなの……」
「不思議って、何が?」
「ママ、どうしてニッコリしないのかな?」
「え?」
「あのね、パパのことを見てるときとか、パパの話をするときはね、ママ嬉しそうにして
るの。でもね、ママがパパとお話するときはそれがどこかにいっちゃうの。さっきパパの
チェロをきいてるときもね、ママ、ホワ〜ンってしてたのに、パパと話してたら、ママ笑
わなくなっちゃったの」
「……」
「ねえパパ、ママどうしたのかな。急におなかが痛くなっちゃったのかな?」

 首をかしげながら自分のお腹をさするキミちゃんに、シンジは軽い笑みを漏らした。

「それは、ちょっと違うと思うけどな」
「う〜、じゃあどうしてだろうね」
「う〜ん、そうだね……」
「パパもさ、ママが笑ってるほうがいいでしょ?」
「え?」
「パパも、ニッコリしてるママのほうが好きだよね?」
「ぼ、僕は、好きっていうか……」
「う? パパ、ママのこと好きじゃないの?」
「あ、いや、そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ好きでしょ?」
「えっと、何て言うか、その……」

 シンジは返答に詰まったが、キミちゃんの言葉を否定することはできなかった。
 二子山でレイが見せた笑顔は、消そうと思っても消せないくらいの印象を、シンジの中
に残している。思えばあの笑顔がきっかけで、レイの存在がシンジの心にはっきり刻み込
まれたのだった。あんなに綺麗に微笑むことができるのに、どうして普段は感情の欠片も
見せないのだろう。それが気になりだしたのが、全ての始まりだったのだ。

「そうだね……。僕も、笑っている綾波は好きだよ」
「そうでしょ? ママ、もっとニコニコしたほうがいいよね」
「うん……。でもね、ちょっと前までの綾波は、全然笑うことなんかなかったんだよ」
「う?」
「何かを話しかけても、こっちの話を聞いているのか分からないし、自分からも本当に必
要なことしか喋らないし。そういえば、視線もあんまり合わせてくれなかったな。あの頃
の綾波って、他の人を寄せ付けない、声をかけにくい雰囲気があったんだ」
「……」
「初めて会った頃は、綾波と顔を合わせるってだけで、すごく緊張してた気がする。だか
ら最初は、綾波の笑うところなんて想像もできなかったんだ……」

 会話の端々に散りばめられた難しい言葉を、三才の少女が理解できたはずがない。だが
シンジの口調と表情を見て、キミちゃんも、そこに何か複雑なものが絡んでいるというの
は、十分感じ取れたようだった。

「……ね、パパはどうしてママが好きになったの?」
「僕は……」

 そう言ったきり、シンジは少しの間じっと考え込んだ。

「……笑ってくれたんだ」

 それはキミちゃんへ語りかけるというよりも、胸の中の自分の想いをなぞり、それを言
葉という形にして再確認しているかのようだった。

「自分にはエヴァ以外に何もないって、そう言っていた綾波が、笑ってくれたんだ……。
僕はさ、いつかまた、綾波があんな風に笑ってくれたらいいなって、そんなことを考えて
て……。それからかな、綾波のことが気になりだしたのは……」

 それまで何となく意識しつつも、向き合うことを避けてきた自分の想い。だがそれを言
葉にしたことで、シンジは、胸の中の何かがはっきりした形をとり始めたように思えた。

「よくわかんないけど、でも、やっぱりパパはママのことが好きなんでしょ?」
「そう、かな……。君はそう思う?」
「うん、ぜったいそうだよ。だってあたしもね、ママがニコニコしてると嬉しいの。そい
で、あたしはママのことがだいすきなの。だからあたしとおんなじで、パパもママのこと
がだいすきなんだよ」
「ふふ、そうかな、そうかもしれないね」
「うん、ぜ〜ったいそうだよ」

 そう言って、キミちゃんが無邪気に笑う。それにつられて、シンジも軽く口元を綻ばせ
た。
 ひょんなことで始まったこの同居生活。こうした形で同じ部屋で暮らすようになって、
レイは少し変わった。シンジの中にはそんな思いがあった。その心の変化は、ヨチヨチ歩
きをはじめた赤ん坊のように、ゆっくりとしたものかもしれない。だが今のような時間が
続き、ミサト、アスカ、キミちゃんと共にいる内、いつかまたレイがあの微笑みを浮かべ
てくれるのではないか。
 シンジはそんな希望を持ち始めていた。





 カーラジオから流れる音楽をBGMに、ミサトの駆る愛車が自宅への道を疾走する。窓
の外の光景は既に闇に覆われ、時折後方に流れていく街灯の光以外には、識別できるもの
もあまりなかった。
 ステアリングを握るミサトの脇、助手席のシートにはレイの姿があった。テストデータ
の不具合のため居残りを命じられたレイは、共に上がりとなったミサトに誘われ、一緒に
帰宅することになったのだ。
 ミサトの記憶にある限り、レイと二人だけで帰宅の途についたことは、それまで一度も
なかった。一緒に暮らすようになってからは、常にシンジやキミちゃんの姿が傍にあった
ため、一対一で会話を交わす機会もなかったように思える。ましてやレイとの共同生活が
始まる前は、その接点はネルフ本部というただ一つの場所だけだった。

(それにしても、不思議なものね……)

 レイの姿を視界の隅で捕らえながら、ミサトはそんなことを思った。少し前までなら、
今日のような状況で自分はレイに声をかけていただろうか。そしてレイはその申し出を受
けていただろうか。
 以前は別々の部屋に住んでいたという事情を差し引いても、ミサトはその自問に確信を
持って答えることができなかった。時として自らの過去を思い起こさせるその少女は、敬
遠とは言わぬまでも、ミサトにとって軽く声をかけられる存在ではなかったのだ。

(でも、今は……)

 と、ミサトは思う。同じ部屋で共に時間を過ごす内、レイと、レイに対する周囲の姿勢
は確かに変わっていた。本人がそれに気づいているかは定かでないが、ミサトはハッキリ
とそれを感じていた。
 以前ならばどこを見つめているのか分からなかったレイの視線の先には、今では決まっ
てキミちゃんやシンジの姿がある。また少し前と比べれば、少女の喜怒哀楽の表現もずっ
と豊かになっていた。そしてそんな変化に影響を受けてか、周囲の人間も、レイに対する
腫れ物に触るような扱いを、少しずつではあるが改めつつあった。
 レイのそうした変化は、かつての自分の精神的な回復と重なるものがあり、何とも言え
ない感慨をミサトに与えるのだった。そして変わりつつあるレイを見ていると、お節介だ
と分かっていつつも、彼女がもう一歩だけ前に踏み出す手助けをしてあげたいと、そう思
うのだった。

「ふう、今日も遅くなっちゃたわね。早く家に帰って晩御飯が食べたいわ〜。レイもお腹
すいたでしょ?」
「……はい」
「う〜ん、今日の夕食は何かしらね〜。久しぶりにお蕎麦系のものでも食べたいんだけど
な〜。そんでビールの一杯でもありゃあ幸せだわね〜」

 などと、今はまだ遥か彼方の食卓に思いを馳せていると、レイがポツリと呟いた。

「……冷麦」
「ん?」
「……今日は、冷麦だと言っていました」
「冷麦って、夕飯のこと?」
「……はい」
「おっ、そうなんだラッキー。ここんとこ暑くて湿気もあるからさあ、やっぱ夜はそうい
うさっぱりしたものがいいわよね〜」

 半分は独り言のつもりで、残りの半分でレイの相槌を密かに期待しつつ、明るい声を上
げるミサト。だが助手席の少女は、表情を変えずジッと俯いたままだった。

(やっぱまだ、シンちゃんのようにうまく会話は進められないか。でも、返事をしてくれ
ただけマシかな。少し前だったらきっと黙殺されてただけだろうし……)

 そんなことを思いつつ、ミサトは軽い口調のまま更に続けた。

「シンちゃんの料理といえばさ、アスカに聞いたわよ。レイったら、最近シンちゃんの料
理を手伝ってるんだって?」
「……はい」

 シンジの話題が出た途端、レイの視線がキョトキョトと落ち着かなくなる。それに気づ
いたミサトは、内から込み上げる笑みをそのまま表に出した。

「えへへ〜、アスカがボヤいてたわよ。シンちゃんとレイのせいで、キッチンだけ違う空
気が漂ってて、一人者には目の毒だってさ」
「……」
「それにしても、シンちゃんとレイが二人でご飯を作るなんてねえ。な〜んか二人の行く
末が見える気がするわね〜。レイったらもう、シンちゃんのお嫁さんへの道まっしぐらっ
て感じかしらん?」

 シンジのお嫁さんという一言に、見る見るうちにレイの頬は赤く染まっていった。だが
幸か不幸か、ケラケラと笑い声をあげるミサトがそれに気づいた様子はなかった。

「でもさ、どうしてまた急にシンジ君を手伝い始めたわけ? シンジ君に手伝ってほしい
って言われたの?」
「……いえ」
「じゃあ、レイの方から手伝いたいって言ったんだ?」
「……はい」
「そうなんだ、偉いじゃない。そしたらシンちゃんは何て? あの子のことだから、照れ
ちゃって何も言えなかったかな?」

 その時のシンジの様子を想像し、屈託のない笑みを浮かべるミサトだったが、それも長
くは続かなかった。

「……ありがとう」
「え?」
「……ありがとう、と言われました」
「……あ、そう、なんだ」

 レイの答えが予想と違っていたこと、その声色から、少女が発したとは思えないほど柔
らかなものを感じたこと。その二つの理由から、ミサトの言葉が中途半端に途切れたもの
になる。

(ありがとう、か……。シンちゃんのことだから、顔を真っ赤にして何も言えないかと思
ったけど……。それにしてもあのレイが、自分から他人の手伝いをしようとするなんてね)

 だがそれも、相手がシンジだからなのだろう。
 からかいの虫がムクムクと鎌首をもたげ始め、少し冷やかしてやろうと口を開きかける
ミサト。だが、レイが浮かべている表情に出かかった言葉を思わず飲みこんだ。

(あ……)

 元々極端に表情の乏しい少女ゆえ、傍目にそれがすぐ分かるわけではない。だがミサト
の目には、頬を赤らめるレイが、微かに微笑んでいるように見えたのだ。

(この子、こんな風に笑うんだ……)

 だがもしかすると、笑う、という言葉は的を射ていないかもしれない。ミサトはふとそ
んなことを思った。その微笑は、シンジに対するレイの思いや、彼を思う時の安らいだ気
持ちの一つの形なのだろう。
 少しだけ目を細め、柔かな雰囲気をその身に纏うレイ。ミサトはその中に、もう遠い昔
に自分が失ってしまった何かを見たような気がした。

「ねえ、レイ……」

 それまでのからかうような口調を改め、意識的に声のトーンを落とすと、ミサトは優し
い口調でレイに語りかけた。

「あなたが私の部屋に来てから感じていたんだけど、私は、最近のあなたが少し変わった
と思うの。色々な表情を表に出すようになったし、他人との付き合い方も、前に比べれば
ずっと良くなったと思うから」
「……」
「こんなこと言ったらあれかもしれないけれど、正直、前のあなたからはあまりそういう
ことを感じなかったから……」
「……私には、よく分かりません」
「そうね、自分自身の変化って中々自覚できないものかもしれない。でも私の部屋に来て
から、あなたは確かに変わっているわ。それもいい方向に。きっとそんな風に思っている
のは、私だけじゃないはずよ」
「……」
「それも、キミちゃんやシンジ君のおかげかもしれないわね」
「……そうかもしれません」
「ええ、きっとそうよ」

 静かで慈愛に満ちた声で、ミサトは更に続けた。

「ね、レイ」
「……はい」
「レイはさ、シンちゃんのこと、どう思ってる?」

 何の前触れもない突然の問いかけに、レイの体がほんの僅か震えた。

「……分かりません」
「……じゃあ、シンちゃんのこと、好き?」

 より具体的で核心を突く問いかけに、俯き、ジッと考え込むレイ。ミサトの目には、レ
イが自らの心の海の奥底で、自分自身の思いの欠片を探しているように見えた。
 どんなに時間が掛かったとしても、ミサトはレイの答えを待ち続けるつもりだった。レ
イが同世代の子供と比べて感情に乏しいのは明らかなこと。ならば自らの内にある思いは、
他の誰でもない、レイ自身が見つけ出すよりないのだから。

「……私には、分かりません」

 沈黙が数分続いた後、無理矢理言葉を搾り出したかのような、掠れた声でレイは答えた。
 この子が分からないのは、好きという気持ちがどんなものなのか、自分の中の思いをど
んな言葉にしたらいいのか、そうしたことなのかもしれない。根拠などどこにもないが、
ミサトにはそんな風に思えた。

「……葛城三佐」
「ん、何?」
「……誰かを好きになるとは、どんな気持ちですか?」
「そうね、きっとその答えは、もうあなたの中にあると思うんだけどな……」
「……」
「シンジ君と一緒にいると、レイはどんな気持ちになる?」
「……不思議な気持ち。頬が熱くなって、時折胸の奥が苦しくなるような……」
「そういうのは、好き?」
「……嫌いでは、ありません」
「じゃあレイは、シンジ君とずっと一緒にいたいなって思う?」
「私は……」

 それっきり黙りこんでしまったレイに、ミサトは問いかけの角度を変えることにした。

「ねえレイ。じゃあ、シンジ君はレイのことどう思ってるのかしらね?」

 すると、ビクリと目に見えてレイの体が震える。その表情には劇的な変化は見られない
ものの、その目は、誰か縋る相手を求めるかのように不安の色に満ちていた。

「レイは、今までそういうことを考えたことある?」
「……少し」
「シンジ君のことね?」
「……はい」
「それが気になる?」
「……はい」
「そっか。じゃあ、シンジ君に聞いてみたら?」

 と、意図的に作り出した軽い口調と共にミサトが告げる。ジッと押し黙ったままのレイ
に、そう単純なものではないということは重々理解しつつ、それでもミサトは故意にけし
かけるような言葉を続けた。

「それが気になるんなら、本人に聞いてみるのが一番いいと思わない?」
「私は……」
「私は?」
「……」
「それとも、それを聞くのは怖い?」

 ミサトの言葉に、レイはほんの少しだけ頷いた。

「そっか……。レイは、シンジ君に恋をしているのね」

 するとレイは俯かせていた顔を上げ、ミサトと視線を合わせた。

「恋……」
「そ、恋……」
「……私には、分かりません」

 そう答えるレイの声は軽く震えていた。おそらくその内では、様々な感情や想いが入り
乱れ、その波を持て余す少女は混乱の極致にあるのだろう。ミサトは優しく微笑むと、さ
らに言葉を続けた。

「ねえレイ……」
「……はい」
「私はね、好きだとか恋をしているとか、あなたの気持ちをどんな言葉で表すか、それは
大事なことじゃないと思うの。人の想いは、言葉だけで表しきれるものじゃないから……」
「……」
「大事なのは、今あなたの中にある想いそのものよ。だから、その気持ちを忘れないで。
あなたのシンジ君への想い、大事にして。それはこれから生きていく上で、あなたの心を
きっと豊かにしてくれるはずだから……」
「……はい」

 車内には再び沈黙が舞い降り、カーラジオから漏れるジャズサックスの音が、少し物悲
しく響く。
 ミサトは、まるで自分が年の離れた妹と話をしているような、不思議な気分になってい
た。チラリと横目で見やると、再び顔を俯かせたレイは、頬を薔薇色に染めながら、何か
物思いに耽っている。この世間知らずでとっつきにくいと思っていた少女は、その胸の中
に、淡い輝きを放つ純粋な思いを秘めていたのだ。
 そんなレイを知った今、ミサトの心は様々な想いに満たされていた。
 一方では、何故もっと早くレイのそんな一面に気づかなかったのかと、胸の中を罪悪感
と後悔が蝕んでいく。だがそれと同時に、少女の初々しくも真っ直ぐな想いを、正しい方
向へと導いてあげたいと、強い決意のようなものも沸々と沸き上がってくるのだった。



 やがて車はマンションへと到着し、レイは一足先に車を降りた。
 ふと見上げると、あの少年が待っているはずの部屋には玄関灯が灯っている。
 レイには分からなかった。
 今自分の胸に渦巻くこの感情のうねりは、言葉にできないこの想いは一体何なのだろう。
もしこれが恋心だというのなら、自分は彼に、そして自分自身に何を望んでいるのだろう。
 レイはそれまで、未来のことなど考えたことはなかった。明日へと続く道を、シンジと
共に歩んでいけるなど想像したこともなかった。打ち寄せては返す波のように、当たり前
のようにやってくる今日をただ生きていく。そしてそれを積み重ねる内、いつの日か全て
の終焉が待ちうけている。自分はただそれを待てばいい。
 それだけのはずだった。
 それでいいと思っていた。
 それなのに、今そのことに思いを巡らせると、胸の辺りがグッと絞め付けられるような、
ひどく息苦しい感覚を覚える。自らの心の器が、それまで知らなかった感情の色で満たさ
れていくような、そんな気がするのだ。

(私、どうしてそんなことを思うの……?)

 どんなに思考を巡らせてみても、心細げに一人佇むレイには、その疑問に対する答えを
見つけ出すことはできなかった。



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