「悪いわね、待たせちゃった?」
「いや、俺もついさっき来たところだ」
「あら、じゃあもう少し待たせた方がよかったかしら?」
「それも悪くないかもな。待ち合わせの相手を待つのは、案外楽しいものさ。待たされて
いる相手が葛城なら、それも尚更だな」
「何言ってんのよ、ぶわぁ〜か」

 その口調とは裏腹に、笑顔を浮かべながらミサトが椅子に座ると、その向かいに腰を下
ろす加持もとぼけた笑みを返す。昼食時のピークを過ぎ、ようやく一息ついたネルフ本部
の食堂は、利用する職員の姿もまばらだった。

「あら、今来たっていう割には、もう飲み物を頼んでたのね」
「ああ、まあな。葛城は?」
「あたしはアイスティーを」

 そう言ってテーブルに紙コップを置いたミサトは、加持のカップの中身をチラリと覗き
見た。

「ねえ加持君、注文した後でこんなこと言うのもなんだけど、ここのコーヒーはあんまり
お勧めしないわよ」
「ん、どうもそうみたいだな」
「ええ、使ってる豆をケチってるのか知らないけど、コクも香りも今一つなのよね、ここ
のコーヒーって。激務で疲れきった職員のため、碇司令もそういうところに気を使ってく
れればいいのに」
「ま、えてして職場の食堂なんてそんなものさ。それに、ネルフが職員の福利厚生に熱心
だとは聞いたことがない」
「違いないわね」

 その内に含むところがあるのか、ミサトと加持は顔を見合わせると、軽い忍び笑いを漏
らした。

「さてと。それじゃ、早速本題に入りたいんだけど」
「ああ。だが本題と言われてもな。正直なところ、あまりいい報告はない」
「やっぱり全然なわけ?」
「単刀直入に言えばそうだ。情けない話だが」
「そっか……。でも加持君でダメなら、ウチの諜報部を総動員したところで、結果は同じ
でしょうね」
「高い評価痛み入るよ」
「でも、手がかりの欠片も見つけられないの?」

 半信半疑のミサトの問いかけに、加持は浮かべていた自嘲気味の笑みを消すと、表情を
改め語り始めた。

「ああ、全くない。……なさすぎる、と言っていいくらいにな」
「なさすぎる?」
「ああ。言うまでもないが、人間この世に生を受けたからには、何かしらの形で、その存
在を証明するものがある。戸籍というのはその最たる例だな。その他にも出生届、婚姻届、
そして人生の終わりには死亡届がある」
「ええ」
「だがあの子の場合、そうしたものが全くないんだ。もちろんセカンドインパクト直後の
ように、戸籍にない人間が実際は存在していることがある、なんてのは重々承知の上さ。
だが話を聞いていると、あの子はごくまっとうな家庭で育てられたようじゃないか」
「そうね、性格も素直だし、あんなに楽しそうに父親と母親のことを話すんだもの。きっ
と両親には愛されていたんでしょうね」
「だろう? それなのに、あの子の存在を証明するものは全くない。こいつはいかにも不
自然だ。そう思わないか?」
「ええ」
「となるとだ。残された可能性はそれほど多くはない。例えば、何者かによって過去の経
歴が全て消されたか、或いはそんなものは初めから存在しないか……」
「……何が、言いたいの」

 口に運びかけたコップがピタリと止まり、細められたミサトの目が鋭い光を放つ。だが
加持はそんな視線に怯むことなく、淡々と言葉を続けた。

「何か確かなことが言えるような、そんな材料は俺も持っていないさ。だがな葛城、俺は
今回の件に関しては、どうも裏に一筋縄ではいかないものを感じるんだが……」

 その加持の言葉には答えず、ミサトはただ軽い溜息をついたが、やがて重い口を開いた。

「ねえ加持君」
「ん?」
「もし、もしもよ、このままずっとあの子の両親が見つからなかったら……」
「ああ……」
「私、あの子を家で正式に引き取ろうかって、考えてるの」
「……今の生活が、気に入っているのか?」
「そうね……。ええ、認めるわ。そしてきっとそれは、私だけじゃないと思う」
「そうか……」
「あの子が家にやって来て、色々なことが変わった気がするわ。うまく言葉にできないけ
れど、でもシンジ君もレイもアスカも、きっと今の生活を楽しんでいる、心からの笑顔を
浮かべているって、そう思うの」
「そうだな」
「あの子たちが背負っているものが、ううん、私たちが背負わせているものが、それで軽
くなるとは思わない。でもね、不思議なんだけど、もしあの子がいてくれたら、全てがい
い方向に進んでいくんじゃないかって、そんな気がするのよ……」

 そこで言葉を切ったミサトの瞳の中に、それまで目にしたことがない温かなものを見た
気がして、加持は微かに目を細めた。

「優しい目だな」
「……え?」
「優しい目だ、と言ったんだ。正直、少し妬けるな。葛城との付き合いは短くないつもり
だが、君がそんな目で俺を見てくれたことがあったか、正直確信がないよ。きっと子供た
ちだけじゃない、あの子は葛城の中でも何かを変えているのかもしれないな」

 真っ直ぐ自分を見つめたまま、感慨深げにそんなことを言う加持に、ミサトは内心で少
なからず動揺した。どうも自分は胸の内を吐露しすぎたらしい。不覚にも頬が軽く上気し
てくるのを感じたミサトは、どうにか態勢を立てなおそうと、意識して高い声をあげた。

「な、な〜にバカなこと言ってんのよ。それより加持君、話は変わるんだけどさ、あたし
加持君にちょっち相談があるんだけどな」
「おや、葛城が俺に相談とは珍しいじゃないか。一体どんな相談だ? もしそれが恋の相
談なら、喜んで受けつけるぜ」

 それまでの真剣な表情もどこへやら、とぼけた笑顔を浮かべながら、さりげなく加持が
ミサトの手を取る。だがつれなくその手を引き抜いたミサトは、ニヤリとした笑顔と共に
言った。

「あら、よく分かったわね。それなら話は早いわ」



Kimiの名は −第七話−



「お祭り……ですか?」
「そ、お祭り。どう、みんなで行ってみない?」

 ミサトが唐突にそんな話を始めたのは、シンジとレイ共作の夕食に、皆が舌鼓を打って
いた時のことだった。
 話を聞いてみると、次の土曜日に裏山の神社で、この地域では有名な祭が開かれるのだ
という。よかったらそれに皆で行ってみないか、というのがミサトの提案だった。

「ハイハ〜イ、アタシは賛成、お祭り大賛成!」

 と、アスカが元気に手をあげて、ミサトの提案に賛同の意を示す。不本意ながら修学旅
行をキャンセルしたアスカとしては、息抜きができるチャンスは一つも逃したくないので
あった。

「お、いい返事ねアスカ。じゃあアスカの参加は決定ね。レイももちろん来るでしょ?」

 向けられた笑顔に、レイは軽く考え込んだ。
 それまでお祭りに行ったことなどなかったが、特に興味を引かれるものでもないし、行
くべき理由もない。それよりも家で静かな時間を過ごしていたい。レイにはその思いのほ
うが強かった。

「私は……」

 と、レイの口が開きかける。だがその中に否定的な波長を感じ取ったのか、ミサトは遮
るようにして口を開いた。

「もちろんシンちゃんも一緒に来るわよ。ね、シンちゃん?」
「へ? あ、僕は……」
「来るわよね?」

 満面の笑みを浮かべるミサトだが、シンジは、その目があまり笑っていないのに気が付
いた。こんな時は何も言わず、黙ってその指示に従うことだ。ミサトとの同居生活の中、
シンジはそれを学んでいた。

「あ、は、はい、行きます」
「よし、んじゃシンちゃんも参加っと。キミちゃんも、お姉ちゃんたちと一緒にお祭りに
行かない? 綺麗な花火が見られるし、たこ焼きとか綿菓子とか、美味しいものもたくさ
んあるわよ〜」
「ほんと? おまつり、いく〜」
「ほらレイ、二人も一緒に行くんだからさ。あなたもいらっしゃい。ね?」

 シンジとキミちゃんという外堀を攻略し、ミサトが再度本丸攻略に取り掛かる。レイは
しばし無言だったが、その視線がまずシンジへ、そしてキミちゃんへと向けられた。

「あの、綾波、よかったら行ってみない? 折角ミサトさんが誘ってくれたんだし」
「そうだよママ、いこうよ、おまつり〜」
「……行く」
「よし、じゃあこれで全員参加ってわけね」
「あ、ねえねえミサト、折角だから加持さんも誘いましょうよ」
「ん〜、加持? あいつはちょっと仕事があるからねえ……。多分そっちの方が抜けらん
ないと思うわよ」
「え〜、何よそれ〜。だって今度の土曜って祝日でしょ?」
「そうだけど、まあ、あいつもいろいろあるのよ」
「あ〜あ、つまんないの。そんな日までせっせと働くなんて、日本人ってホントにバカが
つくくらいのワーカホリックよね。働く時は働く、休む時は休む、そのメリハリが大事な
んじゃない」

 ある意味で真実だが、同時に遠慮の欠片もないアスカのぼやき。それにミサトが苦笑を
浮かべていると、そのスカートの裾をクイクイと引っ張る手があった。

「ねえミサトおばちゃん」
「あら、どうしたのキミちゃん?」
「あのね、ジ〜ジとバ〜バにも、いっしょにおまつり行こうって、でんわしようよ」
「げ……。ジ、ジ〜ジって、碇司令のことよね……」

 当然ながら、ゲンドウと祭に行くなどミサトのプランにはなかったし、誘って、はいそ
うですかと言う相手とも思えない。加えて、昨今の減俸処分の記憶も色褪せない中、どの
面下げてそんなことを言えばいいというのか。何よりも、万が一ゲンドウが一緒に来た場
合、一行のテンションはお祭りどころかお通夜並の低さになってしまうだろう。それは避
けたいところだった。

「え、えっとねえキミちゃん、何ていうか、それはちょっと……」
「ダメなの?」
「ダ、ダメっていうか……。あ、そ、そうよ、きっとジ〜ジは色々忙しいからさ、誘って
も多分来れないわよ」
「う〜、そう……」

 あはは、と引きつった笑いを浮かべながら、ミサトが苦しい逃げを打つ。だが幸いなこ
とに、どうにかキミちゃんを納得させることができたようだった。

「てことで、今度の土曜日ね。みんなその日は他の予定なんか入れるんじゃないわよ」

 そんな経緯を経て、葛城家の面々は夏祭りへと向かうこととなった。
 だがこの時、それが自分たちにとって、ずっと後まで思い出に残るものになるとは、シ
ンジにもレイにも予想することはできなかったのだった。





 沈んでいく夕日が空を真っ赤に染め、山の上から吹き下ろす涼しい風が、人々の頬を心
地よく撫でる。
 どこかから聞こえてくる祭囃子。祭に彩りを沿える浴衣姿の女性。威勢のいい掛け声で
客の注意を引こうとする出店の親父。その日、ミサトの住むマンションの裏山は、日本の
祭り独特の活気に満ち溢れていた。
 祭りの起源など、詳しいことはミサトも知らないらしいが、それは年に一度、この地域
一帯の五穀豊穣を祝う祭なのだという。普段は人気もなく静まりかえった裏山も、この日
ばかりは、老若男女を問わず訪れた人々で賑わっていた。
 そんな祭独特の雰囲気の中、周囲からの視線を一心に集めるグループがあった。言わず
と知れたネルフ御一行である。
 白い夏百合が描かれた臙脂色の浴衣を身に着け、手に緑色の巾着袋をぶら下げるミサト
は、しっとりとした大人の色気を醸し出している。
 その隣を歩くアスカは、橙色の下地に色とりどりの打ち上げ花火が描かれた浴衣を身に
纏っていた。その鮮やかな色彩の競演は、周囲の視線を一身に集め、またその空気をパッ
と明るくするという、アスカが持つ雰囲気を象徴しているかのようだった。
 その脇でアスカに手を引かれているキミちゃんは、初めは慣れない下駄に歩きにくそう
にしていたが、もうそれにも慣れたらしい。手毬が描かれた水色の浴衣を着せてもらって
ご機嫌なのか、楽しそうな笑顔を浮かべながら、しきりに辺りの光景を見まわしている。
 そしてその後ろには、シンジと並ぶようにして歩くレイの姿があった。紺色の生地に、
白抜きと薄紫の紫陽花が描かれた浴衣、そしてその腰には山吹色の帯という着こなしは、
アスカのような華やかさこそない。

(でも、綾波にはこういう浴衣の方が似合う気がする……)

 などと、隣を歩くシンジは思うのだった。一見地味に見えるその組み合わせは、少し見
方を変えれば、レイの密やかな魅力、落ち着いた身のこなしにぴったり合っているように
思えるのだった。
 自らもグレーの浴衣を着たシンジは、レイの浴衣姿を披露された時のことを思いだし、
軽く頬を染めた。
 ミサトたち三人に対しては、少々言葉に詰りつつも、どうにか感想を述べることが出来
た。そこまではよかったのだが、最後のハードルは、シンジにとってあまりにも高いもの
だった。
 普段とはあまりに違うレイの姿、少し不安そうにこちらを見つめる視線。そうした事柄
が胸の中で複雑に絡み合い、シンジは言葉を返すことが出来なかったのである。

(でも、いきなり浴衣姿なんか見せられたら、しょうがないよ……)

 などと言い訳をしながら脇に視線を向けると、キミちゃんに何かを話しかけられている
レイの姿が目に入った。短い相槌を打ちながら、時折軽く目を細めるレイ。そんな姿を見
ていると、初めて出会ったころの無表情が、もう遠い昔のものに思えるのだった。

「……何?」
「へ?」
「今、碇くんこっちを見ていたから」
「あ、ご、ごめん、何でもないんだ。だから、気にしないで」
「……そう」

 こっそりと眺めていたつもりが、レイに気づかれてしまったらしい。シンジは慌てて謝
ると、意識を何か別のものに向けようと、周囲の光景に視線を配った。
 山の中腹の開けた広場には、先程から祭囃子が鳴り響いている。だがその割には実際に
笛を吹き太鼓を叩く人の姿が見えない。もしかするとどこかのスピーカーから、録音され
たものが流されているのかもしれない。そんなことを思いながら辺りを見回すと、祭には
欠かすことのできない出店の数々が目に入る。
 金魚すくい、ボール投げ、輪投げ、モグラ叩き。ミサトに言わせれば、セカンドインパ
クトの前からこうした風景は変わっていないのだという。こうした経験のほとんどないシ
ンジは、それを見ているだけでも心がウキウキしてきたし、ドイツ生まれのアスカに至っ
ては、見るもの全てが新鮮で仕方がないようだった。

「へ〜、これが日本のお祭りかあ。エキゾチックなところがいい感じよねえ」
「アスカはそう感じるかもしれないけど、日本人にとっては、ずっと昔からこれが当たり
前なのよ」
「ふ〜ん。あ、ねえねえシンジ、あれって何してるの?」
「あれは綿菓子を作る機械だよ。あそこのところで棒をクルクル回してると、その内食べ
られるところが棒にくっついてくるんだ」
「へ〜、面白そうじゃん。ちょっと一つ買ってくるわ」
「アスカおねえちゃん、あたしも綿菓子ほしいよ〜」
「じゃあアンタもアタシと一緒に行く?」
「いく〜」
「いいわ、今日は特別にアタシがおごってあげる。さ、いらっしゃい」
「うん!」
「アスカ〜、あんまり慌てて動くと転んじゃうわよ」
「大丈夫よ、もう慣れたもん」

 ミサトの忠告にも軽く言い放つと、アスカとキミちゃんは目をキラキラと輝かせながら
綿菓子の店へと走っていく。やがて戻ってきた二人の顔には満面の笑顔が浮かび、その手
には、お目当てのふんわりとした綿菓子が握られていた。

「アスカに買ってもらったんだね。ちゃんとありがとうは言った?」
「あ、わすれてた。アスカおねえちゃん、ありがとう」
「ま、いいってことよ。それよりさ、アンタもお祭りは初めてなんでしょ? だったら今
日はいろいろと回るわよ。ほら、行きましょ」
「うん!」

 そして二人の少女は、初めて体験する祭りというものを存分に堪能し始めた。

「あ〜、プータンのおめんだあ」
「あはは、何よこのお面、ちょっと気持ち悪〜い」

「う〜、アスカおねえちゃん、あたしあたまのところがいたいよ〜」
「カキ氷みたいに冷たいものを急に食べるからよ。もっとゆっくり味わって食べなさい」
「う〜、わかった」

「ねえアスカおねえちゃん、あれなんだろうね?」
「う〜ん、何かしら。ねえシンジ、あれ何?」
「あれはくじ引きだよ。お金を払ってくじを引くと、当たった賞品が貰えるんだ」
「ふ〜ん。それじゃ折角だからアンタやってみる?」
「うん、やる〜」

 そんな具合に、キミちゃんを連れたアスカが片端から出店を冷やかし、残りの三人はそ
の後ろを付いていく。そんな時間がしばらく続いた。
 だがそんな中、ある出店の前に差し掛かると、アスカとキミちゃんの足がピタリと止ま
ったまま動かない。それを不思議に思ったシンジは、アスカに尋ねた。

「ねえアスカ、どうしたの?」
「ん、何かこの子がさ、この店の前で止まっちゃったから」

 見ると、そこは金魚すくいの出店のようだった。赤、黒、赤白の斑、色とりどりの金魚
たちが、水槽の中をすいすいと泳ぎ回っている。色鮮やかな金魚たちに心引かれたのか、
キミちゃんは人差し指を加えながら、水槽をジッと見つめていた。

「ねえパパ……」
「ん、何?」
「あたしこれやってみたい……」
「金魚すくいかあ。金魚がほしいの?」
「うん、きんぎょ……」
「う〜ん、別に金魚すくいをするのはいいんだけど、取った金魚を飼えるかは、ミサトさ
んに聞かないと……」
「う〜、ミサトおばちゃん……」
「そうねえ、昔ペンペンがお風呂代わりに使ってた水槽があるから、飼おうと思えば飼え
るんだけど……」
「ほんと? じゃあきんぎょ飼ってもいい?」
「そうね……。それじゃキミちゃん、二つのことが約束できる?」
「やくそく?」
「そうよ。まず一つ目はね、取った金魚には、キミちゃんが毎日餌をあげること」
「うん、あたしちゃんとエサあげるよ」
「よろしい。じゃあ二つ目の約束ね」
「うん」
「これからあたしのことは、ミサトおばちゃんじゃなく、ミサトお姉ちゃんって呼ぶこと」

 その約束にどんな意味があるのか分からなかったのだろう。ポカンとしたキミちゃんが
パチパチと瞬きをしていると、アスカが呆れたように言った。

「……ミサト、ま〜だそんなこと気にしてたの」
「う、うるさいわね、アスカはおだまんなさい。どう、キミちゃん約束できる?」
「うん、だいじょうぶだよミサトおばちゃん」
「……何か、よく分かってない気もするけど、ま、いいか」

 そんな風にしてミサトからの許可が下りると、キミちゃんはシンジの手を引っ張るよう
にして、出店の主人の所へと向かった。

「ほい、いらっしゃい」
「あ、一回お願いします」
「はいよ、二百円ね。お、なんだい、こっちのお嬢ちゃんがやるのかい?」
「うん、あたしがやるの」
「そうかい。それじゃ頑張ってな」
「うん、おじさんありがと」

 礼儀正しくお礼を言うと、渡された“すくい”を手にし、キミちゃんは水槽の前に腰を
下ろした。そしてしばらくの間、その中を泳ぎまわる金魚を楽しそうに見つめていたが、
やがてどれをターゲットにするか決めたらしい。恐る恐るすくいを水槽の上にかざすと、
狙った金魚を追いかけるように動かす。
 その真剣な眼差しに周囲も息を潜める中、やがてキミちゃんはすくいを水槽の中へと向
けていったのだが……。

「あ……」

 そんな呻き声と共に固まってしまったキミちゃんに、店の主人が思わず苦笑した。
 すくいを水と水平にしたままボチャンと入れたため、金魚を乗せる中心の部分がすぐに
破れてしまったのだ。

「パパぁ、やぶけちゃった……」
「えっとね、今みたいにあんまり強く入れちゃうと、真ん中の所が簡単に破れちゃうんだ
よ。だから、次はもう少し優しくやってごらん」
「うん、わかった」

 店の主人からもう一度すくいを受け取ると、勇んで再チャレンジするするキミちゃん。
その緊張した表情につられてか、見ず知らずの他人も含め、その場の視線がキミちゃんへ
と集中する。

「あぅ……」

 ところが今度もまた、あがったのは失敗の呻き声だった。今度はあまりにゆっくりすく
いを水槽へ入れ、そのまま水の中を動かしたため、水を含んだ中心部が簡単に破れてしま
ったのだ。

「う〜、パパぁ……」
「じゃ、じゃあもう一回やってごらん」
「うん……」

 その後もキミちゃんはあきらめず、何度も再挑戦したのだが、結局その努力が報われる
ことはなかった。
 もうそれが何度目の失敗だったか、キミちゃんは水槽の中を見つめたまま、下唇をギュ
っと噛み締めていた。今にも泣き出しそうなその表情に、店の主人もあらぬ方向に視線を
向け、何となく気まずい雰囲気が立ちこめる。

「あ〜もう、見てらんないわ。大体、三歳児にこういうのをやらせようってのが間違いな
のよ。ほら、アンタもそんな顔してんじゃないわよ。貸しなさい、こんなのアタシがチョ
イチョイっと取ってやるから」
「アスカおねえちゃん、ほんと? きんぎょ取ったら、あたしにくれる?」
「まかせときなさい、こんなのアタシにかかればお茶の子さいさいよ。で、アンタはどの
金魚が欲しいの?」
「うんとね、あの黒いのがいい」
「あの出目金ね。まあ見てなさい、こんなの楽勝よ」
「でもアスカ、金魚すくいなんてやったことあるの?」
「アンタバカぁ? 日本の祭りはこれが初めてだって、さっき言ったじゃない」
「でもさ、これって結構コツがいるよ。大丈夫?」
「アンタねえ、誰に向かって口きいてんのよ。こんな単純な遊び、脇でちょっと見てたら
コツなんて簡単に掴めるわよ」
「そう簡単にいけばいいけど……」
「何よ、アンタ、アタシのことが信じられないって〜の?」
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
「ま、そこでアタシの華麗な手さばきを見ているのね」

 自信満々に言い放つと、獲物を駆るハンターのように、水槽の中へ舐めるような視線を
送るアスカ。ペロリと上唇を舐めるその姿は、狩りの女神のごとく凛々しい。やがてアス
カは、すくいをもった右手をゆっくり頭上へかざすと、電光石火の勢いで水槽へと突入さ
せた……のだが。
 ポチャン。
 そんな音を立て、一度は取りかけた出目金が再び水槽の中へと落ちていった。

「アスカおねえちゃんのも、やぶけちゃった……」
「い、今のは練習、ただのウォーミングアップってやつよ。よし、これで今日の水のコン
ディションが掴めたわ。次からが本番なんだから」
「アスカおねえちゃん、ほんとにだいじょぶ?」
「当ったり前じゃない。アタシのことを信じなさい」
「うん……」
「じゃ、気を取りなおしていくわよ!」

 ポチャン。

「や、やっぱそう簡単に取ったんじゃあ、有難味ってもんがないわよね」

 ポチャン。

「ああもう! チョロチョロ泳ぎ回るんじゃないわよ! そこでジッとしてなさい!」

 ポチャン。

「ムッキ〜!! 何なのよこれぇ!! ちょっとアンタ、これ不良品でしょ!!」

 と、ついには店の主人にまでケチをつけはじめるアスカ。

「う〜、きんぎょ……」

 その一方で、キミちゃんの目尻にはうっすらと涙が浮かび始めていた。
 シンジやミサトがキミちゃんを宥め、せめて一匹でもと再三チャレンジしたが、アスカ
の言う通りすくいが不良品なのか、何度やっても金魚を取ることはできなかった。
 残念だけど諦めようか。シンジたちの間に、そんな空気が漂い始めた時のことだった。

「……私がやるわ」
「綾波?」
「何よ、アンタ金魚すくいなんてやったことあるの?」
「いいえ。でも、大体分かった」
「大体分かったって、アンタねえ、脇で見てるのと実際にやるのじゃ大違いよ」

 などと、先程の啖呵もどこへやら、アスカがしたり顔で言う。

「知ってる。あなたのを見てたから」
「ぬぁ、ぬぁんですってえ!? 上等じゃない、じゃあやってみなさいよ!」

 鼻息も荒いアスカの挑発を流すと、レイは水槽の前で膝を折った。
 真剣な色を湛えた紅い瞳が、右へ左へゆっくり動く。色とりどりの金魚が泳ぐ中、レイ
が狙うのは、キミちゃんの欲しがっている出目金である。
 しばらく水槽の中を観察した後、やがて狙いが定まったのか、レイの視線がピタリと一
点に定まった。
 シュッ。
 そんな音を立てんばかりの素早さで、レイが右手を一閃する。すると次の瞬間には、お
椀の中に黒い出目金が一匹入っていた。

「ウ、ウソ……」
「すごいわ、やるじゃないレイ」
「やったやった〜。ママすご〜い!」
「すごいよ綾波! みんなあれだけやっても一匹も取れなかったのに」
「別に……」

 驚きと賞賛の入り混じったシンジの言葉に、素っ気無い答えを返すレイ。だがレイはレ
イなりに照れていたのだろう。軽く俯いたままあらぬ方向を見つめるその瞳は、どこか落
ち着きがなかった。

「ね、ママ、こんどはね、あの赤いのとれる?」
「……あれね」
「うん」
「綾波、頑張ってね」
「が、頑張る……」

 シンジの激励に心動かされるものがあったのか、その後もレイの快進撃は続いた。そし
て、始めに手にしたすくいが破れるまでに、お椀の中には見事三匹の金魚が入っていたの
である。

「もういいの?」
「うん、ママありがとう!」
「そう、良かったわね」

 金魚の入った袋をレイから受け取ると、嬉しそうにキミちゃんが笑った。

「ねえミサトおばちゃん。ペンペンは、きんぎょを食べないよね?」
「ああ、あの子なら大丈夫だと思うわよ。魚よりサラミの方が好きな子だもの。きちんと
言って聞かせれば大丈夫よ」
「えへへ、きんぎょ、きんぎょ」

 つい先程までの表情もどこへやら、時折袋の中の金魚を覗きこみながら、これ以上ない
くらい嬉しそうなキミちゃん。
 そんなキミちゃんを見つめるレイの目は、ほんの僅かではあるが、優しげに細められて
いくのだった。



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