「あの、ミサトさん、さっきからどこにいくつもりなんですか……?」
「ん、ちょっちね〜。もうすぐそこだから、あとちょっとの我慢よ。……っかしいわねえ、確
かこの辺のはずなんだけど


 前を行くミサトにおそるおそる声をかけると、どこか気のない返事と、何やら妙な独り
言が返ってくる。先程からしきりに周囲を窺い、何かを探す素振りのミサトに、シンジの
中では小さくない不安が膨らみ始めていた。
 花火を見るのに絶好の場所がある。
 そんな誘い文句に釣られ、境内裏の小道に入ったまでは良かった。少なくともそこまで
は、ミサトの足取りには迷いがないように思えた。
 だが小道から別れた細い道に入ると、途端にそれが怪しくなり始めた。少し立ち止まっ
てみたり、辺りの様子をキョロキョロ窺ってみたり。ミサトは何も言わないが、これでは
周囲に対し、迷っていますと声高に宣言しているようなものだ。

「ねえシンジ。あれって、完璧に道に迷ってるわよね……」
「うん、多分。そういえばミサトさんって、結構方向音痴なんだよね。僕がネルフに来た
ころ、本部の中でも迷ってたし……」

 当時は着任して間もなかったとはいえ、ミサトも本部の構造の予習くらいはしていたは
ずである。それなのに道に迷ってしまうなら、土地勘のないこの辺りでは右も左も分から
ないだろう。すぐ脇ではアスカが軽く舌を出し、ウゲ〜という表情を浮かべているが、シ
ンジも似たような気分だった。

「ねえママぁ……」
「何?」
「あたし、お家帰りたいの……」
「どうして?」
「だってここ、オバケが出そうでやだ……」
「大丈夫」
「ママ、手はなさないでね」
「ええ」

 シンジの後ろでは、キミちゃんがレイの手に縋り付くようにして歩いている。
 つい先程までは、祭囃子の音色もどうにか聞き取れたが、それもいつしか遠いものとな
り、闇に覆われた周囲の草木は沈黙を守っていた。だがどこかから涼しい風が吹きつける
と、途端に辺り一面がざわざわ音を立て始め、何ともいえない不気味な雰囲気が漂うのだ。
チルドレンたちはともかく、キミちゃんが怯え始めたのも無理はなかった。
 ミサトさん、もう戻って普通に花火見ましょうよ。
 キミちゃんの不安げな気配を感じながら、シンジがそう提案しようとした時のことだっ
た。

「あ、いたいた! あそこよあそこ」

 突然大きな声を上げ、闇の向こうを指さすミサト。その方向に全員の視線が集中する。
その先にいた人影は、ミサトの大声に一瞬ギョッとした様子を見せたが、すぐにこちらの
ことに気づいたらしい。ゆっくりシンジたちの方へ歩み寄ると、のんびりとした声で一行
を出迎えた。

「よう、みんな遅かったじゃないか。もう少し早いかと思ってたよ」
「あれ、ひょっとして……?」

 聞き覚えのあるその声に、すぐにアスカが反応した。暗がりに目を凝らしてみると、モ
スグリーンのワイシャツと、少々だらしなく緩められた首元のネクタイが見て取れる。

「あ〜、やっぱり加持さんじゃん! どうしたの、こんなとこで何してるの?」
「何って、花火見物の場所取りさ。葛城に聞いてなかったのか?」
「ううん、全然知らなかった。あ、てことはさ、さっきからミサトが探してたのって、加
持さんのことだったの?」
「ご明察ってとこかな」
「な〜んだ、じゃあ加持さんの仕事ってこのことだったんだ。そうならそうとミサトも言
ってくれればいいのに」
「ま、こういうのは勿体つけたほうが有難味があるでしょ」

 そんなやり取りの後、一行は加持の背中について小道を少し歩いた。月明かりを頼りに
四、五分ほど進むと、やがてテニスコート十面分ほどの大きさを持つ、広場のような場所
に出た。そこからは花火が打ち上げられる河原が一望でき、周囲からは時折涼しい風も吹
き付ける。山を下り河原の近くで花火を見ていたなら、溢れかえる人の波にもみくちゃに
されていただろう。だがその広場には、家族連れやカップルの姿がチラホラ見える程度だ
った。

「へ〜、結構いいところね。あ、ねえねえ、アタシ加持さんの隣ね?」
「ああ、足元に気をつけてな」
「それにしても加持君、よくこんなとこ見つけたわねえ」
「色々動き回ればこういう所も見つかるもんさ。それに、今日はいつも苦労をかけてるア
スカたちのためだからな」
「そうなんだ。ありがと、加持さん!」
「ま、気にするな。たまにはこういう息抜きもないとな」
「そうよね〜、どっかの誰かさんと違って、加持さん分かってる。あ、そういえばさ、ア
タシの浴衣どう? 似合ってる?」
「ああ、とてもいいじゃないか。正直、ここまでピッタリはまるとは思わなかったよ」
「へへ〜、アタシだって、半分は日本人の血が流れてるんだもんね。そういえばさ、日本
の男の人って、女性の浴衣姿にクラっとくるんでしょ?」
「はは、そうだなあ。だがアスカの場合は、十四歳の可愛い浴衣姿って感じだな」
「え〜、どうせなら、大人の色気を漂わせてるって言ってほしかったな」

 冗談めかした口調ながら少々不満気なアスカに、加持は苦笑を浮かべた。

「何もそう焦ることはないさ。十四歳には十四歳の魅力、二十九歳には二十九歳のそれが
あるからな」
「ちょっと加持君、それってどういう意味かしら?」
「おや葛城、俺は褒めてるんだぜ。本部での凛々しい姿と違って、浴衣も中々いいじゃな
いか」
「何言ってんのよ、バカね……」

 一言気のない返事を返すと、ミサトは加持が用意したクーラーボックスをゴソゴソやり
始めた。こんな時でも、いやこんな時だからこそ、飲むのを忘れないのはさすがである。

「あらやだ、500ミリで六缶しかないわけ? これじゃ全然足りないわよ」
「おいおい、それ以上飲むつもりなのか? ビール腹で浴衣が着崩れするぞ?」
「う……。ま、まあ、とりあえずはこれでいいかしらね。足りなかったら後で買い足しに
いけばいいもんね。さて、シンちゃんは何飲む? 炭酸系でいいかしら?」
「あ、はい」
「レイはオレンジジュースでいい?」
「はい」
「ミサト、アタシはビールね!」
「ダ〜メ、十四歳のお子様は清涼飲料水でも飲んでなさい」
「ちぇ〜、ケチ」
「はいはい、ケチで結構ですよ。あ、キミちゃんはりんごジュースでいいかしら?」
「うん。でもミサトおばちゃん、あたし、おなかもすいちゃったの」

 出店でカキ氷と綿菓子を食べたくらいで、夕飯らしい夕飯もまだだったせいだろう。キ
ミちゃんはお腹の辺りをさするようにしながら、ミサトに訴えかけた。

「そうよね、夕ご飯もまだだもんね〜。え〜っと、じゃあ何か食べるものは……。あら加
持君、あんた食べるものは何も買ってないわけ?」
「いや、俺はてっきりその辺で買ってくるか、出る前に食べてくると思ってたんだが……」
「あたしは花火を見ながら、加持君が用意したものを食べるつもりだったんだけど……」

 そう言ったきり、具合が悪そうに互いの顔を見合わせる加持とミサト。二人の様子を見
れば食べ物がないのは一目瞭然であり、それはキミちゃんにも何となく分かったようだっ
た。

「ミサトおばちゃん、ごはんないの?」
「そうねえ、今ここにはないみたいなんだけど、キミちゃんお家に帰るまで我慢できる?」

 ぎこちない笑顔のミサトがそう言うやいなや、キミちゃんのお腹の虫がくぅ〜と可愛い
い音を立てた。

「あらら、我慢できないみたいね」

 人差し指をくわえながら自分のお腹を見つめるキミちゃんに、たはは、と苦笑を浮かべ
るミサト。さてどうしたものかと頭を掻いていると、シンジが横から助け舟を出した。

「ミサトさん、僕が何か買ってきましょうか?」
「あら、お願いしてもいい?」
「はい、もう一回さっきの境内に行って、何か買ってきますよ。……ねえ、君は何が食べ
たいの? 焼きそばでいい?」
「うん、やきそば〜」
「あ〜、んじゃさシンちゃん、悪いんだけど、あたしたちにも何か摘めるものを買ってき
てくれないかしら?」
「はい、どうせだから人数分買ってきますよ」
「ごめんねシンちゃん、じゃこれお金ね。あたしは焼きそば、たこ焼き、じゃがバタなん
かも欲しいな。それからフランクフルトはビールのつまみにかかせないわよねえ」
「呆れた。ミサト、そんなに食べる気?」
「えへへ、まあね。あ、そういえば、人数分の物買ってくるなら、シンちゃんだけじゃち
ょっちキツイわよね。悪いけどレイ、シンちゃんのお手伝いしてくれないかしら?」
「はい」

 それまで会話に参加していなかったレイは、短い返事を返すと立ち上がった。言葉だけ
を捉えれば、それはいつもの素っ気ないレイである。だが、チラリとシンジを見やる瞳の
奥に、静かな喜びの色を見たような気がして、ミサトは頬を緩めた。
 葛城家にきてからというもの、キミちゃんたちがいることもあり、レイがシンジと二人
きりになれる機会はそれほど多くなかった。それだけに、ささやかながらシンジとの時間
を持てるのが嬉しいのかもしれない。我ながら上出来の展開に、ミサトは内心でガッツポ
ーズを決めたい気分だった。

「それじゃシンちゃんよろしくね。あ、でも二人きりだからって、レイと変なことするん
じゃないわよん」
「そ、そんなことしませんよ!」

 ぬふっと怪しい鼻息を漏らすミサトに、シンジは慌てて反論するが、そこで攻撃の手が
緩むほどに敵は甘くない。

「あら〜、そんなこと言っちゃって〜。何だったらさ、二人ともこのまま戻ってこなくて
もいいのよ〜。祭りの夜、森の奥へと姿を消す二人。そして降り注ぐ月の光の中、二人は
初めてのキスを……」
「へ、変なこと言わないでくださいよ! 綾波、行こう。早くしないと花火が始まっちゃ
うよ」
「……ええ」

 芝居がかった仕草でキミちゃんを抱きしめると、その頬にチュ〜と熱いキスをするミサ
ト。気持ち悪そうに目を閉じ、う〜と呻き声をあげるキミちゃんが可愛そうだが、ここで
ミサトとやりあっているわけにはいかない。シンジは心の中でキミちゃんに謝ると、レイ
を促しその場を後にするのだった。



Kimiの名は −第八話−



 祭りのトリを飾る花火大会。その開始時刻が迫り、人もそちらのほうへ流れていったせ
いだろうか。戻ってきた境内前の広場は、先程に比べると人の数もまばらだった。既に店
仕舞いの準備をしているところも多く、祭りの一日が終わりへ近づいていることを感じさ
せる。

「何か、さっきとは少し雰囲気が違うね」
「そうね」
「河原のほうで花火が上がるから、みんな山を降りちゃったのかもしれないね」
「ええ」

 そんな中を、シンジとレイは二人並びながら歩いていた。時折シンジが他愛のないこと
を話しかけ、レイがそれに短い相槌を返す。レイが葛城家にくるまでは、会話を成立させ
ること自体至難の業だったが、今では自然なやりとりができるようになっていた。

「えっと、じゃあ何を買っていこうか。とりあえず焼きそばを人数分と、ミサトさんのフ
ランクフルトとじゃがバタだよね。あとは、みんなで摘めるものを何か買っていけばいい
かな」
「それでいいと思うわ」

 レイがそう答えると、少し間があいた後シンジは、あっと何かに気づいたような声をあ
げた。

「どうしたの?」
「あの、ごめん、綾波は焼きそばはやめておいたほうがいいよね」
「どうして?」
「ほら、焼きそばって大抵ひき肉が入ってるでしょ? 今日は、無理して肉を食べること
もないと思うし……」
「……」
「えっと、じゃあ、綾波にはたこ焼きなんかどうかなって思うんだけど……」
「……うん」

 そんな何気ない心遣いが、ひどく胸に染みるのはどうしてだろう。シンジが自分のこと
を気にかけてくれるのが、レイは嬉しかった。
 かつては気にも留めなかったはずの少年。
 初号機パイロット、碇シンジ、サードチルドレン。
 表現の仕方は多数あれど、その言葉の中に特別な意味はなかった。彼はただのクラスメ
ートの一人であり、同じエヴァのパイロット。それ以上でもそれ以下でもなかった。
 今は違う。
 共に過ごした時間の思い出や、交わした言葉の一つ一つが積み重なるにつれ、レイの発
展途上の心の器は、シンジへの想いで満たされていったのだ。

(……碇くん)

 二子山で向けられた泣き笑い、その後差し伸べられた手の温もり。
 未だレイの中で強い印象を残し、シンジのことを意識するようになったきっかけ。それ
に対しどう接してよいか分からず、レイは、何となく遠くから伺うような態度を取ったの
だった。だが少女には、あの出来事がずっと昔のことのように思えて仕方がない。何故な
ら今のレイは、そんな時どうすればいいのか知っているのだから。

「……碇くん」
「え?」
「……ありがとう」
「べ、別にいいんだよ。そんな、お礼を言われるようなことじゃないから」
「……それでも、ありがとう」
「あ、えっと、その、どういたしまして……」

 微かな笑顔を浮かべ、静かに感謝の言葉を述べるレイ。思わず赤面したシンジにできた
のは、あさっての方向へ視線を泳がせながら、必死に話題を変えるくらいのことだった。

「それよりさ。ほら、ちょうどあそこで焼きそばを売ってるみたいだから、最初はあそこ
に行ってみようよ」
「ええ」

 途端に落ち着かなくなったシンジが、先程よりも少し早足で歩き出す。それを怪訝に思
いつつ、レイはその後を追いかけた。シンジが戸惑うようなことを、自分は何かしたのだ
ろうか。それはよく分からなかったが、レイはその反応が、ひどくシンジらしいと感じる
のだった。





「へい、らっしゃい」
「あの、二つお願いします」
「はいよ、二つね。ちょっと待っててくれよ」

 人数分の焼きそばや、ミサトがリクエストした品を買い込んだ後、シンジたちは最後に
たこ焼き屋に立ち寄っていた。店の主人と思しき恰幅のいい中年男性に注文を告げると、
やがて辺りにはいい匂いが漂いだし、クルリクルリと熟練の手さばきでたこ焼きがひっく
り返されていく。

「お兄ちゃんも、この後は彼女と一緒に花火見物かい?」
「あ、はい……」

 と、反射的に答えるのと、問いかけの意味を理解したのはほぼ同時だった。

「……あ、じゃ、じゃなくって。あの、綾波は、別に彼女とかそんなんじゃないですよ」

 慌てて否定の言葉を並べるが、それが益々誤解される原因になったらしい。店主はふい
っと顔を上げると、愛嬌のある笑顔と共に言った。

「なんだ、そうなのかい? だがこんな時間に男と女が二人でいたら、そらあただの友達
じゃあねえだろう」
「でも、僕たち別に二人きりってわけじゃなくて。今日は他の人と一緒に花火を……」
「まあまあ、そう隠すこともねえじゃねえか。好きなあの子と花火を見た後は、二人で河
原でも散歩して、キッスの一つや二つでもってとこだろ? いいじゃねえか、青春だねえ」
「だから、あの、違うんです。僕たち、ホントに好きとかそういうんじゃなくて……」
「そうやってムキになるところが益々怪しいなあ。なあお嬢ちゃん、こっちのお兄ちゃん
はあんたの彼氏なんだろう?」

 突然話を向けられたレイは無言のままだったが、それを照れていると解釈したらしい。
店の主人はガッハッハと豪快な笑い声を上げると、更に続けた。

「まあなんだなあ、二人とも初々しくていいじゃねえか。俺もちっとガキの頃を思い出し
ちまうよ。あいよお兄ちゃん、おまっとさん。こいつは一つオマケしておくから、後で二
人で分けて食べな」
「でも、あの、僕たち本当に……」
「いいんだよ、遠慮するんじゃねえって」

 店の主人は、一人ですっかり納得してしまっている。その様子に、これは何を言っても
無駄だと悟ったシンジは、素直に礼を言い店を出ると、レイを促し歩き出した。

「おうお兄ちゃん、うまくやるんだぞ!」

 背後から追いかけてくる声が、夜の闇へと溶け込んでいく。それに苦笑を浮かべるシン
ジだったが、頭の中では、店の主人との会話が何度も再生を繰り返していた。
 先日キミちゃんとお風呂に入って以来、一層レイのことを意識していただけに、“彼女”
という言葉にはどきりとさせられるものがあった。事実と違うとはいえ、自分とレイがカ
ップルに見られたということには、何かくすぐったい感覚を覚える。

(綾波は、どう思ったのかな……)

 一度それを考え始めると、すぐ脇を歩くレイの様子がひどく気にかかった。外から見た
限りでは、特に動揺した様子はなかったように思える。だが相手は、あまり感情を表に出
さないレイだ。その心の中で一体どんなことを考えているのか、シンジには見当もつかな
かった。
 外見通り、あまり気にしていないのだろうか。
 もしかして、不快に思っていたりはしないだろうか。
 それとも、ひょっとしたら……。

「……な、何かさ、変な誤解されちゃったね」
「……」
「僕たちが付き合ってるなんて、どうしてそんな風に見えたんだろうね」

 自分でもわざとらしいと思うような、ギクシャクした笑みを浮かべつつ、シンジはレイ
に語りかけた。
 だがレイからは何の反応も返ってこず、その表情からは感情の欠片も感じ取ることがで
きない。何となく言葉を繋げるタイミングを逃したシンジは、それ以上会話を続けること
もなく、無言のままただ歩を進めた。

(そうだよね。綾波って、あんまりそういうこと興味なさそうだし……。それに僕たちが
付き合ってるだなんて……。綾波にしてみたら、下らないよね)

 レイの反応には、軽い失望と決まり悪さを感じたが、その原因は勝手な自分の思いこみ
にある。シンジにはそれが分かっていた。
 先程の会話は、特にレイの関心を引くものではなかったのだろう。だから返事も返って
こないし、これといった反応を見せることもないのだ。それなのに、自分はレイに何を期
待していたのだろう。
 恥ずかしそうに頬を染め、照れたような仕草を見せるレイ?
 それとも、不満げな視線と共に何か抗議の声を上げるレイ?

(馬鹿だな。そんなことあるわけないじゃないか……)

 レイの自分に対する接し方が、周りへのそれとは少し違う。いくら鈍感なシンジでも、
それは何となく感じる。だがだからといって、それが相手への好意にすぐ繋がるはずもな
い。嫌いではないと好きの間には、大きくて深い溝があるはずだ。
 そんな当たり前のことを忘れ、妄想じみたことを思い浮かべた自分が、シンジは恥ずか
しかった。

(そんなことより、今日は花火を楽しもう)

 多少の努力と共に気持ちを切り替えると、シンジは頭上を見上げた。雲一つない夜空に
浮かぶのは、美しい真円を描く月と、それを囲むようにして輝いている星々。周囲に大き
な光源がないせいか、それらは普段目にするよりも、ずっと鮮やかな光を瞬かせていた。

(綺麗だな……)

 境内裏の小道にさしかかっても、相変わらず二人の間に会話はない。
 だが普段は重く感じるはずの沈黙も、今のシンジにはさほど気にならなかった。必死に
会話を探す必要も感じず、無理に何かを口にしなければという気持ちにもならない。二人
並んで歩きながら、時折ふと夜空を見上げる。そんな時間がとても貴重なものに思え、レ
イとの心の距離を心地よいと感じていたのだ。
 そんな穏やかな心境にいたせいか、シンジはある事実に気づくことができなかった。自
分のすぐ脇を歩くレイが、その無表情とは裏腹に、複雑な感情のうねりにひどく戸惑って
いたことには。





 道が悪いせいか、ジャリジャリと下駄が道を滑る音が、妙に大きく響いていた。
 境内の裏、鬱蒼と茂る杉の木を両脇に見ながら、シンジとレイは広場への道を戻ってい
た。雨や曇りの日ならば、おそらく周囲は漆黒の闇に覆いつくされていただろう。だが木
々の間から漏れる月の光と、ミサトから借りた懐中電灯の灯りが、二人の歩く道を照らし
てくれる。
 レイはふと、夜空にひっそりと浮かぶ美しい円を見上げた。神秘的で、自らの心が洗わ
れるような、安らかな気持ちになる月の光。まだ一人で暮らしていた頃、眠れない夜はベ
ランダに出て月を見上げると、不思議と心が落ち着いていくのだった。
 だが晴れ渡った夜空や澄み切った空気とは裏腹に、レイの心の中は、月の光を遮る厚い
雲に覆われたままだった。
 つい先程のシンジの些細な一言が、レイの心に棘のように突き刺さっている。それを抜
き取ろうと恐る恐る手を伸ばすと、それは途端にジンジンとした痛みを送り始め、レイを
悩ませるのだった。

『僕たち、ホントに好きとかそういうんじゃなくて……』

 たった一言、その言葉。
 少し焦っていたシンジの様子を思えば、そこに深い意味はないのかもしれない。実際、
ミサトにからかわれている時に、シンジから同じ類の言葉を聞いたことがある。これまで
は、特に気にならなかったはずの否定の言葉。だがこの日は、鋭い針で急所を刺されたか
のような、鈍い痛みが消えようとしない。

『……な、何かさ、変な誤解されちゃったね』
『僕たちが付き合ってるなんて、どうしてそんな風に見えたんだろうね』

(……ぅ)

 その言葉を思い出すと、またチクリと胸の辺りが反応する。
 あの時、シンジが横目でこちらの様子を伺っているのが分かった。おそらく、自分に対
し何か相槌の言葉を求めているのだというのも感じ取れた。だがどんな言葉を返せばいい
のか、それが分からなかった。だからレイは沈黙を守ったまま、歩き続けたのだ。

(……私、何故こんな気持ちになるの?)

 それまで何度となく繰り返されたその自問。以前ミサトに言われたように、その答えは
既に自分の中にあるのだろうか。先日車の中で交わした会話を思い出しながら、レイはそ
んなことを思った。

『そっか……。きっと、レイはシンジ君に恋をしているのね』

 あの夜、本部から共に帰宅して以来、ミサトの言葉がレイの脳裏を離れることはなかっ
た。そしてシンジを意識する度合いは、以前にも増して強くなっていた。
 気が付けば、いつの間にか視線はシンジを追いかけ、その何気ない仕草に胸の高鳴りを
覚える。リビングにシンジの姿がないと無意識にその姿を捜し求め、やがてキッチンにそ
の後姿を見つけると、訳もなく頬を赤らめている自分に気づく。
 それが恋というものなのか、恋をするということがどういうことなのか、レイにはまだ
よく分からない。
 だが仮にミサトの言葉が正しいとして、戸惑いを感じるのは、何故自分はこうもシンジ
の反応を気にするのか、ということだった。
 シンジが自分のことをどう思おうと、それは彼の自由のはずだ。そこに口を挟む余地な
どないし、それは自分には関係のないもののはず。それなのに、自分はシンジに対し何を
望んでいるのだろう。自分に対して好意を持ってほしいと、そう思っているのだろうか。
だからシンジの胸の内が、こんなにも気になるのだろうか。

『じゃあさ、シンジ君に聞いてみたら?』

 再びミサトの言葉が蘇る。胸の内のモヤモヤを振り払うには、それが一番効率的な方法
だろう。それはよく分かる。だがそれを実行に移そうかと考える度、何かがレイの決心を
鈍らせるのだった。そんな時決まって感じるのは、胸を締め付けるような息苦しさ。それ
まで経験したことのない苦しさに、眠れぬ夜を過ごしたことも一度や二度ではない。
 彼にとって、自分はどんな存在なのだろう。
 それが分からない。
 レイの心は掴みどころのない不安と怖れに満たされ、普段は気にならない沈黙が、この
日ばかりは少女の肩に重くのしかかるのだった。
 だが、ミサトたちの待つ広場までもう間もなくというころ、ふとしたことからその沈黙
が破られた。

「……あっ」

 突然レイがあげた小さな声に、シンジは立ち止まった。振り返って見ると、レイは右足
を軽く地面から上げ、それをブラブラとさせたまま所在無さげにしている。

「綾波、どうしたの?」
「下駄が……」
「下駄?」

 レイの視線を追ってその足元を見やると、鼻緒の切れた下駄がぷらぷらと揺れていた。
よく見ると、レイの足元には人の拳大の石が地面から顔を出している。おそらくそれに躓
いた衝撃で、鼻緒がプツリといってしまったのだろう。

「ちょっと見せてもらっていい?」
「……え?」
「下駄、もしかしたら直せるかもしれないから……」

 レイが軽く頷くと、シンジは屈みこみその足から下駄を抜き取った。

「……あ、この位ならなんとかなるかも。後できちんと修理した方がいいけど、応急処置
くらいならやれそうだよ」
「……そう」
「うん、だからちょっと待っててね」

 そう言うと、シンジは屈んだまま鼻緒の手直しを始めた。だがそのうちに、片足だけで
体のバランスを取ろうとしているレイに気が付く。

「あ、ごめん綾波、それじゃ立ちづらいよね。えっと、じゃ、どうしたらいいかな……」

 しゃがんだままシンジは考え込んでいたが、やがて意を決したかのように立ち上がった。

「あの……、僕の肩に手を置いてくれる?」
「……肩?」
「うん、そうすればバランスも取りやすいでしょ? これ、直すのにそんなに時間もかか
らないと思うから。だから、ちょっとだけ待っててくれる?」
「……分かったわ」

 レイは呟くようにして答えると、食べ物の入った袋を地面に置き、シンジの肩にそっと
両手を置いた。

「僕が前にいた所で、一度お祭りに行ったことがあってさ。その時は僕の下駄の鼻緒が切
れちゃったんだ。そしたら、先生が僕の下駄を直してくれて。僕、それをずっと見てたか
ら、直し方も覚えててさ」
「……そう」

 間を持たせようとしているのか、それとも照れ隠しなのか、シンジが昔の思い出などを
語りだす。だがレイの耳には、シンジの言葉はほとんど届いていなかった。
 どうしてなのだろう。
 どうして彼は、自分に優しくしてくれるのだろう。
 それは、彼が自分に好意を持ってくれているからなのだろうか。
 それとも……。
 そこまで思考を進めると、レイは再び、胸の辺りに締め付けるような痛みを感じた。
 彼は誰に対しても優しい。ミサトのためには笑顔で家事一般を引き受け、散々口喧嘩を
しておきながら、アスカにも何かと世話を焼いている。先日のキッチンの一件では、キミ
ちゃんのお皿に人参が一切れしか入っていなかったことを、レイは本人から聞いて知って
いた。
 自分にとって彼がそうだったように、彼にとっても自分はその他大勢の一人に過ぎない
のだろうか? たまたま同じ部屋で暮らしているから、同じエヴァのパイロットだから、
義務として彼は自分の世話を焼いてくれるのだろうか?
 そう思い始めると、シンジの優しさすらも辛かった。
 自分は一体シンジにとってどんな存在なのだろう。
 一旦その疑問に思考が捕らわれると、蜘蛛の巣に羽を捕らえられた蝶のように、どんな
にもがいてもそこから抜け出すことができない。
 胸が苦しくて苦しくて仕方がなかった。
 シンジの肩に手を置き、鼻緒の修繕を待つ間、レイはその苦しさの度合いがかつてない
程高まっていくのを感じていた。

「……碇くん」
「あ、もうちょっと待っててね。もうほとんどできたから」
「……違うの」
「え?」

 鼻緒を直す手を止め顔を上げると、シンジは、レイが自分のことをジッと見つめている
のに気づいた。

「……私、聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」

 鸚鵡返しに尋ねると、レイがほんの僅か頷く。

「碇くんは……」
「うん」
「……」
「……綾波?」

 胸の苦しさに促されるまま、言葉を搾り出したレイだったが、そこから後が続かなくな
っていた。

(……私、怖いの?)

 恐怖。エヴァに乗り、使徒と戦う時にすら生まれなかった感情に、レイの体が小刻みに
震えだす。手が触れた肩伝いにそれに気づいたシンジは、心配そうに尋ねた。

「あの、綾波? どうかしたの?」
「……」
「何か聞きたいことがあるんじゃないの?」

 少し戸惑ったような、困ったような微笑みを浮かべるシンジ。
 レイの中では様々な感情が交じり合い、自分では収拾をつけられない程になっていた。
 肉体的なものよりもずっと鋭く、そして体の芯まで響くような痛みが、レイを苛む。
 こんな時間がこれからも続いていくことには、耐えられそうになかった。
 それ故レイは、口を開かずにはいられなかった。

「……碇くんは……誰かを……好きになったことがある?」

 たった一言そう言っただけなのに、長時間エヴァのテストをこなした後のような、ひど
い疲労感をレイは感じた。
 耳元を通り過ぎる風や、サワサワとざわめく草木の音も、遠くから聞こえてくるように
思える。それなのにドキドキという自分の心臓の鼓動は、ハッキリ聞こえるから不思議だ
った。

「だ、誰かを……好きって……」

 それっきり絶句してしまうシンジ。
 しばしの沈黙の後、レイは再び口を開いた。

「私は、誰かを好きになるということが、よく分からないから……」
「……」
「だから、碇くんはその気持ちを知っているかと思ったから……」

 本当に聞きたいのはそんなことではない。
 それは分かっている。
 分かっているのにそれが聞けない。
 どうしてだろう。
 その答えが出せないまま、レイはもう一度同じ問いを口にした。

「……碇くんは、誰かを好きになったことがある?」
「ぼ、僕は……」

 予想もしていなかった問いかけに、シンジがそう呟いたとき、ドーンという腹の奥に響
く音と共に、その日最初の花火が夜空に打ち上げられていた。



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