「あら、やっぱり帰ってきちゃったんだ。ちょっち期待してたんだけどなあ」

 元いた広場へ戻ると、まずは様子見のジャブとばかり、ミサトがそんな声をかけてきた。
彼女をよく知る者ならば、また始まったと苦笑を浮かべるような、他愛のないからかいで
ある。
 ミサトがそんなことを言うのは親しい相手だけだし、そこに積極的な悪意があるわけで
はない。普段のシンジならば、軽くうろたえながらも、何かしらの言葉を返していただろ
う。だがこの時ばかりは、シンジはどうしてもそんな気分になれなかった。

「甘いわね、ミサト。シンジにそんな度胸があったらさ、とっくの昔に二人でどっかに消
えてるわよ」
「でもさ、シンちゃんたちも、二人きりになったらどうかなって思ったのよね」
「無理無理。お祭りだろうが地球の終わりだろうが、シンジにそんな度胸あるわけないじ
ゃん」
「あら、でもシンちゃんだって男の子だもん。やるときはやるわよねえ?」

 アスカとの軽快なやりとりの後、ミサトが話を振ってくるが、シンジには二人に笑顔を
返す余裕はなかった。

「別に、そんなことないです……」

 この世の不幸を全て背負っているかのような、ひどく暗いシンジの声色に、軽口を叩い
ていたミサトも思わず言葉を失った。

「……えっと、シンちゃん何かあったの?」
「あ、いえ……。別に、何でもないんです。気にしないでください」

 そんなことを言ってその場を取り繕おうとしても、もう火に油を注ぐだけである。シン
ジの様子に何かを感じ取ったらしいミサトは、疑惑の矛先をレイに向けた。

「ねえレイ、どうしたの? シンちゃんと喧嘩でもしたの?」
「……いえ」
「そう……」

 とは言うものの、その表情を見ればミサトが納得していないのは明らかである。シンジ
は拳をきつく握り締めると、自らの失敗を呪った。
 周囲からのからかいに照れ、うろたえ、そして墓穴を掘る。それが、シンジのいつもの
パターンである。それなのに先程は、胸の中のモヤモヤとした気持ちを、そのまま表へと
出してしまったのだ。
 更に周囲に不審を抱かせたのが、シンジとレイの間に漂う、どこかよそよそしい雰囲気
だった。喧嘩をしたカップルが、気まずい気分のままデートを続けているような、どこか
ぎくしゃくした空気。それを目の当たりにすれば、ミサトならずとも、何かあったのかと
勘繰りたくなるというものだ。

「ミサトさん、それよりこれ、頼まれてたやつです。焼きそば、じゃがバタ、それとフラ
ンクフルトでいいですよね?」
「え? ええ、ありがと……」
「アスカも焼きそばでいいでしょ?」
「ん、まあね……」

 加持にも買ってきた焼きそばを手渡すと、シンジはシートに腰を下ろした。その左隣に
は無言のままレイが座る。相変わらず周囲からは、横目でこちらを伺うような雰囲気を感
じるが、シンジはそれに気づかないふりをして、キミちゃんを膝の上に抱き上げた。

「じゃ、焼きそば一緒に食べようか」
「うん。でもパパ……」
「え、どうしたの?」
「パパとママ、けんかしたの?」
「そ、そんなことないよ。別にいつもどおりだよ」
「ほんと?」
「うん、本当だよ」
「ママ、ほんと? パパとけんかしてない?」
「……別に」
「う〜、パパもママも、なかよくしなきゃダメだよ?」
「うん、そうだね……。あの、それよりさ、これ食べようよ、ね?」

 キミちゃんはまだ少し心配そうだったが、シンジとレイの言葉に一応は納得したらしい。
渡された焼きそばのパックを開くと、中から漂ってくるいい匂いに、すぐに頬を緩めてい
くのだった。

「ねえパパぁ、食べさせて」
「あ、うん」

 キミちゃんが無邪気におねだりをすると、シンジが焼きそばを箸でつかみ、少女の小さ
な口へと運んでいく。
 キミちゃんはしばらく食べることに忙しかったが、じきにお腹が一杯になってきたらし
い。やがてその視線は、夏の夜空を彩る花火へと向けられていった。
 菊、牡丹といったオーソドックスなものから、錦冠や銀冠といった冠物まで、様々な打
ち上げ花火が人々の目を楽しませる。夏の風物詩ともいえるその光景は、老若男女を問わ
ず、人々の心に新鮮な驚きを与えるものである。それはキミちゃんも例外ではなく、千輪
菊やしだれ柳のような一際鮮やかな花火には、思わず感嘆の声をあげるのだった。

「すご〜い! ねえパパみてみて、きれいだねえ」
「うん、そうだね……」
「あ! ねえねえパパ、あれ見た? 今のって、ネコちゃんの花火だよね?」
「あ、うん、多分……」
「パパしってる? こういうときはね、たまや〜って言うんだって。ミサトおばちゃんが
教えてくれたんだよ」
「そうだね、知ってるよ……」
「えへへ、たまや〜」

 初めて見る花火にすっかりご機嫌らしく、キミちゃんがしきりに話しかけてくる。だが
それに生返事をするシンジは、夏の夜空を楽しむ心境にはなかった。

『……碇くんは、誰かを好きになったことがある?』

 脳裏にこびりついて離れない先程の言葉。
 どうしてレイはあんなことを尋ねたのだろう。自分はそれに何と答えるべきだったのだ
ろう。いくら考えてみても、出口のない迷路に迷い込んだかのように、答えを見つけるこ
とができない。

(僕、どうすればよかったんだろう……)

 もし周囲の目がなかったら、頭をかきむしって大声を上げたい、そんな気分だった。

『あ、あの、僕、そういうのは、よく分からないっていうか……。ゴメン、きっとミサト
さんたちが待ってるから。だから、あの、もう行かなくちゃ』

 長い沈黙の後、口をついて出てきたのは逃げの言葉だった。それを思い出すと、言いよ
うのない自己嫌悪と罪悪感に頭を抱えたくなる。気が動転していたとはいえ、シンジは取
って付けたような口実の元、逃げるようにしてその場を去ったのだ。

『……そう』

 ただ一言呟いたきり、レイは何も言わず後ろを付いてきたが、内心はどんな思いだった
のだろう。

(でも、急にあんなこと言われたら、誰だって……)

 そうも思うが、それが言い訳に過ぎないことも分かっていた。
 レイの問いに対する答えは、胸の内にあった。けれど、それを口にすることが出来なか
った。突然そんなことを尋ねるレイの意図が分からなかったからだ。
 何故レイは、自分にそんなことを聞くのだろう?
 それは、レイに誰か好きな人がいる証拠なのだろうか?
 もしそうなら、レイが好きな相手は誰なのだろう?
 その答えが出せないまま、どうしようもなく沸きあがる怖れや混乱と共に、シンジはそ
の場を逃げ出したのだ。
 もしかしたら、レイの心の中にいる相手というのは……。
 そんな期待が無かったわけではない。
 だがその期待が裏切られたときのことを考えると、シンジは身が竦むような恐怖を覚え
る。何時の間にか、心の中で大きな位置を占めるようになっていた少女。その想いの向く
先が誰か他の人間だったとしたら、一体自分はどんな顔をすればいいのだろう。
 それを思うと、どうしても最後の一歩が踏み出せなかった。

(僕、どうしたらいいんだろう……)

 いくら考えても答えの見つからない自問に、シンジは微かな溜息をつくと、ふと空を見
上げた。相変わらず夜空には色とりどりの花火が打ち上げられ、漆黒の闇を束の間明るく
照らす。
 使徒という得体の知れない脅威と戦うネルフ。その本拠たる第三新東京市。そこに住む
人々の心に、この花火は束の間の平穏をもたらすのだろう。
 だがそれを見上げるシンジの心は、厚い黒雲に覆われたままだった。



Kimiの名は −第九話−



「あれ〜、へんだね〜パパぁ」

 キミちゃんが突然あげた声に、シンジは、はっと我に返った。

「あ、ごめん、何?」
「パパ、もう花火終わりなの?」

 そう言って、不思議そうに夜空を指差すキミちゃん。その先にあるのは、空一杯に広が
る星々と、淡い光を放つ月だけだった。どうやらシンジが物思いに耽っているうちに、花
火の流れも途切れてしまったらしい。

「あ、えっと、どうなんだろう。僕もよく分からないや」
「う〜、もっと花火みたいよパパぁ」

 プリンをおねだりするような調子でキミちゃんがそんなことを言うが、こればかりはシ
ンジにもどうすることもできない。すると、横でその会話を聞いていたらしいミサトが、
キミちゃんに声をかけた。

「大丈夫よキミちゃん。あとちょっとしたら、また次の花火が見れるはずだから」
「ほんと?」
「ええ、今日の花火大会はね、二部構成になっているの。だからさっきので一部が終わっ
たのね、きっと」

 ミサトの話によれば、今夜の花火大会は大玉早打がメインの第一部と、スターマインが
中心となる第二部という構成になっているらしい。一部と二部の間には多少のインターバ
ルがあり、この合間に人々はお手洗いなどに行くそうだ。実際周囲を見回してみると、腰
を下ろしていた場所から立ち上がり、境内の方へと向かう人々の姿がちらほら見て取れた。

「ところでさぁ加持く〜ん、ビールがもうないんだけど〜」
「何だ、結局また飲むのか?」
「あったりまえじゃないの。だから言ったのよ、六缶じゃ足りないってさ」
「やれやれ、そういうところは昔から変わらないな」
「へへへ、まあね。ということで、よろしくね加持君」
「よろしくって……何がだ?」
「決まってるじゃな〜い、か・い・だ・し」

 芝居がかった猫撫で声でそう言うと、ミサトがウインクをしてみせる。
 語尾にハートマークが数個は付きそうな声色に、一瞬加持の頬がヒクリと歪むが、やが
て諦めにも似た苦笑がそれに取って代わった。

「やれやれ。それじゃ、ちょっと行ってくるとするか」
「え〜、ミサトの買出しなんてさあ、加持さんがすることないわよ。そんなのまたシンジ
たちに行かせればいいじゃん」
「まあそう言うな。シンジ君とレイちゃんだけ働かせちゃ悪いからな。何だったらアスカ
も一緒に来るか? ジュースの一本くらいおごるぞ」
「え、ホント? 行く行く。ねえ加持さん、どうせならさ、このまま二人で別の所に行か
ない?」
「はは、そうだなあ。だがそんなことしたら、葛城に殺されちまうよ」
「え〜、いいじゃん。ミサトのことなんかほっといてさあ」
「か〜じ〜、あんた本当にそんなことしたら、どうなるか分かってんでしょうねえ?」
「大丈夫だって、そうカリカリするなよ」

 再び苦笑しながら加持が腰を上げると、すかさずアスカが自分の腕を絡ませる。

「おいおい、アスカ」
「このくらいならいいでしょ? それより加持さん、早く行きましょ」
「やれやれ、しょうがないやつだな」

 そんな二人の姿を見つめながら、シンジは内心で安堵の吐息を漏らしていた。
 再び買出しに行くのはいいとして、問題は一緒に行く相手だった。つい先程のことがあ
るのに、またレイと二人きりになったらどうすればいいのだろう。それを思うとアスカの
言葉にはドキリとさせられたし、加持には心からの礼を言いたい気分だった。

(良かった。今綾波と二人になっても、どんな顔したらいいのか分からないよ……)

 花火の中断で暇をもて余したのか、しきりにじゃれついてくるキミちゃんの相手をしな
がら、シンジはレイの様子を伺った。膝を抱え俯くレイは、まるで蝋人形のようにピクリ
とも動かない。その顔からは表情が消え去り、最近とみに感じるようになっていた、柔ら
かな空気も失われている。
 そんなレイを見ていると、シンジは胸の辺りにズキンと鈍い痛みを感じるのだった。

(でも、しょうがないじゃないか……)

 レイにそんな顔をしてほしくないとは思う。何か声をかけてあげたいとも思う。けれど
そんなことが出来るはずもなかった。シンジの中では、レイと向き合うことへの恐怖心の
方が大きかった。
 それ故、それがずるくて卑怯なことだと分かっていつつも、シンジはレイから目を逸ら
し、内心のモヤモヤを誤魔化し続けたのだ。
 だが、そんなシンジの逃避も長くは続かなかった。

「ねえキミちゃん、あなたさっきジュースをたくさん飲んでたけど、おトイレは大丈夫?」
「う? トイレ?」
「ええ。次の花火が始まったら、またしばらくはここを離れられないでしょう? だから
その前に、あたしと一緒にトイレに行ってこない?」
「う〜」
「迷ってるなら今のうちに行っといたほうがいいわ。だからほら、一緒に行きましょう?」
「うん、そいじゃ行く」
「じゃあ、シンちゃんとレイはここで待っててくれるかしら?」
「あ、でもミサトさん……」
「ん、どうしたのシンちゃん?」
「あ、いえ、その……」

 今はレイと二人きりにしないでほしい。それが本音だったが、そんなことは間違っても
言えるはずがなく、シンジはそのまま沈黙した。

「えへへ〜、何だったらさ、あたしたちがいない間に、今度こそレイとどこかに行っちゃ
ってもいいのよ?」
「そ、そんなことできませんよ……」
「あら、シンちゃんったらつれないわねえ。本人の目の前でそんなこと言っちゃダメじゃ
ない。それとも、レイと二人でいるのは嫌なのかしら?」
「そ、そういう訳じゃないですけど……」

 そんな言い方をされて、はいそうですと答えられるほど、シンジは無神経でも大胆でも
ない。結局、ミサトの言い方は少しずるいと感じながらも、そう答えざるを得なかった。

「じゃ、ちょっち行ってくるからさ。あとはよろしくね」
「……はい」

 そして二人が残された。
 胸の辺りに息苦しいものを感じつつも、シンジにはミサトとキミちゃんの後姿を見送る
ことしか出来なかった。





 ずっと昔から、シンジは沈黙が嫌いだった。
 何人かのグループの中――例えばトウジやケンスケとつるんでいる時のように――自分
一人だけ口を開かず、周りの会話に参加しないというならまだいい。耐え切れないと思う
のは、誰かと一対一で向き合ったときのそれだった。
 口から出てくるのは相手の顔色を伺う表面的な言葉ばかりで、それすらも尽きてしまっ
た後は、いつも決まりの悪い静寂が舞い降りてくるのだ。
 何か話さなければと思えば思うほど、言葉は頭の中から逃げていく。そして気まずい沈
黙の重みから逃れようとするかのように、シンジは目の前の相手から視線を逸らしてしま
うのだった。
 父親と対峙するときはいつもそうであり、まだ出会ったばかりの頃は、ミサトとの間に
もそんな空気があった。
 例えるなら、人間関係は鏡のようなものだとシンジは思う。誰かに対しそんな態度をと
れば、それはそのまま自分へと跳ね返ってくる。相手のことを真っ直ぐに見つめられない
自分を、他の誰かが見つめてくれることはなく、その心の距離は決して近づくことはない。
 シンジにとって、沈黙は自分の弱さと同じ意味を持っていた。
 だからシンジはそれが嫌いだった。
 蒼銀の髪を持つ、自分以上に寡黙な少女と出会うまでは。
 考えてみれば不思議なものだった。レイが葛城家にやって来て以来、共に過ごす時間は
飛躍的に増加している。だが相手と会話している時間とそうでない時間を比べたら、圧倒
的に多いのは後者の方だろう。
 確かに自分から何かを話しかければ、レイは短いながらも返事を返してくれるようにな
った。それでも、例えばアスカとするようなテンポの良い会話は望むべくもなく、何も言
葉を交わさないまま、二人静かな時間を過ごすことの方がずっと多かったのだ。
 だがいつからかシンジは、レイとの間の静寂が、不思議と気にならなくなっていた。逆
に、つい先程境内裏を歩いた時のように、そんな沈黙がどこか心地よいとすら感じ始めて
いた。
 他人との接触を恐れ、自らの殻の中で、外の世界に怯える弱い自分。そんな自分をレイ
だけは受け入れてくれるような、レイの前では自分が自分でいていいような、そんな気が
していたのだ。

(でも、今は……)

 意識を過去から現実へと戻したシンジは、軽く俯いた。
 今この時ほど、レイと過ごす時間を重いと感じたことがあっただろうか。初めてレイの
部屋に行った後、二人でネルフ本部へ向かった時でさえ、精神的な重荷はもう少し軽かっ
た気がする。頭を抱えたくなったのはあの時も同じだが、それでも、あれは偶然の事故だ
ったのだと言い訳ができたからだ。
 だが今日は違う。それが分かっているだけに、シンジの心は麻のように乱れる。

(ミサトさんたち、早く帰ってきてくれないかな……)

 何故だか、時間が流れるのがひどく遅いような気がした。一部と二部のインターバルは
一体どのくらいだろう。夜空を見上げても、そこに気を紛らわせてくれる花火はない。喉
の渇きを癒そうと水に口を付けると、ゴクリという音が自分の中でひどく大きく響いたよ
うな気がした。

「……あ、あの、ミサトさんたち遅いね」
「……」
「……加持さんたちも、ビールを買いに行っただけだから、そんなに時間はかからないよ
ね、きっと」

 そんなつまらないことを口にして、相手の顔色を伺う自分が嫌だった。もしレイが返事
をしてくれて、それで先程のことをうやむやにできたらと、密かに期待している自分に、
ひどい嫌悪感を覚えた。
 レイは無表情のまま、短い相槌すら返してくれない。それが自分の心を見透かされてい
る証のように思えて、シンジは泣きたい気分だった。

(なんで、こんなことになっちゃったんだろう……)

 時間をかけてゆっくり熟成されるワインのように、レイとの心の距離が少しずつ近付い
ている。レイがミサトの部屋に来て以来、シンジはそんな手応えを感じていた。
 だがそれも今夜のことで、全てご破算になってしまうのだろうか。或いは一晩がたてば、
何事もなかったかのように、互いに向き合うことが出来るだろうか。

(そんなの、絶対無理だ……)

 後者の可能性が限りなくゼロに近いことを、シンジは認めざるを得なかった。
 彼女の想い人は一体誰なのか。その疑問を胸に抱いたまま、レイと向き合うのはあまり
に辛すぎる。おそらくは、毎日何かしらの形で顔を合わせること自体、ひどい苦痛を伴う
はずだ。
 今レイにそれを尋ねてしまったら、どんな答えが返ってくるにせよ、もう自分たちの関
係は以前のようなものには戻れない。おそらくは永遠に。だがレイとの間に何かを望むの
なら、その疑問は避けて通れないのだ。今のまま、レイから逃げたままでは、その先に何
もないということはハッキリと分かっているのだから。
 内心の葛藤を完全に振り払えたわけではない。だがそれでもシンジは、おずおずと口を
開かずにはいられなかった。

「あの、綾波……」
「……」
「その、さ、さっきのことなんだけど……」

 軽くどもりながら話を切り出すと、それまで何の反応も示さなかったレイの体が、一瞬
ピクリと震えたような気がした。

「……あの、どうして、さっきはあんなこと聞いたの?」

 なけなしの勇気を振り絞ってシンジは尋ねたが、レイは押し黙ったままだった。
 もしかしたらその問いすらも黙殺されてしまったのだろうか。不安になったシンジがレ
イに視線を送ると、その口から一言だけ、ポツリと言葉が漏れた。

「……葛城三佐」
「……ミサトさん?」

 レイはほんの僅か頷くと、訥々と話を続けた。

「……前に、本部から一緒に帰ったとき、葛城三佐に言われた」
「……言われたって、何を?」
「……碇くんのこと」
「僕のこと?」
「……ええ」
「あの、僕のことって……」
「……葛城三佐は……私が……碇くんに恋をしていると……そう言っていた」

 途切れ途切れのレイの言葉の意味が、徐々に頭の中で意味を成していく。すると、急に
熱に浮かされたかのように、シンジの目の前がゆらゆらと揺らぎ始めた。

「……私には、恋というものがよく分からない」
「……」
「……でも、それからずっと落ち着かなかった」
「……」
「……いつも、そのことばかり考えていた」
「……」
「……碇くんの心の中が、知りたいと思った」
「……」
「……碇くんにとって、自分がどんな存在なのか、分からなかったから」
「……」
「だから、私……」

 語り続けるレイの声が、話が進んでいくにつれ、今にも消え入りそうなものへと変わっ
ていく。それに気づいたシンジは思わず顔を上げ、レイの横顔を見つめた。

(綾波が、怯えてる……?)

 例えばそれが、涙や悲鳴という形になって、ハッキリと表に表れるわけではない。だが
シンジの目に映ったのは、まるで迷子の子供が誰か縋る相手を求めているような、そんな
弱々しい雰囲気のレイだった。
 それを目の当たりにしたシンジは、レイの本当に尋ねたかったことを、今更ながらに悟
った気がした。

『……碇くんは、誰かを、好きになったことがある?』

 そう尋ねたとき、自分の肩に置かれたレイの手は微かに震えていた。きっとあの時レイ
は、牙をむき出しにして襲い掛かる怖れという名の感情に、その身を震わせていたのだろ
う。それなのに自分は……。

(最低だ、僕は……)

 レイはもうかつてのレイではない。感情の揺れなど欠片も見せず、いつも無表情だった
少女はもういない。嬉しい時は微かに目を細め、自分の何でもない言葉に頬を染め、抑え
きれない不安にその瞳を揺らす。自分と同じように彼女もまた、大切な人への想いに身を
焦がしていたのだろう。
 それなのに自分は、どうしてそれを受け止めてあげられなかったのだろう。
 もし逃げてはいけない時があるというのなら、きっとあの時がそうだったのだ。

(ごめん、綾波……)

 今からでも、その過ちは正せるだろうか。
 自分の想いは、目の前の少女に届くだろうか。

(……違う。そうしなきゃいけないんだ)

 俯いたままのシンジの瞳に、強い意志の篭った光が宿った。

「綾波……」
「……何?」
「ごめん。さっきは、きちんと答えられなかったけど……」
「……」
「……あの、僕……誰かを好きになったこと……あるよ」

 レイの華奢な肩が目に見えて震え、その瞳にはハッキリと、何かに怯える色が浮かぶ。
シンジはそれに気づいたが、そのまま話を続けた。

「僕さ……」
「……」
「……僕、ついこの間まで、明日のことなんてあんまり考えなかったんだ」
「……」
「今日が終わって明日が来ても、楽しいことより辛いことの方が多いんだろうなって、い
つも思ってたから……」
「……」
「前に、綾波は言ってたよね、自分にはエヴァ以外何もないって。あれさ、今考えてみる
と、僕も同じだったんじゃないかなって、そんな気がする……」
「……」
「でも今はね、僕、明日のことばかり考えるんだ。不思議だよね。朝目が覚めて、自分の
周りにみんながいて、僕もその中にいるっていうだけで、何だかとても嬉しいんだ」
「……」
「僕、思うんだ。もしかしたら僕は、エヴァ以外の何かを見つけたのかもしれないって…
…」
「……」
「でも、僕がそんな風に思ったのは、ついこの間のことで……」
「……」
「それは、前からずっと気になってた子が、僕と同じ部屋で暮らし始めてからで……」
「……」
「その子と初めて会った頃は、何か話しかけても、素っ気ない返事しかしてくれなかった
んだ。きっとその子は、僕のことなんか全然興味がなかったんだと思う」
「……」
「でもその子、笑ってくれたんだ。僕はその笑顔が忘れられなくて、またあんな風に笑っ
てくれたらいいなって、そう思うようになって。その時からずっと、その子のことが気に
なってた……」
「……」
「それから、その子と一緒の部屋で暮らすようになって、一緒に学校に行ったり、夕飯を
作ったりして。そうしたら僕、もっとその子のことが知りたくなって、もっとその子と一
緒にいたいって思うようになってた……」

 自分の本心を晒け出すのはひどく勇気がいることだったが、一旦口を開いてからは、シ
ンジは語り続けるのを止めなかった。普段なら絶対口にできないような台詞が、すらすら
と口をついて出てくる。それはシンジの偽らざる本心を、そのまま言葉にしていたからか
もしれない。だがそれでも、その先の一言を口にするのには、並外れた努力と決意が必要
だった。

「だから、その……。僕が言いたいのは……」

 紡ぎだされる言葉が、一旦そこで途切れる。自分の唇が情けないくらいに震えているの
がよく分かる。肺が一杯になるくらいに息を吸い込み、そして空になるくらいに大きく吐
き出す。だがシンジの心臓は、狂ったような速さで鼓動を刻むのを止めなかった。
 言え、言うんだ。
 挫けそうな心を必死に叱咤すると、シンジは体の向きを変え、レイの横顔を真っ直ぐ見
据えた。

「綾波……」

 真剣な色を湛える黒い瞳は、何よりも雄弁に、シンジの気持ちを物語っていた。
 もう逃げない。決して目の前の相手から視線を逸らさない。その真紅の瞳をずっと見つ
めていたいから。その瞳に自分を見つめてほしいと思うから。
 そしてシンジは言った。

「……僕……綾波のこと……好きだよ」
「ぁ……」

 小さな声がレイの口から漏れ、その白皙の頬がさっと朱に染まる。

「ゴメン……。さっき聞かれたときに、そう言えれば良かったんだけど……」
「……」
「僕、怖かったんだ。もし綾波の好きな人が、僕じゃなかったらどうしようって。それを
考えたら、どうしても言えなくて……」
「……」
「情けないよね……。僕は臆病でずるい、最低な奴なんだ……」

 そう言って軽く項垂れるシンジに、レイは少し身を乗り出すと、その顔を覗き込むよう
にして、そっと囁いた。

「……そんなこと、言わないで」
「え?」
「……碇くん、自分を責めないで」
「綾波……」

 何時の間にそれを取り戻したのか、再び柔らかな雰囲気を身に纏ったレイは、ほんの僅
か目を細めながら、ゆっくりと口を開いた。

「……碇くん、ありがとう」
「え?」
「……好きだと言ってくれて……ありがとう。……私、嬉しかった……とても」
「綾波……」
「……私、碇くんに伝えたいことがある」
「伝えたい、こと?」
「……私も、あなたが好き」
「ぁ……」

 ふぅっと吐息を漏らしたきり、シンジはしばしの間絶句した。高熱に浮かされたかのよ
うに体全体が熱く、目の前の光景はグラグラと揺れ続ける。こんな時はどんな顔をすれば
いいのか、一体何を言えばいいのか。軽い混乱状態にいたシンジに、それが分かるはずも
なかった。

「あ、あの、ごめん、僕、こういうとき、どうしたらいいのか分からなくて、それで、あ
の、何て言ったらいいか、ごめん……」

 何に対して謝っているのか、シンジ自身よく分からなかったし、気の利いたことの一つ
も言えない自分自身が恨めしくもあった。だが胸の奥から止めどなく想いが溢れ続け、そ
の流れに翻弄されるまま、シンジはその言葉を繰り返し続けた。壊れかけたCDプレイヤ
ーのように、何度も何度も同じ言葉を。
 すると、シンジを見つめるレイの表情がゆっくりと変化していった。

「……私は、分かる気がするわ」
「え?」
「……碇くんが、前に教えてくれたもの」
「僕が……?」
「……ええ。こういう時は、笑えばいいのだと思う、きっと」

 何時の間にか、レイの顔には柔らかな微笑みが浮かんでいた。見る者全てを魅了し、そ
の言葉を失わせる美しい微笑。シンジの口はいつしか動きを止め、その瞳はレイの微笑み
に捕らわれたまま、1センチたりとも動かすことが出来なかった。
 あのプラグの中での微笑とは違い、それはシンジの言葉を受けて作り出されたものでは
ない。その微笑みは、未だ成長過程にあるレイの心が、自らの力で生み出した微笑みだっ
た。

「綾波……」

 まるでその微笑みに吸い寄せられるかのように、シンジの唇が、ゆっくりとレイのそれ
へと近づいていく。心臓が破裂しそうなくらいの鼓動を刻む中、シンジは右手をレイの頬
にそっと当てた。そして少しずつ力を加えレイを引き寄せると、唇の位置を確認して目を
閉じる。二人の距離が少しづつ縮まっていき、やがて互いの熱い吐息を微かに感じた後、
その唇が一つに重なった。
 初めてのキス。
 レイと一つになっている間、シンジの中を様々な思い出が通り過ぎていった。
 初めて出会った頃の、人形のようだったレイ。
 プラグの中、とても綺麗な微笑みを見せてくれたレイ。
 同じ部屋で暮らすようになって、少しずつ心を開いてくれたレイ。
 そして、今ここで自分とキスをしているレイ。
 シンジの身体中の神経が全て唇に集中し、ただその一点のみで相手を感じる。他の全て
は意味を失い、綾波レイという少女だけが、シンジの世界に存在していた。視界は闇に閉
ざされていても、そこに恐怖はない。触れ合う唇、溶け合う心。その感覚に、この瞬間だ
けは、自分たちが一つになっているのだと確信できたから。

「……はぁ」

 唇を離して息を整えると、シンジは無言のまま目の前の少女を見つめた。何が起こった
のかよく分からないという表情で、ぼんやりと自分を見つめるレイ。暗がりでもその頬が
紅潮しきっているのが分かる。少しだけ荒くなった息づかいをハッキリと感じる。

(キス、してしまった……)

 感情の高ぶりが収まると、入れ替わるようにして、何かムズムズとしたものが心を満た
し始める。嬉しいけれど、胸の辺りがくすぐったくて、部屋に帰って布団をかぶり、その
ままゴロゴロと身悶えしたい気分だった。

「あ、あの、あの、綾波……」
「……な、何?」

 ポ〜っと熱に浮かされた瞳のまま、レイが軽くどもりながら答える。初めて見るレイの
そんな表情に、シンジの中では、胸の高鳴りと混乱に益々拍車がかかっていた。

「あ、あの、えっと、ゴ、ゴメン……」
「……どうして、謝るの?」
「ど、どうしてって、あの、どうしてだろう。えっと、でも、いきなりこんなことしちゃ
って。あの、もしかしたら迷惑だったかもって、それで、あの……」
「……迷惑じゃない」

 ボソボソと無粋な言葉を並べるシンジに、レイは静かな、それでいて強い意志の篭った
声を返した。

「……迷惑ではないから」

 そう言うと、レイはシンジにそっと身を寄せた。

「……嬉しかったから。……だから、謝らないで」

 ゴメンと再び言いかけて、シンジは慌ててその言葉を飲み込んだ。

「……うん、僕も、嬉しかった」

 囁くようにしてそう言うと、シンジはギクシャクとレイの肩に手を置き、自分の方へそ
の体を引き寄せた。突然のその行動に驚いたのか、レイの体がピクリと震える。だがすぐ
に少女は、安心したかのように目を閉じ、シンジの胸に顔を埋めるのだった。
 頭上の満月から柔かな光が降り注ぐ中、重なり合う恋人達のシルエット。
 今この時、シンジとレイは確かに幸せだった。



 シンジとレイが二人きりの時間を過ごす一方、そこから少し離れたところには、二人を
見守る四つの影があった。

「パパとママ、チュ〜してたね」
「そうね。やっと、二人の気持ちが一つになったのね」

 ミサトが感慨深げに漏らすと、その脇の加持が軽く目を細めながら言った。

「いいもんだな、こういうのも。ところで葛城、これもシナリオの内なのか?」
「まさか、そんなわけないじゃない。最後の一歩を踏み出したのは、あの子たち自身だわ」
「シナリオ? ちょっとミサト、それってどういうことよ? ひょっとして今日のことっ
て、全部仕組まれてたっていうの?」
「ん〜、仕組まれてたっていうのは、ちょっと大袈裟だけどね。私はただ、あの子たちに
二人だけの時間をあげたかっただけ」
「な〜んだ、そうならそうって言ってくれれば、アタシも一肌脱いだのにさ」
「あら、そう? じゃあアスカにも協力してもらえばよかったかしら」
「全く、あの二人って何か煮え切らなかったけど、ま、これでいいんじゃないの?」
「そうね。……さ、それじゃあたしたちは先に帰りましょうか」
「もう帰るの? パパとママは?」
「う〜ん、あなたのパパとママは、もうちょっと二人きりにしてあげましょうね」
「う? どして?」
「きっとキミちゃんも大人になったら分かるわ。さ、行きましょう」

 優しくそう言うと、ミサトはまだ不思議そうにしているキミちゃんを抱き上げた。そし
てその場を立ち去る間際、肩越しに振り向き、そっと身を寄せ合うシンジとレイの姿をも
う一度見つめた。

「ねえミサト、何してるの? 早く行きましょうよ」
「……ええ、今行くわ」

 その口元は、ふわりと柔らかな微笑で彩られていた。





 シンジの胸に身を預けたまま、レイはうっとりと目を閉じていた。
 唇にはつい先程の感触がまだ残っている。
 瞳を閉ざしシンジと唇を重ねていた間、触れ合った部分に意識が集中し、そこから相手
のことがより一層感じ取れるような気がした。トクトクトクと、どうしようもなく胸の高
鳴りを覚える中で、自分たちの心の波長がピタリと一つに合わさっていくような、そんな
感覚すらレイは覚えていた。
 シンジのことを想う気持ち。自分だけの好きという形。小さなグラスに水が一杯に注が
れていくように、自分の心の器がシンジへの想いで満たされていくのを、レイはひしひし
と感じていた。

(この気持ち……。きっとこれが、そうなのね)

 今まで知らなかったその想い。それをうまく言葉で言い表すことはできないが、ミサト
が言っていた通り、きっとそれは重要なことではないのだろう。その気持ちが自分の中に
あるということ、それが一番大事なこと。今ならそれがよく分かる。

「……碇くん」
「何?」
「……私、分かった気がするわ」
「何が分かったの?」
「……誰かを好きになるということが、どういうことなのか」
「うん、僕も、同じだよ……」
「ん……」

 その耳元でシンジが囁くと、口から漏れる甘い声と共に、レイは僅かに身じろぎした。
まだそれほど厚くない少年の胸板に頬を摺り寄せると、シンジがレイの髪を優しく撫でた
のだ。
 浴衣越しに感じるのはシンジの心臓の鼓動。ドキドキと弾むようなリズムに、レイは僅
かに微笑みを浮かべる。きっと自分と同じように、彼もまた、どうしようもなく昂ぶる心
を抑えきれずにいるのだろう。
 シンジとの間に感じるそんな連帯感が、何故だかとても嬉しかった。

(碇くん……)

 レイは思った。
 もしかすると、自分もそれを見つけたのかもしれない。いや、きっと見つけることが出
来たに違いない。シンジが言っていたエヴァ以外の何か、本当に大事に思える何かを。
 心から愛しいと想える人。
 その胸の中、レイは例えようもない幸福感に包み込まれていた。
 この時間が永遠に続けばいいのにと、そう思っていた。
 その願いは、水平線の彼方に浮かぶ蜃気楼のように儚く、繊細なガラス細工以上に脆い
ものだということは、分かっていたはずなのに。



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