ふと気がついたとき、レイは暖かな日差しの中に一人佇んでいた。
 右手にはさほど大きくない児童公園が広がり、時折吹き付ける風がさわさわと緑を揺ら
している。左手には片側一車線の道路が坂の上へと延びており、その向こうには、街の中
心部に建設された高層ビル群が見て取れた。
 周囲に全く人気がないことを除けば、それは第三新東京市の郊外ならば、どこにでもあ
るような風景だ。
 ここは学校から本部へと向かう道だったろうか。それとも彼といつも一緒に行くスーパ
ーへの途中だったろうか。どこかでみたような気がするが、それがどこなのか分からない。

(……私、ここで何を?)

 どうも分からないことばかりだとレイは思った。ここがどこで、自分が何をしているの
かすらも分からない。記憶の糸を手繰り寄せようとしてみても、頭の中は霞がかかったよ
うにぼんやりとしている。
 彼はどこだろう?
 ふわふわと足元も覚束ないまま、レイは周囲を見回した。自分が困ったとき、いつも助
けの手を差し伸べてくれる、あの少年の姿を求めて。
 右に、左に、その真紅の瞳がゆっくりと動くが、やがてそれは軽い失望の色と共に下を
向いた。

(……いないのね)

 レイの口から吐息が漏れ、その表情が僅かに曇りかける。

『綾波〜!』
『ぁ……』

 弾かれたように顔を上げると、視線の先に映ったのは、坂の上で手を振るシンジだった。
 その姿に、レイは全てを思い出した。そうだ、自分は彼を待っていたのだ。彼単独の戦
闘訓練が終わった後、どこかへ一緒に出かける約束をしていたのだから。どうして自分は、
そんな大事な約束の事を忘れていたのだろう。

『ごめん、遅くなっちゃって』
『別に、構わないわ』
『テストは割と早く終わったんだけど、その後でミサトさんに捕まっちゃって』
『そう』

 苦笑気味に微笑むシンジにつられ、レイの頬も少しだけ緩む。
 同じ部屋で暮らすようになって、レイもミサトの性癖を多少なりとも理解していた。き
っとあの作戦部長は、いそいそと本部を出ようとするシンジを散々にからかったのだろう。
この後あの部屋へ帰ったら、レイ自身もその攻撃に晒されるに違いない。だが想像の中の
そんな光景は、決して不快感を覚えるものではなかった。

『じゃ、行こうか』
『ええ』

 二人連れ立って歩き始めると、やがてシンジの右手が伸び、レイの左手を包み込んだ。
予告なしのその行動にレイの目が軽く見開かれたが、すぐにそれは優しげに細められてい
く。横目でこっそり伺うと、平静を装っているシンジの頬が少し高潮しているのが分かっ
た。

『あの、いい、かな?』
『え、ええ……』

 途切れ途切れに尋ねる彼に、少しどもりながら返す。他人の目がない場所でという条件
付ではあったが、二人の間ではそうすることが珍しくなくなっていた。
 地上から本部へと向かうリニアの中で。
 誰もいない公園を二人で通り抜けるときに。
 夕食の買い物を終え二人で帰宅する途中。
 もう何度も繰り返してきたその動作。それなのに手を繋ぐたび、ハッキリと自覚できる
ほど心臓の鼓動が早くなり、頬が火照ってくるのはどうしてだろう。半ば無意識の内に、
レイは軽い吐息を漏らしていた。

『どうかしたの、溜息なんかついて?』
『別に、何でもない』
『でも、顔が赤いよ?』

 自分のことは棚に上げクスクスと笑うシンジに、レイは益々頬の赤みが増していく気が
した。ここのところ頻繁に意識するようになった、羞恥という感情。ミサトやアスカが相
手なら平静を保つのは簡単なのに、シンジの前ではいとも簡単に動揺してしまう自分がも
どかしい。形勢の不利を悟ったレイは、話題を逸らすことで状況を変えようと試みた。

『碇くん……』
『何?』
『今日は、どこに行くの?』
『気になる?』

 必要なこと以外には関心を示さない――或いはそう見える――レイの、意外な反応が嬉
しかったのか、シンジは微笑みながら言った。

『今日はさ、あの子の誕生日プレゼントを買いに行こうと思うんだ』
『あの子の?』
『うん。ほら、あの子もうすぐ四歳になるって言ってたでしょ? 誕生日のちゃんとした
日付は分からないけど、今度みんなでお祝いしようってアスカが言いだしてさ』
『そう』
『ねえ、プレゼントはどんなのがいいと思う?』
『……私には、よく分からない。碇くんはどう思うの?』
『うん、ちょっと考えてみたんだけど……』

 と言いかけたところで、言葉がやや唐突に途切れる。不思議に思ったレイが様子を窺う
と、シンジの鼻先にポツリと当たる物が見えた。

『雨だ……』

 シンジが空に向けて手をかざし、レイも顔を上げる。

『さっきまでは、あんなに晴れてたのに』

 少し残念そうなシンジの呟きに、レイは軽く頷いた。何時の間にか空一面が厚い黒雲に
覆われ、やがて糸を引くようにして雨粒が落ちてくる。

『綾波、傘持ってきてる?』
『いいえ』
『そっか……』

 立ち止まり少し考え込むと、やがてシンジは鞄から折畳み傘を取り出した。

『あの、傘、一つしかないから……』

 人の心の機微に疎い少女にも、その裏にあるシンジの意思は読み取れた。
 レイは再び赤くなった頬を隠すように俯くと、無言のまま、包み込まれた手に少しだけ
力を加えた。それが、この無口な少女にとっての承諾の意思表示だった。

『じゃ、行こうか』

 シンジが歩き始め、レイもそれに続こうとする。
 彼の手の感触が心地よい。
 その優しさが温かい。
 こんな時間がもっと続けばいい。
 このまま、ずっと……。

(……?)

 レイが異変に気づいたのは、最初の一歩を踏み出そうとした時のことだった。
 足が動かない。どんなに促しても、どんなに叱咤しても、まるで地面に根を下ろしたか
のように、レイの足は一歩たりとも前へ進んでくれなかったのだ。

『碇、くん……』

 戸惑ったレイが呼びかけても、シンジは前へ進むのを止めようとしなかった。繋いでい
た手は解かれ、その背中が徐々に遠ざかっていく。見る見るうちにレイの制服は濡れてい
き、冷たい雨粒が髪の先から滴り落ちた。

『碇くん、待って……』

 遠ざかる背中に呼びかけても、レイの想い人は振り返ろうともしなかった。
 やがて周囲の光景が暗転し、シンジの背中も、空一杯に広がっていた黒雲も、全てが闇
へと溶け込んでいく。自分のいる場所すら見失い、平衡感覚すら失いそうな漆黒の闇。
 何時の間にか足が動くようになったのに気づき、レイはシンジの姿を探し求めた。だが
いくら歩いてみても、辺りを覆いつくす闇に終わりは見えず、シンジを見つけることも出
来なかった。

『寒い……』

 弱々しく呟いて、レイはその場に座り込んだ。体がガタガタと震えだすのを止められな
い。雨に濡れた制服はピッタリと張り付き、体から温かさを奪っていく。だが凍えるよう
に寒いのは、彼の温もりを失った自分の心だった。

『一人は……嫌……』

 無意識に漏れた言葉の意味が、ジワジワと自分の中に染み込んでいく。つい先程までの
満たされた思いは消え失せ、残されたのは例えようのない喪失感と孤独だった。
 碇くん――。
 いつの間にか彼の存在が、その言葉のもつ意味が、自分の中でこんなにも大きくなって
いる。碇くん、碇くん、碇くん。心の中で三度同じ言葉を繰り返した後、レイは彼の名を
口にした。

『碇……くん……』
『何?』
『ぁ……』

 予期していなかった彼の返事に、レイは慌てて顔を上げた。
 何時の間にか、シンジが目の前に立っていた。いくら探しても見つけることの出来なか
った少年は、今はレイを見下ろすようにしている。先程の傘はさしたままだったが、それ
をレイの上にかざし、雨から守ろうとする素振りはない。心なしかその瞳は、普段の温厚
なそれと違い、冷たい光を放っているように思えた。

『こんなところで、何してるの?』

 どこか噛み合わないその問いかけに、レイの中で違和感が芽生える。自分を置いていっ
たのは彼ではないか。それなのに何故そんなことを聞くのだろう?

『碇くんを探していたの』
『僕を? どうして?』
『……約束、したから。二人で一緒に行くって』
『二人で? 無理だよ、そんなの』

 冷たい微笑を浮かべながら、シンジは短く言い放った。

『無理?』
『そうだよ』
『何故、無理なの?』

 するとシンジが浮かべていた笑みが、急激に歪んだものへと変化していった。

『そんなの決まってるじゃないか。だって綾波は……』



Kimiの名は −第十話−



「っ!」

 目覚めは声にならない叫びと共に訪れた。
 唐突な世界の転換に、レイは自分の存在がどこにあるのかを一瞬見失ったが、何度か瞬
きをすると、まだ覚醒しきっていない眼を周囲へと向けた。
 蛍光灯の淡くボンヤリとした白い光。向かい側に据え付けられた赤い色の座席。それは
いつも乗っているリニアの乗客用の物だとやがて気づいた。窓の外を見ると、ジオフロン
トを人口の夕日の光が照らしている。
 意識が鮮明になるにつれ、断片的な記憶が徐々に一本の線へと繋がっていく。
 そしてその記憶の線は、テストを終えた後、シンジ、アスカ、キミちゃんの四人で、地
上へ出るリニアへ乗ったところで切れていた。

「綾波、大丈夫?」

 声をかけられて初めて、レイは、自分がシンジに寄りかかっていることに気づいた。ま
だ華奢な少年の肩に頭を持たれかけ、上半身は完全に相手に預ける格好になっている。

「何だか、うなされてるように見えたけど……」
「うなされている?」
「うん。悪い夢でも見てたのかなって思って」
「夢……」

 シンジの言葉が正しいなら、先ほどの情景は夢だったのだろうか。
 それまで夢を見た記憶などレイにはなかったが、初めてのそれはあまり心地よいもので
はなかった。

「ねえママ、どうしたの?」

 するとレイの右側に座っていたキミちゃんが、心配そうに顔を覗き込んできた。
 気遣うように自分を見つめる二人の視線に、努めて平静を装いレイは答えた。

「何でもないわ」
「そんなこと言ってさ、本当はシンジの夢でも見てたんでしょ? 寝言で碇くん碇くんっ
て、聞いてるこっちのほうが恥ずかしかったわよ」
「寝言?」
「そうよ、自分じゃ気づかないでしょうけどね。アンタ、初めは気持ちよさそうに寝てた
のに、そのうち急に眉に皺寄せ出してさ。だからきっと夢の中で、馬鹿シンジが何かヘマ
したんだろうなって話してたわけ」
「ア、アスカ、茶化さないでよ」
「まあ、今度の休みには念願の初デートをする二人だもんね〜。今からその夢でも見てた
ってとこかしらねえ」
「な、何だよそれ、誰がそんなこと!?」
「あら、本人に聞いたら簡単に教えてくれたわよ。アンタ、今度の休みは本部のプールに
行って、泳ぎを教わるんですって?」
「本人って、綾波、まさか……」

 そんなこと言ってやしないよねという思いを込め、真紅の瞳を覗き込むシンジ。だがレ
イはあっさりと頷き、アスカの言葉を肯定してみせた。

「隠すことではないから」
「あ、綾波ぃ……」

 レイの言うことにも一理あるが、シンジの口調が恨めしげになるのも無理はない。アス
カがその事実を知っているなら、当然ミサトにも話が筒抜けになっているはずだ。そして
それは、ネルフ全体が同じ知識を共有していると言っても過言ではないのだ。
 この後待ち受けているだろうミサトの尋問を思い、シンジは心の中で深い深い溜息をつ
いた。だが悩める少年の予想に反し、一人だけそのことを知らなかった人間がいたのであ
る。

「ねえパパぁ、ママと一緒にプールに行くの?」
「え、う、うん……」
「ほんと? そいじゃあたしも一緒に行く」
「え……」
「そいでね、パパと一緒に泳ぐ練習をするの!」

 元気よく宣言すると、キミちゃんはにっこりと微笑んだ。

(こうなるのが分かってたから、この子には内緒にしてたのに……)
(な、何よ、アタシが悪いってわけ?)

 目と目でそんな会話を交わすと、シンジとアスカの間にやや気まずい空気が流れた。

「あ、あ〜、おほん、ちょっとアンタ」
「なに、アスカお姉ちゃん?」
「今度のプールはね、残念だけどアンタは一緒に行けないの」
「う? どして?」
「あんたのパパとママもね、たまには二人きりになりたいのよ。だからアンタは、家でア
タシと一緒にいるのよ」
「なんで? あたしもプール行く」
「だ〜め。大人しく留守番してなさい」
「や。アスカお姉ちゃんが一人でお留守番してて」
「そうやってあんまり聞き分けがないと、アンタのパパも怒るわよ」
「そんなことないもん。ねえパパぁ、あたしも一緒に行っていいでしょ?」
「あ、え、え〜っと……」

 どうにも煮え切らないシンジの反応に、キミちゃんも何かを感じ取ったようだった。

「……ダメなの?」
「う、うん、ごめんね……」
「でも、あたしもプール行きたい……」

 キミちゃんは何かを我慢するようにギュッと唇を噛み締めた。だがそのクリクリとした
瞳が序々に潤み始めたかと思うと、目尻からポロリと涙が零れ落ちた。

「う……。こ、この馬鹿シンジ、もう少し言い方ってものがあるじゃない」
「そ、そんな……。元はといえばアスカが悪いんじゃないか」
「何よ、この期に及んで人のせいにする気ぃ?!」
「だって本当のことじゃないか!」

 半ば自暴自棄で完全に不毛な議論が進行する一方、キミちゃんの肩にそっと置かれた手
があった。

「泣いてはダメ」
「う、ひっく、だって……」
「この次は……」
「う?」
「この次は、一緒に行くから」

 だから今回は我慢してほしい。そんなレイの意思を読み取ったのか、やがてキミちゃん
はしゃくりあげるのを止めた。

「ほんと? 今度はあたしも一緒に行ける?」
「ええ」
「ママ、やくそく?」
「ええ」
「……そいじゃあたし、アスカお姉ちゃんとお留守番してる」
「そう、いい子ね」

 微かに口元をほころばせるレイに、シンジとアスカもいつしか口喧嘩を止めていた。

「……ファーストって、案外将来いい保母さんになるかもしれないわね」

 慰めるようにして、キミちゃんの頭を優しく撫でるレイの姿に、アスカは思わず呟くの
だった。





「ねえパパ、今日はママといっしょに帰らないの?」
「綾波は取りにいくものがあるから、今日はアスカと3人で帰るんだよ」
「何を取りに行くの?」
「えっと……。と、とにかく大事なものを取りに行くんだ」

 実はレイの目的は、今度のプールで使う水着を、以前の住居に取りにいくことである。
シンジが適当にお茶を濁したのは、あまりこの話題を蒸し返したくなかったからだった。

「じゃ綾波、また後でね」
「ええ」
「ママ、早く帰ってきてね」
「ええ」
「大丈夫よ。アンタがそんなこと言わなくても、愛しのシンジ様に会うためなら、あんた
のママは飛んで帰ってくるわよ」
「いとしのシンジさまって何?」
「要するに、アンタのママはパパのことが大好きってことよ」
「ア、アスカぁ、あんまり変なこと教えないでよ」

 シンジが思わず情けない声を上げると、アスカが軽く吹きだし、それにつられてキミち
ゃんも一緒に笑った。
 特に深い意味のない会話と、他愛のない時間。そこに加わらなければならない理由など
何もない。以前のレイならば、さっさと踵を返しその場を離れていたことだろう。
 だが今のレイは、それを心地よいと感じていた。
 少し歩いてからふと振り返ると、三人はまだこちらを見つめている。レイが見ているの
に気づいたキミちゃんは一生懸命に手を振り、それにつられてシンジも軽く手を上げた。
その脇で佇むアスカは腕を組んだままだったが、その眼差しは以前レイに向けられていた
ものよりも、ずっと温かなものだった。
 自分の帰るべき場所、そこで自分を待っていてくれる人たち。
 そうしたものがあるというのは、きっと幸せなことなのだろう。レイはそう思った。
 今日の夕食は、シンジが腕によりをかけて作る野菜パスタ。あの子はまだフォークの使
い方が上手ではないから、手伝ってあげなければいけないだろう。シンジの横で洗い物を
済ませた後は、絵本を読んであげる約束がある。本を読むときは、もっと言葉に抑揚をつ
けなければいけない。アスカにそんなことを言われたから、今日はそれに気をつけてみよ
う。
 降り注ぐ日差しは柔らかく、優しく吹き付ける風が心地よい。
 こんな日は、吸い込む空気もいつもより澄んでいるように思える。
 見上げると、そこには抜けるような青い空。
 世界はこんなにも輝いている。
 きっと何かの文句にあったように、以前の自分は目があっても見ず、耳があっても聞い
てはいなかったのだ。そして何より、心があっても物事を感じ取ろうとしていなかったの
だろう。
 今更ではあるが、レイはシンジに一緒に来てもらえば良かったと感じていた。
 彼と指を絡ませこの青空の下を歩いたなら、もっともっと幸せな気持ちに浸れたに違い
ないのに。
 早くあの場所へと戻ろう。
 心地よい温かさに満ちた、あの部屋へ。
 そんな思いを反映してか、レイの足取りは軽かった。荒れ果て、今にも崩れそうな以前
の住居には、心を浮き立たせるようなものなど何もない。だが灰色にくすんだ建物も、人
気のない閑散とした雰囲気も、その場を覆っている死んだような静寂も、レイの穏やかな
表情を変えることはなかった。
 狭く暗い階段を上り、かつて何度も開けたあのドアの前に立つまでは。

(……?)

 レイが最初に違和感を覚えたのはそのときのことだった。
 目の前に広がる光景は以前と何も変わらないはずなのに、そこから受ける印象がどこか
違う。それが何なのか、レイの中にハッキリとしたイメージはない。ただ漠然とした違い
を感じるというだけのことだ。だが、確かに何かが違う。
 考えてみれば、それもまた不思議な話だった。以前はこの場所から何かの印象を受ける
ことなどなかったように思える。レイにとってこの場所は、ただ休息を取るためだけの空
間であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだから。

(それなのに、何故?)

 ふとしたことで浮かび上がったその疑問が、心の片隅で引っかかる。危険な場所に足を
踏み入れかけているかのような、言いようのない不安が沸きあがり、何故か目前の扉を開
くのが躊躇われた。
 ざわざわと胸騒ぎのようなものを抱えたまま、レイはしばしその場に立ち尽くしたが、
やがて意を決してドアノブに手をかけた。いつまでもこの場所で無駄な時間を過ごすわけ
にはいかない。今日は早く帰るから、とあの子に約束したのだから。

「ぁ……」

 部屋の中へ足を一歩踏み入れて、レイの動きが止まった。背後では軋んだような音を立
ててドアが閉まる。だがそれも、どこか遠いところで虚ろに響いているような気がした。
 ここは、本当にかつて自分が暮らしていた部屋なのだろうか。
 こんな場所で生活していて、自分は何も感じることがなかったのだろうか。
 今までは意識すらしなかったその事実に、レイは愕然とする思いだった。
 何もない部屋。
 灰色の部屋。
 そこには色がなかった。
 生の息吹がなかった。
 だがこの場所こそが、自分という存在を最も良く象徴する場所なのだ。
 そしてレイの中で、何か暗く巨大なものが首をもたげ始める。心の奥底で眠りについて
いたそれは、束の間の休息から目覚め、レイが大切に育んできたものをその鋭い牙でズタ
ズタに引き裂いていく。

「ぁ……いや……」

 終わりへと流れ行く時間は、決してその歩みを止めようとしない。そして自らを縛る運
命の鎖は、用意された終焉がやってくるまで、決して解き放たれることはないのだ。
 自分は、彼と一緒に行くことなどできはしない。
 覚めない夢など存在しないように、レイにとって、シンジたちと過ごす時間は刹那の夢
であり、目の前に広がるこの部屋こそが現実なのだ。
 エヴァ以外の絆を見つけることができたのだと、そう思っていた。だがそれは、波打ち
際に作られた砂の城のように、ひどく脆いものに過ぎなかったのだ。たった一撫で、波が
その場をさらうだけで、その後には何も残らない。まるで夏の夜の泡沫の夢のように、全
ては色を失い、そして消えていくのだ。

(消える。私が消える。みんなの中から私が消える……)

 ミサトの中からも、アスカの中からも。
 あの子の中からかも。
 そして、彼の中からも……。

「あ……ぁ……」

 いつしかレイの体は、ガタガタと震えだしていた。
 自分の背負った運命を忘れてしまったわけではない。
 ただ、生まれて初めて経験する穏やかな時間の中、そこから少しだけ目を逸らしていた
だけなのだ。
 荒涼とした心の渇きを癒してくれたあの少年。
 ずっと埋めることのできなかった心の隙間が、少しずつ満たされていく心地よさ。
 あの部屋にいて、幸せという言葉の意味を理解し始めていた。
 だが、自分に未来を夢見ることなど、許されるはずがないのだ。



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