そこから自分がどんな行動をとったのか、レイの中には細切れのフィルムのように、途 切れ途切れの記憶しかない。 何かから逃げ出すように灰色の部屋を抜け出したこと。いつしか降り出した雨に制服を 濡らしながら、当てもなく街を彷徨い続けたこと。頭と心の中にポッカリと大きな空洞が できたようで、何も見えず、何も聞こえず、何も感じることができなかった。 どのくらい歩いたのか、どのようにしてそこに辿り着いたのか、レイの中には記憶がな い。だが気がついたとき、目の前にはミサトの部屋のドアがあった。 びしょ濡れになった自分を見て、驚きに目を見開くシンジ。アスカの手でバスルームへ と押し込まれると、惰性でシャワーを浴びた後、部屋に敷かれた布団に潜り込まされる。 やがて部屋に入ってきたシンジに労わりの言葉をかけられ、そっと髪を撫でられた。そし て熱を測ろうというのか、おずおずとシンジの手が伸び、それがレイの額に当てられる。 その温もりに、レイの目尻から熱いものが流れ落ち、その頬を濡らした。 こんなときにも彼の温かさを求める自分がいる。やっと手にしたそれを手放したくない と、狂おしいほどの思いを抱く自分がいる。 「綾波、どうか……したの?」 突然涙をこぼし始めたレイを、シンジは戸惑ったように見つめた。 「何か、辛いことがあったの?」 「……っ……っく……」 「あの、もし良かったら、話くらいは聞いてあげられると思うんだけど……」 手をレイの額に当てたままシンジが問いかけたが、返ってきたのは軽いしゃくりあげの 音だけだった。 「ゴメン、話したくないことなら、無理に聞かないほうがいいよね。えっと、それじゃあ さ、今日は僕とあの子は居間で寝ることにするね」 レイの明らかに普通でない様子に気を使ったのか、そんな申し出と共にシンジは立ち上 がった。そしてもう一度レイに心配そうな視線を向けると、やがて踵を返し部屋を去ろう とする。 「ぁ……」 何かを思う前に、体が動いていた。 気がついた時には、レイは手を伸ばし、シンジの洋服の裾をしっかりと握り締めていた。 「あ、綾波、どうしたの?」 「……ここにいて」 「え?」 「……眠るまで、ここにいて」 もう独りは嫌だった。他人の温もりを知ってしまった今、長い夜を孤独のうちに過ごす のは耐えられなかった。例えそれが現実から逃げているだけだとしても、それが束の間の 夢であったとしても、今は彼に傍にいてほしい。 すぐ脇にシンジの存在を感じながら、徐々に薄れていく意識の中、レイはただそれだけ を思った。 Kimiの名は −第十一話− 雨の中をずっと歩き続けたせいか、翌日レイは体調を崩した。 三十九度近い高熱を出し、荒い息を繰り返すその様子はひどく痛々しく、様子を見に来 たシンジに向ける視線にも、まるで力がない。学校を休んで付き添ったシンジは何度も医 者に診てもらうよう勧めたが、レイは首を振り無言でそれを拒絶した。 自らの体調など、どうでもよかった。 レイの心を占めていたのはたった一つの疑問。 終わりのない螺旋を永遠になぞっていくかのように、レイの意識は同じところを回り続 ける。 或いは結論など、とうの昔に出ているのかもしれない。 心の片隅では、確かにそれを意識していた。 だがレイは、その答えと向き合うのを避け続けた。 労わるように髪に触れるシンジの手の感触に、自分のために心を砕いてくれる彼の想い に、レイは溺れていた。その優しい笑顔を目にするたび、緊張した心が途端に緩んでいく のがよく分かった。 手を繋ぎ、柔らかな日差しの中を二人でのんびり歩きたい。 彼の胸の中に包み込まれ、甘い口付けをもう一度交わしたい。 心が徐々に流されていく。 だが終わりは、着実にレイの傍へと歩み寄っていた。 見ていたアニメ番組が終了すると、キミちゃんはソファの上で軽く伸びをし、隣に座っ ていたシンジに寄りかかった。 この少女にとって、夕食後の一時はとても楽しい時間帯である。 お気に入りのうさぎのクッションを抱きながら、シンジとレイの間に座り、みんなで一 緒にテレビを見ながらのんびりした時間を過ごすのだ。 だがここ数日は、いつも一緒にいるはずのレイがいないせいか、どこかその表情は冴え ないのだった。 「ねえパパぁ」 「何?」 「ママ、まだ具合悪いの?」 「うん、まだ熱が下がらないんだ。だから今日も、アスカの部屋で寝かせてもらうんだよ」 「ママだいじょうぶ? いつ元気になるの?」 「そうだね、もう少し時間が掛かるかも……」 「ねえパパ、あたしちょっとだけママのとこにいっちゃダメ?」 「今は駄目だよ。風邪が移ったらまずいし」 「でもねパパ、ほんとにちょっとだけなの」 「でも……」 「ねえパパ、お願い」 「どうしてそんなに綾波に会いたいの?」 「あのね、あたしね、ママに見せたいのがあるの」 そう言うやいなや、キミちゃんはとてとてとアスカの部屋に駆けていく。やがてリビン グに戻ってくると、少女は丸められた一枚の画用紙を差し出した。 「あのねパパ、あたしママにこれ見せたいの」 「これを?」 「うん。あのね、今日よーちえんでお絵かきをしたの。そいで先生がね、好きな絵を描い ていいって言ったから、あたし、みんなの絵を描いたんだよ」 「そうなんだ」 「あたしね、ママに見てほしくて、いっしょーけんめー書いたの」 「じゃあさ、後で綾波に渡しておくよ。それでいい?」 「うん、早く元気になってって言ってね」 嬉しそうにキミちゃんが微笑むと、アスカがその頭をポンポンと軽く叩いた。 「さ、もう子供は寝る時間よ」 「もう?」 「そうよ。ほら、歯を磨きに洗面所にいくわよ」 「でもアスカお姉ちゃん、あたし、もうちょっと起きてたいの」 「ダ〜メ。そんなこと言ってると、明日はおやつのプリンあげないわよ」 「う〜、分かった」 プリンと夜更かしを天秤にかけ、どうやら前者が勝ったらしい。アスカに手を引かれ、 渋々洗面所へと歩いていくキミちゃん。そんな少女の姿がとても微笑ましく、シンジの頬 は無意識に緩んでいくのだった。 その手の中にあるものが、新たな事件の火種になるとは知らないまま。 「綾波、ちょっと入るよ」 声に続いて襖の開く音がした。 ずっと暗い部屋で眠っていたせいか、開いた襖から差し込む光が眩しい。 何度か瞬きをした後で、レイはようやくシンジの輪郭を見分けることができた。 「具合、どう?」 「良くはないと思う」 「熱は?」 シンジが尋ねると、レイは先程計っておいた体温計を差し出した。 「38度2分か。段々熱は下がってきてるみたいだね」 「ええ」 「食欲はある?」 「あまり」 「でも何か食べないと駄目だよ。待ってて、今何か持ってくるから」 シンジが部屋を出ると、レイは気だるい体を起こし、枕で背中を支えるようにした。 少しずつではあるが、体が徐々に回復しているのが分かる。普段と変わらない生活へと 戻る日も、そう遠くはないだろう。そうなると、また現実と向き合う時間がやってくるの だろうか。そこまで思いを巡らせて、レイは軽く首を振った。 「あれ、起きても大丈夫なの?」 「ええ」 部屋に戻ったシンジはベッドの脇に腰を下ろし、りんごを摩り下ろしたものをスプーン でレイの口へと運んだ。レイはゆっくりと咀嚼し、シンジがスプーンを差し出すと再び口 を開ける。 「おいしい?」 「よく分からない。ごめんなさい……」 「ううん、いいよ。それよりちゃんと栄養をつけて、早く治さないとね」 レイの短い食事が終わると、シンジはいつもそうしているように、その日あったことを 話し始めた。学校での話題、ネルフ本部での出来事、そこにいる人たちの様子。 「委員長が、綾波のこと心配してたよ。早く良くなるといいねって、伝えてくれって」 「そう」 「委員長だけじゃなくて、ミサトさんもアスカも、綾波のこと心配してるんだよ。それに あの子はさ、まだ綾波は治らないのかって、そればっかり聞くんだ」 「そう」 「だから、みんなのためにも早く治さないとね」 「そうね」 シンジが微笑むと、レイも微かに微笑みを返す。 二人は少しの間見つめあうと、どちらからともなく唇を重ねた。 「えっと、僕、そろそろ行くね」 「ええ……」 らしくないことをしたという思いがあるのか、シンジは照れくさそうに頭を掻き、立ち 上がった。 「あ、そういえばこれ、あの子が綾波に渡してくれって」 「何?」 「今日、幼稚園で書いた絵なんだって。これを見て早く元気になってねって言ってたよ」 「そう」 「じゃ、お休み」 「お休みなさい」 ベッドのすぐ脇の机にキミちゃんの絵を置くと、シンジは部屋を出て行った。 襖が閉まり、部屋が再び暗闇に戻る。 レイは再び布団に横たわりかけたが、ふと思い立ち、キミちゃんの描いた絵を手に取っ た。そして少し躊躇った後、部屋の電気をつけ、丸められた画用紙を開く。 「ぁ……」 レイは無意識に声を発していた。 絵の中には、シンジ、レイ、キミちゃんの3人が描かれている。幼児の書いたものだか ら、技術的にはあまり見るべきところはない。傍目には、クレヨンで描かれた3つのモジ ャモジャが、一列に並んでいるだけのようにも見えただろう。 一番左にいる黒いモジャモジャは、おそらくシンジ。その隣には、水色の髪と黒い瞳を 持った小さなモジャモジャがいる。これはキミちゃんだろう。そして一番右には、レイと 思しき姿があった。 どこかに一緒に出かけようというのだろうか。3人は手を繋ぎ楽しそうに笑っており、 その上には太陽と白い雲が描かれていた。 何の変哲もない、幼児が描いた一枚の絵。 だがその中には、レイの琴線に触れる何かがあった。 「ぅ……」 胸の辺りに感じる鈍い痛みに、レイは声を漏らした。 あの少女が描いたのは、幸福な家族の肖像だった。 そしてその中には、レイがどんなに望んでも決して手に入れられないもの――眩しいく らいに輝く未来と、そこに溢れる幸せが満ちていた。 (あぁ……) もう終わりにしよう。 やはり自分はここに戻ってくるべきではなかった。 いや、初めからこの場所へやってくるべきではなかったのだ。 すべての終わりへと流れる時間を、あの灰色の部屋で、何も見ず、何も聞かず、何も感 じないまま、ただ無為に過ごしていればよかったのだ。 それなのに、自分はどうしてここへやってきたのだろう。 シンジたちと過ごす時間が長くなればなるほど、その別れは辛いものとなるだろう。そ の絆が強くなればなるほど、レイを苛む痛みは強いものになるだろう。そしていつかそれ に耐えられなくなった自分の心は、バラバラになってしまうに違いない。 一滴、二滴と、目尻から零れ落ちたものが絵を濡らす。 やがてレイは、気だるさが消えないままベッドから抜け出ると、制服へと着替え始めた。 思い通りに動かない手を叱咤し、一つ一つボタンを留める。 身支度が済むと、身のまわりの物には目もくれず、レイは部屋を出た。 「あれ、綾波どうしたの、制服なんかに着替えて?」 リビングを抜けようとすると、怪訝な顔をしたシンジに声をかけられたが、レイはそれ に答えず、無言のまま玄関へと向かった。 「ねえ綾波、どうしたんだよ。何か外に用があるなら、僕が代わりに行ってくるから」 「いい……」 「良くないよ。まだ熱があるんだから、ちゃんと寝てないと」 「もう、いいの……」 「もういいって、何だよそれ?」 「もう、ここにはいられないの」 「え?」 呆気に取られているシンジをその場に残し、レイは玄関を出た。 シンジがこのまま自分を見過ごすはずがなく、後を追いかけられるのは火を見るより明 らかだった。エレベーターを待っていては、追いつかれるのは目に見えている。レイはふ らつく足を必死に宥め、階段を駆け下りた。 駐車場を通り抜け表通りへ出ると、一刻も早くその場を離れようと、レイは駆け足にな った。 「綾波、ちょっと待ってよ!」 後ろからはシンジの声が追いかけてくる。 走り続けるうち、その声が段々と近づいてくるのがよく分かった。 このままでは追いつかれるのは時間の問題だろう。 自分では懸命に足を動かしているつもりだったが、レイが走るペースは急激に落ちてい った。突然の激しい運動に耐えかねて膝には力が入らず、肺は空気を求め、ズキズキと鈍 い痛みを体中に送り続けている。 麻のように息が乱れても、フラフラとよろめいても、レイは前に進むことを止めようと しなかった。だがいつしかその歩幅は、歩いているのと変わらないほどの大きさになって いた。やがて目の前の世界がグルグルと回り始め、ついにレイの体力は限界を迎えた。 「綾波!」 バランスを崩し、今にも地面に倒れこもうとするレイの体を、シンジが間一髪で支える。 力なくグッタリとする体を抱きかかえると、シンジは叫んだ。 「綾波、何でこんなことするんだよ!? 何だよ、もうここにいられないって!? どう して、そんなこと急に……」 シンジの目には、うっすらと涙さえ浮かんでいた。 それが彼の想いの現れであることは、レイにもよく分かる。 だが今は、その想いすらもレイの胸を締め付けるのだ。 そしてその苦しさから逃れるには、全てを終わらせるしかなかった。 「私、消えるの……」 「消える?」 事情を飲み込めていないシンジに対し、レイは訥々と話し始めた。 自分はゲンドウの計画のために作り出された存在に過ぎないこと。 全てが終わった後、無へと回帰する運命にあること。 自分が、人とは異質な存在であること。 自分を抱くシンジの腕が、徐々に震えだすのをレイは感じた。 これが自分の夢の終わりになるのだろう。 だがそれでいい。 自分はそれを望んだのだから。 だから、これは悲しむべきことではない。 レイはそう思った。 思い込もうとした。 だが話し続ける内、胸の奥に抑えつけたはずの想いが、レイの心を覆い尽くしていった。 「私、それでいいと思っていた……」 「……」 「ずっと、その日を待ち望んでいた……」 「……」 「でも、あの部屋にいて、それが変わっていった……」 「……」 「私、消えたくない……」 「……」 「あの子と、碇くんと、ここにいたい……」 まるでそれが何かの引き金だったかのように、様々な思いが解き放たれる。そしてその 波に押し流されるまま、レイの中では感情に歯止めが利かなくなっていた。 狂おしいほどの思いが後から後から湧き溢れる。 このまま、彼と共にどこかへ行ってしまえればいいのに。 二人、幸せな未来を共にすることができればいいのに。 「でも、駄目なの。私、碇くんとは行けないの」 腕の中で肩を小刻みに震わすレイを、シンジは呆然と見つめた。自分の腕の中にいるは ずのレイが、いくら手を伸ばしても届かない、ずっと遠いところにいるように感じた。 あまりに突然で、そして途方もない告白。 その内容をすぐに理解しろなどというのは、どだい無理な話だ。 ただ混乱した中でも分かったのは、おそらく今の自分は、エヴァに乗ると決めた時のよ うに、とてつもなく重要な岐路に立たされているということだった。 「は……」 こらえきれないほどの息苦しさに、シンジは無意識に吐息を漏らした。 「ぼ、僕は……父さんの計画だとか……綾波が……人じゃないとか……正直、よく分から なくて……。だから……こんなとき……何て言ったらいいのか分からなくて……」 下らないことを言っている。 そんな自覚は痛いほどにある。 だがレイにかける言葉を見つけるなど、誰にもできはしなかっただろう。 シンジにできたのは、空っぽの心の奥に一つだけ残った思いを、言葉にして伝えること だけだった。 「でも、僕も、綾波と一緒にいたいよ……。だから、お願いだから……。消えるなんて、 そんな、悲しいこと言わないでよ……」 掠れた語尾に、レイの漏らす嗚咽が重なった。 最終便が出た後のバス停のベンチに、二人は寄り添うようにして腰を下ろしていた。 ずっとすすり泣いていたレイは、今はシンジの右肩に頭を乗せ、虚ろな瞳でどこか遠く を見つめている。シンジの右手は、まるで大事な宝物を守ろうとするかのように、レイの 左手を包み込んでいた。 見上げるとそこには下弦の月。 満月から新月へ。これから徐々に欠けていく月は、この先シンジたちが辿る道を象徴し ているかのようだった。満ち足りた時間は終わりを告げ、光は闇に飲み込まれていく。そ して神ならぬ身に、その法則を変える術はない。 それを思うと、シンジの心は言いようもない恐怖に満たされる。 もう離したくない。 ずっと傍にいてほしい。 彼女のいない毎日に、耐えることなどできそうにない。 シンジは重ねた手の平に少しだけ力を加えると、きつく目を閉じた。そうすれば目の前 の現実から逃れられるかのように。そうすればレイと二人、どこか遠い所へと消えてしま えるかのように。 だが、そんな願いが現実になるはずもなかった。 「……碇くん」 長い長い沈黙を破って、ついにレイが口を開いた。 「……何?」 「ありがとう。もう、大丈夫だから……」 「本当? 本当にもういいの?」 「ええ……」 微かに頷くレイの瞳は、しっかりとシンジのそれを捉えていた。 恐れ、戸惑い、そして微かな期待。様々な感情が交じり合い、ゆらゆらと揺れている黒 い瞳。 「それじゃ、一緒に帰ろう……。帰って……くれるよね?」 縋り付くようなシンジの口調に、レイはほんの僅か目を細めた。 春の木漏れ日のように穏やかな表情に、シンジの緊張が少しだけ緩む。 だが沸きあがりかけた微かな期待は、次の瞬間音もなく消えていった。 「……駄目。もう、あそこには戻れない」 「そんな、綾波……」 重ねられたままの手の平をそっと解くと、レイはゆっくりと立ち上がった。 「……碇くん、今までありがとう」 「そんな、嫌だよ……。そんなこと言わないでよ……」 「ごめんなさい……。でも、私には未来なんてないから……」 「そんな、そんなのってないよ! 行かないでよ、綾波ぃ!」 シンジの心の叫びに、レイは振り返り微かに微笑んだ。 降り注ぐ月光の下、悲しいほどに美しい微笑み。 或いは少女は泣いていたのか。 そしてその口から、ただ一言だけ言葉が漏れた。 「碇くん、さようなら……」
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